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和宮の棺には首がなかった――増上寺発掘、消えた湿板写真、そしてすり替え説の正体

昭和三十三年の夏、東京の芝で、ふつうなら絶対に開けない蓋がいくつも開けられた。徳川将軍家の墓所である。戦災で焼けた霊廟の跡地を整理するために墓を移すことになり、それなら学術的に記録を残そうという話になって、人類学者や美術史家がぞろぞろと入っていった。掘って、開けて、測って、写真に撮る。国のトップに立った男たちの骨が、次々と白日のもとに出てきた。そのなかで、たった一つだけ、いまも語り継がれている棺がある。十四代将軍徳川家茂の正室、皇女和宮の棺だ。

ここでは、その棺のなかで何が見つかったのかを、できるかぎり丁寧に再現するところから始める。そして、そこから枝分かれして育っていった「和宮はすり替えられていた」という説の骨格を追いかけ、最後にどこまでが記録でどこからが後付けなのかを線引きする。先に言っておくと、ネットでいちばん有名になっている「首がなかった」という話と、調査団が実際に報告した内容は、けっこう違う。その違いこそがこの話のいちばんおもしろいところだと思うので、まあ最後まで付き合ってほしい。

昭和三十三年の夏、誰も開けるつもりのなかった蓋が開いた

きっかけは信仰でもオカルトでもなく、極めて世俗的な事情だった。増上寺の徳川家霊廟は空襲で焼け落ち、広大な墓域をそのまま維持することが難しくなっていた。境内の一部を手放し、将軍家の墓所そのものを縮小して現在地にまとめる。その改葬にあわせて、文化財保護委員会が旗を振り、東京大学の人類学教室を中心にした調査団が組まれた。中心にいたのが鈴木尚である。日本の古人骨研究をずっと引っ張ってきた人で、鎌倉の材木座から出た中世人骨の研究などで名前が知られていた。

調査は昭和三十三年の夏に始まり、昭和三十五年の一月まで断続的に続いた。対象は二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂という将軍たちと、その正室や側室、子女たち。合計で三十数体にのぼる。江戸幕府の最高権力者の遺体を、学者が直接手にとって計測するなんて事態は、それ以前にもそれ以後にも起きていない。一度きりの機会だった。そして調査が終わったあと、遺体はすべて桐ヶ谷で荼毘に付され、現在の墓所へ改葬されている。つまり、あのとき記録されなかったことは、もう永久に記録されない。この一点が、あとから湧いてくるあらゆる説の温床になる。

成果は昭和四十二年、『増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体』という分厚い報告書にまとまった。鈴木尚、矢島恭介、山辺知行の編で、東京大学出版会から出ている。図版だけで百ページを超える、完全に専門書の顔をした本だ。そしてその二十年近くあと、昭和六十年に鈴木尚が一般向けに書き直したのが『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』である。世に出回っている和宮の話の九割以上は、この二冊のどちらか、しかもたいていは後者の孫引きの孫引きだと思っていい。

石灰と朽ちた布のなかに、小さな人がいた

和宮の墓が開かれたのは、調査も後半にさしかかったころだ。棺のなかは、正直に言えば、そんなに劇的な光景ではなかった。木は腐り、布は朽ちて繊維の断片になり、石灰がまわりを埋めていた。ミイラ化した将軍が生々しい姿で出てきた例もあるなかで、和宮は骨格として残っていた。だが、その骨がやたらとよく喋った。

推定身長は百四十三センチ台。体重の推定は三十四キロ前後。江戸時代の庶民の女性と比べても小柄で、筋肉のつき方が驚くほど乏しい。骨に残る筋の付着痕というのは、生前どれだけその筋肉を使ったかで濃さが変わる。和宮の骨は、それがほとんどない。重いものを持ったことがない、走ったことがない、しゃがんで働いたことがない人間の骨だった。極端に反った前歯、いわゆる出っ歯の特徴もはっきり出ていた。これは当時の公家社会に多く見られる形質で、鈴木は将軍家の後期の当主たちにも同じ傾向を見つけている。柔らかいものばかり食べ、顎を使わずに育った身分の高い人間の骨は、時代を先取りして現代人みたいな顔つきになる、というのが彼の指摘だった。

いちばん有名になったのが、大腿骨のねじれである。太腿の骨は、上端と下端で軸がわずかにねじれている。その角度を測ると、江戸時代の庶民の女性で十四度くらい、現代女性で二十度くらいなのに、和宮は右が五十七度、左が四十四度もあった。桁が違う。これは幼いころから爪先を内側に向けて歩くように仕込まれた結果だと鈴木は考えた。御所で育った高貴な女性の歩き方が、骨のかたちそのものに刻まれていたわけだ。骨が身分を証言する、という言い方をしたくなる発見で、この話は今でも人類学の授業で引かれることがある。

胸元のガラス板に、烏帽子の男が浮かんだ

副葬品は、驚くほど少なかった。将軍たちの棺からは刀や装身具や副葬銭が出ているのに、和宮の棺にはほとんど何もない。ただ一枚、泥にまみれたガラス板があった。それが遺体の胸のあたり、腕に抱きかかえられるような位置にあった。

調査員がそれを拾い上げ、泥を落として電灯にかざした。すると、うっすらと像が浮かんだ。立烏帽子をかぶり、直垂を着て、長袴をはいた若い男性の姿。顔にはまだ幼さが残っていた、と記録されている。湿板写真である。幕末に日本に入ってきたばかりの技術で、ガラスの表面にコロジオンという薬液で感光膜を作り、そこに像を定着させる。坂本龍馬の有名な写真も同じ方式だ。一枚撮るのに手間も金もかかる、当時としては相当に贅沢な代物だった。

この瞬間の空気は、想像するしかない。開けた棺のなかに、身寄りも副葬品もほとんどないまま眠っていた小さな女性がいて、その胸に一枚だけ、男の写真が抱かれていた。学者たちは冷静に記録を取ったはずだが、手が震えなかったとは思えない。八十年前に閉じられた誰かの人生の、最後まで手放さなかったものが、いま目の前にある。そういう現場だ。

翌朝、男は消えていた

そして、ここからがこの話の伝説的な部分になる。

湿板写真というのは、劣化した状態で光にさらすと、あっけないほど簡単に像が飛ぶ。そもそも百年近く土のなかで水と圧力に晒され続けたガラス板だ。膜は限界まで弱っていた。翌日、調査員がもう一度そのガラス板を見たとき、そこには何もなかった。膜面はすっかり消え失せ、ただの薄汚れたガラス板になっていた。日光に当てたのが致命傷だったと書かれることが多い。撮影も、複写も、間に合わなかった。

つまり、あの男の顔を見た人間はこの世に数人しかいない。そして、その数人の証言だけが残った。物証はゼロ。手に入れた瞬間に指の間からこぼれ落ちた証拠、というのは怪談でもミステリでも定番の道具立てだが、これは実際に起きたことだ。しかも起きたのが密室でも山奥でもなく、公的な学術調査の現場だったというのが恐ろしい。カメラも人手も記録係もいる場所で、それでも証拠は消えた。

この一件が、和宮という人物にまつわる話をまるごと不安定にした。もし写真が残っていれば、写っていたのが誰かをめぐる論争は数年で決着していただろう。残らなかったから、六十年以上たっても決着しない。というより、決着しないからこそ語り継がれている。

写っていたのは夫か、それとも婚約者か

候補は基本的に二人いる。夫の徳川家茂と、かつての婚約者である有栖川宮熾仁親王だ。ついでに兄の孝明天皇を挙げる人もいる。

家茂説の根拠はまず服装だ。立烏帽子に直垂という装束は、武家の正装として説明がつく。そして「まだ幼さが残る若い男性」という証言。家茂は和宮と同い年で、二十一歳で死んでいる。歳を重ねた姿の写真など存在しようがない。さらに当時、写真を撮れる身分と機会がある人間はごく限られていて、和宮が生涯手元に置いておくほどの相手となると、そうそう他にいない。二人の仲がよかったことは、残された手紙や贈り物の記録からもはっきりしている。家茂は側室を置かなかった。長州征伐に向かうときも和宮に土産を約束し、その約束の品である西陣織が届いたのは家茂の訃報のあとだった。和宮はそれを抱いて奥に籠り、一週間以上泣き続けたという。この夫婦の話をひととおり知ってしまうと、あのガラス板は家茂だったと思いたくなる。ほとんどの研究者や書き手がそちらに傾くのも自然だ。

熾仁親王説は、ドラマとしては圧倒的に強い。和宮は嘉永四年、六歳のときに熾仁親王と婚約している。親王は当時十七歳。順当にいけばこの二人が結ばれるはずだったのが、条約勅許問題で朝廷と幕府がこじれ、公武合体の切り札として和宮の江戸下向が持ち出され、婚約はご破算になった。しかも熾仁親王はその後、東征大総督として官軍を率いて江戸へ攻め上る立場になる。かつての婚約者が守ろうとしていた徳川の城へ、大将として乗り込んでいくのだ。この構図があまりに文学的すぎるので、明治以降、小説や講談がこぞってこの悲恋を膨らませた。棺のなかの写真が熾仁親王だったとすれば、和宮は夫の隣に葬られながら初恋の相手を抱いていたことになる。話としては、こちらのほうが百倍おいしい。

ただ、装束の点でひっかかる。皇族が正式な肖像を残すとき、武家の直垂姿を選ぶ必然性は薄い。この一点で熾仁親王説は分が悪く、現在の一般的な扱いとしては家茂説がやや優勢、というあたりに落ち着いている。もっとも「やや優勢」でしかないのは、繰り返すが、写真が消えたからだ。

そして、左手首から先だけが、どうしても出てこなかった

ここからが本題である。

和宮の骨は、全体としてはよく残っていた。頭骨も計測できたし、四肢骨から身長も割り出せた。ところが、いくら探しても出てこない部分があった。左の手首から先の骨だ。手根骨も、中手骨も、指の骨も、まとめて見つからない。棺のなかを何度さらっても出てこない。骨は小さいから流れたのだろう、で片づけたくなるが、それなら右手はどうして揃っているのか。石灰でパックされたような環境で、片方だけが消えるというのは説明が難しい。

鈴木尚は報告のなかで、切断されたような刃物の痕跡や病変は認められなかったと書いている。つまり、残っている腕の骨には、そこで切られたと言える証拠がない。そのうえで、生前に何か事情があったのか、あるいは何か秘された出来事に巻き込まれたのか、今となっては判断のしようもない、何とも不思議な話である、という趣旨のことを書き残した。学者が公刊された報告書で「不思議」と書くというのは、そこそこ重い。分かることは分かると書き、分からないことは分からないと書く。ただ、その「分からない」の一行が、のちに巨大な物語のエンジンになってしまった。

しかも傍証めいたものがある。和宮の肖像画や像を見ていくと、左手がやたらと見えない。増上寺にある等身大の像でも、左手は着物のなかに引っ込んでいて外から見えない。日本女子会館の像も同じで、左手が不自然に隠されている。絵に描かれた和宮も、左手をきちんと出しているものが見当たらない。これを並べられると、生前から左手首から先を欠いていたのではないか、という考えが出てくるのは自然だ。

もっとも、この傍証はそこまで強くない。当時の美意識では、女性が手を袖に隠すのはむしろ品のよい所作だった。手は小さく、目立たないほうが美しいとされていた。十二単のような装束では、手を出さない構図のほうがふつうですらある。左手が描かれていないことは、左手がなかったことの証明にはならない。この反論は、実はかなり効いている。

「首がなかった」という話は、どこから湧いてきたのか

さて、ここで冷や水を一杯浴びせる。

ネット上で和宮の話を追いかけていると、しばしば「棺を開けたら首から上がなかった」「頭部の骨だけが見つからなかった」という形で語られているのに出くわす。怪談としては最強の形だ。首のない皇女が、男の写真を抱いて眠っていた。字面だけで背筋が寒くなる。

だが、報告書に書かれているのは頭ではない。左手首から先である。むしろ頭骨は残っていて、それを詳細に計測したからこそ、鈴木尚は和宮の骨格的な特徴を論じることができた。反った前歯の話も、公家的な形質の話も、頭骨があってはじめて成立する議論だ。頭がなかったなら、あの計測値はどこから出てきたのかという話になる。

なぜ入れ替わったのか。これは推測になるが、いくつか理由が思い浮かぶ。まず「体の一部が欠けていた」という情報は、伝言ゲームのなかで最も衝撃の大きい部位に吸い寄せられる。手首より首のほうが怖いし、短く言える。次に、和宮の話には「別人説」がセットでついてくる。別人説を強く印象づけたい語り手にとって、身元を特定できない状態、すなわち首がないという設定は都合がよすぎる。さらに、日本の怪異譚には首をめぐる話が異様に多い。首塚、首なし武者、生首の祟り。受け手の側にすでに「首」の引き出しがあるので、そこに滑り込みやすい。

同じ現象は、棺の形についても起きている。江戸時代の将軍たちの多くは座棺、つまり体を折り曲げて座らせた姿勢で葬られていた。だからネットで語られる和宮の場面も、たいてい座棺で描かれる。しかし和宮が亡くなったのは明治十年で、葬送のありようは将軍たちの時代とは違っている。調査の記述をもとにした紹介では、和宮は横たわった姿で、片手に数珠を持ち、もう一方の手は腰のほうへ自然に伸びていた、と書かれることがある。ここでさらにおかしなことが起きていて、その数珠を持っていた手を「左手」と書いている紹介文が実際に存在する。左手首から先の骨が見つからなかったという話と、真正面から矛盾する。どちらかが間違っているか、あるいは両方が伝言ゲームのなかで少しずつずれたかだ。

要するに、和宮の棺の話は、原典から離れるほど怖く、そして雑になる。ここで書いていることも、報告書を直接めくったわけではない以上、同じ危険から自由ではない。だから、報告書がどう書いているとされているか、と、ネットでどう語られているか、を、できるかぎり分けて書くようにしている。

記録のなかの和宮――嫌がって、泣いて、それでも下った人

すり替え説の話に入る前に、記録に残る和宮という人を一度ちゃんと押さえておきたい。ここを飛ばすと、説の当否を判断する材料がなくなる。

弘化三年、仁孝天皇の第八皇女として生まれた。父はその生まれる前に亡くなっている。兄が孝明天皇で、のちの明治天皇にとっては叔母にあたる。六歳で熾仁親王と婚約。ここまでは、宮家の姫としてまったく順当な人生だ。

風向きが変わるのは安政の末である。日米修好通商条約の無断調印で朝廷と幕府の関係が最悪になり、これを取り繕う手段として、京都所司代の酒井忠義あたりから公武一和の策が浮上する。天皇の妹を将軍に嫁がせて、朝廷と幕府を血縁で結ぶ。孝明天皇は交換条件を出した。攘夷を実行して鎖国の体制に戻すなら降嫁を認める、というものだ。幕府は十年以内の鎖国復帰を奉答した。守れるはずのない約束だが、とにかく紙の上では成立した。

和宮本人は、猛烈に嫌がっている。この点は記録がはっきりしている。婚約者がいること、江戸という得体の知れない土地に行くこと、御所の外の暮らしに放り込まれること、どれも受け入れがたかった。それでも最終的に承諾したのは、兄の説得が効いたからだ。断れば幼い皇女が代わりに送られる、自分は譲位も考える、という言い方をされたとされる。承諾にあたって和宮は五か条の条件を出した。父の年回忌が済んでから下ること、江戸でも御所の流儀を守ること、御所の女官を連れていくこと、などだ。この条件闘争の細かさに、彼女の性格がよく出ている。泣いて嫌がったが、泣くだけの人ではなかった。

江戸に入ってからも、その姿勢は変わらない。大奥では天璋院との確執が伝わっているし、部屋の設えや女中との折り合いでも揉めている。足袋を履かないなど御所風の生活習慣を頑固に押し通した。嫁いだ側である和宮が主人で、迎えた側の家茂が客分という、常識をひっくり返した形式で婚礼が行われたことも記録されている。要するに、彼女は江戸に同化しなかった。しなかったからこそ、幕府側の記録には彼女のふるまいが逐一残った。

全長五十キロの花嫁行列、動員された藩は四十一

降嫁の行列は、日本史上でもちょっと類を見ない規模になった。

文久元年十月二十日に京都を発ち、江戸に着いたのは十一月十五日。中山道を通り、およそ百三十四里、二十五日間の旅である。京都方から一万人、江戸方から一万六千人が随行し、警護や人足まで含めると総勢三万に達したという。行列の長さは五十キロ。先頭が次の宿場に着いても最後尾はまだ前の宿場を出ていない、という代物だ。ある宿場を通り過ぎるだけで四日かかった。御輿の警護に十二藩、沿道の警備に二十九藩が動員されている。合計四十一藩。ひとつの婚礼のために、である。

沿道の負担は凄まじかった。宿場では家を建て替え、道幅を広げ、井戸に封をした。太田宿では布団を七千枚以上、飯椀を八千個以上そろえたという記録がある。住民には外出禁止、遊興禁止、高いところから行列を見下ろすことの禁止といった触れが出された。かかった費用は表向き七十四万両とされるが、実際に幕府が出したのは半分程度で、足りない分は村が背負った。

なぜここまでやったのか。素直に読めば、朝廷の権威を最大限に可視化して、公武合体という政策が本物であることを天下に示すためだ。攘夷派による襲撃の懸念も現実にあった。実際、和宮の下向をめぐっては不穏な噂が絶えず、警備が過剰になるだけの理由はあった。

しかし、すり替え説の側は、この規模を別の角度から読む。ここまで厳重に人を遠ざけたのは、行列の中身を見られたくなかったからではないか、と。誰も御輿の中を見られない、見た者は処罰される、そういう状況をわざわざ作ったのだとしたら、そこに何かを隠す余地が生まれる。この読み替えは論理として反則ではない。ただし、同じ事実から真逆の結論も引き出せるということでもある。

蔵で死んだ姫、身代わりに立った大伯母

すり替え説を国民的な話題にしたのは、まちがいなく有吉佐和子の『和宮様御留』である。文芸誌の群像に昭和五十二年一月号から翌年三月号まで連載され、単行本はベストセラーになり、毎日芸術賞も受けた。

きっかけは、ある婦人が有吉のもとを訪ねてきたことだったという。東京の高田村の旧名主、新倉家にゆかりのある人物で、こう告げた。和宮様は私の家の蔵で自ら命を絶たれたのです、御身代わりに立ったのは私の大伯母でした、と。ふつうならその場で終わる話だ。有吉も最初は真に受けなかった。ところが、いったんその話が頭に入ると、あちこちで符合するように見える材料が目に飛び込んでくるようになる。

決定打になったのが、昭和四十二年に出た増上寺の調査報告書だった。有吉はそこに、両足には異常がなく、代わりに左手首から先がない、という記述を見つけた。彼女はこう考えた。京都で育った宮様は茶の湯の稽古もしている。片手の先がない人間に、それができるだろうか。そして生前の絵と増上寺の像を並べてみれば、左手が隠されていることは明白ではないか。さらに群馬の満徳寺まで足を運び、歴代住職の墓が揃っているなかで、有栖川家ゆかりの第十代住職の墓だけがないことに目をつけた。身代わりに立った女性の行き先はここではないか、と。

小説そのものは、替え玉に仕立てられた少女フキの物語である。京の町方に生まれた捨て子で、橋本邸の下女として働いていたところを見込まれ、何も知らされないまま姫の役を負わされ、じわじわと精神の均衡を失っていく。有吉自身は、この作品を女性の側から歴史を見直す試みと位置づけると同時に、赤紙一枚で戦場に送られた若者たちへの鎮魂歌でもあると語っている。つまり、彼女にとって効いていたのは替え玉が実在したかどうかではなく、権力に人生を差し出させられる人間のリアリティのほうだった。ここ、めちゃくちゃ大事なポイントなので覚えておいてほしい。

すり替え説が並べる材料を、ひとつずつ机に置いてみる

説の側が持ち出す根拠は、だいたい五つか六つに整理できる。

ひとつめ。性格が変わりすぎている。降嫁前は死んでも江戸には行かないという勢いで抵抗していた人が、江戸に着いたあとは徳川家の一員として振る舞い、家茂を看取り、明治になっても徳川を守るために動いている。同一人物としては変化が急すぎる、という読み方だ。

ふたつめ。足の問題。京都時代の和宮には脚が丈夫でなかったことをうかがわせる記述があるとされるのに、勝海舟の回想には、和宮が縁側からぴょんと庭に飛び降りて履物を直した、という趣旨の話が出てくる。身軽すぎる、と。

みっつめ。筆跡。降嫁の前後で書きぶりが変わっているという指摘がある。

よっつめ。骨。増上寺の調査で足に異常が見つからなかった。京都時代の記録と食い違う。

いつつめ。左手。骨がない、絵にも像にも出てこない。しかし茶の湯の稽古はしていたはずだ。

むっつめ。遺髪。家茂の棺に納められていた女性の髪と、和宮のものとされる髪が一致しないという話。

並べてみると、それなりに壮観ではある。ただ、一個ずつ触ると崩れるものが多い。

反証の側が言うこと、そして骨が最後に語ったこと

まず性格の変化から。人は変わる。特に十六歳で見知らぬ土地に放り込まれ、夫と死別し、幕府の崩壊に立ち会った人間が、二十歳のころと同じ振る舞いをしているほうが不自然だ。しかも和宮は江戸でも御所の流儀を頑固に押し通しており、まるごと別人になったわけではない。変わった部分と変わらなかった部分が両方記録されている、というのが実際のところである。

足の話は、そもそも前提が怪しい。和宮が幼少期から歩行に難があったという確かな史料は、実はそれほど固まっていない。伝聞や後年の解釈が混ざっている。勝海舟の回想も、明治になってから聞き書きでまとめられたもので、細部の正確さを担保するタイプの史料ではない。飛び降りたという一行に、人ひとりの同一性を賭けるのは無理がある。

筆跡は、環境が変わったこと、書く相手が変わったこと、健康状態が変わったことで、いくらでも動く。降嫁前後の和宮は精神的にも肉体的にも激動のなかにいた。

遺髪の不一致という話には、注意が必要だ。ネット上ではしばしば「DNA鑑定の結果、別人と判明した」という形で流通しているが、昭和三十三年から三十五年の調査でDNA鑑定などできるわけがない。DNAの構造が解かれてまだ数年という時代である。実際にあったのは、髪の毛の色や質感、あるいは形態的な比較にもとづく違和感の指摘だったと考えるのが自然で、それが後年の語り直しのなかで最新の科学の衣を着せられたのだろう。ここは、記録とネットの差分がいちばん露骨に出ている部分だ。

そして最大の反証は、皮肉なことに、すり替え説を育てたのと同じ骨から出てくる。鈴木尚は和宮の頭骨を計測し、その特徴が仁孝天皇の娘としてまったく矛盾しないこと、公家的な形質をはっきり備えていることを確認している。京の町方に生まれた娘の骨とは、そもそも作りが違う。大腿骨のねじれ角にしても、幼少期から爪先を内向きにして歩く教育を長年受けてきた人間でなければ、ああはならない。下女として働いていた少女が十四歳から演技で身につけられるものではない。筋肉の付着痕がほとんどないことも同じで、労働の経験がある体には必ず痕が残る。鈴木は、骨格人類学の立場からすればすり替えは考えられない、という趣旨の結論を書いている。

つまり、左手首の欠落という一点の謎を提供したのと同じ調査が、すり替え説そのものは否定している。この構図が、和宮の話をいつまでも終わらせない。決定的な反証があるのに、その反証の脇に、まだ説明されていない小さな穴が一つ残っている。人は穴のほうを見る。

明治の静寛院宮と、塔ノ沢の九月

家茂は慶応二年七月二十日、大坂城で二十一歳の生涯を閉じた。和宮は落飾して静寛院宮と号する。同じ年の暮れには兄の孝明天皇が崩御し、その前には母も亡くしている。一年あまりで、夫と兄と母を続けて失った。

そのあとの彼女の動きは、はっきり言って見事だ。官軍が江戸に迫ると、天璋院とともに徳川家の存続を求めて働きかけた。朝廷に嘆願書を出し、暴発しかねない幕臣たちを抑えにかかった。江戸城の無血開城が成ったことについて、和宮の嘆願と説得が果たした役割は小さくないとされている。皮肉なことに、そこへ攻め上ってくる官軍の総大将が、かつての婚約者だった。

維新のあと、いったん京都に戻り、父の陵に参ることができた。長年の願いだったはずだ。だが彼女は京都に落ち着かず、東京へ戻ってくる。明治七年には麻布市兵衛町の旧八戸南部家屋敷に移り、三年ほど暮らした。徳川宗家を継いだ幼い家達の後見のような立場でもあった。京都に帰る選択肢があったのに江戸に留まった、という事実は、すり替え説とは別の意味で興味深い。彼女はもう京都の人ではなくなっていたのだ。

明治十年八月、脚気の療養のため箱根の塔ノ沢へ向かう。滞在先で地元の子どもたちと和歌を詠み合ったという穏やかな話も伝わっている。そして九月二日の夕方、その宿で亡くなった。三十一歳。死因は脚気衝心とされる。夫の家茂と同じ病名だ。遺志により、増上寺の家茂の墓のそばに葬られた。将軍の隣に、あとから作られた墓である。この一点だけを取っても、彼女が最終的にどこに属することを選んだかがわかる。

なお、この死因についても異説を唱える人がいる。明治十年の秋は日本で十九年ぶりにコレラが大流行した時期で、症状の伝わり方に脚気らしくない部分がある、葬儀に高貴な人々がほとんど代理を立てて出席していないのは感染症を警戒したからではないか、といった読み方だ。ただしこれは在野の推論であって、確かな裏づけがあるわけではない。和宮という人には、こういう「もうひとつの物語」がどんどん付着していく。

小説になり、漫画になり、ドラマになり

有吉佐和子のあと、和宮は繰り返し物語になった。川口松太郎は棺の写真を熾仁親王として書いた。悲恋の側に振ったわけだ。テレビドラマや大河ドラマでも、和宮は幕末を語るうえで欠かせない役どころとして何度も登場している。

近年で影響が大きかったのは、よしながふみの『大奥』だろう。男女の立場が逆転した江戸を舞台にしたこの作品では、和宮は独特の造形で描かれ、実写ドラマ版では岸井ゆきのが演じて話題になった。左手の扱いや、和宮という人物が背負わされた不自由さの描き方をめぐって、放送のたびに感想が飛び交った。作品が史実そのものを主張しているわけではないのに、視聴者は必ず「本当のところはどうだったのか」を検索する。そのたびに増上寺の左手の話が掘り返され、新しい読者が説に触れる。物語と伝説の相互供給というやつだ。

ここで押さえておきたいのは、和宮の物語化には二つの系統があるということ。ひとつは悲恋の系統で、引き裂かれた婚約者、写真、初恋、といった要素で編まれる。もうひとつは犠牲の系統で、政治のために人生を差し出させられた女性、あるいは差し出させられた身代わりの少女に焦点が当たる。有吉の小説は後者だ。前者は明治以来ずっと続く古い流れで、後者は戦後の、しかも高度成長が終わったころに生まれた新しい流れである。同じ人物をめぐって、時代ごとに欲しがられる物語の種類が変わっているのが面白い。

掲示板の夜、まとめサイトの朝

インターネットに入ってからの和宮は、また別の生き物になった。

古い個人サイトの歴史ミステリー系コーナー、匿名掲示板のオカルト板や日本史板、そこから生まれるまとめサイト、そして動画とショート動画。この流通経路を通るたびに、話は短く、強く、怖くなっていった。左手首から先という限定が消えて手首になり、手が消えて首になり、「首がない遺体が男の写真を抱いていた」という完成形にたどりつく。だいたい二百文字で語れて、サムネイルにしやすくて、コメントが伸びる形だ。

掲示板の反応も、だいたいパターンが決まっている。まず、写真の男は誰だ、で盛り上がる。ここは純粋に楽しい議論で、家茂派と熾仁親王派が装束の考証を持ち出して延々やる。次に、なぜ写真を保存しなかったのかという調査団への恨み節が来る。当時の技術と保存環境を考えれば無理だったという反論も来るが、悔しさのほうが勝つ。そして替え玉説が出てきて、賛否が割れて、必ず誰かが「そもそも骨格が公家のものだと報告されている」と冷静に投下し、少し静かになる。しばらくすると、また誰かが最初から同じ話を貼る。

近年になって流れが少し変わったのは、写真そのものをめぐる別のニュースが出たからだ。長らく和宮の唯一の写真とされてきた一枚の画像について、実は別人ではないかという指摘が出た。根拠が明治期の関係者の証言ひとつだけだったこと、写っている女性の年齢や撮影地の推定が合わないこと、椅子の型式から撮影場所を絞れることなどが挙げられ、昭憲皇太后の姉にあたる人物ではないか、撮影も信州ではなく東京の写真館ではないか、といった説が出た。これも決着しているとは言い難いが、少なくとも「和宮の顔として長年信じられてきた画像が揺らいだ」という事実は大きい。棺のなかの写真は消え、生前の写真とされたものも怪しくなった。この人は、顔が残らない。

まだ埋まっていない穴

正直に、わからないままのものを並べておく。

左手首から先の骨が出なかった理由は、いまだに誰も説明できていない。生前欠損説、埋葬時に何らかの事情で分離した説、土中で失われた説、どれも決め手を欠く。しかも遺体は調査後に荼毘に付されているから、再確認は永久にできない。

棺のガラス板に写っていた男性が誰かも、確定できない。像は消えた。複写もない。証言だけがある。

和宮が幼少期に歩行の困難を抱えていたのかどうかも、実は史料的にすっきりしていない。すり替え説の出発点になっているのに、その前提自体が固まっていないというのは、けっこう致命的な問題だ。

遺髪の不一致という話も、原典でどう書かれていたのかを確かめないかぎり、どこまでが観察でどこからが解釈かがわからない。少なくとも、現代的な意味でのDNA鑑定ではない。

そして最後に、ここまで書いてきたこと自体が孫引きの塊であることも言っておく。報告書と『骨は語る』を直接めくれば、いま論争になっている点のいくつかは一発で片づくはずだ。それをせずに、要約の要約を回し続けているのが今の状況で、和宮の話が不滅なのは、たぶん半分くらいそのせいである。

なぜ、この話は人を掴んで離さないのか

最後に、この怪異が持っている引力の正体を考えたい。

第一に、消える証拠という構造がある。棺のなかの写真は、見た瞬間から消えはじめていた。遺体は調査のあと焼かれた。生前の写真とされた画像も揺らいだ。証拠が一つずつ消えていくというのは、物語がいつまでも生きられる最良の条件だ。反証しきれないから、説は死なない。

第二に、欠けた部位というモチーフの強さ。人体の一部がないという情報は、理屈を飛ばして直接内臓に届く。しかもそれが手首から先という、人が人であることの証明に近い部分だ。指紋、握手、字を書く手。そこがない、と言われたとき、人は無意識に「この人は本当にこの人なのか」という問いに滑り込む。すり替え説が左手を根拠にしたのは、論理として正しいからではなく、感覚として効くからだ。

第三に、この話には権力の暴力が透けている。和宮が嫌がったのは記録に残っている。それでも政治は彼女を運んだ。五十キロの行列と四十一藩の警備は、一人の少女の意思がどれだけ小さく扱われたかの物差しでもある。すり替え説がこれだけ広く受け入れられた背景には、あの時代の権力ならそれくらいやりかねない、という直感がある。歴史的に正しいかどうかとは別に、その直感には理由がある。

第四に、救いがある。棺のなかで男の写真を抱いていたという事実は、政治に使い倒された人生の最後に、彼女自身が選んだものが一つだけあったことを示している。誰の写真だったにせよ、それは制度が与えたものではなく、彼女が持ち込んだものだ。ここに人は救われる。怖い話として消費されながら、根っこには誰かの意地みたいなものが埋まっている。だから読後感が悪くならない。

第五に、これがいちばん厄介なのだが、この話は「わからない」で終わることを許してくれる。首がなかったのか、手首がなかったのか、写真は夫か初恋の人か、本人か替え玉か。全部わからない。わからないまま持ち帰れる。答えの出ない話は、答えの出る話より長く生き残る。

空白ではなく、誠実さが怪異を生んだ

ここまで書いてきて、あらためて感じるのは、和宮をめぐる怪異が「事実の不足」から生まれたのではなく、むしろ「事実の過剰」から生まれているということだ。ふつう都市伝説は、資料がないところに発生する。目撃者が一人しかいない、記録が焼けた、公式発表がない。そういう空白に人は物語を注ぎ込む。ところが和宮の場合、話の中心にあるのは公刊された学術報告書である。国立の図書館に入っていて、誰でも参照できる。調査団の名前も、計測値も、結論も残っている。それなのに、いや、それだからこそ、話は膨らんだ。

理由は単純で、報告書が誠実だったからだ。鈴木尚は、わかったことをわかったと書き、わからなかったことをわからないと書いた。左手首から先が出てこないという事実を隠さず、刃物の痕跡はなかったという観察も添え、そのうえで判断のしようがないと明記した。もし彼が「小骨は散逸したものと考えられる」の一行で片づけていたら、この話は今日まで残っていない。専門家が正直に「不思議だ」と書いた。その正直さが、六十年後に無数の動画とスレッドを生んだ。科学の誠実さと物語の燃料が、同じものだったという話である。皮肉だが、責めるべきところは何もない。

そこから先の変形の過程を、もう一度整理しておく価値がある。まず第一段階として、報告書の記述がある。左手首から先の手骨が発見されなかった、という限定された事実。第二段階が、有吉佐和子による解釈だ。彼女は、この欠落を茶の湯の稽古という別の史実と衝突させることで、矛盾を作り出した。矛盾があるなら、どちらかが嘘だ。ならば、江戸へ行ったのは別人ではないか。ここで初めて「欠落」が「別人性」に接続された。これは飛躍だが、小説家の飛躍としては筋が通っている。第三段階が、大衆化である。小説がベストセラーになり、テレビで語られ、雑誌が特集を組み、「和宮といえば替え玉」というイメージが定着した。この段階で、有吉が慎重に留保していた部分は削れ落ちた。第四段階がインターネットで、ここで細部が滑る。左手首が手になり、手が首になり、観察が鑑定になり、形態比較がDNA鑑定になった。第五段階が動画とショートで、話は数十秒に圧縮され、断定の語尾がつく。実は首がなかったんです、と。

この五段階を通して失われたものは何か。ひとつは限定詞だ。学術報告に必ず付いている「〜と考えられる」「〜の可能性がある」「判断のしようがない」といった言葉は、伝達のたびに削られる。限定詞は情報量を減らさないのに、テンポを落とす。だから真っ先に切られる。もうひとつは反証情報である。同じ報告書に書かれている「骨格人類学の立場からすれば替え玉は考えられない」という結論は、なぜかほとんど引用されない。都合が悪いから隠されている、という陰謀論的な説明をしたくなるが、たぶん違う。単純に、面白くないからだ。結論が出ている話は共有されない。共有されない情報は存在しないのと同じになる。

ここで、少し立ち止まって、すり替え説を全否定して終わらせないでおきたい。骨格人類学の反証は強力だが、それは「増上寺の墓に葬られていた人物が公家の出身である」ことを示しているだけだ、という反論の余地は理屈のうえでは残る。もし入れ替わりが起きたとして、では墓に入ったのはどちらなのか。もし江戸に下ったのが本物で、京都に残ったのが偽物だったなら。もし途中で戻された可能性があるなら。こういう組み替えは、いくらでもできてしまう。あらゆる状況証拠は、仮説を複雑にすることで生き延びられる。ただ、生き延びるために複雑になり続ける仮説は、どこかで説明力を失う。仮説の複雑さが増えていくのに、説明できる事実が増えないなら、それはもう歴史の議論ではなく信仰に近い。この線引きは各自で引くしかないが、線を引く作業そのものを放棄しないでほしいと思う。

もうひとつ、この話には「見てはいけないものを見た」という感触がついてまわる。学術調査は正式な手続きを踏んで行われたし、改葬という現実的な必要があった。誰も悪いことをしていない。それでも、権力者の墓を開けて中身を数値化するという行為には、どうしても畏れがつきまとう。そして実際、開けた直後に写真の像が消えた。因果関係などあるはずがないのに、順序としては、開けた、そして消えた、なのだ。この順序が、話に祟りめいた匂いを与えている。学術と怪異のあいだにある、この薄い膜みたいなものが、和宮の話の温度を決めている。

念のため書いておくが、だから墓を暴くな、という教訓話にするつもりはないし、逆に自分で確かめに行こうなどと考えるのも完全に筋違いである。増上寺の徳川将軍家墓所は現在も参拝できる場所として整えられていて、静寛院和宮の墓もそこにある。年に一度、彼女を偲ぶ法要も営まれている。行くなら普通に参拝すればいい。そして遺体は昭和三十五年の調査のあと荼毘に付され、いまは骨壺のなかだ。何かを掘り返しても、もう出てくるものはない。この話の続きは、地面の下ではなく図書館にある。

では、いま何ができるのか。個人的には、二つあると思っている。ひとつは、原典を読むこと。『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』は一般向けに書かれていて、いまでも手に入るし、図書館にもある。左手の記述も写真の記述も、そこに載っている。ネットの要約と読み比べたとき、どこがどう変形したかが手にとるようにわかるはずで、その体験自体が現代のメディアリテラシーの実習になる。もうひとつは、和宮という人を「謎」から一度切り離して見ること。彼女は嫌がった。条件をつけた。江戸で流儀を通した。夫を看取った。徳川を守るために動いた。京都に帰る道があったのに東京に留まった。三十一歳で死んで、夫の隣に葬られることを望んだ。この一連の選択は、すり替えがあってもなくても、記録として残っている。首があったかなかったかより、こちらのほうが、はるかにその人の輪郭を伝えてくる。

それでも、最後に一つだけ、どうしても引っかかっているものがある。あのガラス板だ。副葬品がほとんどない棺のなかに、たった一枚。彼女が持っていってよいと許されたのか、それとも誰かがそっと入れたのか。誰の判断で、誰の手で、あの胸元に置かれたのか。報告書はそこまでは教えてくれない。八十年ぶりに光を当てられて、一晩だけ姿を見せて、そのまま消えた男。烏帽子をかぶって、直垂を着て、顔にまだ幼さが残っていた。夫だったのかもしれないし、結ばれなかった相手だったのかもしれない。誰であれ、その人の像は、いまはもうこの世界のどこにもない。

たぶん、この話がずっと語られ続ける理由は、そこにある。私たちは和宮の秘密を知りたいのではなくて、消えてしまったあの一枚をもう一度見たいのだ。そして見られないことを知っている。知っているから、代わりに話す。話しているあいだだけ、あの像はうっすらと戻ってくる。怪異というのは、たぶん、そういう仕組みで生きている。

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