朝の七時半に始まって、昼前には終わっていた。たった四時間ほどの出来事だ。それなのに、この四時間はアメリカという国が自分をどう語るかを根っこから変えてしまった。
1968年3月16日、ベトナム中部クアンガイ省ソンミ村。アメリカ陸軍第23歩兵師団、通称アメリカル師団のチャーリー中隊が、武器を持たない村人を組織的に殺した。ベトナム側が記録している犠牲者は504人。アメリカ陸軍の公式集計は347人。数が食い違っているのは、どこまでを「同じ事件」と数えるかが揃っていないからだ。ソンミの慰霊碑の黒い大理石には504の名前が刻まれていて、そのうち13歳未満の子どもが210人、妊娠していた女性が17人いる。最年少は1歳、最年長は82歳。
この記事では、その日の朝から撤収までを時間を追って再現し、命令がどう伝わってどう歪んだのかを検証し、たった三人だけ現場で身体を張って止めた男たちの話をして、それから一年半の隠蔽と、ひとりの元兵士が書いた手紙と、ひとりの無名のフリー記者が引き起こした爆発を追う。生き残った人たちの声と、撃った側のその後も入れる。最後に「なぜ普通の若者がこれをやったのか」という、いまだに答えの出ていない問いを、都合のいい結論に逃げずに扱う。
先に釘を刺しておく。この事件で刑事責任が確定したのは、たった一人だ。第一小隊長ウィリアム・カリー中尉だけ。他の被告は全員が無罪か、起訴取り下げか、行政処分で終わっている。だからこの記事では、有罪が確定していない個人について「この人が殺した」と断定する書き方はしない。証言があるものは証言として書く。そこは徹底する。
ピンクヴィルと呼ばれた土地
まず地理から。ここがややこしくて、事件名が何種類もある理由でもある。
行政上の名前は「ソンミ村」。クアンガイ省の海沿い、省都クアンガイ市の北東15キロほどのところにある。ソンミ村はいくつもの集落(ハムレット)に分かれていて、トゥークン、コールイといった小さな地区が寄り集まった構造をしていた。田んぼと灌漑用の溝と土手と、赤土の道と、竹垣に囲まれた農家がまだらに散らばっている。日本の農村を想像してもらって、そこから電線を抜いて、水牛を足せば、だいたい近い。
アメリカ軍が使っていた地図の呼び名はまったく別だった。軍用地図には「ミライ1」から「ミライ6」までの番号が振られていて、実際に虐殺の中心になったソムランという集落は、地図上では「ミライ4」だった。つまり地元の人が「ミライ」と呼ぶ場所と、アメリカ兵が「ミライ4」と呼んだ場所はイコールではない。この地図の番号のズレは、後の調査でも証言の突き合わせを何度も混乱させている。
そして、兵隊たちが日常的に使っていた渾名が「ピンクヴィル」だ。軍用地図でこの一帯が人口密集地としてピンク色に塗られていたから、というのが由来。リーデンアワーの手紙も、ハーシュの最初の記事も、この「ピンクヴィル」という言葉を軸に回っている。当時のアメリカの新聞を読んでいた人にとって、事件の名前はしばらく「ピンクヴィル事件」だった。
クアンガイ省は、19世紀末から外来の支配に抵抗し続けてきた土地だ。フランス統治期にも、その後も。1960年代半ばには農村部の実効支配は解放戦線側にあって、南ベトナム政府が握っていたのは省都くらいのものだった。1967年末の時点で、この省の集落の7割が空爆や砲撃で瓦礫になっていたという推計がある。住民の4割が一時的または恒久的に家を失って動いていた。ジャーナリストのジョナサン・シェルが当時この省を歩いて書き残した数字だ。年間の民間人死傷者は5万人規模。つまりソンミ村の周辺は、事件の日より前からすでに壊れていた。
もうひとつ、決定的に効いてくる制度がある。「フリーファイア・ゾーン」だ。ここは自由射撃地帯に指定されていて、民間人の存在を前提にせずに砲撃や空爆をかけていい区域とされていた。役所の紙の上で、そこにいる人間はもう「いないこと」になっていた。この線引きが実際の兵隊の頭の中でどう作用したかは、後で嫌というほど出てくる。
チャーリー中隊という集団
チャーリー中隊、正式には第20歩兵連隊第1大隊のチャーリー中隊。1967年12月に南ベトナムに着いた。ハワイのスコフィールド兵舎で訓練を積んだ部隊で、着いた当初は評判が悪くなかった。兵の平均年齢は20歳前後。徴兵と志願が混ざっている。中隊長はアーネスト・メディーナ大尉。メキシコ系の叩き上げで、部下からの人望はむしろ厚かった。「マッド・ドッグ」というあだ名がついていたが、これは悪口というより畏怖に近い。
その中隊が、3月16日までの三か月で28人の死傷者を出していた。ここが重要で、その28人のほとんどが、正面から撃ち合って倒れたわけではない。地雷とブービートラップだ。田んぼのあぜ道に仕掛けられた不発弾の改造品、竹槍を仕込んだ落とし穴、手榴弾に釣り糸。歩いていた仲間が突然、腰から下を失う。撃ち返す相手がいない。誰が仕掛けたのかもわからない。畑にいた老人かもしれないし、水を運んでいた女性かもしれない。
この「敵が見えない」という条件が、部隊の内側で何を発酵させるか。三か月かけて、チャーリー中隊は敵と村人の区別を心の中で溶かしていった。証言を読んでいくと、その溶け方が段階的なのがわかる。最初は疑い。次に苛立ち。そのうち「あいつら全員グルだ」になる。
3月15日、事件の前日。中隊は人気のあった軍曹の追悼式をやっている。地雷でやられた仲間だった。その空気のまま、日が暮れてからメディーナ大尉が翌日の作戦について中隊を集めてブリーフィングをした。
命令はどう伝わったのか
ここがこの事件の芯だ。作戦命令は、大隊から中隊へ、中隊から小隊へ、小隊から兵へと降りていく間に、少しずつ形を変えた。どこで変わったのかは、いまだに確定していない。
作戦の枠組みを作ったのはタスクフォース・バーカーという臨時編成の部隊で、フランク・バーカー中佐が率いていた。1968年1月に急ごしらえで作られた大隊規模の混成部隊だ。師団長サミュエル・コスター少将の出身地にちなんで、担当区域には「マスカティン」という符牒がついていた。上の情報部の見立てはこうだった――テト攻勢のあと、解放戦線の地方部隊である第48大隊がソンミ一帯に潜んでいる。叩けば大戦果になる。
この情報が根本から間違っていた。第48大隊はそこにいなかった。
メディーナのブリーフィングの内容については、証言が真っ二つに割れている。生き証人たちが法廷で言ったことを並べると、こうなる。ある兵は「村を焼き払え、家畜を殺せ、井戸を潰せ、何も残すな」と聞いた。別の兵は「動くもの、這うもの、唸るものを全部破壊しろ」と聞いたと述べた。ヴァルナード・シンプソンは「何も立たせておくなと言われた。俺たちは言われたとおりにした。相手が民間人かどうかは関係なかった」と証言している。「あいつらは全員ベトコンだ、行って片付けてこい」という言い方を聞いた、という証言もある。
一方でメディーナ本人は、女性と子どもの扱いについて指示は出していない、と法廷で述べた。それどころか、カリーの裁判に法廷側の証人として呼ばれたときには「女子どもを殺せなどとは言っていない。常識を使えと言った」と、被告席のカリーの主張を正面から否定している。
そして、両方の証言に共通している一文がある。「午前7時までに、女や子どもは市場に出かけて村にはいない。残っているのは敵だけだ」。
この一文が、たぶん全部の鍵だ。明示的に「民間人を殺せ」と言わなくても、「残っている者は敵である」という前提だけ与えておけば、あとは現場が処理してくれる。しかも作戦区域はフリーファイア・ゾーンだ。制度がすでにその前提を裏書きしている。ピアース報告書がのちに「命令の曖昧さ」を厳しく指摘したのは、この構造のことだ。
実際には、その朝の村人は市場に行っていなかった。夜明け前から砲撃とヘリの音が響いていたからだ。危ないときに市場へ出かける農民はいない。みんな家の中か、床下の防空壕にいた。彼らにとってそれは何十回も繰り返してきた正しい避難行動で、その日に限って、それが最悪の選択になった。
三月十六日、夜明け
朝は霧が出ていた。乾季の終わりで、日が昇れば暑くなる。
午前7時22分、9機のヘリコプターが飛び立った。乗っているのはチャーリー中隊の約100人。着陸に先立って、105ミリ榴弾砲が120発ほどを村の西の田んぼに撃ち込んで着陸帯を作り、武装ヘリが周辺を掃射した。ここまでは教科書どおりの手順だ。
7時30分ごろ、第一波が着地する。降着地点は集落の南西、約140メートル。兵たちは「ホット・エルゼット」――つまり敵の反撃がある降着地点――を想定して降りた。伏せて、身構えて、撃ち返す準備をして。
だが、何も飛んでこなかった。
この「何も起きなかった」瞬間が、実は事件の入口だったと考える研究者は多い。極限まで張り詰めた警戒が、行き場を失った。銃口の先には、朝飯の支度をしている家族しかいなかった。
最初の犠牲者は、田んぼで両手を上げて立っていた男だったと複数の兵が証言している。着陸から数分後のことだ。
8時ちょうど、カリー中尉の第一小隊とスティーヴン・ブルックス少尉の第二小隊が、横一列の隊形で集落に入った。田んぼの中の人影に撃ちながら進んだ。抵抗はない。この日、チャーリー中隊が押収した敵の武器は、一日を通してわずか3挺だった。
八時から十一時までの三時間
ここから先は、書くのがしんどい。だからといって省略すると、この記事の意味がなくなる。ひとつだけ決めておく。細部を娯楽として消費しない。事実として記録に残っているものを、記録として書く。
村に入った兵たちがまず見たのは、竈に火を入れて米を炊いている女たちと、その足元の子どもたちと、庭先の老人だった。機関銃手のハリー・スタンリーは、第一小隊の兵がベトナム人の男を銃剣で刺し、別の男を井戸に突き落として手榴弾を投げ込むのを見たと証言している。寺の近くでは、祈っていた高齢の女性たち十数人が撃たれた。
家々に火が放たれた。茅葺きは一瞬で燃える。煉瓦造りの家は爆薬で崩された。逃げようとした者、家の中に留まった者、床下の壕に隠れた者。壕に隠れた人たちには、外から手榴弾が投げ込まれた。生存者の証言に「壕に押し込まれて、手榴弾を投げ込まれ、それから機関銃で撃たれた」というものがある。
中央の広場付近には、80人ほどの村人が集められた。カリーが部下のポール・メドロに「こいつらをどうすればいいかわかってるな」と言ったこと、そして後で戻ってきて「なぜまだ死んでいない」と言ったこと、これはメドロ本人が免責と引き換えに法廷で証言している。メドロは弾倉を四つ撃ち尽くしたと述べた。彼は同時に「気が狂いそうだった」とも言っている。撃ちながら泣いていた、という周囲の証言もある。
そしてソムランの東側にある灌漑用の溝。ここが最大の現場になった。70人から80人ほどの村人が溝に追い込まれ、上から撃たれた。デニス・コンティ二等兵の法廷証言はこうだ。「大勢の女が子どもの上に覆いかぶさっていた。子どもたちは最初は生きていた。歩ける年齢の子が立ち上がると、カリーはその子どもたちを撃ちはじめた」。
カリー自身の有罪認定に含まれるのが、この溝での行為と、幼い子どもを溝に投げ戻して撃ったとされる行為だ。
ここで、はっきり書いておかなければならないことがある。ピアース委員会の調査は、この日、少なくとも20人のベトナム人女性と少女が性的暴行を受けたと認定している。被害者の年齢は10歳から45歳、うち9人が18歳未満だった。この件で性犯罪として起訴された米兵は、一人もいない。この記事では、被害の内容そのものを描写しない。それは記録として存在すれば足りるし、書けば消費になるからだ。ただし、起訴が一件もなかったという事実のほうは、太字にしたいくらい重い。
同時に、拒んだ兵もいた。ロバート・メイプルズは溝で撃つことを拒否し、上官に銃を向けられたと証言している。ジェームズ・ダーシーはカリーに命じられても撃たなかった。エセキエル・トーレスは途中で撃つのをやめ、機関銃はカリーが引き継いだとされる。マイケル・バーンハートは最初から一切参加しなかった。ハーバート・カーターは自分の足を撃った。参加しないための、いちばん確実な方法として。この日のチャーリー中隊の負傷者は、その一人だけだ。
上空にいた三人
午前9時前後。ヒラー社の小型観測ヘリ「レイヴン」が村の上を旋回していた。操縦していたのはヒュー・トンプソン准尉、24歳。ジョージア州ストーンマウンテン出身。もともと海軍にいて、いったん除隊して葬儀屋の免許を取り、ベトナムが激化するのを見て陸軍に入り直した男だ。両親から「人種で人を差別するな」と厳しく教えられて育ったという。
同乗していたのが、ドアガンナーのローレンス・コルバーン、当時18歳。そして機上整備員のグレン・アンドレオッタ。三人の任務は低空を飛んで敵の位置を見つけ、発煙弾で味方に知らせることだった。
給油から戻ったトンプソンは、地上の様子がおかしいことに気づく。死体が散らばっている。しかも若い民間人ばかりだ。無線を聞いても、交戦の報告はどこからも上がっていない。彼は最初、自分にこう言い聞かせた――砲撃から逃げた人たちが巻き添えになったのだろう。だが、その説明はすぐ崩れた。砲撃から逃げる村人は防空壕に入る。開けた場所を走ったりしない。
決定的だったのは、一人の負傷した少女だった。田んぼでもがいている。トンプソンは無線で地上部隊に救護を要請し、位置を示す発煙弾を落とし、10メートルほどの高さでホバリングして見守った。アメリカ兵が近づいてきた。少女を軽く小突いた。一歩下がった。自動小銃を撃った。
トンプソンは後年、この瞬間をこう語っている。「彼女は終わりだ。俺はそこに座っていた。なんてことだ、あいつは今、彼女を殺した」。ここで彼の中で、否認が怒りに切り替わった。
そのあと、溝の上を通過した。アンドレオッタがインカムで叫んだ。「見ろ、あいつが溝の中を撃っている」。溝の底には数十人が折り重なっていた。
ヘリを降ろす
トンプソンはヘリを降ろした。溝の近くにいた軍曹に、負傷者を助け出せないかと訊いた。返ってきたのは「楽にしてやりますよ」という趣旨の言葉だった。次にカリーとやりとりをした。カリーは「命令に従っているだけだ」と答えたとされる。トンプソンは再び飛び上がった。
そして、決定的な場面が来る。
村の東側の壕に、民間人が隠れているのが見えた。子ども、母親らしき女性、老人。地上の兵の一団がそこへ向かって歩いていた。トンプソンの見積もりでは、その人たちの余命はあと15秒だった。
彼はヘリを、兵士たちと壕の間に降ろした。真ん中に、割り込むように。
そしてコルバーンとアンドレオッタにこう言った――もしこいつらが民間人に撃ちはじめたら、こいつらを撃て。二人はそれぞれ機銃をアメリカ兵に向けた。18歳のコルバーンは、後年、そのときの心境をこう語っている。自分は本当に撃つつもりだったのか、いまでもわからない。ただ、あの状況で撃たないという選択肢は考えられなかった、と。
トンプソンは丸腰でヘリを降り、地上部隊の指揮官と向き合った。壕の人たちを外へ出したい、と言った。相手は「出す方法なら手榴弾がある」と答えたとされる。トンプソンはのちに「その場で上級者に対して言うべきでないことを言った」と振り返っている。要するに怒鳴りつけた。そして、部下をそこから一歩も動かすなと命じた。
彼は武器を持たずに壕へ歩いていき、身振りで「出てこい」と伝えた。三人だと思っていたのに、出てきたのは10人から11人。これは彼にとって新しい問題になった。自分の小さな観測ヘリには乗り切らない。
そこでトンプソンは無線で、上空にいた武装ヘリの僚機を呼んだ。「ちょっと問題が起きた」。武装ヘリが二回に分けて全員を運び出した。トンプソン自身が「たぶん、ガンシップが医療後送をやった史上初の例だ」と語っている、非公式で規則違反すれすれの救出だった。
そのあと、彼らはもう一度あの溝の上に戻った。アンドレオッタが遺体の山の中に動くものを見つけた。彼は溝に降りていって、血まみれの、しかし怪我をしていない幼い子どもを抱えて出てきた。トンプソンはのちに、あれこそが本物の勇気だったと言っている。この子どもは後方の病院へ運ばれた。名前をドー・バーという。当時9歳だった彼は、いまも生きている。
基地に戻ったトンプソンは、上官のところへ行って報告した。彼が使った言葉はこれだ。「あそこで起きているのは大量殺人です。連中は村人を集めて溝に追い込んで、ただ撃っている」。
十一時、昼食
午前11時ごろ、メディーナ大尉が無線で射撃中止を命じた。第一小隊は昼食休憩に入った。焼けた家の煙が上がるなかで、彼らは携行食を食べた。この「昼飯を食った」という細部を、後の調査官たちは何度も繰り返し証言者に確認している。それが、この事件のいちばん恐ろしい部分だからだ。
正午ごろには村は消えていた。247戸あった家のうち、残ったものはほとんどなかった。
トンプソンの報告は、実はその日のうちに一定の効果を上げている。バーカー中佐は地上部隊に作戦の中止を指示した。上級指揮官たちは、クアンガイ省内の別の村に予定していた同種の作戦を取り消した。つまり、彼らはトンプソンの報告の意味を正確に理解していた。理解したうえで、公式にはなかったことにした。
その日の夕方に始まっていた隠蔽
3月16日夕方、サイゴンの定例記者会見――記者たちが「五時のバカ騒ぎ」と呼んでいたやつだ――で、こういうプレスリリースが配られた。「本日の作戦において、アメリカル師団の部隊がクアンガイ市近郊で敵128名を殺害した。武装ヘリと砲兵が地上部隊を終日支援した」。
3月18日、軍の新聞は「米軍、赤軍を包囲し128名を殺害」という見出しの記事を載せた。3月27日、第11旅団長オーラン・ヘンダーソン大佐は、メディーナ大尉に表彰状を出した。3月28日、バーカー中佐は戦闘行動報告書を提出し、敵128名殺害という数字を正式に記録した。師団長コスター少将はチャーリー中隊に祝辞を送った。ベトナム派遣軍司令官ウェストモーランド大将は「見事な行動」と讃え、「敵に大打撃を与えた」と評した。
戦果128に対して押収武器3挺。この比率のおかしさに、当時、誰も公式には触れなかった。
第11旅団の広報部から従軍記者とカメラマンが同行していたのに、彼らが書いた記事にも民間人の死は一行も出てこない。後の刑事捜査は、この二人について「見たものを報告せず、記者は虚偽かつ誤解を招く記事を書き、カメラマンは残虐行為の写真証拠を当局から隠匿した」と認定している。
4月下旬、ヘンダーソン大佐が形ばかりの調査をやった。米兵に何人か話を聞いて「満足した」と述べた。生き残ったベトナム人には誰一人聞いていない。4月24日付の彼の報告書の結論は、「民間人約20名が、主に遠距離の砲撃によって、偶発的に死亡した」。
その後、解放戦線側が虐殺を告発するビラを撒いた。それでも公式の結論は動かなかった。バーンハートが議員に手紙を書こうとしたとき、メディーナはやめておけと警告したとされる。
そして、トンプソンには殊勲飛行十字章が授与された。授賞理由書には、彼が「激しい十字砲火のなかで」民間人を救出した、と書いてあった。そんな砲火はどこにもなかった。トンプソンはその勲章を捨てた。
一年半の沈黙
ここから1969年の春まで、何も起きない。約20か月。
チャーリー中隊の兵たちは任期を終えて次々に本国へ帰った。誰も何も言わない。言えば自分も裁かれるし、言っても信じてもらえない。トンプソン自身も、この期間についてこう語っている。上に報告した、だから適切な処置が取られるはずだ、と自分を納得させて、意識の奥に押し込んだ。後年、事件が公になったとき、彼はもうその記憶の大半を封じていた。
アンドレオッタは、その日から三週間後の1968年4月8日に戦死した。22歳。彼が溝から子どもを抱き上げたことを世界が知るのは、彼が死んでから一年半後になる。
リーデンアワーの手紙
ロン・リーデンアワーは、事件当日ソンミにはいなかった。第11旅団の別部隊で偵察任務に就いていた元ドアガンナーだ。
彼が最初に話を聞いたのは、1968年4月末、チューライの基地でのことだった。同じ訓練を受けた顔見知りの兵が、妙な話をした。ピンクヴィルで、部隊が村人を皆殺しにした、と。リーデンアワーは信じなかった。だが、その後もぽつぽつと同じ話が出てくる。彼は自分から探しはじめた。チャーリー中隊にいた人間を見つけては、酒を飲ませ、話を聞いた。話を聞くたびに、それぞれの断片が噛み合っていった。
彼が名前を挙げた情報源は、少なくとも五人いる。「ブッチ」と呼ばれていた兵は、村人が無差別に殺されたこと、負傷した子どもが殺されたこと、そしてカリーが20人以上の集団に機関銃を向けたことを話した。マイケル・テリーとウィリアム・ドハティは、自分たちの小隊が村に入ったときすでにほとんどの村人が倒れていて、まだ息のある者に「とどめを刺した」と話した。ラリー・ラクロワ軍曹は、村人が20人、30人、40人と三度に分けて集められ、そのたびに機関銃で撃たれるのを見たと語り、トーレスという兵が最初撃つのを拒んだことも付け加えた。そしてマイケル・バーンハートは、自分は参加を拒んだこと、その後メディーナに「議員に手紙なんか書くなよ」と釘を刺されたことを語った。
除隊したリーデンアワーは、1969年3月29日、この証言をまとめた長い手紙を書いて、大統領、国防総省、国務省、統合参謀本部、そして30人ほどの上下両院議員に送った。
手紙の書き出しに近い部分に、この事件を語るとき必ず引用される一節がある。「1968年3月、ソンミ村において、何か暗く血にまみれたことが実際に起きた」。彼は結論を断定しなかった。自分は現場にいない、自分が持っているのは伝聞だ、と正直に書いた。そのうえで「広範かつ公開の調査」を要求した。
ほとんどの宛先は無視した。動いたのはアリゾナ州選出の下院議員モリス・ユーダルだった。彼が執拗に押した。陸軍犯罪捜査部が動きはじめた。
1969年9月5日、フォート・ベニングが小さなプレスリリースを出した。ある陸軍中尉が、ベトナムの民間人殺害容疑で訴追された、という内容。名前はウィリアム・カリー。訴因は109人の殺人。
このリリースは、ほとんど誰にも注目されなかった。
ハーシュがカリーを探し当てるまで
1969年秋、シーモア・ハーシュは32歳のフリーランス記者で、金がなかった。
ある日、面識のないワシントンの若い弁護士から電話がかかってきた。政府内部のある人物が「この件を調べられるのはハーシュだ」と言っている、という。中身は――ベトナムでひどい虐殺が起き、国防総省がそれを揉み消している。
ハーシュは裁判記録と新聞記事を漁ったが、何も出てこない。手詰まりになった彼は、国防総省の廊下で、自分が兵役中に知り合った将軍と偶然すれ違う。ここでハーシュがやったのは、軍隊のノリで冗談を飛ばすことだった。将軍も冗談で返してきた。会話の流れで、ハーシュが虐殺の噂を口にすると、将軍が吐き捨てるように言った。「あのカリーってバカは、これより背の高い奴は一人も殺しちゃいない」。そう言って、将軍は手を腰のあたりに水平に上げた。
名前が取れた。ハーシュはジョージア州のフォート・ベニングへ飛び、基地の周りを一日100マイル以上走り回ってカリーを探した。見つけた。カリーは彼を自室に招き入れた。バーボンが入ると、話が出た。
ハーシュは記事を書いた。だがライフもルックも買わなかった。大手はどこも手を出さなかった。結局この記事は、デイヴィッド・オブストが運営していた小さな反戦系の配信会社、ディスパッチ・ニュース・サービスに乗った。オブストは全米50紙に売り込み、30紙以上が掲載した。1969年11月13日のことだ。前後してアラバマの新聞とニューヨーク・タイムズも独自に報じている。
そこから先の速度は異様だった。ハーシュは続報でメドロら実行に加わった兵に接触した。11月24日、テレビの報道番組でマイク・ウォレスがメドロにインタビューした。この放送が、事件をアメリカの茶の間に持ち込んだ。
やりとりは短い。ウォレスが赤ん坊もいたのかと問い、メドロが認める。乾いた確認が二往復。翌日、新聞がその一問一答を活字にした。そこで交わされた十数語が、このあと十年ぶんの反戦運動のスローガンになる。
ハーシュはこの一連の報道で1970年のピュリツァー賞国際報道部門を受賞した。
ヘイバリーの写真
言葉だけなら、アメリカは受け流せたかもしれない。写真があった。
ロナルド・ヘイバリー軍曹は陸軍の従軍カメラマンで、3月16日にチャーリー中隊に同行していた。彼はカメラを二種類持っていた。公用の白黒フィルムのものと、私物のカラーフィルムを入れたニコン。この使い分けが決定的だった。公用カメラで撮ったものは軍に提出しなければならない。私物のカラーは、規則の外にあった。
彼は見た。老人が二人の幼い子を連れて兵隊のほうへ歩いてきて、「ノー・ヴィーシー、ノー・ヴィーシー」と叫んだ。自分たちはベトコンではない、という意味だ。三人とも撃たれた。ヘイバリーは後年こう述べている。尋問しているのだと思った。そのあと発砲音が聞こえた、と。
彼が撮ったカラー写真の中に、赤土の道に折り重なる女性と子どもたちを写した一枚がある。この一枚が、のちに世界中に出回る。
ヘイバリーは公用の白黒だけを旅団に提出した。そちらには殺害の場面も加害者の顔も、ほとんど写っていない。カラーのスライドは自分で持ち帰った。彼は最も直接的なコマの多くを自分で処分している。理由は、写っている一部の兵だけを罪に問うのは公平じゃないと思ったから、と説明している。この判断の是非は、いまも議論がある。
一年以上たってから、彼はオハイオの地元でロータリークラブや高校のスライド上映会をやりはじめた。まず微笑むベトナムの子どもたちと兵隊の写真を見せる。それから、あの写真に切り替える。反応は決まっていた。「そんなはずはない。ありえない」。
1969年11月20日、クリーブランドの新聞プレーン・ディーラーが彼の写真を掲載した。同じ日、タイム、ライフ、ニューズウィークが一斉に事件を扱った。ライフはその後、12月5日号でカラー写真を大きく載せる。
国防長官メルヴィン・レアードがキッシンジャーに漏らした感想が残っている。「ひどいもんだ。子どもがあんなに転がっている。この写真は本物だ」。国防総省は、もう抑えられないと悟った。
1969年12月26日、アート・ワーカーズ・コアリションという美術家の集団が、あのカラー写真の上に、テレビのインタビューから取った二行を白抜きで乗せたポスターを刷った。「問い、赤ん坊もか」「答え、赤ん坊もだ」。ニューヨーク近代美術館は当初この制作に協力する約束をしていたが、実物を見て手を引いた。理事に戦争支持者がいた。美術家たちは印刷組合の協力で5万部を自力で刷り、ボランティアが世界中に配った。反戦ポスターとしては史上最も成功した一枚と評価されている。
写真は議論を終わらせるわけじゃない。ただ、議論の前提を変えてしまう。「128名の敵を殺害」という文章と、その写真は、同じ現実について語ることができない。どちらかが嘘だと、見た人間が自分の目で判断できてしまう。それが写真の力であり、恐ろしさでもある。
ピアース報告書
1969年11月24日、陸軍はウィリアム・ピアース中将に調査を委ねた。方面軍の実戦指揮官上がりで、身内に甘い人物ではなかった。
ピアース調査団は四か月かけて398人から証言を取り、2万ページを超える記録を作った。1970年3月17日に提出された報告書は、当時のアメリカ陸軍が自分自身について書いた文章としては、異例なほど容赦がない。
核心の一文はこうだ。「中隊から師団まで、すべての指揮レベルにおいて、上級司令部からソンミの出来事を隠蔽する結果となる作為または不作為が行われた」。
隠蔽は誰か一人の悪知恵ではなく、階層のあらゆる段で自然に起きた、と言っている。下は報告しない。中間は確認しない。上は追及しない。それぞれの段で、それぞれが「自分の仕事はやった」と思える程度の処理をする。その積み重ねが、20か月の空白を作った。
死者の見積もりについて、報告書はこう書いた。第1大隊の隊員は少なくとも175名から200名のベトナム人男女と子どもを殺害した。そのうち解放戦線の構成員と確認できたのは3、4名にすぎない。この数字はソンミ全体の犠牲者数より小さいが、それは調査団が「証拠として確定できる範囲」に絞ったからだ。
ピアースは、カリー、メディーナ、ヘンダーソンを含む約30人について、殺人、暴行、または隠蔽への関与で処分すべきだと勧告した。だが、そのほとんどは軍法会議にたどり着かなかった。実際に裁かれたのは限られた人数で、有罪になったのは一人だけだった。
ピアース本人は、コスター少将への処分――譴責と階級降下、勲章の剥奪、ウェストポイント校長職の喪失――について、身内をかばう「白塗り」だと批判した。ヘンダーソン大佐の無罪判決についても、これが将校の許容水準として認められるなら「陸軍は本当に深刻な状態にある」と書き残している。
報告書そのものは長らく公開されず、1972年に下院議員レス・アスピンが国防総省を提訴して、ようやく主要部分が世に出ることになる。
軍法会議
起訴された者は、当初26人。その後、追加で25人ほどが関連容疑の対象になった。将官を含む14人が情報の隠蔽で審理にかけられたが、多くは途中で取り下げられた。
カリーの軍法会議は1970年11月17日に始まった。検察官はオーブリー・ダニエル大尉。若く、執拗で、頭が切れた。弁護人はジョージ・ラティマー。
検察が積み上げたのは、広場での射撃、溝での射撃命令、老人を銃床で殴ったこと、そして幼い子どもを溝に投げ戻して撃ったこと。証人にはヘイバリー、トンプソン、機関銃手メイプルズ、コンティ、そして免責を受けたメドロが立った。
メドロの証言は法廷を凍らせた。「カリー中尉は『こいつらをどうすればいいかわかってるな、メドロ』と言った。しばらくして戻ってきて『なぜまだ死んでいない』と言った」。撃ちながらどう感じていたかを問われて、彼は自分が「死ぬほど動揺していた」と答えた。
補足しておくと、メドロは事件の翌日、地雷を踏んで片足を失っている。ヘリで後送されるとき、彼はカリーに向かって、これは神の罰だ、お前にも必ず来る、という趣旨のことを叫んだと複数の証言に残っている。
弁護側の主張は一本だった。カリーはメディーナの命令に従った。加えて戦闘ストレスによる判断能力の低下。カリー自身も証言台に立ち、命令に従っていると信じていた、それを間違っているとは感じなかった、と述べた。
そこへメディーナが法廷側の証人として呼ばれ、真っ向から否定した。女子どもを殺せとは言っていない、常識を使えと言った、と。
評議は79時間に及んだ。アメリカ軍法会議史上最長といわれる。1971年3月29日、判決。第一級殺人について有罪。認定された被害者数は「20名を下らない」。量刑は終身重労働刑、軍からの罷免、給与と手当の全額没収。
メディーナの軍法会議は別に開かれた。訴因は「指揮官責任」に基づく102人の殺害。ここには技術的な争点があった。ポリグラフ検査は、彼が午前8時から9時の間に民間人が殺されていることを知っていた可能性を示していたが、検察はこれを証拠として提出できなかった。弁護人のエフ・リー・ベイリーは、不利な証人と写真の多くを陪審の目に触れさせないことに成功した。陪審は57分で無罪を評決した。判事はメディーナに誕生日おめでとうと声をかけたという。
無罪が確定した数か月後、メディーナは、証拠を伏せたこと、そしてヘンダーソンに民間人の死者数について嘘をついたことを認めている。有罪の判決が覆ることはなかった。
ヘンダーソン大佐は、隠蔽で正式に裁かれた唯一の高級指揮官だったが、1971年12月17日に全訴因で無罪となった。情報将校ユージーン・コトゥクも無罪。バーカー中佐はすでにこの世にいなかった。彼は1968年6月にヘリの事故で死亡している。
結果を一行で言うと、こうなる。504人が死んで、有罪になったのは一人だった。
世論の逆流
判決が出た瞬間から、アメリカで起きたのは反省ではなかった。カリーへの同情の大爆発だった。
電話調査では、有罪判決に賛成しないと答えた人が79パーセント。終身刑は重すぎると答えた人が81パーセント。ホワイトハウスには嘆願の電報が数千通届いた。複数の州知事と州議会が減刑を求めた。ジョージア州知事だったジミー・カーターは「アメリカの戦う男の日」を制定した。サイゴンでは、アメリカ兵がカリーを支持する落書きを壁に残した。
「カリー中尉のバラード」というレコードが作られ、短期間で百万枚単位で売れた。彼を殉教者として歌う内容だった。
判決の三日後、ニクソン大統領はカリーを営倉から出し、フォート・ベニングでの自宅軟禁に切り替えた。上訴審の結果が出るまで自分が最終判断を留保する、と表明した。
検察官だったダニエル大尉は、大統領に宛てて激しい抗議の手紙を書いた。要旨はこうだ。この国のどれだけの人が、無防備な人間を殺すことがそれ自体として違法だという原則を理解していないのか。政治的便宜がその原則を侵食することを、私は恐れる。
減刑は段階的に進んだ。1971年8月、召集権者が終身刑を20年に落とした。その後、陸軍長官ハワード・キャラウェイがさらに10年に落とした。1974年11月、キャラウェイはカリーの仮釈放を発表した。
キャラウェイが減刑の理由として述べたのは、カリーが「自分のしたことは命令の一部だと誠実に信じていた」ということだった。この理屈は、第二次大戦後にアメリカ自身がニュルンベルクと東京で確立させた原則――上官の命令は免責事由にならない――と真正面からぶつかる。同じ国が、25年で反対のことを言った。
カリーが実際に施設に拘束されていたのは、レヴンワースの懲罰兵舎での約三か月だけだ。残りは軟禁だった。合計で三年半ほど。認定された被害者20人以上に対して。
一方、判決から二週間後の世論調査では、アメリカ人の過半数が初めてベトナム戦争そのものに反対だと答えている。カリーには同情するが、この戦争はもう嫌だ。矛盾しているように見えて、たぶん同じ感情の裏表だった。自分たちの息子をこんな場所に置いたのは誰だ、という怒り。「私はいい子を送り出したのに、あの人たちは息子を殺人者にして返した」というカリー支持者の母親の言葉が、当時よく引用された。
生きのびた人たち
ここからは、殺された側の話をする。アメリカ側の記録だけで組み立てると、この事件はどうしても「アメリカの良心の問題」として閉じてしまう。それでは半分だ。
ハー・ティ・クイ。事件の日、彼女は自宅の庭でサツマイモを干していた。ヘリの音がして、兵隊が来た。彼女と母と娘と親戚は、銃を突きつけられて外の開けた場所へ歩かされた。歩きながら、彼女はこう考えていたという。ここにベトナム軍はいない。なのになぜ撃つ必要があるのか。撃たれた。脚と臀部を撃たれて倒れ、その上に次々と人が倒れてきた。彼女はその下で息を殺していた。しばらくして、たまたま市場に出ていて難を逃れた近所の少女が戻ってきて、遺体の山から彼女を引きずり出した。母と娘は死んだ。知り合いで死んだ人間の数は、もう数えるのをやめたという。90歳を超えてから受けた取材で、彼女はこう答えている。「許しはする。でも忘れない」。
チュオン・ティ・レー。彼女は家族11人を一日で失った。自分は末の息子と一緒に、遺体の下に潜り込んで生き延びた。負傷した息子を遺体の山から引きずり出したときのことを、彼女は繰り返し語っている。17歳の娘は、撃たれてすぐには死ななかった。血が止まらず、母に向かって「たくさん血が出ている。もう行かなきゃならない」と言って、それから息を引き取った。何十年たっても、彼女は自分の感情を整理していない。取材にはっきり「まだ憎んでいる」と答えている。訪ねてくるアメリカ人は、撃たなかった側の人間ばかりだ、とも。この率直さは、和解という言葉で急いで包みたくなる我々を、いったん立ち止まらせる。
ドー・バー。事件当時9歳。弟を抱えて村の中を逃げた。彼の記憶では、ヘリコプターは「トンボみたい」に見えて、銃声は「雷みたい」に聞こえた。母と弟は殺された。彼自身は遺体の山の中で気を失っていて、そこをアンドレオッタに引き上げられた。チューライまで運ばれて治療を受け、その後は親戚の家に引き取られた。彼は後年、自分を助けた二人のアメリカ人をこう呼ぶようになる。「太っちょの父さん」と「痩せた父さん」。トンプソンとコルバーンのことだ。1998年、30年ぶりに二人がソンミに来たとき、彼は再会している。憎しみについて訊かれた彼の答えは、簡潔だった。「もう、憎むものはあまり残っていない」。
ファム・タン・コン。事件のとき11歳。家族と一緒に自宅の床下の壕に隠れていた。そこへ手榴弾が投げ込まれた。彼だけが生き残った。母と兄弟姉妹は死んだ。目の脇に、そのときの破片の傷がいまも残っている。彼はのちにソンミの記念館の館長になり、数十年にわたって、訪ねてくるアメリカ人の退役軍人たちと向き合い続けた。彼が語ったなかで最も重い一言は、カリーに関するものだ。いつか彼がここに来て許しを乞うてくれたら、と彼は言った。「この504の魂は、彼の罪を許すだろう」。カリーは、生涯ソンミに戻らなかった。
チャン・ヴァン・ドゥック。当時6歳。彼は妹をかばいながら村を逃げた。母は殺された。この話には後日談がある。2011年、ヘイバリーがベトナムを再訪したとき、43歳になっていたドゥックは、ヘイバリーが撮った一枚の写真を指さして言った。この岩の陰に倒れている女性は、自分の母グエン・ティ・タウだ、と。さらに別の一枚には、ヘリが通り過ぎる瞬間に負傷した妹をかばう幼い自分が写っていた。二人はその後、交流を続けた。ヘイバリーは、あの日カラー写真を撮った自分のニコンを、ドゥックに渡している。母を祀る祭壇に置くために。
もう一人、チャン・ナムという名で報じられた男性の証言も付け加えたい。彼は当時6歳で、ベッドの下に隠れていた。周りで家族が次々に撃たれ、弾が寝台の脚を削るのを聞いていた。兵が家に火をつけたので、彼は外へ逃げた。その朝、彼の家では14人が朝食の席についていた。無傷で生き残ったのは彼一人だった。
これらの証言を並べていて、共通して出てくる感覚がある。「なぜ」が、いまだにわからない、というものだ。彼らは自分たちが戦争の中にいることは知っていた。砲撃も空爆も何十回も経験していた。だが、地上に降りてきた兵隊が、目の前で朝飯を作っている自分たちを撃つという事態には、説明のつく理屈がひとつもなかった。半世紀以上たっても、そこは埋まっていない。
撃った側のその後
ヴァルナード・シンプソンは、自分が20人から25人を殺したと述べている。彼の説明はこうだ。最初は撃てなかった。上官に女性を撃てと言われて撃った。その女性が抱いていた赤ん坊も一緒に死んでいたことに気づいた瞬間、何かが切れた。彼は1989年のイギリスのドキュメンタリー番組の取材にこう答えている。「一人殺すと、次を殺すのが簡単になる。その次も、その次も」。彼が語った内容には、遺体の損壊も含まれていた。
1977年、シンプソンの10歳の息子が流れ弾で死んだ。彼はそれを自分への報いだと受け取った。死んだ息子の顔が、自分が殺した子どもの顔に見えたという。1982年に重度の心的外傷後ストレス障害で入院。以後、彼は家中の窓と扉に鍵をかけて暮らした。殺した人たちの霊が来ると信じていた。手の震えが止まらなかった。三度の未遂のあと、1997年5月4日、彼は自ら命を絶った。48歳だった。
ポール・メドロは片足を失って帰国し、インディアナの田舎で暮らした。テレビ出演のあと、彼は基本的に沈黙を選んだ。長い年月ののち、数少ない取材で彼が言ったのは、あの日のことは誰にも理解できない、そして自分にも理解できない、という趣旨のことだった。
マイケル・バーンハートは、拒んだ側の代表として、その後も長く発言し続けた。彼の証言が価値を持つのは、「拒むことが可能だった」という事実を、身体で証明しているからだ。同時に彼は、拒んだ代償――危険な任務を回されたこと――も語っている。
ウィリアム・カリーは、1976年にジョージア州コロンバスの宝石商の娘と結婚し、義父の店で働いた。宝石鑑定士の資格を取り、後に不動産の免許も取った。有罪歴があるため最初は却下されている。息子が一人。2000年代半ばに離婚。
彼が公の場で謝罪したのは、生涯にただ一度だけだ。2009年8月19日、コロンバスのキワニスクラブの昼食会で、67歳になっていた彼はこう述べた。「ミライで起きたことについて、悔恨を感じない日は一日もない。殺されたベトナムの人々に、その家族に、関わったアメリカ兵とその家族に、悔恨を感じる。本当に申し訳ない」。なぜ命令に抗わなかったのかと問われて、彼はこう答えている。「私は少尉で、指揮官から命令を受けていた。それに従った。愚かにも、としか言いようがない」。
この謝罪に対して、生存者のチャン・ヴァン・ドゥックは公開書簡を書いた。要旨は、その言葉は短すぎる、時間は痛みを和らげない、悲しみは永遠にミライに残る、というものだった。
カリーは2024年4月28日、フロリダ州ゲインズヴィルで死んだ。80歳。彼の死は三か月間、誰にも気づかれなかった。7月末、公的記録を調べていた記者が見つけて、初めて報じられた。死亡診断書には、彼がアメリカ軍に従軍したことはない、と記載されていたという。事務手続き上の記載漏れなのだろうが、この事件の締めくくり方としては出来すぎている。
トンプソンのその後
現場でいちばん正しいことをした男が、いちばん長く罰を受けた。この事件のもうひとつの真実がそれだ。
1969年末、トンプソンは下院軍事委員会の非公開の公聴会に呼ばれた。委員長のメンデル・リヴァーズは、彼を厳しく責め立てた。リヴァーズは公の場で、ミライで処罰されるべき兵士がいるとすればトンプソンだけだ、という趣旨のことを述べている。アメリカ兵に銃を向けると脅した、という理由で、彼を軍法会議にかけようと動いたが実現しなかった。
その後、彼のもとには脅迫電話がかかってきた。朝、家の玄関先に動物の死骸が置かれていることがあった。裏切り者、共産主義者のシンパ、と呼ばれた。心的外傷後ストレス障害、アルコール依存、離婚、悪夢。それでも彼は1983年まで軍に残り、教官パイロットを務め、少佐で退役した。その後はメキシコ湾で石油関連のヘリを飛ばした。
風向きが変わるのは1988年からだ。イギリスのドキュメンタリー制作者マイケル・ビルトンが、16年間音信不通だったトンプソンとコルバーンを再会させた。二人は1989年のドキュメンタリー「フォー・アワーズ・イン・ミライ」に出演する。この番組は国際的な賞をいくつも取り、彼らの行為がようやく正当に語られはじめた。
1998年3月6日、事件からちょうど30年。トンプソン、コルバーン、そして戦死したアンドレオッタに、兵士勲章が授与された。敵との直接戦闘を伴わない勇敢な行為に対する陸軍最高位の勲章だ。トンプソンは、非公開の授与を拒み、公開の式典で、三人全員に等しく授けることを条件にした。式で将官が述べたのは、「自分の身の安全を賭けてでも正しいことを行う能力が、この兵士たちを導いた」という言葉だった。
同じ年、トンプソンとコルバーンはソンミに戻った。生存者たちと会い、あの溝に線香を供え、村の子どもたちのための小学校の落成に立ち会った。会場で、一人の女性がこう尋ねた。なぜ、実際に撃った人たちは戻ってきて許しを乞わないのか。トンプソンは答えられなかった。彼が絞り出したのはこの言葉だ。「私にはその答えを言えるだけの器がない。すまない。そうでありたいと思うが、嘘はつけない」。
彼は退役後、退役軍人局のカウンセラーとして働き、ウェストポイント、海軍兵学校、空軍兵学校、海兵隊の学校で軍人倫理の講義をした。彼の事例は米欧の軍の倫理教本に載り、陸軍参謀総長の推薦図書リストに彼の伝記が入った。皮肉といえば皮肉だ。軍が彼を追い出しかけて、三十年後に教材にした。
トンプソンは2006年1月6日、ルイジアナの退役軍人病院で癌のため死去した。62歳。コルバーンがアトランタから駆けつけて、最期に立ち会った。葬儀は軍葬礼で、三回の弔銃とヘリの追悼飛行があった。
コルバーンはその後も証言と教育の活動を続け、2016年12月に亡くなった。彼が1998年にソンミで残した言葉が、記録に残っている。カリーに向けて、今日われわれが向き合った女性たちの前に立ち、彼女たちの問いを聞き、その目に浮かぶ涙を見て、なぜこうなったのかを説明してみろ、という挑戦だった。
ソンミの今
いま、あの場所は「ソンミ遺跡区」として保存されている。中心の石碑は1978年に建てられ、ベトナム人彫刻家ホー・トゥの手による社会主義リアリズム様式の巨大な群像だ。1976年には最初の記念碑が置かれている。
敷地には、破壊された247戸のうち18戸の家の基礎が、そのままの形で残されている。焼け残った土台と、割れた竈と、そこにいた家族の名前を記した札。復元された茅葺きの家もある。あの灌漑用の溝も、170人の犠牲者が出た場所として標識付きで保存されている。
博物館の入口には、504人の名前と年齢を刻んだ黒い大理石の板がある。館内の奥の壁には、ヘイバリーの写真が引き伸ばされて掲げられ、実物大のジオラマが置かれている。仏教の祈祷堂があり、僧が読経をする。訪れた人は線香を供える。
この記念館には、ひとつ特徴がある。アメリカ人を一括りに憎悪の対象として展示していない、という点だ。館内には、事件を告発したリーデンアワーと、救出にあたったトンプソン、コルバーン、アンドレオッタの名前と写真がある。加害国の中にいた反対者を、きちんと名指しで顕彰している。これは政治的な演出という側面もあるだろうが、それだけでは説明しきれない。生存者たち自身が、その区別に強くこだわってきた。
1998年の30周年には、生存者、アメリカの退役軍人、在米ベトナム人が集まった。アメリカ政府の代表者は誰も来なかった。2008年の40周年には千人以上が集まった。ここでも公式代表はいない。代わりに顔を出したのは、ウィスコンシンのクエーカー教徒のグループだった。彼らは十数年かけてミライに三つの学校を建て、平和公園を作っている。国家が動かないところで、個人が動き続けた。
「普通の若者がなぜ」をめぐって
ここからは考察の領域に入る。答えは出ていない。出ていないことを正直に書く。
いちばん流通している説明は、服従だ。ミルグラムの電気ショック実験と、ジンバルドーの監獄実験。この二つは事件のわずか数年前と数年後に行われていて、当時から「ミライの説明」としてセットで語られてきた。権威が命じれば、普通の人間は他人を傷つける。役割を与えられれば、普通の人間は残酷になる。教科書的にはそう習う。
社会心理学者のハーバート・ケルマンとハミルトンは、この事件を直接の題材にして「服従の犯罪」という枠組みを立てた。彼らが挙げた三つの条件は、いまも有効だと思う。第一に権威づけ。上から与えられた枠の中では、個人の道徳判断が停止する。第二に日常化。行為が手順に分解されると、一つひとつの手順は小さく見える。掃討、確認、処理。第三に非人間化。相手が同じ人間のカテゴリーから外されると、そもそも道徳の対象にならない。この三つが揃うと、悪人でなくても最悪のことをする。
ミライには、三つとも揃っていた。フリーファイア・ゾーンという制度が権威づけを与えた。「村を掃討する」という定型が日常化を与えた。三か月の見えない敵と、訓練段階から染み込んでいた蔑称の数々が、非人間化を与えた。
ここまでが標準的な説明だ。ここからが反証になる。
まず、ミルグラムとジンバルドーの解釈自体が、この20年で大きく揺れている。ミルグラムの音声記録を丁寧に聞き直した研究者たちが指摘したのは、被験者は決してぼんやり従っていないということだった。彼らは自分が何をしているか正確に理解していて、良心と激しく格闘していた。そして、従った人の多くは「科学の役に立つ」という大義に自分を同一化していた。ジンバルドーの実験でも、看守役が自然に残酷になったわけではない。ジンバルドー自身が「囚人に無力感を植え付けよう」と方向づけていた記録があり、しかも全員が残酷になったわけではない。積極的に加担したのは、実験者のリーダーシップに強く同一化した者たちだった。
ハスラムとライヒャーが提唱したのが「エンゲージド・フォロワーシップ」という概念だ。加害者は盲目的な歯車ではなく、目的に共感して能動的に動く協力者である。命令を待つのではなく、命令の趣旨を先取りして工夫する。この視点で見直すと、ミライの光景の説明が変わってくる。
というのも、あの日、命令の枠を超えた行為が確実にあったからだ。遺体を損壊したこと。性的暴行が行われたこと。井戸に手榴弾を投げ込んだこと。どれも「敵を掃討せよ」という命令からは出てこない。誰かがその場で発明している。単純な服従では、この余剰が説明できない。
そして、決定的な反証がある。全員が撃ったわけではない、ということだ。
メイプルズは拒んだ。ダーシーは拒んだ。トーレスは途中でやめた。バーンハートは最初から関わらなかった。カーターは自分の足を撃った。そして上空には、逆方向に振り切れた三人がいた。トンプソンは味方に銃口を向けさせた。同じ命令、同じ部隊、同じ三か月の消耗、同じブリーフィング。それでも行動は割れた。
もし状況が人を完全に決めるのなら、この分岐は起きないはずだ。だから「状況が悪かった」で終わらせる説明は、必ずどこかで嘘になる。そして同時に、「悪い人間がいたのだ」で終わらせる説明も嘘になる。カリーは平凡な男だった。大学を落第して中退し、皿洗いをして、徴兵の波の中で将校訓練を受けた。彼を特別な怪物にすれば、この事件は他人事になる。
たぶん、いちばん正直な言い方はこうだ。状況は、行動の分布を大きく動かす。だが個人の選択を消しはしない。悪条件が揃えば、多くの人が最悪のことをする。それでも、しない人は必ず一定数いる。そして「しない人」がいたという事実こそが、した人の責任を成立させる。
もうひとつ、この事件に固有の要素を挙げておきたい。集団の中での相互監視だ。証言を読むと、多くの兵が「まわりがやっているから」動いていて、同時に「まわりに見られているから」やめられなくなっている。撃たない兵は、撃つ兵にとって自分の行為を告発する存在になる。だから集団は、参加しない者に圧力をかける。トーレスが撃つのをやめたとき、機関銃を引き継いだ者がいた、という細部は、その力学を凝縮している。
反証と留保
この事件を語るとき、必ず出てくる論争がある。ミライは例外か、それとも氷山の一角か。
例外だとする立場は、これほどの規模の民間人殺害が単一の作戦で起きた例は他に確認されていない、という点を根拠にする。実際、これはアメリカ軍による20世紀最大の確認済み民間人虐殺とされている。
氷山の一角だとする立場を強く押し出したのが、ジャーナリストのニック・ターズだ。彼は国防総省の「ベトナム戦争犯罪作業部会」の未公開資料を掘り起こし、ミライは「逸脱ではなく作戦だった」と主張した。作業部会の記録には、1967年から1971年にかけて320件の申し立てが残っていて、そこには複数の集団殺害事件と、多数の拷問事案が含まれる。米兵203人が訴追され、57人が軍法会議にかけられ、23人が有罪になった。ターズはさらに、メコンデルタで行われた「スピーディ・エクスプレス」作戦で、戦果の数字を上げる圧力のもと大量の民間人が死んだと論じている。
これに対して、歴史家のゲイリー・キューリックのように、退役軍人の残虐行為証言そのものの成り立ちを疑う立場もある。彼の主張は、証言のかなりの部分が伝聞や自己劇化を含んでおり、反戦感情の高まりのなかで「語られ方」が形成された、というものだ。ターズが証言に依存しすぎているという批判もある。
どちらが正しいかを、この記事で決めることはできない。ただ、こう言うことはできる。ミライが特異だったのは、殺害の規模というより、記録されてしまったことのほうだ。従軍カメラマンがカラーフィルムを持っていた。ヘリの乗員が公式に報告を上げた。一年半後に、たまたま執念深い元兵士が手紙を書いた。この三つの偶然が揃わなければ、ミライは「敵128名殺害」という一行のまま、資料室で朽ちていた。
そして、ミケ4で同じ日に起きたことは、いまも解明されていない。ブラボー中隊が担当した地区で、約90人が死んだと調査は認定している。だが多くの兵が供述を拒み、あるいは記憶にないと述べたため、何が起き誰がやったのかは、おそらく永久にわからない。ミライで起きたことがわかっているのは、たまたま証拠が残ったからだ。それ以外の場所は、こういう形で沈む。
留保をもうひとつ。ソンミの死者数について、504と347という二つの数字を並べたが、どちらかが捏造だという話ではない。ベトナム側は村全体の犠牲者を数え、アメリカ陸軍は自軍が確認できた範囲を数えた。ピアース報告書はさらに絞り込んで175から200という数字を出した。数え方が違えば数字は違う。だが、どの数字で見ても、この日ソンミ村で武器を持った敵として確認されたのは3、4人にすぎない。そこは動かない。
なぜ、いまも語られるのか
ミライが半世紀以上たっても消えない理由は、たぶん、この事件が「悪人の物語」として閉じないからだ。
閉じてくれれば楽だった。カリーという狂った男がいて、彼を裁いて終わり。実際、アメリカはその処理を試みた。だが試みは失敗している。彼一人を有罪にした瞬間に、世論の半分以上が「彼だけを裁くのはおかしい」と言い出した。その直感自体は、たぶん正しかった。おかしいのは事実だ。ただし、正しい結論は「彼を無罪にせよ」ではなく「上まで裁け」だったはずだ。世論はその分岐で、楽なほうに折れた。
もうひとつの理由は、この事件が制度の話だからだ。悪意ある個人がいなくても、死体の数で成果を測る制度と、住民のいる区域を紙の上で無人地帯に指定する制度と、報告が上に行くほど都合よく丸まる組織があれば、同じことは起きる。この三つは軍隊に限った話じゃない。数字で評価され、責任が分散し、報告が上がるにつれて角が取れていく組織なら、どこにでもある。もちろん、普通の職場で人が殺されるわけではない。だが構造の相似は本物で、だからこの事件は軍の教本を超えて読まれ続けている。
そして最後に、トンプソンの存在がある。彼がいなければ、この事件は絶望の物語で終わっていた。彼がいたことで、「その場でも止められた」という反証が残った。18歳のコルバーンが味方に機銃を向けた。アンドレオッタが遺体の山に降りていった。上等な理屈ではない。彼らは怖かっただろうし、正しい手続きも踏んでいない。ただ、目の前で殺されようとしている人間がいたから、機体を降ろした。
それができたということが、その場にいた他の全員にとっての、逃げ道のない証明になっている。
確定しているのは、たった一人ぶんの有罪だけだった
ここからは、本文で走り抜けた部分を、もう少し腰を据えて掘る。事件の「わからないまま残っている部分」と、「わかっているのに軽く扱われている部分」の両方を扱いたい。
まず、時間の話をしたい。この事件でいちばん奇妙なのは、所要時間だ。ヘリが降りたのが午前7時半、射撃中止が午前11時。実質の殺害時間は三時間ほどしかない。500人前後が死んだとすると、単純計算で一分に二人以上のペースだ。それが、機械ではなく、二十歳前後の若者たちの手作業で行われた。
この時間の短さは、二つのことを意味する。ひとつは、行為の間に立ち止まって考える余地がほとんどなかったということ。もうひとつは、逆に、止めようと思えば止められる時間が三時間もあったということだ。トンプソンは実際に、その三時間の後半に介入して、少なくとも十数人を救い出している。三時間というのは、迷ったり、命令を確認したり、上に無線を入れたりするには十分すぎる長さだ。誰も入れなかった。いや、正確には、入れた人間が一人いて、上はそれを握り潰した。
次に、指揮系統の空白について。この事件の指揮系統には、決定的な欠落がある。作戦全体を組み立てたバーカー中佐は、事件の三か月後にヘリの事故で死んでいる。つまり、命令が大隊レベルでどう構想されたのかを本人の口から確認する機会は、永久に失われた。ピアース調査団が集めた2万ページの中にも、この穴は埋まっていない。
そのため、「誰が最初に何を意図したのか」という一番肝心な問いは、いまも仮説の域を出ない。可能性としては三つある。第一に、上層部が明示的に住民殲滅を意図していた場合。第二に、上層部は意図していなかったが、成果への圧力と情報の誤りが現場で暴走を招いた場合。第三に、意図はないが「残っている者は敵」という前提を配ることで、意図を口に出さずに結果を得ようとした場合。証拠がいちばん整合的なのは第三のパターンだと私は思うが、これは確定した事実ではなく、解釈だ。断定はできない。
ここで、この記事の中でどうしても強調しておきたいことがある。本件で刑事的に有罪が確定したのは、ウィリアム・カリーただ一人である。メディーナは無罪、ヘンダーソンは無罪、コトゥクも無罪、コスターは軍法会議に至らず行政処分で終わった。だから、彼らについて「実際は指示していた」「知っていて隠した」と断定する書き方は、この記事では採らない。証言があること、疑いが強く残っていること、ピアース報告書が厳しく批判したこと。そこまでが書ける範囲だ。この線を越えないことは、事件そのものへの誠実さの問題でもある。無防備な人間の生命を勝手に処理していい理由はどこにもない、という原則を主張する記事が、被告の推定無罪を都合よく踏み越えるわけにはいかない。
三つめに掘りたいのが、「なぜ隠蔽が成功したのか」だ。
隠蔽というと、密室で口裏を合わせる場面を想像しがちだが、ミライの隠蔽はそういう形をしていない。もっと平凡で、もっと恐ろしい。ピアースの言い方を借りれば、「作為または不作為」の積み重ねだ。
現場の兵は、報告しなかった。報告義務はあったが、しないほうが安全だった。中隊長は、死者数を過少に報告した。旅団長は、米兵にだけ話を聞いて、生き残ったベトナム人には一人も聞かず、「偶発的に約20人」と結論した。師団は、その結論を受け取ってそのまま上げた。広報は、128名殺害という数字でプレスリリースを書いた。同行した記者は、見たものを書かなかった。カメラマンは、証拠になる写真を出さなかった。
このどの段階にも、明白な犯罪的共謀を必要としない。それぞれの人間が、自分の職務範囲で、面倒を避ける方向にわずかに舵を切っただけだ。その微小な傾斜が十段重なると、504人の死が「敵128名」になる。
しかも、この構造には自己強化の性質がある。上に上がった数字が公式記録になると、それを覆すことは組織にとって単なる訂正ではなく、自己否定になる。ウェストモーランドの祝辞が出た時点で、この数字は動かせなくなった。祝辞を取り消すには、祝辞を出した判断そのものを問わなければならないからだ。
だから、隠蔽を破るには外からの力がいる。それがリーデンアワーの手紙だった。彼は事件現場にいなかった。だから守るべき自分の関与がなかった。除隊していた。だから軍のキャリアを失う心配もなかった。彼が独力で五人以上から話を集めて突き合わせたという事実は、いま読んでも執念深い。しかも彼は、自分が伝聞しか持っていないことを手紙の中で正直に書いている。断定せず、調査を求めた。この抑制が、手紙の信頼性を決定的に高めた。もし彼が「私は虐殺があったと確信する」と書いていたら、たぶん一人の元兵士の妄想として片付けられていた。
そして、手紙を受け取った30人あまりのうち、動いたのは一人だけだった。この比率も覚えておきたい。制度は、正しい情報を受け取っただけでは動かない。受け取った人間の中の誰か一人が、面倒を引き受けようと決めなければ動かない。
四つめ。写真と言葉の関係について、もう少し書きたい。
ハーシュの記事が出たのが11月13日。ヘイバリーの写真が新聞に出たのが11月20日。この一週間のズレが、実は重要だった。
先に言葉が出た。だが、言葉だけの段階では、アメリカ社会の反応は割れていた。信じない人が多かった。共産主義者のプロパガンダだという反応もあった。取材を受けた元兵士の証言はあくまで証言であって、反論できる。
写真が出た瞬間に、その構図が壊れた。カラーだったことも効いた。当時の報道写真は白黒が標準で、白黒は無意識に「過去の出来事」として処理される。カラーだと、生々しさが違う。赤土の色があり、衣服の色があり、血の色がある。国防長官が「この写真は本物だ」と漏らしたのは、写真の真正性のことだけを言っているのではないと思う。もう議論の局面が変わった、という意味だ。
ただし、写真には代償もあった。写真は事件を「見るもの」に変える。見た人は衝撃を受け、そして消費する。アート・ワーカーズ・コアリションのポスターは、その両義性の中で作られたものだ。あの二行の文言――テレビのインタビューで交わされた、赤ん坊もかという問いと、赤ん坊もだという答え――を写真の上に乗せたのは、写真を「見るもの」から「言われたこと」に引き戻す操作でもあった。5万部が刷られ、世界中に配られた。ニューヨーク近代美術館が土壇場で降りたことも含めて、あの一枚は、芸術が政治とどう関わるかという別の議論にまで火をつけている。
五つめ。ベトナム側の受け止め方について、日本語圏ではあまり紹介されていない側面を書いておきたい。
ソンミの記念館は、加害国アメリカを一枚岩の悪として描いていない。リーデンアワー、トンプソン、コルバーン、アンドレオッタの名を掲げている。これを国家的な宣伝戦略の産物と見る解釈はあり得るし、実際そういう側面もあるだろう。だが、生存者一人ひとりの発言を読んでいくと、彼ら自身がこの区別に強い意味を置いていることがわかる。
ドー・バーが救出者二人を「太っちょの父さん」「痩せた父さん」と呼ぶこと。ファム・タン・コンが「504の魂は彼の罪を許すだろう」と語ること。ハー・ティ・クイが「許すが忘れない」と言うこと。これらは、和解の定型句として消費されがちだが、そう読むと本質を外す。彼らが言っているのは、加害の事実を薄めることではない。加害者を人間のカテゴリーの中に置いたままにする、という選択だ。
一方で、チュオン・ティ・レーのように「まだ憎んでいる」と明言する人もいる。この声が同じ村に共存していることこそが、実態だ。ベトナム社会が一致団結して許した、という物語は嘘になる。許した人と、許していない人と、考えることをやめた人がいる。それだけだ。
そして、村を訪ねているのは、いまも主に個人だ。クエーカー教徒のグループが学校を建て、平和公園を作った。ヘイバリーが自分のカメラを遺族に渡した。トンプソンとコルバーンが線香を供えた。国家間の公式な謝罪は、この件に関しては行われていない。1998年の30周年にも、2008年の40周年にも、アメリカ政府の代表は現れなかった。半世紀以上たったいまも、その状態が続いている。
六つめに、この事件が軍と社会に残した制度的な変化を確認しておきたい。ミライのあと、アメリカ軍は非戦闘員の扱いに関する訓練を作り直した。交戦規則の教育が強化され、違法な命令を拒否する義務が明文で教えられるようになった。湾岸戦争の前、部隊に対して「ミライを繰り返すな」という直截な訓示が出たことは記録に残っている。トンプソンの事例は倫理教材になり、士官学校で毎年語られる。
これは進歩だと思う。同時に、限界も見ておきたい。制度が学んだのは「同じ形の失敗を繰り返さない」ことであって、「あらゆる形の失敗をしない」ことではない。ミライ以後も、別の戦場で別の形の事件が起き続けている。教訓が制度化されるとき、教訓はしばしば具体的すぎる形で固定される。ミライ型の虐殺には強い抗体ができ、それ以外には効かない。
最後に、この記事を書きながらずっと引っかかっていたことを書いて終わりにする。
ミライについて読んでいると、どこかで必ず「自分だったらどうしたか」という問いに突き当たる。そして大抵の人は、自分はトンプソンの側だと思う。私も一瞬そう思った。だが、たぶんそれは間違いだ。
あの日、あの村にいた100人ほどのアメリカ兵のうち、明確に拒んだ、あるいは止めようとした人間は、確認できる範囲で10人に満たない。上空の三人を加えても、まだ一割程度だ。統計的に言えば、自分は残りの九割に入る可能性のほうがずっと高い。撃った側かもしれないし、撃たずに黙って見ていた側かもしれない。後者もかなりの人数いた。
そして、黙って見ていた人たちのことを、この記事はほとんど書けていない。彼らは訴追もされず、証言も少なく、その後の人生も記録されていない。だが、事件の大半を構成していたのは、たぶん彼らだ。積極的に撃った者でも、身体を張って止めた者でもなく、目を逸らして自分の持ち場の作業を続けた人たち。
この事件が本当に問うているのは、「なぜ人は残酷になれるのか」ではないのかもしれない。「なぜ人は、目の前で起きていることを自分の問題として引き受けないのか」のほうだ。前者は特殊な条件を必要とするが、後者は毎日どこでも起きている。
トンプソンが特別だったのは、勇敢だったからというより、目の前の出来事を自分の担当範囲だと判断したからだと思う。彼の任務は偵察であって、地上の民間人の保護ではない。職務記述書のどこにも書いていない。彼はそれを自分の仕事だと決めた。その一点だけが、他の全員との違いだった。
504人の名前が刻まれた黒い板の前に立ったとき、そこにある問いはたぶんそれだ。あなたの担当範囲は、どこまでですか。
