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屋根裏から降ってきた古代史――東日流外三郡誌、日本最大の偽書事件はなぜ市の正史にまで載ったのか

青森県五所川原市飯詰。津軽平野のはずれ、岩木山が遠くに見える農村地帯だ。ここの一軒の農家の天井が抜けて、日本の古代史がまるごと書き換えられかけた。冗談みたいな話だが、実際に県の一部の自治体が公費で刊行した「正史」にその内容が載り、大学教授が生涯を賭けて擁護し、新聞とテレビが大々的に報じ、最後は裁判所まで巻き込んだ。日本の偽書事件でこれほどでかくなったものは他にない。

東日流外三郡誌、つがるそとさんぐんし。今日はこの話をする。

天井が抜けて、日本の古代史が降ってきた日

まず現場の情景から入ろう。舞台は和田喜八郎という人物の自宅だ。生まれは一九二七年、昭和二年の元日とされている。飯詰の農家の生まれで、戦後は農業と古物商をやっていた。

その和田家で、家の改装だか天井の修理だかをしていたときのことだという。天井板が抜けた。そこから長持が落ちてきた。中身は大量の古文書だった。虫が食い、紙は茶色く変色し、墨で細かい字がびっしり書き込まれている。埃まみれの束をめくってみると、そこには津軽の、いや東北全体の、教科書には一行も書かれていない古代史が延々と綴られていた。

これが東日流外三郡誌の「発見」の物語だ。ドラマとして完璧すぎる。屋根裏、長持、落下、埃、そして忘れられた王朝。誰かが小説で書いたらベタすぎると言われるやつだ。

ところがこの完璧な物語、肝心の落下年がふらついている。和田本人の語りを年代順に並べると、昭和二十二年と言っている時期と昭和二十三年と言っている時期がある。一九八六年前後の証言では昭和二十二年、一九八七年から一九九一年あたりの証言では昭和二十三年、一九九三年以降はまた昭和二十二年に戻る。一年くらいの記憶違いは人間だからあるだろう、と思うかもしれない。だがこれは「自分の人生を変えた日」の話だ。

しかも本人はその後半世紀にわたって同じ話を何百回も語っている。

さらに厄介なのは、和田は「発見」をこの一回で終わらせなかったことだ。一九四九年頃には炭焼き窯を造る作業中に洞窟から仏像や仏具や古文書を掘り出したと述べている。同じ年に鎌倉時代の僧・金光上人にまつわる遺物も見つけたと言っている。以後、和田の周りでは半世紀にわたって「発見」が続いた。文書は数千冊、遺物は一万点を超えるとまで言われるようになる。屋根裏から一回落ちてきただけにしては、増えすぎだった。

そこに書いてあったのは、まるごと別の日本だった

中身がまた凄まじい。東日流外三郡誌が語る東北の歴史はこうだ。

はるか昔、津軽にはアソベ族という先住民が住んでいた。そこへツボケ族がやってくる。さらに大陸や西日本から流れてきた人々が混ざり、荒吐族という強大な民族が生まれる。表記は荒羽吐とも荒覇吐とも書かれる。この荒吐族こそが、大和朝廷に征服される前の東北の主人公である、と。

神武東征で敗れた長髄彦は死んでいなかった。兄の安日彦とともに津軽へ落ち延び、そこで一族を再興した。武渟川別も出てくる。手研耳命が大和を三年支配したという記述もある。荒吐族の血を引く者が孝元天皇を擁立して大和を間接支配していた、なんて話まで出てくる。徐福が津軽に来たことになっているし、倭の五王は津軽の王だったことになっているし、孝謙天皇まで荒吐系にされている。

そして荒吐族の子孫が安倍氏になる。前九年合戦で滅ぼされたはずの安倍貞任の血脈が北へ逃れ、安東氏となり、十三湊を拠点に大交易帝国を築く。十三湊は満洲、中国、朝鮮、遠くはヨーロッパやアラビア、東南アジアとまで交易する国際貿易港であり、安東水軍が日本海を制していた。その繁栄は一三四一年、興国二年の大津波で一夜にして壊滅した。

これが本当なら日本史の教科書は書き直しになる。東北は中央に征服されるだけの辺境ではなく、独自の王朝と独自の海洋帝国を持っていたことになる。一九七〇年代から八〇年代にかけての東北の人々にとって、これがどれほど魅力的な物語だったか。ここが、この事件の理解の急所だ。

村が公費で刊行した「正史」に載ってしまった

さて、屋根裏から落ちた紙束が、どうやって公的な村史になったのか。ここが東日流外三郡誌が他の偽書と決定的に違うところだ。

きっかけは一九七一年、昭和四十六年。当時の青森県北津軽郡市浦村の村長・白川治三郎が村史の編纂事業を始めた。市浦村は十三湖と十三湊を抱える村だ。安東氏の本拠地であり、村としては当然そこを目玉にしたい。ところが中世の十三湊に関する史料はごく限られている。編纂委員長の山内英太郎が困っていたところに、和田喜八郎の名前が出てきた。

山内は和田と知り合い、二百巻ほどの文書を入手する。同じ年、白川村長と和田は、すでに和田家文書の一部を預かっていた藤本光幸のもとを訪ねた。藤本は十年ほど前から自分で出版準備を進めていた五十巻ほどを持っていた。村長みずから頭を下げて借用を頼まれ、藤本は貸した。ただし条件をつけた。市浦村に関係する項目だけを使うこと。

こうして合計百巻あまりが活字になり、一九七五年から一九七七年にかけて『市浦村史 資料編 東日流外三郡誌』上中下三巻として刊行される。副題は「みちのくのあけぼの」。村が公費で出す、村の公式な歴史資料集である。

これで東日流外三郡誌は「自治体が認めた古文書」になった。役場の刊行物という肩書がついた瞬間、この文書は郷土史の世界で一気に市民権を得る。図書館に入る。研究者が引用する。地元紙が取り上げる。この一手がなければ、東日流外三郡誌はただの怪しい私家版で終わっていた可能性が高い。

ちなみに藤本のほうは後に激怒している。市浦村に関係する項目だけという約束が守られなかったからだ。以後、藤本は追加の貸し出しを止めてしまった。その代わり、自分で年代別・ジャンル別に整理し直した版を、一九八三年、昭和五十八年に北方新社から刊行する。これで東日流外三郡誌は青森ローカルの郷土史資料から、全国の古代史ファンが読める本になった。

古田武彦という、最強の後ろ盾

ここに学者が乗った。古田武彦だ。

古田は当時、既存の古代史学界に真っ向から喧嘩を売っていた人物だった。邪馬台国ではなく邪馬壹国だと主張し、九州には大和とは別の独立王朝、九州王朝があったと唱えていた。『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』といった著作は当時ベストセラーになり、在野の古代史ファンに絶大な支持を得ていた。

古田の学説の骨格は「日本には大和以外にも王朝があった」という多元王朝説だ。そこへ東日流外三郡誌が現れる。九州王朝どころか東北にも王朝があったと書いてある。しかも記紀を絶対視する立場からは絶対に出てこない話ばかりが並んでいる。古田にとってこれは、自説を裏づける宝の山に見えた。

古田は初期には慎重だったとも言われる。だが読み込むうちに傾倒していく。やがて『真実の東北王朝』などで東北王朝説を展開し、東日流外三郡誌を本物の古文書として全面的に擁護する立場を鮮明にした。

ここから状況が変わる。単なる怪しい古文書だったものが、著名な学者が命を懸けて守る「学問上の争点」になった。反論する側は、和田喜八郎ではなく古田武彦と論争しなければならなくなった。しかも古田の周囲には熱心な支持者が大勢いる。

古賀達也、水野孝夫、竹田侑子、西村俊一、佐治芳彦、内倉武久、高橋良典、松重楊江、飛鳥昭雄といった名前が並び、学者以外にも笠谷和比古、平野貞夫、吉原賢二、さらにはタレントの上岡龍太郎まで真書説の側に立った時期がある。

こうなるともう、ただの古文書論争ではない。派閥抗争であり、思想闘争になる。

冥王星が江戸時代の古文書に出てくる問題

一方、疑いはじわじわ広がっていた。決定的だったのは言葉だ。

東日流外三郡誌は寛政年間、つまり十八世紀末に秋田孝季と和田長三郎吉次が編纂したことになっている。ところがその文中に、江戸時代の日本人が絶対に知らないはずの言葉がぽろぽろ出てくる。

たとえば冥王星。冥王星が発見されたのは一九三〇年、クライド・トンボーによってだ。寛政の人間が知っているわけがない。光年も出てくる。準星、つまりクエーサーという語まで出てくる。クエーサーの発見は一九六〇年代である。天文学の話に限らない。洗脳という語が出てくる。この言葉が日本語に定着したのは朝鮮戦争以降だ。民活、闘魂といった、どう見ても昭和後期の語彙まで混じっている。

真書派はこれに対して「明治大正期に書き写した際に、写した人が用語を現代風に置き換えたのだ」と説明した。理屈としては成立しなくもない。写本というのは往々にして写した時代の言葉が混入する。だが冥王星や準星は「言い換え」ではない。江戸の原文に対応する概念が存在しない。写しているうちに勝手に入る類の語ではないのだ。

さらに図版の問題があった。東日流外三郡誌には多数の挿絵が入っているのだが、そのうち三十五点以上が『国史画帖大和桜』という近代の絵入り歴史書からの引き写しだと指摘された。他人の論文や写真の無断使用も次々に見つかった。

安本美典はこうした指摘を体系的にまとめ、自身が編集する『季刊邪馬台国』誌を主戦場に徹底的な偽書論証を展開した。『東日流外三郡誌「偽書」の証明』という、タイトルからして情け容赦のない本も出ている。雑誌、テレビ、論文誌、あらゆる場所で古田派と安本派の激突が続いた。一九九二年前後から論争は完全に泥沼化する。

筆跡は、いつも同じ人のものだった

論争の中でいちばん逃げ場がなかったのが筆跡の問題だ。

東日流外三郡誌の写本群は、和田家の曾祖父や祖父が明治大正期に書き写したものだと説明されていた。ところが、その筆跡が和田喜八郎本人の字とあまりにも似ていた。似ているだけならまだしも、同じ癖字、同じ誤字が繰り返し現れる。何世代も前の人間が書いたはずの文書に、現存する人物とまったく同じ書き癖が出るというのは、説明が難しい。

このあたりで、笑うしかないエピソードがある。信奉者側が筆跡問題を解決しようとして、和田本人に「これは娘の字である」という趣旨の書き込みを依頼したことがあった。ところが、その書き込みの筆跡そのものが、問題になっているサンプルの筆跡と一致してしまった。反証するつもりの行為が、逆に決定的な証拠になった。

物理的な問題もあった。和田家の建物は一九四一年、昭和十六年の建造とされる。江戸時代の長持が明治大正期の写本を抱えて眠っていられる古い家ではない。しかも二〇〇三年に東奥日報が調べたところ、そもそもその家には古文書を隠せるだけの天井裏空間そのものが存在しなかった。落ちてきようがなかったのである。

三内丸山が出た瞬間、文書にも三内丸山が現れた

いちばん背筋が寒くなるのはこの指摘だ。

東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書は、半世紀にわたって少しずつ「新発見」が追加されてきた。その追加のタイミングを時系列で並べると、奇妙な法則が見えてくる。新しい記述は、常にマスコミが関連する話題を大きく報じた「後」に出現しているのだ。

いちばん有名なのが三内丸山遺跡だ。青森市の三内丸山遺跡が縄文時代の巨大集落として全国的な話題になったのは一九九四年のことだ。巨大な六本柱の建物が復元され、日本人の縄文観がひっくり返った。そして、和田家文書のうち三内丸山に触れた記述が現れるのは、一九九五年以降に公開された分だけである。それ以前に公開されていた文書には、一行も出てこない。

しかも文書に描かれた復元図が、当時の雑誌に載っていた想像図とそっくりだった、という指摘まである。江戸時代の人が描いた絵と、一九九〇年代の考古学者の復元イラストが似るというのは、確率の問題として厳しい。

同じことが他の話題でも繰り返された。世間が何かで盛り上がるたび、和田家文書の中からそれに対応する記述が出てくる。予言が当たるのではない。当たった後で予言が増えるのだ。

別府から来た裁判――熊野の写真が津軽になっていた

論争は法廷にも持ち込まれた。一九九二年、大分県別府市在住の歴史愛好家が和田喜八郎を提訴した。訴えの内容は著作権侵害。自分が撮影した写真と、自分が書いた論文が、和田家文書に無断で取り込まれているという主張だった。

裁判は長引き、最高裁まで争われた。結論として、写真については盗用が認定された。しかも認定の中身が味わい深い。原告が撮影した熊野の写真が、津軽の風景として使われていたのである。古代の津軽を証明するはずの図版が、紀伊半島の写真だった。一審は二十万円、上告審では四十万円の支払いが命じられた。論文のほうについては、裁判所は類似性を認めつつも著作権侵害かどうかの判断には踏み込まなかった。

この裁判で興味深いのは、判決文の用語だ。青森地裁も仙台高裁も、問題の文書群を「東日流外三郡誌」等と呼び、真書派が使う「和田家文書」という呼称は採用しなかった。裁判所が距離を取っていたことがうかがえる。

金額としては小さい。だが「和田家文書には他人の著作物が混入している」ことが司法の場で確定した意味は大きかった。屋根裏から落ちてきた江戸時代の文書に、なぜ現代人が撮影した熊野の写真が入っているのか。真書派はこれに納得のいく説明を出せなかった。

証言その一――真書派の切り札、福士貞蔵と佐藤堅瑞

ここで公平を期すために、真書派が最も頼りにしてきた反証を紹介しておこう。これがなかなか手強いのだ。

真書派、とりわけ古賀達也が繰り返し提示してきたのが、第三者による早期実見の記録である。郷土史家の福士貞蔵という人物が、昭和二十三年から二十四年、つまり一九四八年から四九年にかけて和田家の文書を実際に見て書き写した記録が残っている。その写しは五所川原の図書館に所蔵されているという。もし当時すでに文書が存在していたなら、和田喜八郎が二十代前半のときにすでに大量の文書があったことになる。

もう一件が浄土宗の僧侶・佐藤堅瑞だ。佐藤は昭和六年、一九三一年頃から和田家の原本を見ていたとされ、鎌倉期の僧・金光上人に関する研究書を残している。金光上人の史料は和田家から出たものが多く、その一部を佐藤が早い時期に確認していたというのが真書派の主張だ。さらに、洞窟から遺物が出た際には大泉寺の住職が立ち会って報告を残しているという証言もある。

真書派の論法はこうだ。和田喜八郎が二十代前半のとき、農作業の合間に数千冊もの文書を偽作するのは物理的に不可能である。江戸期の紙、江戸期の墨、江戸期の書式で、あれだけの分量を一人で作れるわけがない。だから和田家文書には少なくとも古い実体が存在した、と。

この主張は完全には潰しきれていない。偽書派の側は、福士や佐藤が見たものが現在流通している東日流外三郡誌と同一であることは証明されていない、と反論する。和田家に古い紙や古い文書が何かしらあったこと自体は否定しなくてもよくて、問題はそこに書かれている東北王朝の物語がいつ書かれたかだ、という切り分けである。実際、和田家周辺に近世の古文書が多少なりとも伝わっていた可能性は誰も完全には否定していない。

争点は「どこまでが古く、どこからが新しいか」なのだ。

証言その二――近所の人たちが見ていたもの

一方で、地元の証言はきわめて厳しい。

飯詰周辺で取材を重ねたジャーナリストが共通して報告しているのは、和田喜八郎の親族や近隣住民の多くが、彼の話をまるで信じていなかったという事実だ。全国から研究者やファンが押し寄せ、テレビ局が取材に来て、村が村史に載せるという騒ぎになっているのに、いちばん近くにいる人々の反応は冷ややかだった。あの人はそういう人だから、という空気があった。

そして、和田喜八郎の自己申告の経歴もかなりの部分が事実と食い違っていた。彼は一九四四年に陸軍中野学校へ入学したと語っていたが、中野学校の関係者から否定された。その後は海軍に移ったと説明を変えたが、当時の制度上それは不可能だと指摘され、以後この話をしなくなった。皇宮護衛官だったとも語ったが、宮内庁が否定した。

このときは古田武彦が仲介に入り、ボランティアとして皇居の警備に協力していたという趣旨の釈明が出された。

さらに、一九七九年から一九八三年にかけて青森県警友会の会員になっていたが、警察関係者ではないことが発覚して退会処分になっている。一九六九年に無銭飲食の容疑で逮捕された記録が出てきたことがきっかけだったとされる。

こうした話を並べていくと、屋根裏の長持の話も同じ棚に置かれることになる。地元の人たちは、たぶん最初からそう見ていた。

証言その三――東奥日報・斉藤光政の執念

この事件を全国的な「事件」として確定させたのが、青森の地元紙・東奥日報の記者だった斉藤光政だ。

斉藤は長期にわたって和田家文書を追いかけた。地元紙の記者という立場は微妙だ。東日流外三郡誌は青森の観光資源にもなりかけていたし、地元の名士や自治体が関わっている。それを叩くのは、地元でメシを食う新聞にとって楽な仕事ではない。それでも斉藤は現地を歩き、関係者に会い、和田家の物理的構造を検証し、証言の食い違いを一つずつ潰していった。

その成果は『偽書「東日流外三郡誌」事件』として二〇〇六年に単行本化され、後に新人物文庫、さらに二〇一九年には集英社文庫から『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』として再文庫化されている。読み物としても抜群に面白い。学術的な反証の羅列ではなく、人間を追ったルポになっているからだ。斉藤自身も和田本人に会っている。会って話を聞いて、その語りの生々しさと、事実関係の破綻を同時に記録している。

この本の読者反応で目立つのは、「偽書を暴く話」として読み始めたのに「なぜ人はこれを信じたかの話」として読み終わる、という感想だ。犯人探しの本ではなく、共犯構造の本になっている。

寛政原本、ついに出現――のはずだった

和田喜八郎は一九九九年九月十四日に亡くなった。七十二歳だった。最後まで「原本」を公開しなかった。これが真書派にとって最大の弱点だった。原本を見せれば紙も墨も鑑定できる。それをしないまま亡くなったのだから、疑われるのは当然だ。

ところが二〇〇七年、古田武彦が「寛政原本が出た」と発表する。寛政年間に書かれた本物の原本が見つかったというのだ。翌二〇〇八年には電子出版され、後に単行本として世に出た。共著者は竹田侑子。藤本光幸の妹で、和田喜八郎の没後、現存する和田家文書の管理を引き継いだ人物だ。

真書派にとっては起死回生の一手のはずだった。だが結果は逆になった。原田実らが検証すると、この「寛政原本」の筆跡は、これまでの和田家文書と変わらなかった。しかも致命的なことに、寛政原本の内容は、すでに活字化されて世に出ていた東日流外三郡誌のテキストと対応していなかった。原本というのは、写本の元になった文書のことだ。写本と内容が対応しない原本というのは、定義からして原本ではない。

古田武彦は二〇一五年に亡くなるまで、真書説を撤回しなかった。生涯を賭けて守り抜いた。その姿勢を誠実と見るか、引き返せなくなったと見るかは、読む人によって割れるところだ。

石塔山の神社と、増えつづける遺物

五所川原市飯詰の山中に、石塔山という場所がある。舗装道から林道に入り、二三十分歩く。標識はほとんどない。そこに荒覇吐神社と呼ばれる社がある。表向きの地図には十和田神社と載っていることもあり、社殿の扁額には石塔山大山祇神社とある。参道の入口には石塔山荒覇吐神社参道と書かれた標柱が立つ。

この場所を一九八〇年に整備し、事実上の聖地にしたのが和田喜八郎だった。周囲には巨石が転がり、大岩の裏には洞窟がある。文書の中で語られる荒吐族の聖地が、現実の風景として用意された。ここから遺物が出た、あそこから古文書が出た、という話の舞台になった場所だ。

物語には物語だけでなく、行ける場所が必要だ。訪ねて、歩いて、手で触れられる場所。石塔山はその役割を果たした。訪問者は山道を登り、巨石と洞窟を見て、ここで古代の東北人が祈っていたのだと感じて帰る。文書を読むより強い体験になる。今も参拝に訪れる人がいて、日輪を見たといった体験談がネットに上がっている。

そして遺物のほうも増え続けた。仏像、金属板、銘文入りの品。半世紀にわたって出続けた一万点あまりの遺物群のうち、学界が正式に認めたものはない。金光上人関係の遺物についても、発見の経緯に不審な点が多いという理由で学界の承認は得られていない。

アラハバキという神は、ちゃんと実在する

ここでひとつ、大事な注意をしておきたい。東日流外三郡誌が偽書だからといって、アラハバキという神が架空だという話にはならない。アラハバキは実在する信仰である。

記紀神話には出てこない。だが全国各地の神社に、客人神としてアラハバキが祀られている。表記は荒覇吐、荒脛巾、荒吐などさまざまだ。埼玉県さいたま市の大宮氷川神社には門客人神社という摂社があるが、これはもともと荒脛巾神社と呼ばれていた。出雲の佐太神社や出雲大社、伊予や三河の神社にも痕跡がある。

語源説も複数ある。吉野裕子はハハを蛇の古語と見て、ハバキを蛇木と解した。近江雅和はアラを鉄の古語と見て、砂鉄採取に関わる修験の神と考えた。真弓常忠は塞の神の本義をサヒ、つまり鉄の神と見る。アイヌ語に由来するという説もあり、クナトと対になる性の神とする見方もある。要するに、正体がよくわからない古い神なのだ。

多賀城の話も面白い。奈良から平安にかけて、朝廷が蝦夷制圧の拠点として多賀城を築いたとき、その東北の方角に荒脛巾神社が置かれた。谷川健一はこれを塞の神、つまり境界を守る神として捉え、蝦夷をもって蝦夷を制するという朝廷の統治方針の反映だと読んだ。

つまり、アラハバキは大和以前から東国にあったらしい古層の神で、大和側に組み込まれて客人神という半端な地位に押し込まれた形跡がある。ここまでは実在の宗教史の話だ。

ところが東日流外三郡誌は、この曖昧な余白に「反大和の民族神」という明快なキャラクターを流し込んだ。アラハバキ神イコール縄文の神、蝦夷の神、征服される前の東北の神。この定式は東日流外三郡誌以降に一気に広まった。遮光器土偶のビジュアルとも結びついた。今ネットで「アラハバキ」を検索したときに出てくるイメージの大半は、この経路で作られたものだ。偽書は否定されても、偽書が作ったイメージは残った。

十三湊は本当にあった。ただし津波では滅んでいない

十三湊についても同じことが言える。東日流外三郡誌が偽書だからといって、十三湊が架空だということにはならない。あそこは実在した。しかもかなり凄い港だった。

安藤氏は蝦夷沙汰職、蝦夷管領を務めた豪族で、一二二九年に十三氏の福島城を攻め落として以降、十三湊を拠点に日本海北部で広く活動した。発掘調査は国立歴史民俗博物館、富山大学、青森県教育委員会、市浦村教育委員会、中央大学などが手を組んで実施し、朝鮮半島や中国との交易の痕跡がはっきり出てきた。遺跡は東西の土塁を境に、北に安東氏と家臣の館、南に町屋が整然と並ぶ計画的な都市構造をしていた。

港湾施設地区、町屋と武家屋敷と領主館の地区、檀林寺跡の地区に分かれる。二〇〇五年七月十四日に国の史跡に指定されている。

つまり中世の十三湊は、東日流外三郡誌なんかなくても十分に凄いのだ。

では東日流外三郡誌の記述はどこが違うのか。まず滅亡の原因だ。文書は一三四〇年ないし一三四一年の大津波で一夜にして壊滅したと語る。だが一九九一年から九三年にかけての発掘調査を含め、この時期の津波痕跡は検出されなかった。弘前大学は別の時期の津波痕跡は確認しているが、興国年間のものではない。

しかも、繁栄の時期そのものが噛み合わない。十三湊の最盛期は文書が津波で滅んだと書いた時期の「後」に来る。滅んだはずの都市がその後に栄えているのだ。実際の衰退理由は、室町中期に安東氏が南部氏に敗れて夷島、つまり蝦夷地へ逃れたことによる。その後、飛砂が堆積して水深が浅くなり、港としての機能を失った。津波ではなく、政治と地形の問題だった。

安東水軍が世界と交易していたという壮大な話についても、それを裏づける遺物は出ていない。青森県教育庁の『十三湊遺跡発掘調査報告書』には、東日流外三郡誌については捏造された偽書であるという評価が既に定着している、と明記された。公的機関が公式文書ではっきり偽書と書いた。これが事実上の最終判定になった。

新聞もNHKも、後から謝った

この事件の後始末で見逃せないのが、報じた側の対応だ。

朝日新聞は一九九七年十月十七日付の青森地方面で和田家文書に関する記事を出したが、一九九八年三月十日付で訂正を掲載している。NHKも複数の番組で和田喜八郎の証言を取り上げていたが、担当したプロデューサーが二〇〇六年三月に、自らの不明を詫びる手記を発表した。市浦村で村史編纂を担当した郷土史家も、後に偽書であったと認めている。

この「後から謝る」の連鎖が、東日流外三郡誌事件の異様さを物語っている。個人の妄想が個人のノートに留まっていれば、こんなことにはならない。村が刊行し、新聞が報じ、テレビが放送し、学者が保証したから、謝罪する主体がこれだけの数になった。

尿の入った容器

和田喜八郎の死後、直系の子孫が絶え、和田家の建物は解体された。その過程で家の中が調査された。

そこから出てきたものの中に、長期間保管された尿の入った容器があった。研究者の原田実は、これが新しい紙を古く見せかけるための薬剤として使われた可能性を指摘している。紙を茶色く変色させ、いかにも古文書らしい風合いを出す手法は、古くから知られている。

もちろん、農家に古い尿の容器があること自体は珍しくない。肥料にもなるし、藍染めなど伝統的な用途もある。これ単独では決定打にはならない。だが、筆跡の一致、時代錯誤の用語、盗用された図版、存在しない天井裏、増え続ける発見、裁判での認定、公的報告書の判定。これらすべての上に置かれたとき、この容器は象徴的な意味を帯びた。

なお、編者とされる秋田孝季と和田長三郎吉次という二人の人物についても、和田家文書以外に存在を示す記録が一切見つかっていない。文書の成立を説明するために用意された架空の人物と見るのが、現在の一般的な理解だ。

なぜ止められなかったのか

ここが本題だ。おかしいと思った人は最初からいた。地元の人はほとんど信じていなかった。それでもこの話は三十年以上止まらなかった。なぜか。

ひとつめ。物語が需要にぴったり合っていた。一九七〇年代の日本はオカルトブームの真っ只中だ。一九七二年に高松塚古墳の壁画が出て古代史ブームが起き、一九七三年にはノストラダムスの大予言が空前のベストセラーになった。そこへ「教科書に載っていない本当の歴史」が出てくれば、売れないわけがない。しかも東北にとっては、中央に征服される辺境という自己イメージを反転させてくれる物語だった。買いたい人が大量にいた。

ふたつめ。自治体史という制度が思わぬ形で作用した。地方自治体が編纂する市町村史には、権威はあるが査読はない。専門の史料批判を通す仕組みが必ずしも組み込まれていない。編纂委員が郷土の名士や在野の郷土史家で構成されることも多い。そして市浦村のように「うちには十三湊がある、なのに史料が足りない」という状況があると、都合のいい史料が現れたときに疑うインセンティブが働きにくい。

一度公費の刊行物に載れば、以後それは「典拠のある話」として引用され続ける。

みっつめ。学術的な権威が乗ってしまった。古田武彦は素人ではない。実績もあり、支持者もいる。その人が全力で擁護すると、批判は「学問的な見解の相違」の形を取ることになる。単純な真偽ではなく、論争として扱われる。論争になれば両論併記になる。両論併記になれば、一般読者には「まだ決着していない話」に見える。決着していない話は、生き延びる。

よっつめ。反証が積み上がるたびに、説明が追加された。用語が新しいと言われれば写本時の混入だと説明する。原本を出せと言われれば公開できない事情があると説明する。天井裏がないと言われれば別の場所だと説明する。反証されるほど物語が複雑化していく。この構造に入ると、外から論理で崩すのがほぼ不可能になる。すべての反証に、いつでも新しい説明が用意できてしまうからだ。

いつつめ。追加の「発見」が常に供給された。話題が下火になると新しい文書が出る。三内丸山が話題になれば三内丸山の記述が出る。寛政原本を出せと責められれば寛政原本が出る。この供給が続く限り、コミュニティの熱は冷めない。

そして最後に、これがいちばん大きいのだが、誰も「やめよう」と言い出せる立場になかった。村は自分が出した村史を否定しなければならない。学者は自分の代表作を否定しなければならない。新聞は自分の記事を否定しなければならない。信じた読者は自分の三十年を否定しなければならない。関わった人数が増えるほど、撤退のコストが上がっていく。だから止まらなかった。

嘘の質ではなく、嘘を運んだシステムの質

ここからは総括と、少し踏み込んだ話をする。

東日流外三郡誌事件を「田舎のおじさんが作った嘘に、みんなが引っかかった話」として片づけると、いちばん面白い部分を取り逃す。この事件の本質は、嘘の質ではなく、嘘を運んだシステムの質にある。

考えてみてほしい。屋根裏から古文書が落ちてきたと言い張る人は、たぶん日本中にいる。ほとんどは近所で笑われて終わる。ではなぜ東日流外三郡誌だけがここまで来たのか。答えは、この文書が通過した経路が異常に良かったからだ。

第一関門は郷土史家のネットワークだった。和田喜八郎は無学な農夫ではなかった。二十代の頃から地元の郷土史家の手伝いをして、史料を探して回っていたという記録がある。つまり彼は、郷土史の世界が何を欲しがっているかを知っていた。何が「らしく」見えるかを知っていた。誰に見せれば話が広がるかを知っていた。これは決定的なアドバンテージだ。

偽書というのは、内容が巧妙かどうかより、流通経路を押さえているかどうかで成否が決まる。

第二関門が自治体だった。ここが最大の増幅装置になった。市浦村史に載った瞬間、東日流外三郡誌は「誰かが言っている話」から「役場が刊行した資料」に格上げされた。この格上げは不可逆だ。後から偽書と判明しても、すでに刷られた三巻本は図書館に残り続けるし、それを引用した文献も残り続ける。汚染された引用のネットワークは、水源を止めても下流の水はしばらく流れ続ける。

第三関門が学術的権威で、第四関門がマスメディアだった。この四つを順番に通過したことで、東日流外三郡誌は「怪しい話」ではなく「議論のある学説」というポジションを獲得した。このポジションを取られると、否定側は永久に反証をし続けなければならなくなる。証明責任が逆転してしまうのだ。本来、新出史料の真正性を証明するのは提出した側の義務だ。

ところがこの事件では、いつのまにか「偽物だと証明できないなら本物かもしれない」という空気が支配的になった時期がある。

もうひとつ考えたいのが、真書派の心理だ。彼らを単純な馬鹿として扱うのは、たぶん間違っている。古田武彦は既存学界と正面から戦ってきた人だった。学界の主流に無視され、嘲笑された経験がある。そういう人にとって、「学界が認めない史料」という属性は、それ自体が信頼のシグナルになりうる。学界が否定するものこそ本物かもしれない、という反転した推論が働く。この推論は完全に間違いというわけでもない。

歴史上、学界が長く否定していたものが後に認められた例はある。だからこそ危ない。

そして古田には、東日流外三郡誌を必要とする理論的事情があった。多元王朝説には、大和以外の王朝の史料が要る。九州王朝説を補強する東北王朝の存在が出てくれば、理論全体の説得力が上がる。欲しいものが向こうから歩いてきたとき、人は検証を甘くする。これは特殊な弱さではなく、研究者一般が抱える構造的な弱さだ。

三内丸山の記述がいつ現れたかを調べるという、ごく単純な作業を誰かが早期にやっていれば話は変わったかもしれない。だが自分の理論を支える史料に対して、人はその作業をやりたがらない。

反対側、偽書派の功績もちゃんと評価しておきたい。安本美典は文献学的な突破口を開いた。用語の年代分析、図版の出典特定、テキストの内部矛盾。地味で膨大な作業だ。原田実は古田の元助手という立場から離脱して批判側に回った人物で、内部を知っているぶん指摘が的確だった。そして斉藤光政は、文献ではなく現場をやった。家の構造を見た。近所で聞いた。経歴を照合した。この三方向が揃ったから決着した。

どれかひとつでは足りなかっただろう。

現在の状況を整理しておく。学界の評価は完全に確定している。青森県教育庁の発掘調査報告書に偽書であるという評価が定着していると明記されて以降、学術的な争点としては終わっている。日本史学で東日流外三郡誌を史料として使う人はいない。市浦村は二〇〇五年に五所川原市と合併して消滅した。和田家の建物は解体され、直系は絶えた。文書の現存分は竹田侑子が管理しているとされる。

真書説を支持する少数のグループは今も活動しているが、学界の議論には影響していない。

一方で、文化史的な影響は今も生きている。アラハバキがそうだ。反大和の縄文の神というイメージは、東日流外三郡誌なしには成立しなかった。今この神をモチーフにした小説、ゲーム、音楽、漫画がいくつもあるが、その多くが参照しているのは学術的なアラハバキ研究ではなく、偽書が作ったイメージのほうだ。荒吐族という族名にしてもそうだ。学術的には存在しない民族だが、フィクションの中では確固たる存在感がある。

これは笑い話ではなく、けっこう深い問題を含んでいる。偽書が消えても偽書のイメージは消えない。むしろイメージのほうが軽くて速いので、遠くまで飛ぶ。学術的な訂正は重くて遅いので、追いつけない。東日流外三郡誌は文献としては死んだが、生態系としては生き残った。ここに、フェイクというものの本当の厄介さがある。

もうひとつ言っておきたいのは、この事件が東北に残した後味の悪さだ。東日流外三郡誌が支持された背景には、東北が中央に対して抱いてきた歴史的な鬱屈がある。蝦夷、俘囚、白河以北一山百文。中央の史書に登場するとき、東北はたいてい征服される側だ。その視線を反転させたいという願いは、まったく正当なものだ。

問題は、その正当な願いを偽書が横取りしたことだ。東北には偽書に頼らなくても十分に語るべき歴史がある。十三湊の発掘は日本中世の海上交通像を書き換えたし、安藤氏の実像も研究が進んでいる。三内丸山は縄文観をひっくり返した。柵と城柵の考古学も蝦夷社会の実態を明らかにしつつある。本当の東北史のほうが、東日流外三郡誌より面白いのだ。にもかかわらず、東北の古代史と言えばアラハバキと荒吐族、という連想が今も強い。

偽書が本物の歴史の居場所を奪った。これはけっこう罪深いと思う。

最後に、和田喜八郎という人物について。彼が何を考えていたのか、本当のところは誰にもわからない。金銭目的にしては、割に合っていない。彼が得たものは、全国から人が訪ねてくる立場、学者が敬意を払う立場、村の歴史に名を刻む立場だった。津軽の一農村の男が、東京の学者に迎えられ、テレビに出て、村史の資料提供者になる。得たものは金ではなく、意味だったのかもしれない。

そして、彼を英雄にしたのは彼一人ではない。村があり、学者があり、新聞があり、読みたがる読者がいた。物語には作者だけでなく、読者が要る。日本最大の偽書事件と呼ばれるこの騒動が半世紀続いた理由は、たぶん和田喜八郎の中ではなく、それを求めた側の中にある。

屋根裏から古代史が降ってくることはない。だが、降ってきてほしいと願う気持ちのほうは、いつの時代にも、どこにでもある。次の東日流外三郡誌は、たぶんもう別の形でどこかに落ちている。

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