灯が一斉に消えた、と言うしかない
紀元前一二〇〇年ごろの東地中海で起きたことを一言で説明しろと言われたら、俺は「照明が一斉に落ちた」と答える。それくらい妙な出来事なんだよな。ギリシャ本土のミケーネの城塞が焼ける。アナトリア高原のヒッタイト帝国が消える。シリア沿岸の交易都市ウガリットが炎に包まれて、そのまま二度と復活しない。キプロスの港町が壊れ、レヴァント沿岸のいくつもの都市が瓦礫になる。エジプトだけがかろうじて踏みとどまるが、そのエジプトも新王国の輝きを取り戻せずに衰えていく。しかもこれが、数百年かけてじわじわ起きたのではなく、およそ半世紀のあいだにまとめて起きている。個々の文明の終わりならいくらでもある。だが「同時多発的に、地域全体が」というのは歴史上そう何度もない。だから研究者はこれを青銅器時代の崩壊と呼び、一般向けの本は「歴史上最初の世界大戦」なんてキャッチーな言い方をする。
まず地図を頭に入れてくれ
話に入る前に、当時の東地中海がどんな世界だったかを押さえておきたい。紀元前十三世紀の東地中海は、今の感覚で言えば完成された国際社会だった。エジプト新王国が南に構え、アナトリアにヒッタイト帝国、メソポタミアにアッシリアとバビロニア、キプロス島はアラシヤと呼ばれて銅の一大産地、シリア沿岸にウガリットやアムルといった都市国家、そしてエーゲ海にはミケーネ、ティリンス、ピュロス、クノッソスといったギリシャ側の宮殿国家が並んでいた。王たちは互いに「兄弟よ」と呼び合う手紙を書き、娘を嫁がせ、贈り物を送り合っていた。アマルナ文書と呼ばれるエジプト出土の外交書簡群を読むと、王同士が金の量でケチをつけ合ったり、返事が遅いと拗ねたりしている。要するに、外交と交易でつながった一つのシステムがそこにあったわけだ。この前提を握っておかないと、崩壊のヤバさが伝わらない。
「海の民」という名前は古代人がつけたものじゃない
ここで最初にがっかりする話をしておく。「海の民」という一括りの名前は、古代の誰も使っていない。エジプトの碑文には「海の中の島々から来た者たち」「海の異国の者たち」といった言い回しが個別に出てくるだけで、統一されたラベルはない。この呼称を定着させたのは十九世紀フランスのエジプト学者ガストン・マスペロ(一八四六〜一九一六)だ。彼が peuples de la mer に相当する表現で碑文中の諸集団をまとめ、以後の学界がそれを踏襲した。つまり我々が「海の民」と呼んでいるものは、近代の学者が作った便利な袋であって、実在の民族名ではない。この一点を押さえておくだけで、ネットに転がっている「海の民の正体はこれだ」系の話の半分は温度が下がる。正体を探すべき「彼ら」が最初から一つではないかもしれないんだから。
メルエンプタハの碑文――記録に残る最初の襲来
最初にはっきり記録されたぶつかり合いは、ラムセス2世の息子メルエンプタハの治世五年、紀元前一二〇七年ごろに起きている。西からリビュア人が押し寄せてくるのだが、その連合軍のなかに海から来た連中が混ざっていた。カルナクの大碑文には、アカイワシャ、トゥルシャ、ルッカ、シェルデン、シェケレシュという名が並ぶ。エジプト側の記録では、この戦いで六千人を殺し、九千人を捕虜にしたとされる。数字の信頼性は当然怪しい。だが押さえておきたいのは、この時点で彼らが単なる海賊ではなく、リビュア勢力と組んで大挙して来ていることだ。しかもアカイワシャについては「割礼を受けていない」という理由で切り取る部位を変えた、という即物的な記述まで残っている。戦後処理の生々しさが、逆にこの遭遇の現実味を担保している。同じ王の戦勝を記念した石碑には、ついでのように「イスラエル」という名が現れる。この一語のせいで、この碑文は聖書考古学の界隈で永遠に引用され続ける運命になった。
前一一七七年、ラムセス3世の治世八年
それから約三十年後。第二十王朝のラムセス3世の治世八年、通説では紀元前一一七七年ごろに、二度目にして最大の襲来がやってくる。舞台はナイル・デルタとレヴァント沿岸だ。この戦役を記録しているのが、テーベ西岸のメディネト・ハブにあるラムセス3世葬祭殿の壁面だ。ここには文字と絵の両方が残っている。碑文の言い回しがまた強烈でな。異国の者たちが島々で陰謀を企て、彼らの武器の前にはいかなる国も立ち向かえなかった、として、ハッティ(ヒッタイト)、コデ、カルケミシュ、アルザワ、アラシヤと、破壊された地名を数え上げていく。この列挙が恐ろしいのは、それが当時の国際社会の主要プレイヤーを北から順に消していくリストになっている点だ。エジプトの神官が国威発揚のために書いた文章なのに、読んでいるとむしろ「外の世界がもう無い」という寒々しさが伝わってくる。
デルタの海戦、史上初の水際作戦
メディネト・ハブのレリーフの白眉は、河口での海戦の場面だ。ラムセス3世は河口を要塞化し、軍船を並べて相手を待ち構える。エジプト側の船は帆を畳み、櫂で機動している。対する敵船は帆を張ったまま、櫂が描かれていない。しかも敵の船首と船尾には鳥の頭の飾りがついている。エジプトの弓兵が雨のように矢を降らせ、敵船は横倒しになり、水面には落ちた男たちが描かれる。岸には投石兵が配置され、鉤縄で敵船を引き寄せている。この一枚から読み取れるのは、エジプトが「陸に上げずに水の上で潰す」という判断をしたことだ。相手が海から来る以上、上陸させたら都市が焼かれる。だから河口で全部止める。史上初の水際作戦と呼びたくなるのはこの構図のせいだ。ちなみに敵船の帆装は、それまでの下桁つき四角帆ではなく、絞り索で操作する帆に見える。海の民が持ち込んだ航海技術のほうが進んでいた可能性を指摘する研究者もいる。侵略者が技術的に遅れているとは限らないんだよな。
牛車に女房子供を乗せて来た侵略者
もう一つ、メディネト・ハブのレリーフには奇妙な要素がある。陸の戦闘場面に、牛が引く車が描かれているんだ。しかもその荷台には女と子供が乗っている。これは軍隊の描写じゃない。移住の描写だ。武装した男たちの隊列のすぐ横を、家族と家財を積んだ牛車がゆっくり進んでいる。この一点があるせいで、「海の民」は略奪遠征隊ではなく、故郷を捨てて新天地を探す集団だった、という民族移動説が強い説得力を持つことになった。彼らは奪いに来たのではなく、住むところを探しに来た。そう考えると、破壊のあとに現地に居着いた痕跡があることとも整合する。もっともエジプトの絵師が「敵は家族ごと押し寄せる蛮族だ」という物語を強調するために盛った可能性も残る。プロパガンダの壁画から史実を引き剥がす作業は、いつだって面倒くさい。
ウガリットの最後の王、アンムラピ
さてここからが、俺が一番ゾッとする話だ。シリア沿岸、現在のラス・シャムラにあった交易都市ウガリット。ここは青銅器時代末期の東地中海でも屈指の商業都市で、独自のアルファベット的楔形文字を持ち、宮殿には膨大な粘土板の文書庫があった。掘り出された文書は五千点を超え、市内の九か所に文書保管所があったとされる。最後の王がアンムラピ、在位はおおむね紀元前一二一五年から一一九〇年ごろ。彼の治世の文書は、読んでいて胃が痛くなる。まず飢饉だ。エジプトのファラオに宛てた書簡には、ウガリットの地に激しい飢えがある、我が主よこれを救いたまえ、という趣旨の訴えが残っている。穀物を積んだ船を寄越してくれ、この件は生死に関わる、といった文言が別の書簡にもある。国際社会の優等生だった都市が、食糧を外部に懇願している。
「敵の船が来た。我が町は焼かれた」
そして例の手紙だ。アンムラピがキプロス(アラシヤ)の王に宛てて書いた書簡には、こうある。父よ、敵の船がやって来た。奴らは我が町々に火を放ち、我が国で悪しきことを行った。父上はご存じないのか、私の軍はハッティの地に、私の船はルッカの地にいて、まだ戻っていないのだ、と。つまりウガリットは、宗主国ヒッタイトへの軍事支援と、南西アナトリア方面への艦隊派遣で、防衛戦力が全部出払っていた。留守を突かれたわけだ。同じ文書群には、アラシヤ側の高官エシュワラからの返信も残っている。敵船は二十隻で、一箇所に留まらず神出鬼没だ、という趣旨の情報が書かれている。二十隻。国を滅ぼすには少なすぎる数字に見えるが、防衛部隊が不在の港町を焼くには十分だ。ちなみにこの往復書簡がどこまで「最後の日々」に属するかは、実はまだ議論がある。だがウガリットが焼かれ、以後何世紀も本格的に再建されなかったのは考古学的な事実だ。
焼けた宮殿と、焼き窯の中の粘土板
ウガリットの発掘は一九二九年、フランスの考古学者クロード・シェフェールによって始まった。彼が語った有名な逸話がある。宮殿の一角にある焼成窯のなかから、まだ焼かれている最中の粘土板が見つかった、というものだ。つまり書記が手紙を焼き固めている途中で襲撃が起き、そのまま逃げた。だから最後の通信は届かなかった――という、あまりに劇的な情景だ。あちこちの本やテレビ番組で繰り返され、俺も最初に読んだときは背筋が寒くなった。ところが後年、マルグリット・ヨンらの再検討で、その「窯」とされた構造物が本当に窯なのか、そこにあった粘土板が同時代の最終文書群なのかは怪しい、という指摘が出ている。劇的すぎる話には裏を取れ、という教訓の見本みたいなエピソードだ。とはいえ、宮殿全域が同時に燃え、市街には接近戦を示す槍先が散らばっていた、という破壊の実態そのものは動かない。
ヒッタイトはどう終わったか――空っぽの都が焼かれた
アナトリアの覇者ヒッタイトの首都ハットゥシャ、現在のトルコのボアズカレ。ここも紀元前一二〇〇年前後に焼けている。ところがドイツの考古学者ユルゲン・ゼーハーによる発掘の結果、奇妙なことがわかった。都市は確かに大規模に焼けているが、燃える前の時点で、すでにほとんど空っぽだったらしいのだ。神殿からは貴重品が持ち出され、王家の文書のうち重要なものは運び去られた形跡がある。つまり「攻め込まれて陥落した」のではなく、「計画的に放棄されたあとで焼かれた」可能性が高い。最後の王シュッピルリウマ2世の治世の記録は乏しく、彼が新しい拠点をどこかに移したのか、そのまま消えたのかもわからない。その前のトゥドハリヤ4世は、飢饉と反乱と敗戦が重なる時期に、なぜか都を倍近くに拡張して三十一以上の神殿を建てまくっている。傾いた国家が神に金をつぎ込む姿は、どこか見覚えがある光景でもある。
ミケーネの城壁は誰から身を守ろうとしていたのか
ギリシャ側も同時期に壊れている。ミケーネ、ティリンス、ピュロス。壮麗な宮殿は焼け、城塞は放棄され、人口は激減する。ここで面白いのは、崩壊の直前に彼らが防御に異常な投資をしていることだ。ミケーネもティリンスも城壁を分厚くし、包囲に備えて城内に水を引き込む秘密の地下通路を掘っている。誰かに攻められる前提で、必死に備えていたわけだ。それでも守り切れなかった。しかも一部の宮殿では、破壊の前に地震の痕跡らしきものが見つかっている。倒れた壁、押し潰された遺体、傾いた石列。攻撃と天災のどちらが先だったのか、層位から読み取るのは難しい。ピュロスの宮殿からは、沿岸の見張りを配置せよという趣旨の粘土板文書が出ている。海側の何かを恐れていたのは確かなんだよな。
線文字Bが消えた日――文字を失うということ
ミケーネ文明はギリシャ語を線文字Bという音節文字で書いていた。一九五二年にマイケル・ヴェントリスが解読したあれだ。ところがこの文字は、宮殿の崩壊とともに消える。しかも後継の文字が現れるのは、四百年ほど経ってフェニキア文字を借用したアルファベットが登場してからだ。この空白期を、ギリシャ暗黒時代と呼ぶ。文字が消えるというのは、単に読み書きができなくなるという話ではない。線文字Bで書かれていたのは詩でも歴史でもなく、宮殿の会計帳簿だった。羊が何頭、油が何単位、職人が何人。つまり文字は中央集権的な再分配経済を回すための道具だった。その経済が消えたから、文字も要らなくなった。人が字を忘れたのではなく、字を必要とする社会構造のほうが消滅したわけだ。この順番が、俺には一番怖い。
民族名の比定合戦、これが泥沼で面白い
碑文に出てくる集団名を、後世のどの民族に当てはめるか。これが百年以上続いている学者たちの大喧嘩だ。定番の対応表はこうだ。シェルデンはサルデーニャ人、シェケレシュはシチリア人、テレシュ(トゥルシャ)はエトルリア人、デニエン(デヌナ)はホメロスに出てくるダナオイ人、ルッカはリュキア人、アカイワシャはアカイア人つまりミケーネのギリシャ人。並べるとやたら綺麗に西地中海と繋がるんだが、実はこの対応、音の似ている地名に飛びついているだけの部分がかなりある。しかも因果が逆かもしれない。サルデーニャにシェルデンがいたのではなく、敗れたシェルデンが後にサルデーニャへ流れ着いて島の名前になった、という方向もあり得る。事実、シェルデンはこの騒動の何十年も前から、カデシュの戦いでエジプト側の傭兵として登場している。敵として来る前に、雇われて働いていたわけだ。同じ名前の集団が、ある時は傭兵、ある時は海賊、ある時は難民として出てくる。この曖昧さこそが「海の民」の実態に近いのかもしれない。
ペレセト=ペリシテ人、ゴリアテの祖先はどこから来たか
比定のなかで唯一ほぼ確実とされているのが、ペレセト=ペリシテ人だ。旧約聖書に出てくる、あのダビデの宿敵ゴリアテを出した民族である。聖書は彼らを「カフトルの地から来た」と書く。カフトルはクレタ島だと考えられている。エジプト側の記録では、ラムセス3世が敗れたペレセトをカナン南部に定住させたことになっており、実際にアシュケロン、アシュドド、エクロン、ガザといった都市からは、この時期を境にエーゲ海系の土器や建築、豚食の習慣が突然現れる。決定打が出たのは近年だ。二〇一六年にアシュケロンでペリシテ人の墓地が見つかり、そこから採取した古代DNAの分析結果が二〇一九年七月にサイエンス・アドバンシズ誌に出た。鉄器時代初頭の埋葬個体には、南ヨーロッパ由来と見られる遺伝的成分が明確に混入していて、しかもそれが数世代のうちに在地集団に薄まって消えていく。移住してきて、混ざって、消えた。碑文と土器と骨の三つが同じ話を語った、稀な例なんだよな。
ウルブルン沈没船が見せる「グローバル化した青銅器時代」
崩壊の話をする前に、崩壊したものがどれだけ立派だったかを見ておきたい。トルコ南岸ウルブルン沖の水深四十五メートルほどの急斜面に沈んでいた船がある。紀元前一三〇〇年ごろの沈没で、一九八四年から九四年までの十一年、延べ二万三千回に及ぶ潜水で発掘された。積荷が凄まじい。牛の皮を広げた形をしたオックスハイド型の銅インゴットが三百五十四個、球形のインゴットが百二十一個、それに錫。青いのや紫のや黄色のガラスインゴットが百七十個ほど。象牙とカバの牙、アフリカ産の黒檀、樹脂を詰めたカナン壺が約二百個、金の装身具、ミケーネ製の土器と武器、石の錨が二十四個。全長十五メートルほどの一隻に、キプロス、レヴァント、エジプト、エーゲ海、バルト海由来の琥珀まで載っている。船一隻が動く見本市なんだよ。これが東地中海を反時計回りに巡って、寄港のたびに荷を入れ替えていた。この光景が、崩壊とともに消える。
錫が来ないと文明は止まる
青銅というのは、銅と錫の合金だ。銅はキプロスや小アジアで取れる。問題は錫で、これが東地中海ではほとんど採れない。アフガニスタン方面や中央アジア、あるいはさらに遠方から、長い交易路を経てようやく届く。つまり青銅器時代の軍事力と農具は、遠隔地からの部品供給に完全に依存していた。現代のサプライチェーンと同じ弱点である。どこか一箇所で交易路が断たれると、剣も鋤も作れなくなる。しかも当時の国際交易は、王同士の贈答と国家間協定に守られていた。海賊が湧いて航路が危なくなり、王が倒れて協定が失効すれば、供給は一晩で止まる。エリック・クラインが強調するのは、まさにこの点だ。青銅器時代の国際システムは効率的だったが、だからこそ冗長性がなかった。ちなみに続く鉄器時代の鉄は、どこにでもある原料で作れる。技術の進歩というより、遠距離交易が死んだ世界での代替品として鉄が広まった、という見方もある。皮肉な話だ。
花粉が語る百五十年の乾期
崩壊の原因として近年もっとも証拠が固まってきたのが気候だ。ガリラヤ湖と死海の湖底堆積物からボーリングでコアを抜き、そこに含まれる花粉の種類を年代順に数える。テルアビブ大学のダフナ・ラングット、イスラエル・フィンケルシュタイン、それにトーマス・リットらのチームが二〇一三年に発表した研究では、およそ四十年刻みという、この地域では最高解像度の花粉記録が得られた。結果、紀元前一二五〇年ごろから一一〇〇年ごろにかけて、水を大量に必要とする樹木が減り、オリーブのような乾燥に強い樹木が相対的に増える。要するに乾いた。同様の傾向はアナトリア、キプロス、シリア、ナイル・デルタの調査でも並行して出ている。しかも先に触れたアンムラピの飢饉の手紙や、ヒッタイトがエジプトに穀物を懇願する記録と時期がぴたりと重なる。文書と土壌が同じ話をしているわけで、これはもう偶然では片づけにくい。
地震嵐(アースクエイク・ストーム)という大胆な仮説
もう一つ、忘れちゃいけないのが地震説だ。スタンフォード大学の地球物理学者アモス・ヌールが、ドーン・バージェスとの共著『アポカリプス』などで押し出したのが、地震嵐という考え方だ。プレート境界の断層は、一箇所が割れると隣の区間に応力が移り、数十年のうちに連鎖して次々割れることがある。二十世紀の北アナトリア断層で実際に観測された現象だ。同じことが紀元前十三世紀末の東地中海で起きたとしたら。ミケーネ、ティリンス、トロイア、ウガリット、ハットゥシャ、キプロスの諸都市が、数十年のうちに順番に揺すられる。ヌールは各遺跡の破壊層に、崩れ落ちた壁や押し潰された骨といった地震特有の痕跡があることを指摘した。地震だけで文明は滅びない、という反論は当然ある。だが「弱った国家に地震が来て、そこに難民と海賊が押し寄せる」という重ね方なら、話の筋は通る。
クライン『B.C.1177』とシステム崩壊論
この分野の一般向けの決定版が、ジョージ・ワシントン大学のエリック・H・クラインが二〇一四年に出した『1177 B.C.: The Year Civilization Collapsed』だ。日本語版も『B.C.1177 古代グローバル文明の崩壊』の題で出ている。クラインの結論は、拍子抜けするほど地味だ。犯人は一つじゃない。旱魃、飢饉、地震、疫病、内乱、交易路の断絶、そして移住集団の圧力。これらが相互に増幅し合って、複雑に絡み合ったシステムが臨界を超えた。彼が持ち出すのは複雑系の理論で、高度に相互依存したネットワークほど、局所的な障害が全体に波及しやすいという話だ。海の民は原因ではなく、むしろ崩壊が生んだ結果でもある。故郷を追われた人々が船に乗り、行く先々で更なる混乱を撒く。ドミノは倒れながら次のドミノを倒す。犯人探しをしたい読者には物足りない結論だが、ここ十年でもっとも支持を集めている枠組みなのは間違いない。
証言その一・壁に彫られたファラオの一人称
メディネト・ハブの碑文は、実質的にラムセス3世本人の一人称語りとして書かれている。読んでいると、王の演説をそのまま聞いている気分になる。異国の者たちが島々で陰謀を企てた。一斉にすべての国が動き、散り散りになった。彼らの武器の前に立ち向かえる国はなかった。ハッティも、コデも、カルケミシュも、アルザワも、アラシヤも、一度に断ち切られた。彼らはアムルの地に陣を敷き、その民を絶やし、その土地をかつて存在しなかったかのようにした。彼らは炎を前に立てながらエジプトへ向かって進んできた――ここまでが状況説明で、この後に「しかし余は」と反転する。余は河口を城壁のように整え、軍船と艀と沿岸警備を配置した。彼らは網に引き込まれた獅子のようだった。読み物としての完成度が高すぎて逆に怪しいのだが、それでもこの文章が本物の恐怖の記憶を核に持っていることは、周囲の国々の考古学的破壊層が裏書きしている。プロパガンダにも下敷きはあるんだよな。
証言その二・発掘者が語ったウガリットの最後
一九二九年、フランスの考古学者クロード・シェフェールがシリア沿岸ラス・シャムラの丘に鍬を入れた。きっかけは、前年に地元の農夫が畑を耕していて古い墓の天井を踏み抜いたことだったと伝えられている。掘り進むと、名前も知られていなかった都市が出てきた。文書庫、宮殿、神殿。そして全域を覆う分厚い焼土層。シェフェールが繰り返し語ったのは、この都市が「一日で死んだ」という印象だった。逃げ支度をした形跡はあるが、片づけた形跡がない。倒れた壁の下に日用品がそのまま残る。以後、都市は再建されず、瓦礫の丘として三千年間放置された。彼が語った焼き窯の中の粘土板の逸話は、後の研究で慎重に扱われるようになったが、遺跡を掘った人間が受けた「途中で止まった街」という感触そのものは、後続の調査でも否定されていない。むしろウルテヌという商人兼役人の家から六百五十枚ほどの粘土板がまとめて出てきたことで、日常業務が突然断ち切られた様子はより鮮明になった。
証言その三・現代の見学者が受け取った感触
数年前にラス・シャムラとメディネト・ハブの両方を訪ねたという人の話をネットで読んだことがある。匿名の個人ブログだったが、書きぶりが妙に印象に残っている。曰く、ウガリットの遺跡は写真で見るより遥かに小さく感じられ、港へ続く道の幅も、石段の一段の高さも、生活のサイズがそのまま残っているのだという。そこに立って、この道を最後に走った人間のことを考えると足がすくんだ、と。一方でメディネト・ハブの壁面については、レリーフの高さが想像以上にあって、見上げる形になるのが効いていると書いていた。溺れる敵兵の彫りは、驚くほど細かく、髪型や兜の形で民族を描き分けている。三千二百年前の彫師が、敵の兜の羽根飾りを一本一本刻んでいる。憎しみか、記録癖か、それとも単に仕事だったのか。その手つきが一番怖かった、というのが締めくくりだった。この感想、わりと的を射ていると思う。
「海の民=アトランティス人」説はどこから湧いたのか
さて、ここからは楽しい与太話のほうだ。海の民をアトランティスと結びつける発想は、根っこがかなり古い。プラトンの『ティマイオス』『クリティアス』に出てくるアトランティスは、海の彼方から大軍で攻めてきて古代アテナイに撃退されたことになっている。海から来て、強大で、その後跡形もなく消える。海の民の履歴書とほぼ同じだ。十九世紀にイグネイシャス・ドネリーが『アトランティス――大洪水前の世界』でアトランティス実在論を大流行させて以降、この手の重ね合わせは無限に生産されてきた。二十世紀にはサントリーニ島(テラ島)のミノア噴火をアトランティス伝説の原型とみなす説が学界でも真面目に議論され、それが「噴火で滅んだミノア人の残党が海の民になった」という筋書きへ流れ込む。ただし年代がまるで合わない。ミノア噴火は紀元前十七世紀から十六世紀の出来事で、海の民の登場まで三百年から四百年ある。この空白を埋める説明を、この手の説はまず用意しない。
トロイア戦争と結びつけたがる人々
もう一つの人気コンテンツが、トロイア戦争との接続だ。伝統的な年代推定ではトロイア陥落は紀元前一二〇〇年前後とされ、ちょうど崩壊期に重なる。トロイア第七市a層には破壊の痕跡があり、ヒッタイト文書に出てくるウィルサやアヒヤワは、それぞれイリオス、アカイアと同一視できるという議論が長く続いている。ここまでは真っ当な学術論争だ。問題は、そこから先が飛ぶことだ。曰く、トロイア戦争から帰る途中で故郷を失ったギリシャ勢が海賊化して海の民になった。曰く、トロイアの落人が地中海を西へ流れてエトルリア人になり、それがテレシュだ。実際、テウクロスの名とチェケルを結びつける説は昔から提出されている。だが、ホメロスの叙事詩は事件から四百年以上後に成立した文学であって、目撃記録ではない。歴史の骨と神話の肉を選り分けずに一緒に煮込むと、それらしい味は出るが栄養にはならない。
掲示板とSNSで海の民がやたら人気な理由
日本語圏のまとめサイトや掲示板の過去ログを漁ると、海の民は定期的にスレが立つ人気キャラだ。テンプレのようなノリがある。「ヒッタイトを滅ぼします」「ミケーネを滅ぼします」「そして消えます」と滅ぼしリストを列挙して、最後に「なお正体は不明」で締める。あの様式美は完全にネットミームとして完成している。「未だに詳細不明とかロマンありすぎだろ」という書き込みには、たいてい大量の同意がつく。「アトランティスと関係あるんか」「海洋王国やからな」という掛け合いも定番だ。冷静な指摘も必ず現れる。「同時多発的に来た連中を、エジプト人が雑にまとめて呼んだだけでは」「そもそもエジプトの戦勝碑文なんて盛るに決まってる」。この両極が同じスレに同居しているのが健全でいい。要するに、正体不明で、強大で、絵に残っていて、しかも実在する。二次創作しやすい素材が全部そろっているんだよな。
なぜこの話はこんなに怖いのか
俺がこの事件を怖いと感じる理由ははっきりしている。まず、記録の途切れ方が怖い。手紙を書いている途中で消える都市というイメージが強烈すぎる。次に、システムの脆さが他人事に思えない。錫が来ないと剣が作れない世界と、半導体が来ないと車が作れない世界は、構造がまったく同じだ。そして三つ目、これが一番効く。当時の人々は、自分たちが崩壊の只中にいることを最後まで理解できていない。トゥドハリヤ4世は神殿を建て続け、ウガリットの商人は借金の帳簿をつけ続け、エジプトの神官は勝利の碑文を彫り続けた。誰も「これで終わりだ」とは書かなかった。終わりというのは、宣言されて始まるものじゃない。ある日、便りが来なくなるだけなんだ。三千二百年前の粘土板が伝えてくるのは、破壊の光景よりもむしろ、その静かな途切れ方のほうだ。
それでも全部が死んだわけじゃない
最後に救いのある話も書いておく。全部が消えたわけではない。フェニキアの都市、ビブロスやシドン、ティルスはこの嵐をおおむね生き延びた。彼らは崩壊後の空白地帯に商船を出し、やがて地中海全域に交易網を張り直す。その過程で使い勝手のいい表音文字を広め、それがギリシャ文字になり、ラテン文字になり、いま俺たちが使っているアルファベットになった。宮殿が管理する複雑な音節文字が死に、商人が使う簡素な文字が生き残った。ヒッタイトの後継者たちは北シリアで新ヒッタイト諸国として生き延び、レリーフの様式を伝えた。エジプトは弱りながらも国家として存続した。文明のリセットは、必ずしも全消去ではない。焼け跡から立ち上がったものが、その後三千年の土台になった。そう考えると、前一一七七年は終わりの年であると同時に、次の世界の始まりの年でもある。
エジプトだけが、喋れる状態で生き残った
改めて全体を並べ直すと、この事件の厄介さは「証拠の質がバラバラなまま同じ地図に乗っている」ところにある。エジプトの碑文は文字資料としては豊富だが、性質は完全に国家宣伝だ。ウガリットの粘土板は生々しいが、断片的で年代の確定が難しく、有名な「敵の船が来た」の手紙ですら、それが本当に最後の日々のものかは決着していない。ヒッタイト側の記録は最後の数十年で急に薄くなり、消える瞬間の描写がそもそも存在しない。ミケーネ側に至っては、事件を語る文章が一行もない。線文字Bの帳簿が途中で止まっているだけだ。つまり我々は、片側からだけ強烈なスポットライトが当たった舞台を見ている。エジプトが照らした範囲だけが妙に鮮明で、その外は真っ暗なんだ。海の民が「エジプトを襲った集団」として語られがちなのは、単にエジプトだけが喋れる状態で生き残ったからにすぎない。この非対称性を忘れると、簡単に間違える。
原因論についても整理しておきたい。現在の研究の重心は、はっきりと複合要因説に寄っている。ただ「複合要因」と言うと、何も言っていないのと同じに聞こえるのが難点だ。だからもう少し具体的に順序をつけてみる。おそらく最初に来たのは気候だ。紀元前一三世紀後半から続く乾燥傾向が、まず農業生産の余裕を削った。花粉のデータはこの点でかなり強い。次に来たのが食糧危機の連鎖だ。ヒッタイトがエジプトやウガリットに穀物を求める文書が増えるのはこの時期で、帝国が自前で民を食わせられなくなっている。すると三番目に、国家の統制が緩む。傭兵への支払いが滞り、地方が離反し、王家内部で継承争いが起きる。ハットゥシャの計画的放棄は、この段階の症状に見える。ここまで来て初めて、四番目の要素である移動集団の圧力が致命傷になる。平時なら追い返せた二十隻の襲撃船が、守備隊を国外に出してしまった空っぽの港町にとっては国の終わりになる。地震はこの流れのどこにでも挿入できるワイルドカードで、アモス・ヌールの地震嵐が本当に起きていたなら、都市の物理的な体力をさらに削いだはずだ。順番はこの通りでなくてもいい。肝心なのは、単独では致命的でない打撃が、順番に重なると回復不能になるという構造のほうだ。
海の民の正体について、いま一番落ち着きのいい理解も書いておく。彼らはおそらく単一の民族ではないし、統一された軍でもない。エーゲ海周縁、アナトリア南西部、キプロス、そしておそらく中央地中海の一部から、それぞれ別々の事情で押し出された集団が、同じ時期に同じ方向へ動いた。その一部は昔から傭兵として東地中海で稼いでいた顔なじみで、雇い主の国家が倒れたことで職を失い、そのまま海賊になった。別の一部は農地を失った難民で、家族と家財を積んで移住先を探していた。さらに別の一部は、崩壊した都市から逃げてきた元住民だ。エジプトの書記はこれらを一括して「海の異国の者たち」と記録し、後世の学者がそれを「海の民」という便利な名札に固めた。だから「海の民の故郷はどこか」という問い自体が、少し形を間違えている。正しくは「なぜこの時期に、これほど多くの人間が同時に動かねばならなくなったのか」だ。そして今のところ、その答えの中心にあるのは干上がった畑と、届かなくなった穀物船なんだよな。
俗説の扱いについても最後に触れておく。アトランティス説やトロイア落人説を頭ごなしに笑うのは簡単だが、なぜそれが人を掴むのかは考える価値がある。共通しているのは、いずれも「一つの原因」と「一つの主体」を提供している点だ。人間の脳は、大量の要因が緩やかに絡み合った崩壊より、悪役が一人いる物語のほうを圧倒的に記憶しやすい。だから海の民はしばしば、顔のない悪役として消費される。実際にはむしろ被害者でもあったのに、だ。この構図は現代の危機の語られ方とまったく同じで、そこが逆に面白くもあり、少し薄気味悪くもある。三千二百年前の東地中海で起きたのは、要するに、繋がりすぎた世界が繋がりすぎたまま乾いて折れた事件だ。そして折れた後、誰も何が起きたかを書き残せなかった。ウガリットの丘に立って足がすくんだという、あの匿名の見学者の感想は、たぶんこの事件に対するもっとも正確な反応の一つだと思う。俺たちはあの丘の上ではなく、まだ坂の途中にいると信じたいところだけどな。
