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レイテ沖海戦「謎の反転」――目前の勝利を捨てた栗田艦隊は何を見たのか

史上最大の海戦、その最後の数時間に

1944年の秋の話だ。10月23日から26日にかけて、フィリピンのレイテ沖で日米の艦隊が激突した。参戦した艦艇は日米合わせて280隻以上にのぼり、史上最大級の海戦として必ず名前が挙がる戦いなんだよな。この戦いで、日本海軍は事実上壊滅した。

組織だった艦隊として作戦を動かす力も、ここで失われた。最終盤に、謎が起きる。太平洋戦争の謎のなかでも、とりわけ長く人の口にのぼってきた「栗田艦隊の謎の反転」と呼ばれる出来事がそれだ。勝ちが目の前に転がっていたのに、艦隊は突入をやめて北へ向きを変えた。

主役は栗田健男中将。彼が率いたのは第一遊撃部隊、通称「栗田艦隊」だった。戦艦大和と武蔵をはじめとする、日本海軍にとって最後の主力艦隊で、戦艦や巡洋艦を主力に据えた重たい顔ぶれがそろっていた。日本海軍に残った主力が、ほぼ丸ごと集まった艦隊。

作戦の中身はこうだ。小沢治三郎中将の空母機動部隊がわざと「囮」になり、アメリカ第三艦隊、いわゆるハルゼー艦隊を北のはるか彼方へおびき出す。その隙に栗田艦隊がレイテ湾へなだれ込み、上陸中のアメリカ軍輸送船団を叩きつぶす。北と南で役割を分けた、二段構えの作戦だった。乾坤一擲の大勝負。

武蔵を失っても、艦隊は南へ進んだ

夜明け前のレイテ湾北方。栗田中将が乗る戦艦大和を中心に、艦隊は南下を続けていた。艦隊はすでにシブヤン海で、姉妹艦の武蔵を米軍機の猛攻によって失うという、とてつもなく大きな痛手を負っていた。それでも、艦隊は足を止めなかったんだ。

10月25日の早朝。栗田艦隊はサマール島沖で、アメリカ軍の護衛空母群「タフィ3」と遭遇した。護衛空母部隊は、戦艦や巡洋艦を主力とする栗田艦隊から見れば、本来なら敵にもならない格下の相手だった。激しい砲雷撃戦のすえ、日本側はこの局面で圧倒的な優位に立つ。

護衛空母も駆逐艦も、次々撃破。アメリカ側の総司令官マッカーサーは、後の回顧録にこう書き記している。「勝利はいまや栗田艦隊のふところに転げこもうとしていた」。敵の総大将にそこまで書かせるほど、あの朝の日本艦隊は勝利のすぐそばまで迫っていたってことだ。

しかもレイテ湾の中には、日本艦隊の突入を阻む有力な水上兵力がもうほとんど残っていなかった。針路を保ったまま突き進めば、上陸したばかりのアメリカ地上軍を叩ける。その補給を支えていた無防備な輸送船団もろとも、まとめて壊滅させることさえ十分に可能だと見られていた。湾は目と鼻の先。

囮はちゃんと効いていた。ハルゼー艦隊は、小沢艦隊に引きつけられて北へ向かっていたんだ。湾を守るはずの主力が、そっくり留守にしていたわけだ。作戦の描いた筋書きどおり、栗田艦隊の前にはレイテ湾までまっすぐ続く道がぽっかりと開いていた。

決戦のさなか、艦首は北を向いた

ところが、話はここで一変する。まさにその決戦の最中に、栗田中将は突如として全艦隊へ「北への反転」を命じた。レイテ湾への突入を目前にしながら、艦隊はくるりときびすを返し、艦首をそろって北へと向けてしまった。湾の入口まで、あとわずかという場面での命令。

表向きの理由はこうだ。「北方に敵の機動部隊主力が存在する」という情報を受け、決戦を求めて進路を変えたというのが艦隊側の説明だった。ところが、その後どれだけ捜索しても北に敵機動部隊は見つからない。結局、最後まで発見されずじまい。

艦隊は北上を続けた。やがてレイテ湾に背を向けたまま戦場を離脱し、母港のブルネイへと引き返していく。アメリカ軍の輸送船団はレイテ湾に取り残されていたが、この決断のおかげで、日本艦隊の攻撃を受けずに済んだ。狙っていた獲物には、とうとう手をつけずに終わったわけだ。

もし栗田艦隊がそのまま突っ込んでいたら、どうなっていたのか。アメリカ軍の上陸作戦そのものに壊滅的な打撃を与えられた見込みは高いと、多くの戦史家が指摘している。この反転は日本海軍にとって決定的な機会損失として、戦後長く議論の的になってきた。無理もない話だ。

払った犠牲が、何ひとつ報われなかった

痛いのは、払ってきた代償だ。西村艦隊はスリガオ海峡で壊滅し、小沢艦隊は囮として犠牲になった。不沈艦とまで謳われた巨艦、武蔵も沈んでいる。この反転によって、そうした大きな犠牲のどれひとつとして実を結ばないまま、結局は終わってしまった。

艦内の衝撃は大きかった。進藤三郎少佐をはじめとする幕僚たちが、強い衝撃を受けたと伝えられている。戦後に語られた幕僚の証言によれば、全滅を覚悟のうえでの最後の決戦だと聞かされ、そのために多くの部下を死なせてきたという。敵を目前にしながら、この期に及んで引き返すとは何が「決戦」なのか。

体じゅうの力が抜けるような思いだった、とその幕僚は振り返っている。命を懸けるつもりで敵のすぐ前まで来て、いきなり背を向けろと命じられたのだから、気持ちの持っていき場がない。全滅の覚悟まで決めていた人たちの話だ。読んでいて胸が重くなる。

本人の説明と、噛み合わない事実

では、なぜ引き返したのか。栗田中将は戦後、「輸送船団はすでに退避したと判断した」と証言している。もうひとつ、「敵の機動部隊主力が近くにいると判断した」という趣旨の言葉も、本人の口から残されている。ところが、どちらも実際の状況とは食い違っていた。

輸送船団は、実際にはレイテ湾内にとどまったまま。アメリカの主力空母部隊はというと、小沢艦隊の囮作戦にまんまと引きつけられ、遠く北方の海域にいた。まるで噛み合わない。この食い違いが、戦後の研究者たちをずっと悩ませ続けてきたんだよ。

誤認はなぜ起きたのか。仮説はいくつも並び立っている。有力な説のひとつが、情報の混乱と誤認だ。西村艦隊はスリガオ海峡でほぼ全滅し、小沢艦隊からの通信も事実上途絶えていたため、栗田艦隊は情報のうえで孤立していた。自軍全体の戦況を、ほとんどつかめないまま戦っていた。

出どころ不明の一通「ヤキ一カ電」

そこへ一通の電信が届く。北方に敵機動部隊が存在することを示唆する内容で、艦隊内では「ヤキ一カ電」などと呼ばれて言い伝えられてきた。反転の直接のきっかけとして、繰り返し名前が出てくる電文だ。厄介なのは、その発信元が今も特定できていないことにある。

戦後の調査で、この電文を実際に発信したはずの南西方面艦隊を当たっても、発信記録は見つからなかった。記録の上では、誰も送っていない電文なんだ。誰が、どこから、どんな意図でこの情報を艦隊に伝えたのか。今日に至るまで、不明のまま。艦隊内部の誰かが独自の判断で作って発信した「偽電」だったのでは、という疑惑すら研究者の間でささやかれ続けている。

出所の分からないたった一通の報せが、疲労困憊した司令部の判断に決定的な影響を与えていたのだとしたら。歴史の帰趨そのものが、一通の幻の電文に変えられた計算だ。大和を含む艦隊の針路が、紙一枚で変わったかもしれないのだから。ぞっとする話だよな。

追いかけていたのは、自分の艦隊だった?

もっと皮肉な見方もある。組織論の名著として名高い研究書『失敗の本質』の指摘だ。味方の航空機が栗田艦隊自身の艦影を敵艦隊と見間違え、それが「敵発見」の報として艦隊内に伝わったかもしれない、というのだ。報告された「敵」の正体は、栗田艦隊そのものだった、という見立てになる。

もしこれが本当なら、話はずいぶん妙な方向へ転がる。栗田中将は皮肉にも、自分たちの艦隊そのものを追いかけるようにして、はるばる北へ上っていった計算になる。いるはずのない敵を求めて、艦隊は北へ走ったわけだ。笑うに笑えない結末。

燃料は片道分、艦隊はもう限界だった

もうひとつ見過ごせないのが、燃料と弾薬の欠乏という物理的な制約だ。栗田艦隊はそもそも、往路でほぼ燃料を使い切る計画で出撃していて、事実上「片道分」の燃料しか持っていなかった。片道切符の出撃。弾薬の残りも心もとない。余裕など、どこにもない状態。

損傷も重なっていた。シブヤン海海戦では武蔵を失い、サマール沖では度重なる被弾を受けていた。それらの損傷の蓄積もあいまって、艦隊としての継戦能力は、この時点ですでに限界に近づいていたとされる。戦い続ける力そのものが、目に見えて削られていた。

海に投げ出された指揮官

指揮官である栗田中将自身の心身の疲労も、反転を招いた重要な要因のひとつとして挙げられている。中将は開戦初日、旗艦にしていた重巡洋艦の愛宕を、アメリカ潜水艦の雷撃で失った。自身も海に投げ出され、漂流するという壮絶な体験をしている。九死に一生だった。

九死に一生を得た中将は、別の艦へ移乗した。休む間はない。指揮官も幕僚も、まともに休めないまま戦っていた。その後も連日連夜の激戦が続き、司令部全体が極度の疲労と、ひどい睡眠不足の状態にあったと伝えられている。

気になる記録もある。当時の幕僚の手記によると、艦隊内ではある意見が交わされていた。「名誉ある戦死の場を求めて、敵機動部隊との艦隊決戦を選ぶべきだ」という空気が、艦隊に漂っていたというのだ。それが反転の決断をひそかに後押ししたとも言われている。

本来の目的が、いつのまにかすり替わっていた

別の角度からの分析もある。海上自衛隊幹部学校長を務めた山下万喜氏は、指揮官の意思決定の流れに注目して、この反転を読み解いている。指揮官の頭のなかで何が起きていたのかを探る視点だ。キーワードは「使命の分析の誤り」だ。

連合艦隊司令部が栗田中将に与えていた作戦目的は、「レイテ湾突入による輸送船団撃破」だった。問題はここから。ところが中将の念頭には、「敵主力艦隊との栄光ある艦隊決戦」という、もうひとつの目的への強いこだわりがあった。旧来の日本海軍が掲げ続けてきた理想だ。

極度の疲労と情報の混乱のなかで、中将はこのふたつの目的を、無意識のうちに混同してしまったのではないか。山下氏はそう指摘する。司令部が求めたのは輸送船団の撃破で、中将が見ていたのは艦隊決戦だった。本来の任務と別の目的が入れ替わった、という見立てである。

日本海海戦以来、艦隊決戦こそが海軍軍人の本懐だという価値観が、連合艦隊の将兵たちの間には深く根を張っていた。輸送船を沈めるのは、地味で目立たない任務だ。それよりも、敵主力を相手にした華々しい決戦にこそ意義を見出したくなる。無意識のすり替えだ。

そのすり替えが致命的な判断のズレを生んだのではないか、という分析になっている。この見立てが正しいとすれば、栗田艦隊の反転は、単なる臆病や判断ミスとは少し違うものに見えてくる。旧日本海軍という組織全体が抱えていた思考の癖が、極限状況で表に出てしまったわけだ。思ったより根が深い。

ゲームの世界にまで残った「栗田ターン」

意外な場所にも痕跡がある。戦史ファンの外、ネット文化のなかにも、この反転は跡を残しているんだ。戦史とは縁のなさそうな場所で、この名前が生きている。人気の艦船擬人化ゲームのプレイヤーコミュニティには、「栗田ターン」という言葉がすっかり定着している。

ボスマスへ向かうはずの艦隊が、運任せの分岐、いわゆる「羅針盤」によって意図せず出撃前の母港へ引き戻される。あの現象の呼び名だ。由来は、レイテ湾突入を目前に反転して母港へ引き返した史実の栗田艦隊にある。思いどおりにならない戦況を、プレイヤーたちはユーモア混じりにこの出来事になぞらえている。

臆病だったのか、それとも

歴史系のブログや掲示板、動画サイトの考察コンテンツでは、もっと真剣な議論も絶えず続いている。評価は割れている。栗田中将の判断を、臆病だ、無能だと切り捨てる声もある。燃料や情報の制約、部隊が置かれていた孤立無援の状況を踏まえれば一概に断罪できない、という反論も根強い。どちらの言い分にも、それなりの筋がある。

歴史群像や乗りものニュースなどの媒体でも、仮想戦記的なシミュレーションが繰り返し試みられてきた。お題はひとつ。「もし栗田艦隊が反転せずレイテ湾に突入していたら」だ。突入していれば歴史は変わったのか、という問いかけだ。

多くの分析が落ち着いた結論は、いくぶん救いのないものだった。たとえ輸送船団への一撃に成功していたとしても、翌日以降の圧倒的な航空攻撃で、艦隊は結局は壊滅を免れなかった、というのだ。輸送船団を叩けても、その先に待っていたのは空からの攻撃だった。身もふたもない話だ。

呉の大和、サマールの海

この海戦の記憶は、今も複数の実在の場所に刻まれている。最初の場所は呉だ。大和の記憶を、形として手元に残している町でもある。栗田艦隊の象徴だった戦艦大和の母港、広島県呉市には、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)がある。館内には十分の一スケールの巨大な大和の模型が置かれ、レイテ沖海戦を含む太平洋戦争末期の海軍史が詳しく展示されている。

海の現場も残っている。フィリピン中部のサマール島沖も、レイテ湾一帯も、現地の海域として今も存在する。周辺の島々には、日米双方の戦没者を慰霊する碑が点在している。スリガオ海峡は西村艦隊が壊滅した激戦の舞台で、レイテ島とミンダナオ島の間に今も実在する海峡だ。

フィリピン国内でも、スリガオ海峡は歴史的な戦跡として認識されている。日本国内では、栗田中将をはじめとする多くの将兵の慰霊祭が、戦後の長い年月にわたって続けられてきた。生還した将兵やその遺族による証言活動も、この海戦の実像を後世に伝えるうえで大事な役目を果たしてきた。生き残った人たちの言葉こそ、何よりの記録。その声は重い。

語らないまま、86歳で世を去った

栗田中将は多くを語らなかった。戦後、この反転についてはほとんど口を開かず、公の場で自分を弁護するような発言も極力控えていたと伝えられている。明確な釈明を残さないまま、86歳で世を去った。弁明めいた言葉は、ほとんど残っていない。理由は、本人と一緒に消えた。

見立ても一つに収まらない。情報の欠如、燃料という物理的な制約、指揮官個人の極度の疲労、そして艦隊決戦を至上とする組織文化。これらが複雑に絡み合った末の、単一の答えでは説明のつかない決断だった。どれか一つを取り出して、これが原因だとは言えない。今はそう見るのが主流だ。

もし突入していたら、太平洋戦争の帰趨は変わっていたのか。この問いに、多くのシミュレーションは否定的な結論を出している。それでも、話は終わらない。目の前の勝ちを自分から手放した艦隊、この「謎の反転」が持つ物語としての強さと重みは、少しも薄れていない。

目の前にあったはずの勝機を、人は、あるいは組織は、なぜ手放してしまうのか。レイテ沖海戦の最終盤に刻まれたこの謎は、一つの海戦の戦術的評価や、単なる軍事史上の一エピソードを超えている。極限状況における人間の意思決定そのものを、今も静かに問い続けている。答えはまだ出ていない。

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