二千年間、誰も足を踏み入れていない部屋が、たぶんまだどこかにある。
クレオパトラ七世とマルクス・アントニウスの墓のことだ。ツタンカーメンは見つかった。アレクサンドロス大王の墓は消えたままだが、そもそも場所の候補が絞れない。ところがこの二人は違う。古代の歴史家が「オクタウィアヌスが二人を同じ墓に葬らせた」とはっきり書いている。作られたことも、埋められたことも、ほぼ確実。なのに、二千年経っても誰も掘り当てていない。
しかも探している連中がまた濃い。二十年間ひとつの神殿を掘り続けるドミニカ共和国出身の元弁護士。タイタニックを見つけた海洋学者。アレクサンドリア湾の海底を三十年以上マッピングし続けるフランス人。そして「もうそこにはない」と言い切って現場を去ったエジプト考古学界の元ボス。全員が同じ一点を見ている。ないはずのない部屋。誰も見ていない部屋。
この記事では、その部屋を巡る話を最初から最後まで追いかける。紀元前30年の夏に何が起きたのか。それを書き残した連中は誰で、どのくらい信用できるのか。蛇は本当にいたのか。墓はどこに消えたのか。そして、なぜ人はこれを二千年も探し続けているのか。長くなる。覚悟してくれ。
紀元前30年八月、アレクサンドリアの空気は塩と煙の匂いがした
まず情景から入る。ここは丁寧にやりたい。
紀元前31年九月、ギリシア西岸のアクティウム沖で、アントニウスとクレオパトラの連合艦隊はオクタウィアヌスの艦隊に敗れた。決定的な壊滅というより、戦線離脱に近い。クレオパトラの船団が戦列を抜けて南へ走り、アントニウスがそれを追った。この一場面が、その後のローマの宣伝で「女に溺れた男が戦場を捨てた」という物語に加工されていく。実際の軍事的事情はもっと複雑だったはずだが、勝った側が書いた歴史が残るというのはこういうことだ。
二人はエジプトへ戻る。そこから約一年、アレクサンドリアの宮廷は奇妙な猶予期間を過ごす。アントニウスは一時期、街を離れてファロス島の突堤に小屋を建て、そこに引きこもったと伝えられる。彼はその場所を「ティモニウム」と呼んだ。人間嫌いで有名なアテナイのティモンにちなんだ名だ。負けた男の自嘲としては出来すぎている。やがて彼は宮廷に戻り、二人は宴会の会を作った。かつては「まねのできない生活を送る者たちの会」と称していたのを、今度は「共に死ぬ者たちの会」と名づけ直した。毎晩のように豪華な食事をした。プルタルコスはこの改名の逸話を、自分の祖父の代から伝わる宮廷内部の話として書いている。
そして紀元前30年の夏、オクタウィアヌスの軍が東西からエジプトへ迫った。ペルシオンが陥ちる。八月一日、アントニウスは最後の出撃をする。彼の騎兵は敵陣へ向かい、そのまま敵側へ寝返った。艦隊は港を出て、オクタウィアヌスの船に近づき、櫂を上げて敬礼した。戦わずに投降したのだ。アントニウスは城壁の上からその一部始終を見ていた。彼は裏切られたと叫び、クレオパトラが自分を売ったのだと確信して、宮殿へ戻った。
クレオパトラはそのとき、自分が建てさせていた霊廟に立てこもっていた。彼女は生前から自分の墓を建設中で、それはイシス神殿のそばにあったとプルタルコスは書く。カッシウス・ディオによれば、その建物は屋根に近い上部がまだ完成していなかった。要するに工事中の墓に、王妃が財宝ごと自分を封じ込めたわけだ。金、銀、エメラルド、真珠、黒檀、象牙、それに大量の香料と麻の束。彼女はこう脅していた。手を出せば全部燃やす、と。これは重要な布石になる。ローマにとってエジプトの財宝は戦後処理の生命線だった。オクタウィアヌスがクレオパトラを生かして交渉し続けた理由の一つが、この放火の脅しだ。
霊廟に籠もった彼女は、アントニウスに使いを送った。内容は「女王は死んだ」。なぜそんな嘘をついたのか、古代の書き手たちも解釈が割れている。恐怖からの錯乱、彼を試すため、あるいは彼が自ら死ぬよう仕向けるため。プルタルコスは断定を避けている。
報せを受けたアントニウスは、従者エロスに自分を殺すよう命じた。エロスは剣を抜き、そして自分自身を刺して先に死んだ。アントニウスは「よくやった」と言い、自分の腹に剣を突き立てた。これが致命傷にならなかった。彼は寝台に倒れ、血を流しながら生きていた。そこへ、クレオパトラが生きているという知らせが届く。彼は運んでくれと懇願した。
ここからの場面が、この物語で最も生々しい。霊廟の扉は封じられていて開けられない。クレオパトラは上階の窓から綱を垂らした。侍女たちと一緒に、瀕死の男を綱で吊り上げたのだ。プルタルコスの描写では、これを見た人々は「これほど哀れな光景はなかった」と語り合ったという。血まみれの男が壁を擦りながら空中を上がっていく。彼は両手を女王のほうへ伸ばしていた。クレオパトラは自分の顔を叩き、胸を掻きむしり、彼の血を自分の顔に塗りつけた。彼女は彼を「主人」「夫」「大将軍」と呼んだ。
引き上げられたアントニウスは、寝台に横たえられ、酒を求めた。飲み干して、彼女に助言した。オクタウィアヌスの側近の中でプロクレイウスだけは信用していい。そして自分の最期を嘆くな、自分は幸福だった男として、ローマ人としてローマ人に敗れたのだから恥ではない、と。プルタルコスの筆はここで妙に静かになる。アントニウスは女王の腕の中で死んだ。八月一日か、その翌日あたりのことだ。
綱で吊られた男と、金の寝台の女王
オクタウィアヌス側は、女王を生け捕りにしたかった。彼女が死ねば財宝が燃えるかもしれないし、何より凱旋式で見世物にできない。だから策を弄した。
プロクレイウスが霊廟へ送られた。彼は扉越しに交渉した。彼女は開けない。そこで別動隊が梯子をかけ、アントニウスが吊り上げられたのと同じ上階の窓から侵入した。侍女の一人が「クレオパトラ様、生け捕りにされます」と叫んだ。女王は懐から短剣を抜こうとした。プロクレイウスが駆け寄って腕を掴み、剣をもぎ取り、服を振って毒物を隠していないか調べた。生け捕り、成立。
その後、彼女は宮殿に移された。監視付きの軟禁だ。プルタルコスによれば、彼女は自分の胸を叩きすぎて炎症を起こし、熱を出して、食事を断った。それを口実に衰弱死しようとしたのだが、オクタウィアヌスは子供たちを引き合いに出して脅した。彼女は食事を再開した。
そしてオクタウィアヌス本人との対面がある。この場面はプルタルコスが最も力を入れて書いたところの一つだ。彼女は寝台にみすぼらしい姿で横たわっていたが、彼が入ってくると跳ね起きて彼の足元にすがった。髪は乱れ、声は震え、目は落ちくぼんでいた。それでも、と歴史家は書く。それでも彼女の魅力と大胆さは消えていなかった、と。彼女は財産目録を差し出した。そこへ会計係のセレウコスが割り込み、隠している品がありますと告げ口をした。クレオパトラは飛びかかってその男の髪を掴み、顔を何度も殴った。オクタウィアヌスは笑った。彼女は「装身具を少し残したのは、あなたの姉上と奥方への贈り物にするためです」と言い訳した。オクタウィアヌスは安心した。この女はまだ生きる気がある、と。
これが罠だった、というのがプルタルコスの読み筋だ。彼女はあえて生への未練を演じて相手を油断させたのだ。
決定打は密告で入った。オクタウィアヌスの側近コルネリウス・ドラベッラが、彼女に密かに伝えた。三日後にあなたはローマへ送られる、と。凱旋式の行列で引き回される。それが彼女に見えた未来だ。
彼女はオクタウィアヌスに手紙を書き、封をして送った。中身は「アントニウスと同じ墓に葬ってほしい」という嘆願だった。手紙を出したあと、彼女は入浴し、豪華な食事をとった。そこへ田舎者らしい男が籠を持って来た。門番が中を見せろと言うと、男は葉をどけてイチジクを見せた。門番たちはその見事さに感心し、いくつか摘まんで通した。
食事のあと、彼女は王家の装いを整えた。金の寝台に横たわる。侍女はイラスとカルミオンの二人だけ。扉は閉ざされた。
オクタウィアヌスは手紙を読んで異変を悟り、人を走らせた。使者が扉を破って飛び込んだとき、クレオパトラは王の全装束のまま金の寝台の上で死んでいた。イラスは足元に倒れて死にかけていた。カルミオンはよろめきながら、主人の頭に載った冠を直していた。使者の一人が怒鳴った。「見事なことだな、カルミオン」。彼女はこう答えた。「まことに見事です。これほど多くの王たちの血を引く方にふさわしい」。そう言い終えて、その場に崩れ落ちた。
これがプルタルコスの伝える最期だ。文学として完璧すぎるほど完璧で、だからこそ疑わなければならない。
誰が書いたのか、いつ書いたのか、どこから聞いたのか
ここから少し面倒な話をする。でも、この話で一番大事な部分でもある。
クレオパトラの最期を詳しく書いた史料は、実は同時代のものが一つもない。全部あとの時代の人間が書いている。
プルタルコスの「アントニウス伝」。これが最大の情報源だ。彼はギリシア中部のカイロネイア出身で、活動時期は西暦一世紀末から二世紀初頭。つまり事件から百三十年ほど後に書いている。日本で言えば、幕末の話を今の作家が書くようなものだ。ただしプルタルコスには強みがある。彼は宮廷内部の話を、身内の伝聞として持っていた。祖父のランプリアスが、アントニウスの料理人と親しかったフィロタスという医学生から直接聞いた話を伝えている。宮廷の厨房で何頭の猪が同時に焼かれていたか、みたいな細部が出てくるのはそのせいだ。さらに、クレオパトラの侍医オリュンポスが回想記を書いており、プルタルコスはそれを読んだと明記している。これは相当に強い情報源だ。
ところが、その侍医オリュンポスの記録には、女王の死因が書かれていない。蛇の話も出てこない。主治医が最期の記録を残しているのに、死因に触れていない。これは決定的におかしい。書けなかったのか、書いたが伝わらなかったのか、そもそも彼が現場にいなかったのか。ここが空白のまま二千年が経っている。
カッシウス・ディオ。ローマ史を書いたビテュニア出身の元老院議員で、三世紀前半の人。事件から二百三十年以上あと。彼は元老院の記録や先行する歴史書を使って書いており、独自の細部をいくつも持っている。霊廟の上部が未完成だったという情報も、腕に微細な刺し傷が見つかったという情報も、ディオ経由だ。ただし二百三十年という距離は重い。彼が使った資料が何だったかは彼自身ほとんど明かさない。
ストラボン。この人が実は一番貴重かもしれない。地理学者で、事件の同時代人。しかも紀元前20年代にエジプトに滞在し、アレクサンドリアを実際に歩いている。事件から十年も経っていない時期に現地にいた人間だ。その彼が「地理誌」で死因についてどう書いたか。「アスプの咬傷によるか、あるいは毒を塗ったことによるか」。両論併記だ。現地にいて、現地の人間から話を聞ける立場にあった同時代人が、断定していない。この一点は、蛇説を検討するときに何度でも立ち戻るべき事実だ。
詩人ホラティウス。彼はクレオパトラの死の直後、ほとんど速報のような詩を書いている。そこでは女王が「猛る蛇」を身に受け、黒い毒を体に取り込んだと歌われる。これは同時代の証言と言えなくもないが、詩だ。しかもオクタウィアヌス体制側の詩人が、勝利の高揚の中で書いた詩だ。事実確認済みの記事ではない。
医学者ガレノスは二世紀の人で、彼女が自分の腕を噛んで、そこに用意しておいた毒を擦り込んだという説を伝えている。フロルスやウェッレイウス・パテルクルスといったローマの著述家は蛇説を採る。プルタルコスは複数の説を並べたうえで、「真相は誰も知らない」と正直に匙を投げる。彼は蛇説を紹介しながら、同時に「中空の器具、おそらく髪飾りのようなもの」で毒を体内に入れたという説も書き留めている。
つまり、古代の書き手たちですら一致していなかった。私たちが「クレオパトラは蛇に噛まれて死んだ」と刷り込まれているのは、後世の絵画と演劇と映画のせいであって、史料がそう言っているからではない。
籠の中に本当にコブラは入っていたのか
蛇説を真正面から疑ってみよう。
まずサイズの問題。アスプと呼ばれた蛇はエジプトコブラだと考えられている。成体は一メートルから二メートル、大きいものはそれ以上になる。腕くらいの太さがあることもある。これをイチジクの籠に隠して門番の目を欺くのは、物理的にかなり厳しい。子供の個体なら入るが、毒の量が減る。
次に、死者は三人いる。クレオパトラ、イラス、カルミオン。カルミオンは女王が死んだあとも意識があり、冠を直して受け答えをして、それから倒れた。一匹の蛇が三人を順番に噛み、しかも三人ともほぼ同時に、統制のとれたタイミングで死ぬ。これは蛇毒の作用としては都合が良すぎる。エジプトコブラの毒は神経毒で、呼吸筋の麻痺を起こす。死に至るまでの時間は個体差が大きく、数十分から数時間かかることもある。しかも咬まれても毒がほとんど注入されない「空咬み」が一定割合で起きる。三人続けて確実に、というのは運任せが過ぎる。
さらに、蛇毒による死は美しくない。嘔吐、失禁、痙攣、大量の発汗、顔面の歪み。ところが伝わっている描写は、王家の装いのまま整然と横たわる女王の姿だ。もちろん美化された可能性は高い。だが、部屋に踏み込んだ人間が「静かに死んでいた」と証言したのなら、その静けさは何かを示している。
ここで二〇一〇年、ドイツの古代史学者クリストフ・シェーファーと毒物学者ディートリヒ・メプスが提示した説が効いてくる。彼らは蛇毒の症状と伝承の記述が噛み合わないと指摘し、代わりに毒物の混合物、具体的にはドクニンジンとアヘンとトリカブトを組み合わせたものを飲んだのではないかと主張した。この組み合わせなら、比較的短時間で、意識を保ちながら、苦悶の少ない死に至る。三人が順に飲めば、時間差も説明がつく。彼らはエジプト現地で毒蛇の研究者にも取材し、コブラによる即死の再現性の低さを確認したと述べている。
クレオパトラ自身が毒物に強い関心を持っていたという伝承もある。死刑囚を使ってさまざまな毒の効き目と苦痛を試し、最も穏やかに死ねる方法を探していた、という話をプルタルコスは記録している。真偽は不明だが、少なくとも当時の人々は「この女王なら毒を研究していてもおかしくない」と考えていたということだ。ヘレニズム期の宮廷は毒殺の文化があった。王家の人間が解毒剤と毒物の知識を持つのは、教養というより実務だった。
では、なぜ蛇の話が定着したのか。ここが面白いところで、蛇のほうが誰にとっても都合が良かったからだ。エジプト王権の象徴であるコブラ、額を飾るウラエウスは、王の守護と神格化の記号だ。コブラに噛まれて死ぬことは、エジプトの文脈では神の側に迎え入れられることを意味しうる。クレオパトラ自身が最期の演出としてそれを選んだ、という読みも成り立つ。
一方でオクタウィアヌス側にも旨味があった。彼は凱旋式で、クレオパトラの像に蛇を絡ませて行進させたと伝えられる。生きた本人を引き回せなかった代わりに、像を使った。そこで蛇のイメージが公式に流通した。東方の妖しい女王が、エジプトの毒蛇によって自滅した。この物語はローマの世論に対して完璧に機能する。彼は彼女を殺していないことになるし、彼女は異国の魔物めいた存在として片付けられる。
だからこそ、より過激な説も出てくる。オクタウィアヌスが暗殺させたのではないか、という見方だ。犯罪プロファイラーのパット・ブラウンなどがこの線を主張している。理屈はこうだ。生きたクレオパトラは政治的に厄介すぎる。カエサルの子カエサリオンという爆弾を産んだ女で、ローマの民衆やエジプトの民衆に対する象徴的な力を持つ。凱旋式で引き回せば同情が集まる可能性もある。殺して自殺に見せかけるのが最も安全だ、と。ただしこれは動機の推測であって、物証はない。反論も明快で、もし暗殺なら侍女二人まで殺す必要があったのか、そして生きた王女という切り札を本当に手放すか、という点だ。実際オクタウィアヌスは彼女の娘クレオパトラ・セレネを凱旋式で歩かせ、その後ヌミディアの王に嫁がせている。捕虜としての利用価値を彼はよく理解していた。
結局のところ、確実に言えるのはこれだけだ。彼女は紀元前30年八月十日か十二日ごろ、アレクサンドリアで死んだ。三十九歳。死因の物証は一つも残っていない。
「同じ墓に葬らせた」――勝者が書かせた一行が全部の出発点
さて、墓の話に入る。
この探索がそもそも成立しているのは、古代の記述に埋葬の事実が明記されているからだ。プルタルコスは、オクタウィアヌスが彼女の遺体をアントニウスと共に、王者にふさわしい仕方で葬らせたと書く。カッシウス・ディオも、二人が同じやり方で防腐処理され、同じ墓に納められたと記す。ディオはさらに、その霊廟が未完成のままだったことにも触れている。
考えてみると、これは奇妙な寛大さだ。オクタウィアヌスは、自分の姉オクタウィアを捨ててエジプトの女王に走った男を、ローマの敵として徹底的に貶めてきた。アントニウスの記念日を呪われた日と定め、その名を執政官名簿から削らせた。記憶の抹殺に近い扱いをしている。にもかかわらず、遺体は敵の女王と一緒に、王者の礼で埋葬させた。
これをどう読むか。政治的計算という読みが自然だ。ローマの世論に対しては、私は寛大で、敬虔で、死者を辱めない男である、と示せる。エジプトの民衆に対しては、王家の埋葬の儀礼を守った新支配者として振る舞える。エジプトは穀倉地帯であり、暴動を起こされたら困る。彼はエジプトを元老院管轄の属州にせず、皇帝直属の特殊な地位に置いた。それだけ神経を使っていた土地だ。埋葬の許可は、統治の初手として非常に安上がりな善政だった。
ややこしいのは、アントニウスの遺体の扱いだ。ディオの記述には二人が同じように防腐処理されたとあるが、別の伝承ではアントニウスは火葬されたともされる。もしそうなら、彼の墓には遺骨か遺灰しかない。この違いは、将来もし墓が見つかった場合に大きな意味を持つ。ミイラ二体が並んで出てくるのか、ミイラ一体と骨壺なのか。想像上の絵が変わってくる。
もう一つ押さえておきたいのは、財宝がその場に残っていないということだ。オクタウィアヌスは霊廟の中身をきっちり接収した。エジプトから運ばれた金銀は帝国中の債務を軽くし、ローマの金利を大幅に下げたと伝えられている。神殿の奉納品まで持ち出された。つまり、仮にクレオパトラの墓が今日発見されたとしても、ツタンカーメンのような黄金の洪水は期待できない。中にあるのは人間の遺骸と、埋葬儀礼のための最低限の品だけかもしれない。それでも人類史上屈指の発見になるのは、金の量とは関係のない理由からだ。
ちなみにオクタウィアヌスは、この滞在中にアレクサンドロス大王の遺体を見に行っている。棺から出させて実際に眺め、遺体に触れ、そのはずみで鼻の一部を折ってしまったという逸話が伝わる。プトレマイオス朝の歴代の王の墓も見るかと勧められたが、彼は断った。「私は王ではなく王を見に来たのだ」と言ったという。この一言は重要な情報を含んでいる。紀元前30年の時点で、プトレマイオス朝の王家の墓所はアレクサンドリア市内にまとまって存在し、案内可能な状態だった。つまり公然たる観光名所に近かった。ならばクレオパトラの霊廟も、その圏内かその近傍にあったと考えるのが自然だ。
王家の墓所ごと、街が海に沈んだ
じゃあなぜ見つからないのか。答えの半分は地質にある。
アレクサンドリアはアレクサンドロス大王が紀元前331年に建設した都市だ。プトレマイオス朝の首都として三百年近く栄えた。ムセイオンと大図書館があり、ファロスの大灯台があり、東の港である大港には王宮地区が突き出していた。ブルケイオンと呼ばれた王宮区は、市街の面積の三割か四割を占めたとも言われる。ロキアス岬が湾に腕のように伸び、そこに宮殿群があった。ストラボンは実際にこの街を歩き、王宮群が互いに連なって拡張されていく様子を書き残している。歴代の王が自分の宮殿を建て増していったのだ。
王家の墓所は「セマ」あるいは「ソーマ」と呼ばれた区画にあったとされる。アレクサンドロス大王の遺体を安置し、プトレマイオス朝の王たちが周囲に葬られた。位置は市の中心部、二つの大通りが交わるあたりという説が有力だが、確定していない。
問題はここからだ。アレクサンドリアの地面は、ゆっくりと、しかし確実に沈んだ。
原因は複合的だ。第一に地盤沈下。デルタ地帯の軟弱な堆積層の上に建った街で、地層の圧密によって沈む。第二に海面上昇。第三に地震。地中海東部はヘレニック弧という活発な沈み込み帯を抱えている。西暦365年、クレタ島沖で巨大地震が起き、津波がアレクサンドリアを襲った。歴史家アンミアヌス・マルケリヌスがこの災害を記録している。海が引いて海底が露わになり、人々が魚を拾いに走り、そこへ壁のような波が戻ってきた。船が家々の屋根の上に打ち上げられた。この日はのちに「恐怖の日」として長く記憶された。
さらに1303年、再びクレタ島沖で大地震が起きる。津波のモデル計算では、アレクサンドリアでの最大遡上高は九メートル前後、地震発生から四十分ほどで第一波が到達したと推定されている。船が数キロ内陸まで運ばれ、市壁の大部分が崩れた。すでに損傷していたファロスの大灯台は、この地震で決定的な打撃を受けた。灯台の残骸は後に要塞の石材として再利用され、一部は海底に沈んだ。
こうした地震と津波と地盤沈下の積み重ねで、古代アレクサンドリアの海岸線は現在の海岸線より内陸側にあった部分が水没した。王宮地区の相当部分、東の港の中の島や突堤は、今は海の下だ。深さにして五メートルから八メートル程度、その上に何メートルもの堆積物が乗っている。
つまり、クレオパトラの霊廟が王宮の近くにあったのなら、それは陸ではなく海の底にある可能性がかなり高い。しかもその海は、現代アレクサンドリアという人口五百万人超の巨大都市の目の前だ。港は稼働しているし、水は濁っている。
海の底の王宮を三十年かけて描き直した男
そこに潜り続けているのがフランス人のフランク・ゴディオだ。
彼は元は経済畑の人間で、国際的な金融機関で働いていた経歴を持つ。それを捨てて海洋考古学に転じた。1992年からエジプト当局の許可を得てアレクサンドリア東港の調査を始め、以後三十年以上にわたって湾の底を測り続けている。調査域はおよそ四百ヘクタール。彼のチームは、海底に沈んだ都市の地図をゼロから作り直した。
手法が渋い。まず広域を電子的に探査する。要になったのが核磁気共鳴磁力計で、これは堆積物の下に埋もれた構造物や遺物の分布を、掘る前に検出できる。海底の泥を全部どけるのは不可能だから、まず物理探査で当たりをつけ、そのうえで限定的に掘る。この順序を徹底したことが、彼の調査が「宝探し」ではなく考古学として評価されている理由の一つだ。
出てきたものが凄まじい。アンティロドス島と呼ばれた王宮付属の島の輪郭が浮かび上がり、その上の建築の基礎が確認された。ポセイディオンと呼ばれた岬状の張り出し、そしてアントニウスが引きこもったと伝えられるティモニウムに相当する構造も特定された。イシス神殿の遺構が見つかり、スフィンクス像が引き上げられ、そのうちの一体はプトレマイオス十二世、つまりクレオパトラの父を表すと考えられている。カエサリオンを表すとされる像の頭部も上がった。紀元前一世紀の遊覧船の船体も見つかっている。
そして最も重要な成果は、ゴディオ自身が繰り返し述べているとおり、古代の文献から想像されていた大港の地形が、実際とはかなり違っていたという点だ。ストラボンの記述をもとに描かれてきた復元図が、実測によって書き換えられた。地図が変わるということは、その地図の上で行われてきた推理も全部やり直しになるということだ。
ゴディオはクレオパトラの霊廟について、アンティロドス島の宮殿とイシス神殿のあいだのどこかにあるのではないかという見立てを示してきた。プルタルコスが霊廟はイシス神殿のそばにあったと書いているのだから、海底でイシス神殿の遺構が出た以上、その近傍を探すのは筋が通っている。
ただし、海底調査には限界がある。堆積物が厚い。視界がほとんどない日もある。港湾の運用と重なるため潜れる時期と場所が限られる。そして何より、二千年のあいだに石材は徹底的に再利用されてきた。アレクサンドリアの中世以降の建物には、古代の柱や石材が普通に使われている。墓の上部構造が残っている可能性は低い。残るとすれば地下の墓室だ。
弁護士が古代史に殴り込んだ日
ここでもう一人の主役が登場する。カティア・マルティネス・ドミンゲス。ドミニカ共和国出身の弁護士だ。
彼女の物語は、それ自体が一本の映画になっている。少女のころ、父親の書斎でクレオパトラについての記述を読み、そこに書かれた「奔放で無節操な東方の女王」というイメージに納得がいかなかった。彼女はこう考えた。これは敗者についての記録で、しかも勝者の側の文献から作られている。法廷でこんな証言だけを根拠に有罪判決を出したら、控訴で必ずひっくり返る、と。
彼女は法律家として訓練を受けた人間の思考法を持ち込んだ。動機、機会、そして当事者が何を最重要と考えていたか。彼女の推論の核は、クレオパトラが自分の遺体をローマ人に渡すつもりなど絶対になかった、という一点にある。ローマ人がどう遺体を扱うか、彼女は知っていた。政敵の首を演壇に晒す文化だ。カエサルの暗殺を経験し、共和政末期の内戦を至近距離で見てきた王妃が、自分の亡骸の運命に無頓着だったとは考えにくい。
さらに彼女は宗教的な文脈を重視する。クレオパトラは生前から自らをイシス女神の化身として振る舞った。「新しいイシス」と呼ばれた。アントニウスはディオニュソス、そしてエジプト的にはオシリスに擬えられた。イシスとオシリスの神話では、殺されて切り刻まれたオシリスの体をイシスが集めて復活させる。もしこの神話を最期の演出として引き受けるなら、埋葬されるべき場所はオシリス信仰の聖域だ、という論理になる。
そこで彼女が目をつけたのが、アレクサンドリアの西およそ四十五キロ、地中海とマリュート湖のあいだの細長い石灰岩の尾根の上に建つ、タポシリス・マグナの神殿だった。
彼女は自費でエジプトに渡り、当時の考古最高評議会のトップだったザヒ・ハワスに面会を求めた。ハワスの側から見れば、考古学の学位もない外国の弁護士が「クレオパトラの墓の場所が分かった」と訪ねてきたわけだ。彼は当初、二週間だけの許可を出したと語っている。それが二十年続いている。
タポシリス・マグナ――「オシリスの大いなる墓」という名の場所
その神殿はどんな場所なのか。ここは押さえておく価値がある。
創建はプトレマイオス二世フィラデルフォスの時代、紀元前280年から270年ごろとされる。地名そのものが「オシリスの大いなる墓」を意味すると解釈されてきた。プルタルコスもエジプトの宗教について論じた著作の中で、この地の名に言及している。オシリスの体の一部が葬られた場所とする伝承が、この地域に結びついていた。
神殿は巨大な方形の周壁に囲まれている。石灰岩の壁が今もかなりの高さで立っていて、遠くから見るとほとんど要塞だ。実際、後代には要塞や修道院として転用された時期がある。近年の発掘で、この神殿がイシスに捧げられていたことを示す礎板が見つかっている。マルティネスの論の土台の一つがこれだ。イシス神殿であり、名前はオシリスの墓を意味し、そしてクレオパトラは新しいイシスを名乗っていた。
神殿から少し離れた場所には、「アブシールの塔」と呼ばれる石造の塔が立つ。三段構成のこの塔は長らくファロスの大灯台の縮小模型、あるいは灯台そのものの復元手がかりとされ、実際に大灯台の復元図はこの塔を参考に描かれてきた。ただし1974年に出た包括的な研究は、この塔は灯台でも見張り塔でもなく、大灯台が建てられた後に作られたプトレマイオス朝の葬祭記念建造物だと結論づけている。この「葬祭記念建造物」という性格づけは、墓を探す側にとっては追い風になる。
発掘の歴史も長い。二十世紀前半にイタリアの考古学者エヴァリスト・ブレッチャがこの地域を調査した。1998年以降はハンガリーの調査隊が体系的な発掘を進めた。マルティネスの調査隊が入るのは2002年から2005年にかけてのことで、以後、エジプト・ドミニカ合同調査隊として毎シーズン掘り続けている。
一つ強調しておきたいのは、マルティネスの調査が「クレオパトラの墓が出なかったら無駄」という話ではまったくないという点だ。この二十年で、この神殿の性格についての理解は大幅に更新された。周壁の内外から膨大な埋葬遺構が出てきたことで、ここが単なる地方神殿ではなく、プトレマイオス朝後期からローマ期にかけて相当な規模で機能していた宗教・葬祭複合体だったことが分かってきた。彼女自身、「まだ墓は発見していないが、この地域の歴史は書き換えた」と述べている。この発言は謙遜ではなく事実だと思う。
金の舌、三百枚を超える貨幣、そして千三百メートルの穴
出土品を順に見ていこう。ここが一番わくわくする部分だ。
まず貨幣。神殿とその周辺から、クレオパトラの肖像と名を刻んだ貨幣が繰り返し出土している。累計は三百枚を超え、二〇二四年の発表では三百三十七枚という数字が挙がった。この意味は二重だ。一つは年代決定で、この神殿が紀元前一世紀半ば、まさにクレオパトラの治世に活発に使われていたことを示す。もう一つは肖像そのものの価値で、ハーバード大学の古代貨幣研究者イレーネ・ソト・マリンが指摘するように、貨幣の肖像は古代において最も多くの人の目に触れた「公式の顔」であり、彼女の容貌を知る最も信頼できる資料の一つだ。映画やイラストで描かれる絶世の美女ではなく、鉤鼻で顎の張った、意志の強そうな横顔がそこにある。
次に、二〇二一年に世界中を駆け巡った「金箔の舌を持つミイラ」。神殿の下から見つかった十六基の岩窟墓の調査中に出てきた。保存状態はよくないが、口の中に舌の形をした金箔の護符が納められていた。これは死者が来世で神々の前に立ったとき、言葉を話せるようにするための呪具だと考えられている。冥界の主オシリスに対して自分の潔白を申し立てる場面のためだ。同じ時期の発表では、金箔のカルトナージュに包まれた二体のミイラも報告された。一体はオシリスの装飾で覆われ、もう一体は角のある冠にコブラをあしらい、胸にはホルスを表す鷹の首飾りを付けていた。ほかに花輪の葉を模した金箔の護符が複数、ギリシア・ローマ期の大理石の仮面が八点、ほぼ完全な女性の埋葬用仮面、そして被葬者の髪型や顔立ちを写した像が出ている。
そして二〇二二年の目玉が、地下トンネルだ。神殿の地下十三メートルの位置で、砂岩を掘り抜いた通路が見つかった。全長は千三百五メートル、高さは約二メートル。調査隊はこれを「幾何学的な奇跡」と呼び、サモス島のエウパリノスのトンネルに匹敵する土木技術だと評した。エウパリノスのトンネルは紀元前六世紀に両側から掘り進めて中央で正確に合流させた古代土木の傑作だから、これはかなり強い賛辞だ。トンネルの一部は水没していて、中から陶器片や石灰岩のブロックが回収された。
このトンネルの性格については、当初から議論があった。多くの専門家は導水路、つまり水を通すためのトンネルだろうと見ている。神殿と周辺の集落に水を供給するインフラだ。実際、地中海世界には同様の岩盤掘削導水路が各地にある。一方でマルティネス側は、それが単なる水道であっても、墓へ至る経路として転用された可能性は排除できないと考えている。
二〇二四年末には、さらに賑やかな発表があった。白大理石の小さな胸像、ハトホルを表す青銅の指輪、太陽神ラーに捧げられた護符、儀礼用の頭飾りをつけた王の像、水没した区画から回収された油皿と土器、そして新たな墓域。この胸像を巡って、盛大な喧嘩が起きた。それは次の章で扱う。
さらに二〇二五年九月。エジプトの観光・考古省が、タポシリス・マグナの沖合で水没した港湾を確認したと発表した。水深はおよそ十二メートル前後。高さ六メートルを超える人工の石造構造、磨き上げられた床面、柱、固められたブロック、大小さまざまな石製と金属製の錨、そして割れたプトレマイオス期のアンフォラが多数。海底の岩礁地形には調査隊が「サラム5」「三姉妹」といった愛称を付けている。神殿から伸びるトンネルの方向が、この沈んだ港のほうを指しているという指摘もなされた。この海底調査に加わったのが、タイタニックの残骸を発見したことで知られる海洋学者ロバート・バラードだ。ソナーによる海底地形の走査と潜水調査を担当した。
反論する人たち――そして現場を去ったボス
ここまで読むと「もうすぐ見つかるんじゃないか」と思うかもしれない。だが、専門家の多数派はまったくそう思っていない。
最も象徴的なのがザヒ・ハワスの態度の変化だ。彼はマルティネスに最初の許可を出した人物であり、十一年にわたって共同で現場に関わった。その彼が、探索を打ち切ると公言した。理由は単純で、証拠がないから。彼の言葉はこうだ。あの神殿でクレオパトラの墓の発見につながる手がかりは何も出ていない、と。そして彼自身の見立ては明確だ。クレオパトラは自分の宮殿の隣に建てた墓に葬られ、その墓は今、水の下にある。
ハワスは以前、「エジプト人は神殿の中に埋葬しない」という論拠でタポシリス・マグナ説を退けたことがある。これには反論がある。第二十一王朝と第二十二王朝の王たちはタニスの神殿域の内部あるいはその至近に葬られている。神殿囲繞地の内部埋葬は前例がある。ハワスの主張のこの部分は、少なくとも一般論としては強すぎた。
とはいえ、彼の中心的な批判は別のところにある。プルタルコスもストラボンも、王妃の霊廟がアレクサンドリアにあったと書いている。しかも王宮のすぐそば、イシス神殿の隣に。文献がそう言っているのに、なぜ四十五キロ離れた場所を最初に掘るのか。
古典学者のデイヴィッド・メドウズは、この点をもっと辛辣に指摘した。彼の言い方を借りれば、タポシリス・マグナで墓が見つからないという「証拠の不在」が、なぜかアレクサンドリアという本命を捨てる理由に使われている、と。論理の向きが逆なのだ。
オックスフォード大学アシュモリアン博物館のスーザン・ウォーカーも、古代の文献は霊廟をアレクサンドリア市内に置いていると指摘する。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の古典学名誉教授ロバート・ガーヴァルは、そもそも二千年を無傷で生き延びる可能性が極めて低いと見る。彼の言葉はこうだ。人の手が触れなかったとしても、地震と海水が墓を埋めるか沈めるかしていただろう、と。ある報道機関がクレオパトラ研究者十人以上に取材したところ、タポシリス・マグナ説に証拠があると考える人はほとんどいなかった。
歴史小説家のジュディス・スタークストンは、方法論の側から批判している。特定のものを探すという前提で掘り始めること自体が、考古学として危うい。遺跡のあらゆる層はそれ自体として価値があるのに、目的に合う発見だけが強調され、合わないものは軽く扱われる。彼女の比喩が効いている。リンカーンの顔が硬貨に彫られているからといって、机の上の小銭入れが彼の埋葬地の目印になるわけではない、と。神殿の名前がオシリスに由来し、女神がイシスだからといって、それは墓の証明にならない。
二〇二四年の大理石の胸像を巡る応酬は、この対立が今も生きていることを示した。マルティネス側はクレオパトラの肖像である可能性を示唆した。ハワスは即座に否定した。彼の指摘は様式論だ。あれはクレオパトラではない、ローマのものだ、と。プトレマイオス朝の王族はエジプト風の様式で表現されるのが通例であり、ローマ様式の彫刻はクレオパトラの死後のものと見るべきだという理屈だ。エジプト考古最高評議会の事務総長モハメド・イスマイル・ハーレド自身が、多くの考古学者はこの同定に異議を唱えており、顔立ちが知られているクレオパトラの表現と異なる、と述べた。省の公式見解も、別の王族女性か王女の可能性が高いという線に落ち着いた。
説を一つずつ並べてみる
ここで、有力な説を順番に、それぞれ独立して検討しておきたい。
タポシリス・マグナ説。核心は、遺体が最初アレクサンドリアで埋葬されたあと、イシスとオシリスの神官たちの手で密かにこの神殿へ移された、というシナリオだ。マルティネスはこの再埋葬説を明確に述べている。強みは、この神殿が実際にクレオパトラの時代に活発に機能していたと出土品が示していること、イシス神殿であること、地名がオシリスの墓を意味すること、そして二十年の発掘で埋葬遺構と大規模な地下構造が実在すると分かったこと。弱みは、再埋葬を裏づける古代の記述が一行も存在しないこと。ローマの監視下で、しかも属州化直後の混乱期に、王家の遺体を四十五キロ運んで秘密裏に埋め直すという工作が可能だったかどうかも疑わしい。この説は魅力的だが、その魅力の大半は物語としての完成度に由来する。
アレクサンドリア市街地下説。文献に最も忠実な立場だ。霊廟は王宮地区、イシス神殿の隣にあった。その一帯のうち海に沈んでいない部分は、現在の市街地の下にある。ここが致命的で、アレクサンドリアは今も生きた大都市だ。人口は五百万人を超える。古代の地層の上に、ローマ期、ビザンツ期、イスラム期、オスマン期、近代、現代の建物が積み重なっている。中心部を面的に発掘するのは、都市を止めない限り不可能だ。実際、この街の考古学は、建物の建て替えや地下鉄工事の合間に短期間だけ調査に入る「救済発掘」に頼らざるをえない。アレクサンドロス大王の墓の候補地として長く注目されてきたモスクの地下も、宗教施設である以上そうそう掘れない。つまりこの説は、正しくても検証が極めて難しいという性質を持つ。研究者が心の中では市街地下説を採りつつ、現場としては他の場所を掘る、という構図が生まれる原因がここにある。
海没説。地震と津波と地盤沈下によって、霊廟が海底にあるという立場。ゴディオの調査が示したように、王宮地区の相当部分は実際に水没している。ハワスもこの立場に近い。この説の強みは、物理的な蓋然性が高いこと。弱みは、発見難度が跳ね上がることと、上部構造がほぼ確実に失われていること。海底の堆積層を剥がして地下墓室を探すのは、技術的にも予算的にも重い。それでも磁力計とソナーの精度は上がり続けているので、二十年前に不可能だったことが可能になりつつある。
既発見隠蔽説。ネット上で根強い。中身はいくつかのバリエーションがある。エジプト政府がすでに墓を見つけていて、観光戦略上のタイミングを見計らって発表を遅らせている、というもの。西洋の調査団が発見物を持ち出して秘匿している、というもの。あるいは、遺伝子解析の結果がクレオパトラの民族的出自について政治的に不都合だったので伏せられた、というもの。どれも同じ構造をしている。発見がないことを、隠蔽の証拠として読み替える構造だ。この論法は反証不可能で、だからこそ検証に値しない。実務面から見ても成立しにくい。エジプトの発掘現場には考古省の監督官が常駐し、出土品は国家の財産と法で定められている。調査隊は複数国籍のメンバーで構成され、大学院生も入る。学術発表と報道発表が競合する世界で、これほどの規模の情報を全員が黙り続ける体制は考えにくい。むしろ現実は逆で、エジプトの考古行政は発見を早めに、しばしば学術的な検証が済む前に発表する傾向がある。金の舌のミイラも、大理石の胸像も、まず公式アカウントの投稿として世界に流れた。隠すどころか、前のめりだ。
現場の人間が何を言っているか
ここからは、当事者たちの声を少し長めに紹介したい。
カティア・マルティネス。彼女がこの二十年で最も繰り返してきたのは、自分は考古学者の目ではなく法律家の目で見ている、という主張だ。彼女はこう言う。エジプト学者たちは場所のことだけを考えているが、弁護士なら考慮に入れる別の要素がある、と。動機と行動の合理性の話だ。クレオパトラは何を守ろうとしたか。誰に遺体を渡したくなかったか。その答えから逆算すれば、探すべき場所は変わってくる。二〇二五年に沈んだ港を確認したときの彼女の反応は、研究者というより探検家のものだった。こういう瞬間に、自分が生きていると強烈に感じる、と彼女は語っている。同時に彼女は現実的でもある。墓はまだ発見していない、それでもこの地域の歴史は書き換えた、と自分で言い切っている。二十年間、毎シーズン許可を更新し、資金を集め、批判を浴びながら同じ丘を掘り続ける。この持久力そのものが、この物語の核だ。
ロバート・バラード。タイタニックの残骸を発見した男が、なぜクレオパトラの墓探しにいるのか。彼の専門は深海の探査技術で、音響測深とソナーによる海底地形図の作成、そして遠隔操作機を使った精密調査だ。タポシリス・マグナ沖の調査では、古代の海岸線が現在の海岸線からおよそ四キロ沖にあったことを、地形データと海面変動のシミュレーションから割り出した。そのうえで、珊瑚礁に守られた内側の泊地を特定した。神殿から伸びる地下トンネルの方位と、この沈んだ港の位置関係について、彼は端的に述べている。見つけた、トンネルはまっすぐそこを指していた、と。もちろんこれは港の発見についての言明であって、墓の発見ではない。だが、この現場に世界最高峰の海洋探査技術が入ったという事実は、調査の質を確実に一段階引き上げた。
ザヒ・ハワス。彼の立ち位置は複雑だ。マルティネスに扉を開けたのは彼であり、共同調査の顔として長く報道に登場したのも彼だ。彼はかつて、こう語っていた。もしクレオパトラとアントニウスの墓を発見しなかったとしても、我々はこの神殿の内外で大きな発見をした、と。この言い方は用意周到だと批判もされた。見つかっても勝ち、見つからなくても勝ち、という構えだからだ。そして彼は最終的に、探索の終了を宣言した。あの場所に手がかりはない。彼が今立っているのは、王宮の隣、そして水の下、という古典的な立場だ。長く現場にいた人間が撤退を選んだという事実は、タポシリス・マグナ説にとって最も重い一撃になっている。
フランク・ゴディオ。彼はメディアで墓の発見を予告するタイプではない。三十年以上、湾の底の地図を作ることに徹してきた。彼のチームが示した最大の成果は、派手な出土品ではなく、大港の実際の地形が古典文献からの想像図と違っていたという地味な事実だ。この修正がなければ、海底のどこを探すべきかという議論すら成立しない。彼はイシス神殿の遺構を海底で確認し、霊廟がその近くにある可能性を示唆してきた。派手さはないが、この人の仕事が最も長期的な効果を持つと私は思う。
イレーネ・ソト・マリン。ハーバード大学の古代貨幣研究者で、タポシリス・マグナから出た大量の貨幣について語っている。彼女の指摘は、墓探しの熱狂の外側にある冷静な視点だ。貨幣の肖像は、古代においてどの皇帝どの王妃についても最も多くの人が目にしたイメージだった。つまり、それが当時の人々にとっての「その人の顔」だ。あの神殿から三百枚以上のクレオパトラ貨幣が出たという事実は、墓の証拠にはならないが、その場所と時代の結びつきを示す実証的な証拠としては極めて強い。
掲示板とタイムラインで何が起きているか
ここからは、少し俗な話をする。この墓探しは、ネット上でずいぶん独特な文化圏を作った。
まず定番のミームがある。「毎年クレオパトラの墓は見つかりそうになっている」というやつだ。実際、報道の見出しを並べると笑えてくる。トンネル発見、墓につながる可能性。ミイラ発見、墓の証拠か。胸像発見、女王本人か。港発見、墓に一歩近づく。年に一回か二回、必ず「一歩近づいた」ニュースが来る。そして墓は出ない。この繰り返しが十年以上続いているので、考察好きのあいだでは「タポシリス・マグナの一歩」というジョークが成立している。
この構図を作っているのは、たぶん調査隊だけの責任ではない。エジプトの考古行政にとって発見の発表は観光政策と直結しているし、海外のドキュメンタリー制作は「今まさに歴史が動くかもしれない」という緊張を必要とする。二〇二五年秋にナショナルジオグラフィックが放送した特番も、まさにそのフォーマットだった。研究の実態は地道な層位の記録なのに、映像は必ず「その先に何があるのか」で引っ張る。視聴者はそれを見て期待し、期待が裏切られると調査隊に苛立つ。悪循環と言えば悪循環だ。
批判側の書き込みで最もよく見るのは、方法論への疑問だ。結論を先に決めて二十年掘るのは科学ではない、という指摘。これは前述の学者たちの批判とほぼ同内容で、素人の議論と専門家の議論が珍しく一致している領域でもある。一方で擁護側の言い分も筋が通っている。二十年で得られた出土品は膨大で、この神殿についての知識は劇的に増えた。仮説が外れても遺跡は残る。動機が何であれ、記録が正しく取られているなら学術的価値は失われない、と。
もう少し陰謀寄りの層になると、話は「すでに見つかっている」に移る。よくある主張はこうだ。二〇二二年のトンネル発見のあと、なぜか調査の詳細が公開されなくなった。だから何か出たに違いない。あるいは、水没部分の調査結果が意図的にぼかされている、と。ここでの反証は単純だ。トンネルの調査が停滞している理由は水没と落盤リスクという物理的な問題であり、実際にその後の調査は水没区画の排水と補強に多くの時間を費やしている。それに、発掘現場には常に考古省の監督官がおり、出土品はすべて国家に帰属し、記録は提出義務がある。学術界は競争が激しく、成果の先取り公表を巡って揉めることはあっても、集団で黙秘することのほうが遥かに難しい。
呪い説も定期的に湧く。クレオパトラの墓を暴こうとした者には不幸が訪れる、というやつだ。これは完全にツタンカーメン由来の輸入品だ。一九二〇年代、カーナヴォン卿の死をきっかけに新聞が「ファラオの呪い」を煽った。だがこの呪いについては、きちんとした検証がある。二〇〇二年、疫学者マーク・ネルソンが医学誌に発表した歴史コホート研究だ。彼はハワード・カーターの記録から、一九二三年二月から一九二六年十一月にエジプトにいた西洋人四十四人を特定し、そのうち墓の開封や石棺の開封、ミイラの検査といった「曝露」があった二十五人と、なかった人々の生存期間を比較した。結果は、曝露群の死亡時平均年齢が七十歳、非曝露群が七十五歳。曝露後の生存年数は約二十・八年と約二十八・九年。統計的に有意な差は出なかった。彼の結論は明快だ。呪いへの曝露と生存のあいだに有意な関連はなく、ミイラの呪いの存在を支持する証拠はない。
面白いのは、それでも呪い説が死なないことだ。理由はたぶん、墓が見つからないという事実に説明を与えてくれるからだ。合理的な説明は退屈で、地震と海水と都市開発と予算の話に終始する。呪いのほうが物語として強い。
それから、この数年でネット上の議論を加熱させたもう一つの要素がある。クレオパトラの外見と出自を巡る論争だ。二〇二三年にある配信ドラマがクレオパトラの描写を巡って大炎上し、エジプト国内では訴訟騒ぎにまで発展した。この論争のせいで、「墓が見つかれば遺伝子解析で決着がつく」という期待と、「だから政治的に発表できない」という陰謀論が同時に増殖した。前者については、そもそも二千年前の遺体からどこまでのデータが得られるか、そして古代の人骨のゲノム解析結果を現代の民族カテゴリーに翻訳することにどれだけ意味があるか、という別種の難問がある。後者については、繰り返しになるが、隠蔽の実務的コストが高すぎる。
それでも人はこの穴を掘り続ける
なぜ人はこの墓を探すのか。ここを考えないと、この話は単なる発掘ニュースの寄せ集めで終わる。
一つ目の理由は、対象が「ほぼ確実に存在した」からだ。アトランティスや聖杯とは根本的に違う。存在しなかった可能性が極めて低い具体的な建造物で、しかも位置についてのヒントが古代の文献に残っている。それでいて見つからない。この「あるはずなのにない」という構造が、人間の探索本能を最大効率で刺激する。
二つ目は、クレオパトラという人物が、歴史上まれに見るほど「他人によって書かれた」存在だからだ。彼女自身の言葉はほとんど残っていない。彼女についての記録は、彼女を滅ぼした側の文献から作られている。ローマの詩人たちは彼女を「破滅の怪物」と呼び、東方の淫らな魔女として描いた。中世は彼女を色欲の象徴にし、ルネサンスは悲劇のヒロインにし、十九世紀の絵画は彼女を裸に剥いた。二十世紀の映画は彼女をハリウッド美人にした。二十一世紀は彼女の肌の色で喧嘩している。二千年、誰もが彼女を上書きしてきた。だから、彼女自身の遺体が出てくるということは、その上書きの連鎖に対する物理的な反論になる。マルティネスが最初に感じた違和感も、突き詰めればここだ。
三つ目は、時代の切れ目に立っているからだ。彼女の死は、ヘレニズム世界の終わりであり、ローマ帝政の始まりだ。三千年続いたファラオの系譜が終わった日でもある。歴史の巨大な段差に、一人の人間の遺体が挟まっている。
四つ目は、もっと単純に、ロマンだ。負けた側の恋人たちが同じ墓に眠っている。勝者がそれを許した。この構図には、シェイクスピア以来ずっと人を掴んで離さない何かがある。
見つかったら何が変わるか、見つからなかったら何が残るか
最後に、この探索の意味を二方向から考えたい。
もし墓が見つかったら。まず物理人類学的な情報が得られる。年齢、健康状態、死亡時の状況の痕跡。毒物の残存が検出できれば、蛇か毒物かという二千年の議論に決着がつく可能性がある。ただし期待しすぎないほうがいい。有機毒物は分解する。防腐処理を受けた遺体からアルカロイドを検出できるかは条件次第だ。埋葬様式も大きな情報になる。エジプト式のミイラ化なのか、ギリシア式の要素が入るのか。プトレマイオス朝の王家がどのように自らを位置づけていたかが、遺体そのものから読める。副葬品はおそらく乏しいだろうが、碑文が一行でもあれば話は変わる。
そして何より、位置そのものが情報だ。もしアレクサンドリア市内の王宮域から出れば、文献の記述の正しさが証明される。もしタポシリス・マグナから出れば、古代の文献に記録されていない大規模な工作が実際に行われたことになり、属州化直後のエジプトにおける神官層の権力について、教科書を書き換えるレベルの話になる。
もし見つからなかったら。これはこれで意味がある。まず、二十年の発掘は膨大なデータを残した。タポシリス・マグナがプトレマイオス朝後期からローマ期にかけてどう機能したか、周辺にどんな人々が葬られたか、地下水利用の土木技術がどの水準にあったか。海底調査は、古代の海岸線と港湾網の実像を明らかにしつつある。これらは墓の有無と関係なく残る。
もう一つ、見つからないこと自体が古代の歴史を語っている。アレクサンドリアという都市が、いかに徹底的に破壊され、再利用され、沈み、上書きされてきたか。大図書館は失われ、大灯台は崩れ、王宮は海に沈んだ。クレオパトラの墓が見つからないのは、その巨大な喪失の一部だ。街ごと消えたのだから、墓が消えていても不思議はない。
そして、正直に言えば、たぶん見つからない。専門家の多数派の見立てを踏まえれば、確率は低い。海の底の堆積層の下か、現代の街のビルの基礎の下か、あるいは中世のどこかの時点で石材ごと持ち去られて別の建物の壁になっているか。二千年というのはそういう長さだ。
それでも来年また、誰かが「一歩近づいた」と発表するだろう。そして私はまたその記事を開くし、たぶんあなたも開く。
それでも引っかかる、三つの疑問
ここからは、本文で流した論点をもう少し深く掘り下げておきたい。特に、この話を追いかけていると必ず引っかかる三つの疑問について、腰を据えて考える。
第一の疑問。そもそも「クレオパトラの霊廟」は、私たちが想像しているような建物だったのか。
私たちは「墓」と聞くと、ピラミッドか、王家の谷の岩窟墓か、あるいは石棺が並ぶ地下室を思い浮かべる。だがクレオパトラの霊廟は、そのどれとも違った可能性が高い。まず、彼女はエジプト人ではない。マケドニア系ギリシア人の王朝、プトレマイオス朝の最後の君主だ。この王朝は三百年近くエジプトを統治し、エジプトの神々を篤く祀り、ファラオとしての姿で神殿の壁に彫られた。だが同時に、彼らはギリシア語で暮らし、ギリシア風の都市に住み、ギリシア的な王権の観念を持ち続けた。クレオパトラが歴代のプトレマイオス王の中で唯一エジプト語を話したと伝えられているのは、逆に言えば他の王たちが話さなかったということだ。
だから彼女の霊廟も、エジプト式とギリシア式のハイブリッドだった蓋然性が高い。ギリシア世界の王侯の墓は、マウソロス霊廟に代表されるように、塔状の記念建築として地上に立つものが多い。一方でエジプト的な埋葬観念では、遺体の保存と地下の安置が重視される。ディオが「上部が未完成だった」と書いているのは、地上に立ち上がる記念建築部分が工事中だったという意味に読める。つまり、地上には目立つ建物があり、地下または内部に埋葬室がある構造だ。
ここが効いてくる。地上の記念建築は真っ先に消えるからだ。石材は再利用され、地震で崩れ、海に沈む。だが地下の埋葬室は、埋まったまま残る可能性がある。だからこそ、探索は常に「地下」を狙う。マルティネスが地下トンネルと竪坑に執着するのも、ゴディオが堆積層の下を磁力計で探るのも、同じ理屈だ。
第二の疑問。オクタウィアヌスは、なぜ墓の場所を記録に残させなかったのか。
これは意外と語られない論点だ。彼は自分の業績を石に刻ませることに執念を燃やした男で、その記録は今も残っている。エジプト征服も当然そこに書かれている。だが、クレオパトラとアントニウスの墓の位置を明示した公式記録は一つも伝わっていない。
考えられる理由は三つある。一つは、当時のアレクサンドリア市民にとって位置が自明だったから。わざわざ書く必要がなかった。王宮の隣の目立つ建物だったなら、道案内は不要だ。二つ目は、記録はあったが失われたから。アレクサンドリアの文書はことごとく失われている。三つ目は、あえて記録させなかったから。アントニウスは公式には記憶を消される対象だった。彼の墓に巡礼地としての機能を持たせるわけにはいかない。墓は作らせるが、記念はさせない。この線引きは、ローマの政治文化としてはむしろ自然だ。
三つ目の理由が正しいなら、皮肉なことになる。オクタウィアヌスが二人の墓を記憶から締め出そうとした結果、二千年後に世界最大の考古学的ミステリーが生まれたわけだ。忘れさせようとすると、かえって永遠に探され続ける。
第三の疑問。タポシリス・マグナ説は、本当にゼロなのか。
私は多数派の懐疑論に説得力を感じるが、この説をゼロと断じるのも早いと思っている。理由を三つ挙げる。
一つ。この二十年の発掘は、少なくとも「あの神殿はクレオパトラの時代に極めて重要だった」ことを実証した。三百枚を超える彼女の貨幣、王族級の装飾を持つ埋葬、大規模な地下土木、そして沖合の港湾施設。これらは彼女の墓の証拠ではないが、その地が単なる田舎の神殿ではなかったことの証拠ではある。批判者の中には「そこは何もない場所だ」という前提で語る人がいたが、その前提はもう成り立たない。
二つ。再埋葬という発想自体は、エジプト史では異常でも何でもない。王家の谷では、盗掘を恐れた神官たちが新王国時代の王のミイラを回収し、まとめて別の場所に隠した。十九世紀末にデイル・エル・バハリで発見された王のミイラの集積は、まさにその産物だ。ラメセス二世もセティ一世も、自分の墓ではないところで見つかっている。エジプトの神官が、政変や危機に際して王の遺体を移動させた前例は現実に存在する。だから「移した可能性」を頭ごなしに否定するのは公平ではない。問題は、クレオパトラの場合にそれを示す一次資料がないこと、そして移送先としてタポシリス・マグナを選ぶ必然性が神学的な連想以上に示されていないことだ。
三つ。海底の港が確認されたことで、この場所の物流的な位置づけが変わった。もしここが海路でアレクサンドリアと直結する港湾機能を持っていたなら、四十五キロという陸路の距離は障害ではなくなる。船なら人目につかず、短時間で運べる。これは仮説を成立させる方向の情報だ。もちろん「運べた」ことと「運んだ」ことのあいだには依然として深い溝がある。
それを踏まえたうえで、私が最も重く見るのはハワスの撤退だ。彼はこの説の生みの親ではないが、育ての親ではあった。十一年関わって、証拠なしと結論した。現場の空気を最もよく知る立場にいた人間の判断は、外野の論評より重い。
もう少し話を広げよう。この探索が現代に投げかけている問題がある。考古学の「目的志向」の是非だ。
シュリーマンはホメロスを信じてトロイアを掘った。結果として彼はトロイアらしき遺跡を見つけたが、目的の層を求めて上位の層を破壊したことで、今も批判されている。ハワード・カーターは未発見の王墓があると信じて王家の谷を掘り続け、ツタンカーメンを当てた。目的志向の発掘は、当たれば英雄、外れれば妄想と呼ばれる。この非対称性が、この分野の議論を常に感情的にする。
現代の考古学の主流は、そもそも「誰かの墓を探す」という枠組みを取らない。遺跡の全体像を層位ごとに記録し、当時の生活と社会を復元する。特定の有名人を探すのは、学問というよりコンテンツに近いと見なされる。この価値観からすると、マルティネスのやり方は古い型の探検に見える。
だが、現実的な話をすると、有名人の名前がなければ資金は集まらない。二十年間の発掘を支えたのは、クレオパトラという名前が引き寄せた注目と資金だ。そしてその資金で行われた記録は、正しく取られているかぎり学術的な財産として残る。この構造は、宇宙探査で有人火星計画が地味な観測衛星の予算を牽引するのに少し似ている。夢が予算を呼び、予算が地味なデータを生む。
だから私は、この二十年を無駄だとは思わない。同時に、「もうすぐ見つかる」という言い方が繰り返されることには不誠実さを感じる。この二つは両立する。
最後に、もう一度だけ紀元前30年の夏に戻りたい。
あの八月、彼女は自分の死のあとに何が起きるかを考え抜いていた。凱旋式で引き回されないこと。子供たちが生き延びること。そして、自分の遺体がどう扱われるか。オクタウィアヌスに宛てた最後の手紙の中身が「アントニウスと同じ墓に葬ってほしい」だったという事実は、この三つのうち最後の一つに彼女がどれだけの重みを置いていたかを示している。死ぬ直前の、最後の政治交渉だ。彼女は自分の埋葬について、勝者から言質を取ろうとした。
そしてオクタウィアヌスはそれを認めた。認めたうえで、その場所を歴史から消した。
二千年後、その消された座標を求めて、ドミニカ出身の元弁護士が石灰岩の丘を掘り、タイタニックを見つけた男が地中海の底をソナーで舐め、フランス人が湾の泥の下に磁力計を通している。エジプト考古学界の重鎮は「水の下だ、たぶん永遠に見つからない」と言って去った。ネットの掲示板では毎年同じジョークが繰り返され、陰謀論が湧き、そして誰かがまた新しい記事を開く。
彼女が最後に守ろうとしたのは、自分の身体の行き先だった。結果から見れば、彼女は完璧に守り切っている。二千年、誰も見つけていない。ローマ人にも、盗掘者にも、私たちにも渡していない。
もしかしたら、これがこの話の一番奇妙な結末なのかもしれない。負けた女王が、たった一つだけ勝ち続けている。
