手本の行末を、誰かが縦に読んだ
平安の写経所を思い浮かべてほしい。薄暗い堂内で、若い学僧が師から渡された手本を前に筆を執っている。手本に書かれていたのは、こんな歌だ。
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす。当時のかな四十七文字を、一度ずつだけ使って組み上げた歌だ。重複はゼロ。「ん」を数に入れるかどうかは今も異論がある。
この歌は、七文字ずつ改行されて記されていた。注目してほしいのはそこだ。理由は色気のないもので、紙を節約するためだったとも、漢字音の抑揚を口で唱えて覚えるためだったとも言われている。写本や音義書には、七文字を一区切りにして書く慣習があったらしい。
ところが、ある時――おそらく近世に入ってからだと見られているが――誰かがふと、その行末だけを縦に拾い読んでみた。と・が・な・く・て・し・す。咎無くて死す。無実の罪のまま、死んでいく。
手習いの手本として、この歌は何百年も子どもたちに与えられてきた。ひらがな最初の教科書と呼んでいい、あの歌だ。その裏側に、断末魔のような一句が仕込まれていた。ここからが本番だ。この八文字が、千年のあいだ日本人の想像力を引っ張り回す。
「付会だ」と切り捨てた国語学者
七文字区切りで書かれたいろは歌の最古の実例は、仏教学書『金光明最勝王経音義』に見える。十一世紀末頃に成立したとされる書物だ。経典の漢字に読み仮名や注釈を付けるための、実務一辺倒の資料。暗号を仕込む意図など、微塵もなかったはずだ。
それでも後世の人間は、この実務的な七字区切りこそが「暗号の器」として使われたのだと読んだ。近代の国語学者・大矢透は、いろは歌の音韻史的研究の中でこの行末読みに触れ、これを「付会」と評した。後からこじつけて結びつけた解釈、という評価だ。手厳しい一言だった。
大矢の立場はこうだ。歌そのものは真言密教系の学僧が仏教的な無常観を詠んだ純粋な詩だ。「咎なくて死す」という文字列は、七字区切りという表記慣習が生んだ偶然の産物にすぎない。
理屈は通っている。それでも、この「偶然」があまりにも整いすぎている。四十七文字を七つずつ区切っただけで、行末にちょうど意味の通る一句がそろってしまうのだから、気味が悪いと感じるのも無理はない。その感覚が、江戸時代から現代まで人々を離してくれないのだ。
江戸の学者たちは、本気で困っていた
この読みは、江戸時代にはすでに広まっていた。当時の学者たちの反応から、それがうかがえる。
いろは歌は仏教の無常を説く歌だ。なのにそこへ、「咎なくて死す」という不吉な文言が忍ばされている。国学者・黒川春村はそれを嘆いた。そう伝えられる。そんな仕掛けを含む歌を、無邪気に手習いの教材として子どもに与え続けていいのかと疑問を呈したという。
声を上げたのは一人ではない。儒学者・貝原益軒も、いろは歌を仮名の学習手本に使うことに難色を示し、他の教材を勧めたという。
彼らの懸念は、迷信深さだけが理由ではないだろう。根っこにあるのは、儒教的な合理主義。意味の定まらない歌を子どもの教育に使うべきではないという教育論的な問題意識もあったと考えられる。
どっちにしても、江戸期の知識人はいろは歌の行末を読むという行為を知っていた。すでに「知る人ぞ知る」お約束として共有されていたことになる。
派生その一、左遷された貴公子の恨み
平安中期の公卿・源高明が、暗号の作者候補としてもっとも古くから語られてきた。醍醐天皇の皇子として生まれながら臣籍降下し、左大臣にまで昇りつめた。華やかな経歴だ。ところが安和二年、いわゆる「安和の変」で謀反の疑いをかけられ、大宰府へ左遷される。
謀反を本当に企てた証拠は乏しく、藤原氏による政敵排除の策謀ではないかという見方が古くからある。これは一つの見立てであって、史料上で確定した話ではない。
この境遇――無実でありながら罪人として都を追われたという伝承――が、「咎無くて死す」と分かちがたく結びついた。源高明が己の無念を後世に伝えるため、いろは歌に暗号を仕込んだ。そういう物語が組み上がっていく。
まあ、落ち着いて聞いてほしい。問題は年代だ。国語学的には、いろは歌の成立は高明の没後、十世紀末から十一世紀にかけてと推定されている。本人が詠んだとするには、年代的に無理があるという指摘が根強い。
派生その二、七×七の升目に浮かぶ「かきのもとひとまろ」
もう一つの有力な派生が、万葉の歌聖・柿本人麻呂を作者に見立てる説だ。こちらは行末を読むだけでは終わらない。
いろは歌の四十七文字を、七字×七行の升目に並べる。縦、横、斜め、対角線と、あらゆる方向から文字を拾っていく。クロスワードパズルさながらの読解手法。この手法を使うと、升目の特定の位置から「かきのもとひとまろ」の名がそのまま現れるという。
話はまだ続く。五文字目の縦読みからは「ほをつのこめ」が導かれ、これを「本を津の妻へ届けよ」と読む解釈まである。私は無実の罪で殺される。この歌を津国にいる妻のもとへ届けてほしい。そういう遺言として読まれることが多い。
下敷きには、文芸評論家・梅原猛が示した仮説がある。柿本人麻呂は宮廷内の政争に敗れ、水死刑に類する処遇を受けて非業の死を遂げたのではないか、という見立てだ。人麻呂は没後に和歌の神として神格化され、歌聖と称えられた。そういう人物だ。栄光の陰に隠された悲劇の死という構図は、「咎無くて死す」と重ねやすい。
いろは歌の成立年代は人麻呂の活動期より数百年も後だと、国語学ではほぼ確実視されている。この説も、歴史的整合性の面では大きな壁に突き当たる。作者に見立てた人物のほうが歌よりずっと昔の人である以上、この説は入口の時点でつまずいている。
派生その三、升目からイエスとモーセが出てくる
もっと大胆な派生もある。いろは歌を七×七の升目として扱い、四隅や対角線を読むと「いえす」という文字列が浮かぶ。上段の頭文字を拾うと「いちよらやあゑ」となり、ヘブライ語の神名ヤハウェに通じる響きが立ち現れる。左端を縦に読むと「もせす」、つまりモーセが出てくる。
キリスト教系の古代史研究家・久保有政が、この読解を積極的に広めた。超常現象や古代史ミステリーを扱う月刊誌「ムー」の誌面でも紹介され、一般の読者層にも広く知られるようになった。
この立場では、空海が仮名文字の体系を整備する過程で宗教的暗号を意図的に埋め込んだ、という壮大な仮説が語られる。話が一気に大きくなる。その空海は、平安初期に唐からもたらされた景教の影響を受けた人物だという。景教とは、つまりネストリウス派キリスト教のことだ。
この読解は、いろは歌の成立を空海の時代まで遡らせる必要がある。上代特殊仮名遣いの区別が失われている。七五調四句形式も確立していなかった。この二点から、国語学の立場では成立し得ない仮説という扱いだ。
もう一つ、構造的な弱点も押さえておきたい。七×七の升目から縦横斜めに任意の文字列を拾い出せば、ある程度の長さなら意味ありげな並びは出てくる。この種の升目暗号は、いくらでも量産できてしまうのだ。数撃てば当たる。
派生その四、四十七という数字の一致
異体説の中でも異彩を放つ解釈がある。いろは歌の文字数「四十七」と、赤穂浪士――俗にいう四十七士――の人数を結びつけるものだ。
人形浄瑠璃・歌舞伎の演目『仮名手本忠臣蔵』は、その題名からして「仮名を手本とする」という含意を持たされている。劇中に登場する主要な武士の数も、また四十七人に揃えられている。数まで同じだ。
この符合を根拠にした解釈がある。いろは歌と赤穂浪士は最初から対応関係を意図して創作されたというのだ。ネット上のまとめサイトや個人サイトで語られることがある。
ただ、いろは歌の成立は元禄赤穂事件よりも遥かに古い。順番が合わない。歌そのものが浪士の人数に合わせて作られたという因果関係は、順序として成立しない。
実態としては逆だろう。赤穂浪士の物語を脚色する側が、すでに世に膾炙していた「いろは歌=咎無くて死す」という不吉なイメージを逆輸入した。悲劇的な仇討ち物語の題名や構成に、四十七という符合を意識的に取り込んだ。そう理解するのが自然だという見方が有力だ。
高野山の老僧が、討ち入り前の侍に授けた一句
江戸後期の雑記『黒甜瑣語』に記された逸話が、この忠臣蔵とのつながりを具体的な物語まで発展させた。舞台は高野山。
それによれば、討ち入りを控えた赤穂浪士のうち三名が、高野山に隠棲していた了覚という僧を訪ねた。仇討ちの成否について助言を仰いだのだという。了覚はいろは歌を引き合いに出し、「咎無くて死す」の一句を示した。世間から罪人として裁かれながら、実際には無実の忠義の士として死んでいく運命にある。そう暗に示唆した、という筋書きだ。
山中の庵で、老僧が静かに経を唱えながら、死地へ向かう若い侍たちに謎めいた歌の一句を授ける。実に絵になる逸話だ。
史料批判にかけると苦しい。赤穂浪士が高野山でそのような僧に面会したという記録は、他のどの一次史料にも見出せない。忠臣蔵人気が高まる中で創作された挿話である可能性が高いとされている。
それでもこの逸話は、廃れずに伝わってきた。記録の裏づけがどれほど乏しくても、話として出来がよければ人はそれを手放さないし、手放さないまま、次の聞き手へと語って渡していく。「無実の罪で裁かれる」という忠臣蔵の主題と、いろは歌の暗号があまりにも美しく共鳴してしまうからだろう。
掲示板の反応は、いつも同じ二つに割れる
こうした派生説は、インターネット上でも繰り返し話題になってきた。国語や日本史系のオンライン掲示板や個人ブログでは、いろは歌に暗号があるって本当かというスレッドがたびたび立つ。定番の話題だ。
その応酬は、判で押したように同じ形になる。行末だけ読んで「咎無くて死す」になるのは偶然にしてはできすぎ。いや七文字区切りなんて後付けの慣習だろ、こじつけに決まってる。この賛否両論が定番のパターンとして繰り返されている。決着はつかない。
国語教師や塾講師を名乗る書き手が、いろは歌に隠された暗号を教材的な切り口で紹介する記事を継続的に発表している。舞台はnote等の個人執筆プラットフォーム。
コメント欄には、こんな反応が多く並ぶ。学校で習った時は何も知らずに書いていたので怖くなった。大人になって知ると印象が変わる。
オカルト・都市伝説系のまとめブログでは、扇情的な見出しでこの話題が繰り返し取り上げられる。日本人なら知らないと恥ずかしい怖い話。実は呪いの歌だった。SNSでも定期的に「いろはにほへと の裏の意味知ってる?」という形で話題が再燃する。
動画投稿サイトの歴史・都市伝説系チャンネルにも、いろは歌の暗号を映像とナレーションで解説する内容が一定数ある。視聴者コメント欄には、こんな体験談が寄せられることもある。小学校の書道教室で先生から「いろはは最後まで書くと縁起が悪いから気をつけて」と言われたことがある。地域や教室ごとに、違う形で伝わってきたらしいのだ。
「最後の『す』まで書いたら、人に見せるな」
いろは歌は縁起が悪いから最後まで書き切ってはいけない。行末を声に出して読んではいけない。この類いの禁忌は、特定の書道教室や稽古場の言い伝えとして、地域限定的に残っていたとされる証言がいくつか見られる。
ある書道教室出身者は、師範からこう教えられたという。「いろはは最後の『す』まで書いたら、その紙を人に見せてはいけない」。祖母から「いろはにほへとを最後まで大きな声で読み上げると呼ばれてしまうものがいる」と聞かされて育ったという語りもある。個人ブログや掲示板の思い出話として、ぽつぽつと散見されるのだ。
こうした伝承がどこまで古くから存在したのか、それとも「咎無くて死す」の話が広まった後に生まれた俗信なのか。厳密に跡付けることは難しい。古い禁忌が暗号の話を呼び込んだのか、暗号の話が禁忌を生んだのか、その順番ひとつで話の見え方がまるで変わってくる。
ただ、文字の羅列そのものに呪術的な力が宿るという発想は、経文や呪文を唱える際の作法にも通じている。言葉に対する日本人の古い感覚が、ここに反映されているようにも思える。
統計に負けても、物語は積み上がり続ける
いろは歌の暗号説が持つ魅力は、これが日本だけの現象ではない点にも表れている。海の向こうにも似た話がある。
旧約聖書の文字列を一定間隔で拾い上げると、未来の出来事が予言されている。そう主張する「バイブル・コード」論がある。一九九〇年代に統計学者イリヤフ・リプスらの論文をきっかけに世界的なブームになった。書籍はベストセラーになった。
その後、統計学的な反論が出る。ランダムな長文テキストであれば、同様の手法でいくらでも意味ありげな文字列を見つけられる。そう示され、疑似科学として退けられていく。長ささえあれば、探す側の望む言葉はどこかに転がっている、という話だ。
いろは歌の「咎無くて死す」も、四十七文字という有限の文字列に、七文字区切りという一つの規則を当てはめた結果だ。統計的には、驚異的な低確率の偶然とは言いにくい。国語学者側からは、この指摘が繰り返しなされてきた。
それでも、だ。源高明の悲劇、柿本人麻呂の伝説、赤穂浪士の忠義、そして宗教的な神秘。この八文字の周りに、これだけの物語が幾重にも積み重ねられてきた。その事実そのものが、いろは歌というテキストが千年以上も日本人の生活と想像力の中心に居座り続けてきた証拠だ。
慎重派も、否定はしきれなかった
国語学者・小松英雄は、この問題を正面から検証した。その評価は、なかなか味わい深い。彼はこの暗号説を「かなりこじつけがましい」としながら、保留付きの判断を下している。「積極的にそれを否定するだけの根拠があるわけでもない」と。こじつけだと感じながらも否定しきれないと認めるあたりに、学者としての誠実さがにじんでいるように思う。
彼は同時に、はっきりと警告も発している。こういう結び付けを前提として、さらにその上に論を立てることは危険である、と。釘を刺した形だ。
七文字区切りで暗号が現れること自体は否定しにくい。そこからが問題だ。「作者は源高明だ」「これは赤穂浪士の運命を予言したものだ」のような物語を組み上げるのは、学術的には飛躍だという立場だ。この線引きは今も有効。
作者が誰だったのか、その意図が本当に暗号だったのかは、今後も確定しないかもしれない。それゆえに、この四十七文字は今も新しい語り手を迎え入れ続けている。手習いの手本が、千年かけて怪談になった。そういう話なのだ。
