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火あぶりにされた聖女が五年後に現れた――ジャンヌ・ダルク生存説と、ジャンヌ・デ・ザルモワーズという女

火あぶりというのは、証拠を残さない処刑だ。首を落とせば首が残る。絞めれば体が残る。だが焼けば何も残らない。しかもルーアンの英国側は、そのわずかな残りかすすら、わざわざセーヌ川に流して消した。骨も灰も、墓も遺物も、何ひとつこの世に置いていかせなかった。合理的な判断ではある。聖遺物にされたら困るからだ。ただ、その徹底ぶりが五百年後まで人をざわつかせることになるとは、たぶん誰も考えていなかった。

ジャンヌ・ダルクは本当にあの日死んだのか。死体が存在しない以上、誰も「これがそうだ」と指差すことができない。そして五年後、ロレーヌの草原に、ジャンヌ・ダルクを名乗る女が現れる。彼女を「妹だ」と抱きしめたのは、赤の他人ではなかった。ジャンヌの実の兄と弟だった。

一四三一年五月三十日、ルーアン旧市場広場で起きたこと

朝、まだ空気が冷たい時間に、旧市場広場では三つの壇が組まれていた。ひとつは聖職者と判事が座る壇。ひとつは説教のための壇。そしてもうひとつが、石膏と漆喰で高く塗り固められた柱の載る処刑台だ。この柱がやたら高かったことは複数の記録が触れている。高くしたのは見せるためであり、同時に処刑人が炎の中の人間に手を届かせないためでもあった。

慈悲としての「先に絞める」ができない高さだった、と後年の証言者たちは言っている。つまりこの日の火刑は、最初から最後まで焼き殺すことが設計に組み込まれていた。

十九歳の娘は、白い長衣を着せられ、頭に紙のミトラを載せられて荷車で運ばれてきた。ミトラには四つの単語が書かれていた。異端者、再犯者、背教者、偶像崇拝者。パリ大学の神学者ニコラ・ミディが説教をぶった。文言は「肢体の一つが病めば全身が病む」という定型のやつだ。それから世俗権力への引き渡しがあり、そこから先の手続きは、実はかなり雑に飛ばされている。本来なら世俗の裁判官が改めて刑を宣告するはずだった。

ところが英国兵が待ちきれず、処刑人に向かって「やれ」と言い放った。復権裁判で証言した書記のジャン・マシューは、この省略をはっきり覚えていた。手続きが飛んだこと自体が、後に「あの日はまともに運用されていなかった」という感触を残す。

炎が上がる前、彼女は十字架を求めた。イングランド兵のひとりが自分の持ち物か棒切れかで小さな十字架を組んで渡した。彼女はそれを胸元に押し込んだ。もうひとつ、修道士イザンバール・ド・ラ・ピエールが近くのサン・ソヴール教会から行列用の十字架を取ってこさせ、燃え盛る柱の前に高く掲げた。ジャンヌはそれを見ながら聖人の名を呼び続けた。ミカエル、カトリーヌ、マルグリット。

最後に一言、「イエス」と大きく叫んだ、というのが複数の証言が一致する終わり方だ。処刑人はジョフロワ・テラージュという男で、後にイザンバールのところへ行って、自分は神に赦されないだろうと言って震えたと伝わっている。イングランド王の秘書ジャン・トレサールは広場から帰る道で、我々は破滅した、聖女を焼いてしまった、と口走ったという。

ここからが問題の場面になる。火がある程度回ったところで、処刑人はいったん薪をかき分け、焼け残った遺体を群衆に見せた。理由ははっきりしている。この人物は本当に女だったのか、本当にあの乙女だったのか、後で誰にも言わせないためだ。つまり英国側は「替え玉疑惑が出ること」を最初から警戒していた。見せたあとで、彼らはもう一度火を入れた。二度、三度と焼いた。最後に残った灰と骨片を集めて、セーヌ川に投げ込んだ。

おまけとして、心臓だけが焼け残って火の中で赤いまま残っていた、油を注いでも硫黄をかけても燃えなかった、という話が処刑人経由の伝聞として流れている。伝聞は伝聞だが、この一点だけで後世の想像力は十分に燃料を得た。

「顔が覆われていた」という一行が、五百年ぶんの疑いを産んだ

ここで、生存説の芯にある一次資料の話をしておきたい。アランソン公の家臣だったペルスヴァル・ド・カニーは、自分の年代記に、処刑場へ引かれていく女は「顔を覆われていた」と書いた。原文で使われている語は、覆いをかぶせられた、といった意味合いだ。これは単独ではさほど怪しい記述ではない。当時の異端処刑では紙の冠や頭巾を着せるのが普通で、硫黄を染み込ませた衣を着せることもあった。

だが「顔が見えていなかった」という一行は、後世の読者にとって致命的に魅力的だった。顔が見えないなら、中身は誰でもよかったことになる。

さらに、当日の広場が異様に警備されていたことも記録に残る。武装したイングランド兵が広場を固め、市民を遠ざけ、近づける距離を厳しく制限した。数字としては八百人前後の兵が動員されたという伝えがある。反乱を防ぐためだ、と言えば筋は通る。だが同時に、誰も柱に近寄れなかったという事実も残る。近寄れないなら、確認もできない。

処刑人がわざわざ遺体を見せた行為は、裏を返せば「見せなければ誰にも確認できない状況だった」ということでもある。

同時代の記録が全部そろって「確かに焼けた」と言っているわけでもない。ブルターニュ側の年代記には、乙女はルーアンで焼かれた、あるいは焼かれるべく断罪された、という妙に含みのある書き方が残る。メス周辺の記録にはもっと露骨に、当時は処刑されたと言われていたが後になってそうではないと分かった、という趣旨の一節がある。イングランド側の年代記にも歯切れの悪いものが混ざる。

中世の年代記が互いに矛盾するのは日常茶飯事で、それ自体は陰謀の証明にならない。ただ、生存説を組み立てるだけの材料が、十五世紀の紙の上にすでに散らばっていたことは間違いない。

五年後、五月二十日。メスの郊外にその女は立っていた

一四三六年五月二十日。メスの街の外、モーゼル川沿いのラ・グランジュ・オ・ゾルムと呼ばれる草地に、男装した女がひとり現れた。髪は短く刈っていた。馬の扱いがうまかった。剣も帯びていた。そして自分をジャンヌ・ラ・ピュセル、乙女ジャンヌだと名乗った。ルーアンの火刑から五年と三週間後の話だ。

そこに人が集まってきた。集まってきた中に、ジャンヌ・ダルクの実の兄弟がいた。兄のジャン・デュ・リスと弟のピエール・デュ・リス。デュ・リスというのは、シャルル七世がジャンヌの功績に対して一族に与えた貴族称号に由来する名で、要するにこの二人は「オルレアンの乙女の身内」として当時のフランスでは通る顔だった。彼らは女と言葉を交わし、しばらく話し込み、そして彼女を妹として、姉として受け入れた。

メスの年代記作者は、二人が彼女を「妹」と呼んだ、と書いている。話の中には家族しか知らないはずの細かい事柄が含まれていた、とも伝えられる。

その場にいたのはただの野次馬ではない。メスの有力者ニコル・ルーヴがいた。この男は七年前、ランス大聖堂でシャルル七世の戴冠に立ち会った人物だ。つまり本物のジャンヌを実際に見ている。そのニコル・ルーヴが、目の前の女に馬を贈った。値打ちのある馬だった。加えて頭巾と剣を贈ったと記録されている。他の名士たちも贈り物を積んだ。数日のうちに、この女は馬と武具と路銀を手に入れ、堂々と旅立てる身分になった。

その後の足取りは異様に早い。彼女はメスからマルヴィルへ移り、そこから北へ抜けてアルロンに入る。アルロンではルクセンブルクのエリザベート、ゲルリッツのエリザベートと呼ばれる大公妃の宮廷に迎えられている。年代記によれば十月十八日にはすでにアルロンにいた。翌年にかけてケルンにも姿を見せ、ヴュルテンベルクのウルリヒという有力者の庇護を受けている。メスの年代記はこの人物を「ヴァルヌンブールの伯」と書いた。

ケルンでは司教座をめぐる政争に首を突っ込み、ある候補者を支持する形で動いた。宮廷を渡り歩いて、上流の女たちの手を取り、剣を帯びて馬に乗り、時々ちょっとした奇術めいた芸を見せる。布を破って元に戻す、割れたグラスを直す、そういう類のものだったと記録にある。

ドミニコ会の異端審問官ヨハネス・ニーダーは、著作『蟻塚』の中でケルンのこの女に触れている。彼女は男たちと踊り、飲み、騒いだ、と書いた。同じくケルンで動いた審問官ハインリヒ・カルタイゼンは、彼女を魔術と男装と政治介入の廉で破門の手続きにかけようとした。彼女はさっさとケルンを離れた。

ここで注意したいのは、ケルンの教会当局は彼女を「本物のジャンヌ」として扱っていないし、「偽物だから処罰する」という角度でもない。単に、男装して魔術めいたことをやり政治に口を出す危険な女、として処理しようとしている。同時代の当事者にとって、これは幽霊譚ではなく治安案件だった。

兄と弟が「妹だ」と言い続けた、この一点だけが本当に説明しにくい

生存説がしぶといのは、ここに理由がある。仮に彼女がただの詐称者なら、五年前に妹を失った兄弟が、初対面の他人を妹と認めるだろうか。しかも一回きりの勘違いではない。ジャン・デュ・リスは一四三六年八月、彼女の出現を報告するために王のもとへ出向いている。オルレアン市はこの旅の費用として彼に金を出した。王からも路銀が渡ったと記録される。

兄は「妹が生きていた」という報せを、フランス王国の中枢に自分の足で運んだのだ。

もっと厄介なのは、その後だ。彼女がパリで詐称者として摘発された一四四〇年以降になっても、兄弟は彼女と縁を切っていない。一四七六年に行われたある尋問の記録が残っていて、そこで複数の村人が、一四四九年から一四五二年ごろにかけて、セルメーズという村で「乙女ジャンヌ」を名乗る女とデュ・リス兄弟が一緒に飲み食いしていたのを見たと証言している。

詐称が公になった後も、兄弟は彼女を親族の集まりに連れてきて、これが我々の妹だと紹介していた。

これをどう読むか。作家のアナトール・フランスは、兄弟は信じたかったから信じたのだ、という身も蓋もない説明をした。人間は、死んだはずの家族が生きて戻ってきたと言われたとき、証拠より願望を優先する。それに加えて、実利の話もある。「乙女の兄弟」という肩書きは、当時のフランスで確実に現金になった。妹が生きていれば、その肩書きは更新され続ける。

詐称の共犯だったのではないか、少なくともある時点からは了解の上で商売にしていたのではないか、という見方は昔からある。オルレアン市がジャンに旅費を渡し、王が路銀を渡した時点で、この物語はすでに金の流れを生んでいた。

一方で、本気で信じていた可能性も捨てきれない。彼らは処刑の場にいない。ルーアンで妹が焼かれるのを見ていないのだ。彼らが知っているのは「妹が英国に売られ、異端裁判にかけられ、焼かれたと聞いた」という伝聞だけだ。五年前の伝聞と、目の前で家族の話をする生身の女。どちらを取るかは、思っているほど自明ではない。

オルレアン市の会計簿は嘘をつかない。つかないから、逆に厄介だ

中世の年代記は書き手の思惑で歪む。だが会計簿は歪みにくい。誰にいくら払ったかを書く帳簿は、後から神話を盛り込む動機がほとんどない。そしてオルレアン市の会計簿には、この女の足跡が残っている。

一四三六年七月二十五日、トロワの代官ギヨーム・ベリエに宛てた「ジャンヌ・ラ・ピュセル」からの書簡を運んだ使者への支払い。八月五日、プティ・ジャンと呼ばれた男がオルレアンに来て、ジャンヌが生きているのを見たと報告し、市が彼に食事を振る舞った記録。八月九日、フルール・ド・リスという名の紋章伝令が「ピュセルからの書簡」をオルレアンに届け、その労に対して支払いがなされている。

十月十八日には、オルレアン市自身の伝令クール・ド・リスが、ピュセルに会いに行くために四十一日間の旅に出ている。市が自腹で調査団を出しているのだ。九月二日付で彼女がフランス王に手紙を送ったという記載もある。

そして一四三九年。彼女は本人としてオルレアンに入った。七月二十八日の項目には、ジャケ・ル・プレートルに対して、ダム・ジャンヌ・デ・ザルモワーズに供したワイン十パイントと半パイントの代金として十四ソルを支払った、という一行が残る。七月末から八月にかけて、ワインと食事の支出が続く。極めつけは、市参事会の審議を経て彼女に二百十リーヴル・トゥルノワを贈った記録だ。

名目は「一四二九年の包囲戦のあいだ、この町に対してなした善行に対して」。

この額と名目が重い。オルレアンは、十年前に自分たちを救った当人だと認定した上で、公金を出しているのだ。しかもオルレアンには、本物のジャンヌを至近距離で見た人間が山ほど住んでいた。城壁の上で彼女を見た兵士、旗を見た市民、宿を提供した家。その町が、市議会の正式な審議を通して、この女に礼金を出した。生存説の支持者がこの一行を手放さないのは当然だと思う。

生存説の界隈ではもうひとつ、オルレアンの帳簿に「ジャンヌ・ダルクの妹」名義の支出が残っている、という言い方でこの一連の記録が語られることがある。実際に帳簿が繰り返し記録しているのは、乙女の血縁として遇された人物への金の流れであり、母イザベル・ロメへの年金支給もそこに含まれる。面白いのは、そのイザベル・ロメの記載が一四五二年を境に「ピュセルの母」から「故ピュセルの母」に変わることだ。

つまりオルレアン市の帳簿は、ある時点までジャンヌを死者として書いていない。役所の書式が、この町の認識の揺らぎをそのまま化石にしてしまっている。

王の靴を見抜いた女と、王だけが知っていた祈り

一四三九年の暮れか一四四〇年か、日付は資料によってぶれるが、彼女はついにシャルル七世の前に引き出された。この場面の伝聞は、後にピエール・サラという著述家が書き残している。情報源はボワジー卿という人物で、シャルル七世の侍従を務め、王と同じ部屋で寝起きするほど近くにいた男だ。

王は罠を張った。自分の代わりに廷臣のひとりを王座に座らせ、自分は人混みに紛れた。本物のジャンヌなら、初対面のシノンでもそうしたように、群衆の中から王を見つけ出すはずだ、という試験だった。女は当てた。人をかき分けて、本物のシャルルの前に進み出た。ただし、後日談によれば、彼女が見抜いた理由は霊感ではなかった。当時シャルルは足を痛めており、片方だけ柔らかい革の靴を履いていた。それを見た、というのだ。

事前に誰かが教えたのかもしれないし、その場で観察したのかもしれない。いずれにせよ、身体的な特徴を手がかりにした人間の目の仕事だった。

王は彼女を見て、こう言ったと伝わる。ピュセルよ、よくぞ戻った、神の名において歓迎する、その神は、あなたと私のあいだにある秘密を知っておられる。優しい言葉のようでいて、これは刃だ。本物のジャンヌは一四二九年のシノンで、王だけに、王がひとり礼拝堂で密かに祈った祈りの内容を言い当てたとされる。その祈りの主題は、自分は本当に正統な王の子なのかという、シャルルにとって最も痛い疑いだった。

当代の研究者ジュール・キシュラも、この秘密のやりとりが実際にあったこと自体は疑いようがない、と書いている。

女は答えられなかった。答えられるはずがなかった。彼女は膝をつき、罪を認め、慈悲を乞うた。ここで劇的なのは、王が彼女を罰しなかったことだ。処刑もしていない。投獄もしていない。彼女は夫のもとへ帰された。理由は想像するしかないが、この件を大きくすることは王にとって一文の得にもならなかった。オルレアンの乙女を利用して王座に就いた男が、その乙女の偽物を大々的に裁く。絵として最悪だ。静かに畳むのが正解だった。

一四四〇年、パリ。「私は乙女ではなく、母だ」

同じころ、パリでも彼女は晒された。パリのブルジョワと呼ばれる匿名の日記作者が、一四四〇年八月の項に記録している。武装した人々が、オルレアンで大変な歓待を受けた女をパリへ連れてきた。彼女は捕らえられ、パレ、つまり司法宮の前で公衆に晒された。大学の人間が彼女の来歴を暴いた。そして彼女は認めた。自分は乙女ではない。子を産んだ女であり、騎士の妻である、と。

この日記は同時代の、しかも英国ブルゴーニュ寄りの立場から書かれている。ジャンヌを持ち上げる動機はゼロだ。むしろ「アルマニャック派が担いだ女は最初からペテンだった」という筋書きの方が都合がいい。にもかかわらず、この日記は「本物のジャンヌは一四三一年に焼かれ、この女は別人だ」という前提で書いている。生存説にとってはかなり不利な証言だ。

彼女の名前も、いくつかの記録から浮かび上がる。クロード。出身はおそらくロレーヌかその周辺。若いころは男装して兵として稼ぎ、一四三五年ごろにはローマで教皇軍に加わっていたという話もある。乙女を名乗り始める前から、男の格好で戦場を渡り歩く生活をしていた女だった。だとすれば、髪の短さも、馬の扱いも、剣の帯び方も、全部本物だ。演技ではない。

彼女は「兵士である女」という、当時の西欧に数えるほどしかいない生き方をすでに実践していた。ジャンヌ・ダルクを名乗るというのは、その生き方に名前と物語をつけるという、恐ろしく合理的な選択だった。

それでも記録は終わらない。一四五七年、ルネ王の恩赦状

普通ならここで話は終わる。ところが彼女の名前はもう一度公文書に出てくる。一四五七年二月、アンジュー公にしてナポリ王を称したルネ王が、ジャンヌ・ド・セルメーズという女に恩赦を与えている。恩赦状の中身がすごい。彼女は長きにわたって自らをジャンヌ・ラ・ピュセルと称し、一四二九年のオルレアン包囲で本物のジャンヌを見た多くの人々を欺いた、と明記されている。

恩赦の条件は、これから五年間、身なりについても他のことについても、女としてまっとうに振る舞うこと。この時点で彼女はジャン・ドゥイエという男の妻になっていた。

つまり彼女は、パリでの自白の十七年後も、まだ同じ商売を続けていた。しかも当局は彼女を処刑していない。五年間おとなしくしていろ、というだけの温い処分で済ませている。この扱いの軽さも、生存説の側が持ち出す材料になる。本当にただの詐欺師なら、当時の基準ではもっと重い罰が下るはずだ、と。実際、他の偽ジャンヌたちの末路と比べると、彼女の扱いはやたら手厚い。

この生存説は誰がいつ言い出したのか

ここは押さえておきたい。生存説は現代のネットが生んだものではないし、二十世紀のオカルト本が発明したものでもない。十五世紀の同時代にすでに芽があった。メスの年代記には、少なくとも二つの系統の写本があり、片方はこの女を本物として書き、もう片方は詐称者として書いている。同じ町の同じ記録が、途中で立場を変えているのだ。

一四四〇年代のブルターニュやイングランドの年代記に見える歯切れの悪い記述も同じ土壌にある。乙女は死んだのか死んでいないのか、当時のヨーロッパは本気で分からなくなった瞬間がある。

近代に入っての再提唱は、まず一八〇五年だ。ベルジュラックの副知事だったピエール・カズという人物が、ジャンヌの出自についての異説を発表した。カズの主眼は生存よりも出生の方で、ジャンヌは王妃イザボー・ド・バヴィエールとオルレアン公ルイの私生児であり、ダルク家に預けられた庶出王女だった、という筋書きだった。彼は一八一九年により大部の著作にまとめ直している。

この庶出王女説は、後に生存説と合体して爆発的な生命力を持つことになる。理屈は単純で、王家の血を引く娘なら、王家は身内を焼き殺したりしない、替え玉を立てて逃がすはずだ、という接続だ。

十九世紀後半、ジュール・キシュラが処刑裁判と復権裁判の記録を全五巻で校訂出版したことで、材料が誰の手にも届くようになった。皮肉なもので、実証研究の金字塔が、異説の燃料も同時に配って回った。キシュラ自身はザルモワーズの女を「偽のジャンヌ・ダルク」とはっきり呼んでいる。にもかかわらず、後世の生存説論者はしばしば「キシュラですら疑っていた」と書く。これは事実に反する。

一八九三年、ガストン・サヴェという研究者が、ベッドフォード公爵夫人がジャンヌを救い出し、修道士マシューとラドヴニュを買収して替え玉を立てた、という具体的な陰謀図を提示した。この説には翌年からすぐ反論が出る。一八九四年にラネリ・ダルクが、一八九五年にルフェーヴル・ポンタリスが、日付や人物の同定の誤りを一つずつ潰していった。

一八八九年にはルシーニュが『ある伝説の終わり』を書いて、生存説は反教権主義の空想だと切って捨てている。

英語圏でこの騒動をきれいにまとめたのが、アンドルー・ラングだ。一八九五年に雑誌『ナインティーンス・センチュリー』に「偽の乙女」という論文を発表し、後に『侍従の悲劇』という本に収めた。ラングの結論は明快で、ジャンヌがルーアンで殉教したことに疑いの余地は絶対にない、しかし偽物が受け入れられてしまった経緯こそが歴史上もっとも驚くべき謎のひとつだ、というものだった。この整理は今読んでも古びていない。

二十世紀に入ると、フランスでオカルト著述家のロベール・アンブランが大々的に生存説を展開する。彼のシナリオでは、ジャンヌは地下通路経由で密かにルーアンから移され、一四三二年から一四三六年までモンロティエ城に幽閉され、その後に軍事的な庇護者によって解放されたことになっている。

二〇〇七年にはマルセル・ゲイとロジェ・センジグが『ジャンヌ・ダルク事件』を出し、生存説と庶出王女説を全面的に接続した本としてかなり売れた。この本には即座に反論が飛んだ。オルレアンのジャンヌ・ダルク研究センターに拠るオリヴィエ・ブジー、そして『ジャンヌ・ダルク 真実と伝説』を著したコレット・ボーヌといった史家が、一次資料の読み方の粗さを具体的に指摘した。

生存説をめぐる論争は、フランスでは今も定期的に再燃する固定コンテンツになっている。

替え玉説を分解すると、意外と穴が見えてくる

替え玉説の骨組みはこうだ。顔を覆われていた。群衆は遠ざけられていた。処刑の手続きは飛ばされていた。だから別の女が焼かれた。裁判所も英国も、ジャンヌの神格化を止めたかっただけで、身柄そのものには執着していなかった。あるいはベッドフォード公爵夫人のような有力な女性が、若い娘を焼くことに耐えられず手を回した。ここまでは、話として非常によくできている。

穴はどこか。まず、ルーアンの裁判はイングランドにとって政治的な最重要案件だった。シャルル七世の戴冠を「魔女の仕業」に還元することが目的であり、そのためには断罪した本人を公開処刑する必要があった。生かして逃がすというのは、目的そのものを放棄する行為だ。次に、処刑人ジョフロワ・テラージュは実在の職業人で、後年その良心の呵責を語った人物として複数の証言に登場する。

替え玉なら彼は共犯者になるが、共犯者が二十年後の復権裁判の場で自分から罪悪感を吹聴する理由がない。三つ目、復権裁判では処刑に立ち会った聖職者や書記が具体的な細部を語っている。誰がどこに立ち、何を叫び、誰が十字架を掲げたか。これらの証言はばらつきを含みつつ、核心では整合している。全員を買収したという仮定は、買収の証拠がゼロである以上、仮定のまま宙に浮く。

そして最大の穴が、ザルモワーズの女自身の自白だ。替え玉説は「五年後に現れた女は本物」でなければ成立しない。ところがその本人が、王の前で膝をつき、パリの群衆の前で、私は乙女ではないと言った。生存説はこの自白を「拷問や圧力による偽りの自白」と読み替えるしかない。だが彼女は拷問されていないし、そもそも罰も受けていない。

圧力で嘘の自白をさせられた人間が、十七年後にまた同じ名を騙って恩赦を受けるというのも筋が通らない。

庶出王女説という補強材、そしてその弱点

庶出王女説は生存説とセットで語られることが多い。ジャンヌは王妃イザボーとオルレアン公ルイのあいだにできた娘で、ドンレミの農家に隠されて育てられた。だからこそ十七歳の村娘が突然王太子に面会でき、軍を任され、貴族の言葉づかいを操り、馬に乗れ、槍を扱えた。だからこそ王家は彼女を焼かせず、替え玉を仕立てて逃がし、後に「ジャンヌ・デ・ザルモワーズ」という貴族夫人として生きさせた。物語としての完成度は高い。

全部の伏線が回収される。

弱点も明快だ。この説を成立させるには、王妃の出産と、赤子の移送と、ダルク家への預託と、二十年近い秘密の維持と、火刑の替え玉と、その後の匿名生活まで、関係者数十人が全員沈黙する巨大な口裏合わせが必要になる。中世フランスの宮廷は、そういうことができる環境ではない。むしろ噂と密告と暴露で回っていた社会だ。

レジーヌ・ペルヌーとマリー・ヴェロニク・クランは、この説には信頼できる文書的裏づけがひとつもなく、成立には非現実的な規模の陰謀が要ると指摘している。加えて、ジャンヌの出自を貶めることに全力を注いだルーアンの検察側が、彼女が王家の血縁だという最強のカードを一度も切っていないのは決定的に不自然だ。

ついでに触れておくと、二十世紀初頭にはマーガレット・マレーが、ジャンヌを古代からの異教信仰の司祭であり、魔女として正しく告発されたのだ、という説を出している。一九二一年の著作だ。こちらは現在の学界ではほぼ完全に否定されている。ただ、生存説と同じく、ジャンヌという人物には「表向きの説明では足りない何かがある」と感じる人が絶えないことの証拠ではある。

偽ジャンヌは彼女ひとりではなかった

ここが実は一番効く反証になる。ザルモワーズの女は、ジャンヌを名乗った女の中でたまたま一番成功しただけで、唯一の存在ではない。ジャンヌ・ラ・フェロンヌの名で伝わる女がいた。ジャンヌ・ド・セルメーズという別名で語られる系統もあり、これはザルモワーズの女と同一人物と見る説と、別人と見る説の両方がある。

ジャンヌ本人の生前にも、似たような立場の女たちがいた。ピエロンヌ・ラ・ブルトンヌという女は、神が人間の姿で自分に語りかけると主張し、ジャンヌの正しさを公言して、一四三〇年にパリで火刑になっている。カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルは白い衣の貴婦人が夜ごと現れて隠し財宝の場所を教えると言い、シャルル七世の周辺に食い込もうとした。

この女についてはジャンヌ本人が調査し、二晩付き添って何も見なかったと結論づけている。要するに、当時のフランスには「神の声を聞く女」という需要と供給の市場が確実に存在した。ジャンヌ・ダルクはその市場で唯一成功したケースであり、彼女の死後に同じ商売を始める者が複数出るのは、むしろ当然の帰結だった。

そしてここが効いてくるのだが、他の偽ジャンヌたちは重い罰を受けている。焼かれた者もいる。それに比べてザルモワーズの女は、王からも、後にはルネ王からも、驚くほど甘い処分で済んでいる。生存説はこの差を「彼女が本物だったから」と読む。反論側は「彼女には有力な庇護者と、貴族の夫と、乙女の兄弟という後ろ盾があったから」と読む。どちらの読みも可能だが、後者の方が余計な仮定を必要としない。

復権裁判は、生存説にとって都合の悪い巨大な文書の山だ

一四五五年十一月、ジャンヌの母イザベル・ロメが、兄ジャンと弟ピエールを伴ってパリのノートル・ダムに現れ、娘の名誉回復を求めた。教皇カリストゥス三世がこれを認可し、フランス異端審問長官ジャン・ブレアルらが再審を主導した。予備調査は一四五二年から始まっていた。証人はおよそ百十五人。ドンレミの村人、幼なじみ、従軍した兵士、オルレアンの市民、そしてルーアンの裁判に関わった聖職者たち。

一四五六年七月七日、ルーアンで判決が下る。元の裁判は詐欺と中傷と不正と矛盾によるものであり、無効、無価値であると宣言された。告発条項とコーションの判決文は、記録の写本から破り取られ、ルーアンの公開の場で処刑人の手によって焼かれた。

この巨大な文書の山が、生存説に対して静かに効いてくる。まず、母イザベル・ロメが自ら出てきている。仮に娘が生きていて、しかも一四五五年の時点でまだ活動していたのなら、母親が「死んだ娘の名誉」を回復するために教皇庁を動かすというのは、あまりに歪んだ行動だ。次に、この裁判は徹底的に「彼女は不当に処刑された」という前提で組み立てられている。

裁判に参加したジャンとピエールの兄弟は、その前提を法廷で受け入れている。同じ時期に彼らはセルメーズでザルモワーズの女と飲み食いしていたわけで、この二重生活は現代の目から見ると相当おかしい。おかしいが、「妹は焼かれた」という公式見解を法廷で共有していた事実は残る。

さらに、復権裁判の証言群は、処刑当日の描写を複数の角度から与えてくれる唯一の資料でもある。ここに「実は別人だった」と匂わせる証言は一件もない。二十五年後、当時の英国側の圧力がすでに消え、むしろ「英国はひどいことをした」と言うのが政治的に安全になった時期の証言だ。誰かが替え玉を知っていたなら、そこで漏れないほうが不自然だろう。

一八六七年、パリの薬局の屋根裏で見つかった「遺灰」

生存説と並走してきたのが、遺物をめぐる騒ぎだ。一八六七年、パリのある薬局の屋根裏から、ガラス瓶がひとつ出てきた。中には黒く焦げた肋骨、炭化した木片、布片、そして一本の動物の骨。ラベルには、ルーアンの旧市場で見つかったオルレアンの乙女の遺骸、といった趣旨の文言があった。これはジャンヌが十九世紀のフランスで国民的英雄として再発見され、列福運動が本格化していく時期にぴたりと重なる。

教会はこれを本物の可能性ありとして扱い、シノンの博物館に収められた。一九〇九年の列福でも、この遺物は象徴的な役割を果たした。

決着がついたのは二〇〇六年から二〇〇七年にかけてだ。法医学者フィリップ・シャルリエが教会の許可を得て、この瓶の中身を総動員で調べた。放射性炭素年代測定の結果は、紀元前三世紀から六世紀。中世どころか古代だった。黒い物質からは木の樹脂、瀝青、マラカイトが検出された。これはエジプトのミイラの防腐処理そのものだ。松の花粉が大量に付着していたが、中世のノルマンディーに松林はない。

エジプトの埋葬儀礼では松脂が多用される。極めつけは香りの分析で、シャルリエは香水の調香師を呼んで嗅がせた。専門家はバニラの香りを検出した。バニリンは遺体がゆっくり分解するときに生じる物質で、焼かれた体からは出ない。ミイラからは出る。おまけに、一緒に入っていた動物の骨はネコの大腿骨だった。中世には猫を火刑の薪に投げ込む習慣があったので、それらしく見せる小道具として選ばれたのだろう。

結論は、十九世紀に作られた偽物、である。教会はこの結果を受け入れた。この一件が示したのは、ジャンヌの遺物を欲しがる欲望が、少なくとも十九世紀の時点で偽造を成立させるほど強かったということだ。灰がセーヌに流されて何も残らなかったからこそ、人はそこに何かを置きたがる。生存説も、構造としてはこの偽遺物と同じ穴を埋めようとしている。

同時代の目撃談を、三つ読み直してみる

ひとつめは、メスの年代記作者が書き残した一四三六年五月二十日の場面だ。この記録によれば、ラ・グランジュ・オ・ゾルムに現れた女は、最初から堂々としていた。集まった人々の中に兄ジャンと弟ピエールがいて、二人は彼女を見るなり妹だと認めた。年代記はさらに、彼女がジャンヌ本人しか知らないはずの事柄をいくつも口にしたと伝えている。同じ年代記の別系統の写本では、後にこの女が人々を欺いた者だったと明記される。

同一の年代記が、同一の出来事について、二つの結論を持ってしまっている。これは記録者の心変わりが化石になった珍しい例だ。目撃した瞬間には信じ、後になって取り消した。当時の人間がどれほど揺れたかを、この写本の分岐ほど雄弁に語るものはない。

ふたつめは、ニコル・ルーヴだ。この男は一四二九年七月十七日、ランス大聖堂でシャルル七世が塗油を受ける場に居合わせている。フランス史上もっとも有名な戴冠式のひとつで、その脇には旗を持ったジャンヌ・ダルクが立っていた。ルーヴは本物を見た。その七年後、メス郊外で、彼はもう一度その顔を見たと信じた。そして馬を贈った。剣を贈った。頭巾を贈った。これは軽い気持ちの贈答ではない。

当時の名士が公然と贈り物をするというのは、その人物の身元を保証するに等しい行為だ。彼が騙されたのだとすれば、記憶というものがいかにあてにならないかという話になる。七年の歳月と、男装と、短い髪と、同じくらいの背丈。人の顔の記憶は、そのくらいの条件で簡単に上書きされる。

みっつめは、一四七六年の尋問記録に残る村人たちの声だ。エンリ・ド・ヴールトン、通称ペリネという五十二歳の大工は、ジャンヌの母方の伯父の孫にあたる。彼は、自分が成人してから後に、デュ・リス兄弟が「妹のピュセル」を連れてセルメーズ村に来て宴会をしたのを何度も見たと証言した。

セルメーズの司祭は五十三歳で、二十四年前、つまり一四五二年ごろに、男装して自らを乙女ジャンヌと名乗る若い女がしばしば村に来て、ヴールトン家で大いに陽気に騒いでいたと述べた。七十歳ほどのジャン・ル・モンティグーは、一四四九年に乙女ジャンヌを名乗る女が村に来て宴に加わったと語り、彼女が司祭に球技の勝負を挑み、これであなたはフランスの乙女と勝負したと言えますね、と笑った場面まで覚えていた。

七十六歳のジャン・ギヨームは、その自称乙女と本物の乙女の兄弟たちが同じ家にいるのを見たと証言している。ここに描かれているのは、神秘でも奇跡でもない。田舎の村の宴会場で、球技をして笑い、酒を飲む、生身の女の姿だ。この生々しさが、逆にたまらなく不気味でもある。

ネットと学界で、この話はどう扱われているか

英語圏の掲示板や歴史系フォーラムでこの話題が出ると、まず必ず「兄弟が認めた話」で盛り上がる。次に必ず「でも本人が自白した」で冷める。そのあと「じゃあなぜ兄弟は自白後も一緒に飲んでいたのか」で再燃する。この三段落ちがほぼテンプレになっている。学術寄りの参加者からは、中世の身元確認技術の話が出てくる。写真もなければ身分証もない社会で、人物の同定は基本的に「知り合いが認めるかどうか」しかない。

その仕組みが機能不全を起こした事例として、ザルモワーズの女は教科書的だという整理だ。

日本語圏では、生存説は都市伝説の枠でよく紹介される。処刑時に顔を覆われていたという一点と、五年後に兄弟が認めたという一点だけが切り出されて流通しやすい。一方で、事典系のまとめでは「通説としては扱われておらず都市伝説の域を出ない」ときっちり注記されるのが定番になっている。創作の世界では、ジャンヌが生きていたという設定はほぼ定番の引き出しで、ゲームやライトノベルが繰り返し使ってきた。

この浸透度が、逆にジャンヌ生存説を「なんとなく知っている話」に変えてしまった面はある。

フランスの史学界の空気はもっと硬い。ジャンヌ研究は史料の量が異常に多い分野で、処刑裁判と復権裁判の記録だけで膨大な一次資料がある。だからこそ、資料の読み方が甘い異説には容赦がない。オリヴィエ・ブジーやコレット・ボーヌのような研究者が、生存説の本が出るたびに具体的な誤読を指摘するというサイクルが繰り返されてきた。

他方で、彼らも「なぜザルモワーズの女があれほど受け入れられたのか」という問いそのものは正当な研究課題として扱っている。答えは超自然ではなく、十五世紀の情報環境と、集団心理と、乙女という記憶をまだ手放したくなかった人々の欲望にある、というのが今の主流の読みだ。

なぜ、この話はこんなにも人を掴んで離さないのか

理由はいくつも重なっている。ひとつは、遺体がないこと。灰まで川に流された人間には、墓がない。墓がない人間は、心のどこかで死んでいないことになる。エルヴィスもヒトラーも、遺体の扱いが不透明だった人物には必ず生存説が生えている。ジャンヌの場合、遺体を消したのが敵側の意図的な決定だったという点で、疑いの余地が制度的に用意されてしまった。

ふたつめは、死に方があまりに理不尽だからだ。十七歳で国を救い、十九歳で焼かれた。しかも彼女を担いだ王は、身代金を払って助けようともしなかった。この話には、どうしても救いが足りない。生存説は、その足りない救いを事後的に補う装置として機能する。彼女は逃げた。結婚した。子を産んだ。城で穏やかに歳を取った。この結末を欲しがる気持ちは、正直に言えばよく分かる。

みっつめは、記録が本当に変なことだ。これが一番大きい。生存説の面白さは、荒唐無稽だからではなく、むしろ真面目な一次資料の中に説明しづらい穴が実在するからだ。兄と弟が他人を妹と呼んだ。オルレアン市が公金二百十リーヴルを出した。市が自前の伝令を四十一日も派遣した。年代記が同じ事件で二つの結論を持った。役所の帳簿がある時期まで彼女を故人として書かなかった。これらは全部、確認できる文書に基づく事実だ。

結論としての生存説は間違っている。だが、その材料は捏造ではない。この「材料は本物、結論は偽物」という配合こそ、歴史ミステリーの一番おいしい部分なのだと思う。

よっつめは、ザルモワーズの女そのものの魅力だ。彼女は聖女ではない。詐欺師だ。だが、なかなかの人物でもある。男装して戦場を渡り、教皇軍に加わり、大公妃の宮廷に迎えられ、司教座争いに口を出し、王を前にして靴で見抜き、暴かれても懲りずに二十年近く同じ名を名乗り続けた。十五世紀のヨーロッパで、農村出身の女がここまで自由に動き回った例はほとんどない。彼女はジャンヌ・ダルクではなかった。

でも彼女は彼女で、確実に一つの人生を突破していた。この女の存在自体が、ジャンヌ生存説とは別に、記録に残るべき何かだと思う。

三つの層に分けて、もう一度並べ直す

改めて全体を俯瞰すると、この事件は三層に分けて見るのが一番きれいだ。第一層は、一四三一年五月三十日にルーアンで実際に起きたこと。第二層は、その出来事が同時代のヨーロッパにどう伝わり、どう歪んだか。第三層は、その歪みを近代以降の人間がどう再加工したか。生存説の議論が噛み合わない最大の理由は、この三層をごちゃ混ぜにして語ってしまうことにある。

第一層について言えば、ジャンヌ・ダルクがルーアンで焼死したことは、現代の実証史学ではまったく争われていない。復権裁判の百十五人の証言、処刑裁判の公式記録、当日その場にいた聖職者と書記の具体的な描写、英国側とブルゴーニュ側の記録。これらが揃っていて反証がない以上、死亡は動かない。生存説が第一層で勝つ目は、はっきり言ってゼロだ。

面白いのは第二層だ。ここには本物の謎がある。なぜ一四三六年のロレーヌで、五年前に死んだはずの人物の名前が通用したのか。ここで思い出す必要があるのは、当時のフランスが情報的にどれほど分断されていたかだ。ルーアンはイングランド占領下にあった。ジャンヌの処刑は、イングランド側が主導し、イングランド側が発表した出来事だ。フランス王党派の地域から見れば、それは「敵が言っていること」でしかない。

しかも公開処刑を実際に見たのはルーアンの限られた市民だけで、その証言が数百キロ離れたメスやオルレアンに届くころには、伝聞の伝聞になっている。占領軍の発表を信じないというのは、当時としてはごく健全な態度ですらあった。この土壌があったから、五年後の再登場は「ありえない話」ではなく「ありうる話」として受け止められた。

もうひとつ、第二層で決定的だったのが身元確認という技術の不在だ。現代人はここを想像しにくい。写真がない。似顔絵も普及していない。署名照合も、庶民には通用しない。声紋も指紋も戸籍もない。人物を同定する唯一の方法は、その人を知っている人間が「そうだ」と言うことだけだった。だからこの時代、偽の王子や偽の相続人が定期的に発生している。

イングランドでもパーキン・ウォーベックのような事例が出るし、フランスでもマルタン・ゲールの偽者が村ぐるみで受け入れられた有名な事件がある。ザルモワーズの女は、その種の事件の中でも群を抜いてスケールが大きかっただけで、構造としては特異なものではない。むしろ中世社会の同定システムが持つ弱点の典型例だ。

そして、この弱点は「見たい」という欲望が加わると一気に崩壊する。オルレアンの人々にとって、乙女は抽象的な英雄ではなかった。一四二八年十月から翌年五月まで、彼らは本気で街が落ちると思っていた。飢えて、城壁の上で震えて、そこに突然あの娘が来て、包囲が解けた。その記憶を持つ人間が十年後、乙女を名乗る女を目の前にする。しかも兄と弟が本人だと言っている。ここで疑うほうがよほど強い精神力を要する。

市参事会が二百十リーヴルという実額を議決したのは、判断力の欠如というより、街全体の集合的な願望が制度に押し込まれた結果だと考えたほうがいい。

第三層、つまり近代以降の再加工については、動機がかなりはっきりしている。十九世紀のフランスは、ジャンヌ・ダルクを国民統合の象徴として発明し直した。共和派は民衆の娘としての彼女を、カトリック側は聖女としての彼女を、王党派は王権の守護者としての彼女を、それぞれ必要とした。同じ人物を三方向から引っ張り合ったわけだ。この綱引きの中で、公式の物語に収まらない異説が生まれるのは自然な流れだった。

庶出王女説は、農民出身という共和派的な設定を突き崩す。生存説は、殉教という教会的な結末を突き崩す。どちらも、支配的な物語への対抗として機能した。同じ時期に薬局の屋根裏から偽の遺灰が出てきたのも偶然ではない。需要があるところに供給が生まれただけだ。

現代の再燃も似た構図で読める。二〇〇七年のフランスでジャンヌ生存説の本が話題になったのは、公式の歴史に対する不信が広く共有される時代の空気と無関係ではないだろう。国家が語る歴史は嘘かもしれない、というモードは、陰謀論一般の入り口でもある。ジャンヌ生存説が他の陰謀論と違うのは、繰り返しになるが、材料の質が高いことだ。会計簿は実在する。恩赦状は実在する。一四七六年の証言は実在する。

だからこそ、これは「頭の悪い与太話」として片づけられない。片づけられないから、五百九十年たっても生き続けている。

ここでもう一段深く踏み込んでおきたいのが、ザルモワーズの女の「うまさ」の中身だ。彼女の詐称が成功したのは偶然ではない。彼女はまず、ジャンヌを直接見た人が最も少なく、しかしジャンヌの名声が最も大きい地域を選んでいる。ロレーヌはジャンヌの生地ドンレミに近いが、ジャンヌ本人が有名になってから戻った土地ではない。名前は知っているが顔は知らない人が大量にいる地域だ。

次に彼女は、いきなり王のもとへは行かなかった。地方の有力者、大公妃、司教座の政治勢力といった、彼女を利用する動機のある相手から順に取り込んでいった。そして最後まで、自分から「本物である証拠」を提示しようとしていない。証明したのは常に周囲の人間だった。兄弟が認めた。名士が贈り物をした。市が金を出した。彼女はそれを否定しなかっただけだ。この受け身の構えが、致命的な矛盾を生まなかった。

崩れたのは、証明を要求された瞬間だった。シャルル七世の秘密の祈り。これは彼女が絶対に取得できない情報だった。王本人と、死んだジャンヌしか知らない。周囲の人間がいくら彼女を保証しても、この一点だけは他人が代わりに答えられない。生存説の議論では、王の試験の「柔らかい靴」の逸話ばかりが有名だが、本当の分水嶺はそこではない。

他人の承認だけで成り立っていた身元が、当人にしか答えられない問いに触れた瞬間に消えた、という構造こそがこの事件の核心だ。

彼女の最期については、はっきりしたことが分からない。ロベール・デ・ザルモワーズとのあいだに二人の子をなし、ジョルニーの城で暮らしたという伝えがある。一四四九年に死んだという説もあれば、一四五七年にルネ王から恩赦を受けた「ジャンヌ・ド・セルメーズ」と同一人物で、その時点でジャン・ドゥイエという別の男の妻になっていたという記録もある。同一人物か別人かは決着していない。

同一人物なら、彼女は夫を替え、名を替え、それでも同じ役を演じ続けた執念の女ということになる。別人なら、乙女を名乗る女は少なくとも二人以上いたことになり、この現象がいかに広範だったかの証拠になる。どちらに転んでも話は濃い。

最後に、この事件がいまだに刺さる理由をもうひとつだけ。ジャンヌ・ダルクという人物の記録は、実は世界史の中でも異様に厚い。処刑裁判では、彼女自身の発言が公証人の手で逐語的に書き取られている。中世の農村出身の少女が、自分の言葉で、数十日にわたって記録された例など他にほとんどない。復権裁判では、幼なじみや戦友が彼女の癖まで語っている。つまり我々は、六百年前の十代の少女の声を、直接読める。

それだけの資料があってなお、彼女の最後の瞬間だけが、遺体という物証を欠いたまま宙に浮いている。ここまで克明に残っている人生の、最後の一行だけが空白なのだ。人がそこに何かを書き込みたくなるのは、たぶん止められない。生存説はその空白に書き込まれた、最も長く生き延びた落書きなんだと思う。落書きだと分かっていても、消したくないと思う人が今も絶えない。それがこの話の、いちばん人間らしいところだ。

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