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武田信玄、三年の秘喪――甲斐の虎の遺骸はどこへ消えたのか

元亀四年四月十二日。信濃と三河をつなぐ街道の途中で、二万を超える軍勢がふいに止まった。先頭も後尾も、理由を知らされていない。ただ本陣の輿のまわりだけが、やけに静かだったという。

甲斐の虎、武田信玄が死んだ。享年五十三。

そしてこの日から三年、日本の東半分は「生きているはずの死者」を相手に外交と軍事を続けることになる。戦国という時代でいちばん長く、いちばん大がかりな嘘の話をしたい。

天下に手が届きかけた男が、街道の途中で消えた

まず情景から入りたい。

元亀三年、一五七二年の十月。信玄は甲府を発った。将軍足利義昭が織田信長討伐の呼びかけを各地に回していて、それに応じる形での大進軍だった。俗にいう西上作戦だ。

武田勢は諏訪から伊那を抜けていく。山県昌景と秋山虎繁の支隊が三河へ、信玄の本隊は青崩峠を越えて遠江へ入った。十月には一言坂で徳川勢を蹴散らす。そして十二月二十二日、三方ヶ原で家康を完膚なきまでに叩いた。

家康が命からがら浜松城へ逃げ帰り、脱糞したの何だのと後世さんざんネタにされる、あの戦いだ。ここまでは信玄の生涯でいちばん順調な進撃だった。

流れが変わるのは、年が明けてからだ。

元亀四年の正月、武田軍は三河へ進んで野田城を囲む。ここが異様なんだよな。たった数百人が籠もる小城に対して、信玄は一か月以上も時間を使っている。しかも甲斐から金山掘りの技術者をわざわざ呼び寄せ、地下道を掘って城の水の手を断つという、恐ろしく手間のかかる方法をとった。

二月十六日、城兵の助命と引き換えに野田城は開いた。

落ちたのに、武田軍は西へ進まない。長篠城に入ったきり、動かなくなる。

そして四月、突然の反転である。あれだけの軍勢が、進むのをやめて甲斐へ帰りはじめた。行軍は遅く、輿はほとんど日中に動かなかったともいう。信濃へ入り、伊那谷を北上して、駒場――いまの長野県下伊那郡阿智村のあたりまで来たところで、信玄は息を引き取った。

四月十二日。

近くにいた者はごく限られていた。勝頼と、数人の重臣と、僧が一人か二人。そこで信玄はいくつかの指示を残す。そのうちのひとつが、この記事の主題だ。

自分の死を三年隠せ。

葬儀を出すな。墓を立てるな。悲しむ顔をするな。棺を運び入れる者すら決めておけ。そして三年経ったら、そのときは好きにしろ。

これが本当に信玄の口から出た言葉なのかは、あとで徹底的に疑う。ただ、少なくとも武田家がそのように振る舞ったことは、動かしがたい事実として残っている。武田勝頼はこの後三年間、父の葬儀を出していない。それだけは記録が証明している。

落城寸前の城から流れてきた笛の音に、大将が誘い出された

ここで一度、時計を二か月戻したい。

信玄の死をめぐる伝説のなかで、いちばん絵になり、いちばん語り継がれてきたのが、野田城の狙撃話だ。

野田城に籠もっていた菅沼定盈の陣中に、村松芳休という男がいた。一節切という短い縦笛の名手で、伊勢の出とも、かつて武田家に仕えたことがあるとも伝わる。籠城のあいだ、この男は毎晩笛を吹いていた。

落城が近い城の中から流れてくる音色というのは、それだけで妙な力を持つ。囲んでいる武田方の兵まで、手を止めて聴き入ったという。

で、その音が本陣にいた信玄の耳にも届いた。

信玄は音曲に通じた男だ。数万の兵を率いて三河にいるのに、夜になると陣を出て、堀端まで来て笛を聴くようになった。ここまでなら風流な逸話で終わる。

問題は、その堀端に、紙をくくりつけた竹が立てられていたという話だ。信玄が床几を据える位置を示す目印だったとされている。つまり毎晩、同じ場所に、同じ人物が座る。

狙撃者にとって、これ以上ありがたい条件はない。

菅沼の家臣に鳥居三左衛門という者がいた。落城は避けられない、ならば敵の大将を一人でも道連れにする。そう腹を決めて火縄銃を構えた。笛が佳境に入った瞬間、竹の目印に向けて撃つ。

弾は闇の向こうで何かに当たった。三左衛門は、闇のなかから聞こえた野太い声で、当たった相手が信玄であると確信した、と伝えられている。命中箇所は右肩とも、脇腹とも、頭部ともいわれ、伝承ごとに違う。

翌日から武田軍の様子がおかしくなり、やがて撤退が始まる。だから信玄の死因は病ではなく銃創だった、というのがこの伝説の骨格だ。

愛知県新城市の設楽原歴史資料館には、このとき使われたと伝わる鉄砲の銃身が「信玄砲」として残っている。現物があるというのは、伝説にとってものすごく強い。

ただ、この話の出どころを追いかけると、話は一気にしぼむ。

狙撃譚がまとまった形で出てくるのは『松平記』や『菅沼家譜』といった、徳川方や菅沼家の家伝史料だ。要するに、撃った側の家に伝わった話なんだよな。しかも成立は後代。当時の武田方の記録には、信玄が銃で撃たれたという話は出てこない。信玄は野田城を落とした直後から喀血していた、という記述のほうが、記録としては先に立つ。

それでもこの伝説がしぶとく生き残っているのは、あまりに構図が美しいからだと思う。天下に迫った男が、笛の音というもっとも無害なものに誘い出されて撃たれる。物語としての完成度が高すぎる。

咳、吐血、そして異様に膨れた腹

伝説を横に置いて、病のほうを見よう。

信玄が晩年に何らかの病を抱えていたことは、複数の系統の記録が一致して伝えている。もともと信玄は、少なくとも死の数年前から体調に問題を抱えていた形跡がある。元亀元年ごろ、信玄自身が湯治に出かけている記録もあるし、京都の名医を呼んだという話も残る。

死の直前の症状として繰り返し出てくるのが、喀血と吐血だ。野田城を落としたあとから咳とともに血を吐くようになった、というのが基本線。加えて、腹部が異常に膨れていたという触診の伝えもある。食が細く、水しか喉を通らなくなっていた、という記述も後代の史料に見える。

さらに厄介なのが、当時の記録に出てくる病名の書き方だ。

信玄の病を「膈」と表現している史料がある。この字は近世医学では、食べ物が喉や胸でつかえて通らなくなる病態を指す。現代でいえば食道や胃の噴門部の閉塞、つまり消化管の悪性腫瘍が真っ先に疑われる状態だ。

ところが同じ字が、まったく別の胸の病に当てられている例もある。この一文字だけで確定させるわけにはいかない。四百五十年前の病名は、現代の病名と一対一で対応しないのだ。ここが信玄の死因論争がいつまでも終わらない最大の理由になっている。

御宿監物友綱という武田家中の人物が、信玄の本葬にあたって小山田信茂に宛てて書いた書状が残っている。そこには「病患たちまち腹心に萌し」、医の手を尽くしても「業病さらに癒えず」といった調子で、病がどう進んだかが書かれている。腹と胸に病が兆した、という表現は示唆的だが、これも診断書ではない。

労咳、つまり肺結核だったのではという線

もっとも古くから広く信じられてきたのが、労咳、いまでいう肺結核だ。

根拠は明快で、咳と喀血という症状の組み合わせが、当時の結核像とぴたりと重なる。江戸時代に書かれた『武家事記』も、信玄の死因を結核系の病として扱っている。侍医の記録とされるものにも、呼吸のたびに苦しみ血を吐いた、という趣旨の記述が伝わる。

戦国期の日本で結核はごくありふれた病だった。栄養状態と過労が重なれば、大名でも例外なく倒れる。長期の遠征、真冬の野営、五十を超えた体。条件はそろっている。しかも結核なら、数年かけてじわじわ悪化して最後に一気に崩れるという経過をたどるので、元亀三年に大遠征へ出られた事実とも矛盾しない。

弱点もある。結核は空気で伝染る。信玄ほど側近が密集していた人物が長年重い肺結核を患っていたら、周囲にも似た症状の者が出てくるのが自然だが、そういう記録はない。それに、腹部が膨れていたという伝えは肺結核では説明しにくい。

「膈」を素直に読むと、胃か食道のがんになる

『甲陽軍鑑』の記述をもとに、胃がんだったとする読み方も根強い。

進行胃がんは吐血を起こす。食が細くなり、体重が落ち、腹に腫瘤ができて張ってくる。喀血と吐血は当時の記録では区別されないことも多かっただろうから、「血を吐いた」という記述だけでは肺か胃かは決められない。

食道がん説は、「膈」の字をもっとも素直に受け取る立場だ。食べ物がつかえて通らない、水しか飲めない、痩せ細る。この経過は進行食道がんの典型そのもので、末期には腫瘍が血管を破って大量に吐血する。信玄の最期の数か月の様子と、よく合う。

ただし、こちらにも難点がある。がんは基本的に不可逆に進む。もし元亀三年の秋の時点ですでに食道が塞がりかけていたなら、真冬の三方ヶ原で馬に乗り、二万余を指揮するのはかなり無理がある。がん説をとるなら、発症は西上作戦の途中か、遅くとも野田城のころということになり、進行が異様に速かったと考えるしかない。

甲府盆地という土地そのものが疑われている

腹部膨満という所見を重く見ると、肝臓が浮上する。

肝硬変が進むと腹水が溜まって腹が張り、食道の静脈が瘤になって、破れると凄まじい量の血を吐く。吐血と腹部膨満を一度に説明できるという点では、じつは肝硬変がいちばん筋がいい。

そこで出てくるのが、甲府盆地という土地の事情だ。

甲府盆地は近代に至るまで、日本住血吸虫症の激烈な流行地だった。地元では原因不明の「水腫脹満」として恐れられ、腹が太鼓のように膨れて死ぬ病として知られていた。この寄生虫は肝臓に卵を産みつけ、長い年月をかけて肝硬変を起こす。

信玄は甲府で生まれ育ち、甲斐の川と田で生涯を過ごした男だ。感染していても、何ら不思議はない。

この説の面白いところは、信玄個人の話に留まらない点にある。甲斐という国が慢性的に人を消耗させる土地だったという条件は、武田家の対外拡張の動機にも接続しうる。もっともこの病は感染から発症までが長く、信玄の症状すべてを説明するわけでもない。あくまで有力な候補のひとつだ。

そして忘れてはいけないのが、脳卒中説や胃潰瘍説といった、さらに別の見立ても提出されていること。結論を言えば、信玄の死因は確定していない。遺骨があっても骨に痕跡を残さない病のほうが多いのだから、たぶん今後も確定しない。

その遺言、本当に信玄が言ったのか

さて本丸だ。

この遺言の出典は、ほぼ一点に集約される。『甲陽軍鑑』である。

品第三十九、巻十三にあたる箇所に、信玄が臨終にあたって自分の死を三年間隠すよう命じ、葬儀は無用とし、三年たったら遺骸に具足を着せて諏訪湖に沈めよと述べた、という趣旨の記述がある。国立国会図書館のレファレンス事例でも、この逸話の出典を尋ねられた際に示されるのは『甲陽軍鑑』で、『武田三代軍記』などの類話はそれより後発だと整理されている。

つまり、この有名すぎる遺言は、信玄自筆の書き置きから来ているわけではない。同時代の第三者が書き残した記録から来ているわけでもない。一冊の軍記物が出どころだ。ここを押さえないと話が始まらない。

では『甲陽軍鑑』はどれくらい信用できるのか。これがまた一筋縄でいかない。

明治二十四年、田中義成が『甲陽軍鑑考』で、記述の年月に誤りが多いことを理由に、江戸初期の兵法家である小幡景憲による創作だと断じた。この偽書説は戦後の実証史学の定説になり、長らく『軍鑑』は史料として使ってはいけない本という扱いを受けてきた。

流れを変えたのが国語学者の酒井憲二だ。

彼は『軍鑑』の本文を言語学的に徹底分析した。その結果、使われている語彙や文法が室町末期の口語の特徴を色濃く残しており、江戸初期の人間が創作したにしては古すぎることを示した。景憲は編纂者ではなく、傷んだ原本を忠実に写した写し手にすぎない、というのが酒井の結論だった。

この再評価を受けて、平山優、小和田哲男、黒田日出男といった研究者が改めて『軍鑑』を検証した。いまでは「年月の誤りは多いが、武家の故実や戦国武士の習俗については実態を伝えている」というのが標準的な扱いになっている。

そこで問題は、遺言のくだりがどちらに属するかだ。武家故実の描写のように実態を伝えている部分なのか、それとも物語の山場として整えられた部分なのか。

研究者の見解は分かれるが、「三年秘匿」については比較的評価が高い。理由は単純で、勝頼が実際に三年間葬儀を出さなかったという事実が、独立に確認できるからだ。行動と記述が一致している。逆に「諏訪湖に沈めよ」のほうは、後で見るように事実として否定されている。

同じ遺言のなかで、片方は裏が取れて片方は取れない。ここがこの話の面白いところだ。

歴史研究者の渡邊大門は、三年秘匿は事実と見てよいが、諏訪湖水葬は史実ではないと明確に整理している。秘匿の理由については、信長の反撃を警戒したからだろうという見立てを示しつつ、なぜ「三年」なのかという具体的な根拠は不明だとしている。

この慎重さは大事だ。三年という数字は、仏事の三回忌と重なる。忌が明ければ喪を公にできる、という宗教的な区切りが選ばれた可能性はある。でも、それも推測の域を出ない。

もうひとつ、遺言をめぐって近年重視されているのが、勝頼の立場の問題だ。

『甲陽軍鑑』の遺言の別の条には、勝頼の子である信勝が十六歳になったら家督を継がせ、それまで勝頼は「陣代」として代行せよ、という内容が含まれている。勝頼が武田家の通字である「信」をもらえず、諏訪家の通字である「頼」を名乗っていたこと、諏訪四郎と呼ばれていたことなどと合わせて、勝頼が正式な当主ではなく中継ぎだったという議論につながる。

この読み方が正しければ、「三年隠せ」という指示は、単に敵を欺くためだけのものではない。家中の継承をめぐるごたごたを凍結させるための時間稼ぎでもあったことになる。父の死を隠すというのは、対外的な情報戦であると同時に、内部の権力移行を穏やかに済ませるための装置でもあったわけだ。

兄と同じ顔を持った弟が、輿の中に座った

死を隠すには、生きている姿が要る。

ここで登場するのが実弟の武田信廉、出家名を逍遙軒信綱という。

信廉は武田信虎の六男で、信玄と、川中島で戦死した典厩信繁とは同母の兄弟にあたる。天文十七年ごろから史料に現れ、諏訪衆に対する取次役を務め、信繁の戦死後は親族衆の筆頭に立った。元亀元年には信濃高遠城主となり、のちに大島城代や飯田城代といった伊那方面の要職を任されている。武田家の中枢にいた実務家だ。

この男の異様なところは、兄と顔がそっくりだったことである。

側近ですら見分けがつかなかった、という伝えが複数残っている。加えて信廉は当代一流の絵師でもあった。父信虎の肖像画は大泉寺に伝わり、重要文化財に指定されている。長禅寺には渡唐天神像も残る。

人の顔をじっと観察して写しとる訓練を積んだ男が、兄の顔をした弟として立つ。この組み合わせは出来すぎているが、事実だ。

信玄の死後、信廉は兄になりきって軍を甲斐に帰したと伝えられる。輿の中の人物が生きていることを示すため、時折姿を見せ、声を発し、指示を出す。さらに、北条家から信玄の安否を探る使者が来たときにも、信廉が応対して見抜かれなかったという話が残っている。使者は主君のもとに帰って「信玄公はご健在でした」と報告する。情報戦としては満点の仕事だ。

ただし、この影武者話がどこまで実証できるかというと、これも『甲陽軍鑑』系の伝承に大きく依存している。

信廉が影武者を務めたという記述は、信玄の生前についても存在する。信玄が病んだ時期に代役を務めたという話もある。つまり信廉が兄の代役を張るという運用は武田家において常態化していた可能性があり、その延長線上に信玄死後の三年間があったと考えるのは自然だ。

しかし、三年ものあいだ信廉が信玄として公務をこなし続けた、という完全な形での影武者運用を裏づける同時代文書は存在しない。おそらく実態は、要所要所で「信玄らしき人物」を演出する断続的な運用だったのだろう。

信廉のその後は苦い。

勝頼とはそりが合わず、長篠では早々に退いた。天正十年、織田軍の甲州征伐が始まると、守っていた大島城を戦わずに放棄して逃れる。だがまもなく捕らえられ、三月、兄の遺志も家も何もかも失ったあとで殺された。享年五十一。名馬を見せると偽って屋外に誘い出され、そこで討たれたという伝えがある。

兄の顔をして生き、兄の家が滅んだあとで、兄とは似ても似つかない最期を迎えた男だった。

死を隠すという仕事は、実際どう回していたのか

ここは想像で埋めたくなるところだが、押さえられる事実から積み上げよう。

まず、武田家が信玄の葬儀を出さなかったのは確かだ。

天正三年、一五七五年の四月十二日、つまり死からちょうど二年目の命日に、恵林寺で三回忌にあたる仏事が行われた。日本の数え方では死の翌年が一周忌、二年後が三回忌になるので、これが「三年」の終着点にあたる。そして本格的な葬儀は、さらに翌年の天正四年四月十六日、恵林寺で快川紹喜を導師として執り行われた。前述の御宿監物の書状は、まさにこの本葬の日付で書かれている。

三年隠し、三回忌で内々に区切り、翌年に大々的な葬儀を出す。この段取りは、記録できれいに追える。

もうひとつ確認できるのが、天正三年三月六日に高野山成慶院で信玄の日牌が立てられていることだ。高野山という、諸国の武家が出入りする場所に位牌を立てるというのは、隠す気があるならやらない行為である。つまりこの時点で、武田家はもう完全に隠す気を失っている。

では死を隠していた二年間、家中はどう動いていたか。

文書の発給名義は、実務上は勝頼のものが増えていく。信玄が生きていることになっているのに、判物や書状の名義が息子に移っていけば、勘の鋭い相手には状況が読める。ここが秘喪の限界だ。大名家というのは日々大量の文書を出す行政組織だから、トップの不在を書類の上で偽り続けるのは、ほぼ不可能なのである。

信玄の花押が押された文書が死後に急増した、というような露骨な偽造の痕跡は確認されていない。武田家がやったのは、積極的に「生きている」と偽装することより、「死んだ」と公言しないことのほうだったと見るのが妥当だろう。沈黙は嘘より扱いやすい。

家臣にすら伏せたという話については、程度問題として理解しておきたい。

臨終に立ち会った重臣は当然知っている。輿を守った者も、遺体を火葬した者も、僧も知っている。知らなかったのは、末端の兵と、遠国に配置された将と、他家に嫁いだ縁者あたりだろう。

この構造は現代の企業や組織の情報統制とまったく同じで、秘密は知る人数が増えるほど加速度的に漏れる。三年もつわけがない。

で、実際その年のうちに漏れていた

案の定、信玄の死は早い段階で外へ流れている。

北条氏政のもとには、その年のうちに信玄死亡の噂が届いていた。上杉謙信も比較的早い時期に武田領内の異変を掴んでいたとされる。上洛戦の主役が突然引き返して、それきり動かなくなり、翌年になっても姿を見せない。これで気づかないほうがおかしい。

信長にとっても同じだ。

信玄の西上によって、信長は生涯最大級の窮地に立たされていた。その圧力が突然消えたのが元亀四年の春である。信長は同年七月に義昭を追放し、八月には朝倉と浅井を滅ぼしている。ものすごい速度で反撃に転じているわけで、これは背後の圧力が消えたことを確信していなければ取れない行動だ。

武田の秘密は、行動の変化として敵に読まれていた。

だから「三年間、誰にもバレなかった」というのは伝説である。正確には、三年間、武田家が公式には死を認めなかった、というだけの話だ。

それでも意味はあった。公式に死を認めていない相手に対して、弔い合戦だの家督相続の混乱に乗じるだのといった大義名分を立てるのは面倒くさい。噂は噂のままだと、動くには賭けになる。その「賭けにさせる」効果を二年ほど稼いだのが、この秘喪の実利だったのだと思う。

具足を着せて、湖に沈めろ

遺言のもうひとつの部分。遺骸を諏訪湖に沈めよ。

これがいちばん人の心を掴んだ。

『甲陽軍鑑』では、三年たったら遺骸に具足を着せて諏訪湖に沈めろ、と信玄が命じたことになっている。そして伝説はこう続く。天正四年の四月十二日の夜、諏訪湖の岸に松明が並び、石棺が舟で運ばれ、静かに水底へ沈められた、と。

武将が湖に沈むという構図は日本の伝承のなかでもかなり異質だ。だからこそ強烈に記憶される。

なぜ諏訪湖なのか。ここには理由らしきものがいくつかある。

信玄は諏訪大社を篤く信仰し、軍旗にも諏訪明神を掲げ、諏訪法性の兜を被ったと伝えられる。諏訪は武田が信濃経略の足がかりとした土地であり、勝頼の母である諏訪御料人の実家でもある。そして諏訪湖は甲斐と信濃を結ぶ結節点で、湖底なら墓を暴かれる心配がない。信仰と戦略と実利が、ひとつに重なる場所ではあるのだ。

しかし、事実として遺骸が諏訪湖に沈められた形跡はない。

恵林寺での葬儀は行われているし、火葬の記録も遺骨の伝承も甲斐と信濃に散らばっている。渡邊大門をはじめ、この点については研究者の見解はほぼ一致していて、水葬は史実ではないとされる。

では、この一節はなぜ『甲陽軍鑑』に書き込まれたのか。

ひとつには、諏訪信仰と信玄の結びつきを物語として最大化するためだろう。もうひとつ考えられるのは、「遺骸の在処を明かすな」という現実の指示が、後年に語られるうちに具体的な湖の名前を得たという流れだ。

死を隠すというのは、遺体を隠すということでもある。埋めた場所を知られないようにする、という実務が、湖底という究極の隠し場所のイメージに置き換わっていく。伝説はだいたい、こうやって出来上がる。

湖底に浮かんだ菱形が、昭和の日本を騒がせた

ここからは近代の話になる。諏訪湖の水中墓伝説は、単なる言い伝えでは終わらなかった。

昭和の後半、国土地理院の関連で行われた湖底の音響測深、いわゆるソナー調査で、湖底に一辺およそ二十五メートルの菱形をした構造が確認された。

菱形。武田菱。

この符合が報じられた瞬間、話は一気に燃え上がった。地元紙も全国紙も飛びつき、信玄の墓が本当にあったのではないかという騒ぎになる。

その後、複数の機関が十数年にわたって追加調査を行った。電磁波探知機で墓標のような立体物を捉えたという報道も出た。菱形の内部に深さ三、四メートルの穴があること、金属と思われる反応があること、文字らしきものが刻まれた石が引き上げられたことなども伝えられている。

一方で、菱形そのものについては、湖底の自然のくぼ地が影として写ったものだという説明が有力になり、公式には決着がついた形になった。

ただ、これで完全に納得した人ばかりではない。

くぼ地の形状が東西十七から二十メートル、南北二十数メートルという規模で、しかも角がはっきりしていることについて、自然にできたとは考えにくいという声は今も残っている。諏訪湖は堆積が激しく、四百五十年分の泥が積もっているので、仮に何かが沈んでいたとしても、そのまま形を保っている可能性は低い。逆に言うと、泥に埋もれた何かが微妙な起伏として残るという想定も否定はできない。

そして二〇二四年の春。この昭和の謎を子どものころに聞いて育った出版社の社長が中心になり、地元のプロダイバーを交えた独自の捜索が実施された。かつて騒がれた菱形の位置を狙って潜り、実際に湖底の状況を確認するという内容で、地元紙が動画つきで報じている。

結果として、決定的な発見はなかった。諏訪湖は透明度が低く、湖底は泥で、潜っても数十センチ先が見えない。四百五十年前の石棺を探す環境としては、最悪に近い。

それでも人が潜る。そこに、この伝説の生命力がある。

墓が多すぎる男

信玄の墓と称するものは、異様に多い。これも秘喪の副産物だ。

菩提寺は甲州市の恵林寺である。天正四年の本葬もここで行われた。快川紹喜が導師を務め、以後ここが信玄の墓所として扱われてきた。ただし三年隠したあとの葬儀だから、遺骨がここに納められた保証はない、という指摘は昔からある。

甲府市岩窪町には、信玄公火葬塚がある。

ここは「魔縁塚」とも呼ばれ、江戸時代には触れてはいけない祟りの塚として恐れられていた。文政十三年の記録には、この塚から金を掘り出そうとした者が大風と地震に遭い、高熱を出して死んだという話が残る。心霊スポットとしての格は相当なものだ。

ところが安永八年、一七七九年の春、甲府代官の中井清太夫がここを掘った。地下二丈ほどのところから石棺を掘り当てる。棺の中には骨片があり、周囲の土には灰が混じっていて、ここが火葬の場所であったことが確認されたという。

石碑が建てられ、天保年間には武田浪人ら百五十七名の寄付で立派な廟所に整備された。祟りの塚が、供養の場に転換した瞬間である。

伝承では、側近の土屋昌続が自邸内に遺骨を埋めたのが始まりだといい、発見された石棺には「法性院信玄大居士 四月十二日葬」の文字があったとされる。

信玄が死んだとされる駒場には長岳寺があり、ここが火葬地だという伝承がある。境内には信玄公灰塚供養塔が立っていて、これは昭和四十九年の四百年祭のときに、火葬地とされる場所から灰を移して建てられたものだ。

近くの根羽村にも信玄塚がある。こちらは寛文年間に建てられた花崗岩の宝篋印塔だ。『甲陽軍鑑』は「根羽にて御他界」と書き、『熊谷家伝記』も根羽での死を伝えている。さらに『三河物語』は「平谷波合にて信玄は御病死成されける」と書いていて、浪合説まである。

同時代に近い御宿監物の書状が「信州駒場において」と書いているため、現在は駒場説が優勢だが、決着はしていない。

このほか円光院、大泉寺、福田寺、高野山、妙心寺にも墓や供養塔がある。

三年隠したせいで、どこが本物かわからなくなった。というより、隠した結果、あちこちが「うちが本物だ」と主張できる余地が生まれたのだ。

昭和六年、佐久の寺の庭から茶釜が出てきた

墓所論争のなかで、いちばん物証に近いのが長野県佐久市の龍雲寺の一件だ。

龍雲寺は正和元年、一三一二年の創建という古刹で、のちに曹洞宗に改宗した。信玄はここを分国内の曹洞宗の僧録所として重んじ、越後から北高全祝という高僧を招いて中興させている。この北高が、信玄の火葬に立ち会った従軍僧だったという伝承が、寺に残っていた。

昭和六年、一九三一年五月二十九日。

寺男の野田宗太郎が墓域の塀を修理していたところ、亀の甲型をした石の下から、尾林焼の茶釜と、三十二センチほどの小刀と、布が腐って残った象牙の袈裟環が出てきた。そして茶釜の中には遺骨があった。

袈裟環には銘があり、「天正元年四月十二日駒場に於いて卒」と読める文字が刻まれていたと伝えられる。

信玄の命日と、駒場という地名。これが本物なら、終焉地論争にも決着がつく。

当時の武田研究の第一人者だった渡辺世祐博士が、同年七月に現地へ入った。古文書を確認したうえで「ああ間違いない」と鑑定したという記録が残っている。北高と信玄の関係を考えれば、遺骨を龍雲寺に持ち帰ることは十分ありうる、という判断だった。

ところが昭和八年以降、中央の史学界から否定論が続出する。

銘文の書式が当時のものとして不自然だ。出土状況の記録が不十分だ。寺の由緒を高めるための後世の埋納物ではないか。そういった批判である。寺側は反論の文書を出し、『信玄遺骨物語』といった著作も出て、論争は泥沼化した。史跡指定を却下した国と住職のあいだで訴訟にまで発展したというから、相当な騒動だ。

それでも寺は昭和十四年五月三十日、純日本式権現造りの霊廟を工費二万五千円で完成させ、遺骨と副葬品を納めた。いまも本堂脇に安置されている。

科学的な決着はついていない。骨の年代測定やDNA分析といった現代的な検証が行われたという話も、公表された範囲では見当たらない。信頼できる比較対象がないので、仮に分析しても「戦国期の男性の火葬骨」以上のことは言えない可能性が高い。

喪が明けた一か月後、武田は崩れた

そして、話はいちばん残酷な結末に向かう。

天正三年四月十二日、恵林寺で三回忌の仏事が営まれた。これで実質的に喪が明ける。

父の死を公にしても構わなくなった勝頼が、その直後に何をしたか。同年五月、三河へ出兵し、長篠城を囲んだ。そして五月二十一日、設楽原で織田・徳川連合軍と正面からぶつかる。

長篠の戦いである。

結果は周知のとおりだ。通説では織田・徳川三万八千に対して武田一万五千。ただし高柳光寿の推計では、織田一万二千から一万三千、徳川四千から五千、武田八千から一万という数字も出ている。いずれにせよ兵力差は明白で、武田軍は馬防柵に貼りついた鉄砲隊の前で崩れた。

俗にいう三段撃ちについては、『信長公記』に具体的な戦法の記述がなく、初出は江戸期の通俗小説で、明治期の教科書が史実として定着させたという整理が現在は一般的だ。だから戦術の細部は疑ってかかるべきだが、武田が壊滅的な打撃を受けたことは動かない。

死んだ顔ぶれが凄まじい。

譜代家老の内藤昌豊、山県昌景、馬場信春。加えて原昌胤、真田信綱と昌輝の兄弟、土屋昌続。信玄が三十年かけて育てた指揮官層が、一日で消えた。

死者数は『信長公記』が一万以上とするが、『多聞院日記』は「甲斐国衆千余人討死」と書き、『兼見卿記』は「数千騎討死」と記す。数字は史料によって大きく振れる。ただ、指揮官が丸ごと失われたという事実のほうが、数字より重い。

この配列が、あまりにも出来すぎている。

三年隠して、喪が明けて、公表して、一か月後に致命傷を負う。だから昔から、こう語られてきた。信玄の遺言は正しかった。隠している間は誰も本気で手を出せなかった。公表した瞬間に武田は食われた、と。

もちろん因果としては雑な話だ。

長篠の敗因は、鉄砲でも公表でもない。長篠城の後詰めという、設楽原の地形が悪い場所で決戦を選んだ判断。織田・徳川の連携の速さ。勝頼が家中で持っていた微妙な立場。そういったものの総合である。

喪が明けたから攻められたのでもない。勝頼は喪中の二年間もずっと攻勢に出ていて、高天神城を落とすなど、信玄すら成せなかった戦果を挙げてもいた。彼は父の遺志を継ごうとして前に出続けた指揮官であって、喪明けを待って初めて動いたわけではない。

それでも、三回忌と長篠が一か月しか離れていないという事実は、物語として抗いがたい引力を持っている。

黒澤明が「影武者」という言葉を作り替えた

この題材を現代に定着させたのは、間違いなく一九八〇年の黒澤明監督『影武者』だ。

物語は、野田城で狙撃された信玄が死ぬところから始まる。武田信廉と重臣たちは死を隠すことを決め、処刑寸前だった盗人を影武者として立てる。この盗人は信玄と瓜二つで、最初は逃げようとするが、やがて自ら影武者になりたいと願い出る。

家中でも、対外的な場でも、彼はどうにか信玄として振る舞ってみせる。だが川中島で謙信につけられたはずの刀傷が体にないことを側室に見抜かれ、役目を解かれる。

そして長篠の日。彼は捨てられた槍を拾って敵陣へ突っ込み、倒れる。最後、川面に流れる風林火山の旗に手を伸ばそうとして力尽き、屍が水に流されていく。

この映画は史実そのものではない。盗人の影武者というのは創作であり、史料上の影武者はあくまで実弟の信廉だ。

だが黒澤は、信玄の三年秘喪という史実の骨格を借りて、「本物とは何か」「人は他人を演じきれるのか」という別のテーマを立てた。旗が流れる最後のカットは、武田という組織そのものが水に沈んでいくイメージで、諏訪湖の水葬伝説と静かに響き合っている。

制作の裏側も語り草だ。

当初は勝新太郎が主演だったが、撮影開始直後に黒澤と衝突して降板する。勝が自分の演技をビデオで撮りたいと申し出て黒澤が拒否し、勝が衣裳を脱ぎ捨てて車に閉じこもったという有名な逸話がある。

代役に立ったのが仲代達矢で、この作品は第三十三回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞し、アカデミー賞でも外国語映画賞と美術賞にノミネートされた。一九八〇年の日本映画配給収入一位を記録し、その記録は一九八三年の『南極物語』まで破られなかった。

現代日本語で「影武者」という言葉が広く使われるようになったのは、この映画の影響が大きい。政治の世界で誰かの代理を務める人物を影武者と呼ぶとき、その語感の背後には、輿に揺られて甲斐へ帰った偽物のイメージがある。

映像化はほかにもある。一九八八年のNHK大河ドラマ『武田信玄』は、中井貴一が信玄を演じ、平均視聴率で当時の記録を作った大ヒット作だ。ここでの信玄の死の描写は、狙撃よりも病を軸に据えつつ、遺言と秘喪をしっかり物語の締めに使っている。

小説の世界では新田次郎『武田信玄』が長く定番だ。井上靖『風林火山』は信玄の前半生を扱うためこの局面には及ばないが、両者が作った信玄像はいまも強い。加えて、戦国を扱うゲームやマンガでは「三年間死を隠した男」という設定が、ほぼ必ず何らかの形で拾われる。

影武者、秘喪、湖底の墓。使いたくなる要素しかない。

ネット考察は、この話をどういじってきたか

ネット上でこの題材がどう扱われてきたかも見ておきたい。傾向はだいたい三つに分かれる。

いちばん多いのが「信玄が生きていたら信長を倒せたのか」という仮定の議論だ。

掲示板やまとめサイトでは定番のテーマである。否定派は、上洛したところで石高でも兵站でも織田に及ばない、朝倉の撤退で包囲網はすでに崩れていた、信玄が長生きしても消耗戦で負けるだけだ、と論じる。肯定派は、三方ヶ原の完勝と徳川の脆弱さを挙げ、信長が本願寺と浅井朝倉を同時に抱えていた状況の危うさを強調する。この議論には決着がつかず、だからこそ延々と繰り返される。

二つ目が、狙撃説と病死説をめぐる論争。

信玄砲という現物があること、笛の逸話の絵になりやすさから、狙撃説はネットで根強い人気がある。一方で、出典が徳川方の後代史料に限られるという指摘も広く共有されていて、いまは「面白いけど史料的には弱い」という温度感で落ち着いている印象だ。

三つ目が、比較的新しい切り口で、そもそも信玄の死の物語自体が後から整形されたのではないか、という考察である。

個人ブログや投稿サイトで見かける議論で、こんな論法をとる。永禄十一年から元亀四年まで、信玄の軍事行動は異常に活発で、数年前から重病だったという説明と噛み合わない。死因はぼやけているのに、死に様だけがやけに美しい。しかも「病を得た名将が上洛の途中で倒れ、遺言を残して死ぬ」という筋書きは、諸葛亮の五丈原そのものではないか。つまり、西上作戦がなぜ中止されたかを説明するために、後から悲劇的な最期が組み立てられたのではないか、という見立てだ。

これは実証としてはかなり乱暴な議論だが、着眼点は鋭い。

『甲陽軍鑑』が成立したとされるのが天正三年から五年、つまり長篠敗戦の直後から武田家滅亡の少し前という時期であることを踏まえると、あの本が「なぜ武田は負けたのか」を家中の視点で説明する必要に迫られて書かれた側面は確かにある。父が偉大であるほど、遺志を継げなかった息子の失敗として整理しやすくなる。信玄の死の物語が美しくなればなるほど、勝頼が悪く見えるという構造は、意識しておいたほうがいい。

何が言えて、何が言えないのか

整理しよう。

言えることは少ない。信玄が元亀四年四月十二日に信濃で死んだことは、御宿監物の書状をはじめ複数の記録が支持している。勝頼が三年間葬儀を出さず、天正三年四月十二日に三回忌、天正四年四月十六日に恵林寺で本葬を行ったことも記録で追える。天正三年三月に高野山成慶院に日牌が立てられていることも確認できる。長篠が天正三年五月二十一日で、そこで武田の指揮官層が壊滅したことも動かない。

言えないことのほうが、はるかに多い。

信玄の死因は不明である。労咳説も、胃がん説も、食道がん説も、肝臓病説も、住血吸虫症説も、どれも症状記述からの推定であって、確定させる材料がない。

野田城での狙撃は、徳川方と菅沼家の後代史料にしかなく、当時の武田側記録に対応する記述がない。信玄砲は現物だが、それが信玄を撃った銃であることを示すのは伝承だけだ。

「三年隠せ」という遺言の文言そのものは『甲陽軍鑑』に依存している。行動が一致しているので事実性の推定は立つが、信玄の口から出た言葉として引用できる根拠はない。「諏訪湖に沈めよ」に至っては、実行された形跡がなく、研究者は史実でないとしている。

信廉の影武者運用も、断片的な伝承に基づく。信廉が兄に酷似していたこと、親族衆筆頭として要職にあったことは確かだが、三年間信玄を演じ続けたことを示す同時代文書は存在しない。北条の使者を欺いた話も、伝承の域を出ない。

終焉地は駒場説が優勢だが、根羽説と浪合説も史料上の根拠を持つ。龍雲寺の遺骨は、鑑定をめぐって当時から激しく争われ、いまも学術的な確定を見ていない。岩窪の石棺は江戸期の発掘記録に依存し、現物の再検証は行われていない。諏訪湖の菱形は自然のくぼ地という説明が有力になったが、形状の不自然さを指摘する声は残っている。

つまり、この話は「たしかに何かがあったが、何があったかは誰も証明できない」という状態のまま四百五十年経った、ということになる。

なぜこの謎は、こんなに人を掴んで離さないのか

最後にこれを考えたい。

信玄の死をめぐる話が特別に強い引力を持つのは、いくつかの要素が偶然きれいに重なっているからだと思う。

まず、いちばん盛り上がったところで幕が下りている。信玄は生涯負けらしい負けをせず、家康を叩き潰し、信長を追い詰め、その最中に消えた。人は完結した物語より、途中で切れた物語のほうを長く覚える。「もしあと三年生きていたら」という問いは、答えが出ないからこそ何百年も繰り返される。

次に、死そのものが隠されたという構造がある。

普通の英雄の死は、葬列と弔いと悲嘆でひとつの区切りになる。信玄の死にはそれがない。死が公にされないまま二年が過ぎ、そのあいだ「生きていることになっている信玄」が国境の向こう側で機能し続けた。生と死の境目が制度的にぼかされた人物というのは、日本史でもかなり珍しい。だから「本当は生きていた」という発想が入り込む余地が生まれる。隠された死は、必ず生存説を呼ぶ。

三つ目に、影武者という装置がある。

そっくりな弟が実在し、しかもその弟が人の顔を写しとる絵師だったという事実は、フィクションが逆立ちしても敵わない。誰かが誰かになりきるという主題は、身分制の物語としても、自我の物語としても読めるので、時代が変わっても摩耗しない。黒澤が飛びついたのは当然だ。

四つ目に、遺体の行方がわからないこと。

墓が多すぎて、どれが本物かわからない。恵林寺があり、岩窪の火葬塚があり、長岳寺の灰塚があり、根羽の塚があり、龍雲寺の遺骨があり、そして諏訪湖の底がある。物理的な確定点がひとつもないから、誰でも自分の推理を置ける。しかも湖底という舞台つきだ。

湖は昔から、こちら側とあちら側を隔てる境界として扱われてきた。そこに具足を着た武将が沈んでいるという絵は、日本人の想像力の深いところに刺さる。

そして最後に、直後の長篠という配置がある。

喪が明けた一か月後の壊滅。この時間的な近さが、遺言に予言めいた重みを与えてしまう。信玄は死ぬ間際に、自分がいなくなったあとの家がどれだけ脆いかを正確に見積もっていた、という読み方が可能になるからだ。実際そうだったのかはわからない。でも、そう読みたくなる材料が揃っている。

信玄の死の謎が解けないのは、史料が足りないからだけではない。この謎は、解けないように出来ているのだ。

死を隠すという行為そのものが、記録を作らないという行為だからである。武田家が仕事をきっちりやればやるほど、後世は何も確かめられなくなる。四百五十年後の我々が湖に潜ったり、寺の庭から出た骨を疑ったりしているのは、あの三年間の情報統制がいまだに効いているということでもある。

ある意味、信玄の遺言はまだ生きている。

なぜ「三年」でなければならなかったのか

ここからは、上で並べた事実と伝説をもう一段掘って、この件を別の角度から眺め直したい。

まず考えたいのが、「三年」という期間設定の意味だ。

多くの解説はこれを仏事の三回忌と結びつけるが、それだけでは説明しきれない部分がある。当時の武田家が抱えていた最大の脆弱点は、外敵ではなく継承だった。

信玄には長男の義信がいたが、対今川政策をめぐって父と対立し、廃嫡されて幽閉先で死んでいる。次男は失明して出家、三男は早世。結果として家督を継ぐことになった勝頼は、諏訪家を継いだ立場の子であり、武田の通字である「信」すら名乗っていない。家中の譜代衆から見れば、彼は「諏訪から来た若い当主」だった。

『甲陽軍鑑』の遺言に、勝頼はあくまで陣代であり、その子の信勝が十六歳になったら家督を継ぐ、という条文が含まれているのは、この不安定さの反映だと考えられる。

とすれば、三年という数字は、信勝の成長を待つ時間の一部として設計された可能性がある。喪を伏せておくあいだ、武田家は「信玄がまだ当主である」という建前を維持でき、勝頼の権威をめぐる議論を先送りできる。外敵を欺くというより、内部の亀裂が開くのを止めるための時間だったという読み方だ。

実際、勝頼が最後まで譜代衆を完全には掌握できなかったことは、長篠での意思決定の混乱や、天正十年の甲州征伐であっけなく家臣が離反していく経緯を見れば明らかで、この見立てはそれなりに筋が通る。

四百五十年前の病名を、現代語に翻訳できるのか

次に、死因論をもう少し丁寧に扱いたい。

現代の我々は「結局どの病気だったのか」を知りたがる。でも、この問いの立て方自体が近代的だという点は押さえておくべきだ。

戦国期の医学は、病を臓器で捉えていない。「膈」という字が示すのは、食べ物が胸のあたりでつかえるという症状であって、どの臓器のどんな病変かではない。同じように「労咳」は、痩せて咳をして血を吐く一群の状態を指す言葉で、そこには肺結核も肺がんも重い気管支拡張症も入っていたはずだ。

つまり当時の記録から現代の診断名を引き出そうとするのは、翻訳できない言語を無理に翻訳する作業なのである。

それでも医学史の側から検討する価値があるのは、症状の組み合わせが特定の病態に強く傾く場合があるからだ。

信玄について確度が高そうな症状は四つ。繰り返す吐血ないし喀血。食が細くなること。腹部の膨満。そして数か月単位での急速な衰弱。

この四つを一度に説明できる候補は、実はそう多くない。

肝硬変からの食道静脈瘤破裂は、吐血と腹部膨満と衰弱を一括で説明する。進行食道がんや胃がんも、吐血と摂食困難と衰弱を説明するが、腹部膨満は腹膜播種などの末期像を想定しないと出てこない。肺結核単独では腹部膨満が浮かない。

こう見ていくと、肝臓を軸にした説明の相性がいいのは確かだ。ただ、腹部膨満という所見自体が後代の記述に頼っていて、同時代性が弱い。ここが致命的で、結局どの説も同じ壁に突き当たる。

信玄はいつから病んでいたのか

あまり語られない論点を出しておきたい。信玄が病んだのは、本当に晩年だけなのか。

信玄は生涯にわたって温泉を重視し、領内各地の湯を整備した人物として知られる。これは兵の療養という軍事的合理性で説明されるのが普通だ。でも、本人が慢性的な不調を抱えていた可能性も否定できない。

四十代半ばの時点ですでに京都から医師を招いていた形跡があり、少なくとも十年近く、何らかの持病と付き合っていた計算になる。

もしそうなら、信玄の戦略の組み立て方そのものが、自分の残り時間を意識したものだったという解釈も可能になる。

信玄は生涯、決定的な博打を避け、じわじわと領土を広げる手堅い拡張を続けた武将だ。その彼が、五十を越えてから突然、天下を狙う大遠征に出た。この転換を、将軍の要請や織田包囲網の成立といった外的条件だけで説明するのは、少し物足りない。

体の中の時計が鳴りはじめていたから動いた。そう読むと、西上作戦の性急さと、野田城でのあの不可解な足踏みが、どちらも同じ線の上に乗ってくる。

あの一か月の足踏みは、何を待っていたのか

野田城での一か月について、もう少し踏み込みたい。

数百人しかいない小城に対して、二万を超える軍勢が、わざわざ甲斐から金掘りの技術者を呼んで坑道を掘り、水源を断つという方法を選んだ。力攻めなら一日か二日で済む相手である。

にもかかわらず時間をかけたのは、味方の損害を嫌ったからだという説明が一般的だ。それにしても異様だが。

ここで、信玄がすでに動けない体だったという前提を置くと、話が変わってくる。

指揮官が輿から降りられない状態なら、軍は攻城を積極的に進められない。城が落ちるのを待つしかない。そう考えると、あの一か月は「攻略に手間取った」のではなく、「主将の容態を見ながら止まっていた」時間だった可能性がある。

そして落城後、長篠城に入ってさらに動かなくなり、四月に反転する。この経過は、狙撃されて重傷を負ったという伝説よりも、じわじわ悪化する病のほうがきれいに説明できる。

逆に言えば、狙撃伝説は、この不可解な足踏みに劇的な原因を与えるために生まれた説明装置だったのかもしれない。

組織が首脳の死を隠すとき、何が起きるか

秘喪の実務についても、もう一歩考えておきたい。

組織が首脳の死を隠すというのは、現代でも珍しくない。企業のトップの重病を伏せる、独裁国家が指導者の死を数日隠す。そういう例は枚挙にいとまがない。

共通しているのは、隠せる期間がきわめて短いということだ。

理由は明確で、組織のトップというのは日常的に大量の決裁と署名と面会をこなす存在であり、その流れが止まった瞬間に、外から見える形で異常が出るからである。

武田家も同じだ。信玄名義の文書が発給されなくなり、勝頼名義が増え、信玄が公の場に出てこなくなれば、周囲は結論を出す。

だから武田家がやったのは、生きていると積極的に主張することではなく、死を公式に認めないという最小限の防御だったはずだ。

ここがわかると「三年隠したのに実は早くバレていた」という話が、矛盾ではなくなる。バレることは織り込み済みで、目的は「敵に確信させないこと」だった。

確信のない敵は、大軍を動かす決断ができない。噂だけでは、家臣団を説得して国境を越えさせるのは難しい。その逡巡を数か月なり一年なり稼げれば、それだけで戦略的には成功である。

信長が上杉や本願寺を片づける前に武田領へ全力を向けなかったこと。北条が同盟関係を維持したこと。これらは信玄の生死が確定しなかったことの効果として、ある程度は説明できる。

遺体が散らばったのは、隠したせいだ

そして、この秘喪がもたらした思わぬ副作用が、遺体の分散である。

三年間、公式の葬儀が出せないということは、その間の弔いがすべて非公式に行われるということだ。

火葬に立ち会った僧が骨の一部を持ち帰る。側近が自邸に埋める。菩提寺は空の墓を用意する。高野山には位牌だけが立つ。

信仰の篤い時代に、偉大な主君の死を三年も宙吊りにすれば、それぞれの立場の人間がそれぞれの方法で弔おうとするのは自然なことだ。結果として、信玄の遺骨や遺灰を主張する場所が甲斐と信濃に散らばった。

龍雲寺の遺骨も、この文脈で見れば、贋作を疑う前にまず「ありうる事態」として扱うべきものだと思う。

北高全祝と信玄の関係は史料的に確認できるし、従軍僧が火葬に立ち会ったとして、遺骨の一部を自坊に持ち帰ることに何の不自然もない。問題は、あの袈裟環の銘文が本当に天正元年のものかという一点に絞られる。昭和八年以降の否定論の中心も、そこにあった。

逆に言えば、あの銘文の書式と材質を現代の技術で検証すれば、この論争は相当程度前進するはずだ。それが行われていないことのほうが不思議なくらいで、この件はまだ「終わっていない謎」として残っている。

なぜ諏訪湖でなければならなかったのか

諏訪湖の話にも、もうひとつ角度を足しておきたい。

水中墓伝説を単なる作り話として切り捨てる前に、なぜ諏訪湖でなければならなかったのかを考えると、この伝説の役割が見えてくる。

信玄にとって諏訪は、単なる征服地ではない。

諏訪頼重を滅ぼし、その娘を側室に迎え、その子を後継者にした。諏訪大社の神威を軍旗に取り込み、諏訪明神を戦の守護神とした。つまり諏訪は、信玄が武力で奪ったうえに、信仰と血筋の両方で自分の側に取り込んだ土地なのだ。

その湖の底に自分を沈めろという指示は、支配の完成を象徴する行為として読める。甲斐の墓に入れば甲斐の武田で終わるが、諏訪湖に沈めば信濃をも含む領域の守護者になる。

実行されたかどうかとは別に、そういう物語が作られたこと自体に意味がある。武田家が滅んだあと、この地域の人々が信玄をどう記憶しようとしたか、その痕跡がこの伝説なのだ。

だから昭和のソナー調査で菱形が見つかったとき、あれほど大きな騒ぎになった。地元の人々にとって、あれは考古学の問題ではなく、自分たちの土地の記憶が正しかったかどうかの問題だったのだと思う。

二〇二四年に、子どものころ聞いた話を確かめるために大人が本気で潜るという出来事が起きたのも、同じ延長線上にある。

遺言は武田家を救ったのか、追い詰めたのか

長篠との関係について、もう一度冷静に整理しておきたい。

三回忌の一か月後に長篠、という配置は劇的だが、因果としては慎重に扱うべきだ。

まず、勝頼は喪中の二年間、決して守勢に回っていない。天正二年には高天神城を攻略している。これは信玄が二度挑んで落とせなかった城で、勝頼はそれを成し遂げた。つまり彼は、父の死を隠しながらも攻勢を続けていた指揮官であり、喪が明けたから急に動いたわけではない。

むしろ問題は逆で、高天神での成功が、勝頼に「野戦でも勝てる」という自信を与えすぎた可能性がある。長篠での決戦選択は、消極的な判断ではなく、過剰に積極的な判断の産物だった。

そして、彼の立場の弱さがそれを後押しした。

中継ぎの当主と見られている人物が家中の支持を固めるには、目に見える戦果が要る。撤退という判断は、正統性の弱い当主にとって、軍事的にどれだけ正しくても政治的には高くつく。設楽原で柵の前に突っ込んでいった判断の背景には、そういう構造的な圧力があった。

信玄が「三年隠せ」と命じたことが、皮肉にも、勝頼を戦果に飢えた状態に置き続けたのだとしたら。あの遺言は武田家を救うと同時に、追い詰めたことになる。

この視点から見ると、信玄の遺言をめぐる評価は反転しうる。

一般には、三年秘匿は武田家を延命させた見事な策略として語られる。だが実際には、二年程度で外にはほぼ漏れ、その間に勝頼は正統な当主として振る舞う機会を奪われ、家中には「信玄がまだ当主」という宙ぶらりんの空気が残り続けた。

喪が明けたとき、彼が背負っていたのは家督だけではない。二年分の証明の負債だった。そして一か月後、その負債をまとめて返そうとして、譜代の指揮官層ごと失った。

信玄の遺言が正しかったから武田は三年もったのではなく、遺言があったせいで武田は三年分の判断を先送りした。そういう読み方もできるわけだ。

どちらが正しいかは決められない。ただ、この題材を「名将の見事な遺言」だけで終わらせるのは、たぶん半分しか見ていない。

問いの向きを変えると、面白くなる

最後に、この謎との付き合い方について。

信玄の死をめぐる話は、放っておくと二つの極に振れる。ひとつは、全部作り話だと切り捨てる方向。もうひとつは、湖底に石棺があると信じ込む方向。どちらも面白くない。

面白いのは、その間だ。たとえば、こういう問いになる。

狙撃伝説はなぜ徳川方の史料にしか残らなかったのか。『甲陽軍鑑』はなぜ水葬という実行されなかった指示を書き込んだのか。龍雲寺の遺骨は、なぜ昭和六年という時期に、あんな大論争になったのか。江戸時代の甲府の人々は、なぜ信玄の火葬塚を祟りの塚として恐れ、そして幕末になって突然それを立派な廟所に整備し直したのか。

どの問いも、答えは「信玄がどう死んだか」ではなく、「その後の人々が信玄の死をどう扱いたかったか」に向かっている。

三年隠せという言葉が四百五十年後まで残ったのは、それが優れた軍略だったからというより、人が死をどう扱うかという問題そのものに触れているからだと思う。

死を認めなければ、その人はまだ機能する。輿の中に人がいることになっていれば、国境は保たれる。誰も見ていない場所で人が息を引き取っても、公式に認めるまでは死んでいない。

これは戦国の話であると同時に、いま我々が組織や家族の中でやっていることでもある。信玄の三年間が妙に生々しく感じられるのは、たぶんそのせいだ。

甲斐の虎がどこに埋まっているのかは、いまもわからない。

恵林寺の墓の下かもしれない。岩窪の塚の下かもしれない。佐久の寺の霊廟に納められた骨がそれかもしれないし、駒場の灰塚に混じった灰の一部がそれかもしれない。諏訪湖の泥の下だという可能性だけは、たぶんない。

それでも、四月の夜に諏訪湖の湖面を見ると、多くの人がつい湖底のことを考える。四百五十年前の情報統制は、そういう形でまだ効いている。

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