「天ぷらで死んだ」で片づけるには、あの三ヶ月は長すぎる
徳川家康の死因、と聞いて多くの人がまず思い浮かべるのが「鯛の天ぷらを食べすぎて食あたりで死んだ」というやつだ。
学校の先生が雑談で言ったのを覚えている人もいるだろうし、クイズ番組の小ネタで擦られているのを見た人もいると思う。天下を取って、江戸幕府をつくって、二百六十年の泰平の土台を敷いた男が、最後は油で揚げた魚にやられた。この落差がいい。人間はこういう話が大好物なんだ。
でも、この話には最初からデカい穴が空いている。
家康が問題の鯛を食べたのは元和二年の正月二十一日。そして息を引き取ったのが同じ年の四月十七日。あいだが約三ヶ月ある。
食あたりで三ヶ月かけてじわじわ死ぬ人間は、いない。というか、いたらそれは食あたりじゃない。
この一点だけで「天ぷら死亡説」は事実上詰んでいるのに、四百年たっても消えないどころか、いまだに最有力の俗説として生き残っている。この気持ち悪さこそが、この話のいちばん面白いところだと思う。
この記事では、その三ヶ月を頭からケツまで追いかける。何を食べて、いつ寝込んで、誰が見舞いに来て、どんな症状が記録に残っていて、家康自身が自分の病気を何だと思っていたのか。
そのうえで、食中毒説、胃がん説、寄生虫説、梅毒説、そして家康が自分で調合して飲み続けた薬による中毒説まで、一つずつ順番に潰していく。
さらに、死んだあとの話も全部やる。遺体を久能山に置け、一年たったら日光へ、という遺言の意味と、東照大権現という神様への昇格、そして「結局あの遺体はどっちにあるんだ」という二百年越しの言い争い。おまけに堺の寺に伝わる「家康は大坂夏の陣ですでに死んでいた」というとんでもない異伝まで。長い。覚悟してくれ。
なお、家康にはもう一つ「本物と入れ替わった影武者がいた」という有名な説があるけれど、あっちは別の話としてすでに掘ってあるので、ここでは死因と遺体の行方に集中する。影武者の話は必要な範囲でだけ顔を出す。
元和二年正月二十一日、田中城の台所で出されたもの
まず日付を押さえておく。
よく「元和元年の暮れ」と書かれることがあるんだけど、記録に残っている日付は元和二年正月二十一日だ。旧暦なので、いまのカレンダーに直すと一六一六年の三月上旬あたり。まだ寒い。
大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしたのが前年の五月だから、天下の始末をつけてから半年ちょっと、家康はようやく肩の荷を下ろして遊びに出ていた時期にあたる。
その日、家康は駿河の田中城にいた。いまの静岡県藤枝市。目的は鷹狩りだ。
家康の鷹狩り好きは筋金入りで、隠居してからもとにかく鷹を飛ばしに出かけている。健康のためでもあり、領内を見て回るための実務でもあり、単純に好きだったんだと思う。七十を過ぎてまだ野山を歩き回っていたわけで、この時点の家康は「弱った老人」ではぜんぜんない。
そこへ、京の豪商である茶屋四郎次郎がやってくる。
茶屋家は家康と付き合いの長い商人で、本能寺の変のときの伊賀越えを助けた家として有名な一族だ。ただの御用商人じゃなく、京の情報を家康に運ぶパイプでもあった。
その四郎次郎が、世間話のついでにこう言った。いま京では、鯛を榧の油で揚げて、その上にニラだからっきょうだかをすりおろしてかけて食べるのが流行っていて、これがめっぽう美味い、と。
家康は食に対しては割と保守的な人で、麦飯を食い、味噌をなめ、贅沢を戒める、みたいなエピソードのほうが多い。それなのにこのときは食いついた。
すぐに鯛を用意させている。久能の城代から届いた鯛を使って、大鯛を二枚、甘鯛を三枚。これ、想像するとけっこうな量だ。七十を過ぎた人間が油で揚げた魚を五枚分。しかも、記録によっては「はなはだ美味なりとしてよく召し上がった」的なニュアンスで書かれている。うまかったんだろう。うまかったんだと思う。
そしてその夜、家康は腹痛を起こす。記録の言い回しとしては「食あたりの気があった」といった書かれ方をしている。
ここが「天ぷらで死んだ」伝説のスタート地点だ。ただし、話はここで終わらない。というか、ここから先を誰も語らないから話がおかしくなる。
一晩で治ったはずの腹痛が、そのまま起き上がれなくなるまで
翌日、侍医が薬を出して、家康の腹痛は治まっている。
ここ、めちゃくちゃ大事なところだ。急性の症状は一晩で引いた。しかもその後、家康はすぐ寝込んだわけじゃなく、正月二十五日には駿府城に帰っている。田中城から駿府までは馬なり駕籠なりで移動できる距離とはいえ、危篤の人間を動かす距離じゃない。
つまり、この時点では「ちょっと腹をこわしたじいさん」でしかなかった。
異変が本格化するのは、そこからさらに時間がたってからだ。
二月に入って、江戸から将軍秀忠が見舞いに駆けつけてくる。将軍が江戸を空けて駿府まで来るというのは、それ自体が非常事態のサインだ。単なる食あたりの見舞いに現職の将軍が出張ってくるわけがない。この頃には「大御所の具合がどうもおかしい」という認識が幕府中枢で共有されていたことになる。
そして症状が地味に、しかし確実に悪くなっていく。ここで史料に出てくるキーワードが強烈だ。
食欲がなくなる。胸のあたりがつかえる。腹に大きなしこりが触れる。目に見えて痩せていく。血を吐く。便が黒い。
この並びを見て「あっ」となる人はけっこういると思う。現代の感覚で読むと、これは明らかに食あたりの症状じゃない。もっとよくないものの並びだ。
三月には、朝廷から太政大臣に任じるという知らせが来る。
人臣として最高位、これ以上ないというポジションだ。ただし家康はもう自分で京へ行ける状態じゃないので、勅使が駿府まで下ってきて、床の上で受けている。天下人の人生の総決算みたいな栄誉を、寝たまま受け取る。この絵面が個人的にはやたら生々しくて好きだ。位人臣を極めるのと、体が壊れていくのが、まったく同時に進行している。
この間、駿府には全国から大名や僧や医者が続々と集まってきていた。
家康が死ぬということは、まだ固まりきっていない新体制がどう転ぶかわからないということでもある。大坂の陣が終わって一年もたっていない。豊臣は滅んだが、西国にはまだ豊臣恩顧の大名がごろごろいる。この時期の駿府は、見舞いの場所であると同時に、政治的な情報戦の現場でもあった。
太政大臣になった男が、床の上で書かせた四つの指示
四月に入って、家康は自分の死後の段取りを決めにかかる。
呼ばれたのは、金地院崇伝、南光坊天海、そして本多正純。宗教政策の実務担当と、家康の懐刀と言っていい坊主二人、それに側近筆頭という顔ぶれだ。ここで出された指示が、後の東照宮という壮大なシステムの設計図になる。
崇伝が自分の日記に書き留めた内容によると、家康はこう言った。
自分が死んだら、遺体は久能山に納めろ。葬儀は江戸の増上寺でやれ。位牌は三河の大樹寺に置け。そして一周忌がすんだら、日光山に小さな堂を建てて自分を勧請しろ。そうすれば自分は関八州の鎮守になる、と。
読むとわかるけど、これは遺言というより指示書だ。
しかも四つの場所を使い分けていて、それぞれに意味がある。久能山は駿河、つまり家康が最後に本拠を置いた土地であり、西を睨む位置にある。増上寺は徳川家の菩提寺で、江戸の宗教的な中心。大樹寺は三河、松平家の先祖代々の寺で、家康のルーツそのもの。そして日光は江戸の真北にあたる。北極星の方角だ。死んだ自分を関東の守り神として北に据える、という発想が、この時点ではっきりある。
つまり家康は、死にながら死後の自分をどう配置するかまで設計していた。死んで終わりじゃなく、死んでからも幕府の装置として働かせる。この計算高さというか、最後の最後まで政治をやめない感じが、いかにも家康だと思う。
ちなみに「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」で始まるあの有名な家康の遺訓は、後の時代につくられたものだというのが今ではだいたい定説になっている。水戸の徳川光圀の文章をもとに明治期の人物が仕立てたものが各地の東照宮に配られて広まった、という筋が指摘されている。あれを臨終の言葉だと思っている人は、いったん忘れたほうがいい。
もうひとつ、この時期に家康が出した指示で有名なのが刀の話だ。
ソハヤノツルキと呼ばれる愛刀を、自分が死んだら切っ先を西に向けて久能山に据えろ、と言い残したと伝えられている。西というのはつまり大坂であり、西国の大名たちだ。豊臣を滅ぼしたばかりで、まだ完全には安心できない。だから死体になってもそっちを睨んでいる、という話になる。
伝承としては後付けの匂いもあるけれど、久能山の神廟が西を向いているのは事実で、家康の遺体も西向きに埋葬されたと伝わっている。故郷の三河を眺めるためだとする優しい解釈もあるが、状況を考えると睨んでいるほうがしっくりくる。
そして四月十七日、駿府城の朝
家康が息を引き取ったのは元和二年四月十七日。いまの暦だと一六一六年六月一日。数え七十五、満で言えば七十三歳だった。
田中城で鯛を食ってから、およそ八十五日。三ヶ月弱。この八十五日という数字が、この記事の全部の議論の土台になる。
遺体はその日のうちに、あるいは翌日のうちに、遺言どおり久能山へ運ばれた。
駿府城から久能山までは目と鼻の先だ。急峻な山の上にある元・城跡で、いまも千段を超える石段を登らないとたどりつけない。夜のうちに山を登った行列を想像すると、それだけでちょっと背筋が寒くなる。そして翌月、江戸の増上寺で葬儀が行われた。
一周忌を待って、翌元和三年の春。神号の問題が片づいたあと、家康を祀る行列が久能山を出発して日光へ向かう。
三月中旬に出て、日光に着いたのが四月の初め。二十日あまりかけて、東海道から江戸を経て、北へ運ばれた。そして一周忌にあたる四月十七日、日光で正式な遷宮が行われる。家康は東照大権現になり、日本の北を守る神様として鎮座した。
ここまでが「表の物語」だ。ここから先が、四百年もめている部分になる。
その話、どの本に書いてあるのか問題
さて、いま俺がすらすら書いた「鯛を食って腹をこわした」話は、そもそもどこから来ているのか。
オカルトでも歴史でも、ここを確認しない話は全部あやしいので、面倒でもやっておく。
まず、この逸話の出どころとしてよく挙がるのが、慶長年録や元和年録と呼ばれる記録群だ。徳川家を中心に出来事を年ごとに並べた記録で、江戸幕府の学問所に伝わっていたものが国立公文書館に残っている。ここに、茶屋四郎次郎が鯛を油で揚げる料理を紹介して、家康がそれを食べて腹痛を訴え、食あたりの気があった、という趣旨のことが書かれている。
もう一つ、駿府記という、家康の晩年の駿府での日常を記した記録がある。これは同時代性が高い部類で、病状の推移を追うときに使われる。それから金地院崇伝の日記、いわゆる本光国師日記。これは崇伝が自分で書いていたものだから、遺言の場面に関しては相当に一次に近い。
そして、いちばん有名で、いちばん引用されるのが徳川実紀だ。
ただしこれには注意がいる。徳川実紀が完成したのは天保十四年、つまり一八四三年。家康の死から二百二十年以上たってから幕府がまとめた公式史書だ。当時としては真面目な編纂事業だし、参照した原史料も膨大なんだけれど、二百年後に幕府が自分の始祖について書いた本である、という性格は忘れちゃいけない。都合の悪いことは書かないし、伝説と事実が同じ調子で並んでいる。
だからこの話は、事件の直後の目撃証言ではなく、いくつもの記録が重なりながら江戸時代を通じて形を整えていった「編集された記憶」だと思っておくのが正しい。
鯛を食べた事実自体は、複数の系統に出てくるので、あった可能性は高い。腹痛を起こしたのも、たぶん本当。問題はそこから先、それが死につながったという因果関係のほうで、これは記録が主張しているというより、後の人間が勝手につないだ線だ。
そもそも「天ぷら」という言葉が、まだ世に存在していない
ここでいったん、料理そのものの話をしたい。俺たちは「鯛の天ぷら」と言うけど、家康が食べたものは、たぶん俺たちの知っている天ぷらではない。
まず言葉の問題。
てんぷらという語が文献に出てくるのは、いまのところ寛文九年、一六六九年に出た食道記あたりが最初とされている。家康の死から半世紀後だ。さらに、衣をつけて揚げる作り方をちゃんと書いた本となると、十八世紀半ばまで下る。江戸の屋台でみんなが立ち食いしていた、あの粉の衣がふわっとした天ぷらは、もっとずっと後の文化なんだ。
じゃあ家康が食べたのは何かというと、記録の書き方からすると、榧の実からしぼった油で揚げた鯛、つまり衣なしの素揚げか、それに近いものだった可能性が高い。
あるいは、南蛮渡来の揚げ物料理が京で流行っていたのを、四郎次郎が「京の新しい食い方」として持ってきたのかもしれない。ポルトガル人が持ち込んだ揚げ物文化が長崎から入って、京や堺のような国際的な商業都市で先に流行る、というのはありそうな流れだ。茶屋四郎次郎が京の商人であることを考えると、この線は割としっくりくる。
そして、上にかけたという薬味。ニラをすりおろしたとも、らっきょうに近い野菜だったとも書かれる。文字の読み方の問題で、どちらとも取れる書かれ方をしているものが多い。いずれにせよ、匂いの強い野菜をすりおろして揚げた魚にかける。現代の感覚だと、揚げ物に大根おろしとポン酢をかけるノリに近いんだろうけど、当時はかなり刺激的な新奇料理だったはずだ。
ここが肝心で、「天ぷらの食べすぎ」というイメージで語られると、なんとなくカラッとした軽いものをたくさん食べただけに聞こえる。
でも実際は、油の質も、火の通り方も、魚の鮮度管理も、現代とは比べものにならない条件で作られた揚げ物を、七十を過ぎた男が五枚分食っている。腹をこわして当たり前だ。
ただし、腹をこわして当たり前だからといって、それが三ヶ月後の死因になるかというと、まったく別の話になる。
食中毒で三ヶ月かけて死ぬ人間はいない
では、食中毒説を正面から潰していこう。
細菌性であれウイルス性であれ、食中毒というのは基本的に急性の病気だ。数時間から数日で症状が出て、山を越えるか、越えられないかがそこで決まる。重症化して死ぬ場合も、そのまま何ヶ月も生きて少しずつ弱っていく、という経過にはならない。
まして家康の場合、翌日には薬で痛みが引き、四日後には移動して駿府城に戻っている。この時点で急性期は明確に終わっている。
じゃあ、揚げ物が原因で慢性的な何かに移行した可能性は。
油の酸化による消化器へのダメージ、みたいな話を持ち出すこともできなくはないけれど、それで三ヶ月後に吐血して腹にしこりができて死ぬ、という筋書きは医学的にかなり無理がある。しこりが数ヶ月で触れるほど大きくなるには、それ以前から何かが育っていたと考えるほうがずっと自然だ。
つまり、こう考えるのが一番きれいだ。
家康の腹の中には、鯛を食べる前からすでに何かがあった。揚げた魚をたらふく食べたことで、その何かが症状として表に出た。きっかけではあるけど、原因ではない。医者が言うところの「増悪因子」であって「病因」ではない、というやつだ。
そう整理してしまえば、じゃあその「すでにあった何か」は何だったのか、という問いに全部が収束する。ここから先が本番になる。
腹のしこり、黒い便、みるみる落ちる肉
現在いちばん支持されているのが胃がん説だ。これは医学史の研究者からも繰り返し出ている見方で、根拠は症状の並びにある。
まず、腹に大きなしこりが触れたという記録。触ってわかるサイズのしこりが上腹部にあるというのは、進行した胃の腫瘍として説明がつく。
次に、吐血。胃の腫瘍が出血すれば血を吐く。
そして黒い便。これがけっこう決定的で、上部消化管から出た血液は胃酸で変性して、便に混じるとタールのような黒色になる。医学の世界で下血が黒いというのは、上のほうから出血しているという強いサインだ。四百年前の記録者が、たまたま知識もなく「便が黒かった」と書き残していて、それが現代の診断基準にきれいに引っかかる。この偶然の一致がこの説の強さだ。
さらに、食欲不振と胸のつかえ。胃の入口や中ほどに腫瘍があると、食べ物が通りにくくなって、つかえる感じが出る。そして急激な体重減少。がんの悪液質と呼ばれる状態では、食べていても体が痩せていく。目に見えて痩せた、と書かれるのは、この経過に合う。
期間もぴったりだ。
すでにある程度進行していた胃がんが、油物の大量摂取をきっかけに症状を露呈し、そこから三ヶ月弱で全身状態が落ちて死に至る。これは現代でも普通に見かける経過で、無理なところがどこにもない。
ついでに言うと、家康の家系には消化器系のがんを疑われる人物が何人かいる。息子の秀忠も、孫の世代にも、それらしい死に方をした人がいて、体質的に消化器のがんが出やすい家系だった可能性を指摘する人もいる。これは証明のしようがない話だけど、状況としては面白い。
ただし。ここも冷静にいこう。
俺たちが持っているのは、医者が診察して書いたカルテじゃない。侍が書いた日記と、二百年後に編まれた公式史書だけだ。「腹にしこりがあった」と書いてある文の元をたどると、どこまで一次史料に遡れるのかがはっきりしない部分もある。遺体も掘られていないし、当然ながら病理検査なんてされていない。
だから胃がん説は「もっとも矛盾が少ない説」であって「証明された事実」ではない。この区別は最後まで守っておきたい。
家康は自分の病気を「腹の虫」だと思っていた
ここからが個人的にいちばんゾッとするパートだ。家康は、自分の腹の中にあるものを、寄生虫だと思っていたらしい。
当時の医学の枠組みでは、腹の中にしこりができて痛んだり、体が痩せたりする症状を「寸白」と呼ぶ概念があった。ざっくり言えば、条虫、いわゆるサナダムシのような寄生虫が腹の中にいて悪さをしている、という理解だ。
実際、当時の日本では寄生虫感染はまったく珍しくない。生魚も食うし、下肥を使った農業もやる。腹に虫がいるという前提のほうが、むしろ現実的だった時代だ。
だから家康の自己診断は、当時としてはそこまでトンチンカンじゃない。むしろ、腹にしこり、痩せる、腹が痛む、という条件だけ並べたら、寸白という判断は同時代の常識に沿っている。
問題は、家康がその自己診断に自信を持ちすぎたことだ。
そして、虫がいると思ったら人はどうするか。虫を出そうとする。ここで登場するのが、家康お手製の薬だ。
薬オタクが自分を殺した、かもしれない話
家康が薬学マニアだったのは有名な話で、これは誇張じゃない。
本人が薬草を刻む小刀を持ち、薬研を回し、乳鉢と乳棒を使い、中国から入ってきた医薬書を読み込んで、自分で処方を組んで薬を作っていた。使っていた道具一式が現代まで伝わっているくらい本格的だ。趣味というより、もはや専門技能に近い。
家康にとって健康は戦略だった。
信長は四十九で死に、秀吉は六十二で死んだ。どちらも死んだ瞬間に体制が揺らいだ。長く生きるということ自体が、天下を取り、それを固めるための最大の武器だ、と家康は理解していた。だから鷹狩りで体を動かし、麦飯を食い、贅沢を避け、薬を飲んだ。この健康マネジメントがあったから、家康は七十過ぎまで現役でいられたし、豊臣を滅ぼす時間を稼げた。
常備薬として名前が伝わっているものはいくつもある。
八味地黄丸に代表される腎虚の薬。無比山薬丸と呼ばれる、薬箱の八段目にあったので「八の字」とあだ名された万能薬。鉱物性の生薬を主体にした紫雪。それから烏犀円、万病円といった丸薬。とくに万病円は、名前からしてもうすごい。万病に効く丸薬。実質的には強めの下し薬、つまり瀉下薬の系統だとされる。
ここで話がつながる。
腹に虫がいると思い込んだ家康は、虫を下すために、この万病円をひたすら飲み続けた。すでに体が弱って痩せてきている老人が、消化管に腫瘍を抱えた状態で、強い下剤を飲み続ける。
これがどれだけまずいことか、現代の感覚なら誰でもわかる。脱水が進む。電解質が崩れる。栄養がますます吸収されない。出血していればなおさら悪い。
さらに厄介なのが、鉱物性生薬の問題だ。
当時の漢方では、水銀や砒素、鉛といった鉱物を含む処方が普通に使われていた。紫雪のような処方も鉱物系だし、丸薬の類にも鉱物が入るものがある。長期にわたって飲み続ければ、重金属が体に蓄積する。家康の死因を水銀中毒に求める説が出てくるのは、この文脈からだ。
ただし正直に言うと、家康の遺体が調べられていない以上、重金属の蓄積を証明する手はない。中毒説は「ありえた」以上のことは言えない。
それでも、この構図はどうしても効く。
徹底した健康管理で誰よりも長生きした男が、最後にその健康管理そのもので自分を追い詰めた、という構図だ。皮肉が効きすぎている。オカルト的な因果でも呪いでもなく、ただの認知バイアスと自信過剰で人は死ぬ、という話のほうがよほど怖い。
診断を当てた医者が、島流しにされた
そして、家康の最後の三ヶ月でいちばん重い出来事がこれだと思う。侍医の片山宗哲の一件だ。
宗哲は慶長七年から家康に仕えた医者で、最初に家康の風邪だか寒気だかを一晩で治して信頼を勝ち取った、という経歴を持つ。家康の子の治療も任されていたし、腕は確かだったと見ていい。
その宗哲が、元和二年の三月、寝込んでいる家康を診て、はっきり言った。
これは腹の虫ではない。もっと悪いものだ。そして、あなたが飲み続けているその薬は、いま飲むべきものではない、やめるべきだ、と。
家康は激怒した。そして宗哲を信濃へ流した。
医者としてはたぶん人生でいちばん正しいことを言った瞬間に、キャリアと自由を失ったわけだ。
この事件には後日談がある。宗哲の知行、つまり所領は取り上げられなかった。徳川家の内部でも、宗哲の言い分のほうが正しいと考える人間がそれなりにいたということだ。細川忠興のような外様の大名までがこの処分に驚いた、という話も伝わっている。つまり、当時の常識で見ても「大御所が意地を張っている」という空気があった。
この一件が示しているのは、家康の病気が、単なる医学的な出来事じゃなくて、権力の問題でもあったということだ。
天下人が自分の体について自分で診断を下してしまい、それに逆らう専門家を排除する。誰も本当のことを言えなくなる。この構造、四百年たってもまったく古びていない。組織で働いたことのある人なら、心当たりが一つや二つあるはずだ。
もし宗哲が流されず、家康が薬をやめていたら結果は変わったか。たぶん変わらない。進行胃がんに当時の医学でできることはほとんどない。でも、最後の数週間の苦しみ方は違ったかもしれない。そういう「もしも」が残るからこそ、この話は語り継がれるんだと思う。
梅毒説は、どこから来てどこで止まるか
死因の候補として、梅毒説を挙げる人もいる。これも一応きちんと見ておこう。
戦国から江戸初期にかけて、梅毒は日本でかなり広がっていた。大陸との交流が増え、人の移動が激しくなった時代だ。武将のあいだでも珍しい病気ではなかったし、豊臣家の周辺で梅毒を疑われる人物が複数いることは、しばしば語られる。家康の次男である結城秀康が梅毒で亡くなったという説もよく紹介される。
じゃあ家康本人はどうか。
家康には十人以上の子どもがいて、六十を過ぎてからも子をなしている。側室の数も多い。だから理屈のうえでは、感染機会があったと考えることはできる。ここまでは誰でも思いつく。
ただ、そこから先が続かない。
梅毒の晩期には、皮膚や骨、神経、心臓血管系にわかりやすい変化が出る。鼻が落ちるとか、歩行がおかしくなるとか、精神症状が出るとか。家康の最後の三ヶ月の記録に、そういう症状は一つも出てこない。記録に残っているのは、腹のしこり、吐血、黒色便、体重減少という、見事なまでに消化器の話ばかりだ。梅毒でこの並びを説明しようとすると、かなり無理な補助線が必要になる。
だから梅毒説は、「時代背景としてありえた」という一般論から出発して、家康個人の症状に接続できないまま止まっている。可能性を完全にゼロにはできないが、他の説と比べて説明力が明らかに弱い。この記事では、そういう位置づけとして置いておく。
「一年たったら日光へ」の意味を、もう一度読む
死因の話をひととおり片づけたので、遺体の話に移る。ここからが二百年もめているゾーンだ。
家康の指示をもう一度確認しよう。遺体は久能山へ。葬儀は増上寺。位牌は大樹寺。一周忌のあと、日光に小堂を建てて勧請せよ。
問題は、この「勧請」という言葉だ。
これは神道の用語で、神様の分霊を別の場所に迎える、という意味になる。神様の霊を分けて移すのであって、モノを移すという意味ではない。神社の分社をつくるときに使う言葉だ。全国の八幡宮は、本体の遺体を分けて配っているわけじゃない。霊を勧請しているだけだ。
つまり、家康の言葉を素直に読むと、こうなる。体は久能山に置いておけ。一年たったら、日光にも自分の霊を分けて祀れ。体を掘り返して運べ、とは一言も言っていない。
この読み方を強く主張しているのが、静岡側、久能山側の研究者たちだ。
彼らはさらに、元和三年に日光へ運ばれたものの中身にも疑問を投げる。当時の記録で、その行列で運ばれたものを「神輿」と表現しているものがある。神輿というのは神の乗り物だ。棺桶を神輿と呼ぶ習慣は普通ない。だとすると、中に入っていたのは遺体ではなく、御霊代――たとえば鏡のような、神霊を宿らせるための依り代だったんじゃないか、というわけだ。
現実的な話をすると、これはかなり説得力がある。
土葬から一年たった遺体を掘り出して、二十日以上かけて東海道と関東を縦断して運ぶ。四月といえばもう暖かい。衛生的にも、宗教的な体裁としても、相当に厳しい。まして相手は神様になったばかりの創業者だ。掘り返すという行為自体が、神をわざわざ穢すことになりかねない。
日光側の言い分も、聞いてやってほしい
とはいえ、日光側の主張が弱いかというと、そんなことはない。
まず、公卿の烏丸光広が、遺骸を日光へ移し奉る、という趣旨のことを書き残している。当時の上級貴族が、そう認識していたという事実は無視できない。当事者に近い人間が「遺体を移した」と理解していた、という証言だ。
それから、この改葬は藤原鎌足の故事にならったものだ、という説明もある。鎌足の墓が移されたという伝承をなぞって、日光への移葬に正当性を持たせるという発想は、天海のような宗教のプロが考えそうなことだ。神仏の理屈を政治の道具として使い倒すのが天海という人の本領で、そのために体を動かすことになんの躊躇もなかった可能性はある。
そして何より、その後の実態がある。
歴代将軍は日光へ参拝しに行った。日光社参は幕府の一大行事で、莫大な金と人が動いた。将軍が久能山に日参したという話にはならなかった。日光が本社であり、そこに家康がいる、という認識で二百六十年間まわってきたわけだ。人がどこを拝んでいたかというのは、宗教施設の実質としてはかなり重い。
対して久能山側にも実態の裏づけはある。家光が後年、久能山の神廟をわざわざ手厚く改装している。単なる空の場所を、あそこまで整備するだろうか、という問いだ。そして徳川宗家自身が、久能山を家康の墓所として扱ってきたという話もある。
結論としては、どちらの陣営にも決定打がない。
そして決定打が出ないのには理由があって、久能山も日光も、家康の墓は一度も発掘調査されていない。開けていないんだ。四百年、誰も中を見ていない。だからこの論争は、原理的に決着がつかないまま、これからも続く。
俺は、この「開けられていない」という状態そのものが、この話の核心だと思っている。中を見れば一発でわかる。でも見ない。見ないほうがいい、という判断が四百年続いている。それは技術の問題でも制度の問題でもなくて、たぶん、答えを知りたくないという集団的な感情の問題だ。
堺の寺に、もうひとつある家康の墓
さて、ここまでで十分にややこしいのに、話はさらに面倒になる。
大阪の堺に、南宗寺という臨済宗の寺がある。三好長慶が父の菩提を弔うために建てた寺で、戦火で何度も焼け、大坂の陣のあとに沢庵和尚が今の場所に再建した。あの沢庵漬けの沢庵だ。
この寺に、家康の墓がある。というか、家康はここで死んだ、という伝承がある。
伝わっている話はこうだ。
大坂夏の陣のさなか、家康は駕籠に乗って移動していた。そこへ後藤又兵衛が現れ、駕籠を槍でひと突きにした。家康は深手を負い、そのまま堺まで運ばれたが、南宗寺で息絶えた。遺体は寺の開山堂の下に、名前のない墓として埋められた。以後、駿府にいた家康は別人だった――というわけだ。
もちろん、まともに検証すればボロは出る。
伝承が語る日付が複数あって、そのどれもが史実と噛み合わない。ある日付では家康は京都にいたことになっているし、別の日付ではすでに後藤又兵衛のほうが討死している。話の骨格そのものが成立しない。
それなのに、この伝承がしぶとく生き残っているのは、周辺に妙な状況証拠がくっついているからだ。
まず、日光東照宮に伝わる家康の駕籠に、槍で突いたような穴が残っているという話。次に、秀忠が元和九年に、そして家光も、相次いで南宗寺に参詣しているという事実。将軍が二代続けて堺の一寺院にわざわざ足を運ぶのは、たしかに目を引く。もっとも、将軍の代替わりのときに大坂や堺の方面を巡見する流れの一部だったと考えれば、特別なことではない、という説明もつく。
それから、太平洋戦争の空襲で開山堂が焼けたとき、その跡から名前の刻まれていない無縫塔が出てきた、という話。無縫塔は僧侶の墓の形式で、それが本堂の下から出てくること自体は不思議じゃないんだけれど、伝承を知っている人からすれば「出た」となる。
現在この寺に立っている家康の墓碑は、昭和四十二年に建てられたものだ。
水戸徳川家の家老の子孫にあたる人物が建立に関わり、作家の山岡荘八らも名を連ねている。つまり、目に見える形の「家康の墓」は、戦国時代の遺物じゃなくて、昭和の伝承受容の産物なんだ。ここを勘違いすると、話が一気にオカルト方向へ滑る。
それでも南宗寺の伝承は面白い。
というのも、この話はもう一つの有名な説――家康は途中で別人と入れ替わっていたという影武者説――と、非常に相性がいいからだ。夏の陣で死んだのが影武者で、本人は駿府で天寿を全うしたと読むこともできるし、その逆に読むこともできる。どっちにも転がせる形をしている。こういう「他の陰謀論と接続できる」性質を持った伝承は、単体で完結している伝承より圧倒的に生き延びやすい。
明神か権現か、坊主二人の神学バトル
死因と墓の話の陰に隠れがちだけど、家康が死んだ直後にいちばん白熱したのは、実は「家康をどんな神様にするか」という議論だった。これがまた生々しくて面白い。
対立したのは、金地院崇伝と南光坊天海。どちらも家康のブレーンで、宗教政策の中枢にいた人間だ。
崇伝は吉田神道の枠組みで「明神」として祀るべきだと主張した。天海は山王一実神道の枠組みで「権現」として祀るべきだと主張した。字面だけ見ると神学論争だが、中身は完全に権力闘争でもある。どちらの流儀で祀るかで、東照宮という巨大な宗教装置の主導権が決まるからだ。
天海が繰り出した決め手が、えげつない。
天海はこう言った。豊臣秀吉は死後、豊国大明神になった。その結果どうなったか。息子の秀頼は大坂の陣で敗れ、豊臣家は滅んだ。明神という号は不吉である。徳川家を同じ目に遭わせるつもりか、と。
これは論理でもなんでもない。だが、豊臣家が滅んだ翌年に、これを言われて反論できる人間はいない。加えて天海は、生前の家康が山王一実神道での祭祀を望んでいた、という主張も添えた。死人に口なし、を最大限に使いこなしている。
結果、天海の勝ち。朝廷から神号が下され、家康は東照大権現になった。神号の候補は複数示され、そのなかから選ばれたという経緯も伝わっている。翌月には正一位という最高の神階も与えられた。
ここに、日本史上まれに見る「人間を国家の守り神として制度化する」プロジェクトが完成する。
そしてここが効いてくるところで、この神格化があったからこそ、家康の遺体をめぐる話がここまでややこしくなった。
ただの偉い人の墓なら、いつか誰かが調査する。だが神の御神体となると話が別だ。学術調査の対象にしにくくなるし、そもそも「体がどこにあるか」という問いそのものが、信仰の文脈では的外れになる。神は分けられるものだから、久能山にも日光にもいる、で終わってしまう。合理的な問いを、宗教の言語が丸ごと飲み込んでしまう構造ができあがった。
江戸の講談から昭和の小説まで、話はこうして太っていった
「天ぷらで死んだ家康」という話が、どうやって国民的な豆知識になったのかも見ておきたい。
江戸時代のあいだ、これはそこまでポピュラーな話ではなかったはずだ。
なにしろ家康は神様で、幕府の始祖だ。その死に方を茶化すような話が大っぴらに広まる空気ではない。記録としては残っているが、酒の席のネタにはしにくい。
風向きが変わるのは明治以降だ。
徳川が権力を失って、家康が政治的に安全な素材になった。江戸期の記録がどんどん活字になり、一般に読めるようになる。すると、「あの家康が食あたりで死んだ」という落差のある話が、格好の読み物として掘り出される。近代の歴史読み物や逸話集の類が、これをせっせと拡散した。
さらに戦後、家康を主人公にした大衆小説や大河ドラマが繰り返し作られる。
物語として家康の最期を描くとき、鯛の揚げ物のエピソードは実に便利だ。天下人が食い物にやられるという皮肉が効くし、茶屋四郎次郎という商人が登場することで、戦国が終わって商業の時代が来る、という時代の転換も表現できる。作り手からすれば使わない手はない。
そして二〇二三年の大河ドラマの家康ものが放送されたころには、逆に「天ぷら説は誤りで、実際は胃がんだったらしい」という訂正情報のほうがネットで大量に流通するようになった。
これは面白い現象で、俗説が有名になりすぎると、今度は「その俗説を否定する知識」がステータスになる。天ぷら説を知っている人より、天ぷら説が嘘だと知っている人のほうが物知りに見える。こうして、否定される形で天ぷら説はさらに広まった。
ネットの家康死因スレは、いつも同じところで揉める
考察界隈での扱いも見ておこう。掲示板やSNSでこの話題が出ると、だいたい決まった流れになる。
最初に誰かが「家康って天ぷらで死んだんだよな」と書く。すぐに「それデマ。実際は胃がん」というリプがつく。ここまではテンプレだ。そこから話が枝分かれする。
一つ目の枝は、料理オタクの方向。
当時に天ぷらという料理はなかった、素揚げだ、いや南蛮料理のフリッターに近いものだ、榧の油とはどんな油か、かけたのはニラかららっきょうか。この方向はやたらと知識人が湧いてきて、しかも実際に再現して作ってみる人まで現れる。実際、家康の鯛の揚げ物を再現するレシピはいくつも作られていて、静岡や藤枝の地域振興のメニューにもなっている。死因の話が郷土グルメになるの、日本らしくてけっこう好きだ。
二つ目の枝は、医学クラスタの方向。
腹のしこりと黒色便が並んでる時点で診断つくだろ、という話から、いや膵臓がんの可能性もある、黄疸の記録がないから膵臓は弱い、という具合に議論が進む。だいたい胃がん優勢で落ち着くが、たまに「四百年前の日記の記述で診断するな」という真っ当なツッコミが入って場が締まる。
三つ目の枝が、いちばん盛り上がるやつ。遺体はどっちにあるんだ問題だ。
久能山派と日光派が出てきて、勧請という言葉の解釈をめぐって延々やる。ここに南宗寺の話を投下する人間が必ず現れて、さらに影武者説を持ってくる人間が現れて、場が完全にオカルトに傾く。そして最後に誰かが「掘ればわかるじゃん」と言って、「掘れないから面白いんだろ」と返されてスレが終わる。この流れ、何度見たかわからない。
もう一つ、近年よく見るのが片山宗哲の話だ。正しい診断をして左遷された医者、という構図が現代人の琴線に触れるらしく、「上司に正論を言った結果」みたいな文脈でネタにされる。歴史上の人物が現代の職場のあるあるに変換されていくのは、SNS時代の受容としてすごく健全だと思う。
ここまで書いておいてなんだが、確実なことはほとんどない
正直に整理しておく。この記事で扱った話のうち、そこそこ確からしいと言えるのはこのくらいだ。
家康は元和二年正月に田中城で油で揚げた鯛を食べ、その夜に腹痛を起こした。翌日には痛みが引いた。そこから三ヶ月ほどかけて衰弱し、四月十七日に駿府城で死んだ。遺言によって遺体は久能山に納められ、江戸で葬儀が行われ、翌年に日光へ祀られた。ここまでは複数の記録が支持している。
そこから先は、全部が推測か、確認不能だ。
腹にしこりがあったという記述が、どこまで同時代の一次記録に遡れるのかは、実のところ判然としない。吐血や黒色便についても同様で、後の編纂物にしか出てこない要素が混じっている可能性がある。となると、胃がん説の根拠そのものが、後代の脚色に乗っている危険が残る。この可能性は真面目に頭に置いておくべきだ。
家康が万病円を飲み続けたことと、その量、期間についても、はっきりした記録があるわけじゃない。片山宗哲が薬をやめろと諫めた、という筋から逆算して「相当飲んでいたはずだ」と推定しているにすぎない。重金属中毒に至ったかどうかは、遺体を調べない限り永久にわからない。
日光へ運ばれたものの中身も、当然ながら不明のままだ。烏丸光広が遺骸と書いたのは事実だが、彼が中を見たわけじゃない。神輿と書いた記録があるのも事実だが、それも表現の問題かもしれない。どちらの記録も、外側から見た人の言葉でしかない。
南宗寺の伝承にいたっては、日付の矛盾が致命的で、史実として扱うことはできない。駕籠の穴も、参詣の事実も、状況証拠と呼ぶには弱すぎる。ただし、伝承としてなぜこの形になったのか、という問いは残る。堺という都市が大坂の陣でどんな目に遭ったか、その記憶がこの話にどう投影されているのか。そっちのほうがよほど探る価値がある。
そして最大の未確認事項が、繰り返しになるが、墓が開けられていないことだ。
久能山も日光も、内部の科学的調査は行われていない。もし調査ができれば、遺体の有無、遺骨の状態、骨に残る病変、毛髪や骨に蓄積した重金属の量――ここで議論してきたことの大半に、一夜で決着がつく。技術的にはとっくに可能だ。やらないのは、やる理由より、やらない理由のほうが強いからだ。
なぜ俺たちは、天下人の死に方をここまで気にするのか
最後に、この話がなぜここまで人を引きつけるのかを考えたい。
一つは、落差の快感だ。
人間は、大きなものが小さなものにやられる話が好きだ。戦国の乱世を生き抜き、信長にも秀吉にも従い、耐えて耐えて最後に全部取った男が、揚げた魚で死ぬ。この構図には、権力者に対するささやかな復讐みたいな気持ちよさがある。どんなに偉くなっても腹はこわす。俺たちと同じ体を持っている。そういう確認を、人はしたがる。
二つ目は、家康という人物のキャラクターとの相性だ。
家康は用心深く、計算高く、我慢強い。その人物が、健康にあれだけ気を配り、自分で薬まで作っておきながら、最後は自分の診断ミスと意地で死んだのかもしれない。慎重すぎる人間が慎重さゆえに間違える、という話は、教訓としても物語としても完成度が高すぎる。だからみんな語りたくなる。
三つ目が、遺体の行方だ。これが決定的だと思う。
人が死んだ、というだけなら話は終わる。でも「体がどこにあるかわからない」となると、話は終われない。しかも家康の場合、行き先の候補が二つあって、両方に立派な建物が建っていて、両方に参拝客が来ていて、しかも四百年間どちらも開けられていない。答えを確かめる手段が目の前にあるのに使われない。この宙吊り状態が、物語を永久機関にしている。
四つ目に、家康が神様になってしまったことがある。
人間の死因を議論しているつもりが、いつのまにか神の所在を議論することになる。神は分けられるから、二ヶ所にいてもいい。この論理を持ち込まれた瞬間、実証の土俵から降ろされてしまう。だからこそ、俺たちは何度でも同じところに戻ってきて、同じ議論を繰り返す。
そしてたぶん、五つ目がいちばん本質だ。
この話の全部が、権力と死という、人間の一番弱いところをまとめて突いてくる。天下を取っても病気は止められない。正しいことを言った医者を流罪にできるほどの力があっても、自分の腹の中は見えない。死んだあと神様に祭り上げられても、自分の体がどこに置かれるかは自分で決められない。家康ほどの男でもそうなんだから、俺たちは言うまでもない。
鯛の天ぷらの話は、たぶん誤りだ。でも、この誤りが四百年間しぶとく残ってきたのは、それが「人間はこんなにあっけない」という真実を、一番わかりやすい形で運んでくれるからだと思う。事実としては間違っていて、感覚としては正しい。俗説というのは、たいていそういうものだ。
あの三ヶ月は、政権移行期の三ヶ月でもあった
ここからは、上でざっと流した部分を、もう少し腰を据えて掘り直しておきたい。
まず、家康の最後の三ヶ月を「病人の三ヶ月」としてではなく「政権移行期の三ヶ月」として見直してみる。この視点に立つと、風景がかなり変わる。
元和二年正月というのは、大坂夏の陣が終わってからわずか八ヶ月しか経っていない。豊臣家は滅んだが、その旧臣は各地に散っていて、西国大名の腹の内も読み切れていない。武家諸法度や禁中並公家諸法度を出したばかりで、新しいルールが本当に機能するかどうかもまだ未知数だ。
この状態で創業者が寝込んだ。しかもゆっくり三ヶ月かけて弱っていった。これは幕府にとって、瞬間的な急死よりよほど危険な状況だったはずだ。
なぜなら、三ヶ月というのは、噂が全国を何往復もするのに十分な時間だからだ。
大御所が危ないらしい、という情報は、駿府に集まった大名たちの家臣を通じて確実に広がる。誰かが動くには十分な時間がある。にもかかわらず、この三ヶ月に大きな政変も反乱も起きなかった。これは、家康と秀忠の二元体制が、それだけしっかり機能していたことの裏返しでもある。すでに将軍職は秀忠に譲ってあり、江戸には江戸の政府がある。だから駿府の大御所が倒れても、システムは止まらなかった。
そう考えると、太政大臣の任官も違って見えてくる。
あれは家康個人への栄誉であると同時に、朝廷が徳川体制を全面的に承認したという公的なアナウンスでもあった。死にかけている老人に人臣最高位を与えるという行為は、政治的には「この家の権威は動かない」という宣言に近い。家康がそれを寝床で受けたという事実は、悲哀ではなく、むしろ完成した権力の姿として読むべきなのかもしれない。
四つの場所は、過去と現在と監視と未来に割り振られている
次に、遺言の設計をもう一段掘りたい。久能山、増上寺、大樹寺、日光。この四点の配置は、地理的にも意味的にも見事に計算されている。
大樹寺は三河、松平家の出発点であり、家康の血の記憶がある場所だ。位牌をここに置くというのは、自分の出自を確認する行為になる。増上寺は江戸、つまり現在の権力の中心での葬儀。ここでの葬儀は江戸市民に向けた儀式であり、幕府が家康を送るという公式の場だ。久能山は駿河、家康が最後に選んだ隠居地であり、西国を見張る位置。そして日光は、江戸の真北。
この四点は、過去、現在、監視、そして未来の守護、という役割分担になっている。
過去に敬意を払い、現在の中心で公式に見送られ、西を睨む位置に体を置き、北から関東全体を守る。死んだ人間の配置図としては、ちょっと出来すぎている。家康が本当にここまで考えていたのか、それとも天海や崇伝といったブレーンが後から意味づけを整えたのか、それはわからない。だが、結果としてこの配置は徳川政権の宗教的な骨格になった。
ここでもう一つ考えたいのが、なぜ「一周忌のあと」という時間指定があったのか、という点だ。
死んですぐ日光に祀るのではなく、一年待たせている。この一年には、いくつかの機能がありそうだ。
まず実務的には、日光に建物を建てる時間がいる。次に、神号を朝廷と交渉して決める時間がいる。実際、神号が下されたのは翌年の二月で、日光への遷座が四月。ぎりぎりのスケジュールだ。そしてもう一つ、一年という喪の期間は、死者が神に変わるための移行期間でもある。人間として死んでから、神として再登場するまでのインターバル。この演出は、宗教的にも政治的にも極めて効果的だ。
そう見ると、「勧請」という言葉の重みがまた変わってくる。
もし本当に遺体を移すつもりだったなら、一年も待つ必要がどこにあるのか、という疑問が出る。むしろ一年待ってから霊を分けるという手順のほうが、神道の作法として自然だ。この点は久能山側の主張を補強する材料になる。一方で、一年待ったのは建築と交渉のためであって、その間に遺体を動かす準備も整えていた、と読むこともできる。結局ここでも決着はつかない。
正論を言った医者を、組織はどう扱ったか
視点を変えて、片山宗哲の一件をもう一度掘っておきたい。これは日本医学史の中でも屈指の重い場面だと思う。
宗哲がやったのは、現代でいうインフォームド・コンセントの原型みたいなことだ。患者本人に、本当の病状を伝えた。そして、患者が自己判断で続けている治療を止めるよう説得した。医療倫理の教科書に載せてもいいくらい正しい行動だ。そして彼はその報いに流罪を食らった。
だが、ここで注目したいのは、宗哲がその後どうなったかだ。
所領は取り上げられなかった。処分は明らかに手加減されている。ということは、幕府の実務レベルでは「宗哲は正しいことをしたが、大御所の機嫌を損ねたので形だけ罰する」という処理が行われたことになる。これは組織として非常にリアルな判断だ。正論を言った人間を守りつつ、権力者の面子も保つ。四百年前の官僚機構、思った以上に器用に動いている。
そして、家康はなぜ怒ったのか。ここが人間ドラマとして深い。
単にプライドを傷つけられたから、では説明が足りない気がする。家康は薬学に本気で取り組んでいた。何十年もかけて本を読み、道具を揃え、自分の体で試してきた。その積み重ねを「間違っている」と言われた。それは診断の否定であると同時に、彼の人生の一部の否定でもある。
さらに、もし宗哲の言うとおり腹の中のものが虫ではなく、治しようのないものだったとしたら――それは家康にとって、自分の敗北を認めることになる。
家康は生涯、負けを認めない代わりに耐えることで勝ってきた人だ。三方ヶ原で逃げ帰り、糞を漏らしたと伝えられる屈辱に耐え、秀吉に頭を下げ、関ヶ原で待ち、大坂で堀を埋め、最後に全部取った。その男が、七十を過ぎて、自分の体という最後の戦場で「もう手はない」と言われた。怒るしかなかったんじゃないか。
この読み方をすると、家康の死は「健康オタクが薬で自滅した滑稽な話」から、「一生負けを認めなかった男が、最後まで負けを認めなかった話」に変わる。俺はこっちの読み方のほうが好きだ。滑稽さの下に、まだ相当な硬さがある。
「開けない」という選択で、全員が得をしている
もう一つ深掘りしておきたいのが、「なぜ墓を開けないのか」という問題だ。これは単に宗教施設だから、で片づけられない気がする。
日本には、開けたことで有名になった古墳もあれば、宮内庁の管理下にあって永久に開けられない陵墓もある。仁徳天皇陵と呼ばれてきた巨大古墳ですら、本当に誰の墓かはっきりしていない。日本社会は、墓の中身を確定させないことに、妙に慣れている。むしろ、確定させないことで維持される秩序がある、と言ったほうがいいかもしれない。
家康の墓もこれと同じ構造にある。
開ければ、どちらかの東照宮が「本物ではない」ことになる。四百年間信仰を集めてきた場所が、事実によって傷つく。それは学術的な利益より大きな社会的損失だ、という判断はあり得る。だが同時に、開けないことによって両方が「本物かもしれない」状態を保てる。両方の土地が観光と信仰の恩恵を受け続けられる。誰も損をしない。
つまり、この二百年越しの論争は、決着しないことによって全員が得をする構造の上に成り立っている。論争が延々続くのは、誰も本気で終わらせたくないからだ、という身も蓋もない見方もできる。それを冷笑する気は俺にはない。答えを保留したまま共存する、というのは、けっこう高度な社会の知恵だと思う。
なぜ堺だったのか
南宗寺の伝承についても、もう少し踏み込んでおきたい。史実としては成立しない話だが、なぜ堺なのか、という問いは面白い。
堺は、戦国期を通じて日本有数の自治都市だった。
会合衆と呼ばれる商人たちが実質的に街を運営し、鉄砲を作り、南蛮貿易で富を築いた。信長にも秀吉にも屈しながら、独自の存在感を保ってきた街だ。その堺が、大坂夏の陣で焼かれる。徳川方と豊臣方の争いの余波で、街は灰になった。堺の人々にとって、大坂の陣は「他人の戦争に巻き込まれて全部失った出来事」だった。
そう考えると、「その戦争を起こした張本人も、実はここで死んでいた」という伝承が堺に生まれたことには、感情的な必然がある。
焼かれた街が、焼いた側の総大将の死体を抱えている。これは復讐の物語だ。史実ではないが、真実味はある。地域が敗北の記憶を処理するために作り出した物語として読むと、南宗寺の伝承は急に立体的になる。
そして、この伝承が昭和になって墓碑という形を得たことにも意味がある。
戦後、講談や大衆小説を通じて戦国の異説がブームになり、影武者説や死亡説が広く消費された。その空気のなかで、伝承だけだったものに物理的な形が与えられた。石が建てば、それは「見に行ける場所」になる。見に行ける場所になった伝承は、圧倒的に強い。俺たちは目で見たものを信じてしまうから。
事実としては間違っていて、感覚としては正しい
最後に、この話全体をどう受け取るべきかを書いておきたい。
家康の死因は、おそらく胃がんだ。現代の医学的な読みとしては、それがもっとも矛盾がない。鯛の揚げ物は引き金であって原因ではなく、飲み続けた薬は状況を悪化させた可能性が高いが、それも決定的な要因ではない。梅毒説は症状が合わず、寄生虫説は本人の誤解であって病因ではない。暗殺説や夏の陣死亡説は、史料的な裏づけを欠く。ここまではっきり言っていい。
だが、この結論を出したところで、話の面白さはまったく減らない。
なぜなら、この件の本当の魅力は「死因は何か」ではなく、「なぜ人はこの死に方を語り続けるのか」のほうにあるからだ。
天下人が魚で死んだという間違った話が、四百年生き延びた。体がどこにあるかわからないという状態が、四百年放置された。正しい診断をした医者が流された話が、いまも職場のあるあるとして消費されている。
歴史というのは、事実の集積ではなくて、事実をめぐる語りの集積なんだと思う。家康の腹の中に何があったかは、たぶん永久にわからない。でも、俺たちが四百年かけてその腹の中を想像し続けてきたという事実は、確実に残っている。そっちのほうが、よほど人間くさくて、よほど面白い。
久能山の石段を登ると、いまも西を向いた神廟がある。日光の奥宮にも、家康の墓とされる青銅の宝塔がある。どちらの前にも人が立ち、手を合わせる。中身は誰も知らない。
知らないまま、四百年。この気の長さこそが、この国の怪談の本質なんじゃないかと、俺は思っている。
