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目が飛び出した青銅の仮面――三星堆、中国四千年史から丸ごとはみ出した文明の話

四川省広漢市の郊外に、幅一メートル三十八センチの顔が置いてある。青銅製だ。三千年前に鋳造されたものだ。そしてその顔の両目は、眼球が円柱になって十六センチ半ほど前に突き出している。望遠鏡みたいに。あるいは、カタツムリの目みたいに。

これを初めて写真で見たとき、たぶんあなたも一瞬「作り物だろ」と思う。CG合成か、現代アーティストの作品か、そうでなければ何かのゲームのコンセプトアートだと。だが本物だ。三星堆遺跡の二号祭祀坑から一九八六年に出てきた、正真正銘の殷代後期の青銅器である。中国の国宝で、四川省を出ることさえ滅多にない。

三星堆というのは、要するに「中国四千年の歴史」という、あの誰もが知っている物語の中に、どうやっても収まりきらない出っ張りなんだよな。黄河流域で殷が甲骨文字を刻んでいたのとまったく同じ時代に、千キロ以上離れた四川盆地の内側で、誰も見たことのない造形の青銅文明が動いていた。しかも文字を一文字も残さずに消えた。

この話をする。長くなる。

一九二九年の春、農民は水路を掘っていただけだった

始まりは、遺跡でも学者でもなく、一人の農民である。

四川省広漢県、当時の中興郷真武村。馬牧河という小さな川が流れていて、その北岸に月亮湾と呼ばれる場所がある。三日月形に湾曲した河岸段丘だからそう呼ばれた。一九二九年の春、ここに住んでいた燕道誠という男が、息子の燕青保と一緒に、水車を据えるための穴を掘っていた。農業用水を引くための、まったく日常的な作業だ。

鍬が硬いものに当たった。掘り出してみると、大きな石の板だった。板をどけると、その下に空洞があった。中には玉器と石器がぎっしり詰まっていた。玉璧、玉琮、玉璋、石壁。数はおよそ四百点に及んだという。

ここからの燕道誠の行動が、まあ、当時の中国の農村としては極めて自然で、考古学的には最悪だった。彼は騒がなかった。むしろ徹底的に黙った。夜になってから家族総出でこっそり運び出し、家の中に隠したのである。しばらく時間を置いてから、親戚に配ったり、少しずつ売ったりし始めた。そうやって「広漢玉器」は骨董市場に流れ出した。出土地点の記録も、共伴した遺物の関係も、全部が失われた形で。

責める気にはならない。一九二九年の四川である。軍閥が割拠していて、農民が土から宝物を掘り出したと役所に届け出て良いことがあるとは、誰も思わなかっただろう。

アメリカ人の宣教師が掘り、日本にいた郭沫若が手紙を書いた

広漢の玉器が骨董屋に出回っている、という噂は、やがて外国人宣教師の耳に入る。一九三一年、広漢に駐在していたイギリス人宣教師の董宜篤が、燕家から数点の玉石器を譲り受けた。彼はそれを成都の華西協合大学の博物館に持ち込む。

ここで登場するのが葛維漢。本名デイヴィッド・クロケット・グレアム。アメリカ人の宣教師で、華西協合大学博物館の館長を務めていた人物だ。彼は資料を見て、これはただの骨董ではないと判断した。そして一九三四年三月十五日、広漢県の県長の協力を取り付けて、燕家の裏手で正式な発掘を行った。中国人助手の林名均と組み、十日ほどで六百点を超える器物と破片を掘り出している。三星堆で行われた、史上初の科学的発掘だ。

葛維漢はこの一帯を「広漢古文化遺址」と名付け、報告書を出した。ここで面白いのが、この報告が日本にいた郭沫若のところに届いていることだ。当時の郭沫若は国民政府に追われて日本に亡命中で、千葉県市川市に住みながら甲骨文と青銅器の研究をしていた。彼は林名均に手紙を書き、広漢の遺物は蜀の地が中原の殷文化と早くから接触を持っていた証拠になる、という趣旨のことを述べている。

この段階で「四川に独自の古代文明があった」という着想の芽が、すでに出ていたわけだ。

だがそこから先が長い。戦争があり、内戦があり、そのあと別の混乱があった。一九五三年に四川の考古学者・馮漢驥が現地を再訪して重要性を訴え、一九六三年には自ら発掘隊を率いて月亮湾を掘り、「この一帯はおそらく古代蜀国の中心的な都邑だ」と言い切った。慧眼である。ただ、その予言が証明されるまでには、さらに二十三年かかった。

自転車で遺跡を守っていた文化財係のおじさん

一九八六年の大発見の話に入る前に、絶対に飛ばせない人物がいる。敖天照だ。

一九二八年十月生まれ、広漢の人。一九五〇年に広漢県文化館の職員になり、一九七三年に湖北で考古学の研修を受けて、広漢で初めての専任文物調査員になった。要するに、地方都市の文化財担当のおじさんである。

一九七〇年代の半ば、彼は北京大学の厳文明教授から「三星堆は極めて重要だ」と言われる。それで振り返ってみると、当時の三星堆で何が起きていたか。レンガ工場が、遺跡のど真ん中から粘土を採掘していたのである。土手を削り、文化層を切り崩し、それをレンガに焼いて売っていた。三千年の地層が、日々、建材になって出荷されていた。

敖天照は、ほぼ一人でこれに抵抗を始める。自転車で周辺の村を回り、農民の家に上がり込み、畑から出てきた玉器や石器や陶片を「これは国のものだから」と説得して回収していった。そうやって集めた遺物は二百点を超える。役所には報告書を上げ続け、レンガ工場には抗議し続けた。誰も本気で相手にしなかった時期が、たぶん十年近くある。

一九八〇年、ついに四川省の考古隊が入って試掘し、黒色の文化層が確認された。そこから六年で六回の発掘が行われる。敖天照はその全部に関わり、民工の手配から食事の段取りまでやり、そして現場を写真に撮り続けた。後年、ドイツの中国学者が彼の手描きの三星堆地図を見て「この地図自体が重要な文物だ」と評したという話がある。彼は二〇二〇年十二月、九十二歳で亡くなった。

新しい六基の坑から次々に国宝が出てくる、その報道が始まる三か月前だった。

一九八六年七月十八日、レンガ工場の鍬が青銅を叩いた

さて、その一九八六年夏である。

現場は三星堆の南興鎮第二レンガ工場。作業員たちは、いつも通り遺跡の土を掘っていた。七月十八日、楊永成という工員の鍬が、また何かに当たった。土を払うと、玉器が出てきた。さらに掘ると、青銅の破片らしきものが混じっている層に行き当たった。

このとき、彼らはすぐに通報した。ここが一九二九年との決定的な違いで、敖天照が十年以上かけて村々に刷り込んできた「土から出たものは届け出る」という習慣が効いた瞬間でもある。

連絡を受けて飛んできたのが、四川省の考古隊だった。隊長は当時三十三歳の陳徳安、副隊長は陳顕丹。ふたりとも若い。彼らが現場を見て、ただちに「これは坑だ」と判断した。整った長方形の穴が地中に切り込まれていて、その中に人為的に物が詰められている。ゴミ捨て場でも墓でもない。一号祭祀坑と名付けられた。

発掘が始まる。焼けた骨の粉と灰が詰まった層を、少しずつ剥がしていく。四川の七月は蒸し暑い。テントの下で、汗だくで、ミリ単位の作業が続いた。

そして七月三十日の午前二時三十分。発掘開始から十日目の深夜だ。

夜勤で坑の底に降りていた陳顕丹の竹ベラの先に、黒い灰渣の中から、黄色い何かが一点、覗いた。彼は動きを止めた。慎重に周囲の灰を払っていくと、黄色い面がじわじわ広がっていく。そこに、線で刻まれた模様が現れた。魚だった。金色の地に、魚の紋様。

「これはたぶん古蜀王の金の腰帯じゃないか」

陳顕丹が最初に口にしたのはそれだったという。彼はすぐ現場を離れ、仮眠していた陳徳安を叩き起こした。ふたりで坑に降り、懐中電灯を当て、そして黙り込んだ。金の帯は、伸ばしていくとどう見ても腰帯の長さでは終わらなかった。一メートルを超えても、まだ続いていた。

その場で決断が下される。現場封鎖。発掘中断。夜が明けるのを待って上に報告。

朝になると、三十六名の武装警察が三星堆に展開した。村人が押し寄せ、レンガ工場は操業を止め、田んぼの畦道に人だかりができた。何が出たのかは誰も知らないが、警察が三十六人来る何かが出た、ということだけは全員が理解していた。

灰の中から取り上げられたそれは、長さ一メートル四十二センチ、直径二・三センチの、黄金の杖だった。木の芯に金の板を巻いたもので、木は完全に炭化していたが、金皮だけがそのまま残っていた。金の重さは約四百六十三グラム。杖の一端に、三組の図案が刻まれている。冠をかぶり耳飾りをつけて微笑む人の顔。背中合わせの二匹の魚。魚の頭に向かって飛ぶ鳥。そして魚と鳥を貫く矢のような線。

中国の古代王朝に、こういう権杖は存在しない。中原の王権を象徴するのは鼎であり鉞であって、杖ではないのだ。

八月十四日、今度は鍬が青銅の耳を叩いた

一号坑からは、最終的に四百点を超える遺物が出た。青銅器が百七十八点、玉器が百二十九点、石器が七十点、それに金器と陶器と、十三本の象牙。人頭像、人面像、そして大量の焼けた骨粉。誰もが「これで終わりだろう」と思った。三十年に一度の発見だ。十分すぎる。

終わらなかった。

八月十四日、一号坑からわずか三十メートルほどしか離れていない場所で、また作業中に鍬が金属を打った。手応えが妙に硬い。土を落としてみると、それは青銅の耳だった。人間のものではない、異様に大きく、上端が跳ね上がった耳。

二号祭祀坑である。

こちらは一号坑をはるかに超えていた。金器、青銅器、玉器、石器、骨器を合わせて千四百点あまり。それに加えて、およそ四千六百枚の子安貝。そして二号坑からは、後に「国宝級」と呼ばれる主要な遺物のほとんどが出てくる。青銅縦目仮面。青銅神樹。青銅大立人像。金の仮面をつけた人頭像。

現場は完全に異常事態になった。八月二十日から九月十七日までの一か月弱で、考古学の教科書が書き換わる量の物が出てきたのである。象牙が層をなして積まれ、その下から青銅器が折れ曲がった状態で現れ、さらに下は焼けた骨と灰。

この現場に、十六歳の少年が混ざっていた。近所に住んでいた郭漢中という子で、面白そうだからと勝手に手伝いに来た。追い返されても来る。とうとう「報酬はいらない、発掘に参加させてくれるだけでいい」と言い出した。この少年は結局そのまま考古隊に居着き、文物修復の技術を叩き込まれ、四十年後には三星堆の青銅器修復を統括する第一人者になっている。三星堆から出た国宝の多くは、彼の手を通って今の姿になった。

そして一号坑と二号坑の発見者として記録されている楊永成は、二号坑を掘り当てた功績で、百元の報奨金を受け取った。一九八六年の百元だから、当時の労働者の月給の何倍かにはなる金額ではある。ある。あるのだが、それで千四百点の国宝を掘り当てた対価だと思うと、なんとも言えない気持ちにはなるよな。

三十五年後、彼らはガラスの小屋を建てて戻ってきた

一九八六年のあと、三星堆の祭祀坑については長い空白が続く。城壁が確認され、遺跡の範囲が確定し、博物館が建ち、学術的な研究は積み重なったが、「次の坑」は出なかった。二基しかないのだろう、というのが通説になりかけていた。

ところが二〇一九年十一月、一号坑と二号坑の周辺を丁寧に探査していた四川省文物考古研究院が、三号坑を掘り当てる。そこから翌二〇二〇年五月までのあいだに、四号、五号、六号、七号、八号と、次々に見つかった。合計六基。三十三年間見つからなかったものが、半年で六つである。

そして今度の発掘方法が、一九八六年とはまったく違った。

考古学者たちは、坑の上に建物を建てたのだ。中国語で「考古発掘キャビン」と呼ばれる、ガラス張りの密閉された部屋である。全部で四棟あり、六基の坑を覆っている。中は空調で温度と湿度が一定に保たれ、外気も塵も入らない。作業員は防護服とマスクとゴム手袋を着けて、まるでクリーンルームに入るように現場に降りる。

坑の真上には可動式のプラットフォームが渡され、発掘者はそこに腹ばいになって吊り下がり、土に一切足を触れないまま作業する。

なぜここまでするのか。理由の一つが、絹だ。あとで詳しく書くが、一九八六年の発掘では絶対に見つけられなかったものを、今なら拾えるからである。有機物の痕跡、土壌のサンプル、微細な残留物。それらを汚染ゼロで採取するために、現場ごと無菌室にした。

参加したのは考古学者だけではない。文物保護、人類学、冶金学、植物考古学、動物考古学、化学分析。三十以上の研究機関が同時に現場に入る体制が組まれた。プロジェクト総責任者の唐飛は、これを「メカニズムの革新」と表現している。

二〇二一年三月二十日、成果が発表された。この日、中国のニュースは一日中三星堆だった。中央テレビは四日間ぶっ通しで発掘現場の生中継をやった。発表された出土文物は五百点あまり。黄金仮面、青銅人像、青銅尊、玉琮、玉璧、金箔、象牙。

最終的な数字が出るのは二〇二二年六月十三日で、六基の坑から番号を付けて登録された遺物が一万三千点近く。うち比較的完全な形を保っているものが三千百五十五点。二〇二六年現在、八基の坑全体では、二万点近くという集計が出ている。

炭素十四年代測定の結果も出た。三号、四号、七号、八号坑はいずれも殷代後期、いまから約三千二百年前から三千年前。特に四号坑については紀元前一一九九年から前一〇一七年という、かなり絞り込まれた数字が出ている。つまり、殷墟で武丁や帝辛が甲骨に卜辞を刻んでいた、まさにその時代だ。

縦目仮面――なぜ目玉が飛び出しているのか

ここから遺物の話をする。一つずつやる。まずは冒頭に書いたあの顔だ。

青銅縦目仮面。二号祭祀坑出土。幅百三十八センチ、高さ六十四・五センチ。単体の青銅仮面としては、三星堆で最大級であり、世界的にも類例がない。

顔の造形が徹底的に非人間的だ。眉は太い刀の刃のように吊り上がり、鼻梁は隆起して鷲鼻になり、口は耳のあたりまで裂けて、その端がわずかに上がっている。笑っているように見えなくもないが、笑顔とは違う何かに見える。両耳は極端に大きく、上端が翼のように外へ跳ね上がっている。

そして目だ。眼球が円柱状に前方へ突出している。直径十六・五センチ、突出の長さは十三センチから十六センチ半とされる。この瞳の部分は、顔と一緒に鋳込んだのではなく、別に鋳造してから嵌め込む「分鋳法」で作られている。つまり、飛び出した目玉は「たまたまそうなった」のではなく、設計としてそうしたのだ。作った人間は、この顔の目が突き出ていることを、造形上いちばん大事なポイントだと考えていた。

眉間の中央に穴が開いている。こめかみと下顎にも穴がある。柱か壁に固定されていたのだろう、というのが有力な解釈だ。神殿の壁面に、この顔が掛かっていた。想像してみてほしい。松明の光が揺れる薄暗い建物の中で、幅一メートル四十の顔が、目玉を突き出してこっちを見ている。

もう一つ、同じ二号坑から「青銅戴冠縦目仮面」というのも出ている。こちらは幅七十八センチ、高さ八十二・五センチで、額から巻物のような装飾が高く立ち上がっている。突き出した目は同じだ。

で、なぜ目が飛び出しているのか。これが三星堆最大の論点の一つになっている。

中国で最も有力とされるのが、蚕叢説だ。これは後で『華陽国志』の話をするときに詳しくやるが、古代蜀の初代王が「縦目」だったという文献記録があるので、それを造形化したものだという解釈である。素直だし、文献と一致する。

第二に、視覚と聴覚を極限まで誇張した神格の表現だという説。要するに千里眼と順風耳だ。目が遠くまで届き、耳が広く音を集める。神は人間より遠くを見て遠くを聞くのだから、目と耳を物理的に拡張して表現した、という考え方である。三星堆の他の人頭像も総じて耳が大きいので、この線は筋が通っている。

第三に、神話上の存在への同定説。日本の研究でも、京都大学に「縦目仮面、燭龍と祝融」という論文があって、『山海経』に出てくる燭龍や、火の神である祝融と結びつける議論が展開されている。燭龍は目を開けば昼、閉じれば夜になるという神で、「目」が本質的な属性になっているところが合う。

第四に、医学的な説明を試みるもの。四川盆地はヨウ素が欠乏しやすい土地で、甲状腺機能亢進症による眼球突出が集団的に見られた可能性がある、という指摘がある。それを神聖視して像に写したのではないかと。面白い説だが、これだと突出の長さが十六センチというのは説明しきれない。

第五に、ネット民の説。宇宙人。これも後でやる。

三千年ぶりに立ち上がった、高さ三メートル九十六センチの木

二号坑から出てきたもう一つの化け物が、青銅神樹だ。

出土したのは一九八六年八月。ただし、出土時の状態は「木」ではまったくなかった。押しつぶされ、へし折られ、火にあぶられ、ばらばらになった青銅片の山だった。それが二千点以上。

これを復元するのに、修復チームはおよそ十年を費やしている。破片を並べ、断面を突き合わせ、どこがどこと繋がるかを一つずつ検証していく作業だ。しかも古代の青銅は脆く、力をかければそこから割れる。

完成した姿は、こうだ。全高三メートル九十六センチ。台座を除いた樹の高さが三メートル八十四センチ。台座は三本の脚を持つ山のような形をしていて、そこから幹が真っすぐ立ち上がる。幹は三層に分かれ、各層から三本ずつ、合計九本の枝が横に伸びる。枝はそれぞれ先端で垂れ下がり、そこに果実と蕾が実る。果実と蕾は全部で二十七。そして九本の枝の上に、それぞれ一羽ずつ、計九羽の鳥が止まっている。

さらに、幹には龍が絡みついている。頭を下にして、地上へ降りてくる姿勢だ。前脚は台座の上に置かれ、後ろ脚は人間の手のような形をしていて、体からは羽根のようなものが垂れ下がっている。

これが何なのか。ほぼ一致した見解は「太陽の木」である。中国神話には、太陽に関わる巨木が三本出てくる。東の果てに立ち、十個の太陽が宿るという扶桑。西の果てに立つ若木。そして天地の中央に立ち、神が上り下りするという建木。三星堆の神樹は、この三つの性質を全部合わせ持っているように見える。

九羽の鳥は、十個の太陽のうち九個だという説が強い。中国の神話では、十個の太陽が交代で空を渡り、一つが空にいるあいだ残りの九つは扶桑の枝で休んでいる。だから枝に止まっているのは九羽なのだ、と。もし本当にそうなら、これは神話を三次元で作った、世界最古級の立体神話模型ということになる。

幹を降りてくる龍は、天と地をつなぐ通路の象徴と読まれることが多い。神樹全体が「天への梯子」であり、宇宙の軸なのだと。

二〇二一年、新しく見つかった三号坑からも神樹が出てきた。いわゆる三号神樹で、こちらは造形がまた独特だ。修復と研究が続いているが、扶桑樹に相当するのではないかという見方が出ている。二号神樹も長い修復を経て、二〇二四年に「三千年ぶりの再生」として公開された。

手に何を持っていたかで、専門家が三十年本気で揉めている

二号坑から出た三つ目の看板が、青銅大立人像である。

全高二メートル六十二センチ。台座部分が九十センチほどあって、人物像そのものの高さが一メートル七十二センチ。総重量は約百八十キロ。世界最大級の古代青銅人物立像だ。

顔は例の三星堆顔で、切れ長で吊り上がった目、大きな耳、真一文字の口。頭には花冠のような高い冠をかぶり、三重に重ねた長衣をまとっている。衣には龍紋、鳥紋、虫紋、目の紋様がびっしり刻み込まれていて、これがまた凄まじく細かい。裸足で、台座の上に立っている。台座は四頭の獣の頭で支えられている。

問題は手だ。

この像の両手は、異様に大きく、そして筒のような形に丸められている。明らかに何かを握っていた形だ。ところが、その何かが坑から出てこなかった。しかも困ったことに、左右の手の筒の穴の直径が違い、二つの穴を貫く軸が一直線にならない。つまり、まっすぐな棒を一本握っていたのではない。

ここから専門家の総力戦が始まる。

三星堆博物館の館長を務めた雷雨は、象牙説を推す。両手の穴が一直線に並ばないという事実が、逆に象牙の湾曲と一致するからだ。しかも三星堆からは大量の象牙が出ている。祭祀の場で王が象牙を捧げ持っている図、というのは説得力がある。

一九八六年に金杖を見つけたあの陳顕丹は、まったく逆で、「何も持っていない」説を唱えた。三星堆から出た他の人像で、実際に器物を持っている例と手の形が違う。だからこれは祭祀のときの手の所作、印を結んでいる状態を表現したものだ、と。

中国社会科学院の王巍は、立鳥説を検討している。三星堆や周辺の遺跡には、鳥を手にした人物像の系譜があるからだ。

そのほかに、玉琮を持っていた説。曲がった龍か蛇を持っていた説。あるいは、あの黄金杖そのものを握っていたという説。ただし黄金杖は直径二・三センチで、大立人の手の穴の径には合わないので、これは分が悪い。

中央テレビの番組でこのテーマをやったときには、専門家が何人もスタジオに集まって本気で言い合いになった。三十年以上論争が続いていて、まだ決着していない。

この像が誰なのかについても、王だという説と、大巫師つまり最高位のシャーマンだという説がある。台座の上に立って人々を見下ろす位置にいること、極端に装飾的な衣をまとっていること、そして「群巫の長」としての王というモデルが古代中国に広く見られることから、両方を兼ねていたと考えるのが今のところ落ち着きどころだろう。

黄金の杖と黄金の仮面――中原に「ない」ものばかり出てくる

黄金杖の話は発見の場面で書いたが、その意味をもう少し掘る。

中原の殷や周において、権力の象徴は青銅の鼎であり、儀礼の器であり、玉であり、鉞だった。杖ではない。ところが三星堆では、王権の中枢に金の杖がある。これは同時代の中国にほぼ類例がなく、むしろ西アジアやエジプトの王権表象に近い。この一点が、のちに「西方から来た文明説」の最大の燃料になる。

杖に刻まれた図案の読み方にも定説がある。冠をつけて微笑む人の顔は王。魚と鳥は、それぞれ何かの氏族か、神格か、王の名前。そして『華陽国志』に「魚鳧」という蜀王の名が出てくることから、魚と鳥のセットで「魚鳧王」を表す図像文字なのではないか、という解釈が広く受け入れられている。もしこれが正しければ、三星堆で見つかった唯一の「読める記号」ということになる。

矢が魚と鳥を貫いているのは、王の武力を示すのか、あるいは狩猟儀礼を示すのか、これはまだ議論がある。

金の仮面のほうも凄い。一九八六年の段階では、青銅の人頭像に金箔の仮面を貼り付けたものが数点出ていた。金箔の顔が青銅の顔に密着していて、剥がれかけているものもあった。

そして二〇二一年、五号坑から出たものが決定打になる。五号坑は六基の新坑の中で最も小さく、面積わずか三・五平方メートルしかない。ところがこの坑は「一面が金色に光っていた」と表現されるほど金器の密度が高かった。鳥形の金飾片をはじめとする金箔が六十枚以上。そしてその中に、押しつぶされた黄金の仮面があった。

残っていたのは、仮面のおおよそ半分。それだけで重さ約二百八十グラムある。完全な形なら五百グラムを超えると推定される。純度は八十四パーセント。しかも青銅に貼るための箔ではなく、単体で自立する厚みを持った仮面だった。

これが二〇二一年三月に発表された瞬間、中国のインターネットが沸騰する。その話は後でやる。

象牙六百本と、目に見えない絹

数の暴力という点では、象牙が一番だ。

一九八六年の一号坑で十三本。二〇二〇年から二〇二二年の発掘では、六基の坑から合わせて六百本以上のゾウの牙が出た。同時代の遺跡としては国内で最大の出土量である。八号坑では、象牙が層をなして青銅器の上に整然と敷き詰められた状態で見つかった。

これがまた保存の悪夢なんだよな。三千年地中にあった象牙は、含水率が約四十パーセントある。骨っぽい硬いものを想像すると裏切られる。保存担当者の表現がすさまじくて、「低温高湿の環境に置いておかないと、豆腐のブロックみたいになって、ひび割れて崩れていく」のだそうだ。乾かしたら終わり。かといって濡らしたままでも腐る。

だから三星堆では、象牙専用の保管庫を作った。温度五度、相対湿度九十パーセント。防塵カーテン付き。二〇二六年には新しい専用施設が完成し、六百本余りの象牙が「引っ越し」をしている。四川省文物考古研究院の李思凡、三星堆博物館の余健や楊平といった保存担当者が総出でやった作業だ。

処理の方法は、段階的にアルコールで水を置き換えていき、その後アルコールを補強材に置換して、象牙内部の多孔質構造の中に支持体を作るというもの。要するに、内側から骨組みを入れるわけだ。

そして、絹である。

これが二〇二〇年代の三星堆研究で、個人的にいちばん痺れた話だ。二〇二一年の発掘時、四号坑の灰の中から「肉眼では見えない絹製品の残留物」が検出された。これがまず衝撃だった。三千年前の布が形として残っているのではない。分子レベルの痕跡が残っていて、それを引っ張り出したのである。

二〇二四年十一月、この研究が科学誌サイエンティフィック・リポーツに論文として出た。中国シルク博物館の紡織品文物保護研究拠点を率いる鄭海玲らのチームと、三星堆の研究者との共同研究だ。使った手法が、絹のフィブロインを捕まえる免疫親和カラムと酵素免疫測定法の組み合わせ。走査型電子顕微鏡とエックス線三次元顕微鏡。そしてプロテオミクス解析で、カイコの絹に特有のシグネチャータンパク質を同定した。

特筆すべきは七号坑から出た「青銅方格網状器」だ。ネット状に組まれた青銅の枠の中に玉器が収まっているという、それ自体が中国青銅器時代で初めての形式の器物なんだが、その表と裏の両面に布の痕跡が付いていた。玉を絹で包んで青銅の籠に入れていた、ということになる。ちなみにこの器物、あまりに謎めいた見た目なので、中国のネットでは「月光宝盒」という愛称がついた。

年代測定では、この絹は今から三千百四十八年前から二千九百六十六年前。研究チームの結論はこうだ。古蜀では、絹が「天と地を通わせるための物質的な媒体」として祭祀に使われていた。

つまり、あの坑に投げ込まれたものは、青銅と金と玉と象牙だけではなかった。布に包まれ、あるいは布をまとった状態で、燃やされ、埋められていた。発掘現場をガラスの部屋で密閉した意味が、ここでようやく効いてくる。一九八六年の露天の現場では、この情報は永久に失われていた。

さらに二〇二六年、七号坑から出ていた三片の鉄の破片について、四川大学と四川省文物考古研究院の共同チームが分析結果を発表した。接合すると全長約二十センチ、幅五から八センチの、斧のような形になる。ニッケル含有量が高く、組織は単相フェライト。すなわち純粋な隕鉄だった。中国西南部で確認された、青銅器時代最古の隕鉄製品である。中原では青銅と隕鉄を組み合わせた複合器が知られているが、三星堆のこれは純隕鉄。

三千年前の古蜀の人々は、空から落ちてきた鉄を見分け、加工する技術を持っていた。

文字が、一文字も出てこない

ここまで読んで、そろそろ気づいてほしい違和感がある。

三星堆から、文字が出ていない。

これがどれだけ異常か。同時代の殷では、甲骨文字が体系として完成していた。数千の字種があり、文法があり、暦があり、王の名前と占いの結果が刻まれている。だからこそ我々は殷という王朝の王の名前を知っているし、いつ何が起きたかをある程度追える。

三星堆には、それが一切ない。青銅器にも、玉器にも、陶器にも、まとまった文章はない。あるのは陶器や器物に散発的に刻まれた、不揃いな記号だけだ。虎のような形、手のような形、花のような形。これらは戦国期の巴蜀地域の青銅武器や印章に見られる「巴蜀符号」「巴蜀図語」と呼ばれる記号群につながっていく可能性が指摘されているが、その巴蜀符号自体が未解読である。

二〇一〇年頃には、これが古い彝文字ではないかという説も出て話題になった。今のところ、誰も読めていない。

なぜ文字がないのか。真面目な説明は二つある。

一つは、まだ見つかっていないだけ、という立場。竹簡や木簡、あるいは絹に書かれていたのなら、四川の湿った土壌で三千年も残るはずがない。実際、香港故宮文化博物館の展示に関わった学者は「将来、三星堆で文字が見つかる可能性はある」と述べている。ただし、仮に出てきても解読は別の話で、殷の甲骨文ですら未だに読めない字が大量にあるのだから、と釘を刺してもいる。

もう一つは、そもそも文字に育たなかった、という立場。巴蜀の記号は、純粋な図像でもなく純粋な文字でもない、その中間の段階にあった。ある解説はこれを「生後六、七か月の胎児」に喩えている。体系化する途中で、自然災害や外部文化の流入によってプロセスが中断され、そのまま成長を止めた。そして文字による情報の蓄積と伝達を持たなかったことが、紀元前三一六年に秦に飲み込まれる遠因になった、という筋書きだ。

どちらにせよ、結果として我々は、三星堆の人々が自分たちを何と呼んでいたのかを知らない。王の名前も、神の名前も、儀式の意味も、この文明が自分の言葉で語ったものは何一つ残っていない。残っているのは、目玉の飛び出た顔と、九羽の鳥が止まった木と、大量の灰だけだ。

これが三星堆を、地上最強クラスの想像力の空白地帯にしている最大の理由なんだよな。

蚕叢は縦目だった――四世紀の地誌が書いていたこと

文字がないなら、外部の文献に頼るしかない。

四世紀、東晋の時代に編まれた『華陽国志』という地誌がある。蜀の出身の学者の手になるもので、中国西南部の歴史と地理をまとめた本だ。その「蜀志」の巻に、古蜀の王朝の系譜が記されている。

蚕叢、柏灌、魚鳧、杜宇、開明。この五代が古蜀を治めた、と。

そして蚕叢について、こう書いてある。「蜀侯蚕叢、其目縦、始称王」。蜀侯である蚕叢は、その目が縦であり、初めて王を称した。

その目が、縦。

一九八六年に二号坑からあの仮面が出たとき、中国の学者たちがどれだけ興奮したか想像がつくと思う。四世紀の文献に書かれていた「縦目」の王が、三千年前の青銅として実物で出てきたように見えたのである。

もっとも、「縦目」が何を意味するかは古来議論があった。目が縦に付いているという意味なのか、目が突き出ているという意味なのか、あるいは特殊な仮面をかぶる習俗を指しているのか。三星堆の仮面が出るまでは、比喩か誇張だろうというのが常識的な読み方だった。それが実物と一致してしまった。文献の記述が考古で裏付けられた、と言うにはもちろん慎重さが要るのだが、心情としては「一致した」としか思えない。

蚕叢という名前も示唆的だ。蚕である。蚕を飼うことを教えた王、という伝承がある。そして七号坑からは絹が検出された。四川は後の時代に「蜀錦」で天下に知られる絹の産地になる。線が通っている。

魚鳧のほうは、魚を捕るウ、つまり鵜飼いを連想させる名だ。そしてあの黄金杖には、魚と鳥が並んで刻まれている。魚鳧王の紋章ではないか、という読みはここから出てくる。

杜宇は農耕を教えた王で、死後にホトトギスになったという伝説がある。「杜鵑啼血」の故事だ。開明は治水を行った王朝で、この時代に都が成都に移ったとされる。そして紀元前三一六年、秦の恵文王が司馬錯を派遣して蜀を滅ぼす。蜀は秦の郡になり、独立した文明としての古蜀は終わる。

李白の「蜀道難」に有名な一節がある。「蚕叢及び魚鳧、開国何ぞ茫然たる」。蚕叢と魚鳧が国を開いたのはいつのことか、あまりに遠く霞んでいて分からない、という意味だ。唐代の李白にとってすでに、蚕叢と魚鳧は霧の中の名前だった。その名前が、二十世紀の四川の泥の中から実体を持って出てきた。

金沙遺跡――三千年前の引っ越し先

三星堆の話をするなら、金沙を外せない。

二〇〇一年二月八日、成都市の西部、青羊区の金沙街道。蜀風花園城という住宅地の開発工事で、下水道を掘っていた作業員が土の中から象牙と玉器を掘り出した。緊急発掘が入って、そこから出てきたのが金沙遺跡である。

規模がとんでもない。玉器が二千点以上、青銅器が千二百点以上、金器が二百点以上、石器が千点以上、陶器が数万点。そして象牙が、重量にして一トン。動物の骨片が数千点。

年代は紀元前一二〇〇年頃から前五〇〇年頃。三星堆の祭祀坑が埋められた時期の、ちょうど直後から始まっている。

そして出土品が、三星堆によく似ている。黄金の仮面がある。金箔がある。玉璋がある。象牙を大量に埋めている。青銅の人物像がある。太陽と鳥のモチーフが繰り返し現れる。

金沙で最も有名な遺物が「太陽神鳥金箔飾」だ。円形の金の薄板で、外径十二・五センチ、内径五・二九センチ、厚さわずか〇・〇二センチ。重さ二十グラム。純度九十四パーセント超。中央に十二条の光を放つ渦巻き状の太陽があり、その周囲を四羽の鳥が同じ方向に飛んでいる。デザインが恐ろしく洗練されていて、三千年前のものだと言われても信じにくい。

これは現在、中国の文化遺産のシンボルマークに採用され、成都市の市章にもなっている。

三星堆神樹の九羽の鳥、そして金沙の四羽の鳥。太陽と鳥。同じ信仰の系譜だ。

だから今の主流の理解はこうだ。三星堆の中心が何らかの理由で機能しなくなり、人々は成都平原の南西、金沙へ移った。文化はそこで続き、形を変えながら数百年生き延びた。三星堆と金沙は断絶ではなく、連続なのだと。三星堆博物館と金沙遺跡博物館は現在、両者をセットにして世界遺産登録を目指す動きを進めている。

宇宙人説は、どこから湧いてきたのか

さて、お待ちかねの層に入る。

三星堆と聞いて「宇宙人」を連想する人は、日本にも中国にも、たぶん英語圏にもかなりいる。この連想はどこから来たのか。

正直に言うと、これには「誰が最初に言い出したか」という明確な起点がない。学術的な提唱者はいない。論文もない。宇宙人説は、一九九〇年代以降の中国の大衆向け「世界の謎」系の読み物と、二〇〇〇年代以降のインターネット掲示板の中で、じわじわ自然発生したものだ。だから発祥を一点に特定できない。これは他の異説と決定的に違うところで、宇宙人説は最初から「ネットの共同創作」なんだよな。

きっかけになった要素ははっきりしている。第一に、縦目仮面の造形だ。飛び出した目玉と、極端に大きい耳と、人間離れした顔の比率。これがSF映画のエイリアンや、日本の遮光器土偶と並べたときの見た目のインパクトで、理屈より先に「同類だ」と感じさせる。実際、遮光器土偶と縦目仮面を並べて論じる日本語のページはいくらでもある。

第二に、文字がないこと。前述した通り、三星堆は自分について何も語らない。空白があると人間はそこを埋めたくなる。

第三に、周囲との断絶感。四川盆地は四方を山で囲まれていて、当時の中原から見れば別世界だった。李白が「蜀道の難きは青天に上るよりも難し」と書いた通りだ。孤立した場所に、いきなり高度な技術が出現したように見える。

第四に、そして最も現代的な要因として、二〇二一年の生中継である。中央テレビが四日間ぶっ通しで発掘現場を流した。金の仮面が出た。青銅の巨大な顔が出た。それが全国に生放送された。この時期、中国のネットでは根も葉もない噂が大量に流れた。中でも「三星堆からUFOが出土した」というデマが広く拡散して、複数のメディアが打ち消し記事を書く事態になっている。

「三星堆で円盤が出たというのはデマである」という見出しの記事が真顔で出る、というのが二〇二一年春の空気だった。

専門家側の反論はきわめて明快だ。三星堆から出た遺物は、確かに造形は独特だが、技術的にはすべて説明がつく。青銅の合金比率は中原のそれと同じ範囲に収まっている。鋳造技術は分鋳と鋳接で、これも中原と共通の技法だ。青銅の尊や罍といった器種は、明らかに中原と長江中流域の系譜にある。玉璋の形式は二里頭遺跡のものと近い。

子安貝は交易の証拠だし、青銅器の鋳型に使われた泥の芯を鉱物分析すると、長江中下流域の土に由来することが分かった。つまり三星堆は、孤立した宇宙船ではなく、当時の中国の広域ネットワークにがっちり繋がった結節点だった。

冉宏林はこう言っている。新しく出た器物には「中原地域に祖型を見つけられるもの」がある、と。

要するに、造形が奇抜なのは信仰と美意識の問題であって、技術系統の問題ではない。この結論はもう相当固まっている。それでも宇宙人説が死なないのは、あの顔が強すぎるからだ。理屈で殴っても、あの目玉には勝てない。

西アジア渡来説と、それを粉砕しにきた男

宇宙人よりは真面目な顔をしているが、やはり主流から外れた説として「西方渡来説」がある。

根拠として挙げられるのは、まず黄金杖だ。杖を王権の象徴とする文化は、メソポタミアやエジプトにはあるが中原にはない。次に、黄金の仮面。死者や神像に金の仮面をかぶせる習俗は、ミケーネやエジプトを連想させる。さらに、青銅の人物像を等身大以上に作るという発想。中原の青銅器は容器が中心で、人物の立像はほとんど作らない。そして大量の象牙と子安貝。子安貝はインド洋産の可能性が指摘されている。

こういう「中原にないものリスト」を並べると、確かに西を向きたくなる気持ちは分かる。

この方向を最も派手にやったのが、蘇三という著述家だ。二〇〇四年に『三星堆文化大猜想』という本を出している。副題が凄まじくて、「中華民族と古代ユダヤ人の血縁関係の解明」。中国文明の源流は西アジアにあり、三星堆はその証拠だ、という趣旨の主張を大展開した。当時それなりに売れ、話題にもなった。

これに真正面から噛みついたのが方舟子である。科学ライターとして疑似科学批判で知られる人物で、二〇〇四年十一月十日付の文章で、蘇三の本を「胡説八道」、つまり「でたらめ」と断じて全否定した。方舟子の批判の核心は、蘇三が言語学的な類似や図像の似ている感じを根拠にしているが、その比較の方法自体が恣意的で検証不可能だ、という点にある。

学術側、たとえば四川大学の霍巍のような研究者は、もっと落ち着いた立場を取る。三星堆は東西の上古青銅文明の「対話」として理解すべきで、影響関係がゼロだとは言わない。西アジアや中央アジアから、金の加工技術や特定のモチーフが、中央アジア経由でじわじわ伝わってきた可能性は真面目に検討する価値がある。だがそれは「三星堆の人々が西から来た」という話とはまったく別だ、と。

三星堆の土器の編年は、その下層にあたる成都平原の新石器時代文化から連続的に発展していることが確認されている。人が入れ替わったのではなく、現地の文化がそこで育った。これが動かしにくい事実である。

なお霍巍は、二〇二六年の四十周年に際して、まだ決着していない最大級の問題として「青銅器がどこで鋳造されたのか」を挙げている。形態や技法からの推測では足りず、実際の鋳造工房の遺構を掘り当てることが最終的な証拠になる、と。もし三星堆の城内から青銅鋳造の工房跡が出れば、西方渡来説の残り火は完全に消える。逆に言えば、まだ出ていない。

夏王朝の残党説

もう一つ、中国国内で根強い人気があるのが「古蜀は夏の亡命政権だった」という説だ。

夏王朝は中国最初の王朝とされるが、その実在をめぐる議論は今なお続いている。実在したとすれば、有力候補は河南省の二里頭遺跡だ。夏は殷の湯王に滅ぼされた、と『史記』は書く。

そこで、こういう筋書きが生まれる。殷に敗れた夏の王族と工人の集団が、西へ逃げた。山を越えて四川盆地に入り、そこで再興したのが古蜀である。だから三星堆には、中原の青銅技術がありながら、殷とは違う独自の造形が展開している。殷に対する敵意と、夏の記憶を抱えたまま、盆地の中で独自に育ったのだ、と。

この説を補強する材料として必ず挙げられるのが、玉璋だ。三星堆から出た玉璋は、二里頭遺跡のものと形式的に近い。柄と刃の関係、両側のギザギザの装飾。これが偶然の一致とは考えにくい、という指摘は学術的にも真面目に議論されている。実際、二里頭系の玉器が長江流域から華南、ベトナム北部にまで広がっていることは知られていて、三星堆はその拡散ネットワークの中にいる。

ただし、玉璋が似ているからといって、人間の集団が丸ごと移住したことにはならない。器物のスタイルは、人が動かなくても伝わる。しかも三星堆の年代測定は、祭祀坑が殷代後期、つまり夏の滅亡から数百年後であることを示している。夏の遺民が逃げてきて即座に作ったものではない。ここが夏残党説の弱いところで、時間の穴が大きすぎる。

とはいえ、三星堆の文化が二里頭以来の中原文化の広がりの中に位置づけられること自体は、学術的にも認められている。夏の直系ではないにしても、無縁でもない。

そもそも、なぜあの坑に投げ込んだのか

ここが実は三星堆の中心的な謎である。遺物が何なのかより、なぜ壊して埋めたのかのほうが難しい。

坑の中の状態を思い出してほしい。青銅器は折れ曲がり、叩き潰されている。神樹はばらばらに壊されている。多くの器物に火を受けた痕跡がある。そして骨の粉と灰が大量に混ざっている。これは事故でも自然災害でもない。人間が意図的にやった。

最も古くからある解釈が「祭祀廃棄説」だ。一九八六年に発掘した陳徳安と陳顕丹が「祭祀坑」と名付けた時点で、この見立てが基調になっている。神に捧げるために、貴重品を集め、火で焼き、砕いて土に埋める。犠牲を燃やす「燎祭」と、地中に埋納する儀礼を組み合わせたものだ、と。中国古代にはこの手の儀礼が実在するので、無理のない読み方である。

ただ、これだと「なぜ国宝級の巨大青銅器を全部まとめて一度に処分したのか」の説明が弱い。定期的な儀礼にしては、量が異常なのだ。

次に「亡国宝器説」。他国に攻め滅ぼされる寸前、敵に神器を渡すまいとして、王族が全部壊して埋めた、というもの。籠城中の宝物処分だ。ドラマとしては一番燃えるが、坑の掘り方が整いすぎているのが難点になる。追い詰められて慌てて埋めたにしては、穴が几帳面すぎる。

「遷都説」もある。都を金沙へ移すにあたり、古い都の神器を持っていくわけにはいかないので、儀礼的に土地に返した。金沙との連続性を考えると、これも捨てがたい。

「神殿火災説」というのもある。青関山という場所から「一号大房子」と呼ばれる大型建物跡が見つかっていて、これが神殿だった可能性が高い。この神殿が火災で焼け落ち、焼けた神像や祭器を廃棄処理のためにまとめて埋めた、という説明だ。青銅器に火の痕跡があることの説明としては、これがいちばん素直かもしれない。

そして最も刺激的なのが、二〇二五年の三星堆論壇で北京大学の孫華が公開した「滅神説」だ。

孫華の主張はこうである。あの坑は、神を祀るための穴ではない。神を殺すための穴だ。

根拠として彼が挙げるのは、まず坑の掘り方が規則正しく、器物の配置に秩序があること。象牙が他の遺物の上に整然と積み上げられていること。外敵に襲われて慌てて埋めたのではなく、時間をかけて計画的に処理した痕跡だという。そして青関山の神殿から出たと考えられる品々が、そのまま祭祀坑に埋納されている。

孫華が描く筋書きは、三星堆国家の内戦である。この国には五百年以上にわたって、神権を握る貴族集団と、世俗権力を握る集団が共存していた。殷王朝が崩壊していく時期に、その均衡が壊れ、内部抗争が起きた。神権集団が徹底的に叩き潰された。敗れた神権集団は西の成都、つまり金沙へ移った。勝った世俗集団は北へ向かい、周の諸侯として組み込まれていった。

そして残されたのが、あの坑だ。数百年にわたって崇めてきた「神」そのものを、信仰を失った人々が破壊し、焼き、穴に投げ捨てた記録。

これが本当なら、三星堆の祭祀坑は、宗教が敗北した瞬間の現場保存ということになる。青銅の目玉を潰し、神樹をへし折り、金の仮面を丸めて灰と一緒に埋めた人々が、三千年前に確かにそこにいた。

なお、二〇二六年五月には別の大胆な仮説も出ている。あの大規模な祭祀は、古蜀の人々が周による殷討伐を助けるために行ったものだったのではないか、という説だ。『尚書』の「牧誓」には、武王の軍に加わった西南の八つの集団の中に「蜀」の名がある。牧野の戦いの前後に、蜀で国家的な祈願が行われた可能性、というわけだ。時期的にはかなり近い。

まだ仮説の段階だが、坑の年代が殷末に集中していることを考えると、無視できない。

掲示板とミームと、盗墓小説家をスタジオに呼んだ日

三星堆が現代の中国で持っている位置は、単なる考古遺跡ではない。完全にポップカルチャーの一部になっている。

二〇二一年三月二十日に黄金仮面が発表されると、微博が即座に祭りになった。数時間のうちに、あの潰れた金の仮面を使ったコラージュ画像が大量に投稿され始める。仮面をウルトラマンの顔にはめ込む。ハローキティに被せる。パンダに被せる。テディベアに被せる。「三星堆黄金仮面画像編集コンテスト」というハッシュタグができて、閲覧数はおよそ四百万回に達した。

面白いのは、三星堆博物館の公式アカウントがこれに乗っかったことだ。微博で「みなさん、ずいぶん張り切ってますね」と反応し、その後プロモーション動画やラップ曲まで作って投下した。ネット民のほうが「うちの博物館、ノリが良すぎる」と逆に感心する流れになった。文物のミーム化を公式が咎めるどころか一緒に遊ぶ、という光景は、中国の博物館としてはかなり新しかった。

一方で、燃えた案件もある。

中央テレビが四日間の発掘生中継をやったとき、番組が南派三叔を連線ゲストとして呼んだ。『盗墓筆記』の作者、つまり盗掘を題材にした人気小説家である。これに考古学界が強く反発した。中国考古学会の理事長を務めた王巍が、メディアが「考古学者と文物収集家と盗墓小説の作者を一緒くたにしている」のは不適切だ、と公に苦言を呈した。

考古は古代文化の真相を明らかにし歴史を復元するための国家的な事業であり、盗墓は宝物を盗むために墓を破壊する犯罪行為である。この二つを同じテーブルに並べてはいけない、と。

さらにその後、三星堆博物館が盗掘題材のアニメの初上映イベントを館内でやろうとして、これがもっと大きな批判を浴び、結局場所を変えて開催されるという顛末があった。

ただ、この騒動から出てきた反省の弁も的を射ていて、業界内から「問題の本質は、考古学界の側の一般向け発信が足りないことだ」という声が上がった。敷居を下げて考古を知ってもらう努力を、専門家自身がやってこなかった。だからその隙間を小説家やネット民が埋めてしまう。考古学者もインターネットで語る技術を身につけるべきだ、と。

中国国内の掲示板や知乎での議論はもっと雑多で、真面目な考古ファンが「合金分析を見ろ」と資料を貼り、その隣で「歴史学者が真実を隠している」という陰謀論が流れ、さらにその隣で「あの神獣、絶対ゲームに出てくるやつ」というコメントが並ぶ。三星堆から出た青銅の神獣に、正式名称が決まる前から愛称の公募が行われたこともある。

日本語圏の反応でも、遮光器土偶との比較は定番だ。ただし遮光器土偶は縄文晩期、紀元前千年前後で、三星堆とほぼ同時代になる。だからといって関係があるわけではないのだが、「同じ頃、日本でも目のでかい像を作っていた」という並べ方は、確かに落ち着かない気分にさせる。

実際に見に行った人たちが言うこと

現地の話もしておく。

三星堆博物館は広漢市にある。成都の中心部からは離れていて、日本人旅行者のクチコミにも「アクセスが良いとは言い難い」という言葉が繰り返し出てくる。それでも行った人の感想はだいたい一致していて、「異形というか、なんというか、非常に不思議な青銅器がたくさん展示されていて興味深い」「巨大青銅仮面は必見、インパクトとしては凄いものがある」といった調子になる。

展示品の質と量に対して入場料は安い、という評価も多い。混雑については「できれば平日に行きたい」「中国の大型連休は絶対に避けたほうがいい」というのが共通見解だ。

二〇二三年七月二十六日に新館が開館して、状況はまた変わった。展示面積が一気に広がり、二〇二〇年代の発掘で出た新出土品が本格的に並ぶようになった。目玉の一つが、三号坑と八号坑にまたがって出土した破片を組み合わせて復元された青銅神壇だ。

もう一つが、三号坑から出た「頂尊跪坐人像」と八号坑から出た高さ九十八センチの青銅神獣を組み合わせた復元で、これが二〇二二年末から二〇二三年初めにかけて、坑をまたいだ接合、つまり別々の坑から出た破片が一つの器物として繋がることが確認され、大きなニュースになった。合体後の高さはおよそ二メートル。神獣の背に、青銅の尊を頭に載せて跪く人物が乗っている。

考えてみてほしい。三十メートル以上離れた別の穴に投げ込まれていた破片が、三千年後に同じ一つの像として繋がった。これは埋めた人間が、一つの神像をわざわざ分解して、複数の穴に分けて捨てたことを意味する。孫華の「滅神説」を思い出すと、背筋が寒くなる話でもある。

発掘者自身の証言も残っている。陳徳安は後年のインタビューで、自分の人生をまるごと三星堆に費やしたと語っている。三十三歳で一号坑の隊長をやり、その後も三星堆遺跡工作站の站長を長く務めた。彼が繰り返し言っているのは、一九八六年のあの夏に見た光景が、その後の四十年の全部を決めてしまった、ということだ。

そして郭漢中。十六歳で無報酬で発掘現場に潜り込んだあの少年は、そのまま修復の道に進んだ。彼の手が触れていない三星堆の国宝はほとんどない、と言われるほどの立場になった。三十年以上、割れた青銅を接いで、欠けた部分を補い、歪んだ形を戻し続けてきた。二〇二〇年代の新しい発掘でも、彼は現場と修復室を行き来している。一つの遺跡が、一人の人間の少年時代から老年までを丸ごと吸い込んだわけだ。

なぜ、この遺跡はこれほど人を興奮させるのか

ここまで書いてきて、そろそろ核心を言いたい。

三星堆が特別なのは、遺物が凄いからではない。もっと凄い遺物は世界中にある。三星堆が特別なのは、「知っているはずの物語に、知らない章が挟まっていた」という体験を、極めて鮮明な形で提供するからだ。

中国の古代史は、たいていの人にとって、黄河流域から始まる一本の線として頭に入っている。夏があり、殷があり、周があり、春秋戦国があって秦が統一する。その線の周辺は「まだ文明が及んでいない地域」として、ぼんやり空白のまま処理されている。学校でもそう習うし、通史の本もだいたいそう書く。

三星堆は、その空白だったはずの場所から、いきなり同格の何かが立ち上がってきた事例なのである。しかも同格どころか、造形の異様さでは中原を圧倒している。殷の青銅器は美しいが、あそこまで人を不安にさせる形はしていない。

さらに三星堆は、その線の上に乗ってくれない。文字を残さないので、年表に書き込めない。王の名前が分からないので、系譜に接続できない。滅び方が分からないので、因果の鎖に組み込めない。整理しようとするたびに、するりと逃げる。

人間の脳は、こういう「形はあるのに意味がない」ものに対して異常に強く反応する。目玉の飛び出した顔は、明らかに何かを意味している。九羽の鳥が止まった木は、明らかに何かの世界観を表している。両手を丸めた巨人は、明らかに何かを握っていた。全部、意味があるのは確実で、その意味だけが永久に取り出せない。この構造が、人を落ち着かなくさせる。

そして落ち着かない人間は、物語を作る。宇宙人が来た。ユダヤ人が来た。夏の王族が逃げてきた。神々が敗北した。どれも、空白に耐えられない人間が生み出した、意味の代用品なんだよな。

ただ、ここが大事なところなんだが、その代用品を笑い飛ばして終わりにするのも違うと思う。宇宙人説が生まれるほどの衝撃を、あの造形は実際に持っている。そこは事実だ。学者が「合金比率は中原と同じです」と言うのは正しいのだが、その正しさは、目玉が十六センチ突き出していることの異常さを一ミリも減らさない。三星堆の凄みは、科学的に説明がついたあとも、まったく減衰しないところにある。

四十年たって、確定したことと、まだ何も分からないこと

ここからは、いま現在の到達点と、そこから見える景色を、もう少し腰を据えて書く。

まず押さえておきたいのが、二〇二六年は三星堆にとって節目の年だということだ。祭祀坑の発見から四十年。一九八六年七月十八日に楊永成の鍬が青銅に当たってから、ちょうど四十回目の夏が来た。中国のメディアはこの節目に合わせて特集を組み、世を驚かせたあとも問いは止まらない、という言い方で現状をまとめている。

この四十年で何が確定したか。整理しておく価値がある。

確定したことの一番は、規模だ。三星堆は「祭祀坑がある場所」ではなく、都市である。遺跡の総面積は約十二平方キロメートル。そのうち城壁に囲まれた城址の範囲が約三・六平方キロメートル。城内を馬牧河が東西に貫き、北側にもう一本の川が流れる。川の北には宮殿区とみられる高台があり、青関山の大型建物跡がそこにある。川の南に祭祀区があって、八基の坑はすべてこの区画に集中している。

北側には手工業の工房区が広がり、住居区が散在する。用途で区画された、計画都市だ。名前の「三星堆」自体、馬牧河の南岸に三つの土の高まりが並んでいたことに由来する。対岸の月亮湾から見ると、三つの星と月が並んでいるように見える。だから「三星伴月」という古い呼び名がある。あの土の高まりは、今では城壁の一部だったと考えられている。

二番目は、年代だ。炭素十四による測定で、祭祀坑が埋められたのは殷代後期、いまから約三千二百年前から三千年前の、比較的短い期間に集中していることが分かった。これは非常に大きい。「三星堆は何千年も続いて徐々に衰えた」のではなく、「ある短い時期に一気に埋められた」のである。八基の坑が同時期か、ごく近い時期に作られた。

だから、あそこで起きたのは日常的な儀礼の積み重ねではなく、一回的な、決定的な出来事だった可能性が高い。

三番目は、孤立していなかったということ。青銅の合金組成、鋳造技法、器種の系譜、玉器の形式、そして鋳型に使われた泥の芯の鉱物分析。どれをとっても、三星堆は当時の広域交流網の中にいた。泥芯の鉱物が長江中下流域に由来するという分析結果は特に効いていて、原材料か、あるいは技術者そのものが、長江を通じて行き来していたことを示唆する。同時に、地元様式の器物については現地産であることも確認されている。

輸入と自製が併存していた。開かれた都市だったわけだ。

四番目は、生業だ。植物考古学の分析から、稲作が主要な生業だったことが分かっている。ゾウの牙が六百本も出るような場所なので、つい熱帯的な想像をしてしまうが、基盤はまっとうな稲作農耕社会である。成都平原は肥沃で、水が豊富で、大規模な人口を養える。だからこそ、あれだけの量の青銅と金と象牙を祭祀で燃やす余裕があった。

では、確定していないことは何か。二〇二六年の四十周年に際して、研究者たちが挙げている「残る謎」のリストが、そのまま今後十年の課題になる。

一つ、青銅器はどこで鋳造されたのか。四川大学の霍巍が強調しているのがこれだ。三星堆の青銅器は、明らかに高度な鋳造技術で作られている。分鋳、鋳接、嵌め込み。これだけの規模の生産をするには、大規模な工房と、大量の燃料と、熟練した工人集団が必要だ。ところが、その工房がまだ見つかっていない。

形態や製作手段からの推測では足りず、実際の鋳造地点を掘り当てることが最終的な証拠になる、というのが霍巍の言い分である。もし城内から鋳造工房が出れば、「西方から完成品が来た」「よそで作られた」といった説はすべて消える。逆に、いつまでも出なければ、疑問はくすぶり続ける。これは今後の発掘にかかっている。

二つ、水系と都市計画。北京大学の孫華が挙げているのがこれだ。沱江水系の古代の流路が、いまとは違っていた可能性が高い。当時の川がどこを流れていたのかを復元できれば、なぜこの場所に都市を作ったのか、なぜこういう区画になったのかが説明できる。都市の骨格は、たいてい水が決める。

三つ、社会構造。あれだけの富を集中させ、あれだけの祭祀を執行した政体が、どういう仕組みで動いていたのか。王がいたのか、神官団がいたのか、両方いたのか。孫華の「滅神説」は、神権集団と世俗集団が五百年共存したあと内戦になった、という具体的な社会モデルを提示している点で野心的だ。だが、これを裏付けるには物証が要る。

四つ、そして最大の空白。墓が見つかっていない。

これは本当に不思議なんだよな。三星堆は都市であり、王権があり、あれだけの青銅器を作れる社会だった。ならば、支配層の墓があるはずだ。殷墟には王陵がある。婦好墓のような、副葬品でぎっしり埋まった墓が出ている。ところが三星堆では、高等級の墓が一基も見つかっていない。祭祀坑はある。城壁はある。宮殿らしき建物跡もある。工房区もある。なのに、王が埋葬された場所だけがない。

墓がないので、三星堆の人々の骨がほとんど手に入らない。骨がないので、DNA分析ができない。DNA分析ができないので、彼らがどこから来た誰なのかを直接には言えない。西方渡来説にも夏残党説にも決着がつかないのは、突き詰めればここに原因がある。もし王墓が一基出てきて、人骨が良好な状態で残っていたら、三星堆論争の相当部分が一晩で片付く。

だから今後の発掘で最も期待されているのは、実は派手な青銅器ではなく、墓なのである。

現在進行中の調査は、この方向を向いている。倉包包小城と呼ばれる区画、そして月亮湾の東側。祭祀区ばかり掘ってきた四十年から、都市全体を面として理解する段階に移りつつある。

もう一つ、二〇二〇年代の三星堆研究で決定的に変わったのが、方法論だ。これは強調しておきたい。

一九八六年の発掘は、テントと竹ベラと懐中電灯だった。それが二〇二〇年には、恒温恒湿のガラス室になった。この差は装備の豪華さの問題ではなく、取れる情報の種類が根本的に変わったということだ。四号坑から検出された絹の残留物は、肉眼で見えない。従来の発掘では、その土は「ただの灰」として処理され、捨てられていた。今は土そのものをサンプルとして持ち帰り、分子レベルで分析する。

七号坑の鉄片も同じで、一九八六年なら「錆びた金属片」で終わっていたはずのものが、金属組織の顕微鏡分析によって「純隕鉄」だと判明した。

つまり、三星堆は同じ場所を掘っているのに、四十年前とは違う遺跡になりつつある。青銅器のカタログを作る学問から、三千年前の人間の行為を復元する学問へ。何を燃やしたか、何を包んだか、何をどの順番で穴に入れたか。そういう「動作」が読めるようになってきた。

象牙の話に戻ると、あの六百本の保存事業は、それ自体が世界的にも例のない挑戦になっている。含水率四十パーセントの、豆腐みたいな三千年前の象牙を、崩さずに保存する技術。段階的なアルコール置換と、内部への支持体の導入。五度・湿度九十パーセントの専用庫。これは他の遺跡にも応用の効くノウハウで、中国の文物保存科学が三星堆をきっかけに一段階上がったと言っていい状況にある。

李思凡、余健、楊平といった保存担当者の名前は、青銅器を掘り出した考古学者ほどには知られないが、四十年後に象牙が残っているかどうかは彼らの仕事にかかっている。

ここで、もう一度あの坑の場面を想像してみたい。

紀元前一一〇〇年前後の、成都平原のどこか。神殿から神像が運び出される。幅一メートル四十の青銅の顔。高さ四メートルの神樹。二メートル六十の立像。象牙が何百本も積み上げられる。玉が絹に包まれて青銅の籠に収められる。金の仮面が外される。

そして火がつけられる。

青銅は溶けるほどではないが、変色し、歪む。象牙は焦げる。絹は炭化する。骨は焼かれて粉になる。その熱が収まったあと、人々は器物を叩き割り、へし折り、そして掘った穴に投げ込んだ。一つの像を分解して、別々の穴に分けて入れたものすらある。上から象牙を並べ、土をかけ、踏み固めた。

このとき、そこに立っていた人々は何を考えていたのか。信仰を捨てる決断をした集団の勝利の儀式だったのか。追い詰められた王族の最後の献納だったのか。都を移す前の、土地への返却だったのか。それとも、遠い東で殷が滅びようとしていることを知り、その戦に加勢するために国中の宝を神に差し出したのか。

分からない。そして、たぶんこれからも分からない。文字がないからだ。

でも、それでいいのかもしれないとも思う。三星堆が四十年間、中国でも世界でも人を惹きつけ続けてきたのは、答えが出ないからだ。答えが出た瞬間、あの目玉は「蚕叢王の肖像」という説明札の下に収まって、静かになる。今はまだ、あれは何者でもない。何者でもないから、こっちを見ている。

四川省広漢市の郊外に、幅一メートル三十八センチの顔が置いてある。三千年前に誰かが作り、誰かが火にかけ、誰かが土に埋めた。掘り出したのはレンガ工場の作業員で、最初に金を見つけたのは深夜二時半の考古学者で、それを直したのは十六歳で押しかけてきた少年だった。

そして今も、その顔が何を意味するのかは、誰も知らない。

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