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🏯 播州皿屋敷「お菊井戸」の謎――姫路城に伝わるもう一つのお菊伝説

天守の少し下、柵の向こうの暗い穴

姫路城の見学路を天守へ向かって進むと、途中で視界が開ける場所に出る。上山里曲輪という。天守閣から二段ほど下がった広場の隅に、柵で囲われた古い井戸が口を開けている。ここが、お菊井戸。

案内板には、姫路に伝わる播州皿屋敷の筋書きが、順を追って簡潔に書かれている。足を止めた客のほとんどは、恐る恐る井戸の中をのぞき込むが、そこに皿が見えるわけではない。それでも、ここがあの怪談の舞台だと思うと、暗がりから目が離せなくなる。

皿を数える幽霊の話といえば、江戸の番町が舞台の番町皿屋敷が有名だ。姫路にも、同じ型の話が古くから根を張っていて、その舞台とされるのがこの井戸だ。兵庫県立歴史博物館の解説によると、どちらが古いかは昔から議論になり、近年は姫路のほうが古いとする見方が有力になっている。

釣瓶取井戸が、お菊井戸になった日

この井戸には、意外な来歴がある。江戸時代の文献に出てくる名前は、お菊ではなく「釣瓶取井戸」だった。大正の初めに姫路城が一般公開されるようになったころから、お菊井戸と呼ばれ始めたらしい。

姫路城管理事務所の専門員は、2018年に日本経済新聞の取材へ、こう答えている。1912年に城を一般公開した際、観光の見どころとして設けたのだという。順序で言えば、伝説が先にあり、井戸の名札があとから付いた格好だ。

年代を並べると、ずれは大きい。播州皿屋敷の事件は、永正年間、つまり1504年から1521年の出来事とされる。いまの姫路城が建ったのは、池田輝政が城と城下町を築いた江戸の初め、1609年だ。築城前から井戸があった可能性はあるにせよ、お菊が投げ込まれた井戸とするには疑問が残る、と記事は書いている。

面白いのは調査の話だ。過去に本格的な調査をしようとしたことがあったという。専門員は、不気味な空気が流れて中止したという記録がある、と語る。井戸がいつからそこにあるのかも、はっきりしないままだ。

九枚で途切れる声

声の型を確かめておく。県立歴史博物館の解説では、事件の夜から井戸のあたりで「一枚、二枚、三枚」と皿を数える声が聞こえ始める。声は九枚まで続き、屋敷中にガラガラと皿の音まで鳴り響いたという。

皿は10枚ひと組。お菊の手元から1枚が消えたのだから、数えられる皿は9枚しか残らない計算になる。声が九枚で止まる理由は、勘定を合わせればすぐに分かる。十枚目は、永遠に来ない。

この型は、落語にもなった。九枚まで聞くと死ぬと隠居に教えられた若者たちが、六枚で逃げ出す噺がある。人が増えて逃げられなくなり、とうとう九枚を聞いてしまうが、死にはしない。お菊は十八枚まで数えて、「明日は休むので二日分数えました」と答える。

旅の僧がお菊の霊を慰めようと、「なんまいだー」と念仏を唱える落ちもある。お菊は「どう勘定しても、九枚でございます」と返す。怖さが駄洒落にまで化けるほど、皿を数える声は広く知れ渡っていた。

絵にも描かれた。鳥山石燕は『今昔画図続百鬼』に、お菊の霊が陰火となって井戸から現れる様子を、「皿数え」の名で描いている。月岡芳年も、1890年の『新形三十六怪撰』で、皿屋敷のお菊の霊を筆にした。

家老が欲しかったのは城だった

ここから、『姫路城史』に載っている筋に沿って話す。江戸時代の後期に書かれたと見られる『播州皿屋敷実録』を、1952年刊の『姫路城史』が要約したものだ。細部は本によって違うので、食い違いはあとでまとめて拾う。

時は永正元年、1504年。姫路を治めていた小寺氏の当主が亡くなり、若い則職が跡を継いだ。小寺氏は、播磨守護の赤松氏に仕えた重臣の家柄で、御着を拠点に勢力を広げた領主だ。その小寺氏の重臣に、青山に館を構える青山鉄山という男がいた。小寺氏に代わって自分が姫路城主になりたいと、常々考えていた野心家だ。

鉄山が動いたのは、翌年の春だった。姫路の北にある随願寺は、平安後期から播磨の安穏を祈ってきた天台宗の古い寺で、いまは梅見の名所として知られる。その花見の席で、酒に毒を仕込み、小寺一族をまとめて暗殺しようと企んだ。止めようとしたのが、息子の小五郎だ。怒った鉄山は、わが子を牢に閉じ込めた。

下女として送り込まれた女

お菊は、その鉄山の館に召使いとして住み込み、屋敷の内情を探るという危うい役目を負っていた。小寺氏が、鉄山の野望に気づいて、様子を探らせるために送り込んだ女性だ。県立歴史博物館が紹介する『姫路城史』の筋では、お菊の素性はそう語られている。

『播州皿屋敷実録』には、もう少し込み入った事情が書いてある。お菊は小寺氏の家臣、衣笠元信と恋仲で、主家への忠義から元信に命じられて青山家で働いている。小五郎のほうも、則職の妹の白妙姫と恋仲だったので、父の企てを止めようとしたのだ。

博物館の解説では、牢の小五郎をかばったお菊が、小五郎から鉄山の企みを知らされる。お菊は急いで主君の則職にそれを伝え、おかげで毒酒の企ては、すんでのところで防がれた。ここで終われば、忠義の手柄話で済んだ。

博物館は、この実録を、素朴な伝説というより現代の小説のような戯作だと評する。非道な主家や男たちの横暴に苦しむ女が、亡霊となって復讐を遂げる。この構成は、主従関係や義理に縛られていた当時の人々にとって、共感しやすい話だったようだ、と書いている。

梅雨の宴に出た十枚の皿

話はすぐに動く。それからほどなく、播磨で大名同士の大きな争いが起き、鉄山は勝ったほうについて、とうとう姫路城を占領してしまう。敗れた則職は、瀬戸内海に浮かぶ家島へ落ちのびた。

季節は梅雨。城を手に入れた鉄山は大喜びで、近くの土豪たちを集めて宴を開いた。そばをふるまうために持ち出したのが、「こもがえの具足皿」と呼ぶ10枚ひと組の皿だ。もとは小寺家の家宝だった。

鉄山の家来には、町坪弾四郎という男がいたのだ。前からお菊に好意を持っていたが、まるで相手にされず、恨んだ弾四郎は、お菊が用意するはずだった皿を1枚隠した。お菊がなくしたと疑われるように、仕組んだのだ。

皿が足りないと知った鉄山は、お菊を厳しく責めようとする。そこへ弾四郎が割って入り、なだめすかして、お菊の身柄を自分の屋敷に預かった。狙いどおりに事が運んで喜んだ弾四郎は、この機にお菊へ思いを打ち明ける。それでも、お菊は首を縦に振らない。

庭の松に吊るされた夜

怒った弾四郎は、お菊を屋敷の庭の松に吊るし上げた。散々に暴力をふるった末に、井戸へ投げ込んで殺してしまう。博物館が紹介する『姫路城史』の要約では、井戸は弾四郎の屋敷の中にある。

『播州皿屋敷実録』の筋は少し違う。弾四郎の屋敷は、姫路城の車門の近くにあった。お菊はそこで拷問を受けたあと、城内へ連れて行かれ、鉄山が見ている前で井戸に投げ込まれたという。

その夜から、井戸のあたりで皿を数える声がするようになった。人々はこの声を恐れ、井戸のある屋敷を、いつからか「皿屋敷」と呼ぶようになった。実録には、鉄山が城下の桐の馬場に構えた屋敷の井戸からも、同じ声が聞こえたとある。

報いは順番にやって来た

やがて則職は、味方についた大名の助けを得て、姫路城を取り返した。鉄山は討ち死にする。息子の小五郎は、父の行いを恥じて、自ら命を絶った。

弾四郎は、隠していた皿を持って降伏を願い出た。則職は、それを許さない。室津にいたお菊の妹二人が仇討ちを願い出ると、則職はそれを聞き入れ、弾四郎を討たせている。

則職は、姫路の十二所神社の境内に社を建て、お菊を祀った。お菊の亡霊は虫になり、命日が来るたびに現れる。筋は、そう結ばれる。虫の話は、のちほどもう一度出てくる。

別の筋では、お菊は愛妾だった

姫路市の公式サイトが紹介する筋は、少し違う。城主小寺則職の執権が青山鉄山で、乗っ取りに気づいた忠臣の衣笠元信が、愛妾のお菊を女中として青山家へ送り込む。クーデターは成功し、元信は龍野へ逃れた。お菊は青山家に残って、元信に情報を送り続けた。

そのお菊の正体を、町坪弾四郎が嗅ぎつける。弾四郎はそれを盾に、結婚を迫った。お菊は首を縦に振らない。腹を立てた弾四郎は、家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末だと責め殺して井戸に投げ込んだ。

のちに元信ら忠臣が、鉄山一味を滅ぼす。お菊は「於菊大明神」として、十二所神社の境内にあるお菊神社に祀られた。同じ事件を語っているのに、お菊の立場が女中から愛妾へ変わっている。

神社の由来碑には、また別の書きぶりがある。お菊は小寺則職に仕え、病気の平癒を祈って十二所神社へ日参していた。お家横領の企みも探り出した。

逆臣の鉄山らは、小寺家の家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊を皿改めの場へ引きずり出す。年は1505年、永正2年。城内の古井戸で、21歳のお菊は惨死した。

幕末に書かれた『播州皿屋鋪細記』など、お菊の伝説を伝える本はほかにもある。家宝の皿の詮議にからめて、お家騒動やお菊に横恋慕する家臣の話が加わり、物語はどんどん複雑になった。日本経済新聞の記事は、いずれも発生当時の記録ではなく、言い伝えを書き留めたものだと書く。

年も立場も、井戸の場所も、筋ごとにそろっていない。ただ、皿を隠されて罪を着せられ、井戸で命を落とす。この骨組みだけは、どの筋にも出てくる。

嘉吉の乱のあとに、花野という女がいた

最も古い形を残すのは、『竹叟夜話』に載った話だと見られている。天正5年、1577年に永良竹叟という人物が著したとの奥書がある。これが本当なら、播州皿屋敷を載せた現存最古の本になる。県立歴史博物館によれば、近年はこの奥書に注目して、播州のほうが番町より古いとする見方が有力になった。

舞台は、播磨を山名氏が守っていた室町時代の後半だ。時期は嘉吉の乱の1441年のあと、とされ、書かれた時から数えて130年ほどさかのぼる。現場は青山にあった、山名氏重臣の小田垣主馬助の館だ。

ヒロインはお菊ではなく、花野という。皿でもない。主君の山名氏から拝領した、5枚ひと組の鮑貝の杯だった。花野に恋文を送り続けて断られていたのが、若い郷士の笠寺新右衛門だ。杯が1つ足りないと小田垣が騒いだとき、隠していたのは新右衛門だった。

新右衛門は意趣返しに花野を折檻し、ついには松の木にくくり上げて殺した。その松は「首くくりの松」と呼ばれる。花野の怨念は、毎夜のように仇をなしたという。

お気づきの通り、井戸が出てこない。皿は杯で、ヒロインの名前も違う。それでも、隠された物、断られた男、松、怨霊と、骨組みは播州皿屋敷にそっくりだ。博物館は、お菊の名と10枚の皿がいつ重なったのか、その過程は現在のところはっきりしないと書く。

悪役の名前にも種がある。竹叟夜話の小田垣は、実在した山名氏の重臣で、播磨守護代の一人だった太田垣主殿助がモデルらしい。その小田垣が青山にいたという話から、青山鉄山という悪役が作られたのではないか、と博物館は見る。

青山に山名氏が拠点を持っていたことは、同時代の史料では確認できない。ただ、現地には、山名宗全の菩提寺だったと伝わる宗全寺の跡や、山名氏の館があったという小丸山が残る。太田垣氏の菩提寺だったという法灯寺の跡もあり、山名氏にまつわる伝承が濃い。

梅雨の松は、お菊より先にそこにあった

話の最後に出てくる梅雨の松は、姫路に実在した木だ。江戸時代の中ごろまで、中堀と船場川にはさまれた車門の外の一角に立っていた。梅雨になると枯れ、梅雨が明けると緑に戻る、不思議な松だった。

お菊が吊るされた松、と伝わる。ところが1762年にできた『播磨鑑』は、元和年間に姫路藩士が植えた木だと書く。元和年間は、1615年から1624年だ。お菊との関わりには一言も触れず、純粋に不思議な木として紹介している。

名物の松が先で、皿屋敷の話があと。博物館はそう見る。地名も同じ事情だ。車門も桐の馬場も、江戸の初めに池田輝政が今の姫路城と城下町を築いてからの呼び名で、戦国の昔には存在しなかった。だから博物館は、これはあくまで江戸時代の戯作として、事実と混同せずに楽しんだほうがよい、と書いている。

後ろ手に縛られた蛹

お菊の亡霊は虫になる。そう語る筋がいくつもあって、その虫を「お菊虫」と呼ぶ。正体はジャコウアゲハの蛹。後ろ手に縛られた女のように見える形で、体には口紅に似た斑点がある。他の蛹にはない特徴だという。

姫路では、夏の縁日で売られたらしい。戦前は土産物にもなった。姫路土産は明珍火箸に、お菊虫。志賀直哉も『暗夜行路』にこの土産を書いている、と神戸新聞の連載は伝える。

明治42年2月の神戸新聞付録の怪談号にも、姫路の名産として桐の箱に入れて駅などで売っている、という記事が出た。記事の趣旨は、お菊の亡霊などではなくアゲハの蛹だ、という種明かしだった。湯本豪一編の明治期怪異妖怪記事の資料集成に、収められている。

絵にも描かれた。『絵本百物語』には、竹原春泉が描いたお菊虫が載る。川崎巨泉の玩具絵もあり、姫路文学館の皿屋敷の展覧会で紹介された。

姫路市は1989年、市制100周年の年に、ジャコウアゲハを市の蝶に決めた。理由の一つが、お菊虫だ。もう一つは、姫路城の瓦に池田輝政の家紋の揚羽蝶が多く使われていること。幼虫はウマノスズクサを食べ、ミカンなどの農作物は荒らさない。成虫は山女郎の別名にふさわしく、優雅に飛ぶ。

1795年、二つの井戸で同じ年に

寛政7年、1795年。姫路と尼崎の井戸で、お菊虫が大発生した。その騒ぎの記録が残る。尼崎市の図書館だよりによれば、この年のお菊虫の記事が『播州名所図絵』の巻之四に載っている。加東市の旧滝野町にも、お菊虫の伝説があるという。

尼崎の話は、播州とは筋が違う。舞台は大物にある深正院。時は元禄、17世紀の末だ。

尼崎藩主の青山氏に仕える家老の屋敷に、お菊という侍女が奉公していた。家老は思いを寄せたが、断られる。嫉妬した家老の妻が、お菊を陥れようと家老の飯に針を入れた。

給仕をしたのはお菊だった。怒った家老は、お菊を井戸へ投げ込んで殺す。お菊の母も後を追って身投げし、家老の家は不幸が続いて没落した。皿ではなく、針の話。

その100年後の寛政7年、お菊が殺された井戸から、女が縛られたような姿の蛹が庭の葉におびただしく湧いた。人々は祟りだと恐れた。寺には、菊の花が咲かなかったともいう。

伝承の家老の名は、資料によって木田玄蕃、喜多玄蕃と揺れるが、青山氏の家老という立場だけは動かない。実在したのは、青山氏の筆頭家老だった貴田玄蕃だ。国立国会図書館の調査では、貴田氏は断絶どころか、代々青山氏に仕えて重きをなした。伝承とは大違いだ。

1711年、松平氏が尼崎城主になると、菩提寺の深正院を貴田屋敷の跡に建てている。表門は元の家老屋敷の門を使ったという。境内には、石の板でふたをした井戸跡がある。住職は、国道43号で水脈が切れるまで、墓参りに使われていたと伝え聞くそうだ。

青山という名字は、ここにも出てくる。尼崎藩主の青山氏は、番町皿屋敷の青山と違って、実在の人物だ。博物館は、尼崎のお菊伝説は、姫路の悪役青山鉄山と名字が共通するところから出来上がったと見る。

番町の青山は、作られた名だった

江戸の番町皿屋敷で悪役を張る青山は、架空の人物。名は青山主膳といい、天樹院、つまり千姫の屋敷跡に住んだ火付盗賊改として語られるのが定番だ。江戸を舞台にしたまとまった物語の始まりは、1758年、宝暦8年に講釈師の馬場文耕が書いた『皿屋舗辨疑録』とされる。

辨疑録は、前置きが長い。将軍家光の姉の天樹院が暮らした吉田御殿の井戸に、女中らの亡骸が捨てられたという噂を載せる。「小路町の井戸」と恐れられ、のちに荒れ屋敷になった。更屋敷と呼ばれた空き屋敷が、皿屋敷に化けたという説明まで出てくる。

皿を損じて殺される部分は、江戸の逸話に先に見つかる。1712年の『当世智恵鑑』には、牛込の服部氏の妻が、妾が南京の皿10枚のうち1枚を割ったことを咎めて殺す話が載る。1732年の記録には、牛込御門の下女が皿を1つ井戸へ落として殺され、夜ごと「一つより九つまで」数える声が聞こえるとある。

舞台のほうは、播州が先に動いた。1720年、享保5年に、京都の榊山四郎十郎座が『播州錦皿九枚館』を上演している。台本は残っていないが、役割番付から、皿屋敷伝説を完全な形で劇にしたものと見られる。1741年に大坂の豊竹座で初演された浄瑠璃『播州皿屋舗』は、台本が残る皿屋敷ものでは最古だ。

この浄瑠璃は、長く上演が途絶えていた。2016年に淡路人形座が、「青山館の段」を復活上演し、その後も再演を重ねている。約80年ぶりの上演だったという。

いまの番町皿屋敷の姿は、さらに後になる。岡本綺堂の戯曲が、1916年2月に東京の本郷座で初演された。青山播磨を慕うお菊が、心を試そうと家宝の皿をわざと割り、それを知った播磨が、疑われた無念からお菊を斬る。お菊の亡霊は、不在。恋の悲劇に作り替えたところが新しかった、と事典は書く。

元祖はどこか、決着は付いていない

では、どちらが本家なのか。県立歴史博物館の見方は、竹叟夜話の奥書をよりどころに、播州のほうが古いというものだ。『姫路城史』を書いた郷土史家は、太田垣家に起きた事件が原点ではないか、と考えた。

反対側の声もある。三田村鳶魚は、もともと皿の要素がない竹叟夜話の話を、皿屋敷の源とは認めなかった。皿を損じて死ぬ筋は江戸の逸話に先に出る、という指摘もある。江戸時代の随筆の時代から、どれが元なのかは分からず、いまも決め手は見つかっていない。

姫路文学館の学芸員は、お菊はどこにでもいるような女性で、土地土地の物語を引き寄せたとみる。似た話が全国に散らばった理由を、そう読むわけだ。2002年に出た『日本の皿屋敷伝説』は、岩手から鹿児島まで、48か所の伝承地を紹介している。

兵庫県内でも、佐用町の口長谷にはお菊の墓があり、背後の利神城跡には、お菊が身を投げたという井戸がある。国指定史跡の山城で、江戸の初めに廃城になった。子孫という旧家が位牌や墓を守り、地元では元祖と信じられていたらしい。

福岡には、お菊の打ち掛けや墓が伝わる皿屋敷伝説がある。後日談では、お菊の恋人が巡礼に出て、播磨に住み着く。福岡藩主の黒田氏が小寺氏の家臣だった縁で伝わったと見られる。滋賀の彦根にも長久寺があり、お菊の墓石と、割られたという皿が伝わる。

柳田国男は、上州の妙義山麓の小幡氏に、似た口碑があると指摘した。原因は皿ではなく飯碗に入った針で、祟りを恐れて菊作りを禁じたという。その小幡氏の末流が、1640年に姫路城主の松平氏に召し抱えられた。『六臣譚筆』は、姫路城下の小幡屋敷にお菊の墓があると記す。この墓は、いまは確認できない。

十二所神社の裏鬼門で

姫路城の南西、裏鬼門に当たる所に、十二所神社がある。医薬の神、少彦名命を祀る社だ。その境内に、お菊を祀るお菊神社が建つ。

境内の案内板には、皿にちなんで、飲食店関係の人々が皿に願いを書いて奉納すると霊験がある、と記されている。奉納された木像も並ぶ。木像は左から、小寺則職、お菊、青山鉄山。

古さには、要注意。幕末に姫路藩士が書いた『村翁夜話集』は、「是ハ近年祭リヨシ」と記す。伝説の戦国時代までは、さかのぼれそうにない。ただ、1741年の浄瑠璃『播州皿屋敷』には、お菊が十二所神社の境内に祀られるとあるので、社の存在はそのころまで届くようだ。

お菊を縛った松の断片や縄、具足皿も、神社にはあったという。姫路大空襲で焼けた。いまの社は、1960年の再建だ。

毎年5月には、お菊まつりがある。もとは命日の5月8日に行っていたという。氏子が玉串を捧げ、三味線に乗せて、人形劇の『播州皿屋敷』が奉納される。

怖がられる側だったお菊は、明治になって、主家に尽くした烈女として光を浴びた。播磨学研究所の研究員は、湊川神社や大石神社のように忠臣がもてはやされた時代だったからだ、と推測する。神社の宮司も、明治初めの愛国思想の中で、お菊への信仰が高まったのではと話している。

由来碑には、お菊の最期が刻まれている。皿を数える声のことは、一行も書かれていない。

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