部屋が丸ごと盗まれて、そのまま八十年見つからない。こんな雑な話が、実際にあった。
しかもただの部屋じゃない。壁一面が琥珀で出来ている。重量にして六トン。使われた琥珀の片は十万個規模。当時の人間が「世界第八の不思議」と呼んだものが、トラックに積まれて遠くへ行って、それっきりなんだ。
## 六トンの壁が、部屋ごと消えた
まず実物を想像してほしい。ロシア、サンクトペテルブルク郊外のツァーリスコエ・セロー、エカテリーナ宮殿。その一室の壁が、床から天井近くまですべて琥珀で張られている。
琥珀というのは樹脂の化石だ。色は蜜、透きとおったレモン、茶、乳白、白濁したような不透明なものまで、十数種類の色合いがある。それを切って、磨いて、モザイクのように木の下地に貼り込む。接着には松ヤニと蜜蝋を使った。融点が低いから、後で修理しやすいという理屈だ。
主要なパネルは十二枚。一枚の高さが三メートル五センチを超える。パネルの間には鏡張りの付け柱が入り、金箔を貼った木彫の装飾が囲む。蝋燭に火を入れると、鏡と琥珀が互いに光を返し合って、部屋全体が燃えているように見えたという。
これが1941年の秋、三十六時間で剥がされ、二十七個の木箱に詰められて、鉄道で西へ運ばれた。行き先はドイツ領東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルク。そこで二年半ほど展示されたのち、記録が途切れる。
後はずっと探している。ソビエトが探した。ドイツが探した。ポーランドが探した。トレジャーハンターが探し、年金生活の老人たちが探し、ダイバーが探した。見つからない。
## プロイセン王の道楽から始まった――ダンツィヒの琥珀職人たち
もともと、この部屋はロシアのものではない。プロイセンのものだった。
1701年、プロイセン王フリードリヒ一世のために、建築家アンドレアス・シュリューターが設計し、デンマーク出身の琥珀職人ゴットフリート・ヴォルフラムが作業を始めた。やがてダンツィヒ――今のポーランド、グダンスク――の琥珀職人たちが加わる。バルト海南岸は世界最大の琥珀産地で、この地域には琥珀を扱う技術が何世紀も蓄積していた。
当初の予定地はベルリンのシャルロッテンブルク宮殿だった。のちにベルリン王宮に置かれる。制作は十年以上だらだらと続いた。琥珀というのは割れやすく、大きな均質な片がなかなか取れない。壁一面を埋めるというのは、当時としては正気の沙汰だったと思う。
フリードリヒ一世が死ぬと、次の王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世が引き継ぐ。この王がものすごいケチで、「兵隊王」と呼ばれるくらい兵隊に金を使い、宮廷の資金は削りに削った人物だ。彼にとって琥珀の部屋は、さして必要なものではなかった。
## 1716年、ピョートル大帝への「贈り物」という名の取引
ロシアのピョートル大帝がこの部屋を見て、強烈に欲しがったという話が伝わる。実際、欧州をうろついて先進技術と富を集めて回っていたこの皇帝の嗜好に、これ以上ない題材だっただろう。
1716年、フリードリヒ・ヴィルヘルム一世はこの部屋をピョートル大帝に贈った。建前は友好のしるしだが、中身は同盟の固めだ。当時の北欧の国際情勢で、プロイセンはロシアと手を組んでおきたかった。お金のかかる部屋をもらってもらって、同盟が手に入るなら安いもんだと考えたとしても、責められない。
ちなみに見返りに、ピョートルは背の高いロシア兵を五十人ほど送ったとされる。フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は巨人兵を集めるのが趣味だった。部屋と巨人の交換。十八世紀の王室の価値観は正直よく分からない。
パネルは十八個の箱に詰められ、ケーニヒスベルク経由でリガへ、そこから陸路でサンクトペテルブルクへ送られた。このとき、すでにケーニヒスベルクを通っているのが、あとから思うと何とも不気味だ。二百二十五年後に同じ街に戻ってきて、そこで消えることになる。
## エカテリーナ宮殿で怪物になる――ラストレッリと十万個の琥珀
ピョートルはこの部屋を、実はあまり使わなかった。箱に入れられたまましばらく放置されていたという話もある。これを引っ張り出して本気で飾ったのが、娘のエリザヴェータ女帝だ。
彼女は宮廷建築家バルトロメオ・フランチェスコ・ラストレッリにこれを任せた。問題は、ベルリンの部屋用に作られたパネルでは、エカテリーナ宮殿の広い部屋の壁を埋め尽くせないことだった。ラストレッリは鏡を入れ、金装の木彫を入れ、フレスコ画を入れ、さらにイタリアの画家ジュゼッペ・ゾッキの下絵によるフィレンツェ・モザイクを四枚はめ込んだ。五感を擬人化した主題の、石のモザイク画だ。
完成形は圧倒的だった。壁面だけで八十六平方メートル、装飾品を含めると百五十平方メートルを超える琥珀面。使われた琥珀は十万個クラス。重量六トン。この段階で、もはやプロイセンの送った部屋とは別物になっている。
十九世紀には、すでに絶えず修復が必要な建造物になっていた。琥珀は乾燥と温度変化で剥落する。専任の修復師がつき、年中だれかが壁と向き合っていた。つまりこの部屋は、作られてから二百年、人手を食い続けてやっと存在していたということだ。
## 1941年10月、三十六時間。壁紙で隠そうとした学芸員たち
1941年6月、ドイツがソ連に侵攻する。レニングラード郊外のプーシキン市――ツァーリスコエ・セローの現地名――は、その年の秋には占領される。
宮殿の学芸員たちは、収蔵品の疎開を進めていた。だが琥珀の間だけは動かせなかった。重すぎるし、何より脆い。剥がそうとすればバラバラになる。彼らがとった手は、壁紙だった。薄い紙を上から貼って、普通の部屋のふりをさせる。
この作戦は一日ももたなかった。やってきたドイツ兵は、自分たちが何を探しているのかをちゃんと知っていた。ナチスには「クュンメル報告書」という目録があって、「もともとドイツ人が作った美術品だから取り戻すべきもの」のリストが載っていた。琥珀の間はその上位に入っていた。彼らの理屈では「略奪」ではなく「返還」なんだ。素晴らしい屁理屈だ。
作業は三十六時間で終わったとされる。二年をかけて作ったものを、二日で剥がしたわけだ。当然、丁寧な仕事ではなかっただろう。この段階ですでに相当量の琥珀が割れて剥落していたと推測されている。二十七個の箱に詰められ、鉄道でケーニヒスベルクへ。
命令を出したのは、東プロイセンの大管区指導者エーリヒ・コッハだとされる。この男は後にこの話の中心人物になるので、名前を覚えておいてほしい。
## ケーニヒスベルク城の男、アルフレート・ローデ
ケーニヒスベルク城の博物館長を務めていたのが、アルフレート・ローデという人物だ。彼は琥珀の研究者でもあった。つまり、この世でもっとも琥珀の間を愛すべき人間のところに、琥珀の間が届いた。
ローデはこれを城の一室に組み直し、一般公開した。展示は好評で、一部の研究者の記録によれば、彼はこの部屋に執心するあまり、周囲から見るとはっきり異常だったという。毎日のように部屋に入り、琥珀をなでていたという証言も伝わる。
このローデが残した文書が、推理の鍵になっている。1945年1月12日付で、彼はパネルを箱詰めしてザクセンのロヒリッツ近くのヴェクセルベルクへ避難させる準備をしていると書いている。だが、実際に送られたのかどうかは分からない。この手紙が、八十年分の宝探しの出発点になっている。
## 燃えたのか、運び出されたのか―― 1944年8月の空襲と、1945年4月の陥落
1944年8月、イギリス空軍の大規模空襲がケーニヒスベルクを焼いた。旧市街は壊滅し、城も大きな損害を受けた。この時点で琥珀の間が城内にあったなら、燃えた可能性は十分にある。琥珀はよく燃える。しかも接着剤は松ヤニと蜜蝋だ。
ただし、この前後でパネルが地下に降ろされていたという証言もある。城には十三世紀に遡る地下構造があり、空襲の隔離としては悪くない。だから「一回目の空襲は生き延びた」説も流通する。
1945年4月9日、ソ連軍がケーニヒスベルクを制圧する。市街戦は凄惨だった。戦後、ソ連側はすぐに琥珀の間の行方を探しはじめる。エカテリーナ宮殿の学芸員だったアナトリー・クチュモフらが、瘦せた街の石をひっくり返して回った。
見つかったのは、フィレンツェ・モザイクの一枚の焼け残り、琥珀の破片、といったかけらだけ。中心部のパネルは一枚も出てこなかった。
そしてアルフレート・ローデだ。彼はケーニヒスベルクに残っていて、ソ連側の聴取に応じていた。だが本格的な尋問の直前だった1945年12月、彼と妻はチフスの流行のなかで二人並んで死んだ。取り調べの前日だったとされる。何を知っていたのかは、誰も聞けないままになった。
この一件が、のちの「琥珀の間の呪い」伝説の一枚目のカードになる。
## バルト海の底説――ヴィルヘルム・グストロフ号という悪夢
数ある説のなかで、もっとも陰惨なのがこれだ。
1945年1月30日、客船ヴィルヘルム・グストロフ号が、東プロイセンの港ゴーテンハーフェンから避難民を乗せて出航した。もともとはナチスの娯楽団体が運営するクルーズ船だった。定員は千五百人程度。そこに何人乗っていたかは正確に分からないが、一万人を超えていたと推定されている。大半が女性と子供だ。
その夜、ソ連潜水艦Sー13、艦長アレクサンドル・マリネスコがこれを捕捉する。魚雷三本が命中し、船は一時間もたずに沈んだ。水温は氷点下。生還者は千人前後。海難史上最悪の死者数で、タイタニックの何倍もの人間が一晩で死んだ。
この船に、琥珀の間の箱が積まれていたのではないか。そう考える人間はだいぶ多い。ケーニヒスベルクからの避難ルートとしては自然だし、時期もローデの手紙の直後だ。
だが検証は難しい。グストロフ号の沈没位置は分かっているが、ポーランドの領海で戦争墓地として保護されており、潜水は厳しく制限されている。一万人の遺体が眠る場所を、宝探しでひっくり返すわけにはいかない。これは当然の判断だと思う。
さらに別の船の名前も挙がってきた。2020年、ポーランドのダイバーチームが、バルト海底でナチスの貨物船SSカールスルーエ号の残骸を発見したと発表した。この船は1945年4月にケーニヒスベルクから最後に出た船団の一隻で、沈没時に重い積み荷を搭載していたとされていた。ネットは一時大騒ぎになった。
結果は、空振りだった。引き上げられた木箱の中身は軍需品だった。ダイバーたち自身が「琥珀の間はここにはない」と発表している。
## 八十年の穴掘り史――銀鉱山、要塞、幽霊列車、そして老人たち
地上に隠されているという説も、バリエーションが多すぎて困る。主なものを並べると、この二世紀のヨーロッパ人の執念の地図みたいになる。
チェコ国境の銀鉱山説。ニコライ・シュトレンと呼ばれる八百年前の坑道に隠されているというもので、1990年代末から2000年代初頭にかけて、ヘルムート・ゲンゼルというトレジャーハンター、そして地元の市長ペーター・ハウシュタインが別々に探索を試みた。どちらも坑道の奥には到達できなかった。
ポーランド北東部、マメルキのナチス地下司令部説。2016年から2017年にかけて、マメルキ博物館のバルトゥォミェイ・プレバンチクが、地中レーダーで建物の下に未知の空間を検出したと発表した。世界中のメディアが飛びついた。中身は、確認されていない。
ドイツ東部、エルツ山地のドイチュノイドルフ説。2008年、地元の市長とトレジャーハンターのチームが、地下の空洞から金属反応を得たとして掘削を開始した。このときの報道は盛大だった。何も出なかった。2017年には別の三人組の年金生活者――レオンハルト・ブルーメ、ペーター・ロール、ギュンター・エックハルト――が、同じ山地の「公の洞窟」付近で探索を行い、「ブービートラップらしきものを検出した」と発表している。これも確認されていない。
ドイツ西部、ヴッパータールの地下説。カールハインツ・クライネという年金生活者が、エーリヒ・コッハの戦後の行動を追って、この街の地下に隠されたと主張した。コッハは戦後、ポーランドで死刑判決を受けながら健康上の理由で執行されず、1986年に獄中で死んだ人物だ。一説には、1950年代にロシア側の役人を連れて探索に出たこともあるという。何も見つからなかった。彼は最期まで、決定的なことを何ひとつ口にしなかった。
ポーランド南西部、ヴァウブジフの「ナチスの幽霊列車」。2015年、ドイツ人とポーランド人の二人組が、山の中のトンネルに金を積んだナチスの列車が眠っていると発表し、地元行政がブービートラップの危険を警告する事態になった。ここにも琥珀の間があるのではという話が乗っかった。列車は見つかっていない。
リトアニアの潟湖説。1998年、地元の市長が調査チームを組んで沼地を探った。何も出なかった。
このリストを眺めていて思うのは、探しているのが国家や大組織だけじゃないことだ。市長、博物館員、年金生活者。地元の人間が、自分の足元を掘っている。八十年この調子なんだ。
## 「琥珀の間の呪い」――探した者が次々に死んだ
ここからは噂の領域だ。だが噂の台帳としては、なかなか良くできている。
一枚目はすでに書いた。アルフレート・ローデとその妻の、尋問前日の死。1945年12月、チフス。当時のケーニヒスベルクは地獄のような衛生状態だったから、伝染病で死ぬのはめずらしくない。めずらしくないのに、このタイミングはできすぎている。だからこれを口封じだと見る人間は多い。
二枚目が、ゲオルク・シュタインというドイツ人だ。元兵士で、戦後はイチゴ農園を営む一方、ナチスが略奪した美術品の行方を追うアマチュア研究者として知られていた。彼は実際にいくつかの美術品の返還に貢献している。本物だ。
そのシュタインが、1987年、ミュンヘン近郊の森で死体で見つかった。裸だったとされる。腹には台所用のナイフが二本刺さっていた。公式には自殺とされている。だが彼が直前に「琥珀の間の隠匿場所を示す無線交信の記録を手に入れた」と語っていたという話がつきまとい、ここから「殺されたのではないか」説が一気に強まった。その交信記録の実物は、確認されていない。
三枚目はロシア側だ。1992年11月、ロシア軍参謀本部情報総局の副長官を務めていたユーリ・グセフが、交通事故で死亡した。のちに同僚たちの間で「あれは殺害だった」という見方が広まる。彼が琥珀の間を追うジャーナリストに何らかの情報を渡していたという噂があるが、直接の証拠はない。
四枚目。2010年、同じくロシア軍情報総局副長官のユーリ・イワノフ少将の遺体が、トルコの海岸に漂着した。公式発表は水難事故。
並べてみると、共通項は「琥珀」ではなく、「国家と情報」のところにあるのが見えてくる。ローデはナチスの略奪の内側にいた。シュタインは返還問題に首を突っ込んでいた。グセフとイワノフは、そもそも死ぬ確率の高い職業だ。呼んでいるのは琥珀じゃなくて、国家の秘密だ。
とはいえ、噂というのは合理的説明では消えない。「探すと死ぬ」という形になった瞬間、この宝探しは別のジャンルになった。
## 1997年、ブレーメンで出てきた一枚のモザイクと、親父の秘密
八十年の探索史のなかで、唯一と言っていい当たりがこれだ。
1997年、ドイツのブレーメンで、ある骨董商が一枚のモザイク画を売りに出した。フィレンツェの石モザイク。主題は「触覚と嗅覚」。ジュゼッペ・ゾッキの下絵によるもので、琥珀の間にはめ込まれていた四枚のうちの一枚だった。
警察が押収し、出所を辿った。行き着いたのは、ある男性の手元だった。彼の父親は、1941年に琥珀の間を運んだ列車の護衛についていた部隊の一員だった。つまりこの一枚は、ケーニヒスベルクに届く前の段階で、道中で抜き取られていた。
この事実は、二つのことを教える。ひとつは、運搬の過程で既にバラ売りが始まっていたこと。八十年探している「一つの完全な部屋」なんてものは、もしかしたら最初から存在しないのかもしれない。もうひとつは、持ち帰った本人は黙って死ぬということだ。息子は、自分の家にある石の絵が世界第八の不思議の破片だとは知らなかった。
このモザイクは、修復チームにとっては宝の山だった。実物がひとつでもあると、写真だけでは分からない石の選定や磨き方を確認できる。復元の精度はこれで一段上がったとされている。
## 2003年、偽物が本物の場所に置かれた日
ソ連は1979年、琥珀の間の復元を国家事業として決定した。アレクサンドル・クリロフとアレクサンドル・ジュラブリョフを中心に、レニングラードの美術学校出身の職人たちが集められた。
問題は、琥珀を扱う技術が断絶していたことだ。彼らは古い写真と記録をもとに、十八世紀の手法を一から再発明するところから始めなければならなかった。何年も試行錯誤が続いた。
1991年の時点で、ロシア政府は七百五十万ドル以上を注ぎ込んでいた。そしてソ連崩壊。完成度四割で、作業はすっかり止まりかけた。これを救ったのが、皮肉なことにドイツ企業だった。1999年、エネルギー企業ルールガスが三百五十万ドルを拠出した。ナチスが持ち去ったものを、ドイツの金で作り直す。この構図は、当時の両国の新聞でさんざん論じられた。
2003年5月、サンクトペテルブルク建都三百年の祝典に合わせて、復元された琥珀の間が公開された。プーチンとシュレーダーが並んでテープを切った。ブッシュもシラクもブレアもいた。二十四年で、部屋は戻ってきた。
だが、戻ってきたのは形だけだ。十八世紀のダンツィヒの職人が触った琥珀は、どこかにあるか、もうこの世にない。現地を訪れた人の感想を見ていると、「すごい」と「でもこれはレプリカなんだよな」が必ずセットで出てくる。人間は、同じ見た目のものでも「本物かどうか」を気にしてしまう生き物だ。
そしてその心理こそが、本物を探す人間を止められない理由だ。復元ができた今なお、ドイツやポーランドの地方では年金生活者がスコップを握っている。復元ができたからこそ、という面もあるのかもしれない。比較対象ができてしまったんだから。
## なぜ人は「燃えた」という答えを受け入れないのか
この話を追っていて、どうしても浮かんでくる疑問がある。なぜ人は、「燃えた」という答えをここまで受け入れないのか。
冷静に見れば、燃えた可能性はかなり高い。ロシア国立公文書館の機密解除文書でも、城への爆撃で大部分が破壊された可能性が高いという結論が示されていると報じられている。地下室からは焼けたモザイク装飾の一部も見つかっている。琥珀は実際、よく燃える。接着に使った松ヤニと蜜蝋も燃える。木の下地も燃える。旧市街を丸焼けにした火の中で、六トンの樹脂の化石が無事で残ると思うほうが、楽観的なんだ。
だが、人はその結論を嫌がる。これは宝探しというジャンル全体に共通する構造だと思う。宝は存在していなければならない。なぜなら、存在していない宝は探せないからだ。八十年探し続けてきた人間の人生を、「あれは1944年8月に燃えてなくなっていました」の一行で消すことは、心情的にできない。だから声は小さくならない。
もうひとつ、この話を特別にしているのは、失われたものが「部屋」だという点だ。絵画や彫刻なら、一枚のキャンバス、一つの像だ。だが部屋は内側から体験するもので、人間を包む。エカテリーナ宮殿を訪れた人間は、十八世紀から二十世紀まで、同じ部屋の同じ光のなかに立った。エカテリーナ二世も、ニコライ二世も、ささやかな旅行者もだ。その空間が丸ごと地球上から消えた。失われたのはモノではなく、場所の記憶なんだ。
## 海底に眠っているのは、宝ではなく一万人だ
そしてこの事件には、宝探しのロマンをすっと冷やす部分がある。ヴィルヘルム・グストロフ号だ。あの船に琥珀が積まれていたかどうかは分からない。だが間違いなく積まれていたのは、逃げる人間だった。一万人近い。大半が女性と子供だ。氷のバルト海で、一晩で死んだ。その海底を、宝を探すために探りたいと人は言う。保護されていて本当によかったと思う。
ちょっと別の角度からも考えてみたい。この話には、不思議なことに「悪人」がはっきりしている。ナチスが盗んだ。これは記録として確定している。だからこのミステリーは、他の多くの失踪謎と違って、モラルの方向が迷わない。探す側は常に正義でいられる。これも、この話が語り継がれる大きな理由だと思う。復讐でも復元でもなく、「返してもらう」という大義名分がある。
だがその大義名分の下で、実際に起きていることはかなり雑多だ。地主の広い庭を勝手に掘る人間がいる。地元の古い坑道に勝手に入る人間がいる。メディアは「ついに発見か」と書いて、一週間後に訂正もなく黙る。このサイクルが、八十年のあいだ何十回と繰り返されてきた。もはや一種の地域産業だという見方すらある。マメルキのナチス司令部跡は、琥珀の間探索を売りにして観光客を集めている。
## 一番怖いのは呪いじゃない、ローデの沈黙だ
それでも、と思うんだ。俺はこの話の一番怖いところは、呪いでも海底でもないと思っている。アルフレート・ローデのことだ。この男は、世界で一番この部屋を愛していた人間だった。琥珀の研究者で、毎日部屋に通っていた。その男の手元に、盗まれた部屋が来た。しかも展示することを許された。彼の二年半は、学者としては幸福の絶頂だったはずだ。
そして街が燃え、ソ連軍が来て、彼は取り調べを待つことになった。あの数ヶ月、彼が何を考えていたのかを想像すると、何とも嫌な気分になる。自分が守ろうとしたものはもうないのか。あるいは自分がどこかに逃がしたのか。その場合、それを言えば自分はどうなるのか。そして彼は、発疹チフスに倒れて、何も言わないまま妻と一緒に死んだ。八十年分の探索は、全部この沈黙の周りを回っている。
現地の今を書いておこう。ケーニヒスベルクは現在ロシア領カリーニングラードで、あの城はもうない。戦後にソ連が残骸を爆破し、跡地には長らくソビエト式の巨大な未完成建築が立っていた。城の地下の発掘は何度か行われているが、決定的なものは出ていない。エカテリーナ宮殿の復元版は今日も公開されていて、古い写真と見比べると驚くほどよく似ている。
本物の琥珀の間を見た人間は、もうほとんど生きていない。もうすぐ、ひとりもいなくなる。あの部屋は写真と記憶と復元品の中にしかなくなる。でもたぶん、探す人間は減らない。六トンの黄金色の壁が、どこかの地下で、1941年の箱に入ったまま・・・という絵は、あまりにも強すぎるんだ。この絵を脳から消す方法を、人類はまだ発明していない。
