豊臣秀頼という男は、生まれた瞬間から「お前は誰の子だ」と言われ続けた。生きているあいだ中ずっと言われ、死んでからも四百年言われている。天下人の跡取りとして生まれ、天下人の跡取りとして死んだ男に対して、これはちょっと異常な扱いだ。しかもこの疑いは、後世の暇な好事家がひねり出したものじゃない。秀頼が赤ん坊のうちから、京や大坂の路上でささやかれていた。
毛利家の重臣が国元への手紙にうっかり書いてしまうくらい、宣教師が本国宛の報告書に堂々と書き残すくらい、当たり前に流通していた噂だった。じゃあ真相はどうなんだ、という話をこれから延々やる。先に言っておくと、答えは出ない。出ないのだが、出ないなりに「なぜ出ないのか」「どこまでが確かで、どこからが人の願望なのか」は、かなり細かいところまで見える。むしろそっちのほうが面白い。
- 天下人の跡取りが「誰の子か」で揉めているという、そもそもの異常さ
- 側室が百人いて、産んだのは一人だけ――この数字が全部の出発点だ
- 鶴松という一人目の奇跡、そのとき秀吉は五十三歳だった
- 拾(ひろい)と名づけられた子――捨てさせて、拾わせた
- 逆算すると受胎日は文禄元年十一月四日。で、秀吉はどこにいた
- 淀殿は名護屋にいたのか――九州大学の二人が真っ向から割れている
- 噂その一――毛利家の重臣が、国元宛の手紙に書いてしまったこと
- 噂その二――フロイスが書いた「多くの人々は信じていた」の重み
- 噂その三――朝鮮から連れてこられた儒者が聞いた、大坂城の内緒話
- 噂その四――江戸の逸話集が、遠慮なく全部並べて書いた
- 候補者その一・大野治長――乳兄弟という、いちばん近くて危ない距離
- 候補者その二・名古屋山三郎――絶世の美男は、そもそもその場にいたのか
- 候補者その三・石田三成――この人だけは、物理的にどうやっても無理だ
- 候補者その四・名もなき法師と陰陽師――いちばん不気味で、いちばん筋が通る説
- 秀頼が生まれた直後、大坂城で何かが起きていた
- 秀吉に子種はあったのか――長浜に残る小さな墓と位牌の話
- 六尺五寸、四十三貫。父より五十センチ高い息子
- 二条城の朝、家康は何を見てしまったのか
- じゃあ家康は「秀頼が偽物だから」殺したのか
- 反証その一――秀吉の手紙は、疑っている男の手紙ではない
- 反証その二――江戸の本は、豊臣を悪く書くほど売れた
- 反証その三――淀殿という立場で、密通なんてできたのか
- ネットと創作の中で、この説はどう扱われてきたか
- それでもこの説が死なない理由
天下人の跡取りが「誰の子か」で揉めているという、そもそもの異常さ
考えてみてほしい。徳川家光の実父が誰かで揉めているか。揉めていない。織田信忠は。揉めていない。
上杉景勝は養子だが、それは公認の養子だから話が別だ。武家の跡取りの父親が誰かなんてものは、揉めようがないのが普通なのだ。生まれた時点で家中の重臣が総出で確認するし、産所には正室方の目付が入るし、そもそも当主が疑ったら女の首が飛ぶ。なのに秀頼だけは、当時から疑われた。この一点だけで、豊臣政権というものがどれほど不安定な「作りたての家」だったかがわかる。
秀吉は尾張中村の百姓の子から成り上がった男で、代々仕える譜代の家臣団というものを持たない。血の正統性を証明してくれる一族もいない。関白になっても太閤になっても、彼の家は「秀吉一代の会社」でしかなかった。血の証明が弱い家では、跡取りの血の疑惑は致命傷になる。徳川なら「まあ将軍家の御曹司だし」で済むところが、豊臣では済まない。
そして秀吉自身がそのことを誰よりも知っていた。だからこそ彼は、秀頼の身分を固めるために異常なまでの手を打つ。関白の甥を殺し、その妻子三十九人を三条河原で処刑し、諸大名に何度も何度も起請文を書かせた。あの過剰さは、逆に言えば「そこまでしないと守れないと本人が思っていた」ということでもある。
側室が百人いて、産んだのは一人だけ――この数字が全部の出発点だ
疑惑の根っこはシンプルだ。秀吉には妻妾が異様に多かった。一説には百人以上とされる。宣教師のフロイスは三百人という数字まで書いている。数字の当否はさておき、当時の基準でも突出して多かったのは間違いない。
で、その百人だか三百人だかの女たちのうち、秀吉の子を産んだのは淀殿ただ一人である。しかも二人産んだ。鶴松と秀頼。一人も産まないなら「まあそういう男もいる」で済むし、あちこちで産まれているなら何の問題もない。よりによって一人の女だけが二回産んだ。
この偏りが、当時の人間にも直感的に気持ち悪かった。さらに気味の悪い話がある。秀吉のもとを離れた妻妾が、別の男との間には子を産んでいるのだ。前田利家の娘、いわゆる加賀殿は、のちに公家の万里小路充房に嫁いで男子を産んでいる。高田次郎左衛門の娘は伊達政宗の家臣である茂庭綱元に嫁ぎ、こちらも男子を産んだ。
秀吉のところでは何年いても身ごもらなかった女が、他の男のところへ行った途端に産む。当時の人間だってこの並びを見れば「あれ?」と思う。現代の産婦人科の視点から見ても、これは秀吉側に問題があったと考えるほうが自然だ、という指摘が繰り返しなされてきた。ここに医学的な想像がくっつく。
秀吉は若い頃から酷使に耐える体質だったが、老年の性行為と受胎能力は別物だ。無精子症だったのではないか、若い頃の何らかの病がたたったのではないか、といった推測が近代以降に山ほど出た。もちろん検証のしようがない。遺体もない。秀頼の遺骨も出ていない。
だから医学的推測はどこまで行っても推測で終わる。ただ「不自然だ」という感覚だけが、四百年間ずっと残り続けている。
鶴松という一人目の奇跡、そのとき秀吉は五十三歳だった
天正十七年五月二十七日、山城国の淀城で、淀殿が男子を産んだ。秀吉五十三歳。ここまで実子を得られずにいた男が、ついに父になり、秀吉の喜びようは尋常ではなかった。生後三十日の祝いには禁裏から産着をはじめとする祝儀の品が下され、公家も大名も町人も、こぞって祝いを贈ってきた。蒲生氏郷などは矢の根を刀に仕立て直したものを献上している。
武将らしい、しゃれた贈り物だ。生後四か月の九月十三日には、この子を後継者として大坂城に迎え入れた。後陽成天皇からは太刀が贈られ、赤ん坊は輿に乗せられて、絢爛豪華な大行列を従えて城に入った。生後四か月の乳児のために、日本中の大名が行列を作ったわけである。名は「棄」と付けられた。
読みは「すて」。捨て子はよく育つという民間の俗信に従ったものだ。天下人が我が子に「捨てる」という字を与える。当時の人にとってはごく自然な験担ぎだが、後世から見ると妙に不吉に見える。実際、この子は長く生きず、天正十九年七月末、鶴松は熱を出した。
奈良の興福寺には供物が届けられ、春日社では祈祷が行われた。多聞院の英俊はその様子を日記に書き留めている。秀吉は各地の寺社に加持祈祷を命じ、およそ金の力でできることは全部やった。それでも八月五日、数え三つで死んだ。秀吉は東福寺で自ら髻を切って喪に服した。
徳川家康も毛利輝元も、諸大名がこぞって剃髪し、切り落とされた髪の束が塚のように積み上がったという。この光景は、当時の記録を読むとちょっと現実感がない。天下中の武将が髪を切って泣いている。三歳の子ひとりのために。そしてこの直後、秀吉は朝鮮出兵に踏み切る。
跡取りを失った五十五歳の老人が、大陸征服という途方もない事業に取り憑かれた。因果関係を証明することはできないが、時系列としてはあまりに露骨だ。
拾(ひろい)と名づけられた子――捨てさせて、拾わせた
文禄二年八月三日、大坂城二の丸で、淀殿がまた男子を産んだ。秀吉五十七歳。二度目の奇跡である。このときも秀吉は俗信に頼った。一度捨てられた子は丈夫に育つ。
だから家臣の松浦重政に「拾い親」の役を命じ、生まれたばかりの赤子をいったん形だけ捨てさせ、それを改めて拾い上げるという儀式を行わせた。太田牛一の記した秀吉の一代記にも、この役目のことが出てくる。そして幼名は「拾」となった。面白いのは、この命名を誰が決めたかだ。秀吉は肥前名護屋の陣中にいた。
八月九日、松浦重政の使者が名護屋に到着して男子誕生を報告する。秀吉はその場で狂喜し、すぐさま正室の北政所へ書状を送った。中身は「子の名はひろいと申し」――つまり、産んだのは淀殿でも、名を付けるのは正室の役目だと明確にしているのだ。北政所の正妻としての立場は、最後まで揺るがなかった。このとき秀吉が北政所に送った手紙の群れは、いま読んでも生々しい。
同じ年の五月二十二日付の書状では、明から詫び言の使者が来たという政治報告に混ぜて、「二の丸どの懐妊みもち」と淀殿の妊娠を伝えている。しかも同じ手紙で「そもじは子持ち申さず」――お前は子を産まないがな、と正室をからかっている。この無神経さがまた秀吉らしい。八月三日付の別の書状では「やがて凱陣」「ゆるゆるだきやい候て物がたり申すべく候」などと書いている。ゆるゆる抱き合って話をしよう。
天下人が五十七で書く文面ではない。そして秀吉は八月十五日に名護屋を発ち、八月二十五日には大坂に着いた。朝鮮の戦争を放り出して、生まれたばかりの息子の顔を見るために十日かけて帰ってきたわけだ。
逆算すると受胎日は文禄元年十一月四日。で、秀吉はどこにいた
ここからが本題だ。この問題は、突き詰めると一点に収束する。受胎したとされる時期に、秀吉と淀殿は同じ場所にいたのか。現代の産科の標準では、受胎から出産までは二百六十六日。個人差を見込んでも前後十五日ほどに収まる。
ちなみに昔から言う「十月十日」も、これとぴったり合う。旧暦の大の月三十日と小の月二十九日を平均して二十九・五日、それを九か月分で二百六十五・五日。十か月目が丁度二百六十六日になる計算だ。昔の人の経験則というのは侮れない。秀頼の誕生日は文禄二年八月三日。
ここから二百六十六日さかのぼると、文禄元年十一月四日になる。誕生が遅れたと仮定して十五日ほど幅を持たせても、十月二十日頃が上限だ。では秀吉の動きはどうか。文禄元年、秀吉は名護屋城に在陣していた。ところが七月二十二日、生母大政所危篤の報を受けて名護屋を発つ。
しかし大政所はその日のうちに大坂で死んだ。八月二日に京の大徳寺で葬儀を行い、その後しばらく畿内に留まる。そして十月一日に大坂を発って、再び名護屋へ向かった。道中の記録を追うと、十月十九日までは広島にいたことが確認できる。十月三十日に博多着。
名護屋城に戻ったのは十一月一日。十一月五日には名護屋で茶会を開いている。受胎想定日の十一月四日、秀吉は間違いなく名護屋城にいた。ここまでは動かない。問題は淀殿である。
彼女が名護屋城にいたなら、何の矛盾もない。秀頼は名護屋城で命を授かったことになる。彼女が大坂城にいたなら、受胎は物理的に不可能だ。すべてはこの一点にかかっている。
淀殿は名護屋にいたのか――九州大学の二人が真っ向から割れている
そして、この一点で専門家の意見が完全に割れている。しかも同じ大学の二人が。服部英雄は二〇一一年に『河原ノ者・非人・秀吉』という本を出し、そのなかの「秀頼の父」という論文で、秀頼は秀吉の実子ではないと断じた。根拠のひとつが、秀吉が淀殿を伴って名護屋城に来たという記録が見当たらない、という点だ。服部は医学的な確率論も持ち出して、秀頼の父が秀吉である確率は限りなくゼロに近い、とまで書いた。
歴史学者がここまで踏み込むのは珍しく、刊行当時、業界にかなりの衝撃が走った。一方の福田千鶴は、淀殿は当時名護屋城にいたと明言している。根拠に挙げるのは佐竹家の家臣、平塚滝俊の日記だ。文禄元年三月二十五日、秀吉がはじめて名護屋城に入ったときの記述が有名で、こんな調子である。
太閤は作り髭をつけ、髪を撫でつけて束ね、周囲の武者たちも唐織錦のきらびやかな羽織をまとい、馬には金銀づくりの馬鎧が着せられていて実に華麗であった。そのあとに見事な輿が七丁続いた――と。そしてこの記事に続けて、平塚はこう書く。淀の御前様も伴われていたとのことだ。彼女が通行したかどうかは確認できなかった。
だが、秀吉は小田原攻めのときにも彼女を同行させて念願を実現させたことがあり、淀殿の同伴は吉例なのだそうだ。福田はこれを根拠に、淀殿は秀吉とともに名護屋に入り、秀吉が大政所の件で大坂へ戻ったあとも名護屋に残っていたと考える。輿が七丁続いたという記述も、女たちを連れてきた傍証になる。服部はこの史料の読み方に噛みつく。第一に、平塚は「伴われていたそうだ」と伝聞で書いているにすぎない。
第二に、平塚自身が「行列の中に淀殿がいたかどうかは確認できなかった」と書いている。つまりこれは目撃証言ではなく、陣中の噂話にすぎない、と。言われてみればどちらももっともなのだ。同じ一行の史料を、片方は「いた証拠」と読み、片方は「いなかった証拠」と読む。史料批判というものの怖さがここに全部詰まっている。
ちなみに小和田哲男は別の角度から、太田牛一の『大かうさまぐんきのうち』に出てくる「北政所」を淀殿と解釈することで、淀殿の名護屋行きを認める立場を取っている。この読み替えが妥当かどうかで、また議論が一段深くなる。四百年経っても、天下人の側室が九州にいたかどうかがわからない。史料というのは、そういうものだ。
噂その一――毛利家の重臣が、国元宛の手紙に書いてしまったこと
さて、当時の人間がこの件をどう噂していたか。これが一番おいしいところだ。まず慶長四年十月一日付、内藤隆春が内藤元家に宛てた書状。隆春は毛利輝元の重臣で、これは大名家の内部連絡である。要するに公文書に近い私信だ。
そこにこう書いてある。おひろい様の御局は大蔵卿という女性である。その子に大野修理という者がいて、御前の覚えのめでたい人物だ。この修理は、おひろい様の御袋様と密通しているらしい。二人とも成敗されるだろうという動きがあったところ、その修理を宇喜多が身柄を預かって置いている。
二人とも果てるらしいとも、高野へ逃れたらしいとも言われている――。短いが、情報の密度がすごい。おひろい様は秀頼。御局は女中を取り仕切る老女で、それが大蔵卿局だ。その息子が大野修理こと大野治長。
御袋様は淀殿。つまり、秀頼の乳母の息子が秀頼の母と寝ている、という噂が、関ヶ原の前年の時点で、毛利家の重臣レベルにまで届いていたということだ。しかも「二人とも成敗されるらしい」「宇喜多が身柄を預かっている」「高野へ逃げたらしい」と、処分の話まで具体的に流れている。実際にはそんな動きはなかったし、治長は最後まで豊臣家にいて、大坂の陣で淀殿と秀頼に殉じている。
つまりこの手紙は、噂の内容が事実だったことを示すのではなく、「そういう噂が事実として西国の大名家中に流通していた」ことを示す史料だ。だが逆に言えば、それだけの信憑性をもって語られていたということでもある。この一通の重さは、江戸時代の逸話集とは比べものにならない。徳川が豊臣を貶める動機を持つ以前、豊臣政権がまだ現役だった時期に、豊臣を支える五大老の一角の家臣が書いている。政治的な捏造の余地が薄い。
だからこそ、実父別人説の論者は必ずこの手紙から話を始める。
噂その二――フロイスが書いた「多くの人々は信じていた」の重み
次はイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』だ。フロイスは信長にも秀吉にも直接会っている男で、日本の政情を本国へ報告する立場にあった。その彼が、市井の噂をこう書き留めている。秀吉には秀頼というただ一人の息子がいるだけなのだ。だが、多くの人々は、秀吉には子種がなく、子供をつくる体質を欠いているので、秀頼は彼の子供ではないと信じていた――。
露骨である。「一部の者がささやいていた」ではなく「多くの人々が信じていた」と書いている。フロイスの筆致は基本的に辛辣で、とくに秀吉に対しては手厳しい。バテレン追放令を出された側だから当然といえば当然で、そのぶん割り引いて読む必要はある。だが、割り引いてもなお、この記述が示すことは大きい。
京や大坂の街角で、秀吉の子種のなさが公然と語られていたのだ。しかもフロイスの記述には、秀吉が拾を生後二か月で関白秀次の娘と婚約させ、日本国を五つに割って四つを秀次に、残りを拾に与える。といった苦し紛れの後継構想を打ち出したことまで記録されている。秀吉が秀頼の地位を固めるためにどれほど無理な手を打ったか、外国人の目からもはっきり見えていた。異国人が書いたものだから信用ならない、という反論はある。
だが少なくとも、フロイスには秀頼の血統を貶めることで得をする理由がない。彼が書いているのは「日本人がそう言っていた」という観察であって、彼自身の主張ではない。噂の存在そのものの証拠としては、かなり強い。
噂その三――朝鮮から連れてこられた儒者が聞いた、大坂城の内緒話
三つ目は姜沆の『看羊録』。慶長の役で藤堂高虎の軍に捕らえられ、日本に抑留された朝鮮の儒者が、帰国後に国王へ提出した報告書である。日本の地理、歴史、大名たちの経歴と性格を克明に記録した、驚くべき情報密度の書物だ。その中に、こんな話が出てくる。秀吉の遺命によって家康が淀殿を娶ろうとしたが、すでに治長の子を宿していた淀殿がこれを拒んだ――。
これはさすがに飛ばしすぎだろう、と思う。秀吉が家康に自分の側室を譲る遺言をしたという話自体が怪しいし、そこに治長の子を宿していたという話が乗る。ちなみに『多聞院日記』にも、秀吉の遺言によって淀殿と家康が婚姻するらしいという噂が記録されており、この噂自体は日本側にも流れていたことがわかる。姜沆はそれに治長の話を接続したのだろう。
『看羊録』には他にも、家康が朝鮮出兵を再開するつもりだ、といった明らかにおかしい情報も混ざっている。抑留された外国人が伝聞で集めた情報だから、精度は当然落ちる。だがこの史料の価値は別のところにある。淀殿と治長の噂が、日本語を母語としない捕虜の耳にまで入るほど、広く出回っていたという事実だ。国際的に漏れていたのである。
噂その四――江戸の逸話集が、遠慮なく全部並べて書いた
そして江戸時代。ここまで来ると、噂は完全に読み物と化す。『明良洪範』は真田増誉が編んだ武家逸話集で、正編二十五巻、続編十五巻、収録逸話は七百二十項目を超える大部の書だ。享保年間の成立とみられている。その中に、こんな一節がある。
豊臣秀頼公は秀吉公の実子にあらず、とひそかに言う者がいたという。その頃、占いに巧みな法師がいて、これを言い出したのだ。淀殿は大野修理と密通し、捨君と秀頼君をお産みになったのだという。秀吉公の死後は淀君はいよいよ淫らになられたが、それは大野が邪知で淫乱、かつ容貌が美しかったからだ。名古屋山三郎が美男であることに淀殿は思いを懸け、不義のことがあった。
大坂の滅亡はひとえに淀殿の不正から起きたのだ――。一文の中に大野治長も名古屋山三郎も占い法師も全部出てくる。ゴシップの見本市だ。しかも最後に「大坂の滅亡は淀殿の不正から起きた」と結論まで用意されている。この結論部分が肝で、要するにこの逸話は「豊臣は自らの不徳によって滅びるべくして滅んだ」という物語を作るために存在している。
徳川の天下の正当性を、豊臣の道徳的欠陥によって裏書きする構造だ。上田秋成の随筆『胆大小心録』にも、ほぼ同じ内容が出てくる。秀頼は秀吉の実子ではなく大野修理の子かと疑われた。だが、実はその頃に卜占のために籠らせていた法師がおり、淀殿はこれと密通して棄君と秀頼を産んだのだという。大野は秀吉の死後に淀殿と通じた。
淀殿は容貌が美しく、邪知で淫乱で、美男の名古屋山三郎にも思いを懸けて不義があった。およそ大坂滅亡の起こりは、ひとつに淀殿にある――。秋成は十八世紀後半の文人だ。『雨月物語』を書いた男が、こういう話を随筆に書き留めている。つまり江戸中期の教養人のあいだでは、この噂は共有された常識だった。
さらに毛利家が編纂した『萩藩閥閲録』にも、秀頼は秀吉ではなく淀殿と大野治長の子だという記述がある。萩藩というのは、関ヶ原で西軍の総大将を出した家だ。豊臣に近かった家がこう書き残しているところに、話のややこしさがある。
候補者その一・大野治長――乳兄弟という、いちばん近くて危ない距離
では父親候補を一人ずつ見ていく。まず本命の大野治長。治長の母は大蔵卿局。淀殿の乳母である。つまり治長と淀殿は乳兄弟だ。
生年は永禄十二年前後と推定されており、淀殿とほぼ同い年。幼い頃から同じ屋敷で育ち、同じ乳を飲み、同じ景色を見てきた相手ということになる。淀殿が天正十六年頃に秀吉の側室となると、治長も秀吉の馬廻衆になり、淀殿がどこへ行っても、治長はその近くにいた。この「距離の近さ」が、あらゆる噂の温床になった。大名家の奥では、正室や側室に接近できる男は極端に限られる。
医者、僧侶、そして側近の若侍。治長はまさにその位置にいた。しかも彼は容姿に恵まれていたとされ、身の丈も高かったと伝わる。秀頼が長身の巨漢に育ったこととの符合が、後世の人間には出来すぎに見えた。根拠として挙げられる史料は、さきほどの内藤隆春書状、『多聞院日記』の類似記述、『看羊録』、『萩藩閥閲録』、『明良洪範』と、質はともかく数だけは揃っている。
当時から江戸期まで、途切れずに語られ続けた説だ。だが弱点も大きい。まず内藤隆春の手紙は慶長四年、つまり秀頼誕生の六年後のものだ。この時点で密通していたとしても、秀頼の受胎時にも同じ関係だったことにはならない。手紙が書かれた慶長四年というのは、秀吉が死んで一年、豊臣家中が石田三成派と武断派に割れ、家康が伏見城に入って「天下殿になられ候」と言われた年である。
政局が最も荒れていた時期に、大坂城の奥向きを叩く噂が流れるのは、むしろ自然だ。そして治長本人の生涯を追うと、噂の人物像と合わない。慶長四年には家康暗殺の嫌疑をかけられて下野へ配流されている。翌年には赦免され、関ヶ原では東軍について戦った。淀殿の情夫として大坂城で権勢を振るっていたなら、この動きは説明しづらい。
大坂の陣では豊臣方の実質的な総指揮官となり、和睦交渉に奔走し、最後は千姫を城から脱出させて助命を嘆願し、それが容れられないと知ると秀頼と淀殿に殉じて死んだ。享年四十七。もし彼が本当に秀頼の父だったなら、この最期の意味はまるで変わる。だがその証拠はどこにもない。桑田忠親は、これらの風説を「悪口を書けば書くほど歓迎された江戸時代」の劇作者の産物にすぎないと見る。
それが人口に膾炙しただけだ、と切って捨てている。
候補者その二・名古屋山三郎――絶世の美男は、そもそもその場にいたのか
次が名古屋山三郎。日本三大美少年などと呼ばれ、出雲阿国の恋人だったとも、かぶき踊りの演出に関わったとも伝えられる、伝説的なイケメンである。父は名護屋高久で織田信長の従兄弟、母は信長の姪にあたる養雲院。つまり山三郎と淀殿は、またいとこの関係になる。経歴を追うと、十五歳で蒲生氏郷に見出されて児小姓となり、九州征伐や小田原征伐に従軍した。
天正十八年の名生城攻略、翌年の九戸政実の乱では一番槍の功を立てて二千石を加増されている。美男というだけの男ではなく、槍働きのできる武士だ。文禄四年に氏郷が死ぬと蒲生家を退き、京で浪人したのち出家して宗円と名乗り、その後還俗して織田九右衛門と名乗り、妹が側室であった森忠政の家臣となる。忠政に高く評価されて五千三百石を与えられた。
そして慶長八年、津山藩への移封に伴う築城の現場で、忠政の命により井戸宇右衛門を斬るよう指示された。工事現場での喧嘩から抜刀に至り、逆に剛勇の宇右衛門に斬り伏せられて死んでいる。享年は二十八とも三十二とも伝わる。ドラマチックな人生だが、要するに武士として真っ当に生きて、真っ当に死んでいる。淀殿との噂は『明良洪範』と『胆大小心録』に出てくるが、この二つは内容がほぼ同じで、独立した証言とは言い難い。
しかも決定的なのは時系列だ。秀頼の受胎期にあたる文禄元年秋、山三郎は蒲生氏郷の家臣として奥州か、あるいは九州の陣にいた。大坂城の奥で淀殿と会う立場にない。享年から逆算すると、文禄元年の彼は十七歳から二十一歳程度。可能性がゼロとは言わないが、状況としてはかなり無理がある。
さらに磯田道史の研究によれば、山三郎が恋心を向けたとされる相手は淀殿ではなく、同じく秀吉の側室である京極竜子、いわゆる松の丸殿だったと考えられるという。松の丸殿は名門京極家の出で、絶世の美女と評された女性だ。噂の相手が途中ですり替わるのは、この手の話ではよくあることだ。後世の人間にとっては「淀殿と美男」という組み合わせのほうが物語として強かった、というだけの話かもしれない。
候補者その三・石田三成――この人だけは、物理的にどうやっても無理だ
小説やドラマでいちばん人気があるのが三成説だ。淀殿を守る有能な官僚、豊臣家に殉じる忠臣、そして密かに想いを寄せる相手。物語としては完璧である。二人のあいだに何かあったことにすると、関ヶ原の三成の必死さにも説明がつく気がしてくる。だが史実としては、これがいちばんあっさり潰れる。
秀頼の受胎想定期である文禄元年十月から十一月、三成は朝鮮にいた。文禄の役の奉行として渡海し、漢城を拠点に軍政と兵站の実務を回していた。翌年正月には碧蹄館の戦いにも関わり、明との講和交渉の矢面に立っている。日本にいないのだ。海を渡って大坂城の奥に忍び込んで戻ってくる、という芸当は成立しない。
面白いのは、これほど無理があるのに三成説が消えないことだ。理由ははっきりしている。三成と淀殿を結びつけたい欲望が、史実の側ではなく物語の側にあるからだ。関ヶ原の敗者である三成には、判官贔屓が集まりやすい。淀殿には悪女のレッテルが貼られている。
この二人を恋愛で結んで、豊臣家の悲劇に一本の情念の筋を通す。小説家にとっては抗いがたい誘惑だろう。だが史料はまったく支持していない。江戸期の逸話集にすら、三成の名は出てこない。これは近代以降の創作が育てた説だ。
候補者その四・名もなき法師と陰陽師――いちばん不気味で、いちばん筋が通る説
そして服部英雄が提唱した、いちばん不気味な説がある。父親は特定の誰かではなく、名もない宗教者だったという説だ。根拠は当時の民俗慣行にある。子に恵まれない女が寺社に籠もって祈願する「参籠」という習俗があり、これが実質的に男女の交わりの場になっていたことが、各地の事例から知られている。神仏の霊験によって子を授かったとされる話の少なからぬ部分が、この構造を持っていた。
そしてここには鉄則がある。相手が特定の誰かとわかってはいけないのだ。父親が特定できてしまうと、後々「あれは私の子だ」「あいつの子だから」と紛糾する。だから相手は無名でなければならない。そして『明良洪範』が言い出しっぺとして名指ししているのが、まさに「占いに妙を得たる法師」なのだ。
上田秋成も「卜占のために籠らせていた法師」と書いている。江戸期の逸話集が二つとも、大野治長より前に法師を置いている。これは示唆的だ。服部の見立てでは、鶴松のときの祈願は秀吉も承知の上だった。跡取りが要る、しかし自分には子種がない。
ならば形式を整えて子を得る。天下人にとって血より家の継続が優先だという武家の論理からすれば、これは異常な発想ではない。ところが二度目、つまり秀頼のときは違った。秀吉が九州に釘付けになっているあいだに、淀殿が独断で同じことをやった。だから秀吉は激怒した――という筋書きだ。
証拠はない。あるのは状況証拠と、直後に起きた不可解な出来事の連鎖だけだ。だがその連鎖が、なかなか薄気味悪い。
秀頼が生まれた直後、大坂城で何かが起きていた
秀頼誕生は文禄二年八月三日。秀吉は八月二十五日に大坂へ帰り着く。そこから先の記録を並べると、様子がおかしい。閏九月十日、秀吉は「御竹」という女官を縛って処罰している。これは駒井日記に見える。
十月十九日、唱門師つまり陰陽師や占いの法師の類が追放された。理由は、大坂城の女たちが男女のことをやたらと問い、唱門師がそれにつけこんで金を騙し取っていたから、という。これは時慶記の記述だ。翌十月二十日、秀吉の留守中に大坂の淀殿付き女官たちが「曲事」――不法、不埒なこと――があったとして処分された。十月二十一日には処罰の命令が出され、大坂の上下は緊張に包まれた。
そして十一月四日。密かに婚姻して子を産んだ侍女が厳罰に処された。当人とその夫は竹鋸の刑、その子と乳母は煮殺された。時慶記とフロイスの日本史に見える。文字にするのもきつい話だ。
フロイスはさらに、こう書いている。秀吉は名護屋から大坂へ戻ったあと、城中の婦人から金十枚を騙し取った黒魔術師を追放した。また太閤の宮殿の女性たちのあいだで素行が不当だったとして、女性や僧侶ら三十人を斬るか焼くかして殺した、と。当代記にも、この年の九月以降、各地の陰陽博士たちが問罪を恐れて山林に逃げ隠れたとある。
太閤の身辺の若い女が失踪し、どこかの博士が匿っていると疑われた、というのがきっかけだったらしい。さらに『兼見卿記』の文禄二年十月二十日条にも、気になる記述がある。秀吉の西国在陣中の「女中方の儀」で中村少右衛門らが成敗され、秀頼を拾い上げた松浦重政が勘気を蒙った、というものだ。磯田道史はこれを、秀頼の出生を疑った秀吉による処置である可能性がある、と指摘した。
拾い親を務めた男が咎めを受けている、という一点が引っかかるわけだ。これらの記事が全部同じ事件を指しているのかは、正直わからない。秀吉は晩年、些細なことで人を殺す男になっていたから、たまたま処罰が集中しただけかもしれない。だが並べてみると、秀頼誕生から三か月のあいだに、大坂城の奥向きと、そこに出入りしていた宗教者たちが、まとめて掃除されているのは事実だ。
鶴松のときの祝賀ムード一色とは、まるで空気が違う。そしてこの空気の違いこそが、実父別人説の最大の状況証拠になっている。二人目の男子が生まれたのに、なぜ祝いより粛清が目立つのか。
秀吉に子種はあったのか――長浜に残る小さな墓と位牌の話
ここで、実父別人説の前提そのものを揺さぶる材料を出す。秀吉には、若い頃に実子がいた可能性がある。近江長浜城主だった時代、天正四年十月十四日に石松丸という男子が死んでいる。数え十五歳ほどだったとされる。母は南殿と呼ばれる側室と推定されている。
この石松丸のために、滋賀県長浜市の妙法寺には墓所と供養塔が残り、法名は本光院朝覚。発掘調査の結果、この墓は「石囲い箱棺墓」という、大名クラスにしか許されない形式であることが判明している。同じく徳勝寺には位牌があり、こちらの法名は朝覚大禅定門次郎秀勝君。羽柴秀勝の画像もあったが、昭和二十七年に焼失し、写真だけが残っている。
さらに竹生島文書のなかに奉加帳があり、そこには石松丸が、秀吉の妻の寧々、秀吉の生母とともに、南殿という女性と並んで竹生島に銭貨を奉納したことが明記されている。つまり石松丸は、秀吉の家族として扱われていた。そして後年、秀吉は二人の養子――織田信長の五男の於次と、姉の子である小吉――にどちらも「秀勝」の名を与えている。これは夭折した石松丸秀勝にちなんだものと考えられている。
秀吉は最初の息子のことを、生涯忘れられなかったのだろう。もっとも、この石松丸が秀吉の実子なのか養子なのかについては、いまも説が割れている。平山優は実子だと考える立場を取っている。もし実子なら、「秀吉に子種がなかった」という前提そのものが崩れる。淀殿だけが産んだ、という不自然さの土台が揺らぐ。
逆に養子だとすれば、実父別人説の前提は保たれる。ここもまた、決着していない。なお、南殿は女児も産んだとされるが、名も生年も伝わっていない。秀吉の実子とされる者は、記録に残る限りでこの二人と、鶴松と秀頼の合計四人。そのうち三人は幼くして死に、一人は大坂城で焼け死んだ。
六尺五寸、四十三貫。父より五十センチ高い息子
秀頼の体格の話をしないわけにはいかない。『明良洪範』は、秀頼の身長を六尺五寸、体重を四十三貫と記す。メートル法に直すと約百九十七センチ、約百六十一キロ。数字を見た瞬間に「盛ってるだろ」と思う。実際、逸話集の数字を鵜呑みにするのは危険だ。
だが体格が異様だったこと自体は、複数の証言が支持している。大坂の陣を戦った後藤又兵衛の小姓、長澤九郎兵衛の覚書である『長澤聞書』には、秀頼のことを「世に無き御太り」と書いてある。世にないほどの太りよう。実際に近くで見た人間の言葉としては、これはかなり強い。ほかにも『松原自休手録』『大坂御陣覚書』『土佐国編年紀事略』といった記録が、秀頼の体格に触れている。
少なくとも、当時の日本人の水準から大きく外れた巨体だったことは動かないだろう。対して秀吉である。フロイスは秀吉を、背が低く醜悪な容貌の男として書いている。身長は百五十センチ前後、あるいはもっと低かったという説もある。あだ名が「猿」であり「はげねずみ」であり、小柄で貧相な体格だったことは、複数の記録が一致して伝えている。
親子で五十センチ近い身長差。しかも痩せた小男の子が、規格外の巨漢に育つ。当時の人が「あれは太閤の子か?」と首をかしげたのは、無理もない。ただし、これは反証もきれいに立つ。
母方を見てみればいい。淀殿は当時の女性としては際立って背が高く、百六十八センチ程度だったという推定がある。当時の女性の平均が百四十九センチ前後だから、二十センチ近く高い。そして淀殿の父、浅井長政は身長百八十センチと伝わる巨漢だった。祖父の血、母の血。
これだけで秀頼の長身は説明がついてしまう。そのうえ秀頼は、天下人の跡取りとして日本最高の栄養状態で育っている。生まれてから二十三年、飢えを知らずに食べ続けた。当時の日本人でこんな食生活を送れた者はほとんどいない。長身の母、長身の祖父、圧倒的な栄養。
「世に無き御太り」は、遺伝と環境で普通に到達しうる。体格を根拠にする説は、直感には訴えるが、論としては弱い。似ていない親子など、いくらでもいる。
二条城の朝、家康は何を見てしまったのか
慶長十六年三月二十八日。京都の二条城で、家康と秀頼が会った。この日が、豊臣家の運命を決めたと言われる。背景を押さえておく。後陽成天皇の譲位が三月二十七日、後水尾天皇の即位が四月十二日に決まり、家康はその儀式に立ち会うため、四年ぶりに駿府から上洛した。
そして織田長益や高台院を通じて、孫娘の千姫の婿である秀頼に、二条城での会見を要請したのだ。秀頼にとっては、慶長四年正月に伏見城から大坂城へ移って以来、十二年ぶりの城外で、淀殿は当然抵抗した。以前、秀忠が二代将軍になった際に挨拶を求められたときも、「強いて求めるなら秀頼を殺して自害する」とまで言って拒んでいる。今回も難色を示した。
それを説得したのが、加藤清正、浅野幸長、片桐且元といった豊臣恩顧の大名たちだ。清正は淀殿にこう言ったと『名将言行録』は伝える。このたび秀頼公がご上洛なさらなければ、世間では気弱な君と侮られ、ご威光を失ってしまいます。ご安心ください。拙者は終始御輿に付き添います。
二条城において万一の謀計があれば、幾万の兵がいようとも片端から蹴散らし、必ず秀頼公をこの大坂城へお連れ申します――。命を賭けた言葉である。淀殿はついに折れ、三月二十七日未明、福島正則らを留守居として、秀頼は楼船で大坂を発った。織田長益、片桐且元と貞隆の兄弟、大野治長、そのほか三十人ほどの番頭や小姓が従ったのだ。
家康は九男の義直と十男の頼宣を伏見上鳥羽での出迎え役とし、浅野幸長、加藤清正、池田輝政、藤堂高虎らを随伴させた。一行は淀で一泊する。そして二十八日。竹田街道を通って京に入り、片桐且元の京屋敷で衣装を整え、隊列を組み直して二条城へ向かった。到着は朝八時頃。
ここで家康は冷酷な計算をしていた。諸大名に、秀頼の出迎えを禁じていたのだ。だから京の入り口で秀頼を迎えたのは、警護の清正と幸長のほかは池田輝政と藤堂高虎の、たった四人だけだった。かつて天下の主だった家の当主を迎える大名が、四人。秀頼自身にも、そして見物する京の町衆にも、豊臣家の孤立が視覚的に叩き込まれた。
門外で輿を降りた秀頼を、家康は自ら庭中まで出て迎えた。これは最高格の礼遇である。秀頼はうやうやしく礼を返す。家康は「互いの御礼あるべし」と、対等の礼をしようと提案し、秀頼はこれを固く辞退し、自分から先に礼をした。この瞬間、家康が秀頼の上位にあることが、目に見える形で確定し、御成之間に通され、三献の祝いが行われた。
媒酌は家康の近習、秋元泰朝。家康から秀頼に盃が注がれ、大左文字の刀と脇差が贈られ、秀頼も返杯し、一文字の刀と左文字の脇差を贈った。高台院も臨席して盃を受けた。会見は二時間ほど。饗応の膳が出たが、秀頼は吸い物を口にしただけで豪華な膳には手を付けなかったともいう。
加藤清正は饗応の席につかず、終始秀頼の隣に控えていた。そして問題は、家康が何を見たか、である。家康が最後に秀頼と会ったのは慶長八年の新年の賀。秀頼はまだ十一歳の子供だった。それから八年。
淀殿に甘やかされて育った気弱な若君だろう、という侮りが家康にはあったはずだ。輿から降りてきたのは、しかし、規格外の巨体を持ち、落ち着き払った十九歳の青年だった。太刀は木村重成に持たせ、悠然と歩を進める。突発的なことにも動じず、立ち居振る舞いに隙がない。会見のあと、家康は重臣の本多正信を呼んでこう漏らしたと伝わる。
秀頼は愚かな人物と聞いていたが、まったくそうではなく賢い人だ。とても人の下知を受けるような様子ではない――。「人の下知を受けるような様子ではない」。この一言に全部が入っている。徳川の家臣として飼い殺しにできる器ではない、という判定だ。
もうひとつ、家康の肝を冷やした出来事がある。会見当日、家康は付き従った加藤清正に褒美の刀を与えた。受け取るとき、清正は家康と目を合わせず、虚空の一点を見つめてしばらく動かなかったのだ。不審に思った家康が調べさせると、その方角には愛宕山があった。清正はひそかに「二条城で秀頼公に災難がないように」と、十七日間護摩を焚いて祈願していたのだという。
そして福島正則は、当日「病気」と称して大坂に留まっていた。これも仕込みだった。万一二条城で秀頼に何かあれば、清正と幸長は命を捨てて働き、正則は大坂で淀殿が徳川の手に落ちる前に自ら手にかけ、城に火を放って切腹する。三人でそう約束していたという。家康はこれを知って、秀吉の人を見る目に感心したと伝えられる。
感心はしただろう。だが同時に、恐怖もしたはずだ。秀頼自身にその気がなくても、周囲がそれを許さない。祀り上げられる存在としての秀頼は、徳川の天下にとって永久の不安定要因なのだ。会見の直後、家康は在京の諸大名二十二名を二条城に集め、三か条の誓詞を書かせた。
将軍秀忠の法度を守ること、法度に背いた者を国に隠さないこと、反逆・殺害人を召し抱えないこと。武家諸法度の先駆けと言われるものだ。細川忠興、池田輝政、福島正則、島津家久、黒田長政、藤堂高虎らが署名した。だがこの誓詞に、豊臣秀頼の名はない。秀頼は依然として「別格」であり、徳川の支配体制の外にいた。
そして会見からわずか三か月後の六月二十四日、加藤清正は帰国途上の船中で発病し、熊本で死んだ。享年五十。毒殺説が当時からささやかれた。浅野幸長も池田輝政も、慶長十八年に相次いで死んだ。豊臣に心を寄せる大名が、まとめていなくなった。
じゃあ家康は「秀頼が偽物だから」殺したのか
ここで実父別人説と大坂の陣が接続する。ネット上の考察でよく見るのが、「家康は秀頼が秀吉の実子でないことを知っていた。だから遠慮なく滅ぼした」あるいは逆に「本物だからこそ怖くて殺した」という議論だ。正直に言えば、どちらも成り立たない。というより、家康の行動を説明するのに血統の真偽は要らないのだ。
家康にとっての問題は、秀頼が誰の子かではなく、秀頼が何を持っているかだった。摂津・河内・和泉に六十五万石。日本最強の要塞である大坂城だ。そして全国の浪人を吸い寄せる求心力。関ヶ原から十五年、征夷大将軍として幕府を開いてもなお、豊臣家は「太閤の御子」として徳川の下に位置づけられない別格の存在であり続けていた。
三か条誓詞に署名していないという事実が、それを端的に示している。二つの権力中枢が並び立っている。これは体制として不安定きわまりない。家康は七十を超えていて、自分の死後にこの構図が残ることを恐れた。方広寺の鐘銘事件が「言いがかり」に見えるのは事実だ。
だが、その背景には、豊臣家がなお君主的な立場を自認しているという徳川側の危機感があったのだ。国替えや人質という和解条件が拒まれた時点で、武力解決以外の道はなくなった。そして血統が絶対的な正統性を持つ時代において、秀吉の血を引く者がいる限り、そこは永久に反乱の旗になる。実際、大坂の陣には十万に及ぶ浪人が集まった。彼らが集まったのは、秀頼の血を科学的に鑑定したからではない。
秀頼が「太閤の子」として立っていたからだ。つまり、家康にとっては秀頼が本当に秀吉の子かどうかはどうでもよかった。世間がそう思っている、それだけで脅威として十分だった。逆に言えば、もし家康が「秀頼は偽物だ」というカードを持っていたなら、それを使わない手はなかったはずだ。戦をせずに豊臣を無力化できる最強の武器なのだから。
方広寺の鐘の銘に難癖をつけるくらいなら、血統の疑惑を持ち出したほうが早い。それをやらなかったということは、使えるだけの根拠がなかったか、あるいは使えば自分の孫娘の婿の話にもなって藪蛇だったか、そのどちらかだろう。
反証その一――秀吉の手紙は、疑っている男の手紙ではない
ここから反証をまとめていく。まず、秀吉自身の書きものだ。秀吉は筆まめな男で、自筆書状が百点以上知られている。そのうち淀殿宛は五点、「茶々」宛はさらに少なく三点。二〇一七年に兵庫県豊岡市の個人宅から新たに一点が発見され、話題になった。
その内容がなかなかいい。病を患っていた茶々に宛てたもので、嫌いだと言っていた灸を我慢して据えたことを褒め、「まんそく申すばかりなく候」――大いに満足である――と書く。能を企画して見せてやるから、これからは飯をしっかり食え、と続く。さんまを送ったから味わえ、とも。そして追伸に、こうある。
「さすがおひろい御ふくろとみえ申し候」さすがはお拾のお母さんだ。灸が嫌いなくせに、それだけ我慢して据えたのだから――という褒め言葉である。疑っている男が、こういう手紙を書くだろうか。しかも「お拾の母」という言い方で女を褒めている。もし秀頼が他人の子だと疑っていたなら、この一言はまるごと呪いになる。
ほかにも、秀頼誕生後の書状には「ひろいに乳をよくのませ」「そもじの乳足り候はずば」といった、乳の出を心配する文言が並ぶ。当時、高い身分の女は母乳を与えず乳母に任せるのが慣例だった。秀吉が淀殿に自分で乳をやらせたことを、「侮辱の意味を込めた罰だ」と読む解釈もある。だが手紙の文面を素直に読む限り、これは単純に「ちゃんと出ているか」を気にする父親の心配だ。
そして秀頼が三歳、五歳と育っていく時期の手紙になると、もう完全に親バカである。署名が「とと」になっている。父ちゃん、である。「口を吸い申すべく候」――口づけをしてやろう――なんて書いている。唐まで探して面子を土産に買ってやる、とも書いている。
慶長二年の五歳の秀頼宛には「口を吸い」、同じ年の淀殿宛には「秀頼についで御なつかしく」。息子の次にお前が恋しい、と側室に書く。これらを並べて読むと、実父別人説はかなり苦しくなる。少なくとも秀吉本人は、秀頼を自分の子として全力で愛していた。演技だったという可能性を否定はできないが、私信の追伸に書く冗談まで演技だとするのは、さすがに無理がある。
反証その二――江戸の本は、豊臣を悪く書くほど売れた
次に、史料の性質の問題だ。秀頼の実父別人説を支える史料のうち、詳細で具体的なものはほぼすべて江戸時代の産物である。『明良洪範』は享保年間の成立、『胆大小心録』は上田秋成の晩年の随筆で十九世紀初頭。どちらも、豊臣が滅びて百年以上経ってから書かれている。そして江戸時代というのは、豊臣を悪く書くことが公認されていた時代だ。
徳川の天下の正統性は、「豊臣は滅びるべくして滅んだ」という物語によって補強される。だから豊臣の道徳的な欠陥を書く本は歓迎された。桑田忠親が「悪口を書けば書くほど歓迎された江戸時代」と表現したとおりである。『明良洪範』を読むとその構造がよくわかる。この本の中で徳川家康は、深い知慮と高い道徳性を備えた理想の君主「神君」として描かれる。
二条城会見のあと本多正信に「賢き人なり」と漏らす逸話も、家康の人物眼の鋭さを示すために配置されている。その同じ本が、豊臣秀頼の巨体を書き、そして秀頼と鶴松が淀殿と大野治長の不義の子だという噂を書く。編集意図は明白だ。豊臣の血統の正統性に疑問符を打つことで、その滅亡を自業自得の物語に落とし込んでいる。逸話集というジャンル自体の性質もある。
『明良洪範』の収録は七百二十項目を超える。だが、編者が伝聞や既存の記録から取捨選択したもので、真偽定かならぬ話が大量に含まれる。『武将感状記』など同種の書物に共通する特徴だ。個々の逸話をもって歴史的事実を証明する一次史料としての価値は、一般に低いとされる。ただし、これらの本に価値がないわけではない。
事実の記録としては使えなくても、「認識の記録」としては一級品だ。江戸中期の武士たちが戦国をどう認識し、そこから何を学ぼうとしたか。ある逸話が創作であったとしても、それが創作され、広く受け入れられたという事実自体が、当時の人々の価値観や不安を雄弁に語る。実父別人説を読むときも、この視点が要る。この説が語り続けられたことは事実で、内容が事実かどうかとは別問題なのだ。
反証その三――淀殿という立場で、密通なんてできたのか
三つ目の反証は、もっと物理的な話だ。福田千鶴は『淀殿』の中で、秀頼は秀吉の実子に間違いない、と明言する。理由の一つは秀吉の性格だ。秀吉は残忍なまでに嫉妬深い男だった。文禄二年十一月の、密かに婚姻して子を産んだ侍女への処断を思い出してほしい。
当人とその夫は竹鋸の刑、子と乳母は煮殺された。自分の身辺の女が別の男と関係を持つことを、この男は絶対に許さない。そういう男の側室が、城の奥で密通を成立させ、しかも二度も出産までこぎつける。難易度が高すぎる。そもそも大名家の奥というのは、監視の塊である。
側室には常時女房衆が付き、部屋の出入りは記録され、正室方の目も光っている。淀殿の場合は特にそうだ。彼女は織田信長の妹の娘であり、当時の武家社会における最高級の血統を持つ。だからこそ側室として別格の扱いを受けたのだが、同時に彼女の周囲には政治的な関心を持つ人間が山ほど張り付いていた。近年の研究では、大名の妻妾が当主と子をもうけるには正室の許可が必要だった、という見解も出ている。
これが正しければ、北政所が淀殿にだけそれを許したことになる。信長の血を引く茶々は別格だったから、という説明はできるが、いずれにせよ、産む産まないが正室の管理下にあったということだ。そんな環境で密通の子を産むのは、ほとんど不可能に近い。もう一つ。淀殿は決して受動的な被害者ではなく、秀吉の死後、豊臣家の実質的な当主として大坂城を切り回した。
だが政治経験がなく、徳川の台頭という時代の変化に対応しきれず、北政所派の大名たちからは反感を買った。そして大坂の陣で滅んだ。その後の彼女の扱いはひどい。江戸時代の書物では「蛇形をあらはす」などと妖怪扱いされ、明治の歴史書でも「傲慢・放恣」な女として書かれ続けた。政治学者の指摘によれば、江戸幕府は「女が権力を持つと家が滅びる」という教訓を淀殿に仮託し、自らの統治の正当化に利用したのだ。
実父別人説は、この悪女像の中核をなす部品だった。淀殿が不貞の女であればあるほど、豊臣の滅亡は納得のいく物語になる。つまり、実父別人説と淀殿悪女説は同じコインの裏表なのだ。片方を疑うなら、もう片方も疑わないと筋が通らない。
ネットと創作の中で、この説はどう扱われてきたか
現代に話を移す。この説は、いまも元気に生きている。歴史掲示板では、豊臣秀頼の実父をめぐるスレッドが定期的に立ち、大野治長派と石田三成派と「普通に秀吉の子だろ」派が延々やり合っている。ゆっくり解説系の動画では「日本史の闇」「最新研究で判明」といったタイトルで繰り返し取り上げられ、再生数を稼ぐ。近年は「托卵」という言葉が使われることも増えた。
生物学由来のこの言葉が歴史語りに持ち込まれると、話は一気に俗っぽく、そして刺激的になる。小説やドラマでの扱いも面白い。おおむね三つのパターンに分かれる。ひとつは完全に無視する型。秀頼は普通に秀吉の子として描かれ、疑惑には触れない。
大河ドラマの多くはこれだ。放送で「実は他人の子」とやると、実在の人物への中傷という批判を招きかねないし、物語が余計にこじれる。ふたつめが、匂わせる型。直接は言わないが、淀殿と治長の距離の近さ、視線の交わし方、二人だけの場面などで観客に想像させる。大坂の陣を描く作品では、治長は必ず淀殿の傍らにいるので、この演出は自然にできてしまう。
実際、治長が淀殿と秀頼に殉じて死ぬ結末は、どう撮っても「そういう関係」に見える。みっつめが、正面から採用する型。歴史小説には、秀頼の父を治長や三成に設定した作品がいくつもある。とくに三成説は、関ヶ原に情念の理由を与えられるので小説家に好まれる。史実的にはあり得ないと分かっていても、物語としては強い。
そして淀殿像そのものも、この二十年でかなり変わった。かつての「ヒステリックな悪女」一辺倒から、豊臣家を守ろうとして時代に飲まれた女性、という描き方が増えた。近年の研究が悪女像の作られ方を解体してきた成果が、創作にも波及している。だが皮肉なことに、淀殿が同情的に描かれるほど、実父別人説は「悪女の証拠」ではなく「彼女の孤独と抵抗」の物語として再利用されるようにもなった。
説そのものは、形を変えて生き延びる。
それでもこの説が死なない理由
なぜこの説は四百年も死なないのか。理由はいくつも重なっている。まず、否定しきれないからだ。骨がない。秀頼の遺骨は出ていない。
大坂城の山里丸で焼け死んだ二十三歳の遺体は、確認すらされていない。首のない遺体があったとか、吉光の短刀がそばにあったとかいう話は残るが、どれも確定していない。検証の手段が原理的に存在しない以上、この説は永久に「否定されていない」状態を保てる。次に、数字の直感に訴えるからだ。百人の女がいて、一人だけが二回産む。
この不均衡は、統計を知らない人間の感覚にもはっきり引っかかる。しかも、秀吉のもとを去った女が他の男との間に子を産んでいるという事実がある。この二つを並べられると、「おかしい」と思わないほうが難しい。専門家が受胎日を計算して「矛盾しません」と言っても、この直感は消えない。三つめ。
当時の記録が本当にあるからだ。江戸期の創作だけなら、とっくに片付いている。だが内藤隆春の手紙があり、フロイスの記述があり、多聞院日記があり、看羊録がある。同時代に噂が存在したことは、疑いようがない。この「当時からあった」という事実が、説に一定の重みを与え続けている。
四つめ。専門家の意見が割れているからだ。服部英雄と福田千鶴が正面から対立し、平山優が両論を紹介して読者に判断を委ねる。学界が結論を出していない以上、素人が結論を出せるわけがない。そしてこの膠着状態そのものが、話題としての寿命を延ばす。
五つめ。物語としてよくできているからだ。天下を取った男が、実は子を作れず、跡取りだと思っていた息子は他人の子だった。そしてその家は一代で滅びた。これは古典的な悲劇の構造そのものだ。
因果応報、驕れる者は久しからず、栄華の空しさ。日本人が好む物語の型に、完璧にはまっている。六つめ。誰も損をしないからだ。四百年前の話で、遺族が抗議してくることもない。
企業や団体の名誉が傷つくわけでもない。安全に語れる歴史ミステリーとして、これほど条件のいい題材はそうない。そして最後に、この説を語ることで「歴史の裏側を知った」という快感が得られるからだ。教科書には秀頼は秀吉の子と書いてある。それを覆す情報を持っている、という感覚は気持ちがいい。
この快感の供給源として、実父別人説はきわめて優秀な商品であり続けている。ここまで書いてきて、結局何がわかったのか、もう一段深いところを掘る。まず整理しておくと、この問題には三つの層がある。第一の層は「生物学的事実として、秀頼の父は誰か」。第二の層は「当時の人々が、秀頼の父を誰だと思っていたか」。
第三の層は「後世の人々が、なぜこの話を語り続けるのか」。この三つはまったく別の問いなのに、議論の中でしょっちゅう混ざる。混ざると話がおかしくなる。第一の層は、たぶん永久に解けない。検証手段がない。
受胎日の計算という理詰めのアプローチはあるが、それも「淀殿がどこにいたか」という一点で止まってしまう。そしてその一点を決める史料が、佐竹家臣の日記の伝聞記事一本しかない。しかも同じ一本を、専門家二人が正反対に読む。ここから先へ進むには、新史料の発見を待つしかない。可能性はある。
近年も秀吉の自筆書状が個人宅から出てきているくらいだ。だから名護屋在陣期の淀殿の所在を記した文書が、どこかの旧家の蔵から出てくるかもしれない。だがそれを待つあいだ、この問題は宙に浮いたままだ。第二の層のほうは、実はかなりはっきりしている。当時の人々は、疑っていた。
しかも広く疑っていた。フロイスの「多くの人々は信じていた」という表現、毛利家中に流れた密通の噂、朝鮮の捕虜の耳にまで届いた話。これらを総合すると、文禄から慶長にかけての日本には、「太閤には子種がない」という認識がかなり広く共有されていたと考えるほかない。これは動かない。そしてここが面白いところなのだ。
だが、この「当時から疑われていた」という事実は、実父別人説の証拠であると同時に、豊臣政権の構造的な弱さの証拠でもある。誰も口には出せないが、みんな思っている。そういう状態を「公然の秘密」という。豊臣家は、公然の秘密を抱えたまま天下を運営していた。考えてみると、秀吉の晩年の異常な振る舞いの多くが、この構図から説明できてしまう。
なぜ秀次を殺したのか。なぜ秀次の妻子三十九人を三条河原で公開処刑したのか。太田牛一はあの光景を「地獄の鬼の責めとはこのことか」と書いた。十五歳の駒姫が、上洛したばかりで秀次の顔も見ないうちに斬られた。父の最上義光が必死に助命を嘆願し、淀殿の取りなしもあって秀吉は鎌倉で尼にすることを認めて早馬を出したが、あと一町のところで間に合わなかったという。
処刑された者の遺体は一つにまとめられ、畜生塚と呼ばれた。あの残虐さは、単なる老いによる狂気では説明しきれない。秀吉は、秀頼の地位を脅かしうるすべてを、徹底的に消したかったのだ。もし秀頼の血統が誰の目にも明らかで、誰も疑っていなかったなら、ここまでする必要はない。血で正統性を証明できないから、暴力で証明するしかなかった。
あの三条河原は、豊臣家が抱えた不安の可視化だったとも読める。だとすると、秀吉自身は真実を知っていたのだろうか。ここが最大の謎だ。三つの可能性がある。ひとつめ、秀吉は自分の子だと信じて疑わなかった。
書状の親バカぶりを見ると、これがいちばん自然に見える。ふたつめ、秀吉は疑ったが、疑いを封印した。文禄二年秋の女房衆と宗教者の粛清はその現れで、真相を知る者を消し、そのうえで我が子として愛し抜くことを選んだ。みっつめ、秀吉は最初から知っていた。というより、彼自身が仕組んだ。
三つめが服部説の核心だ。子を作れないと知っている天下人が、家を残すために形式を整えて子を得る。相手は無名の宗教者。誰の子かわからなくすることこそが目的で、そうすれば後から「あれは私の子だ」と言い出す者が現れない。鶴松のときはそうやった。
だが秀頼のときは、秀吉の留守中に淀殿が独断でやってしまった。だから激怒した――。この説の魅力は、粛清の連鎖を無理なく説明できる点にある。唱門師の追放、女房衆の処分、拾い親の松浦重政が咎めを受けたこと。すべてが「秀吉が留守中に起きた何かに怒っている」という一本の線で繋がる。
だが弱点もある。まず、参籠の習俗を大坂城の奥にそのまま持ち込めるのか。民俗事例として庶民のあいだにその構造があったことと、天下人の側室がそれをやったことは、論理的に別だ。次に、秀吉の書状のトーンとの矛盾。仕組んだ子であれ疑った子であれ、あの「さすがお拾のお袋と見え申し候」という追伸の軽さは説明しにくい。
そして三つめ、粛清の記事はいくつもの史料に散らばっていて、それらが同一の事件を指しているという保証がない。晩年の秀吉は、朝鮮での失点、講和交渉の破綻、体調の悪化と、殺す理由には事欠かない状態だった。私の見立てを言うなら、可能性の重みとしては一つめか二つめだと思う。ただしそれは「秀吉が実父だ」と言っているのとは違う。
秀吉が実父であろうとなかろうと、秀吉は秀頼を我が子として遇したし、その遇し方に迷いは見えない、という話だ。そしてここに、この問題のいちばん深い部分がある。当時の武家にとって、血の繋がりと家の継承は、必ずしも一致していなかった。養子は当たり前だった。秀吉自身が、信長の五男と姉の子を養子にして「秀勝」と名付けている。
徳川家だって、後の御三家からの入嗣で将軍を継いでいる。血がすべてを決めるのは、明治以降の近代家族観の産物という側面が大きい。戦国末期の価値観に立てば、問題は「生物学的に誰の子か」ではなく「誰が父として認めたか」だ。秀吉が父だと言い、正室の北政所が名を付け、諸大名が起請文を書いて忠誠を誓った。その時点で、秀頼は豊臣秀吉の子である。
これは法的にも社会的にも動かない。生物学的な父親が誰かという問いは、当時の枠組みでは実は二次的な問題だった。この視点に立つと、実父別人説の位置づけが変わってくる。この説は、当時の価値観の中では「秀頼の正統性を揺るがす爆弾」ではなかったのかもしれない。爆弾に見えるのは、我々が近代の血統観で過去を見ているからだ。
だが同時に、当時の噂の存在は、そうは言っても人々が血のことを気にしていた証拠でもある。建前としては家の継承が優先でも、本音では「本当は誰の子だ」と言いたがる。人間はそういうものだ。四百年前も今も変わらない。第三の層、なぜ語り続けるのか、という問いに戻る。
私が思うに、この説の本質は「太閤秀吉という物語の完結」にある。何もないところから天下を取った男。日本史上最大の成り上がり。その物語には、一つだけ欠けているものがある。継承だ。
どれほど登り詰めても、自分の血を次に渡せなければ、すべては一代で消える。実際、豊臣家は消えた。「秀吉には子種がなかった」という説は、この結末に説明を与える。天は秀吉にすべてを与えたが、一つだけ与えなかった。だから彼の帝国は続かなかった。
この因果の物語は、あまりにも美しく、あまりにも残酷で、そして人間の道徳感覚に完璧にはまる。だから死なない。同じ理由で、この説は淀殿を必要とする。物語には、誰かが悪くなければならない。天が奪ったというだけでは足りず、人間の裏切りが要る。
だから淀殿は不貞の女にされ、大野治長は美男の姦夫にされ、名古屋山三郎という関係のない男まで引っ張り出される。豊臣家の滅亡は、こうして「女の不徳から起きた」という、江戸の道徳劇に仕立て上げられた。そのことに気づいた上で、もう一度この説を眺めてみる。すると見えてくるのは、秀頼という人間そのものが、驚くほど語られてこなかったという事実だ。彼は二十三年生きた。
そのうち十二年間、大坂城から一歩も出ていない。八歳で父を失い、母と乳母と側近たちに囲まれ、天下人の子として育てられた。方広寺の大仏を再建し、諸国の寺社を修復し、和歌を詠み、二条城で七十の家康を前にして一歩も引かなかった。そして二十三歳の夏、母とともに山里丸で死んだ。その全生涯を通じて、彼は「誰の子か」と噂され続けた。
母は悪女と呼ばれ、側近は姦夫と呼ばれ、自分の巨体は父に似ていないことの証拠にされた。そして死んだあとは、生きていたことにされて薩摩に落ち延びさせられ、四百年経ってもまだ、父親の詮索をされている。秀頼という人間の輪郭は、実のところ、疑惑の霧の向こうにほとんど見えない。彼が何を考え、何を望み、大坂城の炎の中で何を思ったのか。それを語る史料は、実父をめぐる噂話の百分の一もない。
この話でいちばん奇妙なのは、そこだと思う。四百年かけて、我々は一人の人間について、彼が誰の子かという一点だけを議論し続けてきた。父親の名前を突き止めたところで、秀頼という人間について、我々は何ひとつわかったことにならないのに。そしてたぶん、これからも議論は続く。新しい史料が出ても、たぶん決着しない。
決着しないほうが、話として面白いからだ。歴史というのは、事実と同じくらい噂でできている。そして噂は、事実よりずっと長生きする。豊臣秀頼という男の生涯が、それをこれ以上ないほど正確に証明している。
