岩手県平泉町。関山という丘の上に、一辺五メートル半ほどの小さなお堂が建っている。金色堂。中尊寺の創建当初の姿を伝える唯一の建物で、国宝建造物の第一号だ。
この中に、四人分の遺体がある。三人は全身。ひとりは首だけだ。
しかもその首には、刀傷が何ヵ所も入っていて、眉間から後頭部に抜ける釘の穴があいている。この四つの棺の話をしようと思う。
## 昭和二十五年三月、四カ月後に平泉は日本中の話題になった
1950年、つまり昭和二十五年の三月二十二日から三十一日までの十日間。金色堂の修理に合わせて、須弥壇の下に安置されていた棺が開けられた。奥州藤原氏四代の遺体に対する、本格的な学術調査。日本のミイラ研究史で、これ以上に有名な現場はない。
戦争が終わってまだ五年しか経っていない。食うのに精一杯の時代で、学術調査に金を回す余裕なんてない。それでもこの調査は実現した。金色堂の修理という、次はいつあるか分からない機会だったからだ。実際、その後今日に至るまで、四体の遺体を全面的に調べ直す機会は二度と訪れていない。
調査団を率いたのは、人類学者の長谷部言人。東北帝国大学の名誉教授で、日本人起源論の大家である。人類学的な計測は東京大学の鈴木尚が担当した。この人は後に日本人の骨の研究で有名になる。理化学方面には朝比奈貞一。そのほか法医学、微生物学、植物学、保存科学、古代史学と、とにかく分野を横断したメンバーが集められた。当時としては異例の学際チームだった。
調査の成果は、同じ年の八月三十日に『中尊寺と藤原四代』として公表された。さらに四十年以上をかけて資料が整理され、1991年に『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』が出ている。四十年だぞ。それだけ重い仕事だったということだ。
## 三つの壇と、四つの遺体
まず配置を押さえておきたい。ここを間違えると全部分からなくなる。
金色堂の内部には須弥壇が三つある。中央の壇、向かって左の壇、向かって右の壇。それぞれの壇の下が空洞になっていて、そこに棺が納められている。棺はひば材で、内外に金箔が押されている。黄金の棺だ。
中央壇が初代・藤原清衡。左右の壇に二代・基衡と三代・秀衡。そして四代目・泰衡は、棺ではなく首桶と呼ばれる桶に入って、他の壇に同居している。四つの棺と言うが、正確には三つの棺と一つの首桶だ。
この左右の割り振りが、実はややこしい。寺伝ではこうだと伝えられていたものを、1950年の調査団は「逆だ」と判定した。年齢推定と遺体の状態から見て、基衡と伝えられていた遺体が秀衡で、秀衡と伝えられていた遺体が基衡だというのだ。ところが出版物の側は寺伝に従って表記したため、読む側は混乱する。さらに2007年の再分析では、寺伝のほうが正しかったという結論が出されている。一周回って元に戻ったわけで、この手の話は本当にややこしい。
首桶は、四代目の父である秀衡の棺の中に置かれていたと伝えられる。父の棺に、殺された息子の首だけが納められている。この一行だけで、奥州藤原氏の滅び方がどういうものだったかが伝わってくる。
## 棺を開ける、という仕事
実際に棺を開ける作業を想像してみてほしい。
三月の平泉は、まだ寒い。丘の上の堂の中はさらに冷える。電気の設備も十分ではない。作業台を組み、照明を引いて、白衣とマスクの研究者たちが壇の前に並ぶ。僧侶が読経し、線香をあげてから、蓋に手をかける。
八百年閉じていたものを開ける。しかも中身は人だ。しかもこの地を支配し、黄金の都を作った人々だ。平泉の人間にとっては、単なる古代の遺体ではない。守り神のような存在だ。實際、調査には寺側の強い慎重論があったと伝えられている。選ばれた人間だけが堂内に入り、外には一切漏らさないという厳しい条件で、やっと許可が出た。
蓋をとると、中は意外なほど乾いていた。乾いていた、というより、乾き切っていた。遺体は黒褐色に変色し、皮膚が骨に張り付いていた。絹の布が遺体に固着しており、はがそうとすると皮ごと持っていこうとする。枝々の作業が、すべて慎重を要求された。
写真が残っている。報告書に掲載されているものもあるし、ネット上でも回っている。見れば分かるが、これは「ミイラ」という言葉から想像するエレガントなものとは違う。包帯に包まれたファラオではない。素のままの、干びた人間だ。歯が見えている。顔の形が分かる。グロいと感じる人は確実にグロいと感じるし、実際ネットでこの話をまとめている人たちは必ず冒頭に注意書きを入れている。
## 身長、血液型、そして骨が語った病歴
調査で分かったことの量が、とにかくすごい。
初代・清衡は身長百五十九センチ、血液型AB。死亡時の推定年齢は七十代以上。当時としては異例の長寿だ。顔は頰骨が秀でた比較的短い顔で、鼻筋が通っている。手が小さく華奢で、体型は痩せ型。そして何より目を引くのが、左半身にはっきりとした骨萎縮があったことだ。長い間左半身を使えなかったことを意味する。脳出血などによる半身不随だったのではないかと推定されている。
二代・基衡は百六十七センチ、血液型A。五十代半ばから六十代前後で死んだと見られている。首が太くて短く、胴体が発達し、胸幅が広い。はっきり言って肥満体型。こちらは右側の上下肢に軽度の骨萎縮がある。つまり右半身に障害があった。親子で左右違いの半身不随というのは、偶然にしてはできすぎている。
三代・秀衡は百六十四センチ、血液型AB。六十から七十歳で死んでいる。いかり肩で肥満体型。面長で大きな顔。この人の歯はひどいことになっていて、虫歯だらけ、しかも重度の歯槽膿漏を患っていた。美食家だったとしか思えない。平泉の全盛期を率い、源義経を匿って鍵倉と対峙した男の口の中がボロボロだったというのは、なんとも人間臭い話だ。
四代・泰衡は首しかないので身長は不明。血液型はB。年齢は二十代から三十代。実際の死亡年齢は三十一とされるので、おおむね合っている。
血液型の並びを見ると、AB・A・AB・B。遺伝学的には、この四人が直系の親子であることと矛盾しない。これが重要だった。寺伝がデタラメだった可能性もあったわけで、科学の側から裏付けが取れた意味は大きい。
なお、1994年に埴原和郎らが形質を再検討し、奥州藤原氏の顔つきは「現代京都人に近い」と結論している。京を離れた北の地の支配者が、骨格上は京の貴族に似ていた。一方で清衡と秀衡にはエミシ系の母の影響が見えるとも指摘された。北と南の血が混ざった一族。平泉という場所の性格そのものだ。
## 首だけの四代目――「忠衡公」と書かれた箱
この調査で一番騒がれたのは、やっぱり首だ。
実は、長らくこの首は泰衡のものだと思われていなかった。秀衡の三男で、泰衡に殺された泉三郎忠衡のものだとされていた。首桶を収めた木箱にも、はっきり「忠衡公」と書かれていた。寺でもそう伝えてきた。
ところが調べてみると、全然違った。
決め手は『吾妻鏡』だった。鎌倉幕府の公式記録には、泰衡の首に何をしたかが書かれている。その記述と、目の前の首に残る損傷を照合したところ、位置も形も一致した。この首は泰衡だ。そう確定した。
首にあった損傷は一つや二つではない。報告によって数え方に差はあるが、切創と刺創を合わせて十六ヵ所とする数え方もある。うち刀による傷が七ヵ所。その大半は、殺害される前の争いでついたと推定された。つまり泰衡は、抵抗している。しかも斬首は一発では決まらなかった。五回失敗して、残り二回でやっと切断したという読み方もある。
これ、想像するとなかなか厳しい。一族の当主の最期としてはあまりにも混乱している。実際、史料上の泰衡の最期は惨めだ。文治五年、つまり1189年の奥州合戦で頼朝の大軍に攻められ、平泉を焼いて北へ逃げた。討ったのは自分の家臣だった河田次郎。その河田に裏切られ、殺され、首を頼朝のもとへ差し出された。ついでに言えば、頼朝は主君を売った河田を「不忠」として処刑している。ここも痛快なようで気味が悪い。
## 眉間から後頭部へ、八寸釘の穴
さらに気味が悪いのが、釘の穴だ。
泰衡の首には、眉間の左あたりから後頭部に抜ける穴があいていた。八寸釘、現在の単位で約二十四センチの鉄釘を打ち込んだ跡だ。釘の太さについては報告書の数字の読み方で議論があり、二ミリと記されているが実際は二十二ミリが正しいという指摘もある。二十二ミリなら、人間の頭蓋に打ち込むには相当な太さだ。
なぜ釘を打つのか。これは市中に首を晒すためだ。釘で板や柱に固定し、見せものにする。八寸釘というのは当時の梅固な釘で、これを打ったということは、長期間晒すつもりだったということだ。奥州藤原氏を滅ぼしたことを、天下に知らしめるためのパフォーマンスである。
では、その首がなぜ金色堂にあるのか。ここがこの話の一番人間らしいところだと、個人的には思っている。
泰衡の首には、手当ての跡がある。ほとんど離断しかけていた創を縫い合わせ、その上を絹の帯で結ばれていた。切断部の皮膚には、一・五センチ間隔で縫った針穴が十ヵ所ほど見つかっている。つまり、誰かがこの首を回収して、丁寧に縫って、布で包んで、桶に入れて、父の棺のそばに置いた。
家を滅ぼして、首を釘で晒された男だ。それを、さらに遺体の一部として修復し、一族の黄金の堂に迎え入れた人間がいたということだ。誰がやったのかは分からない。供奉していた僧侶かもしれないし、生き残った家臣かもしれないし、もっと別の誰かかもしれない。しかし、そうした人間が確実にいた。八百年後に針穴が発見されるまで、その仕事は誰にも知られていなかった。
## 首桶の底から出てきた百粒の種
首桶を調べていたとき、もうひとつ奇妙なものが出てきた。蓮の種だ。およそ百粒。
なぜ蓮の種が入っていたのか、実ははっきりしない。仏教で蓮は浄土の花だから、供養のつもりだったのかもしれない。あるいは充填材だったのかもしれない。いずれにせよ、首と一緒に蓮の種が入っていた。
この種に飛びついたのが、植物学者の大賀一郎だった。この人は古代蓮の研究で日本一で、千年以上前の蓮の実を発芽させた実績がある。中尊寺の種を研究資料として持ち帰り、発芽実験を試みた。
だが、咲かなかった。大賀の生前には一度も花が開かなかった。種は彼の死後、中尊寺へ返された。
ここからがいい話だ。四十年以上経った1993年、改めて行われた発芽試験が成功する。八百年眠っていた種が芽を出し、花をつけた。これが「中尊寺ハス」と名づけられ、今も平泉で毎年咲いている。
さらに面白いのが2019年。平泉町から鎌倉市へ中尊寺ハスが寄贈された。平泉を滅ぼした側の都だ。その鎌倉の、しかも頼朝が建てた永福寺の跡の苑池で、泰衡の首桶から出た蓮が咲いている。因縁というにはできすぎている。ちなみに永福寺は、頼朝が平泉で見た二階大堂や無量光院に感銘を受けて建てた寺だという。滅ぼしておいて真似したわけだ。
## なぜミイラになったのか――学界が止まらない論争
さて、本題。なぜこの四人はミイラになったのか。
調査の結果、遺体には内臓も脳漿もなかった。しかも、腹部が湾曲状に切られており、後頭部に穴が開いていたとされる。これを読むと、普通は「人工ミイラだろ」と思う。エジプトのミイラも、腹を切って内臓を抜き、鼻から脳をかき出す。手順が一緒だ。
実際、人工ミイラ説を強く主張した研究者もいた。だが調査団の結論は、自然にミイラ化したと見るほうが矛盾が少ない、というものだった。1994年の再検討でも、自然ミイラ化という線が確認されている。内臓がないのは、長い時間をかけて自己消化と腐敗で失われたと考えれば説明がつく。腹の切れ目は、腐敗ガスで膨張した腹部が裂けた跡とも考えられる。
だがこの結論、実は今でも納得していない人が多い。なぜか。四体が四体ともミイラ化しているからだ。
自然ミイラは、条件が揃えばできる。低温で乾燥し、風が通り、虫が入らない。しかし、1124年に建てられた堂の中で、死んだ年代の違う四人が、全員ミイラになる。これを偶然で片付けるのは、確かに苦しい。
だから中間的な説が出てくる。つまり、内臓を抜くような本格的な防腐処置はしていないが、乾燥を助ける工夫はしていたのではないか、という考え方だ。具体的には、棺の中に金箔製造の副産物である「ふるや紙」が敷き詰められていたのではないか、という仮説がある。これが遺体からしみ出る水分と脂分を吸った。さらに棺には漆が使われており、漆には抗菌作用がある。吸湿と防菌のセットが、結果的にミイラ化を促した。この説はなかなかすっきりする。
もうひとつ、地元でよく語られるのが即身仏との関連だ。東北には即身仏の伝統がある。奥州藤原氏のミイラも、弥勒信仰の文脈で意図的に選ばれた形態なのではないか、という見方だ。弥勒菩薩が将来消えずに直接会えるよう、肉体を残す。金色堂の実態は入れ物堂、つまり墓なのだから、そこに信仰上の意図があってもおかしくない。ただしこれを裏付ける文献はない。
結局、この問いには確定的な答えがない。人工か自然かという二択ではなく、「人の手の入った環境で、自然にミイラになった」というところが落としどころなのかもしれない。
## 報道陣が寺の戸を破った日と、三つの証言
**その一、三月二十四日の騒動**
調査中、平泉は異常な状態になっていた。全国紙が一斉に追いかけ、写真を欲しがった。なにしろ八百年ぶりに開けられる黄金の棺だ。ネタとしてこれ以上のものはない。
三月二十四日、報道陣が寺の戸を破って乗り込もうとした。調査は中断。さらに、文部省の担当官が報道陣の一人に殴られるという事態まで起きている。学術調査の現場で殴り合いが発生しているんだから、どうかしている。この後、警察が警備を強化して、やっと騒ぎは収束した。以後最終日まで、調査の妨害は起きていない。
このエピソードは、当時の空気をよく伝える。戦後の日本人は、歴史に飢えていた。目の前で国家の物語が一度崩れ、代わりに何を信じればいいのか分からなくなっていた。そこに、黄金の都を作った一族の遺体を科学の手で調べるというニュースが飛び込んだ。フィーバーにならないほうがおかしい。
**その二、首を見た者たちの反応**
調査に関わった人々の回想として伝わるのは、遺体そのものより、首を見たときの場の空気のことだ。三体の全身ミイラは、もちろん衝撃的だけれど、どこか安らかに眠っているようにも見える。寝姿で、装束を着て、手に念珠を持っている。宗教的な静けさがある。
ところが首桶は違う。蓋を取ると、人間の頭部だけが入っている。刀傷があり、縫った跡があり、釘の穴がある。これは宗教ではなく、事件現場だ。学者はデータを取る仕事をするしかないのだが、目の前にあるのは八百年前の処刑の痕跡である。計測しているとき、なんとも言えない気分になったという話は、いくつかの回想で語られている。一・五センチ間隔の針穴を数えながら、これを縫った人間の手を想像してしまう。
**その三、地元に残るのは「触ってはいけない」という感覚**
平泉周辺には、金色堂をめぐる祈りのような畏れがある。これは史料ではなく、語りだ。
よく聞くのは、「あれは開けてはいけないものだった」という言い方だ。調査の後、関係者に不幸が続いたとか、堂の周辺で妙なことが起きたとか、そういう話は定期的に浮上する。もちろん裏付けはないし、この手の噂はどこの古墓にでもある。古墓を崩すと祟る、というのは日本全国共通の定番だ。
ただし金色堂の場合、少しニュアンスが違うと思う。地元の人が語るのは、怖いというより「申し訳ない」という感覚に近い。この地の人にとって奥州藤原氏は、一度だけ北の地が中央に従わずに黄金の都を作ってみせた、その証である。その遺体を、京から来た学者がメジャーで測る。すっきりしない人がいても不思議ではない。「祟り」の噂は、その居心地の悪さの訳語なのかもしれない。
## 黄金の百年と、その終わり方
この四人が何者だったのかも押さえておきたい。
初代・清衡は、前九年合戦・後三年合戦という東北の大乱をくぐり抜けて上がってきた人だ。父は殺され、自分も一度は敵方に取り込まれた。内乱を生き抜いて奥六郡を握り、1105年頃から中尊寺の造営を始めた。1124年、金色堂完成。建てた目的は、この地の戦いで死んだすべての命を弔うことだったという。味方だけでなく、敵も含めて。この発想は、当時としてはかなり異質だ。
金色堂の装飾は異常だ。内外に金箔を押し、須弥壇には螺鈿。使っているのは南海産の夜光貝。そこに象牙や宝石が組み込まれている。北の地の堂に、シルクロードを渡ってきた素材が使われている。交易の規模が知れる。
二代・基衡は毛越寺を造営し、三代・秀衡は無量光院を造った。平泉は当時の日本で京に次ぐ規模の都市になっていたとされる。金を産し、馬を産し、北方交易を握っていた。
そして秀衡が、上洛中の源義経を匿って受け入れる。この判断が、結果的に一族を滅ぼす。秀衡の死後、1189年、四代・泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を襲い、自害に追い込む。首を鎌倉に送って安全を買おうとした。しかし頼朝はそれを受け取った上で、一万騎とも言われる大軍を奥州へ向ける。義経を征するという名目は、地方政権を潰す口実にすぎなかった。
五代百年ではなく四代百年。初代が中尊寺を建ててから、四代目の首が帰ってくるまで、およそ六十五年。短い。あまりにも短い。
## 義経は死んでいない、という話へつながる
ここでもうひとつの伝説が入ってくる。義経北行伝説だ。
史実では、源義経は1189年に衣川の館で自害し、首は酒に漬けられて鎌倉へ送られた。ところが東北各地には、義経は死なずに北へ逃げたという伝承が濃密に残っている。
岩手県宮古市には、この手の伝承地が異常に多い。横山八幡宮では、義経主従が参詣し宿泊したとされ、家臣の鈴木三郎重家が老齢のためここに残って神主になったと伝えられる。沢田の判官稲荷神社は、北へ向かう義経の徳をしのんで、甲冑を埋めた上に祀を建てたという。神として源義経を祀っている。
一番面白いのは山口の黒森神社だ。義経主従が三年三ヵ月にわたって黒森山に籠もり、般若経六百巻を写経して奉納した、と伝えられる。しかも「黒森」という地名は「九郎森」から転じたという説までついている。九郎は義経の通称だ。地名の由来にまで食い込んでいるのだから、伝説としては相当に根が深い。
このルートは北へ伸びていく。青森を抜け、海を渡り、北海道へ。日高の平取には実際に義経神社がある。アイヌの伝承地でもある場所だ。さらには大陸へ渡ってチンギス・ハーンになった、という例の話になる。ここまでくるとさすがに無理がある。
でも、なぜこんな伝説ができたのかを考えると、金色堂の中身につながる。奥州藤原氏の滅亡は、地元にとってあまりにも理不尽だった。中央の都合で、百年の繁栄が一年で消された。その理不尽の記憶が、「あの人は実は死んでいない」という話を生む。負けた側の英雄は、必ずどこかで生きていることになる。源義経も、天草四郎も、追っていけば同じ構造だ。
一方で、実際に金色堂には首だけの泰衡がいる。こちらは、どう見ても死んでいる。伝説と実物、逃げ延びた英雄と首だけになった当主。このコントラストが、平泉という場所の味を濃くしている。
## 金色堂の今、ガラスの向こうにあるもの
現在の金色堂は、外からは見えない。
1965年に建てられた鉄筋コンクリート造の覆堂の中に収まっているからだ。ガラス張りのスペースに入れられ、温度と湿度が管理されている。拝観すると、ガラスの向こうに金色の小さな堂が孤立して光っている。実物を見ると、思ったより小さい。一辺五メートル半だから、十番の部屋くらいの広さしかない。
1962年から1968年にかけて大規模な解体修理が行われ、建立当初の姿に復元された。このとき部材の年輪年代測定が行われ、木材の伐採は1114年から1116年頃と確認されている。建立年として伝わる1124年と、ちゃんと合う。
では、ミイラは見られるのか。
見られない。遺体は須弥壇の内部に安置されていて、拝観者からは見えない。一般公開されたことは基本的にない。学術調査のときだけである。つまり、今日旅行で行っても、あの金色の壇の下に人が入っているという事実を知っているかどうかだけが、体験の差になる。
これが、金色堂のちょっと異様なところだ。普通、寺の本堂には仏がいる。ここにも阿弥陀如来と脇侍、天部が並んでいる。しかしその下には、実在の人間の遺体がある。仏具と遺体が同じ小さな箱の中に入っている。拝む対象であり、墓であり、さらに世界遺産の観光地でもある。
副葬品も相当なものだ。白装束と枕、刀剣類、念珠。中央壇には赤木柄の短刀があり、刀身に金銀の象嵌が施されている。紫の絹の枕、銀と琥珀の数珠。別の壇には、中に米を詰めた白い絹の枕と、水晶の数珠。これらは一括して重要文化財に指定されている。米を詰めた枕というのが、なんだか生活感があってグッとくる。
## 首を縫った人間のことが、ずっと引っかかっている
この話を調べていて一番引っかかるのは、やはり首を縫った人間のことだ。
一・五センチ間隔で十ヵ所。この数字は、驚くほど具体的だ。雑に縫ったものではない。離断しかけていた創を一つ一つ合わせ、等間隔で針を入れて、その上から絹の帯で固定している。匠の仕事だ。ということは、この首を手に入れた側は、慌てて隠したのではない。時間をかけ、道具を揃え、人手をかけて修復している。公っぴらにやったとは思えないから、潜んでやったのだろう。頼朝が晒した首を、誰かが取り戻し、人の形に戻して、父のところへ返した。この一連の行為は、史料に一行も書かれていない。骨と針穴だけが知っている。
ここが、学術調査の不思議なところだと思う。メジャーで測って、写真を撮って、数値を並べる。冗談の余地はない。なのに、その乾いた数値の向こうから、史料にない人間の行動が浮かび上がってくる。骨萎縮からは、初代が晚年に左半身を引きずっていたことが分かる。歯槽膿漏からは、三代目の食卓の豊かさが分かる。刀傷の数からは、四代目が最期に抵抗したことが分かる。文字の史料は勝者が書く。しかし骨は、誰のものでもない。
ミイラ化の問題にももう一度戻ると、この論争は、実は「奥州藤原氏をどう見るか」という問題と直結している。人工ミイラだとすれば、彼らは意図を持って遺体を残したことになる。つまり、浄土を地上に作るという思想の一部として、肉体を永遠に置くという選択をしたことになる。これはものすごい思想だ。逆に自然ミイラだとすれば、これは偶然の産物ということになる。北国の乾燥した空気と、金箔と漆で包まれた密閉空間が、たまたま遺体を残した。どちらの読み方を取るかで、平泉の物語の色合いがまるっきり変わる。学者が慎重になるのも分かる。
## 幽霊も呪いも出てこないのに、なぜ背中が寒くなるのか
そして、なぜこの話が怖いのか。価値のある問いだと思う。
幽霊が出るわけではない。呪いの実例があるわけでもない。なのにこの話は、読むと背中がひやっとする。理由は三つあると思っている。一つ目は、死体が「残ってしまっている」こと。普通、八百年前の人は土になっている。名前と事績だけが残る。ところがここでは、顔が残っている。歯が残っている。歴史上の人物という抽象を、肉体が邪魔する。教科書の中の名前だったはずの人間が、突然、肥満体型で虫歯だらけの中年男性になる。
二つ目は、泰衡の首だ。これは単純に、人間が人間にやったことの記録として怖い。刀を何度も振り下ろし、首を落とし、二十四センチの釘を眉間に打ち込んで、人々に見せた。しかもそれをやった側は、後に日本の歴史の中で英雄として扱われることになる。歴史の取り扱いの雑さが、この釘の穴一つで見えてしまう。
三つ目は、この全部が今もそこにあることだ。金色堂は建っている。拝観料を払えば誰でも入れる。ガラスの向こうにあるあの小さな堂の、金色の壇の下で、四人が今も乾いたまま横たわっている。修学旅行の子供たちがガヤガヤしながら前を通り過ぎていくすぐ下に、あの首がある。この距離感は、改めて考えるとなかなかすごい。
最後に、この四人の並び方について。初代は七十を越えて天寿を全うした。二代も三代も、当時としては長生きした。肥満し、虫歯に悩み、半身不随になりながら、それでも病の床で死んでいる。黄金の都の当主として、十分に幸福な最期だったと思う。その三人の隔に、三十一歳で家臣に裏切られて斬られた四代目の首が置かれている。三代の繁栄と、一代の崩壊が、同じ一辺五メートル半の箱の中に同居している。これ以上に雄弁な展示はない。建てた清衡は、こんな終わり方を想像していなかったはずだ。戦で死んだすべての命を弔うために建てた堂に、自分の曾孫が戦で首だけになって戻ってくる。この皮肉だけは、百年経とうが何年経とうが、消えない。
