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アナスタシア皇女は生きていた――エカテリンブルクの地下室と、アンナ・アンダーソンという女

## 1918年7月17日、午前2時過ぎ。地下室に呼び集められた11人
ウラル山脈の東側、エカテリンブルクの街に、イパチェフ館という高台の屋敷があった。元は商人の家で、ボリシェヴィキに接収されたときに周囲へ高い板塀が建てられ、窓は白いペンキで塗りつぶされた。公式名称は「特別目的の家」。何の特別目的かは、住んでいる側にもうすうす分かっていたはずだ。
7月16日の深夜、司令官ヤコフ・ユロフスキーが医師ボトキンを叩き起こした。街が騒がしい、白軍が迫っているので安全な場所へ移す、全員起こして下に降りてきてくれ、と。実際、白軍は近づいていた。この十日後にエカテリンブルクは陥落している。だからこの説明には、それらしさがあった。
一家は着替えて降りてきた。ニコライ2世、皇后アレクサンドラ、長女オリガ22歳、次女タチアナ21歳、三女マリア19歳、四女アナスタシア17歳、そして皇太子アレクセイ13歳。血友病のアレクセイは歩けず、父が抱いて階段を降りた。付き従ったのは医師ボトキン、料理人ハリトーノフ、従僕トルップ、侍女デミドワの4人。合わせて11人だ。
通されたのは半地下の一室。6メートル×5メートルほど。家具は運び出されていて、がらんとしていた。皇后が椅子を要求し、二脚が運び込まれた。皇后が座り、もう一脚にアレクセイが座った。ほかの者は立ったまま、写真撮影を待つように壁際に並んだ。侍女デミドワは枕を抱えていた。中には宝石が縫い込まれていたと言われる。
ユロフスキーが紙を取り出して読み上げた。ウラル地方ソヴィエトの決定により、あなたがたを処刑する、という趣旨だった。ニコライは振り返って家族を見て、それから司令官のほうへ向き直り、こう言ったと記録されている。「何だと。何だと」。それが最後の言葉になった。
## ダイヤモンドが弾を弾いた――20分かかった処刑
ここからが、この事件を単なる政治的処刑から、悪夢の領域に押し上げる部分だ。
ユロフスキーは事前に、実行役ひとりひとりに標的を割り振っていた。血が飛び散らないように心臓を狙え、と指示していた。合図とともに一斉射撃。ニコライは即死した。だが、そこから計画が崩れた。
娘たちは死ななかった。銃弾が跳ね返ったのだ。彼女たちのコルセットには、逃亡資金として合わせて1.3キロ以上ものダイヤモンドや宝石が縫い込まれていた。厚く重ねられた石が、簡易な防弾チョッキとして機能してしまった。撃たれた娘たちは倒れたが、まだ生きていた。
狭い部屋で十人以上が同時に発砲したせいで、漆喰の粉と硝煙が充満し、視界が完全に失われた。実行役たちは咳き込みながら外へ出て、換気を待った。戻ってきたとき、部屋の中ではまだ何人かが動き、うめいていた。
銃剣が使われた。これも効かなかった。宝石が刃を止めた。最終的には、頭部への至近距離の射撃で一人ずつ止めを刺していったとされる。全体で二十分ほどかかったという記述が残っている。
アナスタシアについては、特に生々しい記述がある。遺体を運び出しているとき、担架の上の彼女が突然叫んだ、というのだ。生きていた。そこで殺された。この一場面が、のちの「生存説」の巨大な燃料になる。撃たれても死ななかった娘。刺されても死ななかった娘。運び出されるときにまだ生きていた娘。ここまで来ると、逃げ延びたと考えたくなる人間が出てきても、正直なところ責められない。
## 硫酸と、坑道と、豚の谷
遺体の処理が、また異様だった。
トラックに積まれた遺体は、街の北の森へ運ばれた。「四人兄弟」と呼ばれる古い坑道跡、いまガニナ・ヤマと呼ばれる場所だ。ここで衣服が剥がされ、コルセットから宝石が出てきた。実行部隊はそこで初めて、なぜ弾が効かなかったのかを理解したという。遺体は坑道に投げ込まれ、手榴弾で崩落させようとしたが、うまく埋まらなかった。
翌日、ユロフスキーは場所を変える決断をする。あの坑道はもう地元の人間に知られている。掘り返される。遺体はいったん引き上げられ、別の場所へ運ばれた。途中でトラックがぬかるみにはまった。コプチャキ村への旧道、ポロセンコフ・ログ――「豚の谷」と呼ばれる湿地だ。
ここで彼らは方針を変えた。全員を一つの穴に埋めるのはやめ、二体だけを別に処理することにした。数が合わなければ、たとえ見つかっても皇帝一家だと断定されにくい、という計算だったとされる。二体は焼かれ、残りの九体は1.8メートル×2.4メートルほどの浅い穴に投げ込まれた。
そして硫酸だ。顔が識別できなくなるよう、遺体に酸がかけられた。歯も破壊された。上から枕木が敷かれ、トラックを何度も往復させて地面を固めた。
この一連の隠蔽が、七十年以上にわたって「誰が死んだか分からない」状態を作り出した。ソヴィエト政府の当初の公式発表もまた、火に油を注いだ。1918年7月の発表では、処刑されたのはニコライだけであり、家族は「安全な場所に移された」とされていたのだ。あとで撤回されるのだが、一度出た情報は消えない。皇后と子どもたちは生きている、と世界中の新聞が書いた。
## 生存説は、実は最初から用意されていた
だからこの話は、アンナ・アンダーソンが現れるより前に、すでに始まっている。
遺体が公開されていない。埋葬地が公表されていない。政府の発表が二転三転している。亡命ロシア人のコミュニティには、これだけの材料が揃っていた。しかも彼らには、生存を信じたい強烈な動機があった。皇帝一家が全滅したなら、ロマノフ王朝は終わりだ。だが誰か一人でも生きているなら、まだ物語は続く。
最初期の噂は「アレクセイが生きている」というものだった。皇太子だからだ。だが、血友病の少年が過酷な逃亡を生き延びるイメージは湧きにくい。一方、17歳の末娘は違った。アナスタシアは家族の中でもいたずら好きで、明るく、「シュヴィブジク」(いたずらっ子)というあだ名で呼ばれていた。使用人の椅子に画鋲を置いたとか、木に登って降りてこなかったとか、そういう逸話が伝わっている人物だ。
この子なら逃げるかもしれない。そう思わせる何かが、彼女にはあった。
実際、アナスタシアを名乗った人物は少なくとも30人以上いたとされる。ブルガリアのエレオノーラ・クリューゲル、ロシアのナジェージダ・ワシリエワ。中には明らかに精神を病んでいた人もいれば、露骨な詐欺目当ての人もいた。ほとんどは数年で消えた。ただ一人を除いて。
## 1920年2月、ベルリンの運河から引き上げられた女
1920年2月、ベルリン。ランドヴェーア運河にかかるベンドラー橋から、若い女が飛び降りた。巡回中の警官が引き上げた。エリーザベト病院に運ばれたが、命に別状はなかった。
問題は、この女が一切名乗らないことだった。身分証もない。名前を訊いても答えない。どこから来たのかも言わない。ただ黙っていた。警察は身元不明者として扱い、六週間後、ベルリン郊外ダルドルフの精神病院へ送った。カルテに書かれた名前は「Fräulein Unbekannt」――氏名不詳嬢。
彼女はここに二年以上いた。体には多数の傷跡があった。頭部に一つ、胸に一つ、足に一つ。銃創のようだと言う医師もいれば、そうでもないと言う医師もいた。
看護師たちの証言によれば、彼女はドイツ語を話したが訛りがあり、ロシア語も理解しているようだった。ある看護師は「彼女はロシア語を母語のように話した」と後に証言している。この点は後年、猛烈に争われることになる。反対派は「彼女は生涯、ロシア語を書けなかったし、まともに話せなかった」と主張した。
転機は1921年秋に訪れる。病室に持ち込まれた雑誌に、ロマノフ一家の写真が載っていた。彼女はそれをじっと見つめ、看護師にこう訊いたという。皇帝の一番下の娘に、私は似ていないかしら、と。
そして、同じ病棟にいたクララ・ポイテルトという女性患者が、これに飛びついた。彼女はもともと熱心な帝政支持者で、退院後、亡命ロシア人社会に触れ回った。ダルドルフに大公女がいる、と。最初、彼女が言っていたのはタチアナ大公女だった。
## 「タチアナにしては背が低すぎる」
亡命ロシア人たちが見に来た。ここから半世紀に及ぶ大混乱が始まる。
最初に来たのは、皇后の女官だったブクスヘーヴデン男爵夫人だ。彼女はベッドの女を見て、こう言い放った。「タチアナにしては背が低すぎる」。そして「この人は大公女ではない」と結論して帰った。この一言で「タチアナ説」は消え、代わりに「アナスタシア説」が浮上する。アナスタシアは姉たちより背が低かったからだ。
そこからは、証言が真っ二つに割れ続ける四十年になる。
信じた側の筆頭が、ボトキン家だ。イパチェフ館で一家と共に殺された侍医エフゲニー・ボトキンの子どもたち。娘のタチアナ・ボトキナは彼女に会い、アナスタシアだと確信した。ただし記憶が抜け落ちていて、話し方も変わっている、とも書いている。息子のグレプ・ボトキンは、生涯をかけた擁護者になった。アメリカへ渡り、彼女を呼び寄せ、ロマノフ家の人々に激烈な非難の手紙を送りつけ、弁護士エドワード・ファロウズを雇ってイングランド銀行にあるとされる皇帝の遺産の請求まで始めた。ファロウズはこの件に残りの人生を注ぎ込み、何も得られずに死んだ。
1928年、パリを経由したときには、皇帝の従兄弟にあたるアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公が彼女と会い、本人だと認めた。彼は詳細な報告書まで書いている。
否定した側の筆頭は、家庭教師ピエール・ジリアールだ。彼はロマノフ家の子どもたちに十三年間フランス語を教え、シベリア流刑にも同行した人物で、これ以上ないほど近くから彼女たちを見ていた。彼は最初、興味を持って面会した。だが途中で完全に態度を変え、『偽アナスタシア』という本まで書いて叩き潰しにかかった。彼は彼女を「下品な山師」「一流の女優」と呼んだ。
## オリガ大公女の面会――「私の心はあの子だと言っている」
証言の中で、一番切ないのがこれだ。
1925年、皇帝ニコライの妹であるオリガ・アレクサンドロヴナ大公女が、病床の彼女に会いに来た。アナスタシアにとっては叔母であり、子どもの頃から可愛がってくれた人だ。ロマノフ家の中でも、姪の顔を最もよく知っている一人と言っていい。
このときの彼女は結核で衰弱し、ほとんど死にかけていた。オリガは四日間、通い続けた。ベッドサイドに座り、話しかけ、手を握った。花を持ってきた。帰国後に贈り物まで送っている。
そして、私的な場ではこう漏らしたとされる。「頭では違うと分かっている。でも私の心は、あの小さい子がアナスタシアだと言っている」。
この一文が、生存説の心臓部になった。もっともよく知る人間が、否定しきれなかった。
ただし、オリガはその後、公にはっきりと否定に回っている。理由として彼女が挙げたのは、年齢に見合わない老け方、顔の造作の違い、そして何より、二人きりで話しても一つも決定的な思い出が出てこなかったことだった。支持派はこれを「ロマノフ家の圧力に屈した」と言う。否定派は「最初の情は同情にすぎず、冷静になって判断しただけだ」と言う。どちらの解釈も、いまだに生き残っている。
## 1927年、新聞が突きつけた名前
1927年3月、ベルリンの新聞が爆弾を落とした。この女の正体は判明した、名前はフランツィスカ・シャンツコフスカ、ポーランド系の元工場労働者である、と。
調査したのは私立探偵マルティン・クノップだった。依頼主はロマノフ家に近い側だとされる。彼が突き止めた筋書きはこうだ。フランツィスカは1896年生まれ。ベルリンの軍需工場で働いていたが、1916年に手榴弾を取り落とす事故に遭い、頭部に負傷して同僚が目の前で死んだ。以後、精神を病んで施設への出入りを繰り返した。そして1920年初め、彼女は下宿から姿を消す。運河から女が引き上げられたのと、ほぼ同じ時期だ。
証言者として登場したのが、下宿の大家の娘ドーリス・ヴィンゲンダーだった。彼女はフランツィスカの服の特徴を細かく語り、後にアンナ・アンダーソンと対面して「この人です」と証言した。
そして1938年、法廷絡みで、シャンツコフスキ家の兄弟姉妹が呼ばれて対面させられる場面まで用意された。ここが妙なんだよな。弟のフェリックスは、最初「姉だ」と口にしたと伝えられている。ところが、宣誓供述書への署名を求められると拒否した。妹たちも決定的な言葉を避けた。もし本物のアナスタシアを詐称者だと証言すれば偽証罪になる、というプレッシャーがあったとも言われるし、逆に、家族には家族の事情があったとも言われる。結局この対決は決着をつけなかった。
支持派は言った。家族が姉だと断言できないのは、本人ではないからだ。否定派は言った。フェリックスは一度認めたじゃないか。どちらも一理ある。この事件は、ずっとこうだ。
## ドイツ史上最長の裁判、三十二年
1938年、彼女は正式に裁判を起こした。ロマノフ家の遺産分配に対する異議申し立てという形だ。以後、この訴訟は1970年まで続く。二十世紀のドイツの民事裁判で、最長記録とされている。三十二年だ。
法廷には信じがたい量の「科学」が持ち込まれた。人類学者オットー・レッヘ博士は、アナスタシアとアンナ・アンダーソンの写真を重ね、顔面の計測点を比較して「同一人物か、一卵性双生児以外にあり得ない」という趣旨の鑑定を出した。筆跡鑑定家ミンナ・ベッカー博士も、二人の筆跡は同一人の手によるものだと結論した。
身体的特徴も争点になった。彼女の両足には外反母趾があり、しかも左右非対称の特殊な形だった。アナスタシアの侍医の記録に同じ特徴が記されている、という主張が持ち出された。耳の形も比較された。耳の輪郭は指紋に近い個人識別性を持つとされていたからだ。支持側は「十七の特徴点が一致した」と主張し、否定側は「三人の識別専門家が、二人の耳は明確に別物だと指摘している」と反論した。
結局、1970年、西ドイツの連邦通常裁判所が最終判断を下した。原告は自らがアナスタシア大公女であることを証明できなかった。ただし――ここが肝心なんだが――彼女がアナスタシアでないことも証明されていない、とされた。つまり引き分けだ。三十二年かけて、裁判所は「分からない」と言ったわけだ。
この結論が、彼女を伝説に押し上げた。裁判に負けたのに、否定されなかった。この宙ぶらりんの状態が、その後二十年以上続く。
## 猫が屋敷を埋めた――ヴァージニアでの晩年
1968年、彼女は突然アメリカへ渡った。招いたのはジョン・マナハン、通称ジャックという系譜学者で、ヴァージニア大学で教えていた男だ。同じ年の12月23日、二人は簡素な民事婚を挙げた。彼女は70前後、彼は二十歳ほど年下だった。
シャーロッツヴィルでの生活は、控えめに言っても異様だった。二人は別々の寝室で暮らした。屋敷は猫で埋まった。数十匹という証言がある。庭は荒れ、悪臭が近隣から苦情を受け、最終的には行政と法的な揉め事にまで発展した。マナハンは意に介さなかった。彼は自分のことを「大公になる予定の男」と冗談めかして名乗り、街の変人として有名になった。
一度、彼女が施設に収容されそうになったとき、マナハンが病院から彼女を連れ出して三日間ヴァージニア州内を逃げ回るという騒動も起きている。地元紙が大きく報じた。
この時期の彼女を見た人々の証言は、はっきり二つに割れる。近所の人の中には「あれはどう見てもただの精神を病んだ老女だ」と言う人がいた。一方で、訪ねてきたジャーナリストや歴史家の中には、彼女の物腰や、突然発揮される尊大な態度に呑まれた人もいた。作家のピーター・カースは長期取材の末、1983年に彼女を主題にした大部の伝記を書き、生存説に大きく肩入れした。この本がベストセラーになったことで、1980年代のアメリカでは「アナスタシアは生きている」がほとんど常識に近い扱いになった時期すらある。
1984年2月12日、彼女は肺炎で死んだ。遺体はその日のうちに火葬された。灰はドイツのゼーオン城の教会墓地に埋められた。
そして、この火葬こそが、あとで巨大な意味を持つ。遺体が残っていないなら、DNA鑑定はできない。永遠に。誰もがそう思った。
## 1991年、豚の谷の穴が開いた
話を戻す。ロシア側の展開だ。
1979年5月30日から31日にかけて、二人の男がポロセンコフ・ログの地面を掘っていた。地質学者のアレクサンドル・アヴドーニンと、映画監督のゲリー・リャボフ。彼らはユロフスキーが残した手記の写しを手がかりに、独力で埋葬地を探し当てた。掘ると、頭蓋骨が出た。
だが1979年のソ連では、これを公表することは自分の人生を終わらせることを意味した。二人は頭蓋骨を穴に戻し、埋め直し、十年間黙っていた。1989年、ペレストロイカの空気の中で、リャボフがついに公表する。
1991年7月、正式な発掘が行われた。出てきたのは九体分の遺骨だった。皇帝、皇后、娘三人、そして侍医と使用人三人。合計十一人のはずが、二人足りない。アレクセイと、娘のうち一人だ。
ここでもう一度、世界が沸いた。娘が一人足りない。しかもどの娘かは、当初はっきりしなかった。ロシアの専門家はマリアが足りないと言い、アメリカの専門家はアナスタシアが足りないと言った。生存説の支持者にとっては、これ以上ない追い風だった。
1993年から翌年にかけて、イギリス内務省法科学局のピーター・ギルらのチームがDNA鑑定を行った。皇后とその子どもたちのミトコンドリアDNAは、母系をたどって照合できる。提供したのはエディンバラ公フィリップ殿下だった。彼の母方の系譜は皇后アレクサンドラと同じヴィクトリア女王に行き着く。一致した。九体は皇帝一家と従者たちのものだと確認された。
1998年7月17日、殺害から八十年後の同じ日に、遺骨はサンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク要塞、聖エカテリーナ礼拝堂に国葬で埋葬された。
## 1994年、髪の毛と、腸の一片
そしてアンナ・アンダーソンだ。火葬されて、何も残っていないはずだった。
ところが、残っていた。
1979年、彼女はシャーロッツヴィルのマーサ・ジェファーソン病院で腸閉塞の手術を受けていた。このとき摘出された組織の一部が、病理標本としてパラフィンブロックに封入され、病院の倉庫に保管されたままだったのだ。誰も捨てていなかった。
さらに、彼女の遺品の中から髪の毛が見つかった。夫マナハンが残した本に挟まっていた、という経緯が伝わっている。
1994年、ピーター・ギルのチームがこれを分析した。同じ手法だ。ミトコンドリアDNAを取り、比較する。
結果は、残酷なほど明快だった。
組織サンプルと髪のミトコンドリアDNAは互いに一致した。同一人物のものだ。そしてそれは、皇帝一家の遺骨とは一致しなかった。フィリップ殿下とも一致しなかった。彼女はロマノフではない。
では誰か。ここで照合されたのが、カール・マウハーという人物のDNAだった。フランツィスカ・シャンツコフスカの姉の孫にあたる人だ。母系でつながっている。
一致した。
1927年に新聞が突きつけた名前が、六十七年後に正しかったと証明された。運河から引き上げられた女は、ポーランド系の元工場労働者フランツィスカ・シャンツコフスカだった。手榴弾の事故で頭を打ち、精神を病み、家族から消えた女性だ。彼女は半世紀にわたって皇女を演じ切り、それを信じた人々の人生を巻き込み、そして誰にも打ち明けずに死んだ。
2007年8月、ポロセンコフ・ログから少し離れた場所で、残る二体分の骨片44点が見つかった。焼かれ、砕かれていたが、DNAは取れた。アレクセイと、もう一人の娘。翌年以降の複数の研究機関による検証で確定した。皇帝の四人の娘は、誰一人として生き延びていない。
## それでも、この話が終わらない理由
科学的には終わった。1994年と2007年で、議論の余地は消えた。それでも、この話は終わっていない。
ネット上の反応を見ていると、面白い分岐がある。ひとつは「サンプルが汚染されていた」「冷戦後のロシア政府が政治的に決着させたかった」という定番の異議申し立て。これは1994年直後から現在まで、判で押したように繰り返されている。もうひとつ、こちらのほうが多いのだが、「本物じゃないと分かった上で、なおアンナ・アンダーソンという人物に興味がある」という反応だ。
実際、そっちのほうが面白い。もし彼女がフランツィスカだったなら、こう考えざるを得ない。工場で頭に大怪我を負い、精神を病み、身寄りから消えた一人の労働者階級の女が、ヨーロッパ中の貴族と学者を半世紀にわたって振り回した。専門家の顔面計測を突破し、筆跡鑑定を突破し、大公に本物だと言わせ、皇帝の妹に「心はあの子だと言っている」と言わせた。ドイツの最高裁に「否定もできない」と言わせた。
これは詐欺として見ても、演技として見ても、常軌を逸している。彼女は最後まで金銭的にほとんど得をしていない。イングランド銀行の遺産は幻だった。晩年は猫だらけの荒れた家で暮らした。得たのは、ただ「誰かであること」だけだ。
名前を失った人間が、他人の名前を掴んで五十年離さなかった。そう考えると、この話はもうロマノフの話ですらない。
## なぜ人々は、彼女に生きていてほしかったのか
最後に、この件の一番大事なところを書いておく。なぜ人々はアナスタシアの生存を求めたのか。
第一に、殺され方があまりに酷かったからだ。政治的に処刑された君主なら、歴史にいくらでもいる。だがイパチェフ館の地下室で起きたことは、処刑というより虐殺に近い。17歳と19歳と21歳と22歳の娘たち、そして歩けない13歳。銃弾が跳ね、煙が充満し、銃剣が刺さらず、二十分かかった。人はこの映像を頭に入れておくことに耐えられない。誰か一人でも逃げたことにすれば、耐えられる。
第二に、遺体がなかったからだ。人間の心は「見ていない死」を受け入れられないようにできている。行方不明の家族を何十年も探し続ける人がいるのと同じ構造だ。ソヴィエト政府は識別されないために硫酸を使ったが、その隠蔽が皮肉にも、七十年分の希望の余地を作ってしまった。隠せば隠すほど、生きていることになる。
第三に、亡命者たちには物語が必要だったからだ。革命で全てを失い、パリやベルリンでタクシーの運転手をしていた元貴族たちにとって、「皇女が生きている」は単なる噂ではなかった。自分たちの世界がまだ完全には終わっていないという証明だった。だから彼らは検証よりも希望を選んだ。責める気にはなれない。
第四に、大衆文化が完璧に増幅したからだ。1956年、イングリッド・バーグマン主演の映画『追想』が公開され、彼女はこの役でアカデミー主演女優賞を獲った。1997年にはアニメ映画『アナスタシア』が作られ、皇女は魔法とロマンスの世界を生き延びる。この二作を見た人の数は、DNA鑑定の論文を読んだ人の数より何千倍も多い。物語は、いつだって証拠より速く、遠くまで走る。
この一件を通しで追って、いちばん引っかかったのは1918年7月のソヴィエト政府の発表だ。「処刑したのはニコライのみ。家族は安全な場所に移した」。この一文が全部の元凶なんだよな。
なぜ彼らは嘘をついたのか。理由はいくつか考えられる。まず、女子供と病気の少年まで皆殺しにしたと発表すれば、国際世論が持たない。当時のボリシェヴィキはドイツとの関係も微妙で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は皇后アレクサンドラの従兄だった。ドイツ側が皇后と娘たちの身柄を求めてくる可能性があった。カードとして生かしておいたことにするほうが、外交的に有利だった。次に、単純に指揮系統の問題だ。処刑がモスクワの明確な指令なのかウラル地方ソヴィエトの独断なのかは、いまでも議論がある。責任の所在をぼかす必要があった。
理由はどうあれ、結果として国家が公式に「家族は生きている」と言ってしまった。この一行から、三十人以上の詐称者が生まれ、一人の女が五十年を演じ切り、映画が作られ、二十世紀最長級の民事訴訟が起きた。嘘というのは、これほど長く走る。
もう一点、公平を期して書いておきたいことがある。アンナ・アンダーソンを支持した人々を、私は笑えない。彼らはただの素朴な人ではなかった。人類学者オットー・レッヘは当時の第一人者だったし、筆跡鑑定のミンナ・ベッカーも同様だ。二人とも法廷で職業生命を賭けて「同一人物である」と証言した。皇帝の従兄弟アンドレイ大公は、詳細な報告書を書いて本人だと認めた。彼らは間抜けだったのではない。当時使えた技術――顔面計測、筆跡、耳の形、足の変形、記憶の照合――は、どれも百パーセントには届かない道具だったというだけだ。そしてその道具しかない時代には、それらしい結論がいくらでも出せてしまった。
ここに教訓がある。DNAが登場するまで、「その人が誰か」を確定する手段は、実は驚くほど脆弱だった。1994年より前の世界では、他人になりすますことは今よりずっと簡単だったんだ。そう考えると、アンナ・アンダーソンは特別に才能があった詐称者というより、時代が許した最後の大物なのかもしれない。彼女以降、この規模のなりすましは技術的に不可能になった。
そして最後に、フランツィスカ・シャンツコフスカという人物のことを考えたい。彼女には実在の人生があった。1896年にポーランド系の農家に生まれ、ベルリンに出て軍需工場で働いた。1916年、手榴弾を落とす事故があり、頭部を負傷し、目の前で同僚が死んだ。以後、彼女は繰り返し施設に出入りするようになる。婚約者は戦死したという記録もある。1920年初頭、彼女は下宿から姿を消した。家族は捜索願を出していた。
その数週間後、名前を持たない女がベルリンの運河から引き上げられた。私は、彼女が計算ずくで皇女を演じ始めたとは思っていない。ダルドルフの病室で雑誌の写真を見つめ、「私は似ていないかしら」と看護師に訊いた瞬間、彼女が何を考えていたのかは誰にも分からない。詐欺の第一手だったのかもしれないし、壊れた頭が本気でそう感じたのかもしれない。ただ確かなのは、周りの人間が猛烈な勢いでその答えを埋めにきた、ということだ。彼女は否定しなかった。それだけで、あとは他人が全部やってくれた。クララ・ポイテルトが触れ回り、亡命貴族が押しかけ、新聞が書き、弁護士が動き、映画会社が権利を買った。
名前を失った女が、皆が探していた名前を差し出された。断る理由が、どこにあっただろう。
エカテリンブルクのイパチェフ館は、1977年に取り壊された。指示を出したのは当時の州党第一書記、後の大統領ボリス・エリツィンだったとされる。巡礼地になるのを恐れたのだ。跡地には現在、血の上の教会という巨大な聖堂が建っている。あの地下室があった場所の真上に、祭壇がある。隠すために壊した建物の上に、記念するための建物が建った。ロシアらしいと言えばロシアらしい。
運河から引き上げられた女の灰は、いまもドイツのゼーオン城の教会墓地に埋まっている。墓石には、アナスタシアの名が刻まれている。DNA鑑定のあとも、そのままだ。誰も削っていない。

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