江戸の役人が、オランダ船から降ろした荷物の底を開けた。中から日本の形が出てきた。しかもそれが、当時の地球上でいちばん正確な日本の形だった。
二百年近く前のこの一件は、いまだに「あれは結局なんだったのか」で研究者が揉めている。地図一枚のせいで、幕府の天文方トップが牢の中で死んだ。死んだあとにもう一度引きずり出されて、首を斬られている。連座した学者と通詞は五十人を超えた。そしてその中心にいたドイツ人は、追放されてから三十年後、しれっと日本に戻ってきた。
順番に話していく。
台風の夜、出島の家が屋根ごと持っていかれた
一八二八年九月十七日。旧暦でいえば文政十一年八月九日にあたる。その日の長崎は、午後まで気持ちよく晴れていた。夕方から小雨が落ちはじめ、真夜中を回るころには手のつけられない暴風雨になっている。九州にとんでもない台風が突っ込んできたんだよな。あとに「シーボルト台風」と呼ばれる、日本の気象史でも屈指の化け物だ。
出島の商館医フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、この夜、学者の血が騒いだらしい。家の外に気圧計と寒暖計と湿度計を並べ、予想外にやってきた台風の記録を取ろうとしていた。そこへ突風が来る。窓ガラスが粉々に砕けた。風が家の中を吹き抜けて、建物そのものが揺れはじめる。もう記録どころじゃない。
彼は妻の其扇――日本名を楠本瀧という長崎丸山の女性だ――と、生まれてまだ一年ちょっとの娘イネを抱えて外へ出た。玄関先に積み上げてあった荷箱の隙間に、家族三人でうずくまる。近所のデ・フィレネーフェの家へ助けを求めようと立ち上がった瞬間、また風にはたき落とされて荷箱の上に転がった。あとはもう夜明けを待つしかない。
このときのことを、シーボルトは母親への手紙に書いている。家の二階は台風にやられた。それでも玄関に積んであった荷箱の山が家族の避難所になってくれたのは幸運だった。大きな箱二つか三つのあいだで、家が潰れる瞬間をずっと待っていた。屋根はあっけなく吹き飛んだ。自分の家だけでなく出島のほとんどの家が屋根を失い、庭も石垣もあちこち壊されて、倒れた家や倉庫がいくつも見えた。だいたいそういう内容だ。手紙はいまドイツのブランデンシュタイン城の文書庫に残っている。
運命の皮肉としか言いようがないのは、この夜に彼の家族を守った「荷箱」こそが、のちに彼の人生をひっくり返す荷物だったという点だ。
被害の規模は洒落にならない。台風は九月十八日の午前二時ごろ西彼杵半島へ上陸し、時速五十五キロで北東へ抜けて関門海峡に達した。山口あたりでもう一度上陸し、中国地方を縦断している。有明海では最大四メートルの高潮が起き、六千町歩の耕地が水没した。佐賀藩だけで死者はおよそ一万人。九州北部全体では一万九千人。全国では二万人を超えたとされる。ちょっとした戦争より人が死んでいる。
荷を全部おろせ――奉行所が蘭船にやった前代未聞のこと
長崎湾の向こう岸でも、事件が起きていた。
シーボルトの膨大な収集品を積んだオランダ船コルネリス・デ・ハウトマン号が、出島の沖で出航を待って錨を下ろしていた。ところが強風に流された唐船が、ハウトマン号の錨綱を切ってしまう。船は制御を失って漂い、稲佐の浜――志賀家の屋敷の前あたりだ――に船首を突っ込む形で座礁した。
ここから先が、長いあいだ「シーボルト事件の発端」として語られてきた場面だ。
奉行所の役人が飛んできて、長崎奉行の本多佐渡守正収と大草能登守に報告する。ハウトマン号の出港は二日後の九月二十日に決まっていた。ところが奉行は、この座礁を「出港ではなく入港」とみなすという理屈を持ち出した。無茶苦茶な解釈だ。出港のときは積荷と乗員の簡単なチェックで済ませるのが慣例で、入港のときにやる本格的な臨検とはまるで別物だからだ。抜き打ちの臨検自体は、密貿易やキリシタンの潜入を防ぐために沖の船へ時々やっていた。ただしオランダ船に対してやるのは、これが初めてだったという。
そして九月二十日、奉行の監督下でハウトマン号の積荷が全部おろされ、徹底的に調べられた。案の定、国外に出してはいけない品物がぞろぞろ出てくる。奉行は品目リストをつけて江戸へ早馬を飛ばした。十月半ば、老中たちはオランダ人がどれだけ大規模に禁制品を持ち出そうとしていたかを知って仰天する。
――というのが、教科書にも小説にも百年以上のあいだ書かれてきた筋書きだ。
ところがこの筋書き、まるごと作り話だったらしい
ここでいきなり足元が崩れる。「座礁で発覚」という話は、一九九六年に否定されている。
やったのは梶輝行。いまは横浜薬科大の教授だ。シーボルト記念館が出している研究論集『鳴滝紀要』の第六号に「蘭船コルネリス・ハウトマン号とシーボルト事件」という論文を書き、当時のオランダ商館長メイランの日記を精査した。
そこで何がわかったか。座礁した時点でハウトマン号に積まれていたのは、船体の安定を保つためのバラスト用の銅五百ピコル、およそ三十トンだけだった。つまり船倉はほぼ空だったんだよな。シーボルトの荷物なんて載っていない。しかもメイランの日記には、修理のときに荷物を臨検されたという記述がどこにもない。通説を立証する材料が、商館長本人の記録から出てこないわけだ。
じゃあ、なんでそんな話が広まったのか。
梶によれば、震源は江戸期の国学者・中島広足が書いた「樺島浪風記」だ。中島は台風が去った二日後に長崎へ入って被害を目撃した人で、後年この本にこう書いた。こたびの大風は、まさしく神風なり。船をふきあげられしかば、つみ入れたる物どもとりおろし、とかくせらるゝついでに、さるものどもみなあらはれ出て。外国人が日本の国防機密を持ち出そうとしていたのを神風が暴いてくれた、という話に仕立てたわけだ。長崎市長崎学研究所の学芸員である藤本健太郎は、中島が国学者で外国人の日本での活動を良く思っていなかったこと、人から人へ伝わる過程で話が脚色されたことを指摘している。
とどめを刺したのが、シーボルト研究の大御所である呉秀三だ。大正十五年、一九二六年に出た『シーボルト先生其生涯及功業』という大著の中で、幕末の外交官僚・田邊太一の回顧談「幕末外交談」などを引きながら、「座礁で発覚」説を採用した。この本があまりに充実していたせいで、以後の研究者はみんなこの本に寄りかかった。神風の逸話が、学問の権威のお墨付きをもらって定説になってしまったわけだ。
江戸から飛んできた飛脚が運んだのは、天文方の名前だった
じゃあ本当はどうバレたのか。二〇一九年、これを直接裏づける史料が見つかっている。
長崎で三井越後屋の代理店をやっていた商人、中野用助が、江戸の本店へ送った事件報告書の写しだ。三井の呉服商にとって、この事件が日蘭貿易に飛び火したら輸入反物の商売が吹っ飛ぶ。だから長崎駐在員が内密に情報を集めて江戸に流していた。商人の危機管理メモが、二百年後に歴史をひっくり返したことになる。
中野の報告書が書いている順番はこうだ。まず、シーボルトが伊能図を持っていることが江戸で発覚した。江戸から飛脚で長崎へ通報が飛んだ。それを受けて長崎奉行所がシーボルトを取り調べたら、伊能図をはじめ禁制品がぞろぞろ出てきた。座礁はまったく関係ない。メイランの日記ともぴったり整合する。いまはこの「江戸露見説」が有力ということになっている。
つまり順序が逆だったんだよな。長崎で見つかって江戸が驚いたのではなく、江戸で見つかって長崎に指示が飛んだ。
だから台風で船が座礁して出航が遅れたことは、事件の原因ではない。シーボルトが日本を出られず、一年以上も取り調べを受け続ける羽目になったという「結果側の事情」でしかない。神風は事件を暴いてはいないが、逃がしもしなかった。
「地図をくれ」と言い出したのは、シーボルトじゃなかった
もっと衝撃的な話がある。二〇二〇年と二〇二一年、梶輝行が『鳴滝紀要』の三十号と三十一号に発表した論文だ。オランダのハーグ国立中央文書館にある、一八二六年の商館長ドゥ・ステュルレルの「江戸参府日記」を、オランダ語の原文から翻訳して読み込んでいる。
そこから出てきたのは、これまでの筋書きを根っこからひっくり返す事実だった。
高橋景保は、伊能図のうち「特別小図」と呼ばれる縮尺タイプの日本地図を、オランダ本国か蘭印政庁のあるバタヴィアで銅版印刷にして、四十部から五十部作らせようとしていた。一八二五年に異国船打払令が出るような対外関係の緊迫が背景にある。日本という国のかたちを明確にして対外防衛に備える。そういう景保独自の壮大な構想と野心があった。彼はそれを、江戸に滞在中の商館長ドゥ・ステュルレルに内密で依頼したんだ。
日記によれば、景保が伊能図を持参して見せたのは、一行が江戸を発つ直前の五月十五日。旧暦でいう四月九日だ。景保は商館長に相談したその足でシーボルトの部屋を訪ね、同じように伊能図を見せて、銅版地図印刷の構想を告げている。
これが本当なら、「シーボルトが日本地図をほしがって景保にねだった」という前提そのものが後世の創作ということになる。地図を最初に机の上へ広げたのは景保のほうだ。
しかもドゥ・ステュルレルは一八二六年にバタヴィアへ帰任してメイランと交代してしまう。景保はこのプロジェクトを、出島に残ったシーボルトへ託して進めるしかなくなった。一八二七年の景保からシーボルトへの特別小図の譲渡は、その延長線上にある。
後日談も渋い。事件のあと、商館長メイランはバタヴィア政庁から密命を受けている。高橋が日本地図の印刷をオランダ商館に依頼した事実があるのか調べろ、というものだ。メイランが長崎奉行に確認すると、景保は一八二九年に獄死していて事実確認ができない、そもそも日本地図を外国へ譲渡するのは国法違反なので幕府御用で印刷を依頼することなどありえない、という回答が返ってきた。メイランはそのままバタヴィアへ報告した。結果として、景保の銅版印刷プロジェクトは日本でもオランダでも歴史的事実として認識されないまま、二百年近く埋もれることになる。
伊能図というのは、そもそもどれくらいヤバい紙だったのか
話を戻して、そもそも何がそんなに大問題だったのかを押さえておきたい。
伊能忠敬は一七四五年生まれの商人だ。五十を過ぎて隠居してから学問を始め、江戸へ出て幕府天文方の高橋至時に弟子入りした。至時というのが景保の父親なんだよな。
忠敬の本来の狙いは「子午線一度の長さを正確に測る」という純粋な学術目標だった。ところが幕府側には、西洋列強の船がうろつきはじめた海の防備を固めたいという事情がある。学術欲と国防要請ががっちり噛み合って、一八〇〇年から一八一六年まで、全国十次にわたる測量事業として動き出した。
忠敬が出した子午線一度は二十八・二里、およそ百十・七四キロ。現代の計測値との誤差は〇・二パーセント程度しかない。二百年前の日本人が、歩測と天測でこの精度を叩き出している。
完成したのは文政四年、一八二一年八月七日。忠敬本人は一八一八年に死んでいて、完成を見ていない。仕上げの監督をやったのが高橋景保だ。大図が二百十四枚、中図が八枚、小図が三枚。この「大日本沿海輿地全図」は完成後、江戸城の紅葉山文庫に秘蔵された。国防上の理由で流布は禁止。誰でも見られる代物じゃない。
つまりこれは、当時の地球上でいちばん正確な日本の輪郭が描かれた紙だ。海岸線の形と水深がわかるということは、どこに船を寄せられて、どこに兵を上げられるかがわかるということでもある。外国人の手に渡ったらどうなるか、幕府はよくわかっていた。だからこそ、景保が下役に命じて写しを作らせた行為は、当人がどれだけ国益を考えていようと言い訳がきかなかった。
ちなみに原本は一八七三年の皇居大火で焼けている。関東大震災では東京帝国大学附属図書館の副本まで焼けた。日本国内から現物がほぼ消えたあと、二〇〇一年にアメリカ議会図書館で二百七枚が見つかって大騒ぎになる。皮肉な話だが、シーボルトが持ち出した写しも含めて、海外に出たものが日本の地図史を救った側面がある。
出島と鳴滝塾、五十人の門人が回していた情報の交換所
シーボルトが来日したのは一八二三年、文政六年八月。二十七歳だった。ヴュルツブルク大学で医学を修め、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐という肩書きでバタヴィアに渡り、そこから長崎へ来ている。ここで押さえておきたいのは、彼がドイツ人であることを隠し、オランダ人として入国している点だ。のちのスパイ説が食いつくのは、まずここになる。
出島は扇形の人工島で、面積はおよそ四千坪、一・五ヘクタール。オランダ人は商館長のカピタン、次席のヘトル、荷倉役、筆者、医師、台所役、大工、鍛冶など十人から十五人ほどが常駐していた。日本人職員は日行使、筆者、小使、火用心番、探番などで百人以上。オランダ通詞は大通詞、小通詞、稽古通詞という階級に分かれた専門職の役人だった。
この島から出られないはずのシーボルトに、長崎奉行の高橋重賢――もと松前奉行だ――が異例の便宜を図る。市内の鳴滝に塾を設け、診療と講義をやることを許した。
一八二四年に開いた鳴滝塾には、全国から書生が集まった。高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海、石井宗謙、湊長安、高良斎。門人は五十人を超えたとされる。
シーボルトの教え方が独特だった。西洋医学や自然科学を教える見返りに、門人へ日本の自然、地理、歴史、風俗に関する論文をオランダ語で書かせたんだ。優秀な論文を出した者には「ドクトル」の称号を与えた。要するに、若い日本人の知識人に日本を調べさせ、その成果を自分のところへ集約するシステムだ。博物学的には金脈、外交的にはグレーだった。
塾の雰囲気を伝える逸話がひとつ残っている。宴会ではオランダ語以外を使うと罰金というルールがあったのに、酒が入ると大半は日本語に戻る。高野長英だけは意地でオランダ語を使い続けた。それを妬んだ伊東玄朴が階段から突き落とそうとしたとき、長英はとっさに「フヴァイレック」と叫んだ。危ない、をオランダ語で叫んだわけだ。大槻文彦の『復軒雜纂』に載っている話で、とっさに出るくらいには身体に入っていたということでもある。
十月十日、伝馬町。天文方筆頭が縄を打たれた
一八二六年の江戸参府は、シーボルトにとって一世一代の情報収集旅行になった。
二月に長崎を出て、江戸の阿蘭陀宿である日本橋の長崎屋に一か月ほど滞在する。検使や通詞を含む随行団はおよそ六十人。記録絵師として川原慶賀を連れていき、道中では六分儀で緯度経度を測り、関門海峡や瀬戸内海では投鉛で水深を測っている。富士川の左岸からは六分儀で富士山の高度角を測り、八度四十四分という値を出した。
長崎屋には江戸中の好奇心が押し寄せた。元薩摩藩主の島津重豪、その次男で元中津藩主の奥平昌高、幕府奥医師の桂川甫賢、蘭学者の大槻玄沢、蝦夷地探検で名を上げた最上徳内、そして幕府天文方の高橋景保。最上徳内は蝦夷と樺太の地図をこっそり持ち込んで、シーボルトに筆写させている。景保は何度も長崎屋に足を運んだ。
きっかけは、シーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』全四冊と、蘭領東インドの新しい地図を持っているという情報だった。これを景保に伝えたのは、天文方出役の通詞・吉雄忠次郎。吉雄は長崎屋にいた通詞の末永甚左衛門あたりから聞き込んでいた。
『世界周航記』には樺太北部の航海記録が入っている。伊能図の北部海岸には空白があった。景保にしてみれば、これを手に入れて翻訳し幕府に献上すれば国益になる、という計算がある。景保はオランダ名で「グロビウス」を名乗り、蛮蕪子とも号していた人だ。西洋の知に本気で飢えていた。
そして交換が成立する。
景保は『世界周航記』全四冊と、蘭領東インドの地図十一面のうち九面を受け取った。代わりに部下の測量御用手伝・下川辺林右衛門に命じ、日本と蝦夷地の地図を地名などを省略して新規に作らせ、二度に分けて送っている。さらに間宮林蔵の『東韃地方紀行』『北蝦夷図説』、九州小倉や下関周辺の測量切絵図まで貸し出した。書物奉行も兼ねていた景保は、シーボルトを紅葉山文庫に案内して「江戸御城内御住居之図」まで見せている。手紙のやりとりでは、日本地図のことをKVJという暗号で呼んでいた。暗号を使っている時点で、両方とも「これはまずい」と自覚していたわけだ。
実際に地図を描いたのは、下川辺の指示を受けた川口源次郎、吉川克蔵、門谷清次郎、永井甚左衛門、岡田東輔という下役たちだ。このうち下川辺、門谷、永井は伊能忠敬本人と一緒に測量をやった経験のある連中で、景保のやっていることに疑問を持ち、提供をためらっていたという。それでも上司の命令には逆らえない。この「現場は嫌がっていた」という一点が、のちに事件の火種になる。
破裂したのは一八二八年四月ごろだ。
シーボルトから通詞の吉雄経由で景保に届いた小包の中に、間宮林蔵宛ての書簡と更紗の贈り物が入っていた。景保はそれを間宮に転送する。間宮は封も切らずに、上司の勘定奉行・村垣定行のもとへ届け出た。外国人との私的な贈答は国禁に触れる、という判断だ。一方、景保のほうからは奉行所へ何の届け出もなかった。この非対称が致命傷になる。
内偵が始まった。景保の部下の中から勘定方へ駆け込む者も出る。二枚目の日本地図の複写を命じられ、悩んだ末に密告したという。
そして文政十一年十月十日、新暦でいう一八二八年十一月十六日。高橋景保は縄を打たれ、和田倉門外龍ノ口の評定所に引き出された。容疑はシーボルトとの密交。その足で家宅捜索が行われ、証拠品が押収された。押収品の点数の多さに、幕府のほうが驚いたという。
当初の景保には、これがまったく堪えていなかったらしい。國え忠心を以て彼國の事委しく記せしものを引寄する存心故、御不審のかゝるとも明白に辯明すべし。国のための忠心でやったことだから、疑いをかけられても堂々と弁明する。そう言い放って平然としていたと伝わる。呉秀三の本に採録された言葉だ。この時点で彼は、自分がこれから経験することを何ひとつわかっていない。
十一月、景保の部下で画工の岡田東輔が自宅軟禁中に自ら命を絶ち、四日後に死亡した。事件は一気に、後戻りできない色へ変わる。
獄死した男の腹から臓腑を抜いて、塩に漬けた
伝馬町牢屋敷での取り調べは厳しかった。文政十二年二月十六日、新暦一八二九年三月二十日、高橋景保は牢内で死ぬ。四十三歳か四十四歳。獄死である。
ここからが江戸の司法の容赦ないところだ。被告が死んだからといって、幕府は裁判をやめなかった。
景保の遺体は臓腑を抜かれ、塩漬けにされて保存された。判決が出るまで「被告」を腐らせないためだ。国立公文書館の内閣文庫に「蛮蕪子」という、この事件の顛末を記録した文書がある。請求番号百六十六の百八十九番。そこには景保の遺体を漬けた塩漬け瓶の図まで載っている。
そして文政十三年三月二十六日、新暦一八三〇年四月十八日。獄死から一年以上経ってから、景保は改めて引き出され、罪状を申し渡されたうえで斬首刑に処された。死体に対する死刑執行だ。
江戸の法では、罪が確定していない者を「罪人として死なせる」ことができない。だから死んでいても手続きを完遂する。合理的といえば合理的で、正気の沙汰ではないともいえる。この処理が「シーボルト事件」という言葉に、いまも独特のひんやりした後味を残している。
息子たちにも累が及んだ。長男の高橋小太郎、次男の作次郎――賢次郎とする資料もある――は、父の罪により遠島。大島か八丈島か三宅島か、いずれにせよ江戸には二度と戻れない。事件当時、小太郎は二十五歳、次男は十九歳だったという。
申渡書に書かれた言葉が、いま読んでもきつい
文政十三年の申渡書、つまり判決文が翻刻されて残っている。内閣文庫の「文政雑記」に収められたものだ。高橋景保に対する条文を読むと、幕府の論理がむき出しで出てくる。
要約するとこうなる。
地誌や蘭書和解の御用に役立つ書物を揃えれば御役に立つと日ごろ心がけていた、という申し立ては理解する。しかし二年前に江戸へ来たオランダ人外科のシーホルトが、ロシア人著述の書籍と新しい世界地図を持っていることを通詞の吉雄忠次郎から聞き、これを手に入れて翻訳し献上したいと思い込んだ。熱心に頼んだが手放さないので、たびたび忍んで旅宿へ行って親しくなり、交換を持ちかけた。シーホルトは日本と蝦夷地の良い地図があれば交換すると答えた。地図を異国人に渡すのが国禁だとわかっていながら、この機会を逃すのが残念で、下川辺林右衛門に命じて測量済みの日本と蝦夷の地図から地名などを省略した新規のものを作らせ、二度にわたって贈った。さらに東韃紀行、北異紀行、九州小倉、下関辺の測量切絵図まで貸した。その後シーホルトからエトロフ、ウルップ辺まで続く絵図を作ってくれと言われ、送るつもりで林右衛門に作らせたが、これは贈っていない。この一件が露顕し、シーホルトの帰国前に地図その他を押収した。このような重要な物をオランダ人に渡し重き国禁に背いたのは不届の至りである。加えて日ごろ役所の入用について、私欲ではないにせよ勝手向の費用と一緒くたに紛らわしい処理をしていた。身持ちにも慎みを欠くところがあった。これらは旗本の身分としてあるまじきことで、重々不届の至りである。
そして最後の一行が、これだ。
存命ニ候得者死罪被仰付もの也。
生きていたなら死罪を申し付けるものである。生きていたなら、という条件節つきの死刑判決。この一文のためだけに、遺体は一年以上も塩に漬けられていた。
興味深い――というと不謹慎だが――のは、判決文が「地図を渡した罪」だけで終わっていない点だ。役所の会計処理の不明朗さと、身持ちの不慎まで並べて書いてある。
後者について具体的に書いているのは、部下の下川辺林右衛門に対する申渡書のほうだ。そこには、景保が下川辺の娘を妾同様に召し使っていたことを、下川辺自身が察していながら勤めに障ると考えて放置していた、という記述がある。下川辺はさらに、息子の康彦が幼年なのに十六歳と偽って見習勤めをさせ扶持を受けていたことも咎められ、中追放になった。武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前、下野、甲斐、駿河、東海道筋、木曽路筋、日光道中での居住を禁じられる刑だ。屋敷も没収された。
地図を実際に描いた下役たちにも判決が下りた。川口、吉川、門谷の三人は江戸十里四方追放。日本橋から四方五里以内に住めない。永井甚左衛門は江戸払で、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸の内側に住めなくなった。岡田東輔はすでに自ら死んでいる。その岡田の自殺を止められなかったという理由で、大庭斧三郎は三十日の押込、出野金左衛門は叱り。天文方に出向していた同心の浦野五助と今和泉又兵衛も、不適切な処置があったとして三十日と五十日の押込。長崎屋源右衛門は、景保が内密にシーボルトと会っていることや、シーボルトの診療を受けに多くの人が宿へ来るのを放置した廉で、五十日の手鎖。手を合わせて瓢型の鉄製手錠をかけられる刑だ。
長崎奉行の家来である水野平兵衛は、参府帰りの荷物検査が不十分だったとして押込五十日。新番頭の高橋駿河守は、長崎奉行所勤務時代にシーボルトらの江戸での旅宿取締が行き届かなかったとして差控。組織のケジメとして、末端まできっちり削っている。
眼薬と葵の紋――もうひとりの被告、土生玄碩
地図とは直接関係ないのに、この事件でいちばん有名な連座者のひとりが土生玄碩だ。一七六八年生まれ、将軍の御典医である奥医師をつとめた眼科医。この人の申渡書も残っていて、読むとちょっと切ない。
経緯はこうだ。
オランダ人が江戸に逗留中、息子の玄昌に面会させたところ、外科のシーホルトが眼科療法の膏薬を持っていると聞いた。眼科第一の妙法と聞くが疑わしい点もあるので、玄碩自身が旅宿へ行ってシーホルトと話し、効能を試してみた。すると本当に稀に見る効き目があって感服した。これは万人の助けになる、なんとか伝授してもらおうと、夜中にも忍んで何度も通ってシーボルトと親しくなった。それでも簡単には教えてくれない。
そこで商館長に頼めばどうかと思いつき、周囲の勧めるまま、深く考えもせずに、自分が着ていた拝領の御紋付羽織を渡して製法の伝授を取り計らってくれるよう頼んだ。ところがシーボルトも同じものをほしがったので、紋付の帷子を渡した。すると製法を伝授してくれた。そこで謝礼としてさらに紋服を渡した。
問題はこの「御紋」が徳川将軍家の葵の紋だという点だ。将軍から拝領した葵の紋入りの衣服を外国人に渡すのは、地図と同じか、それ以上に国体に関わる。申渡書は「たとえ私欲にかかわった事ではなく不憫ではあるが、御国禁に背いた段は不届の至り」として、玄碩に改易を命じた。役職剥奪、家禄没収。息子で西丸奥医師だった土生玄昌も、父玄碩不届之品有之候間改易被仰付、依之其方儀御切米被召放者也、として切米を取り上げられている。
この申し渡しは評定所で行われ、大目付の村上大和守が読み上げた。町奉行の筒井伊賀守、御目付の山岡五郎らが立ち会っている。
ちなみにシーボルトが玄碩に教えたのは、瞳孔を散大させる薬――ベラドンナだ――の使い方だったとされる。眼底を診るために必要な技術で、日本の眼科にとっては本物の贈り物だった。医学史的には大金星、司法的には国禁違反。この事件には、ずっとこの二重性がついてまわる。玄碩はのち赦免され、一八五三年まで生きた。墓碑は東京の築地本願寺、正門前にある。
通詞三人は、二度と長崎を見なかった
いちばん重い罪に問われたのは、実は通詞たちだった。青山学院大学名誉教授の片桐一男に『シーボルト事件で罰せられた三通詞』という研究書があるくらい、この三人の運命は事件の核心に近い。
大通詞の馬場為八郎、小通詞助の吉雄忠次郎、小通詞末席の稲部市五郎。高橋とシーボルトのあいだを仲介したという理由で、彼らは永牢――終身刑だ――のうえ、遠国の藩に身柄を預けられた。馬場為八郎は出羽亀田藩預け。吉雄忠次郎は出羽米沢藩預け。稲部市五郎は上野七日市藩預け。三人とも、預けられた先で死んでいる。長崎の潮の匂いを二度と嗅ぐことなく、雪国や山国の座敷牢で人生を終えた。堀儀左衛門も年番通詞預けになっている。
吉雄忠次郎の墓は米沢市中央五丁目の西蓮寺にある。墓地入口の近くだ。墓碑には「還到院誘誉性善居士」という戒名と並んで、こう刻まれている。長崎元住人。
長崎元住人。この五文字がきつい。彼はもう長崎の人ではない、ということを、墓石が言っている。
ややこしいのは、吉雄忠次郎という人が単なる仲介役ではなかったらしいことだ。彼は通詞目付として、シーボルトを監視する任務も帯びていた。それでいてシーボルトに、幕府と長崎奉行の不穏な動きを流していた形跡もある。
景保は取り調べの過程で、部下が勘定方に密告していたこと、間宮林蔵や吉雄忠次郎が幕府側の手先として動いていたことを知る。林蔵はまだしも忠次郎までが、と観念して、関係者の名前を挙げたという。二重スパイ的な立ち位置にいた人間が、いちばん重い罰を食らって雪国で死ぬ。この事件、そういう筋の通らなさが至るところにある。
門人たちもやられた。シーボルトの弟子で富士山に登って気圧計で高度を測った二宮敬作は、半年入獄したのち長崎から追放され、故郷の伊予磯崎へ戻った。絵師の川原慶賀――通称は登与助だ――も処罰された。高良斎も同様。
処罰者の総数は、資料によって「三十数名」とするものと「五十数人」とするものがある。取り調べを受けた人数と、実際に処分が下りた人数の数え方の違いだろう。取り調べだけなら数十人の通詞と門人が対象になり、全体で半年以上かかった。シーボルト個人の審問だけで五か月だ。
一方で、追及を免れた人もいる。江戸参府の道中でシーボルトに情報を提供した門弟の高野長英。「黒龍江中之洲并天度」など貴重な地図をシーボルトに渡した最上徳内。
とくに最上が無傷なのは不自然だ。長崎奉行の高橋重賢がもと松前奉行で、最上と間宮はその当時の配下だったこと、そもそも重賢が二人をシーボルトに紹介したこと。そのあたりで手加減が働いたのではないかと見られている。シーボルトのほうも最上との密約を守り、最上が提供した地図類を二十五年間公開しなかった。義理堅いといえば義理堅い。
間宮林蔵は密告したのか、それとも規則を守っただけか
さて本題のひとつ、間宮林蔵だ。
彼は一七七五年か一七八〇年生まれの、農民出身で幕臣になった探検家。伊能忠敬から測量を学び、文化五年から六年、一八〇八年から〇九年にかけての樺太探査で、樺太が島であることを確認した。間宮海峡の名前の由来だ。日本の地理学史におけるスターである。
ところがこの事件のせいで、彼には「密告者」という札が貼られた。
国史大辞典には「同十一年シーボルト事件がおきると、その密告者といわれ人望を失ったが」と書かれている。人望を失った、と辞典に書かれてしまう人生。平凡社大百科事典は「1828年のシーボルト事件の告発者といわれ、晩年には幕府隠密となった」。新編日本史辞典は「28年(文政11)のシーボルト事件ではその密告者といわれ、晩年は幕府の隠密として終わる」。岩波日本史辞典も「28年のシーボルト事件は、林蔵の密告によるともいわれ、隠密としての行動も知られる」。どの辞典を引いても密告者の三文字がついてくる。
だが彼が実際にやったことは、規則どおりの届け出だ。外国人から私信と反物が届いた。外国人との私的な贈答は国禁に触れる。だから開封せずに上司へ提出した。これを密告と呼ぶかどうかは、完全に解釈の問題になる。
洞富雄が一九八六年に吉川弘文館から出した『間宮林蔵』は、このあたりを冷静に整理している。事件が発覚したのは林蔵の密訴によるものだと当時から噂され、シーボルト本人も林蔵のことを「日本政府が我に対する取調べを誘致したる人」と言っている。だが林蔵の行為を密訴とまで言うのは少し酷かもしれない、と洞は書く。
そのうえで、こう続ける。台風が九州を襲わなかったならシーボルト事件は不発に終わったかもしれない。が、林蔵の動きが事件発覚の端緒となったことは事実である。林蔵は事件そのものの告発者ではなかったかもしれないが、景保の手を通じて受け取ったシーボルトの書翰を奉行所に届け出れば、当然、当局の嫌疑が景保にかかるであろうことを意識していたと見てよい。したがって事件発展の結果から見れば、密告者と考えられても已むを得ない――。
慎重で、そして厳しい判定だ。動機は問わない、結果は動かない、と言っている。
ただし林蔵の側にも事情はあった。景保が林蔵の蝦夷地測量の成果を無断で使っていたという恨みがある。この二人のあいだには確執があった、というのは複数の史料が伝えるところだ。商館長メイランも、林蔵の反発行動は高橋景保に対する妬みから起きたものだと記録している。景保のほうも、部下への指示が威圧的で、家柄の高さに甘えた尊大な態度が反感を買っていたという。
学者社会の人間関係のもつれが、国家機密漏洩事件の引き金を引いた可能性がある。生々しい話だ。
密告説はいつ、誰が言い出したのか
ここは丁寧に押さえておきたい。密告説には「出所を特定できる提唱者」がいない。むしろ、事件と同時発生的に江戸で流れた噂が、そのまま近代の辞典に固着した、というのが実態に近い。
洞富雄がはっきり「当時から噂され」と書いているのが証拠のひとつだ。もっと直接的なのはシーボルト本人で、彼は帰国後の著作の中で林蔵を「日本政府が我に対する取調べを誘致したる人」と紹介している。高橋輝和が二〇〇二年に平凡社から出した『シーボルトと宇田川榕菴』には、林蔵はシーボルトによって密告者としてヨーロッパに紹介された、という記述がある。
つまり密告説の海外向け初出は、被害者本人の口から出ている。これは強い。事件の当事者が「あいつのせいだ」と書き、それが翻訳されて日本に逆輸入された構図になる。
近代日本の学術ルートでは、呉秀三の『シーボルト先生其生涯及功業』が一九二六年に出て、事件像の骨格を作った。そこに載った通説が、そのまま辞典類に流れ込む。
一九七五年のブリタニカ国際大百科事典は、こう書いている。林蔵の樺太行きを推薦した高橋景保が国禁を犯して、長崎オランダ商館の医員であったドイツ人学者シーボルトに、伊能の日本図と林蔵や最上徳内の樺太図を、クルーゼンシュテルンの航海記その他と引き替えに与えたことが、林蔵の密訴で暴露した疑獄である。まるごと密訴説だ。
ところが一九八八年の日本大百科全書は「1828年林蔵の届けにより」と、密告ではなく「届け」という中立的な語に変えている。三十年ちょっとで辞典の語彙が微妙に後退している。研究の進展が、こういう単語選びに出るのが面白い。
批判的な検証をやったのが小谷野敦の『間宮林蔵〈隠密説〉の虚実』で、一九九八年に教育出版から出ている。第十章「発覚――シーボルト事件」で事件の発端と経過を扱った。林蔵を「幕府の隠密」という一枚のイメージで語ることへの疑いを立てた本だ。
石山禎一が二〇〇三年に八坂書房から出した『新シーボルト研究 2』は、商館長メイランの日記を軸に事件を再検討している。真相は日本側における高橋と間宮の学術的トラブル、オランダ商館内部の確執、そして暴風雨で蘭船が座礁してシーボルトの帰帆が遅れたこと、この三つが複雑に絡み合った結果だと考察した。単独犯を探すのをやめた読み方だ。
説その一 ロシアのスパイだった
ここから諸説を一つずつ見ていく。まずロシア説。
根拠になるのは、まずクルーゼンシュテルンとの関係だ。景保が喉から手が出るほどほしがった『世界周航記』の著者イワン・フョードロヴィチ・クルーゼンシュテルンは、ロシア帝国海軍の軍人で、のちに提督になる人物だ。ロシア初の世界周航を指揮し、レザノフの遣日使節を運んだ船の艦長でもあった。日本にとっては、警戒すべき北方の相手そのものである。
シーボルトは帰国後にサンクトペテルブルクへ行き、クルーゼンシュテルンに直接会って北方の地理について意見を交換している。そして一八四〇年に自分の日本図を刊行したとき、副題に「ロシア帝国クルーゼンシュテルン提督に敬意と感謝を捧げて」と入れた。日本の海岸線を描いた地図を、ロシア海軍の提督に献呈しているんだよな。日本側から見たら最悪の絵面だ。
さらに地図上の命名がえげつない。対馬海峡を「クルーゼンシュテルン海峡」、関門海峡を「カペルレン海峡」と名付けている。カペルレンは蘭印政庁の総督の名だ。日本の内海に外国人の名前を貼っていく行為は、地図学における領有意識の表明に近い。
ただし反証も強い。シーボルトはロシアに雇われていない。彼の給料はオランダから出ていたし、追放後もオランダ国王から勲章をもらい、オランダ政府の支援で国立民族学博物館の初代館長になっている。クルーゼンシュテルンへの敬意は、当時の地理学界における第一人者への学者としての礼儀と読むほうが自然だろう。ロシアの手先というより、ロシアの学問成果を日本に流し、日本の学問成果をヨーロッパに流した、双方向の運び屋というのが実像に近い。
説その二 オランダ政府の調査任務だった
こちらは、かなり分が良い。
まず肩書きの問題がある。シーボルトがバタヴィアの蘭印政庁総督に宛てた書簡には「外科少佐及び調査任務付き」という署名がある。これは自称ではなく、公式の役職表記だ。彼は医務官としての任務だけでなく、日本の博物学調査を担っていた。
梶輝行が指摘するように、当時の欧米には日本の風俗習慣をはじめとした総合的な情報の需要があり、日本と通交していたオランダにはそれを発信する役割があった。要するに、日本という「まだ誰も体系的に書いていない国」についてのレポートを出すことは、オランダの国際的地位に直結する仕事だったわけだ。
もうひとつ強い傍証がある。渡辺崋山の記録に、シーボルトの役職を尋ねたところ「コンデンスポンデーヴォルデ」という答えが返ってきた、という記述がある。内情探索官、という意味だと解されている。当時の日本の蘭学者自身が「あの人は調査要員だ」と認識していたことになる。
さらに秦新二が一九七五年からオランダで調査して掘り出したコレクションの中身が、この説を強烈に補強した。ライデン国立民族学博物館、ライデン大学図書館、自然史博物館、さく葉館などを回り、一九八七年にリストを完成させている。
そこから出てきたのは、北斎直筆の「武器・武具の図」、間宮林蔵直筆の樺太計測地図「黒竜江中之洲ならびに天度」、江戸城本丸の詳細図である「江戸御城内御住居之図」、林蔵や将軍家斉に宛てた書簡、事件の顛末を記した文書、そして没収されたはずの日本地図の写しまで。植物標本や動物標本と一緒に、軍事・政治資料が並んでいる。学術的好奇心という一語では説明しにくい取り合わせだ。
決定的な傍証もある。シーボルトは日本近海の海底の深度測定をやっていた。江戸参府の道中、関門海峡と瀬戸内海で投鉛を落として水深を測っている。植物学者は水深を測らない。幕府が最終的に「日本地図の国外持ち出し禁止を知らなかったとは考えにくい」「日本近海の海底の深度測定を行っていた」という二点を挙げて追放を決めたのは、江戸の役人が馬鹿ではなかったことを示している。
ただし「調査任務がある」ことと「スパイである」ことは同じではない。近代的な意味でのスパイ、つまり敵国の軍事情報を秘密裏に本国の軍へ流す工作員と、学術調査を公務として命じられた博物学者は、機能としてはかなり違う。この境界線が曖昧だったのが十九世紀前半という時代で、だからこそいまも議論が終わらない。
説その三 幕府内の権力闘争で、景保は生贄だった
いちばん面白いのがこれだ。
提唱者は秦新二。一九九二年四月に文藝春秋から出た『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』が初出になる。三百二十ページの書き下ろしで、日本推理作家協会賞を受賞し、「本の雑誌」の一九九二年度ベストワンにも選ばれた。一九九六年に文春文庫、二〇〇七年には双葉社の日本推理作家協会賞受賞作全集の第七十三巻に入っている。文庫の解説は北上次郎。
秦の議論の骨は、幕府の行動の矛盾を突くところにある。
幕府は二枚目の日本地図をシーボルトが持っていることに感づいていながら見逃した。景保からシーボルトへ「江戸御城内御住居之図」が渡ったことを知っていながら、まったく追及していない。最上徳内の所有する地図類のほとんどが渡っているのに触れていない。シーボルトと間宮林蔵が江戸で会っていた事実を隠している。これだけ手加減しているのはおかしい、というのが出発点だ。
ちなみにシーボルトと間宮が最上徳内の仲介で長崎屋で実際に会っていたという事実は、秦の調査で初めて明らかになった。それまでは面識なしとされていた。
そこから秦が導いた結論は、この事件の目的はシーボルトを罪に落とすことではなく、別の人間を牽制することだった、というものだ。
別の人間とは親蘭大名、なかでも薩摩の島津重豪。隠居の身でありながら派手な振る舞いが多く、将軍家斉も持て余していた。家斉にとって重豪は岳父にあたる。牽制するチャンスを狙っていた。シーボルト事件の最大の目的はそこにあったのではないか、と秦は推測する。
幕府側の先兵として動いたのが間宮林蔵で、彼は御庭番出身の勘定奉行・村垣定行の部下だった。一八二四年にシーボルトが鳴滝塾を望んだとき、村垣がそれを許したのは、シーボルトを自由に泳がせるためだったのではないか。長崎奉行の高橋重賢も、村垣の北方時代の部下だった。シーボルトから林蔵に送られた小包は、村垣が作為的に起こした引き金にすぎなかった――。
傍証として秦が挙げるのは、事件発覚後に重豪の幕府への要求がぱったり止んだこと、薩摩藩による唐物の密貿易が行われなくなったことだ。目的が達成されたので、すべてを高橋景保とシーボルトのせいにして事件を闇に葬った、という読み方になる。
この説、読み物としては圧倒的に面白い。ただ反証もきっちり出ている。
読者からもっとも多く出ている批判は、単純に証拠が足りないという点だ。島津重豪が黒幕であったとする推理は面白いが証拠はない、というレビューは複数ある。地道な検証に徹していてくれたなら、何で最後の最後で謀略史観になっちゃうんですか、という、前半を絶賛したうえでの落胆も目立つ。
さらに事実誤認を指摘する声もある。秦の議論の一部にある、シーボルトが日蘭を戦争させようとしていたという見立てについて、この時期のオランダはナポレオンに征服されて国家として存在していなかったのだから無理がある、という指摘だ。実際には一八一五年にネーデルラント王国として復活しているので、この批判自体もやや粗い。ただ、読者がそこまで踏み込んで反論を書くくらいには、この本が議論を焚きつけたということでもある。
なお、権力闘争説そのものは秦の専売特許ではなくなっている。梶輝行は、事件の端緒は高橋と間宮の個人的確執というより、一八二五年の異国船打払令の策定をめぐる幕府内部の対立や、政治的・外交的・海防的な政策の問題が絡んだ、より大きな背景があったという見方が現在強くなっている、と語っている。
黒幕を一人に絞る読み方から、政策路線対立という構造的な読み方へ。研究のトレンドはそちらに動いている。
説その四 地図はとっくに外へ出ていた
地味だが、案外効くのがこれだ。
そもそも日本の地図が海外に出るのは、シーボルトが初めてじゃない。出島の三学者のひとりで一六九〇年から二年間滞在したエンゲルベルト・ケンペルは、『日本誌』を書いてヨーロッパに日本を初めて体系的に紹介した。そこには日本地図も載っている。ただし現状の日本とは大きく異なる代物だった。カール・ツンベルクもいる。
シーボルト自身、伊能図系の写し以外に大量の刊行地図を集めていて、その多くはすでにオランダへ発送済みだった。長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」、山城や大和や近江や河内の国絵図、林子平の『三国通覧図説』、最上徳内の蝦夷図、高橋景保自身が作った「日本辺界略図」、間宮林蔵の「黒竜江中之洲並天度」。地誌類も含めて二百点程度あったとされる。
つまり「日本の地図」というカテゴリ自体は、とっくに国外へ流れていた。
じゃあ何が特別だったのか。精度だ。長久保赤水図や林子平図は、当時の日本人が持っていた最良の知識ではあっても、実測に基づいていない。伊能図は違う。全国を歩いて測った実測図で、海岸線の形が現実と一致する。これが決定的な差だった。
証拠は事件のあとに出る。
シーボルトが持ち帰った日本全図をメルカトル図法に描き直し、一八四〇年に刊行したのが、九十一・八センチ掛ける六十七・九センチの石版彩色地図だ。表題は「日本人の原図および天文観測にもとづく日本帝国図」。地名はすべてドイツ語表音のローマ字で、京都はMIJAKO、江戸はJEDO、富士山はFusijama。経度は伊能図と同じく京都をゼロ度としつつ、グリニッジ基準の数値も併記している。
この地図の精巧さと沿岸情報の詳しさを見たイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国が、武力による日本占領の方針を転換した、と言われている。地図が戦争を防いだ、という解釈だ。真偽はともかく、そう語られるくらいのインパクトがあった。
だから「地図はもう流出していたから大した問題ではない」という言い方は、半分正しくて半分間違っている。出ていたのは不正確な地図で、出てはいけなかったのは正確な地図だった。
シーボルト本人は、取り調べで何を言ったか
一八二八年末には幕府の捜査がシーボルト本人に及び、翌一八二九年一月から長崎奉行による厳しい取り調べが始まった。ただこの取り調べ、想像するほど陰惨ではない。むしろ妙にぎこちない。
まず、最初から口頭尋問ではなかった。奉行所から質問票が先に渡され、シーボルトが事前に答えを準備できるようにしてあった。相手が外国人で通訳を挟むから、というのが表向きの理由だ。だが通詞たちは全員シーボルトと親しい。彼を厳しく追及することをためらったため、取り調べは遅々として進まなかった。
シーボルト自身が、インドネシア国立文書館に残る文書の中で取り調べの日についてこう書いている。取り調べの日はなかなか楽しかった、奉行から出された質問票にしたがって一問ずつ聞かれた、通詞の中にはオランダ語をよく理解できない者もいて、彼らはしばしば立ち会っていた吉雄忠次郎の助けを必要とした――。
被告が「楽しかった」と書く尋問。友人が友人を尋問する場になっていたわけだ。
シーボルトの態度は一貫していた。自分の情報収集はもっぱら学問上の目的によるものだと主張し、地図の返還を拒否した。捕まった日本の友人たちを助けるため、彼らに責任があることを否定した。人名を聞かれると「知らぬ、忘れた」で押し通す。すべては自分の責任だ、と。
さらに驚くべきことに、長崎奉行に帰化願を出している。自分が日本の住民となって終生日本に留まる、人質になってもいい、そのかわり友人たちを助けてくれ、という申し出だ。景保が牢の中で死んだあと、シーボルトへの追及は明らかに弱まった。彼の陳述によって多くの友人や協力者が助かった、と言われている。
ただし彼は同時に、抜け目もなかった。
地図の所持が発覚すると察知するや、オランダ商館の画工カール・ヒューベルト・デ・フィレネーフェと組んで、夜を徹して地図を複写した。複写を金庫に隠し、蝦夷、千島、樺太の原本は通詞の吉雄に返す。景保から贈られた日本地図のほうは出島の植物園に埋めて隠した。奉行所の追及が厳しくなって、やむなく差し出したのはそのあとだ。
押収された「カナ地名日本図」――伊能特別小図、仮名書き特別小図とも呼ばれる――三面は、いま国立国会図書館にある。伊能忠敬原図、高橋景保編「日本図」、一八二七年、請求記号は寄別十三の六十六。日本に残った本物のほうだ。
そして彼が複写したもう一枚は、無事にヨーロッパへ渡った。
二〇一六年、その現物と思われる地図がドイツの子孫宅で見つかっている。調査した国立歴史民俗博物館の副館長で歴史地理学者の青山宏夫によれば、シーボルトは事件発覚前に地図を描き写していたと推測され、発見されたのはそれを基に作成された地図だという。
二〇一八年に発表された研究では、ブランデンシュタイン=ツェッペリン家に伝わる地図資料群の中から、カナ地名日本図と関係すると見られる日本図が五点特定された。とくに二十二番と二十六番の縮尺と注記内容を詳しく調べたところ、カナ地名日本図に固有の特徴が現れていて、写しであることの確実な証拠が得られている。さらに二十二番の地名と経緯度の主な出典が、景保が編集した『地勢提要』の簡略版である『諸州経緯』であることも判明した。
つまり景保は、単に地図を渡した提供者ではなかった。独自の地理的成果の提供者として、シーボルトの日本図に相当な貢献をしていたことになる。
追放、そして三十年後の再上陸
処分が決まったのは文政十二年、一八二九年の秋だ。九月二十五日に国外追放と再渡航禁止が申し渡された。バイエルン国王ルートヴィヒ一世からオランダ政府への働きかけもあったが、覆らなかった。
シーボルトが実際に長崎を出港したのは、その年の十二月末。一八二三年に来日してから六年四か月が経っていた。出港のとき、彼を慕う門人たちがひそかに港外まで船を追ってきたという。妻の瀧と、二歳の娘イネを残しての出国だった。
彼は一八三〇年七月、バタヴィア経由でオランダに帰り着く。ライデンに居を定め、収集品の整理と研究に没頭した。助手はバタヴィアで雇った広東出身の華僑・郭成章と、ドイツ出身の言語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン。
一八三二年からは『日本』の刊行を開始する。ドイツ語で書かれたこの本は分冊配本で、二十年近くかけて出された。発行部数は三百部といわれ、最後のほうは六十部しか出なかったという。全体の目次もなく通しのページ番号もなかったので、購入者が製本所に持ち込んで好きな表紙をつけた。だから現存する初版『日本』には、ひとつとして同じものがないと言われている。
二折判の図版は総数三百六十七枚。四十七枚の手彩色つき豪華版は三百八ターラー、色なしの廉価版は百八十七ターラー。当時の平均的な労働者の年収が百二十から百六十ターラーだから、労働者の年収二年分より高い本だ。
そして一八五八年、日蘭修好通商条約が結ばれて追放令が解除される。翌一八五九年、安政六年。シーボルトは長男アレクサンダーを連れ、三十年ぶりに日本の土を踏んだ。六十三歳になっていた。オランダ貿易会社の顧問という肩書きだった。
だが再来日は、切ない。
長崎の門下生はすでに死んだ者が多く、出迎える人は少なかった。彼の医学知識はもう古びていた。本人の関心も医学より外交に移っていて、一八六一年には幕府の外交顧問に就任するが、オランダをはじめ各国からの抗議を受けて同年中に解雇される。一八六二年、文久二年五月、多数の収集品とともに長崎から帰国した。その後もオランダ政府に貢献したいと願い出たが通らず、故郷ドイツに戻る。一八六六年十月十八日、ミュンヘンで風邪をこじらせて敗血症を併発し、七十歳で死んだ。墓は旧ミュンヘン南墓地にある。
この再来日という行動が、スパイ説にとってはやっかいな材料になる。三十年前に自分を追放した国に、還暦を過ぎてから戻ってくる。オランダにはすでにヘレーネ・フォン・ガーゲルとの家庭があり、子どもも五人いた。それでも日本に来て、瀧とイネに会いに行った。任務なら、そこまではやらない。
娘のイネがたどった、とんでもない人生
楠本イネは一八二七年五月三十一日生まれ。父が追放されたとき二歳だった。この人の人生が、また事件の余波でできている。
母の瀧はのちに別の男性と結婚し、イネは父の門人たちに育てられた。伊予の卯之町で町医者をやっていた二宮敬作――事件で半年入獄して長崎を追われた、あの二宮だ――が呼び寄せて医学の基礎を教えた。産科を学んだのは岡山の石井宗謙。オランダ語を教えたのは村田蔵六、のちの大村益次郎だ。明治維新の陸軍を作った男が、シーボルトの娘にオランダ語を教えている。一八五九年からは、長崎の医学伝習所で教えていたポンペに産科と病理学を学び、一八六二年からはボードウィンに就いた。
つまり彼女は、シーボルト事件で処罰された人々のネットワークの中で医者になった。事件は蘭学者たちを散り散りにしたが、その散った先で彼らは教え続けたわけだ。イネの経歴は、その散らばりの地図みたいなものだ。
一八五九年、再来日した父と長崎で再会している。三十年ぶりの親子の対面だ。一八七一年には、異母弟にあたるシーボルト兄弟の支援で東京の築地に開業した。福澤諭吉の口添えで宮内省御用掛になり、明治天皇の女官・葉室光子の出産に立ち会っている。日本初の女性産科医と呼ばれる所以だ。
ところが一八七五年、医術開業試験の制度が始まると、女性には受験資格がなかった。すでに現場で天皇の側室のお産を扱った医者が、制度上「医者ではない」ことになる。イネは長崎に帰り、六十二歳で完全に廃業した。一九〇三年八月二十六日、麻布で死去。享年七十七。生涯独身だったが、石井宗謙とのあいだに娘のタダ――のちの高子――がいる。イネと二宮敬作の墓は、長崎市寺町の晧臺寺にある。本堂の南の急な石段を十分ほど登ったところだ。
蛮社の獄との距離
シーボルト事件からちょうど十一年後、天保十年、一八三九年五月。蛮社の獄が起きる。渡辺崋山と高野長英らが、モリソン号事件と幕府の鎖国政策を批判したとして捕らえられた言論弾圧事件だ。
この二つはよく並べて語られるが、性質はかなり違う。
シーボルト事件は「国禁の物品が外国人の手に渡った」という、物と法に関する事件だ。地図を渡したかどうかという事実認定で決着がつく。対して蛮社の獄は「政策批判を書いた」という言論の事件で、しかも高野長英の『戊戌夢物語』は写本で流布して反響を呼んだものだ。弾圧の首謀者とされる鳥居耀蔵は、幕府の文教部門を代々司る林家の出身で、蘭学そのものへの敵意が動機に含まれている。
ただし連続してもいる。文政十一年に幕府天文方の高橋景保が禁制の地図をシーボルトに贈ったという事件は幕府に衝撃を与えており、それが蛮社の獄に影響を与えた、と整理されている。要するに、シーボルト事件が「蘭学者は危険かもしれない」という空気を作り、その空気の中で蛮社の獄が実行された。
そして高野長英というのが、両方に顔を出す唯一の人物だ。彼は鳴滝塾の門人で、江戸参府の道中にシーボルトへ情報を提供していたのに、シーボルト事件では追及を免れている。十一年後、今度は逃げられなかった。永牢を言い渡され、弘化元年、一八四四年に牢へ放火して脱獄し、一八五〇年に殺害されている。渡辺崋山は在所蟄居に減刑されたが、二年半後の天保十二年十月十一日に自ら命を絶った。逮捕された町人の何人かは拷問で獄死している。
こう並べると、シーボルト事件のほうがまだ「法の建前」を守っていたことがわかる。塩漬けの遺体を引き出して斬首するという常軌を逸した手続きも、裏を返せば手続きを飛ばさなかったということだ。蛮社の獄は、そこがもっと荒い。
なぜこれが「日本初のスパイ事件」と呼ばれるのか
そろそろこの問いに答えたい。日本史上、外国人が情報を持ち出そうとした事例はもっと前にもある。それなのに、なぜシーボルト事件だけが「日本初のスパイ事件」という枕詞をもらうのか。
理由は三つあると思う。
ひとつめは、対象が「国家機密」というカテゴリーにきれいに収まったことだ。伊能図は幕府が国防目的で作らせ、国防目的で秘匿した。作成の意図と秘匿の意図が一本の線で繋がっている。近代国家における機密文書の条件を、江戸時代に先取りで満たしてしまっている。だから近代人が読んだときに「わかる」んだよな。
ふたつめは、加害者側に公的な調査任務があったことだ。シーボルトは個人の好奇心で動いていた面が大きいが、公文書には「調査任務付き」と書かれ、蘭印政庁総督から直接の指示を受けていた。個人の犯罪ではなく、国家間の情報のやりとりとして読める枠組みがある。渡辺崋山が聞き出した「内情探索官」という肩書きも効いている。江戸時代の日本人自身が、この人を情報要員のカテゴリーで理解していたわけだ。
みっつめが、いちばん大きい。処罰の規模と苛烈さだ。
天文方の筆頭が獄死して死体が斬首され、通詞三人が遠国預けの永牢で死に、五十人前後が処分される。将軍の御典医が改易になる。この規模の連座は、幕府がこれを「国家の一大事」と認識していた何よりの証拠だ。国家が国家を賭けて反応したから、国家対国家の事件として記憶された。
裏を返せば、これは幕府が近代的な「情報主権」の感覚を持ちはじめていた証拠でもある。海岸線のデータが国力そのものだと理解していたから、あれだけ怒った。実際、シーボルトの日本図を見たヨーロッパ諸国が武力占領の方針を転換したと言われているくらいだから、幕府の警戒は的外れではなかった。ただし彼らが守ろうとした情報は、守り切れずに海を渡り、そして結果としては日本を守るほうに働いた可能性がある。歴史はときどきこういう意地悪をする。
ネットと研究者は、この事件をどう噛んでいるか
反応を見ていくと、はっきりした傾向がある。
いちばん多いのが「高橋景保が気の毒すぎる」という声だ。ある歴史ブログの記事は締めくくりに「とにかく高橋景保さんが気の毒でなりません」と書き、別の記事も「獄死してしまった高橋景保が可哀相というか」と漏らしている。獄死したうえに死体を塩漬けにされて斬首、という一点が、読んだ人の情緒に刺さる。息子二人が遠島になっているのも効いている。
日本のネット上でのこの事件の受容は、かなりの部分が「景保への同情」で駆動している。シーボルトが主役の事件なのに、日本側の視点では主役が入れ替わっているのが面白いところだ。
シーボルトの評価は真っ二つに割れる。
オランダのライデンまで行ってシーボルトハウスを見てきたという旅行記は、標本のラベルに残る「Japon」の文字やシーボルトの署名を見て、これは「ただ集めた」のではなく「見て、理解して、大切にしようとした」ものだと書いている。そのうえで、地図に手を出して追放された事実は動かないと認めつつ、三十年後に戻ってきた行動は収集や研究では説明がつかない、として「シーボルトは、愛のあるスパイだった」という結論に着地している。この言い回しが、いまのネット上の平均的な落としどころに近い気がする。
研究者寄りの場でも議論は続いている。関西の技術者OBの午餐会で行われた「シーボルトはスパイだったか」という講演では、質疑応答でこんなやりとりがあった。オランダ政府は何を意図して日本の探索をシーボルトに指示したのか、という質問に対して、講師は、日本について系統的に調査し把握することでヨーロッパと東洋の中でのオランダの地位を築きたかったのだろう、と答えている。そして講演の結論は、いわゆるスパイとは言えないが、報告書と資料を作成して持ち帰った行為は「日本から欧州社会への偉大なスパイ行為」と言える、というものだった。定義を分けて評価するやり方だ。
秦新二の本への反応は前述のとおり、前半の検証への絶賛と後半の謀略史観への落胆が同居している。臨場感があって読みごたえがある。裏テーマ的な推理については十分な根拠があるとは言い切れない。多角的に検証している資料として面白い。あるレビューは、幕府の目的はシーボルトではなく内部の権力抗争であり、将軍家斉が薩摩の蘭癖大名・島津重豪に嫌気がさしていた、シーボルトには手が出せないので高橋景保を戒めて事件を闇に葬った、という秦の筋を要約したうえで「個人的には大変おもしろかった」と書いている。この説をもとに、どなたか時代小説家か推理作家に書き直してもらいたい、という感想もある。
小説の影響も無視できない。吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』は一九七八年に毎日新聞社から出て、翌年に吉川英治文学賞を受けた。楠本イネの生涯を追ったこの作品が、日本の一般読者にとってのシーボルト像の入口になっているケースは相当多い。松本零士が『銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルにイネの娘・高子を使ったという話まで流通していて、この事件の余波は妙なところまで伸びている。
反証として何度も持ち出されるのが、やはり座礁発覚説の否定だ。梶輝行本人が「論文の反響が強くなったのは発表から約十年後のことで、歴史事典の内容が書き換えられたり、シーボルト関連の書籍に私の論が紹介され始めたりして手応えを感じた」と振り返っている。一九九六年の論文が定説を動かすのに十年かかった。
そしていまだに、一般向けの記事やまとめサイトには「難破した船から荷物が流れ着いて地図が見つかった」という古い筋書きが平然と載っている。学問の更新速度と、通俗的記憶の更新速度は違う。この事件は、その差そのものを観察できる標本でもある。
名前が犯人を指してしまっている
ここから先は、これまでの話を踏まえた総括と、まだ触れていない角度をまとめて放り込んでいく。
まず、この事件を理解するうえで最大の障害は何か。「シーボルト事件」という名前そのものだと思う。名前が犯人を指してしまっているんだ。シーボルトの事件、と呼んだ瞬間に、外国人が日本の機密を盗んだ話という枠がはまる。
ところが史料を追っていくと、この構図はどんどん崩れる。梶輝行がドゥ・ステュルレルの江戸参府日記から読み出したところによれば、伊能図を最初に持ち出したのは高橋景保のほうだ。彼はオランダで銅版印刷を作らせるという壮大なプロジェクトを内密に企画していて、そのために商館長とシーボルトに地図を見せた。四十部から五十部という具体的な数字まで出ている。
これが本当なら、事件の主語は景保になる。「高橋景保事件」と呼ぶべきものを、我々は二百年間シーボルトの名前で呼んできたことになる。
そして景保の動機は、驚くほど公的だ。異国船打払令が出るような対外緊張の中で、日本という国のかたちを明確にして防衛に備える。そのために正確な日本地図を印刷して数を確保したい。ただし日本には銅版印刷の技術がないから、オランダでやってもらう。この発想の是非はともかく、私利私欲ではない。判決文ですら「仮令私欲者無之候共」――たとえ私欲はなかったにせよ――という表現を二度使っている。幕府も、彼が私腹を肥やそうとしたのではないことは認めていた。認めたうえで、死罪にした。
ここが江戸幕府の恐ろしいところで、彼らが裁いたのは動機ではなく行為だ。国禁を破ったかどうか、それだけ。国益のためだったという弁明は、量刑をまったく動かさない。
景保が逮捕直後に「明白に弁明すべし」と平然としていたのは、彼が近代人的な発想――正しい目的なら手段は許されるはずだ――を持っていたからだろう。そしてその発想は、当時の司法にはまったく通用しなかった。彼が牢の中でいつ絶望したのか、記録は残っていない。逮捕が十一月十六日、死が翌年三月二十日。四か月と少しだ。
交換レートが釣り合っていない
もうひとつ掘りたいのが、この事件における情報の非対称性だ。
景保が手に入れたのは、クルーゼンシュテルンの『世界周航記』全四冊と、蘭領東インドの地図十一面のうち九面。対してシーボルトが手に入れたのは、伊能特別小図の写し二セット、間宮林蔵の『東韃地方紀行』『北蝦夷図説』、九州小倉と下関周辺の測量切絵図、そして江戸城本丸の詳細図。エトロフからウルップ辺までの絵図も作らせていたが、こちらは渡す前に露見して未送になった。
釣り合っているようには見えない。
ただしこれは現代の目で見た評価だ。景保にとって『世界周航記』の価値は計り知れなかった。伊能図の弱点は北方にある。樺太より北、大陸沿岸の情報が空白だった。クルーゼンシュテルンはロシア初の世界周航でそこを航行している。景保は日本地図を「完成させる」ために、その空白を埋める情報を渇望していた。
彼が『新訂万国全図』を一八一〇年に作り、蛮書和解御用の主管として一八一一年から『厚生新編』の訳出を進め、満洲文字による国書の翻訳や満洲語研究にまで手を出していたことを思うと、この人の知的貪欲さは尋常じゃない。国家機密と引き換えにしてでも手に入れたいものが、この世界にあると信じていた。学者としては真っ当で、役人としては失格だ。
天文方蛮書和解御用という組織についても書いておきたい。これは幕府の公式な洋書翻訳機関だ。一八一一年に景保が主管になって始まった。フランスの百科事典のオランダ語版を訳して『厚生新編』を作るのが最初の大仕事だった。ここが後年の蕃書調所、洋書調所、開成所へと繋がり、最終的には東京大学の源流のひとつになる。
つまり景保は、日本の近代的な学術翻訳体制の設計者のひとりだ。その人物が、翻訳のための原本を手に入れようとして死んだ。この皮肉は重い。国家が「洋書を訳せ」と命じておきながら、洋書を手に入れる手段については何も用意しなかった。制度の穴に落ちて死んだ、という読み方もできる。
二万五千点を五年で集めた男
シーボルトコレクションの規模も、改めて数字で見ておく価値がある。
一八三〇年の帰国時に持ち帰った文学的・民族学的コレクションが五千点以上。哺乳動物標本が二百点以上、鳥類が九百点以上、魚類が七百五十点以上、爬虫類が百七十点以上、無脊椎動物が五千点以上。植物は二千種、押し葉標本が一万二千点。追放時に持ち帰った品物は総計およそ二万五千点で、ほとんどがオランダ国王に買い取られた。そのうち五千点をライデンの国立民族学博物館が収蔵している。シーボルトハウスには約八百点が常設展示されている。ミュンヘンとウィーンにも分散している。ドイツのボーフム大学にはシーボルト父子の遺産由来のアーカイブがあり、写本と印刷物が千百点以上ある。
これだけの量を、五年ちょっとの滞在で、出島と鳴滝と江戸参府の道中だけで集めている。どう考えても一人では無理だ。
実際、動植物の収集は門人たちの協力があって成立していた。魚は長崎の魚市場で門人に見つけさせ、ジャワで買ってきたアラックという高アルコールの酒に漬けて保存した。猟師も雇っていた。一八二六年の江戸参府では三重でオオサンショウウオを手に入れている。ヨーロッパにとっては衝撃的な生き物だ。植物は往診の道すがら、鳴滝塾と出島の往復の途中、大坂の植木屋に立ち寄ったときなどに集めた。門人に論文を書かせるシステムも、この収集機構の一部だった。
つまりシーボルトが作ったのは、日本人自身による日本の総合調査ネットワークだ。そしてこのネットワークが、事件によって強制解体された。二宮敬作は長崎を追われ、川原慶賀は処罰され、通詞たちは遠国の座敷牢に消えた。学問の共同体としては、これは壊滅に近い。
ただ完全には死ななかった。散った門人たちが各地で医者になり、塾を開き、次の世代を教えた。二宮敬作が伊予の卯之町で高野長英を匿い、楠本イネを育てたのがその典型だ。弾圧が知識を殺し切れなかったケースとして、この事件は珍しく明るい後日談を持っている。
城の図面と武器の絵は、どう説明するのか
シーボルトが集めた品物の中で、いちばん評価が難しいのが「江戸御城内御住居之図」だ。江戸城本丸の詳細な図面である。植物学者がこれを持っている理由の説明は難しい。景保が書物奉行として紅葉山文庫に案内した際に見せたものが元とされるが、賄賂を使って幕吏から略図を入手したという説もある。
北斎直筆の「武器・武具の図」も同様だ。武具の解説図は、軍事情報の範疇に入る。これらの存在が、スパイ説を完全には否定させない。学術的好奇心の外延は広いが、城の内部図面と武器図解まで含むほど広いかというと、そこは疑問符がつく。
一方で、幕府がこれらをほとんど追及しなかったことも事実だ。秦新二が突いたのはまさにそこだった。江戸城の図面が外国人の手に渡ったと知りながら追及しない幕府というのは、たしかに不自然だ。追及すれば、紅葉山文庫の管理体制そのものが問われる。書物奉行が案内したのだから、制度の欠陥ということになる。
あるいは単純に、これ以上事件を大きくしたくなかったのかもしれない。日蘭貿易は幕府の重要な収入源で、三井のような商人が神経を尖らせるくらいには経済的インパクトがあった。中野用助の報告書が示しているのは、まさにその不安だ。輸入反物を扱う貿易商にとって、この事件は死活問題だった。幕府としても、オランダとの関係を全面的に壊すわけにはいかない。だから幕を引くタイミングを探していた。景保の死は、その口実になった。
事件の終わり方を見ると、その意図がうかがえる。景保が一八二九年三月に獄死したあと、シーボルトへの尋問は形式的なものになった。六月の終わりごろにはシーボルトと通詞への統制も緩み、彼らはかなり自由に動けるようになったという。九月に追放が申し渡され、十二月末に出港。判決から出港まで三か月あるのも、追い出すのに急いでいない証拠だ。
そして日本側連累者への正式な判決が出るのは、シーボルトが出国してさらに数か月後の文政十三年、つまり一八三〇年になってからだ。事件発覚から判決確定まで一年半近くかかっている。この間延びした処理は、幕府が「早く終わらせたいが体裁は守りたい」という二律背反を抱えていたことを示している。
隠せなかった地図が、日本を守った
最後に、この事件が残した一番大きな逆説について書いておきたい。
幕府は伊能図の流出を防ごうとして失敗した。シーボルトは複写を持ち出し、一八四〇年にライデンで日本図を刊行した。これで日本の海岸線は世界に公開された。幕府の敗北である。
ところがその地図の精度が、ヨーロッパ諸国に「この国は測量ができる国だ」と認識させた。武力占領の方針が転換されたという話は、そこから来ている。近代国家の条件のひとつは、自国の領域を正確に把握していることだ。伊能図はその証明書だった。機密として隠していたら伝わらなかったメッセージが、流出したことで伝わった。
さらに、伊能図の原本は一八七三年の皇居大火で焼け、副本も一九二三年の関東大震災で焼けた。日本は自分たちの最高傑作を二度の災害で失っている。二〇〇一年にアメリカ議会図書館で二百七枚が発見されて、ようやく大図の全容に近いものが見られるようになった。国外に出たものが、国内で失われたものを埋めたわけだ。
高橋景保は死体で斬首された。彼が作らせようとした銅版印刷の日本地図は世に出なかった。だが彼が渡した写しは、ドイツの子孫宅で二百年近く眠り、二〇一六年に発見された。そこには『諸州経緯』を出典とする地名と経緯度が写し取られていた。景保自身の学問の痕跡だ。二〇一八年の研究が明らかにしたのは、彼が単なる地図の提供者ではなく、シーボルトの日本図に対する実質的な共同制作者だったということだった。名前は消され、罪だけが残ったはずの人の仕事が、二百年後に地図の中から出てきた。
シーボルトはスパイだったのか。この問いに、たぶん決着はつかない。
彼には調査任務があり、軍事的な資料も集め、水深を測っていた。同時に彼は日本人の妻と娘を持ち、五十人以上の弟子を育て、追放されて三十年後に戻ってきた。この両方が同じ人間の中にある。彼を単純な悪役にしても、単純な親日家にしても、史料のどこかが必ずはみ出す。
むしろこの事件が教えてくれるのは、十九世紀前半という時代には「学問」と「諜報」を分ける線がまだ引かれていなかった、ということじゃないかと思う。世界を測ることと、世界を支配する準備をすることが、同じ道具と同じ手続きで行われていた。六分儀は学者の道具であり、軍人の道具でもあった。
だから幕府の判断も、シーボルトの主張も、どちらも間違ってはいない。国家の論理では彼は罪人で、学問の論理では彼は功労者だ。同じ行為が二つの評価を同時に持つ。そのねじれの上で、高橋景保という一人の学者が潰された。
彼の墓は東京都台東区東上野の五台山源空寺にある。父の至時の墓があり、その隣に伊能忠敬の墓がある。忠敬は「師のそばに葬ってほしい」と遺言を残したので、師弟の墓が並んで立っている。景保の墓は同じ並びだが、少し間を空けて、墓地の入口のそばにぽつんとある。墓碑銘は「玉岡 高橋景保墓」。玉岡は彼の号だ。墓石が父や忠敬のものより新しく見えるのは、罪人として葬られた身を憚って、当時は建立を避けたからだろうと言われている。死後の斬首という判決が、墓石の建立年にまで影を落としている。
その墓碑の脇には、後年になって顕彰碑が建てられた。背面にはシーボルトの言葉が刻まれている。多くの犠牲を払って自分に託されたあの地図によって、オホーツク海沿岸という西洋世界にとって最後の空白域が埋まったのだ、という趣旨のことが書かれている。石を隔てて、加害者と被害者が同じ場所に立っている。
暦を作った男と、日本を測った男と、その地図を海の向こうへ渡して首を斬られた男。三人が、いまも同じ墓地に眠っている。地図一枚をめぐる二百年前のこの騒動は、そこで静かに完結している。
