千年前に書かれた世界最古の長編小説。その作者の名前を、私たちは知らない。正確には、知っているつもりでいる。紫式部。だがこれは本名じゃない。宮仕えのときのあだ名みたいなものだ。しかも彼女が書いたという原本は、一枚も、一行も残っていない。ゼロだ。この話はそこから始まる。
- まず、この物語には「原本」が一枚も存在しないという話から
- 作者の本名すら、いまだに確定していない
- 生年も没年も、研究者の数だけ説がある
- 寛弘五年十一月一日、酔った公任が几帳の向こうから声をかけた
- 紙が、とにかく高かった――誰が六百枚を出したのか
- 御冊子つくりの夜――千年前の写本制作現場
- 二十年後の少女――『更級日記』が伝える「五十余巻」
- 五十四という数は、いつ決まったのか
- 「輝く日の宮」――冒頭に空いている、大きな穴
- 巣守、桜人、狭筵――五十四帖の外にあった巻たち
- 定家、写す――青表紙本という「決定版」の誕生
- 河内本という対抗馬、そして「別本」という雑多な箱
- 二〇一九年十月八日、京都の記者会見場
- その一冊が、どこをどう旅してきたか
- そして「最古の写本」報道は、静かに訂正された
- 古注が伝える、父・藤原為時の代作説
- 道長関与説――写本に筆を入れた男
- 宇治十帖は娘が書いた――一条兼良から与謝野晶子まで
- 武田宗俊の帖分け――紫上系と玉鬘系という切断
- 統計が本文に踏み込んだ日――安本美典の十二項目
- 助動詞を数える――村上征勝と計量文献学の時代
- そして、統計は統計によって反証された
- 中世の人々は、この物語を本気で怖がっていた
- 石山寺の伝説と、能『源氏供養』の紫式部
- 女たちは、この物語をどう読んだか――『無名草子』の証言
- なぜ、この謎は千年たっても解けないのか
- それでも、一人の女が書いたと考えるのが一番自然だと思う理由
まず、この物語には「原本」が一枚も存在しないという話から
いきなり足元をすくうようで悪いが、大前提を確認しておきたい。『源氏物語』の作者自筆本は、この世に一枚も現存しない。断簡すらない。紫式部が墨をつけて書いたであろう紙は、千年のあいだにきれいさっぱり消えた。
これがどれだけ異常なことか。たとえば藤原道長の日記『御堂関白記』は、道長本人が書いた自筆本が京都の陽明文庫に残っている。国宝だ。藤原定家の日記『明月記』も自筆本が現存する。同時代の男たちの生々しい肉筆は残っているのに、同時代最大の文学作品の肉筆は跡形もない。
じゃあ私たちが読んでいる『源氏物語』は何なのか。答えは「写しの写しの写しの写し」である。人の手で書き写され続けたテキストだ。しかも書き写す人間は、間違える。読み間違える。勝手に直す。わかりやすくしてしまう。飛ばす。二度書く。千年もそれを繰り返せば、当然、本文はどんどんズレていく。現存する最古級の写本ですら、成立から二百年近く後のものだ。
つまり私たちは、失われた原本の影を、無数の写本の重なりごしに透かし見ているにすぎない。作者論も成立論も、この「影を見ている」という一点の上に組み立てられている。千年解けない謎の根っこは、まずここにある。
作者の本名すら、いまだに確定していない
紫式部というのは女房名だ。父・藤原為時が式部丞という官職に就いていたので「藤式部」と呼ばれ、それがのちに『源氏物語』の若紫にちなんで「紫式部」に転じたとされる。要するに職場でのニックネームである。
平安中期、身分のある女性を本名で呼ぶことは、まずなかった。記録に実名が残るのは、后妃や内親王、あるいは正式に叙位を受けた高位の女官くらい。藤原詮子や源倫子の名が古記録から確認できるのは、彼女たちが記録に残るような立場にいたからだ。紫式部は受領階級の娘で、中宮の女房。系図には「女子」としか書かれない層である。
それでも本名を突き止めようとした人がいる。古代学の権威、角田文衛だ。角田は一九六三年、『古代文化』誌上に「紫式部の本名」を発表し、藤原香子ではないかと提唱した。根拠は道長の日記『御堂関白記』寛弘四年正月二十九日条の「掌侍有り。藤香子を以つて任ぜらる可しといへり」という記事。さらに藤原行成の日記『権記』の同年二月五日条にも掌侍藤原香子の任官が見える。
この時期に彰子のまわりにいて掌侍相当の待遇を受けそうな女房は、紫式部以外に見当たらない――というのが角田の論だ。読みは「かおるこ」あるいは「たかこ」だろうとした。
学界は沸いたが、反論も即座に出た。今井源衛は一九六五年、『国語国文』に「紫式部本名香子を疑う」を書き、掌侍が七名だという前提に確証がないこと、香子がその七名以外の人物である可能性、『御堂関白記』の記事が伝聞形式であることなどを列挙して切り崩しにかかった。
もし紫式部が掌侍という律令上の公的地位を持っていたなら、勅撰集や系譜類に「紫内侍」や「式部内侍」として痕跡が残るはずなのに、まったく見えないという指摘も出た。萩谷朴は『紫式部日記全注釈』で「必ずしも捨て難い」と好意的だったが、大勢は否定に傾いた。
そして何より、角田本人が後年『日本の女性名』のなかで「この問題を決定的に解明するきめ手は見いだされていない」と書いている。提唱者自身が白旗に近い留保をつけているのだ。国語辞典や人名事典の類が「本名は不詳。香子とする説があるが疑わしい」といった書き方に落ち着いているのは、そういう事情による。
生年も没年も、研究者の数だけ説がある
本名がわからないなら、せめて生没年を、と思うだろう。これも駄目だ。
生年からいこう。天禄元年(九七〇年)説を唱えたのは今井源衛と稲賀敬二。今井は『紫式部日記』に目の不調とも取れる記述があることから、老眼が始まる四十歳前後という逆算をした。天禄三年(九七二年)説は小谷野純一。天延元年(九七三年)説は岡一男と角田文衛。天延二年(九七四年)説は萩谷朴。天延三年(九七五年)説は南波浩。
天元元年(九七八年)説は古く安藤為章の『紫家七論』にさかのぼり、与謝野晶子や島津久基が支持した。寛弘五年に三十歳くらいだったろうという推定に基づく。八年もの幅があって、どれも決め手を欠く。
没年はもっとひどい。長和三年(一〇一四年)二月とする岡一男説。長和五年(一〇一六年)頃とする与謝野晶子説。これは『小右記』に見える父・為時の出家を、近しい身内の死と結びつけたものだ。寛仁三年(一〇一九年)とする萩谷朴・今井源衛の説。治安元年(一〇二一年)とする説。万寿二年(一〇二五年)以後とする安藤為章説。
これは『栄花物語』「楚王の夢」で娘の大弐三位が後冷泉天皇の乳母になった時点で母も生きていたと読むもの。そして長元四年(一〇三一年)とする角田文衛説。
つまり没年の候補は十七年も散らばっている。四十代で死んだのか、六十近くまで生きたのか。それすら決まらない。世界文学史上の巨人の生涯が、この解像度でしか見えない。ここが出発点だと知っておいてほしい。
寛弘五年十一月一日、酔った公任が几帳の向こうから声をかけた
とはいえ、動かせない一点はある。成立の下限だ。
寛弘五年(一〇〇八年)、藤原道長の邸宅・土御門殿。中宮彰子が九月十一日、三十時間を超える難産の末に敦成親王を産んだ。のちの後一条天皇である。道長にとっては待ちに待った外孫だ。十一月一日、生後五十日を祝う「五十日の祝い」が催された。夜が更け、酒がまわる。男たちの声が大きくなる。几帳のうしろで、女房たちが息をひそめている。
そこへ左衛門督――藤原公任がやってきた。当代随一の文化人だ。「三舟の才」の逸話で知られる、漢詩も管絃も和歌もこなす男。その公任が、几帳のあいだからこう声をかけた。
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」
失礼、このあたりに若紫さんはいらっしゃいますか。粋な呼びかけである。『源氏物語』の巻名であり、紫の上の少女時代の呼び名でもある「若紫」で、作者を呼んだのだ。当時、物語というジャンルは漢詩や和歌より格下と見られていた。その世界で頂点にいる公任が、大勢の前で「自分も読者です」と明かしたに等しい。
ところが式部は応じなかった。日記にはこうある。「源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり」。光源氏に似た人もいらっしゃらないのに、まして紫の上がいるわけないでしょう、と聞き流した。
この短いやりとりが、『源氏物語』成立をめぐる最重要の一次資料になっている。寛弘五年十一月一日の時点で、「若紫」の巻はすでに書かれ、宮廷の男たちのあいだで読まれ、巻名だけで冗談が通じるほど流通していた。ここが動かない下限だ。逆にいえば、動かせるのはここだけなのである。
紙が、とにかく高かった――誰が六百枚を出したのか
現代人がつい忘れることがある。平安時代、紙は途方もない貴重品だった。
平安京の一条通には紙屋院という役所があり、紙はもっぱら公文書用に管理されていた。一般に自由に流通する商品ではない。受領が任国から税として徴収した紙の余りが、都の権力者に献上される。そういう世界だ。道長が越前紙をはじめ良質の紙を大量に受領から貢進され、それを蔵に積んでいたことは『御堂関白記』からも見て取れる。
では『源氏物語』を書くのに、紙は何枚必要だったのか。歴史学者の倉本一宏が試算している。全五十四巻、数え方にもよるが総字数は九十四万三千百三十五字。一枚の紙を四半本として四丁とすれば一紙から八頁が取れ、一頁十行、一行二十字なら一紙で千六百字。したがって清書だけで六百十七枚。
内訳は「桐壺」から「藤裏葉」までの第一部が四十三万九千四百六十五字で二百九十一枚、「若菜上」から「幻」までの第二部が十九万三千八百五十一字で百二十五枚、「匂兵部卿」から「夢浮橋」までの第三部が三十万九千八百十九字で二百一枚。仕立て方を変えて袋綴にし、表だけに四百字を書く方式なら二千三百五十五枚が必要になるという。
書誌学の側からも似た推計が出ていて、全紙判で五百七枚、実際の制作には二千枚以上という数字が示されている。しかもこれは完成稿の清書分だけだ。下書き、書き損じ、推敲、書き直し。実際に消費された紙はこの何倍かになる。
受領の娘が、夫を疫病で亡くした未亡人が、個人の財力でそれを揃えられるはずがない。ここから、ある推論が出てくる。誰かがスポンサーだった、という推論だ。倉本は、『源氏物語』ははじめから道長に執筆を依頼され、料紙の提供を受けて書き起こされたものと考えたい、としている。数え十二歳で入内した彰子のもとに一条天皇の足が向かない。焦った道長が、天皇を彰子のもとへ引き寄せる餌として物語を発注した。
続きが読みたければ彰子のところへ来い、というわけだ。そう考えると、寛弘三年頃という出仕のタイミングも辻褄が合ってくる。
これは推論であって証拠ではない。ただ、「紙はどこから来たのか」という即物的な問いは、作者論に思いのほか重い影を落とす。
御冊子つくりの夜――千年前の写本制作現場
『紫式部日記』には、写本が作られる現場そのものが記録されている。ここが本当に面白い。
寛弘五年十一月、彰子と若宮の内裏還御が近づいた。手土産に何か作ろう、ということになる。冊子だ。式部の記述はこうだ。「入らせたまふべきことも近うなりぬれど、人びとはうちつぎつつ心のどかならぬに、御前には御冊子作りいとなませたまふとて、明けたてば、まづ向かひさぶらひて、色々の紙選りととのへて、物語の本ども添へつつ、所々に文書き配る。かつは綴じ集めしたたむるを役にて明かし暮らす」
夜が明けるとまず彰子の前に伺候し、色とりどりの紙を選び揃え、物語の原本を添えて、あちこちに書写を依頼する手紙を配る。かたわらで書き上がってきたものを綴じて整える。それで一日が暮れる。これは分業による写本の量産である。世界最古の同人誌制作現場だと評した人がいるが、言い得て妙だ。
そこへ道長がやってくる。「なぞの子持ちか、冷たきにかかるわざはせさせたまふ」。子を産んだばかりの身で、こんな寒い時期にこんな作業をなさるとは、と口では小言を言いながら、上等な薄様の紙、筆、墨を持ってくる。ついには硯まで持ってくる。彰子がそれを式部に与えてしまうと、道長は惜しがって大げさに騒ぐ。それでいて結局、また上等な紙と墨と筆を下賜する。
この男のかわいげのある俗っぽさが、千年後まで残ってしまった。
もうひとつ、ぞっとする記述がある。式部が自邸から取り寄せて局に隠しておいた原本を、道長が留守中に漁って持ち出し、妹の妍子に全部あげてしまった、というのだ。「よろしう書きかへたりしはみなひき失ひて、心もとなき名をぞとりはべりけむかし」。きちんと書き直したほうは全部なくなって、出来の悪い本のほうが世に出てしまった、と式部は嘆いている。
作者本人が管理しきれないところで、テキストが勝手に増殖し、拡散している。しかも作者が「これは直す前の駄目なやつだ」と思っているバージョンが世に出ていく。写本文化の恐ろしさが、成立と同時進行で起きている。今日の私たちが読む本文が、その「よろしからぬ」ほうの子孫でないと、誰が言えるだろう。
なお、この還御のあと、一条天皇が『源氏物語』を人に読ませて「この作者は日本紀をこそ読みたるべけれ」と評したことも同じ日記に見える。作者は漢籍の素養があるぞ、という褒め言葉だ。これを聞いた左衛門の内侍という女房が「日本紀の御局」というあだ名をつけて陰口をたたいた。褒められれば嫉まれる。宮廷は今も昔も変わらない。
二十年後の少女――『更級日記』が伝える「五十余巻」
成立からおよそ二十年後、東国育ちの少女が『源氏物語』に焦がれている。菅原孝標女、のちの『更級日記』の作者だ。
上京したての彼女は、断片的に「紫のゆかり」を読んで続きが読みたくてたまらない。親が太秦の広隆寺に参籠するときも、他のことは祈らずただ「この源氏の物語、一の巻よりしてみな見せ給へ」とだけ念じる。それでも手に入らない。そこへ田舎から上京してきた叔母にあたる人のところへ連れて行かれる。叔母は成長した姪をかわいがり、帰り際にこう言う。
実用的な品では面白くないでしょう、あなたが読みたがっているものを差し上げましょう。
そして「源氏の五十余巻、櫃に入りながら」――箱ごと、まるごと譲られる。ほかに『在中将』つまり『伊勢物語』や、『とほぎみ』『せり河』『しらら』『あさうづ』といった物語も袋いっぱいに。「得て帰る心地のうれしさぞいみじきや」。もらって帰る気持ちの嬉しさといったら、もう。
平安の少女の全力の歓喜がそのまま化石になったような一節で、何度読んでもいい。だが研究者はここに別の情報を読む。「五十余巻」だ。治安元年(一〇二一年)前後の時点で、『源氏物語』はすでに五十巻を超える分量の作品として、櫃に収まる形でセットになって存在し、地方から出てきた女性の手元にすらあった。夕顔も浮舟も出てくる本を彼女は読んでいる。
つまり宇治十帖まで含んだ、ほぼ今と同じ範囲の作品が、成立から二十年ほどで完成し流通していた。
ただし「五十余巻」が五十四巻を意味するのかどうかは、実は議論がある。五十余、なのだ。五十一かもしれないし五十七かもしれない。この曖昧さが、次の話につながっていく。
五十四という数は、いつ決まったのか
『源氏物語』は五十四帖である。誰でも知っている。だが、これが最初からそうだったという証拠はどこにもない。
そもそも五十四という数え方自体が二種類ある。ひとつは本文が伝わらず巻名だけの「雲隠」を含め、「若菜」を上下に分けずに数えて五十四とするやり方。中世以前にはこちらがよく行われた。もうひとつは「雲隠」を除いて「若菜」を上下に分けて五十四とするやり方。中世以後に有力になり、現在の一般的な数え方はこちらだ。同じ五十四でも中身が違う。
さらに古くは、まったく別の数え方が併存していた。鎌倉時代以前、『源氏物語』は「本の巻」三十七と「並びの巻」十八に分けられていた。並びを数えなければ三十七巻。三十七という数は仏体三十七尊になぞらえたものと考えられている。さらに宇治十帖全体をまとめて一巻と数え、全体を二十八巻とする数え方もあった。こちらは法華経二十八品にちなむ。
最古の注釈書である藤原伊行の『源氏釈』も、並びを数えず全三十七帖という形式をとっている。
そして六十巻説がある。『無名草子』『今鏡』『源氏一品経』『光源氏物語本事』といった古い文献が、『源氏物語』は六十巻だと書いている。一般には仏教経典の天台三大部六十巻になぞらえた象徴的な数字だと説明される。だがこの説明は「六十が事実でないなら、どこから六十が来たのか」を説明しているだけで、六十が事実でないことの証明ではない。ここが厄介なところだ。
実際、この六十巻説は中世に「流布本五十四帖のほかに、許された者だけが読める秘伝の六帖がある」という形に膨らんだ。『源氏物語』の代表的な補作である『雲隠六帖』がぴったり六巻からなるのも、五十四に足して六十にするためだと考えられている。書物に秘伝の巻がある、という発想は当時ごく普通のものだった。注釈書の世界でも、一般向けの『水原抄』に対して秘説を記した『原中最秘抄』が別に存在したくらいだ。
寺本直彦は、この六十巻説に何らかの事実の反映を見ようとした。異名と並びの巻がしばしば「接触」する現象――ある文献ではある巻の異名とされる巻名が、別の文献ではその巻の並びの巻とされている――を手がかりに、巻名の異名とはかつて別々の巻だったものが統合された痕跡であり、並びの巻とはかつて一つだった巻が分割された痕跡ではないか、と考えた。つまり巻の切れ目そのものが流動的だった時代がある。
同じ範囲の内容を、五十四とも六十とも数えられる時期があったのではないか、と。
五十四という数字が固まったのは、鎌倉初期の本文整定作業の結果だと見られている。定家の青表紙本も、河内本も、できあがった当初から五十四帖だった。この二つが普及したことで、範囲と巻序が確定した。裏を返せば、それ以前の二百年間、『源氏物語』の輪郭はぼやけていたのである。
「輝く日の宮」――冒頭に空いている、大きな穴
その流動の最大の傷痕が、「輝く日の宮」だ。
藤原定家の注釈書『奥入』には、「桐壺」の次にこの巻名が記され、そのあとに「この巻もとより無し」と書き添えられている。定家の時代にすでに、あるともないともつかない幻の巻だったわけだ。わざわざ名前を挙げたうえで「無い」と書くところに、含みがある。
なぜこの巻の存在が疑われるかというと、現行本文には明らかな穴が空いているからだ。光源氏と藤壺が最初に関係を持つ場面がない。物語全体を貫く最大の禁忌でありながら、その現場が描かれていない。六条御息所とのなれそめもない。あの強烈な女性が、いつのまにか光源氏の愛人として物語に登場している。朝顔の斎院が最初に登場する場面もない。
「帚木」の雨夜の品定めのあとの女房たちの噂話では、光源氏が式部卿宮の姫君に朝顔を添えて歌を贈った話がすでに既知のこととして語られる。読者が知っているはずの前提が、本文のどこにもないのだ。筑紫の五節との恋も同様で、「花散里」で唐突に回想される。
これらの位置は、いずれも「桐壺」と「帚木」のあいだに置くのが自然だ。だからそこに一巻あったのではないか、という話になる。
火をつけたのは和辻哲郎だった。大正十一年(一九二二年)、「帚木」の書き出しは「桐壺」を受けるものとして適切ではないと指摘し、「帚木」執筆当時まだ「桐壺」は存在せず後から補われたのではないか、紫式部は原型となる別の物語から発想を膨らませたのではないか、と論じた。この論文が近代の『源氏物語』成立論に火をつけた。
以後、玉上琢弥が昭和十五年に「源氏物語成立攷」で『輝く日の宮』という短編がモデルとして先にあったのではという大胆な仮説を出し、昭和二十五年には風巻景次郎が帚木三帖の「本の巻」としての必要性を説き、武田宗俊も「桐壺」と「若紫」のあいだにこの巻を想定した。池田亀鑑も当初は支持したが、のちに「桐壺」の別名として名が残ったのではないかという方向に微妙に軸足を移している。
説は大きく三つに分けられる。ひとつ、もともとそんな巻はなく、作者が構想上の判断で意図的に省略した。ふたつ、存在したがある時期に失われた。みっつ、一度は書かれたが、作者の意向、あるいは作者の周辺にいた誰かとの協議によって削除された。作家の丸谷才一は三番目を採り、しかも藤原道長の意向によるものとした。政治的にまずい内容だったから消させた、という筋書きである。物語としては最高に魅力的だが、根拠は薄い。
不存在説の言い分も鋭い。いくらなんでも本文が一行も残らないのはおかしい。「輝く日の宮」という巻名の付け方が、他の巻名とあまりに違いすぎる。想定される内容は作者が構想上あえて省いたと考えても矛盾は生じない。この三点は、なかなか反論しづらい。
似た伝説はほかにもある。光源氏の死を描いたはずの「雲隠」だ。一度は書かれたがあまりに悲しい内容だったため当時の天皇の命で破棄された、という話が伝わっている。巻名だけがあって本文がない、というその空白そのものが、光源氏の死という描かれざる出来事の表現になっている――と読むこともできるが、中世の人はそこに「消された巻」の物語を見た。
巣守、桜人、狭筵――五十四帖の外にあった巻たち
「輝く日の宮」だけではない。五十四帖の外にはみ出す巻名が、古い文献にはごろごろ出てくる。
平安末期の故実書『白造紙』に含まれる源氏物語巻名目録には、「サクヒト」「サムシロ」「スモリ」といった巻名が並ぶ。桜人、狭筵、巣守だ。しかもこの目録は、今では絶対に外せない宇治十帖について「なき本もあり」と注記している。宇治十帖を含まない『源氏物語』が流通していた、と読める。
最古の注釈書である藤原伊行の『源氏釈』にいたっては、「桜人」の巻の本文とされるものを十三箇所も引用して注釈を加えている。「この巻はある本もあり無い本もある」と断りながら、である。つまり平安末期には、原作にはなかったはずの巻が書き加えられた『源氏物語』が、現に読まれていた。藤原為氏の書写と伝えられる古系図には「法の師」「巣守」「桜人」「ひわりこ」といった巻名が見える。
物語中の和歌を集めた『風葉和歌集』には、現行五十四帖に含まれない、おそらく巣守関連の巻の歌が四首入っている。
こうした状態を指して「源氏物語の類」という呼び方をする研究者もいる。当時の人々は、外伝的な巻まで含めた広がりのあるものを『源氏物語』と呼んでいたのではないか、という捉え方だ。
そして二〇〇九年十一月、驚きの報道があった。中央大学教授の池田和臣が、散逸したはずの「巣守帖」と見られる写本の断簡を発見したというのだ。古書店から入手した十五・五センチ四方の古写本の断簡二枚。紙質の鑑定では鎌倉末期から南北朝時代のもの。そこには「うき世をもかけはなれなばいる月は山こそついのすみかなるらめ」という、これまで知られていなかった和歌が含まれていた。
古本巣守巻の内容は、鎌倉時代の『源氏物語古系図』や物語中の和歌を抜き出した資料から、ある程度復元されている。だがまとまった本文は残っていない。断簡が語りかけてくるのは、消えた本文のほんのひとかけらだけだ。それでも、五十四帖という枠が後から作られたものであることを、この二枚の紙は証言している。
定家、写す――青表紙本という「決定版」の誕生
さて、ここで最重要人物が登場する。藤原定家である。
平安末から鎌倉初期にかけて、『源氏物語』は歌人にとって必修の古典になっていた。定家の父・藤原俊成が六百番歌合の判詞で言い放った「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」――源氏を読んでいない歌詠みなど話にならない――は、その空気を代表する言葉だ。
ところが困ったことに、本文がぐちゃぐちゃだった。家ごとに写本が違い、どれが正しいのかわからない。二百年の書写の蓄積が、テキストを分岐させ尽くしていたのである。
定家自身の日記『明月記』が、その格闘の記録を残している。嘉禄元年(一二二五年)二月十六日条。前年の元仁元年十一月から「家中の小女等」に書写させていた源氏物語五十四帖が完成した。昨日表紙を付け、今日外題を書いて仕上げた。建久年間の頃に家の証本ともいうべき本を盗まれて以来、長年その仕事をさぼっていたが、ようやく形になった。
とはいうものの、なお狼藉不審の箇所は多々あり、満足のいく出来ではない――そう書いている。
ここが重要だ。定家は「疑問を解決できなかった」と正直に書いている。承久の乱が一二二一年。貴族社会そのものが存亡の危機に瀕していた時期に、この男は家中の女たちを動員して古典を書き写させていた。中世史家の美川圭は、定家の書写事業がなければ現代まで伝わらなかった平安文学は数多い、と書いている。『源氏物語』だけでなく『更級日記』も『伊勢物語』も、今読める本文の多くは定家系統だ。
その後も定家は執念深く校訂を続ける。安貞元年(一二二七年)十月十三日条には、室町殿から借りていた源氏物語二部を家本と校合し、詞を取捨して返上したとある。寛喜二年(一二三〇年)には「桐壺」と「紅葉賀」を書くよう命じられて渋り、書いているあいだに発熱して歯が痛くなったと日記に書いている。六十代後半の老人が、歯を痛めながら写している。
こうしてできた定家の証本は、表紙が青かったことから「青表紙」と呼ばれた。この呼び名の初出は、注釈書では『河海抄』、それ以外を含めると『延慶両卿訴陳状』に見える「青表紙源氏物語一部」だとされる。ちなみに「青表紙」が「青表紙本」と呼ばれるようになるのは、さらに遅く近世に入ってからだ。
河内本という対抗馬、そして「別本」という雑多な箱
同じ頃、まったく別の方針で本文を整えた一派がいる。大監物・源光行とその子・親行の父子だ。彼らの整えた証本が河内本である。光行が河内守だったことに由来する。
定家と河内方は、当時の本文状況について同じ認識を持っていた。乱れていて、どれが正しいのかわからない。だが結論の書き方が正反対だった。定家は「疑問を解決することはできなかった」と書き、源光行は「調べた結果、疑問を解決することができた」と書いた。この態度の差は、そのまま本文に出る。
現存する青表紙本と河内本を比べると、青表紙本で意味の通らない箇所が、河内本ではきれいに意味が通っていることが多い。河内本は、意味の通りにくい本文に積極的に手を入れて読めるようにする方針で校訂された。青表紙本は、意味が通らない本文もできるだけそのまま残す方針だった。だから青表紙本のほうが原本に近い、と長く考えられてきた。
面白いのは受容の歴史だ。鎌倉時代は河内本が圧倒的に優勢だった。南北朝の今川了俊などは「青表紙本は絶えてしまった」と書いているほどである。ところが室町時代半ば、定家の流れを汲む三条西家の活動によって形勢が逆転し、今度は河内本のほうが消えたかのような状況になる。江戸時代に版本が刊行されると、『絵入源氏物語』も『首書源氏物語』も『源氏物語湖月抄』も、みな広い意味での青表紙系だった。
明治になって活字本が出てもこの状況は続き、与謝野晶子の現代語訳もこれらを底本にしている。
ただし、この時期に普及した三条西家系統の青表紙本は、純粋な青表紙本ではない。河内本や別本からの混入が見られる。あまりに広く普及しすぎたために、大筋は同じでも細部が異なる写本が膨大に生まれてしまった。
その青表紙本でも河内本でもないものを、池田亀鑑は「別本」と名づけた。古注釈の時代から存在した二系統に、収まりきらない諸写本の受け皿を足した三分類である。この三区分は主流の考え方になったが、批判も強い。阿部秋生は、外形的な特徴を重んじて「青表紙本」や「河内本」が存在するという前提でそれに該当する伝本を探すという池田の方法は異例であり奇異だと批判した。さらに痛烈なのがこの指摘だ。
もし青表紙本が、定家の目の前にあった一つの写本――それは当然、古伝本系の別本のひとつであるはず――を忠実に写し取ったものなら、青表紙本とは実は別本のひとつということになるのではないか。
阿部は本文研究の総括にあたる『完本源氏物語』のはしがきで、青表紙本の本文が原典の姿を伝えるものとは断言しがたい、河内本も別本も頼りえないとなると、定家という人の見識で選んだものらしい青表紙本に何割かの可能性を賭けるより他にないだろう、という趣旨のことを書いている。決定版ではなく、消去法の産物だという冷静な認識だ。
近年ではさらに、加藤昌嘉が宇治十帖のなかで最大の本文異同を示す「東屋」巻の一節を分析し、発言の有無や発話者の違いといった筋立てのレベルで諸本を分類すると五つのグループに分かれること、そしてその実態を理解するのに「青表紙本」「河内本」「別本」という区分は何の役にも立たないことを示した。三系統論そのものが揺れている。
なお、私たちが現在活字で読む『源氏物語』の多くは、大島本という写本を底本にしている。飛鳥井雅康らが文明十三年(一四八一年)に大内政弘のために書写したとされる青表紙系の写本で、昭和初期に佐渡の某家から出現し、三井合名会社理事の大島雅太郎の所有となった。池田亀鑑はこれを見て、それまで河内本を底本に進めていた校本作りをすべて破棄し、一からやり直した。
十年かけて昭和十七年(一九四二年)に『校異源氏物語』が刊行され、のちに『源氏物語大成』へと発展する。二十世紀の『源氏物語』研究は、この校本の上に立っている。
二〇一九年十月八日、京都の記者会見場
そして、この長い話に現代の一章が加わる。
二〇一九年二月ごろのことだ。東京・四谷の実家。旧三河吉田藩主・大河内松平家の十五代当主、大河内元冬さんが、祖父の集めた茶碗を専門家に見てもらう準備をしていた。納戸に置かれた長持のなかから、木箱が出てきた。中身は古い冊子。
「両親や親族から聞いておらず、祖先が偽物をつかまされたのだろう」。当主はそう思ったという。無理もない。源氏物語の古写本を名乗るものなど、世の中に山ほどある。そのほとんどが偽物か、後代の凡庸な写しだ。
だが知人の助言があった。念のため、専門機関に見てもらってはどうか。四月、京都・上京区の冷泉家時雨亭文庫に照会が入る。定家を祖とする冷泉家が、定家関係の古典籍を研究保存している機関である。
鑑定にあたったのは、同文庫の調査主任・藤本孝一。元文化庁主任文化財調査官で、長年にわたって定家本系統の源氏物語を追い求めてきた人物だ。紙を見た。本文が書かれている料紙は、繊維が不揃いな「楮紙打紙」――平安から鎌倉期に特徴的な漉き方の和紙だった。表紙、題簽の体裁、本文の筆跡。現存する定家本四帖と、ほぼ同じ。
しかも、青い墨による訂正箇所があった。青墨は身分の高い者しか使わなかったとされる。定家自身が手を入れた痕跡である。
十月八日、記者会見が開かれた。会見場で、藤本はこう振り返っている。「残っているとは期待していなかった。まさか、です」。中央に大河内元冬さん、左に冷泉為人、右に藤本孝一。並んだ三人の前に、青い表紙の冊子があった。
「若紫」。第五帖。光源氏が北山で少女と出会い、自ら育てると決める巻。紫の上という、この物語最大のヒロインが登場する巻。そして紫式部が紫式部と呼ばれるようになった、まさにその巻である。
これまで定家自筆本として確認されていたのは「花散里」「行幸」「柏木」「早蕨」の四帖だけだった。いずれも重要文化財。新しい帖の確認は昭和初期以来、約八十年ぶりだ。定家の注釈を含め百三十二ページ、六十六丁。全国紙が一面で報じ、「教科書が書き換わる可能性」という見出しが躍った。
その一冊が、どこをどう旅してきたか
伝来の追跡もまた面白い。
明治時代に作られた大河内家の所蔵品目録によれば、寛保三年(一七四三年)、福岡藩主・黒田継高から老中・松平信祝に贈られたものだという。ここまでは発見当初から知られていた。
その後の研究で、さらに上流が見えてきた。もともとは毛利家の所蔵だったらしい。一六三一年、毛利秀就の長女が高田藩主・松平光長に嫁ぐ際、嫁入り本として定家本「若紫」を持参した。光長は徳川家康の曾孫にあたる。ところが元禄十一年(一六九八年)、越後騒動を引き起こした光長は隠居し、家督を継いだ養嗣子が津山藩主となる。その御礼として、この写本は江戸幕府に献上された。以後は徳川宗家の所蔵。
寛保二年(一七四二年)、黒田継高が将軍吉宗から下賜され、その翌年に松平信祝の手に渡った。
大名家から大名家へ、将軍家を経由して、また大名家へ。そして明治以降は忘れられ、四谷の納戸の長持のなかで、木箱に入ったまま眠っていた。当主自身が「偽物だろう」と思っていた。八百年近い旅の終着点が、都心の住宅の納戸である。これを歴史のロマンと呼ばずに何と呼ぶか。
そして「最古の写本」報道は、静かに訂正された
ここからが、この話の誠実な部分だ。
二〇二〇年三月、オールカラーの影印本が刊行され、書誌と本文の詳細が公開された。すると、発見当初の報道にはかなりの誇張と誤解があったことが明らかになってくる。
慶應義塾大学斯道文庫の佐々木孝浩は、二〇二〇年に『日本文学』誌上で「『源氏物語』本文研究の蹉跌――「若紫」帖発見報道をめぐって」を発表し、「最古写本」「原本に最も近い」といった初期報道の弊害を厳しく指摘した。上原作和も同様の指摘を重ねている。
具体的にはこうだ。従来、「若紫」のある箇所について、大島本と伏見天皇本だけが「人なくてつれづれなれば」という本文を持ち、他の青表紙本系諸本は「日もいとながきにつれづれなれば」となっていた。大島本の孤立例、つまり誤写の可能性が疑われる箇所だったわけだ。ところが定家本「若紫」が出てきてみると、そこは「人なくて」だった。大島本は定家本の本文を忠実に継承していたのである。
つまり、教科書の底本が大島本である場合、書き換える必要はまったくなかった。「教科書が書き換わる」という見出しは、結果として空振りだったことになる。
これは失望すべき話だろうか。私はそう思わない。むしろ逆で、大島本という写本の信頼性が、七百年ぶりに出てきた定家自筆本によって裏書きされたのだ。池田亀鑑が佐渡から出てきた写本に賭けて校本作りを一からやり直した判断は、正しかった。学問の答え合わせとして、これ以上の結果はない。
そして同時に、報道が古典籍をどう扱うかという問題も残った。「最古」「原本に近い」というフレーズは強い。だが定家本は原本ではないし、鎌倉期の写本にはもっと古いものもある。若紫帖は定家自筆本として貴重なのであって、原本の代替物ではない。この区別が、見出しの向こう側では溶けてしまう。
古注が伝える、父・藤原為時の代作説
さて、そろそろ本題の作者論に入ろう。「紫式部ひとりが書いたのか」という問いは、実は近代の思いつきではない。中世からずっとある。
一条兼良が文明四年(一四七二年)に成立させた注釈書『花鳥余情』には、『宇治大納言物語』からの引用として、こんな伝承が記録されている。『源氏物語』は紫式部の父である藤原為時が大筋を書き、細かいところを娘の紫式部に書かせたものである、と。
為時は、たしかに書けそうな男ではあった。天暦三年(九四九年)頃の生まれ。菅原道真の孫にあたる漢詩人・菅原文時に師事し、文章生に挙げられた。永観二年(九八四年)、東宮時代から仕えた師貞親王が花山天皇として即位すると式部丞・六位蔵人になる。娘の女房名「式部」はここから来ている。ところが寛和二年(九八六年)の寛和の変で花山天皇が退位に追い込まれ、為時も職を失って十年近く散位のまま埋もれた。
長徳二年(九九六年)に越前守として復活する。この任官には有名な逸話がある。淡路守に任じられた為時が「苦学寒夜、紅涙襟を霑す、除目後朝、蒼天眼に在り」の句を奏上したところ、一条天皇が感動して食事も喉を通らなくなり、道長が動いて越前守に差し替えた、というものだ。『今昔物語集』や『古事談』が伝えている。
もっとも近年は、前年に隣国若狭へ宋の商人一行が来着しており、漢文で応対できる人材が必要だったという実務的な理由が有力視されている。実際、為時は越前で宋人と漢詩を唱和し、その詩が『本朝麗藻』に残っている。大江匡衡は彼を「凡位を越える詩人」と評した。
要するに、漢学に関しては当代一流の文人である。娘の教養も、この父から来ている。だから代作説には一見もっともらしさがある。
だが池田亀鑑は、この手の伝承をばっさり切っている。親子で書き継いだとする説は、『漢書』について前半を班彪が書き残りを子の班固が書き上げたという中国の故事にちなんだものであって、事実とは何の関係もない、と。父が始め子が完成させる、という物語の型が先にあって、それを当てはめただけだという見方だ。
私はこの反論はかなり強いと思う。加えて言えば、為時が代作していたなら、『紫式部日記』のあの緊張感は説明がつかない。公任に「若紫やさぶらふ」と呼びかけられて聞き流す女、一条天皇に褒められて「日本紀の御局」と陰口を叩かれる女。あれは自分が書いたものを世間に晒している人間の、生々しい居心地の悪さだ。
道長関与説――写本に筆を入れた男
もうひとつの古い伝承が、藤原道長関与説である。
四辻善成が貞治年間(一三六二年から一三六七年)のはじめに足利義詮の命で作った注釈書『河海抄』に、こんな話が記録されている。藤原行成が書いた『源氏物語』の写本に、藤原道長が書き加えた、と。行成は当代随一の能書家。道長の側近だ。その行成の写本に権力者が筆を入れたというのだから、なかなか不穏な伝承である。
これも証拠としては弱い。『河海抄』は源氏学初期の集大成として絶大な影響力を持った書で、本居宣長が『源氏物語玉の小櫛』で「注釈の第一」と称えたほどだが、一方で成立由来については石山寺伝説をそのまま載せ、巻数についても天台六十巻になぞらえた六十巻説を述べるなど、中世的な伝承に彩られた記述が少なくない。江戸時代の国学者たちに激しく批判された部分である。
とはいえ、道長がテキストに触れていたのは伝承ではなく事実だ。さっき見たとおり、『紫式部日記』には道長が局を漁って原本を持ち出した記述がある。紙も筆も墨も硯も、彼が供給していた。作品の物理的な生産手段を握っていた人間が、内容にまったく口を出さなかったと考えるほうが、むしろ不自然かもしれない。丸谷才一が「輝く日の宮」削除を道長の意向と読んだのも、この延長線上にある。
もっとも、それは「関与」であって「執筆」ではない。編集者やスポンサーが作品に影響を与えることと、作者であることは別だ。道長作者説を本気で主張する研究者はいない。
宇治十帖は娘が書いた――一条兼良から与謝野晶子まで
そして最大の争点、宇治十帖である。
第四十五帖「橋姫」から第五十四帖「夢浮橋」まで。光源氏が退場したあとの世界。薫と匂宮という二人の男君と、宇治の三姉妹をめぐる物語。京と宇治を舞台に、仏教思想の濃く漂う、暗く湿った十帖だ。
ここが別人の作ではないか、という疑いは古い。一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などが、宇治十帖の作者は紫式部の娘・大弐三位であるとする伝承を記録している。大弐三位、本名は賢子。彰子に仕え、のちに後冷泉天皇の乳母となり、従三位に叙された。母より出世した娘である。
近代に入って、この説を強力に押し出したのが与謝野晶子だ。『新新訳源氏物語』のあとがき(昭和十四年)で、彼女はこう書いている。私は源氏物語を前後二人の作者の手になったものと認めている、と。ただし晶子の切り方は独特で、宇治十帖だけを切り離す従来のやり方ではなく、「桐壺」から「藤裏葉」までを前半、「若菜」から「夢浮橋」までを後半とした。
光源氏の成功と栄達を描く陽の性格の前半に対し、光源氏とその子孫たちの苦悩を描く陰の性格の後半。この二分法は池田亀鑑に高く評価され、正編・続編の区分と組み合わさって三部構成説を生むことになる。
晶子の根拠のひとつは和歌の巧拙だった。彼女は大弐三位の家集を探し求めたが現存せず、伊勢の皇学館の目録にあった『大弐集』を調べてみたら、それは三位の娘の歌集で、祖母にはもちろん母にも数段劣る作ばかりだった、と書いている。歌人としての目で、筆致の違いを嗅ぎ分けようとしたのだ。そして彼女はこう結ぶ。
前篇の紫式部は小説作家として歌人としていみじき作者であり、後篇を書いた大弐の三位は偉大なる文学者だと私は思っている、と。どちらも褒めている。晶子らしい。
なお晶子は「帚木」から起筆され「桐壺」は後から書き加えられたという説も同時に唱えていた。明治期には久米邦武が謡曲雑誌に源氏は数人の手になるらしいと書いており、晶子は当初これを信じなかったが、後年に自分の目で二人作者説に至ったと述懐している。
和辻哲郎はもう少し慎重で、「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」といった形ではなく、ひとつの流派を想定するべきではないか、と述べている。個人ではなく、集団として書かれた可能性。これは現代のテキスト観からすると、かなり先を行った見方だ。
一方、瀬戸内寂聴は徹底した単独作者説をとった。複数作者説は「これだけ壮大な傑作を女性の手で書けるはずがない」という偏見に発した想像と仮説にすぎない、根拠がない、と切って捨てている。匂宮三帖も宇治十帖も含めて紫式部ひとりの作だ、と。
現在の通説はどのあたりかというと、第三部もおそらく式部の作、というのが穏当なところだ。第二部の執筆以降かなり長期間の休止があったためか用語も雰囲気も相当に異なるが、それをもって他人の作とまでは言えない、という立場である。ただし研究者のあいだでも、「紅梅」「竹河」の二巻についてはおそらく別人だろうという見方が根強い。「竹河」については武田宗俊も与謝野晶子も別人説をとっている。
小林栄子のように、「匂宮」「紅梅」「竹河」の三巻を宇治十帖とともに後人の補入とする説もあった。
武田宗俊の帖分け――紫上系と玉鬘系という切断
近代の成立論で最大の衝撃を与えたのは、武田宗俊の仕事だろう。
昭和二十五年(一九五〇年)、武田は「源氏物語の最初の形態」を発表し、こう論じた。「桐壺」から第三十三帖「藤裏葉」までの三十三巻は、二つの系統をつぎあわせて成立したのではないか、と。
方法は明快だった。登場人物に着目したのである。ある人物が登場する巻と、まったく登場しない巻を洗い出す。すると、きれいに二つのグループに割れた。紫の上を中心とするグループと、玉鬘を中心とするグループ。武田はこれを紫上系と玉鬘系と名づけ、玉鬘系の巻々は紫上系の巻々が書かれたあとで挿入されたのだ、と主張した。
驚くべきことに、玉鬘系の巻を抜き取って紫上系だけを順に読んでも、話はちゃんとつながる。逆に玉鬘系の巻には、紫上系の人物が出てこない。これは偶然では説明しにくい。
先駆はあった。大正十一年の和辻哲郎の問題提起があり、昭和十四年には桐壺から初音までの巻々を若紫グループと帚木グループに分ける議論が出ていた。武田はその検討範囲を三十三巻まで広げ、体系化したのである。西村亨は「武田説のあきらかな先駆者は和辻であった」と評している。
武田説の影響は絶大で、成立論に賛同しない研究者ですら「紫上系」「玉鬘系」という用語を便利に使う。これは仮説が学界の共通言語になった珍しい例だ。
ただし武田説にも批判はある。とりわけ、この分類が「執筆順序」を証明するかどうかは別問題だという指摘だ。後述する計量分析でも、武田説の順に巻を並べ替えて初出単語の出現率を調べてみたところ、現行の巻順で調べた場合と大きな違いは出なかった。分類としては鮮やかだが、時系列の証明には至っていない。
統計が本文に踏み込んだ日――安本美典の十二項目
一九五七年、事態は新しい局面に入る。当時、心理学の側から文章を扱っていた安本美典が、『文学・語学』誌に「宇治十帖の作者――文章心理学による作者推定」を発表したのだ。
安本がやったことは、こうだ。『源氏物語』の文章のさまざまな特徴を数量化し、統計的に整理し、検定を行って差を示す。調べた項目は十二。各巻ごとの本文の長さ、個々の文の長さ、和歌の使用度、直喩の使用度、声喩――擬音語や擬態語のことだ――の使用度、心理描写の数、色彩語の使用度、名詞・用言・助詞・助動詞の出現頻度、品詞の長さ。分布の型が不明なものが多かったため、すべてノンパラメトリック検定を用いた。
結果は衝撃的だった。十二項目のうち十項目で、偶然では起こりえない差が出た。有意差がなかったのは、個々の文の長さと助動詞の出現頻度の二つだけ。つまり宇治十帖は、それ以前の四十四帖とかなり文体が違う。安本は、紫式部が作者である可能性は低いと結論づけた。
ここで安本が偉かったのは、対照実験も用意したことだ。同一作者でも執筆時期が離れれば文体は変わるのではないか、という当然の反論を先回りして、宇治十帖を除いた四十四帖のうち最初の十帖を仮に「桐壺十帖」、最後の十帖を仮に「梅枝十帖」と名づけ、両者を比較した。同じ作者の、しかし執筆時期の離れた部分どうしの差がどれくらいになるかを測ったのである。その差は、宇治十帖と他の四十四帖の差に比べてずっと小さかった。
さらに安本は、本居宣長が『源氏物語』の筋の欠けたところを補うつもりで書いた擬作『手枕』も分析している。後世の人間が源氏の文体を真似て代作すると、どんな文章ができあがるかを見るためだ。結果は笑ってしまう。『手枕』の平均文長は、『源氏物語』の二倍以上あった。宣長ほどの人でも、真似はできていないのである。
助動詞を数える――村上征勝と計量文献学の時代
安本の仕事から四十年、コンピュータが入ってきた。
統計数理研究所の村上征勝は、上田英代らの古典総合研究所、九州大学の今西祐一郎らと組んで、『源氏物語大成』の本文に品詞情報を付けた巨大データベースを作った。総語数三十八万余語。これを使えば、手作業では不可能だった集計が一瞬でできる。
村上は各巻における助動詞の使用率と、「ひと」という語の使用率を、巻の番号順に並べてグラフにしてみた。すると、第一巻から第四十四巻までと宇治十帖の二つのグループで、一巻あたりの平均使用率が明らかに違っていた。宇治十帖では、助動詞や「ひと」の使用率に、それ以前の巻には見られない一定の増加傾向があった。多くの研究者が漠然と抱いていた宇治十帖の文章への違和感が、グラフの上で可視化された瞬間である。
村上と今西は一九九九年、『情報処理学会論文誌』に「源氏物語の助動詞の計量分析」を発表した。結論は三つ。第一部を構成する紫上系十七巻と玉鬘系十六巻は別々に成立した可能性があり、その場合、玉鬘系十六巻は第二部の後に成立した可能性が高い。
宇治十帖とその前の十一巻――第二部および匂宮三帖――のあいだには助動詞の用い方に差が見られ、この差が文体の違いの反映であるならば、これが宇治十帖他作者説が生じる原因のひとつと考えられる。そして、会話文と地の文に分けた場合、差が出るのは地の文である。
三つ目が特に重要だ。会話文は登場人物のキャラクターに引きずられるが、地の文は書き手の癖がそのまま出る。そこに差があるということは、文体の差である可能性が高い。
なお同じデータベースからは、素朴に面白い数字も出ている。五十四帖すべてに出現する単語は、活用形の違いを機械的に区別した集計で三十九語しかない。名詞では「こと」「ほど」「心」「人」の四語だけ。あとは助詞と助動詞と補助動詞と、「いと」「え」「すこし」といった副詞。九十四万字の物語を貫いて全巻に顔を出す語が、これしかないのである。
そして、統計は統計によって反証された
ここで話が引っくり返る。
たしかに宇治十帖とそれ以前には数値の差がある。だがその差は、「別人が書いた」と言えるほど大きいのか。これを検証するには、比較のものさしが要る。
そこで研究者たちは、作者が違うことが確実な作品を同じ手法で測ってみた。『狭衣物語』。『源氏物語』とは明らかに別作者だが、その多大な影響のもとに成立した作品だ。そして本居宣長の『手枕』。源氏の文体を意識的に模倣した擬作である。この二つと『源氏物語』を、宇治十帖の分析と同じ計量言語学的手法で比較したらどうなるか。
結果は明快だった。そこで算出される差異は、『源氏物語』を宇治十帖とそれ以外に分けたときに見いだされる差異より、はるかに大きかった。つまり、別作者どうしのあいだにある「本物の断層」に比べれば、宇治十帖の差は誤差に近い小さな段差にすぎない。この事実から、宇治十帖別作者説は成り立たない、とする見解が示された。
平均文長についても同様だ。データベースによる集計では、前四十四帖の平均文長は四十九・七三字、宇治十帖は五十二・〇五字。数字の上ではわずかに差があるが、統計的に差があるとはいえない水準だった。安本が有意差なしとした二項目のひとつが、ここでも有意差なしと出ている。
二〇一五年には、同志社大学で計量文献学による学位論文が出ている。『源氏物語』と同時期の『宇津保物語』、および擬作である『山路の露』『雲隠六帖』『手枕』を分析対象に加え、多変量解析によって作者の識別を試みたものだ。古典作品はオリジナルが散逸し、書写によって継承されているから、原作者の文体的特徴は希釈されている可能性がある。それでも識別は可能か――という慎重な問題設定から始めている。
結果、古典文でも作者の識別に計量分析は有効であることが確認された。そのうえで匂宮三帖と宇治十帖の十三巻について他の諸巻と作者が同一かを分析したところ、作者が異なることを支持する積極的な根拠は認められなかった。
だが同じ分析から、思いがけない発見も出た。従来の指摘とは異なり、宇治十帖の前半五巻と後半五巻のあいだに、顕著な量的傾向の相違があるというのだ。つまり第三部の十三巻は、匂宮三帖、宇治十帖前半五巻、宇治十帖後半五巻という三つのグループに分かれ、段階的に成立した可能性がある。
作者が違うのではない。書かれた時期が違う。統計は、作者論の問いを成立論の問いへと押し返したのである。
中世の人々は、この物語を本気で怖がっていた
ここで話を思いきり方向転換させたい。作者論と本文論ばかり書いてきたが、『源氏物語』にはもうひとつ、まったく別の顔がある。祟る本、という顔だ。
仏教の五戒に「不妄語戒」がある。嘘をついてはいけない。この戒律を厳しく取れば、虚構を書くことは罪になる。美しい言葉で人を惑わす行為も罪になる。当時の言葉でこれを「狂言綺語」という。そして中世、この狂言綺語の代表格として槍玉に挙げられたのが、ほかならぬ『源氏物語』だった。
平安末期の仏教説話集『宝物集』――平康頼の編纂で、治承二年(一一七八年)以降の成立とされる――には、紫式部が虚言をもって『源氏物語』を作った罪により地獄に落ちたという説話が載っている。延応元年(一二三九年)以降に成立した『今物語』にも、源氏物語は事実ではない、紫式部はあの世で灼熱地獄に堕ちて責め苦を受けているので供養したい、といった記述がある。
作者が地獄にいる。ならば読者も無事では済まない。物語に耽溺した者もまた地獄に堕ちる、と信じられた。実際、物語に溺れた過去を後悔し仏道に励む姿は、一〇六〇年ごろに書かれた『更級日記』にすでに現れている。あの、櫃ごともらって狂喜していた少女の晩年である。
そこで生まれたのが「源氏供養」だ。紫式部の亡霊の苦を救い、あわせて読者自身の罪障をも消滅させるために、法華経二十八品を各人が一品ずつ写経して供養する法会である。治承・文治のころ、つまり十二世紀後半に始まったとされる。
面白いのは、これを実際にやった人の顔ぶれだ。記録に残っているひとりが、美福門院加賀。「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」と言い放った藤原俊成の妻であり、青表紙本を作り上げた藤原定家の母である。源氏を読まねば歌人にあらずと説いた家の女主人が、源氏の作者を地獄から救うために写経している。信仰と文学が、こんなに近い距離でねじれている。
石山寺の伝説と、能『源氏供養』の紫式部
源氏供養は、やがて能になった。『源氏供養』、別名『紫式部』。作者については世阿弥説、金春禅竹説などがあり、定まらない。三番目物でありながら序の舞を舞わず、代わりに『源氏物語』の巻名を読み込んだ長大なクセを持つ、異例の構成の曲だ。
物語はこうだ。文芸によって仏の教えを広める唱導の大家、安居院法印が石山寺に参詣しようとしている。琵琶湖畔、辛崎のあたりで、背後から女の声がかかる。
「私はかつて石山寺に籠もり、源氏物語を書き上げた者です。しかし完成した物語への供養を怠った科によって、今なお成仏できずにいます。どうか代わりに供養を遂げ、私を救ってください」
女は夕日の光のなかへ消える。石山寺の門前で、法印は住人から紫式部の来歴を聞く。越前守・藤原為時の娘で、上東門院に仕え、新しい物語を作れと命ぜられてこの石山寺に参籠し、祈願のうえ霊感を得て、まず須磨・明石の巻から書き始めた――という、いわゆる石山寺伝説である。
夜更け、法印たちが供養をしていると、紫の長絹に緋の大口という姿の女が現れる。「紫式部にましますか」との問いに「恥ずかしながらあらわれました」と答える。布施は何をと問う彼女に、法印は言う。布施などは思いのほか。ただ舞ってください。
そして地謡が「そもそも桐壺の、ゆふべの煙速やかに、法性の空に至り、帚木の夜の言の葉は……」と巻名を順に読み込んだ謡をうたい、式部がそれに合わせて舞う。「夢の浮橋をうち渡り、身の来迎を願ふべし」と舞い納め、最後に、紫式部の正体が実は石山の観世音菩薩であったことが明かされる。「思へば夢の浮橋も、夢のあひだの言葉なり」。
この曲のクセの典拠は、聖覚の作と伝えられる『源氏物語表白』だ。そこには、五十四の巻名を織り込みながら救済を願う文章が書かれている。物語を書いた罪を、物語の言葉そのもので贖おうとしている。狂言綺語を否定するのではなく、それが人を仏道へ導く方便になりうるのだと反転させる。中世の人々が文学に対して抱いていた、罪の意識と愛着の同居が、ここに凝縮している。
石山寺伝説そのものは、事実ではないと考えられている。『河海抄』などが伝える中世的な伝承だ。だが、この伝説が生まれたこと自体が、成立の記録が残っていないという空白を物語っている。誰も本当のことを知らないから、観音菩薩が降りてきたことにするしかなかったのである。
余談だが、紫式部を地獄から救った人物として小野篁の名が挙がることもある。昼は朝廷の役人、夜は冥界で閻魔大王の裁判を補佐したという伝説の男だ。『河海抄』に「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」とあり、二人の墓が並んでいることから生まれた話らしい。ただし式部と篁のあいだには二百年の隔たりがある。中世の人が、地獄に堕ちたとされる作者を、なんとかして救い出そうとした痕跡である。
女たちは、この物語をどう読んだか――『無名草子』の証言
千年の受容史のなかで、私が一番好きな文献を挙げておきたい。『無名草子』だ。
建久七年(一一九六年)から建仁二年(一二〇二年)ごろの成立と推定される、日本最古の散文文芸評論書。作者は藤原俊成女とする説が有力だ。八十三歳で出家した老尼が京都の東山あたりで花を摘み、最勝光院近くの家で女房たちの語り合いを聞く、という構成をとる。
内容の三分の一が『源氏物語』論である。巻々の評、登場人物評、印象的な場面の指摘。そして有名なあの言葉が出る。
「さても、この源氏作りいでたることこそ、思へど思へど、この世ひとつならず、めづらかにおぼゆれ」
それにしても、この源氏を作り出したということは、考えても考えても、この世だけのことではない、前世からの因縁としか思えないほど不思議に思われる。
成立から二百年、女たちはまだこの物語に打ちのめされている。同時期に書かれた藤原伊行の『源氏釈』や藤原定家の『奥入』が、引歌の典拠を探る男たちの学問だったのに対して、『無名草子』は読者としての熱をそのまま文章にした。女性による最初の『源氏物語』批評であり、しかも散逸物語の情報源としても第一級の資料になっている。この本もまた、『源氏物語』は六十巻だと書いている一冊だ。
なぜ、この謎は千年たっても解けないのか
ここまで見てきたものを、整理してみたい。なぜ解けないのか。理由は積み重なっている。
第一に、物証がない。作者自筆本がゼロ。成立の経緯を記した同時代の記録もゼロ。あるのは『紫式部日記』の断片的な言及だけで、しかもそれは作品について書かれた文章ではなく、出産記録のあいまに漏れた私的な述懐である。作者本人が「私はこう書いた」と説明した文章は、一行も存在しない。
第二に、テキストが動く。写本文化のもとでは、本文は生きて変化する。『紫式部日記』が記録したとおり、成立の現場ですでに複数バージョンが並存し、作者が意図しないものが流通していた。二百年後、定家と河内方がそれぞれ「正しい本文」を作ろうとしたが、二人の答えは違った。そのどちらが原本に近いのかを判定する基準が、実は存在しない。
青表紙本が定家の見識で選ばれた一本にすぎないなら、それも別本のひとつだ、という阿部秋生の指摘は、いまも有効に効いている。
第三に、輪郭が動く。五十四という数は後から確定した。桜人も巣守も狭筵も、かつては『源氏物語』の一部として読まれていた形跡がある。輝く日の宮は、あったのかなかったのか永遠に決まらない。作品の範囲そのものが決まらないなら、「その作品を誰が書いたか」という問いの土台が揺れる。
第四に、これが一番厄介なのだが、統計は作者の同一性を証明できない。数値の差は差でしかない。差の原因が、作者の違いなのか、執筆時期の違いなのか、題材の違いなのか、あるいは書写過程で混入した後代の癖なのか、数字は教えてくれない。ある人物の文章において生涯変わらない特徴が何であるかを特定することは至難の業だ、と統計の側の人間自身が認めている。
しかも私たちが分析しているのは原本ではなく、五百年後の写本の活字化されたテキストである。原作者の文体的特徴は、すでに希釈されている。
第五に、比較対象がない。紫式部が書いたと確実にいえる長編は、『源氏物語』しかない。『紫式部日記』はジャンルが違うし分量も足りない。基準点のない座標系で、位置を決めろと言われているようなものだ。
そして第六に、動機の問題がある。中世の人が親子分業説を語ったのは、班彪と班固の故事という型があったからだ。近代の一部の論者が女性単独執筆を疑ったのは、これだけの傑作を女が一人で書けるはずがないという偏見があったからだ、と瀬戸内寂聴は指摘した。私たちが「本当は誰が書いたのか」と問いたくなる欲望それ自体に、時代ごとのバイアスがかかっている。謎が解けないのは、問いのほうが不安定だからでもある。
それでも、一人の女が書いたと考えるのが一番自然だと思う理由
長々と書いてきたが、私自身の立場をはっきりさせておこう。私は、紫式部というひとりの人間が、生涯をかけて『源氏物語』のほぼ全体を書いたのだと思っている。
理由は三つある。ひとつ、統計的な反証が効いている。別作者どうしの差は、宇治十帖の差より桁違いに大きい。ものさしを当てれば当てるほど、宇治十帖は「同じ手」に見えてくる。ふたつ、代作説や娘作者説の出どころは、いずれも成立から四百年以上後の注釈書であり、その背後に中国の故事という型が透けて見える。史料としての格が違いすぎる。
みっつ、これは感覚の話になるが、『紫式部日記』の書き手と『源氏物語』の書き手は、同じ人間の匂いがする。人の悪口が的確で、自意識が過剰で、褒められると身をよじり、しかし文章はどこまでも冷たく正確だ。あの目つきは真似できない。
ただし、これで謎が消えるわけではない。玉鬘系の巻がいつ書かれたのか。宇治十帖の前半と後半のあいだに何があったのか。輝く日の宮は本当になかったのか。五十四帖の外にはみ出した巻は誰の仕業なのか。定家が写した「一本」は、どこから来たのか。どれも未解決のまま残っている。
そして時々、二〇一九年のようなことが起きる。四谷の納戸の長持から木箱が出てきて、八百年ぶりに定家の筆跡が世に出る。そのたびに、教科書が書き換わるかもしれないと騒がれ、しばらくして冷静な検証が行われ、実は書き換える必要はなかったと判明する。それでも、その一往復のなかで確実に何かがわかる。大島本は信頼できる、という確認だって、立派な前進だ。
千年前、京都のどこかで、名前もわからない一人の女が、道長から回ってきた貴重な紙に筆を下ろした。その紙は残っていない。彼女が何年生まれで何年に死んだのかもわからない。彼女が全部書いたのかも証明できない。
それでも、私たちは読める。夕顔の家の垣根も、若紫が雀の子を逃がして泣く場面も、宇治川の水音も、千年前とほぼ同じ言葉で読める。無数の名も知らぬ書写者たちが、写し間違えながら、勝手に直しながら、それでも必死に写し続けてくれたおかげだ。
原本は失われた。だが物語は失われなかった。この事実が、たぶんこの千年の論争のなかでいちばん確かなことだ。
