氷河が痩せると、山は隠していたものを吐き出す。ふつうは登山靴の片方とか、色あせたザックとか、運が悪ければ何十年か前の遭難者の骨だ。ところが一九九一年の秋、エッツタール・アルプスの稜線が吐き出したのは、五三〇〇年ぶりに外気に触れた一人の男だった。しかも背中に矢が刺さったままの。
彼の名はエッツィ。学術的には「ティロルのアイスマン」とか「シミラウンのミイラ」とか呼ばれる。世界最古の自然ミイラのひとつであり、そして――ここが本題なのだが――記録に残る限り世界最古の「未解決殺人事件」の被害者である。
この記事では、その男が死ぬまでの最後の四十八時間を、判明しているかぎりの証拠から全部つなぎ直す。ついでに、発見当日の間抜けで残酷な四日間、イタリアとオーストリアの国境をめぐる綱引き、六一個の入れ墨、腸のなかの寄生虫、二度ひっくり返ったゲノム解析、そして「アイスマンの呪い」とかいう例の噂も、一個ずつ潰していく。長い。覚悟してほしい。
一九九一年九月十九日、ティゼンヨッホで起きたこと
その日、ニュルンベルクから来たヘルムート・ジーモンとエリカ・ジーモンの夫妻は、シミラウン小屋を出て稜線を歩いていた。ヘルムートは五十代の元警察官で、山歩きが趣味の男。エリカはその妻。二人ともいわゆる本格的なアルピニストではなく、山が好きな中年夫婦、という表現が一番近い。
一九九一年の夏はやたら暑かった。加えて、サハラ砂漠から飛んできた砂塵がアルプスの雪面に積もり、雪の反射率を落としていた。黒っぽくなった雪は太陽熱をよく吸う。その年、アルプスの氷は例年よりずっと激しく融けた。この「サハラの砂」という偶然がなければ、エッツィは今も氷の底にいたかもしれない。
午後一時半ごろ、標高約三二一〇メートルのティゼンヨッホ付近。夫妻は道を外れて岩場のショートカットを試みた。融け残った雪と水たまりの向こうに、茶色いものが見えた。最初は、ゴミだと思ったという。誰かが捨てた人形か、朽ちた樹の根か。近づいて、二人は固まった。うつ伏せの人間の後頭部と、むきだしの肩甲骨だった。腰から下はまだ氷のなかに固定されている。皮膚は革のように黒ずみ、乾ききっていた。
ヘルムートは冷静な男だった。ザックからカメラを出して一枚だけ撮った。この一枚が、のちに何年もの法廷闘争の証拠になる。撮影後、二人はしばらく現場を見下ろしていた。エリカは後年、「登山中に落ちて亡くなった人だと思った。かわいそうに、と言い合った」と語っている。夫妻の頭のなかにあったのは「今年か去年の遭難者」であって、まかり間違っても新石器時代の男ではなかった。
そして、これは正直な話だが、二人は少し迷った。通報すればバカンスが警察の事情聴取で潰れる。だが結局、一時間ほど下ったシミラウン小屋に立ち寄り、小屋番のマルクス・ピルパマーに伝えた。ピルパマーはすぐにオーストリア側とイタリア側の両方の警察に電話を入れた。ここから、考古学史に残る大惨事が始まる。
掘り出し方が最悪だった――四日間の泥沼
九月二十日。オーストリア警察のアントン・コーラー巡査が現場に上がってきた。相手は「よくある山の遺体」である。丁重に扱う理由も、時間をかける理由も、彼らの頭にはなかった。
まず、空気圧式の削岩機が持ち込まれた。氷ごと遺体を切り出そうとしたのだ。ところが刃先が滑り、遺体の左の腰にきれいな穴を開けてしまった。この穴は今も遺体に残っている。五三〇〇年ぶりに人類がアイスマンに与えた最初の傷が、削岩機の穴だった。さらに悪いことに、コンプレッサーの燃料が切れた。天候も崩れた。作業は中断。この日回収できたのは、氷の外に落ちていた斧だけだ。
九月二十一日。二度目の試み。この日、現場には登山家のラインホルト・メスナーとハンス・カンマーランダーが偶然通りかかっている。八〇〇〇メートル峰十四座を無酸素で登った、あのメスナーだ。彼は遺体を一目見て、「これは最近のものじゃない。少なくとも五〇〇年、いや、もっと古い」と言ったと伝えられる。素人目にも、装備の様子が明らかにおかしかった。だが、その助言が現場の作業手順を変えることはなかった。
九月二十三日。ついに遺体は氷から引き剥がされる。このときの手口が本当にひどい。作業員はまず、遺体のそばに突き刺さっていた「長い棒」を掴んで、テコにして遺体をこじった。この棒は、のちに一・八二メートルのイチイ材の未完成の弓だと判明する。世界最古級の弓を、バールとして使ったわけだ。次に、氷から出ていた衣服の切れ端を掴んで引っぱった。五三〇〇年もった皮革は、その瞬間に細切れになった。最後に、遺体を無理やり棺に押し込む段階で、左腕が折れた。今もエッツィの左腕は胸の前を横切る不自然な角度で固定されているが、あの姿勢の一部はこのときの破壊による。
遺体はヘリコプターでオーストリア側のフェントへ、そこからインスブルックの法医学研究所へ運ばれた。移送中、遺体袋のジッパーの隙間から、乾いた皮膚に空気が触れつづけた。安置所では報道カメラマンが次々に入った。数日のうちに、皮膚の表面にはカビが広がりはじめる。
九月二十四日、ようやく考古学者のコンラート・シュピントラーが呼ばれ、斧と弓を見て「少なくとも四〇〇〇年前」と口にした。この時点で全員の血の気が引いた。放射性炭素年代測定は四つの研究機関で並行して行われ、結果は紀元前三三五〇年から三一〇〇年ごろ。ギザの大ピラミッドより五〇〇年から八〇〇年古く、ストーンヘンジの環状列石より六〇〇年ほど古い男だった。
国境から九二・五六メートル――遺体はどっちの国のものか
発見地点は、イタリアとオーストリアの国境稜線のまさに上だった。エッツタール・アルプスという地名から、オーストリアの新聞記者がふざけて「エッツィ」と呼びはじめ、その愛称が定着する。ところが遺体はインスブルック、つまりオーストリアにある。イタリア側は当然、黙っていない。
一九九一年十月二日、両国の測量官が氷上に立った。第一次世界大戦後に引かれた国境線と、遺体があった正確な座標を突き合わせる。結果は、イタリア領内へ九二・五六メートル。あと九三メートル北にずれていれば、エッツィは今ごろインスブルックにいた。九二・五六という半端な数字が、この男の国籍を決めた。
とはいえ、遺体はすぐには動かなかった。イタリア側に受け入れ設備がなかったからだ。ボルツァーノに南チロル考古学博物館が整備され、遺体が正式に引き渡されたのは一九九八年一月。発見から六年以上が経っていた。この空白期間に行われた研究の主導権をめぐって、オーストリアとイタリアの学界には長く尾を引く感情のもつれが残った。エッツィは死後五三〇〇年たっても、まだ人間同士を揉めさせている。
一〇年間、彼はただの「凍死した男」だった
一九九〇年代を通じて、エッツィの死因は「疲労凍死」で固まっていた。この筋書きを組み立てたのが、最初に呼ばれた考古学者シュピントラーである。彼のいわゆる「災厄説」はこうだ。
エッツィは南の谷の村で暴力沙汰に巻き込まれた。装備の多くが壊れていたり未完成だったりするのは、慌てて逃げ出したからだ。彼は追われて山を登り、秋の峠で力尽き、岩の窪みに横たわって死んだ。その直後に雪が降り積もり、遺体は急速に凍結乾燥した。そのうえに氷河が乗り、窪みが「タイムカプセル」となって五三〇〇年間、氷河の流動から遺体を守った――。
物語としてよくできている。だから広く受け入れられた。だが、この説は二〇〇〇年代に入って、証拠のほうから順番に崩されていく。
二〇〇一年、レントゲンに写った小さな三角形
転機は二〇〇一年六月。ボルツァーノの放射線科医パウル・ゴステナーが、日常的な追加X線撮影の画像を眺めていて、左肩のあたりに違和感を覚えた。骨でも金属でもない、しかし明らかに周囲より高密度な、二センチほどの三角形の影。
フリント製の矢じりだった。
これで、この遺体の意味が一夜にして変わった。凍死した気の毒な旅人が、殺人事件の被害者になった。矢じりは背中側から左肩甲骨の下を貫き、体内に残っていた。入射角から、射手はエッツィの後方かつ下方、つまり斜面の下からやや見上げる位置にいたと推定される。
二〇〇五年から二〇〇七年にかけて、チューリヒ大学のフランク・リューリらのチームが高解像度CTで矢じりの周辺を精査した。判明したのは、矢じりが左鎖骨下動脈に約一センチの裂け目を作っているということ。鎖骨下動脈は、心臓から腕へ向かう太い血管だ。ここが切れれば、胸腔内に大量の血が漏れ出す。実際、周囲には大きな血腫が確認された。外に流れた血はわずかで、出血のほとんどは体内で起きていた。
二〇一二年、ナノテクノロジーを使った研究がさらに決定的な絵を描いた。傷口周辺の組織を原子間力顕微鏡で走査したところ、赤血球特有のドーナツ状の構造が保存された状態で見つかった。しかも、血液凝固に関わるフィブリンが検出された。フィブリンは出血直後に大量に現れ、時間が経つと分解される。つまり、エッツィは撃たれてから「数分から数十分」で死んでいる。傷が治りかけた形跡は一切ない。
そして、矢柄がない。矢じりだけが体内に残り、シャフトはどこにもなかった。犯人が抜き取って持ち帰ったと考えるのが自然だ。石の矢じりは折れて体内に残ったが、木の矢柄には作り手の癖が出る。羽根の付け方、シャフトの木材、削り跡。誰の矢か特定されうるものを、犯人は現場から消した。この一点だけで、これは事故ではなく、隠蔽の意思のある殺人だとわかる。
傷はもっとあった――右手の切創と頭部外傷
二〇〇三年、エッツィの右手に深い切創が見つかった。親指と人差し指のあいだ、いわゆる母指球の付け根から手のひらにかけて、刃物によるものと考えられる傷。しかも、腱に届くほど深い。
効いてくるのは、この傷が「治りかけていた」という点だ。組織の反応から、負傷は死の一日から二日前と推定された。位置と形状は典型的な防御創である。相手の刃を素手で受け止めた、あるいは掴んだときにできる傷だ。犯罪捜査の世界では、こういう傷は「積極的防御創」と呼ばれ、被害者が反撃していたことを示す。
さらに頭部。後頭部の脳に、暗い変色が見つかった。前頭部への打撃で脳が頭蓋の後ろ側に叩きつけられる「対側損傷」の典型パターンである。ただし、この頭部外傷が矢の前なのか後なのかで、話がまるで変わる。矢を受けて倒れた際に岩で頭を打ったのなら、犯人は一人の射手で足りる。矢の後にわざわざ近づいて頭を殴ったのなら、それは止めを刺す行為であり、犯人像はぐっと冷酷になる。この論点は現在も決着していない。
最後の食事――アイベックスの脂、アカシカ、ヒトツブコムギ、そして毒シダ
長らく、エッツィの胃は「空だ」と思われていた。ミイラ化の過程で胃が上方に押し上げられ、CT画像で肋骨の裏に隠れていたためだ。二〇〇九年になってようやく、満杯の胃が見つかる。しかも、驚くほど中身が詰まっていた。
二〇一八年七月、ユーラック研究所ミイラ研究所のフランク・マイクスナーとアルベルト・ツィンクらのチームが、その内容物のDNA、タンパク質、脂質、炭水化物を総ざらいした結果を発表した。メニューはこうだ。
アルプスアイベックスの肉と、大量の脂肪組織。アカシカの肉。ヒトツブコムギ、それも製粉されていない粒のままのもの。そして、ワラビの痕跡。
とにかく脂が多い。摂取カロリーの半分近くが脂質だったと見られる。高地で体温を維持しながら歩くには理にかなった食事だ。肉の筋繊維が壊れずに残っていたことから、加熱は摂氏六〇度未満、つまり煮炊きではなく風乾か軽い燻製だったとわかる。干し肉である。
問題はワラビだ。ワラビには発がん性のあるプタキロシドという毒が含まれ、生食すれば中毒を起こす。なぜ食べたのか。研究チームが挙げた説は二つ。ひとつは、腸内の寄生虫を駆除する民間薬として意図的に摂った可能性。もうひとつは、干し肉を包む葉としてワラビを使い、その破片が混入しただけという可能性。どちらが正しいかはわからない。ただ、彼が腹の中に寄生虫を飼っていたのは事実なので、前者だとしたらなかなか切実な話になる。
そしてこの食事の時刻。消化の進行度から、彼が食べ終えたのは死の三十分前から二時間前のあいだ。つまり彼は、腹いっぱいになった直後に撃たれている。逃走中の人間が、標高三二〇〇メートルの吹きさらしで腰を据えて脂っこい飯を食うだろうか。この一点が、後述する「逃走説」の最大の弱点になる。
花粉とコケが描いた「最後の三三時間」
インスブルック大学の古植物学者クラウス・エッグルは、エッツィの消化管を三か所に分けてサンプリングし、それぞれに含まれる花粉を数えるという地味で執念深い仕事をやった。食べ物は消化管を順に下っていくから、下のほうにあるものほど古い。つまり消化管は、そのまま時間軸になる。
直腸から下部結腸、いちばん古い区画。ここからは松とトウヒの花粉が出た。針葉樹林の上限、標高およそ二五〇〇メートル付近。死の約三十三時間前。
中部結腸。ここでホップハコヤナギ、つまりアサダの仲間の花粉が大量に出た。この木は標高一二〇〇メートル以下、谷底の斜面にしか生えない。しかも花粉は開花期のもので、細胞質が残った新鮮な状態だった。ということは、彼はこの花粉を吸ったり飲んだりした時、まさに谷底にいた。死の九時間から十二時間前。
上部消化管、いちばん新しい区画。ふたたび亜高山帯の針葉樹林の花粉。
並べ直すと、こうなる。彼は死の一日半前に高所の森林限界付近にいた。そこから一気に谷底まで下りた。そして数時間のうちに、もう一度三二〇〇メートルの峠まで登り返した。標高差にして二〇〇〇メートル以上を、二日足らずで上下している。四十代半ばの、関節を痛めた男が、である。
コケの証拠もこれを裏づける。グラスゴー大学のジェイムズ・ディクソンらが遺体と周辺から採取したコケ類とゼニゴケ類は七五種。うち現地に自生するものは三割ほどしかない。残りは彼が下から持ち上げてきたものだ。腸のなかからはミズゴケの一種であるスファグヌム・アフィネが見つかった。これは南チロルのヴィンシュガウ谷あたりの湿地に生える種で、彼の故郷を示唆する。同時に、ミズゴケは吸水性と弱い抗菌性があり、古今東西で傷の手当てに使われてきた。右手の深い切創を、彼がミズゴケで押さえていた可能性は十分にある。
また、低地の樹林に生えるネッケラ・コンプラナタも腸から出た。そして植物遺存体の分布から、彼が谷を登り返す際に通ったのは、シュナルス谷北西のクルツラス方面、狭い峡谷ルートだったと推定されている。ディクソンはこう述べている。峡谷は最も体力を消耗するルートだが、逃げている人間にとっては最も身を隠せるルートでもある、と。
装備一式を全部並べてみる
エッツィが世界的に注目されるのは、遺体そのもの以上に、生活道具が丸ごと一式そろって出てきたからだ。銅器時代の人間が実際に山へ持って出たものの完全なリストが、これ一件しかない。
まず銅の斧。純度九九・七パーセントの銅の刃を、六〇センチほどのイチイ材の柄に、シラカバのタールと革ひもで固定してある。銅器時代の斧としては世界で唯一、柄まで完全な状態で残った個体だ。二〇一七年の同位体分析で、この銅が南トスカーナの鉱山産だと判明した。アルプスにも銅鉱床はあるのに、わざわざ数百キロ南から運ばれた金属である。当時としてはとんでもない高級品で、実用品というより地位の象徴に近い。
フリントの短剣。刃渡り十三センチほど、トネリコの柄に動物の腱で固定。菩提樹の靭皮で編んだ鞘つき。刃が小さいのは研ぎ減った結果で、日常的に使い込まれていた。
イチイ材の弓。長さ一・八二メートル。ほぼ完成しているが、表面の仕上げと弦の取り付けが済んでいない。つまり、使えない。
矢筒。シカ革製でハシバミの棒で補強。中身は矢柄十二本と、完成した矢が二本だけ。完成矢はガマズミとミズキの枝を使い、フリントの鏃を植物繊維で結び、羽根がついている。有効射程は三十から五十メートル。つまり、彼は矢筒を背負っていながら、実質二射しかできない状態だった。
レタッチャー。長さ十二センチの菩提樹の枝の先に、硬く叩き締めた鹿角の芯を差し込んだ道具。フリントの刃先を微調整する専用工具で、エッツィが出るまで存在すら知られていなかった。
シラカバ樹皮の容器が二つ。直径十五から十八センチ、高さ二十センチほどの円筒形で、一枚の樹皮を巻いて縫い合わせてある。うちひとつには、ノルウェーカエデの葉に包んだ炭火の残りが入っていた。火種を運ぶための容器だ。この葉が緑の状態で摘まれていたことも、死亡時期を初夏と見る根拠のひとつになっている。
ハシバミのU字型の棒と板でできた背負子。革のポーチには火打石、削器、錐、そして火口。火口には二種類のキノコが使われていた。ツリガネタケは火起こし用。もう一方のカンバタケは、革ひもに通して別に持たれており、抗菌作用と駆虫作用があることから、薬として携行していたと考えられている。腸内の寄生虫を思い出してほしい。彼はそれを自覚し、対処していたのかもしれない。
衣類も驚くほど作り込まれている。ヒグマの毛皮の帽子に顎ひも。ヤギとヒツジの革を縦縞に継ぎ合わせた上着。ヤギ革のレギンス。子牛革のベルト。草を編んだマント。靴は熊革の底に鹿革の甲、内側に菩提樹の靭皮のネットを張って乾草を詰め込む構造で、実験考古学者が復元品で雪上を歩いたところ、現代の登山靴に匹敵する保温性を示した。
面白いのは、これらの多くが「修理されている」ことだ。しかも急ごしらえの草の繊維で。彼は装備の傷んだ部分を、間に合わせで縫い直しながら移動していた。
六一個の入れ墨と「石器時代の鍼」説
エッツィの皮膚は五三〇〇年で黒く変色しており、肉眼では入れ墨がほとんど見えない。二〇一五年、南チロル考古学博物館とユーラック研究所のチームが多波長のマルチスペクトル撮影で全身を走査し、ついに正確な数と位置を確定させた。六一個。
模様は単純で、二本から四本の平行な短い線と、いくつかのバツ印。針で色素を注入する現代の刺青とは違い、皮膚を浅く切開して炭の粉末をすり込む方式だ。だから炭素分析で「墨」の正体まで割れている。
分布が異様に偏っている。腰椎の左右、両膝の内外、足首、ふくらはぎ、手首。要するに、関節と、体重を支える部位である。二〇一五年の走査では、胸郭の右側にも新たに一個見つかった。ここだけは関節ではない。
ここから出てきたのが「石器時代の鍼治療」説だ。入れ墨の位置を東洋医学の経穴図に重ねると、腰痛に用いられる胃兪、三焦兪、腎兪、あるいは足首の崑崙といったツボと、かなりの数が一致する。エッツィのX線には重度の腰椎の変性と関節症が写っており、痛みを抱えていたのは確実だ。だとすれば、これは装飾ではなく治療痕だという解釈は筋が通る。もしそうなら、鍼灸の起源とされる時代を二〇〇〇年以上さかのぼることになる。
もちろん反論もある。経穴図というのは全身に数百点あるので、体のどこに点を打っても何かのツボに当たってしまう、というのが最も強い批判だ。また、東洋医学の体系がアルプスに存在した証拠は皆無で、たまたま「痛いところに印を付けた」だけかもしれない。痛む部位に印を刻むという行為は、体系的な医学理論がなくても人類が独立に思いつく。二〇二四年から二〇二五年にかけての研究では、刺入具の再現実験から、施術には骨か銅の細い錐が使われた可能性が示された。デンマークの彫師コリン・デイルが同じ手法で自らの体に再現するという実験も行われている。
胸郭の一個については、心臓か胸の痛みへの対処ではないかという説がある。ただしこれも推測の域を出ない。
体内は病気の見本市だった
エッツィの健康状態は、率直に言ってボロボロだ。
腸内には鞭虫が寄生していた。虫卵が確認されている。膝、股関節、肩、脊椎に変形性関節症。歯には虫歯と重度の歯周病。爪にはボー線条と呼ばれる横溝が三本刻まれており、これは重い病気や強い栄養ストレスを受けたときにできる。溝の間隔から、死の直前の半年間に少なくとも三回、体調を崩していたことがわかる。最後の一回は死の約二か月前。肺は煤で黒ずんでいた。屋内の焚き火の煙を長年吸い続けた結果だ。肋骨には治癒した骨折。血管には動脈硬化の石灰化。
二〇一六年、ユーラック研究所とマックス・プランク研究所などの共同チームが、彼の胃の内容物からピロリ菌の全ゲノムを再構成した。五三〇〇年前の細菌ゲノムである。しかも、出てきた株が予想外だった。現代ヨーロッパのピロリ菌はアフリカ型とアジア型の混成体だが、エッツィのそれはほぼ純粋なアジア型だった。ヨハネス・クラウゼはこう指摘する。初期農耕民であるエッツィがアジア型を持っていたということは、現在のヨーロッパ型を生んだアフリカ由来の集団流入は、エッツィより後に起きたはずだ、と。胃の中の細菌一匹が、ヨーロッパ人の移住史のタイムラインを書き換えた。しかもこの株は毒性の強い遺伝子群を備えており、胃の粘膜組織に炎症関連のタンパク質も検出された。彼はおそらく胃を痛めていた。
二〇一二年には、骨盤の骨から採取したDNAのなかにボレリア・ブルグドルフェリ、つまりライム病の病原体の配列が見つかった。人類最古のライム病症例ということになる。ダニに刺されて感染する病気で、関節痛を引き起こす。彼の関節症の一部は、あるいはこれが原因かもしれない。ただし、この検出については混入や誤同定を疑う専門家もいて、完全な合意には至っていない。
ゲノムは二度ひっくり返った
二〇一二年、初の全ゲノム解析の結果が発表された。血液型はO型。乳糖不耐。父系はハプログループのG2a系統で、これは現在のヨーロッパ本土ではほぼ絶滅し、サルデーニャ島とコルシカ島に濃く残る系統だ。母系のミトコンドリアDNAはK1系統のうち、現代人に見つからない独自の枝。心血管疾患のリスク遺伝子を複数保有。そして、肌は白く、髪と目は茶色、というのが当時の結論だった。
この「白い肌に茶色い長髪」という復元像が、その後十年以上、教科書と博物館とドキュメンタリーを支配した。ボルツァーノの博物館に置かれた等身大復元模型も、しわ深い顔に豊かな髪とひげをたくわえた、いかにも「ヨーロッパの原人」といういでたちだった。
二〇二三年八月、それが全部ひっくり返る。
マックス・プランク進化人類学研究所とユーラック研究所の合同チームが、飛躍的に精度の上がった手法で全ゲノムを取り直し、その結果を専門誌に発表した。判明したのは、二〇一二年のデータが現代人のDNAでかなり汚染されていたということ。汚染を除去してみると、まるで違う人物が現れた。
まず肌。エッツィの遺伝子型が示す肌の色は、これまで記録されたヨーロッパの古人骨のなかで最も暗いレベルだった。つまり、我々が博物館で見ているあの黒ずんだミイラの肌の色は、氷漬けによる変色ではなく、かなりの部分が生前の地肌に近かったことになる。
次に頭髪。男性型脱毛症のリスク遺伝子を強く持っていた。四十代半ばのエッツィは、ふさふさの長髪ではなく、せいぜい側頭部と後頭部にまばらな毛が残る程度だったと見られる。実際、遺体の頭皮に毛はほとんど残っていない。これまでは「氷河のなかで抜け落ちた」と説明されてきたが、そもそも生えていなかった可能性が高い。
そして祖先系統。彼のゲノムはアナトリア半島から来た初期農耕民の成分が異様に高く、同時代の中央ヨーロッパ人と比べても突出していた。逆に、東ヨーロッパのステップ牧畜民の成分は検出されなかった。ステップ由来の遺伝子は後にヨーロッパ全域に広がるが、エッツィの集団にはまだ届いていなかった。彼が属していたのは、アルプスの谷に閉じこもり、外部との遺伝的交流が乏しい、孤立した農耕集団だったのだ。ついでに、2型糖尿病と肥満のリスク遺伝子も持っていた。あの過酷な生活のおかげで発症せずに済んでいたのだろう。
二〇二五年には、南チロル周辺の先史時代人骨四七体のゲノムが解析され、この地域の銅器時代人が広くアナトリア農耕民系統を保持していたことが確認された。エッツィは変わり者ではなく、その土地の標準だった。
そして二〇二六年に発表された微生物叢の研究がまた面白い。ボルツァーノの冷凍室で、エッツィの皮膚と融解水と胃の内容物から、生きた酵母が単離された。南極の株に近縁な低温性酵母である。しかも四種のうち三種が、発見後に防カビ処理として塗布されたフェノールを分解する遺伝子を持っていた。つまり、防カビ剤を栄養にしている。研究チームは「ミイラは静止した遺物ではなく、動的な生物系である」と結論している。ちなみに、この低温酵母を使ってサワードウのパンを焼く実験も行われ、ちゃんと発酵したそうだ。五三〇〇年前の男の体表から採った酵母でパンを焼く。冒涜的なのか敬意なのか、判断に困る。
犯行再構成その一、プロファイラーの見立て
ドイツ有数の犯罪プロファイラーとして知られるミュンヘン警察のアレクサンダー・ホルンは、この事件を「現代の殺人事件と同じ手続きで」扱った。二〇二四年九月には、法病理学者オリーバー・ペシェル、シュナルス谷を専門とする考古学者アンドレアス・プッツァーとの共著という形で、ジャーナリストのヨーゼフ・ローラーがまとめた検証本が刊行されている。
ホルンの読み筋はこうだ。まず、右手の防御創。傷は深いが、刃を掴んで押し返したときの形をしている。しかも彼は生きて山を登った。つまり、この一戦目はエッツィが勝っている。相手を撃退したか、少なくとも逃げ切った。
次に、現場に残された銅の斧。純度九九・七パーセント、トスカーナ産の銅。当時の物価で言えば、村ひとつぶんの価値がある。強盗なら真っ先に持ち去る。持ち去らなかったのはなぜか。ホルンの答えは明快だ。あの斧は目立ちすぎる。村に持ち帰った瞬間、「なぜお前がそれを持っている」と全員に問われる。犯人はエッツィを知る共同体の内部の人間であり、だからこそ、身元が割れる品物を持ち帰れなかった。
そして射距離。矢は三十メートル前後、最大でも百フィートほど離れた位置から放たれている。石を投げて届くくらいの距離だ。エッツィは腹いっぱいの飯を食い終えたところだった。警戒していない。背後の斜面から狙われている。つまり犯人は、エッツィが警戒を解く程度には見知った相手か、あるいは尾行に長けた相手だった。
動機については、ホルンは物盗りを外し、個人的怨恨を推す。一日か二日前の格闘の続きである可能性が高い、というのが彼の見立てだ。ただし本人も認めているとおり、五三〇〇年前の容疑者リストを作る方法は存在しない。「エッツィの事件で犯人が特定できるとは楽観していない」と彼は言っている。
犯行再構成その二、埋葬説
二〇一〇年、ローマ・サピエンツァ大学のアレッサンドロ・ヴァンゼッティ、パドヴァ大学のマッシモ・ヴィダーレらのグループが、まったく違う筋書きを出した。エッツィは発見地点で死んだのではなく、そこに「置かれた」のだという説である。
根拠はこうだ。まず、装備の配置。斧は遺体から離れた岩の上にあり、弓は立てかけられたような位置にあり、矢筒はまた別の場所にあった。事故や襲撃でばらけたにしては、それぞれの品が意味ありげな位置にある。第二に、装備の多くが未完成か破損している。弓は未完成、矢は二本しか完成していない。実用品ではなく、副葬品として象徴的に添えられたのなら説明がつく。第三に、時期の矛盾。胃の花粉は初夏を示すのに、氷のなかからは八月から九月の植物遺存が出る。死んだのは春で、埋葬されたのは晩夏だったのではないか。
つまり、エッツィは谷の集落で死に、その後、共同体によって高所の峠まで担ぎ上げられ、儀礼的な石積みの上に安置された、と。
これに対するボルツァーノ側の反論は激しかった。第一に、銅器時代のアルプスに高所埋葬の例はひとつもない。当時の葬制は集落近くの平地の墓地である。第二に、数か月前に死んだ遺体なら、腐敗の進行と昆虫の食害の痕跡が残るはずだが、それがない。第三に、これが決定打だが、傷ついた動脈から傷道を通って皮膚表面まで、途切れない血流の痕跡がある。心臓が動いているあいだにその傷ができ、その場で死んだことの証明である。第四に、ミイラ化して硬直した腕を後から動かせば必ず関節が壊れるが、エッツィの関節は解剖学的に正常な位置関係を保っている。第五に、ヴァンゼッティらが比較対象に持ち出した中世キリスト教圏の埋葬習俗は、時代も文化圏も違いすぎて参照にならない。
埋葬説は現在、少数意見にとどまっている。ただし「装備の配置が不自然だ」という指摘そのものは、まったく別の方向から拾い直されることになる。
犯行再構成その三、氷が全部並べ替えた
二〇二二年から二〇二三年にかけて、氷河考古学者のラーシュ・ピローを筆頭に、トーマス・ライトマイヤー、アンドレア・フィッシャー、ジェイムズ・バレット、アトレ・ネシェらのチームが、発見から三十年ぶんの証拠を総ざらいして、シュピントラーの「災厄説」を全面的に見直した。
彼らの主張はこうだ。まず、季節。シュピントラーは遺体近くから出たスモモの一種を根拠に秋と考えたが、エッグルの花粉と、火種を包んでいた新鮮なカエデの葉は、晩春から初夏を示している。秋ではない。
次に、窪みの問題。シュピントラーは「エッツィは雪のない窪みに横たわって死に、そこにすぐ雪が積もった」と考えた。ピローらは逆だと言う。彼は窪みの上、雪面の上で死んだ。その後、季節ごとの融解にともなって、遺体と装備が重力で窪みへ滑り落ちた。だから装備がばらけている。ヴァンゼッティが「儀礼的配置」と読んだ散らばりは、五三〇〇年ぶんの融解と再凍結が並べ替えた結果にすぎない。
第三に、氷河の問題。シュピントラーの説の肝は、窪みが「タイムカプセル」となって流動する氷河から遺体を守った、という点にあった。ところが氷河学者のフィッシャーが検証したところ、あの地点の氷は一八七八年の時点でも厚さ五メートル程度しかない。氷が自重で滑りはじめるには、まったく厚さが足りない。あそこにあったのは流動する氷河ではなく、動かない万年雪、いわゆるアイスパッチだった。
第四に、決定的な証拠。窪みから採取された有機物を片端から年代測定したところ、紀元前五三〇〇年から紀元前一五〇〇年まで、値がばらばらに散らばった。なかには紀元前八〇〇年から四一〇年に切られたハンノキの木片まで混じっていた。もし窪みが五三〇〇年間ずっと密封されていたなら、こんな新しいものが入り込むはずがない。この場所は、その後も何度も融けて口を開けていた。エッツィが残ったのは奇跡的な密封のおかげではなく、単に運が良かっただけだ。
このピローらの再解釈は、殺人そのものを否定するわけではない。矢じりも動脈損傷も動かない。ただし「逃走中に力尽きた男」という劇的な物語からは、かなりの装飾が剥がれ落ちる。
最後の四十八時間を、通しで並べてみる
以上をぜんぶ重ねると、こういう二日間が見えてくる。ただしこれは仮説であって、確定した歴史ではない。そこは念を押しておく。
死の約二日前。エッツィは南チロルのヴィンシュガウ谷、あるいはシュナルス谷の下流域にいた。生涯を南チロルで過ごしたことは歯のエナメル質の同位体比から確認されている。彼は地元の人間だ。四十代半ば、身長一六〇センチ、体重五〇キロ前後、皮下脂肪の少ない引き締まった体。頭髪は薄く、肌は暗い。腰と膝が痛む。胃も痛む。それでも彼は歩ける男だった。
このころ、彼は誰かと刃物で争っている。右手を深く切られた。相手の刃を掴んだ。血が出た。傷はミズゴケで押さえたかもしれない。この争いに、彼はとりあえず勝った。あるいは、逃げ切った。
死の約三十三時間前。彼は標高二五〇〇メートル前後、針葉樹林の上限あたりにいた。松とトウヒの花粉がその証拠だ。
そこから、彼は下りる。標高一二〇〇メートル以下の谷底まで。ここが最大の謎で、逃走中の人間が谷へ下りるのは自殺行為に近い。そこには人がいる。追手もいる。なぜ下りたのか。装備の補給か。同盟者に会いに行ったのか。あるいは、まだ逃走していなかったのか。
死の九時間から十二時間前。彼は谷底にいた。アサダの花が咲いていた。新鮮な花粉を吸い込んだ。
そこから、彼はもう一度登る。クルツラス方面の狭い峡谷を通ったらしい。体力的には最悪のルートだが、身を隠すには最良のルートである。標高差二〇〇〇メートル。腰の悪い四十代の男の脚で、ほぼ休みなしに。
死の数時間前。彼はティゼンヨッホの近くに着いた。三二〇〇メートル。ここで彼は火を熾したか、少なくとも火種を確認している。シラカバ樹皮の容器には、新鮮なカエデの葉に包んだ炭が入っていた。
死の三十分前から二時間前。彼は座って食事をとった。干したアイベックスの肉と脂、アカシカの肉、ヒトツブコムギの粒。かなり腹に溜まる食事だ。この時点で、彼は追われている自覚があったのか。あったなら、こんな食い方はしない。この矛盾は、いまだに誰も解けていない。
死の直前。誰かが斜面の下から矢を放った。距離はおそらく三十メートル前後。矢は左肩甲骨の下を貫き、鎖骨下動脈を切った。左腕はほぼ即座に使えなくなったはずだ。エッツィは倒れた。胸腔に血が溜まっていく。外にはほとんど出ない。数分。長くても数十分。
そして、犯人は近づいてきた。矢柄を抜き取った。石の鏃は折れて体内に残った。頭部への打撃がこのときのものだったなら、彼は止めを刺されている。斧は残された。あの高価な斧を、犯人は持ち帰らなかった。持ち帰れなかった。
その後、雪が降った。遺体は乾いた冷気のなかでゆっくり凍結乾燥し、動かない万年雪の下に沈んでいった。融けては凍り、また融けては凍り、そのたびに装備は少しずつ滑り、散らばっていった。五三〇〇年。ピラミッドが建ち、青銅器が来て、鉄器が来て、ローマ軍が峠を越え、ハプスブルクが谷を治め、二つの世界大戦が国境を引き直し、そしてサハラの砂が雪面を汚した一九九一年の夏に、彼はふたたび空気に触れた。
「アイスマンの呪い」全リスト
さて、オカルト方面の話をしよう。二〇〇〇年代半ばから、ヨーロッパのタブロイド紙とテレビ番組が「アイスマンの呪い」を騒ぎはじめた。ツタンカーメン王墓の呪いの焼き直しである。犠牲者とされるのは通常七人。
一人目、ライナー・ヘン。インスブルック大学の法医学者で、遺体を最初に本格的に扱った人物。素手でミイラを掴んで遺体袋に納めたことが強調される。一九九二年、アイスマンについて講演するために車で向かう途中、正面衝突事故で死亡。享年六十四。
二人目、クルト・フリッツ。ヘンを現場へ案内した山岳ガイド。エッツィの顔を最初に氷から露出させた男とされる。雪崩に巻き込まれて死亡。同行していたパーティーのなかで、死んだのは彼一人だった。
三人目、ライナー・ヘルツル。オーストリアのジャーナリストで、回収作業の独占撮影権を得た人物。ドキュメンタリー公開の数か月後に脳腫瘍を発症し、四十七歳で死去。
四人目、ヘルムート・ジーモン。発見者本人。二〇〇四年十月、ガイスラー山群を単独で歩いていて突然の吹雪に遭い、約百メートル滑落。八日後、うつ伏せで凍りついた状態で発見された。発見地点はエッツィの発見地からそう遠くない。この死に方の相似が、呪い話を一気に加速させた。
五人目、ディーター・ヴァルネッケ。行方不明になったジーモンを捜索した山岳救助隊の隊長。ジーモンの葬儀に参列し、その一時間後に心臓発作で死亡。四十五歳。
六人目、コンラート・シュピントラー。エッツィ研究の総責任者だった考古学者。生前、呪い話を記者に問われて「次はおれの番だとでも言うのか。ばかばかしい」と一蹴したことで知られる。二〇〇五年、多発性硬化症の合併症で死去。
七人目、トム・ロイ。オーストラリア在住のアメリカ人分子考古学者。エッツィの道具に付着した血液から、本人以外に四人ぶんの人血を検出した研究で知られる。二〇〇五年、ブリズベンの自宅で死亡しているのが発見された。六十三歳。
これに加えて、一部の記事は保存技術者フリードリヒ・ティーフェンブルンナーの死などを八人目として数える。数え方は媒体によってまちまちで、そこがもう怪しいのだが。
呪いを一個ずつ潰す
まず全体の話から。エッツィの研究・回収・報道に直接関わった人間は、控えめに見積もっても数百人いる。三十年以上のあいだに、そのうち七人が死ぬ。これは統計的にどうか。ヨーロッパの中高年男性の年間死亡率をざっくり当てはめれば、数百人の集団から三十年で七人しか死なないほうがむしろ異常に少ない。呪いどころか、この集団は平均より長生きしている。
個別に見ていく。ヘンの交通事故は、確かにアイスマン関連の講演に向かう途中だった。だが彼は当時六十四歳で、車での長距離移動は日常だった。行き先が「アイスマンの講演」だったという点だけを取り出して因果にするのは、目的地バイアスそのものだ。彼はアイスマン以外の講演にも山ほど行っていた。
フリッツの雪崩死。彼は職業山岳ガイドである。山岳ガイドの職業死亡率は極めて高い。「同行者のなかで一人だけ死んだ」というのも、雪崩ではよくあることだ。先頭を歩く人間が最も危険なのは当たり前で、ガイドはたいてい先頭にいる。
ヘルツルの脳腫瘍。四十七歳での発症は若いが、脳腫瘍は年齢を選ばない。ミイラの撮影で脳腫瘍になる機序は存在しない。
ジーモンの滑落死。ここがいちばん劇的だが、彼は当時六十七歳で、単独で高山を歩き続けていた。突然の悪天候による滑落は、この年齢の単独行者に最も多い死因である。むしろ「アイスマンの発見者が山で死ぬ」というのは、山を歩く人間が山で死んだというだけの話でもある。
ヴァルネッケの心臓発作。四十五歳での発症は不運だが、彼は八日間にわたる大規模な冬季捜索を指揮した直後だった。睡眠不足、寒冷、極度のストレス。心筋梗塞のリスクファクターがそろっている。しかも葬儀という強い情動負荷が加わった。心臓の負荷という意味では、呪いより先に説明すべきことが多すぎる。
シュピントラーの多発性硬化症。これがいちばん決定的に呪い説を殺している。多発性硬化症は、発症から死まで通常十年から二十年かかる自己免疫疾患だ。彼の発症時期を考えれば、エッツィと出会うずっと前から病気は始まっていた。呪いには時系列を遡る力はない。
ロイの死。彼が診断されていた血液疾患は、報道によれば一九九二年、つまりエッツィ研究に着手した時期と重なる。ここを「研究を始めたから病気になった」と読むのがオカルト側で、「病気を抱えたまま十三年間研究を続け、六十三歳で亡くなった」と読むのが常識側だ。彼自身は生前、呪いの話を鼻で笑っていた。
そして最大の反証は、誰も名前を挙げない人々にある。エリカ・ジーモンは夫の死後も長く健在で、二十年以上たってから穏やかに天寿を全うした。回収現場にいたマルクス・ピルパマーも、遺体を運んだヘリのパイロットも、インスブルックの安置所のスタッフも、その後三十年エッツィを研究し続けたアルベルト・ツィンクも、フランク・マイクスナーも、クラウス・エッグルも、みな普通に生きて、普通に業績を積んでいる。呪いのリストは、たまたま死んだ人だけを拾って作られている。拾わなかった人の名前は誰も数えない。これが選択バイアスの教科書的な実例だ。
ただし、なぜこの噂が広まったのかは考える価値がある。第一に、ツタンカーメンの前例があった。「古代の遺体を暴くと祟られる」という物語の型が、すでに一般常識として流通していた。第二に、発見の経緯があまりに乱暴だった。削岩機で穴を開け、弓をバールにし、腕を折った。あれを知った人間は、ほとんど反射的に「罰当たりだ」と感じる。呪い話は、その罪悪感の受け皿として機能している。第三に、ジーモンの死に方が出来すぎていた。氷の男を見つけた男が、氷のなかでうつ伏せで見つかる。物語としてあまりに完璧で、人間の脳はこの対称性に抗えない。
発見者夫妻のその後――報奨金という長い戦い
呪いとは別に、ジーモン夫妻には現実的な戦いが待っていた。イタリアの法律では、文化財の発見者は評価額の一定割合を報奨として受け取る権利がある。エッツィは値段のつけようがない存在だが、それでも権利は権利だ。
一九九四年、南チロル自治県は夫妻に一〇〇〇万リラ、日本円にして数十万円程度の額を提示した。夫妻はこれを拒否。エッツィがボルツァーノにもたらす経済効果は、飲食と宿泊と土産物だけで年間四〇〇万ユーロ規模、さらに書籍やドキュメンタリーの世界的な収益がある、というのが夫妻の主張だった。
さらにややこしいことに、「自分が第一発見者だ」と名乗り出る人物が二人現れた。一人はスイス人女性で、自分は遺体に唾を吐いて発見の印としたと主張した。実際にDNA鑑定まで行われたが、彼女の痕跡は検出されなかった。もう一人はスロベニアの女優で、ジーモン夫妻より五分早く発見したと述べたが、裏付ける証拠はなかった。
二〇〇三年、裁判所は正式にジーモン夫妻を発見者と認定。二〇〇六年、下級審が「適正な報奨」の支払いを命じた。県側は五万ユーロを提示。交渉は続き、二〇〇九年、最終的に一五万ユーロで和解が成立した。
ヘルムート・ジーモンは二〇〇四年に死んでいる。彼はこの和解を見ていない。エリカが一人で受け取った。発見から和解まで十八年。エリカは後年、あの日を後悔しているかと問われて、「後悔はしていない。ただ、私たちはずっと、彼を見つけたことでいろいろなものを失いつづけた」というような言い方をしている。バカンス中の中年夫婦が、道端で歴史を拾ってしまったせいで、人生の後半をまるごと持っていかれた。呪いなんて必要ない。人間の制度と欲だけで、十分すぎるほどの物語になっている。
体験談その一、発見者夫妻が語ったあの午後
エリカ・ジーモンが繰り返し語ってきた発見の場面は、細部が驚くほど生活感に満ちている。彼女によれば、あの日はやたら暖かく、稜線を歩いているのに汗をかいていたという。二人は道を外れて岩と雪の斜面を横切っていた。融け水が細い筋になって流れていて、そのすぐ脇に、革のような茶色いものが見えた。
「最初は人形だと思ったのよ。誰かがふざけて置いていったマネキンか何かだと」。近づいて、それが人間の後頭部だとわかったとき、エリカは声を上げた。ヘルムートは黙って屈み込み、しばらくじっと見ていた。元警察官の彼は、遺体そのものには慣れていた。ただ、皮膚の状態が奇妙だった。腐敗していない。乾いている。革みたいだ。
ヘルムートは持っていた使い捨てカメラで一枚だけ撮った。フィルムがあと一枚しか残っていなかったからだ。世界で最も有名な考古学写真のひとつが、残り一枚のフィルムで撮られたスナップだというのは、いま考えるとおかしな話である。
下山しながら、二人は口論に近い相談をした。通報すれば予定が狂う。だが放っておけば、次に誰かが見つけるまで彼はあそこにいる。エリカが「ちゃんと言いましょう」と押したという。小屋番のピルパマーに話したとき、彼はまず「今年の遭難者リストにそんな話はないな」と首をひねった。それから、無線に手を伸ばした。
体験談その二、通報を受けた小屋番の困惑
シミラウン小屋のマルクス・ピルパマーは、山では珍しくない仕事をしている男だった。年に何度かは、遭難や滑落の連絡が入る。だからその日も、ジーモン夫妻の話を淡々と受け取った。ただ、位置の説明が引っかかった。ティゼンヨッホの窪みで、腰から下が氷に入っている、と。あのあたりで最近行方不明になった人間の心当たりはない。
翌日以降、彼は回収作業に何度も立ち会うことになる。ピルパマーは後年、あの現場の空気を「誰も、自分が何を扱っているのかわかっていなかった」と表現している。削岩機の音、コンプレッサーの排気、天候の悪化、無線の怒鳴り声。関係者の関心は「今日中に片付くか」の一点にあった。
最終的に遺体を氷から外したのはピルパマー自身のピッケルだった。彼は氷を割りながら、遺体の周囲に妙なものが散らばっていることに気づいていた。編んだ草。木の棒。革のかけら。「ゴミだと思って捨てそうになったものが、あとで博物館のガラスケースに入っているのを見たとき、背筋が寒くなった」と彼は語っている。実際、初動で失われた小物がどれだけあるかは、いまだに誰にもわからない。
体験談その三、マイナス六度の小窓の向こう
ボルツァーノの南チロル考古学博物館を訪れた日本人旅行者の記録は、驚くほど共通した書かれ方をする。まず、行列である。開館の午前十時に着いても、すでに列ができている。館内は三フロアに分かれていて、装備品や復元展示を順に見ていく構成になっているが、来館者の関心はほぼ一点に集中しているので、上のフロアに近づくにつれて人の密度が上がる。
そして、本体のいるフロアは撮影禁止になる。ここが独特の緊張感を生む。カメラを下ろして、みんな黙って列に並ぶ。エッツィが収められているのは、館の一角に作られた冷凍室だ。庫内はマイナス六度、相対湿度は九八パーセント台に保たれ、氷河内部の環境が再現されている。定期的に滅菌水が霧状に吹きつけられ、体表に薄い氷の膜が張られる。
見学者に許されているのは、その部屋の壁に開いた小さな窓を、順番に覗くことだけだ。窓は思ったより小さい。二人並んで覗くのがやっとという大きさで、そこから見えるのは、横たわった黒い体の上半身と、こちらへ向かって突き出された左腕である。
ある旅行者は、その姿を「屈折していて、氷の圧力なのか、戦いに敗れて倒れたままなのか、少々痛々しい」と書いた。別の旅行者は「五三〇〇年前の人間が、こうやって完全な形で残っているとは」と驚きを記している。日本のツアーグループと鉢合わせした人は「アイスマンって結構メジャーだったんだ」と書いていて、なんだか笑ってしまう。
共通しているのは、みんな「思ったより小さい」と書くことだ。身長一六〇センチ、いまや重さ十三キロ。世界最古の殺人事件の被害者は、覗き窓の向こうで、ずいぶん小さくうずくまっている。
体験談その四、彼を解凍した日
二〇一〇年十一月、研究チームはエッツィの胃の内容物を採取するため、遺体を九時間だけ解凍するという前代未聞の作業を行った。冷凍室の温度をマイナス六度から十八度まで上げる。特製の台にアルミホイルを敷き、その上に彼を寝かせる。
作業に立ち会った研究者たちが記録しているのは、まず「におい」だという。五三〇〇年ぶりに温度の上がった体から、湿った革のようなにおいが立ちのぼった。一晩かけて解凍が進むあいだに、体から出た水分は八五〇グラム。この水は一滴残らず集められ、低温適応細菌の分析にまわされた。
内視鏡で胃に到達したとき、画面に映ったものを見て、その場にいた医師が思わず言った言葉が記録に残っている。「彼はずいぶん食欲があったようだ」。想定より遥かに多い内容物が詰まっていた。この瞬間が、二〇一八年の「脂まみれの最後の晩餐」論文へつながっていく。
作業後、病理学者が滅菌水を全身に噴霧し、氷の保護膜を作り直した。彼はまた冷凍室に戻された。研究者の一人は、この作業の心境をこう書いている。人体を扱っているという感覚と、資料を扱っているという感覚が、九時間のあいだずっと交互に押し寄せてきた、と。
体験談その五、閉館間際に滑り込んだ日本人旅行者
北イタリア旅行の三日目、ボルツァーノに着いたのが夕方で、博物館は閉館間際だった。添乗員が交渉して、なんとか入れてもらえた。そう記録している旅行者がいる。
急ぎ足で見て回るなかで、彼が一番驚いたのは遺体そのものより装備だったという。毛皮のズボン、草を詰めた靴、継ぎ接ぎの外套、顎ひも付きの帽子。「五三〇〇年前の人間が、こんな服を着ていたのか」。教科書のなかの原始人像が、その場で崩れていく感覚があったと書いている。
X線写真とCT画像のパネルの前でも足を止めた。左肩の白い三角形。頭部の陰影。「これがこの人を殺したのか、と思ったら、急に生々しくなった」。閉館のアナウンスが流れるなか、彼は最後にもう一度小窓を覗いて出てきた。「五三〇〇年前の生活水準の高さに驚いた」というのが、その日の結論だったらしい。
なぜ我々はこの男から目を離せないのか
エジプトのミイラは、権力者が意図して残したものだ。防腐処理をし、副葬品をそろえ、来世で復活する前提で作られている。だから彼らは「見られるための死体」である。
エッツィは違う。彼は誰にも見られるつもりがなかった。ある日、山の上で背中を射られて死んだだけだ。副葬品ではなく、生活の道具がそのまま残った。整えられた顔ではなく、苦悶の形のまま乾いた顔が残った。爪の溝には直近半年の体調不良が刻まれ、肺には毎晩の焚き火の煤が溜まり、腹には昼飯が残っている。この非意図性が、他のどんな考古資料とも違う圧力を生む。
そして、殺人事件であるという事実。歴史の教科書は、五〇〇〇年前を「石器から金属へ移行した時代」というような抽象で語る。だがエッツィが示すのは、その時代にすでに、誰かが誰かを恨み、待ち伏せ、背後から射て、証拠を隠していたということだ。文明の初期段階から、我々は完成された殺人者だった。矢柄を抜き取っていく手つきに、五三〇〇年の隔たりは感じられない。
同時に、彼は徹底的に手当てされた体でもある。六一個の入れ墨は痛みへの対処であり、カンバタケは薬であり、ミズゴケは傷の手当てだった。彼を殺した文化と、彼を治療していた文化は、同じ文化である。この二面性が、ただの猟奇譚に落ちない厚みを与えている。
呪いの話が広まったのも、結局はこの居心地の悪さのせいだと思う。我々は彼を削岩機で掘り出し、腕を折り、解凍し、胃を開き、DNAを読み、肌の色を訂正し、体表の酵母でパンまで焼いた。そして小窓の向こうに置いて、行列を作って覗いている。何かがおかしいという感覚は、ある。呪いという物語は、その感覚に名前を与える装置だ。呪いは存在しない。だが、呪いを呼び出したくなる気持ちのほうは、たしかに存在する。
「世界最古の殺人事件」という呼び方は、正確ではない
ここからは、これまでの整理を踏まえて、まだ書ききれていない論点を掘り下げておく。
まず、この事件を「世界最古の殺人事件」と呼ぶことの正確さについて。厳密に言えば、これは正しくない。人類が人類を殺した痕跡は、もっと古い骨からいくらでも出ている。スペインのシマ・デ・ロス・ウエソスからは四十万年以上前の頭蓋骨に二か所の打撃痕を持つ個体が出ているし、ケニアのナタルクでは一万年前の集団虐殺の跡が見つかっている。骨だけを見れば、エッツィは全然古くない。
ではなぜ「最古の殺人事件」と呼ばれるのか。それは、彼が「事件」として扱える唯一の古さの遺体だからだ。事件が成立するには、被害者の身体だけでは足りない。凶器、現場、時刻、被害者の直前の行動、争いの経緯、加害者の判断。この全部がそろって初めて、我々はそれを事件と呼ぶ。エッツィにはそれがある。胃の内容物が犯行時刻を分単位に近い精度で示し、花粉が被害者の移動経路を示し、手の傷が数日前のトラブルを示し、残された高価な斧が犯人の行動選択を示す。骨に打撃痕があるだけの古人骨と、これはまったく別の情報量だ。
そのうえで、いちばん解けていない謎を三つ挙げておく。
第一の謎は、なぜ谷へ下りたのか。この動きが本当に不可解だ。逃走説を取るなら、追手のいる方向へ自ら降りていったことになる。装備の補給説を取るなら、彼が谷で何を得たのかが問題になるが、荷物のなかに「谷で入手したばかり」と言えるものは見当たらない。むしろ弓は未完成で、矢は二本、装備は草の繊維で応急修理されている。補給どころか、彼は物資が枯渇していた。谷まで行って何も手に入れず、また登った。この行動を説明できる説は、いまのところない。ひとつありうるのは、彼は逃げていたのではなく、単に普段どおりの移動をしていたという読みだ。銅器時代のアルプスでは、季節的な放牧のために標高差の大きな往復が日常だった。彼が羊飼いや山越え交易に関わっていたなら、この上下動は異常でもなんでもない。そして、殺されたのは「逃げていたから」ではなく、たまたま人気のない高所で追いつかれたからだ、と。この読みは劇的さに欠けるが、証拠との整合性は一番高い。
第二の謎は、頭部外傷の順序だ。前述のとおり、矢の前か後かで犯人像が変わる。二〇一二年の血液分析は「撃たれて数分で死んだ」ことを示す。ならば、頭部の打撃が矢の前にあったなら、彼は頭を殴られてなお立って動いていたことになる。逆に矢の後なら、犯人はわざわざ斜面を下りて(あるいは登って)、瀕死の男に近づいたことになる。矢柄が抜き取られている以上、犯人が遺体に近づいたのは確実だ。だとすれば、その場で頭部への一撃を加えた可能性はかなり高い。矢柄を抜くという行為と、止めを刺すという行為は、同じ一回の接近で完結する。個人的には、この線がいちばん自然だと思う。ただし証明する手立てはない。
第三の謎は、なぜ彼だけが残ったのか。同時代のアルプスには何万人も暮らしていた。山で死んだ人間も無数にいたはずだ。それなのに、装備一式ごと完全な形で残ったのはエッツィ一人である。ピローらの研究が示したように、あの窪みは五三〇〇年間ずっと密封されていたわけではない。何度も融け、何度も口を開けた。それでも彼は残った。理由の一部は場所にある。あそこは風の通り道で、雪が吹き溜まりやすく、かつ氷が厚くならない。厚い氷河なら流動して遺体を粉砕する。薄い雪原なら夏に融けて遺体は腐る。この二つの中間の、ごく狭い条件がティゼンヨッホでは五三〇〇年間維持された。確率で言えば天文学的な偶然だ。そして最後のひと押しがサハラの砂である。一九九一年の夏にアフリカからの砂塵が雪面を汚さなければ、彼は二〇二〇年代まで氷のなかにいたかもしれない。今の技術で発掘されていたら、初動の破壊も、六年の帰属争いも、報奨金裁判も起きなかっただろう。歴史的な発見というのは、いつも「早すぎるか遅すぎるか」でしかない。
もうひとつ、二〇二三年のゲノム再解析については、単なる学術ニュースを超えた含みがある。三十年間、世界中の博物館と教科書とドキュメンタリーが、白い肌に茶色い長髪の男の復元像を掲げてきた。ボルツァーノに置かれた等身大模型も、無数の書籍の表紙も、そうだった。それが「汚染データだった」の一言で無効になった。しかも訂正の方向が、肌はもっと暗く、頭はほぼ禿げていた、という具体的なものだった。
この訂正が示すのは、科学の自己修正能力のたくましさであると同時に、我々が「先史ヨーロッパ人」に対して無意識に抱いていた像の脆さでもある。当時のデータは確かに白い肌を示していた。だが、なぜ誰も強く疑わなかったのか。ヨーロッパの古い人間は白いだろうという前提が、検証の圧力を弱めた面はなかったか。近年、ブリテン島のチェダーマンやスカンジナビアの中石器時代人でも似た訂正が続いている。エッツィの禿げ頭は、古人類復元というジャンルそのものへの警告として読むべきだと思う。
さらに、二〇二六年の微生物叢研究が突きつけたものも大きい。あの遺体は静止していない。マイナス六度の庫内で、南極系の低温酵母が今も代謝している。しかもそのうち三種は、保存のために塗られたフェノールを食べている。防腐剤が餌になっている。これは保存管理上の実務問題であると同時に、なかなか象徴的な話でもある。我々が彼を守ろうとして施した処置が、彼の上で生きる別の生命の資源になっている。三十年にわたる保存の努力そのものが、新しい生態系を作ってしまった。
保存という点では、もうひとつ考えておくべきことがある。エッツィはあとどれくらいもつのか。冷凍と加湿と滅菌水の噴霧で環境は安定しているが、体はゆっくり乾いている。発見時と比べて重量は減った。研究のために採取された組織も少なくない。彼は不死ではない。いずれ、公開展示をやめて完全な閉鎖保存に切り替えるか、あるいは劣化を許容して見せ続けるかを選ぶ日が来る。近年、館側は展示のあり方を見直す議論を続けており、遺体展示の倫理という文脈でも名前が挙がることが増えた。
倫理の話をもう少し。エッツィには子孫がいない。母系のミトコンドリア系統は途絶えている。二〇一三年に、彼と同じ父系ハプログループの特徴を持つオーストリア人が複数見つかったという報告があったが、これは共通祖先が遠い過去にいたという意味で、直接の子孫ではない。つまり、彼の扱いについて異議を申し立てる遺族は存在しない。だからこそ、我々は好き放題やれている。もしエッツィに現存する共同体の後裔がいて、返還と埋葬を求めていたら、この三十年はまったく違う展開になっていた。世界各地で先住民の遺骨返還が進むなか、エッツィだけが例外的に「誰のものでもない」から研究され続けている。これは幸運なのか、それとも別種の不公平なのか。
最後に、この題材の核心にもう一度戻る。この男について我々が知っていることは、この三十年で膨大に増えた。血液型、乳糖不耐、ピロリ菌の系統、腸内細菌の構成、最後の食事の脂質比率、死の三十三時間前の標高。ここまで解剖された個人は、歴史上ほとんどいない。有名な王でも将軍でも、これほど身体の内側を知られてはいない。
それでも、彼の名前はわからない。何をして生きていたかもわからない。家族がいたかもわからない。誰に恨まれていたかも、なぜ谷へ下りたのかも、最後に何を考えていたかもわからない。我々は彼の腸内細菌の名前は知っているのに、彼の名前は知らない。
歴史ミステリーというジャンルには、だいたい「解けそうで解けない」という構造がある。だがエッツィの場合、その解けなさの質が少し違う。情報が足りないから解けないのではない。情報は圧倒的にある。むしろ、情報がいくら増えても人間には届かない、という種類の壁にぶつかっている。五三〇〇年前の男の胃の中身を分子レベルで読み解いても、彼がなぜあの日あの坂を下ったのかは、永遠にわからない。
彼は今日もマイナス六度の部屋で、左腕を前に突き出したまま横たわっている。小窓の前には行列がある。背中の傷は、五三〇〇年たっても塞がっていない。
