紀元前十五世紀のエジプトに、付け髭をつけて玉座に座った女がいた。名前をハトシェプストという。
彼女は義理の息子の摂政という立場から、するりとファラオそのものに化けて、二十年以上この国を回した。戦争はほとんどしなかった。代わりに神殿を建て、オベリスクを立て、南の果てへ船団を送った。エジプトは太った。文字通り豊かになった。
それなのに、彼女が死んでからしばらくして、その名前は壁から削り取られた。像は倒され、顔を潰され、採石場の穴に投げ捨てられた。カルトゥーシュ、つまり王名を囲む楕円の枠は、中身だけが丁寧にえぐられて空っぽになった。まるで最初からそこには誰もいなかったみたいに。
以下、その二十年と、そのあとに来た「消去」の話をする。長い。覚悟して読んでほしい。
女がファラオになった、という前代未聞の事故
まず前提を整理しよう。
古代エジプトで王というのは、原則として男がやる仕事だった。ファラオはホルス神の化身であり、生きた神であり、同時に軍を率いて敵の頭を棍棒で叩き割る絵を壁に描かれる存在だ。女がそこに座るというのは、制度的に想定されていない。
まったく例がないわけではなくて、古王国末期のニトクリスとか、中王国末のソベクネフェルウとか、王朝が崩れかけたときの「もうこの人しかいない」的な緊急登板はあった。ただしそれは大抵、王朝が終わる直前のバタバタで、しかも在位は短い。
ハトシェプストは違った。
彼女が王を名乗ったのは、王朝が絶好調のときだ。第十八王朝、いわゆる新王国のはじまり。ヒクソスを追い出したエジプトが、ようやく自信を取り戻して外へ出ていこうとしていた時期。国庫には金があり、軍は強く、体制は安定していた。危機でも空白でもない。それなのに彼女は王になった。ここが異常なのだ。
血筋はこの上なく良かった。父はトトメス一世、母は王妃アハメス。つまり彼女は正真正銘の王女だった。慣習に従って異母兄弟のトトメス二世と結婚し、王妃になる。ここまでは普通のコース。
ところが夫のトトメス二世が早死にした。在位は短く、十年に満たなかったとする説が有力だ。残されたのは、側室イシスが産んだ幼い男児、のちのトトメス三世。即位時の年齢は諸説あって、二歳とも十歳前後とも言われるが、いずれにせよ自分で政治を回せる年ではなかった。
そこでハトシェプストが摂政に立つ。ここまでは、まあ、よくある話だ。幼王の後見を年長の王族女性がやるというのはエジプトでも前例がある。
問題はそのあとだ。彼女は摂政の座に留まらなかった。
トトメス三世の治世第七年、紀元前一四七〇年代の初めごろ、彼女は王の正式な称号一式を名乗りはじめる。ホルス名、二女神名、黄金のホルス名、上下エジプト王名、太陽神の息子名。ファラオが持つべき五つの名前を全部揃えて、しかも自分の即位年をトトメス三世の元年まで遡らせた。要するに「私は最初から王だった」という書き換えである。
面白いのは、彼女がトトメス三世を排除しなかったことだ。殺してもいないし、幽閉もしていない。二人は共同統治者として並記される。壁画でも二人並んで神に供物を捧げている場面がある。ただし序列は明確で、ハトシェプストが先、トトメス三世が後。少年王は軍で経験を積みながら、二十年以上ずっと二番手に置かれ続けた。この事実が、のちの「復讐説」の燃料になるわけだが、その話は後回しにする。
「私はアメンの娘です」と壁に書いた女
王位を奪った人間は、必ず正統化の物語を用意する。ハトシェプストが用意したのは、控えめに言っても大胆な話だった。
デイル・エル・バハリの葬祭殿、中段テラスの北側の柱廊。ここに彼女は、自分の出生譚を連作の浮き彫りとして刻ませた。エジプト学が「神婚説話」と呼ぶやつだ。
話はこうだ。
国家神アメン・ラーが、地上に自分の血を引く王を生ませようと思い立つ。神々の会議で相談し、選ばれたのが王妃アハメス、つまりハトシェプストの母である。アメンは夫トトメス一世の姿を借りて王妃の寝室に降りる。壁画では、二人が寝台の上で向かい合い、手を取り合って座っている。エジプト美術の慣例として直接的な描写はしないが、意味は明白だ。そして添えられた文言が効いている。王妃は目覚めて相手が神であると悟り、その香りに満たされる、という趣旨のことが書いてある。宮殿中に神の香気が広がった、と。
そのあと創造神クヌムが登場する。彼は轆轤を回す神で、粘土から人間の体を作る。壁画のクヌムは、轆轤の上でふたつの小さな人形を成形している。ひとつがハトシェプストの体、もうひとつが彼女のカー、つまり生命力や分身に相当する霊的な存在だ。カエルの頭を持つ出産の女神ヘケトが傍らで杖を差し出し、生命を吹き込む。そして出産、乳母たちによる授乳、神々による承認、という順で場面は進んでいく。
この一連の絵は、ものすごく計算されている。
まず、王権の由来を人間の血筋ではなく神の直接の意志に置き換えている。父トトメス一世から相続したのではない。アメンが自分の手で作らせたのだ、という論法。これなら性別は問題にならない。神が女として作ると決めたなら女なのだ、という理屈が立つ。
次に、カルナックにはこれとセットで「神託の場面」があった。有名な赤い礼拝堂、シャペル・ルージュに刻まれた場面で、アメンの神輿が行列の途中で立ち止まり、ハトシェプストの前で「揺れる」。神輿の揺れは神託の合図で、つまり神が名指しで彼女を選んだ、という演出だ。これが即位時の出来事なのか、後づけの追認なのかは研究者の間でも意見が割れているが、いずれにせよ広報物としては強力である。
さらに彼女は、父トトメス一世が生前に自分を後継者に指名した、という筋書きも並行して流している。神が選び、父も選んだ。二重の保険だ。
ここまでやるということは、逆に言えば、彼女の即位がそれだけ説明を必要とする事態だったということでもある。誰も疑問に思わないことに、人はここまで長々と言い訳を書かない。
付け髭は、たぶんおしゃれじゃない
ハトシェプストの図像でいちばん有名なのが、あの付け髭姿だ。
細長い、先が少し前に反った顎髭。上下エジプトの二重冠、あるいは縞模様のネメス頭巾。腰にはシェンジット、王が着る短いプリーツのキルト。胸は平らで、肩は角張っている。要するに、どこからどう見ても男のファラオである。
ここでよくある誤解を潰しておきたい。
彼女が男装していたのは、性自認の問題でも、女であることを恥じたからでもない、というのが今のエジプト学の標準的な見方だ。あれは衣装ではなく記号なのだ。
ファラオという役職には、決まった図像のセットがある。付け髭はオシリス神の髭に由来する王権の象徴であり、二重冠は国土の統一を示し、ウラエウス、つまり額のコブラは王を守る女神の顕現だ。これらを身につけていない者は、絵の文法として「王」に見えない。彼女がやったのは、女が男の格好をしたというより、人間が王という記号を着たということに近い。
証拠もある。彼女の像や碑文では、図像は男性形なのに、文法上の性は女性のまま残っていることがしょっちゅうある。「上下エジプトの王、彼女は」みたいな、翻訳するとねじれた表現が普通に出てくる。ホルス名に女性形の語尾がついている例もある。つまり彼女は自分が女であることを隠していない。隠していないのに、絵では男の姿をしている。この使い分けは、彼女が両者を矛盾と捉えていなかったことを示している。
しかも変化の過程が追える。
治世の初期、王を名乗って間もないころの像は、女性的な特徴をかなり残している。細い顎、丸みのある胸、柔らかい輪郭。それが年を追うごとに男性化していく。メトロポリタン美術館やエジプト博物館に並ぶ彼女の像を制作年順に見ていくと、少しずつ顎が四角くなり、髭が加わり、体が硬くなっていくのがわかる。これは彼女の外見が変わったのではなく、彼女の自己表現の戦略が固まっていく過程だと考えられている。最初は「女王でもある王」として出したが、やがて「王」の一語に統一していった、という感じだ。
ちなみに、この付け髭は実物が紐で耳に掛ける方式だったらしく、男の王たちも普段からつけていたわけではない。儀式の道具だ。だから彼女が日常的に髭をぶら下げて歩き回っていたと想像するのは、たぶん間違っている。彼女が付け髭をつけたのは、神殿の壁の上と、儀礼の場だけだったはずだ。
船五隻、南の果てへ
彼女の治世を語るとき、絶対に外せないのがプント遠征だ。
治世第九年ごろ、彼女は五隻の船団を紅海方面に送り出した。行き先は「プントの地」。神々の国、香木の国と呼ばれた場所で、エジプト人にとっては半ば伝説めいた交易相手だった。正確な位置は今も確定していないが、現在の有力説はアフリカの角の周辺、エリトリアからエチオピア、ソマリア北西部あたりを想定している。近年、ミイラ化したヒヒの遺存体の同位体分析やDNA解析から、この地域を示唆する結果が出ているのも面白いところだ。
この遠征が特別なのは、成果そのものよりも記録の残り方だ。
デイル・エル・バハリの中段テラス、南側の柱廊いっぱいに、遠征の全工程が漫画のコマ割りみたいに彫られている。船が造られ、漕ぎ手が並び、帆が張られ、海を渡り、上陸し、交渉し、荷を積み、帰ってくる。上陸地の風景まで描かれていて、高床式の丸い家、それに登るための梯子、椰子の木、そして海に泳ぐ魚まで細かい。
この魚の一部は種の同定が可能なくらい正確に描かれていて、紅海の魚だと特定されている。つまり誰かが実際に見て記録した情報が、ちゃんと彫刻家まで届いているということだ。
持ち帰った品物のリストも壮観だった。乳香と没薬。黒檀。象牙。金。豹の毛皮。生きた猿や犬。そして何より、根を土ごと籠に入れた三十一本の生きた没薬の木。
壁画には、大きな籠に収まった木を数人がかりで担ぐ場面がある。彼女はこれを葬祭殿の前庭に植えさせた。神殿の前に神の国の木を並べる、という発想が既にドラマチックだ。実際、二十世紀の発掘でテラス前面から木を植えるために掘られた穴が見つかっていて、根の痕跡まで確認されている。壁の絵が嘘ではなかったわけだ。
余談だが、彼女は持ち帰った乳香を焼いて炭にし、それを粉にしてアイライン用のコールに使ったという記録がある。樹脂をこの用途に使った記録としては最古級だとされる。神の国の香りを目の縁に塗る。演出としてどうかしていると思うが、彼女はそういう人だった。
プントの女王、アティという人
そのプント遠征の壁画に、古代美術史でも屈指の有名なコマがある。
プントの支配者パレフとその妻、女王アティを描いた場面だ。夫のパレフは細身で顎髭を生やした普通の姿。ところが隣のアティは、まったく違う描かれ方をしている。極端に張り出した臀部と大腿部、重なった背中と腹の脂肪、短い首、太い腕。そして彼女の後ろには、乗り物として小さなロバが引かれていて、添え書きに「女王アティを運ぶロバ」という趣旨の説明がある。
このコマは十九世紀の欧州でセンセーションを起こし、以来ずっと議論の的だ。
医学的な解釈としては、脂肪が臀部に集中して蓄積する体質的特徴、いわゆる臀部脂肪蓄積を描いたものだという説、リンパの流れが滞って四肢が腫れる病気を描いたという説、あるいはホルモン系の疾患だという説が出された。ただしこれらはあくまで、二千年以上前の様式化された浮き彫りを、近代医学の枠に当てはめた推測にすぎない。診断ごっこの域を出ない、という批判は昔からある。
もうひとつの読み方は、これが写実ではなく象徴だという解釈だ。
エジプト美術は基本的に理想化の芸術で、王も貴族も引き締まった若々しい体で描かれる。太った体で描かれるのは、豊かさと安逸を示すときの記号だった。神の国プントは豊穣の土地であり、その支配者が豊満であるのは、土地の豊かさそのものの表現なのかもしれない。実際、この場面のプント人たちは全体に穏やかで友好的に描かれていて、征服される敵としてのステレオタイプではない。
さらに厄介なことに、この壁画の描き手はアティを笑い物にしているのか、それとも珍しいものを珍しいまま正確に記録しているのか、が判別しづらい。エジプトの記録者は異民族の外見的特徴を丹念に描き分ける習慣があった。髪型、肌の色、服装、体格。彼らにとって「違い」を描くことは、世界の秩序を記述することでもあった。
少なくとも現代の私たちが、この一枚の絵から古代人の悪意を読み取ったつもりになるのは、たぶん先走りだ。事実として言えるのは、エジプト人が遠い国の王妃の姿を、自分たちの理想の体型に合わせて修正せずにそのまま彫った、という一点だけである。
崖に貼りついた白い神殿
デイル・エル・バハリ。ナイル西岸、王家の谷の裏手にあたる岩壁の懐に、その神殿はある。古代名をジェセル・ジェセルウ、「聖なるものの中の聖なるもの」という。
実物を写真で見たことがある人は多いと思う。三段のテラスが崖に向かって階段状に上がり、それぞれの段の前面に、まっすぐな柱がずらりと並ぶ。中央を長い斜路が貫いて、上へ上へと視線を導く。背後には数百メートルの垂直な石灰岩の絶壁。
この建築は、はっきり言って異様だ。
エジプトの神殿は普通、閉じた箱の連なりで、外から見ると分厚い壁と塔門の塊にしか見えない。中に入ると天井が低くなり床が上がり、奥へ行くほど暗く狭くなる。ところがジェセル・ジェセルウは開いている。テラスは日光を浴び、柱廊は影を作り、水平線が強調される。三千五百年前の建物なのに、二十世紀のモダニズム建築みたいに見える。近代の建築家がここを訪ねて動揺した、みたいな逸話が語られるのも無理はない。
しかもこの水平の反復は、背後の絶壁の垂直な岩肌と完全に噛み合っている。人工の直線と自然の割れ目が、互いを引き立てるように配置されている。設計者は明らかに、崖ごと建築として使っている。神殿の背後の岩山は、王家の谷側から見るとエル・クルンという三角錐の峰になっていて、これが自然のピラミッドとして機能している。つまり彼女は、ピラミッドを建てる代わりに山を借りた。
内部の構成もよくできている。
中段テラスの南側柱廊にプント遠征、北側柱廊に神婚説話。つまり「経済的功績」と「神的正統性」が左右に振り分けられている。テラスの南端にはハトホル女神の礼拝堂があって、牝牛の耳を持つハトホル柱が並ぶ。北端にはアヌビスの礼拝堂。最上段には至聖所があり、岩を掘り込んだ奥にアメンの聖船が安置された。天窓から光が落ちて像を照らす仕掛けだったという。年に一度の「谷の美しい祭り」では、カルナックからアメンの神輿がナイルを渡ってここまで来た。そのための舞台装置だ。
なお、この神殿は後世かなり痛めつけられている。ハトシェプストの像と名前の破壊。アマルナ時代にはアクエンアテンの命令でアメン神の像と名前が削られた。第三中間期の地震。六世紀から八世紀にはコプト教徒の修道院が上に建てられ、レリーフの上にキリスト教の絵が重ね描きされた。修道院の名前が今の「デイル」、つまり修道院という地名の由来である。
一九六一年以来、ポーランドの調査隊が延々と修復を続けていて、二〇二三年にはさらに整備された形で公開されている。今我々が見る白く整った姿は、相当な部分が近代の再構成だと理解しておいたほうがいい。
センエンムトという男と、洞窟の落書き
ジェセル・ジェセルウを設計したのは誰か。決定的な証拠はないのだが、最有力候補として名前が挙がるのがセンエンムトだ。もう一人、アメン大司祭ハプセネブを推す説もある。
センエンムトは、生まれからして異例の人物だった。
両親のラムセとハトネフェルは、称号らしい称号を持たない平民である。父親の墓には何の役職も書かれていない。ところが息子は、ハトシェプストの治世に八十以上の称号を集める大官僚に成り上がった。神妻の家令、王女ネフェルウラーの家令、王の大家令、アメン領地の全事業の監督官、その他もろもろ。要するに、彼女の財政と建設事業の実質的な指揮官だ。カルナックのオベリスク運搬も彼の仕事とされる。
彼が特に有名なのは、王女ネフェルウラーとの関係を示す一連の彫像だ。四角い塊のような形の像から、小さな女の子の頭だけがちょこんと出ている。ブロック像と呼ばれる形式で、センエンムトが体をマントで包んで座り、その膝の上に幼い王女を抱いている構図である。この型の像が七体も確認されている。臣下が王女を抱く像を、これほど多く作らせて許されたというのは、彼の立場の特殊さを物語る。
そして噂だ。
センエンムトとハトシェプストは恋人だったのではないか、という話は、十九世紀からずっと囁かれてきた。根拠として挙げられるのは主に二つ。
ひとつは、彼が女王の葬祭殿の内部、扉の裏など普段見えない場所に、自分の姿を礼拝する形で描き込むことを許されていたこと。臣下が王の神殿に自分を紛れ込ませるなど、通常なら不敬の極みである。
もうひとつは、彼が自分の墓を、女王の葬祭殿のすぐ下、しかも神殿の敷地に食い込む位置に掘ったこと。彼の墓は二つあって、貴族墓地にあるものと、葬祭殿の前庭の下に伸びる地下墓。後者の天井には、エジプト最古とされる天文図が描かれている。北天と南天に分けられた星座と月の暦。臣下の墓の装飾としては明らかに過剰だ。
そして、あの落書きである。
デイル・エル・バハリの近く、労働者が休憩に使っていた未完成の岩窟の壁に、荒っぽい線描きの落書きが残っている。描かれているのは性行為の場面で、片方の人物は王家の頭巾らしきものをかぶっている。もう片方は男。当時の落書きとしてはかなり露骨な部類だ。これを「女王と建築家の関係を、現場の労働者が噂して茶化したもの」と読む解釈が、二十世紀に広く紹介されて有名になった。
ただ、正直に言えば、この解釈はかなり脆い。落書きに名前は書かれていない。人物が誰なのかを特定する手がかりは、王家の頭巾らしき線一本だけ。しかも古代の作業員の落書きは、王を性的に茶化すジャンルがそれなりに存在した可能性があり、特定の個人を指しているとは限らない。研究者の間では「面白い資料だが、これを根拠に二人の関係を論じるのは無理」というのが冷静な評価に近い。ただ、この落書きが刺激的すぎて、一般向けの本やドキュメンタリーでは今でも繰り返し登場する。
センエンムトの最期もよくわからない。治世十六年から二十年のあいだのどこかで、記録からふっつり消える。失脚したのか、死んだのか。彼の二つの墓はどちらも激しく破壊されていて、石棺は粉々になり、像は顔を潰されている。ただしこの破壊も、後述する女王の名前の消去と同じ時期なのか、それとも別の事情なのか、決着していない。彼の実際の埋葬地は、今も見つかっていない。
王の死と、二十年の空白
ハトシェプストは、トトメス三世の治世第二十二年、紀元前一四五八年ごろに死んだと考えられている。享年はおそらく五十前後。死因は当時わかっていなかった。
彼女は王家の谷にKV20という墓を掘っていて、これは父トトメス一世と自分を一緒に埋葬するつもりの、異常に長く曲がりくねった穴だった。全長二百メートル以上、急角度で岩盤を下っていく。石灰岩の質が悪くて、掘りながら方向を変えざるを得なかったらしい。
彼女の死後、トトメス三世は単独の王になった。そしてここから彼は化ける。エジプト史上最強の軍人王としての二十年が始まるのだ。
メギドの戦いでは、将軍たちが安全な迂回路を勧めるなか、あえて狭いアルナ峠を単縦陣で抜けるという博打を打ち、敵の背後に出て勝った。以後、シリア・パレスチナ方面に十七回だか遠征し、ミタンニと戦い、エジプトの版図を史上最大にした。カルナックの壁に、彼は自分の戦果を延々と記録させている。
そして、ここが本題だ。彼女の名前が消されはじめたのは、この二十年が終わりに近づいたころだった。
誰が、いつ、なぜ削ったのか
長いあいだ、この話には決まった筋書きがあった。
いわく、少年王トトメス三世は義理の母に王位を横取りされ、二十年以上も飼い殺しにされた。屈辱に耐え、彼女の死を待ち、権力を握った瞬間に復讐した。像を叩き壊し、名前を削り、この世から彼女の存在ごと抹消しようとした。憎悪の物語だ。わかりやすいし、劇的だし、映画にしやすい。
この筋書きが崩れたのは、破壊の時期が特定されたからだ。
決め手になったのは碑文の重ね書き、いわゆる上書きの層序だった。ハトシェプストの名前が削られた場所には、しばしば別の王名が彫り直されている。トトメス一世、トトメス二世、あるいはトトメス三世自身の名前だ。この彫り直しに使われた書体、綴り、記号の形は、時代によって少しずつ変わる。さらに、削られた面の上に別の年代のわかる碑文が重なっている例もある。
研究者たちはこれを丹念に追いかけた。とくにシカゴ大学のチャールズ・ニムズと、その後を継いだピーター・ドーマンの仕事が有名だ。彼らが出した結論は、破壊の開始はトトメス三世の治世第四十年代、おおむね第四十二年から第四十七年あたりの範囲に収まる、というものだった。
これは衝撃的な数字だ。ハトシェプストが死んだのが治世第二十二年。破壊が始まったのが第四十二年以降。あいだが二十年ある。二十年だ。
憎しみに震えて即座に手を下した男の話ではなくなる。ならばあの二十年、彼は何をしていたのか。答えは簡単で、彼女の神殿を普通に維持し、彼女の名前が刻まれた記念物を放置し、彼女が建てたオベリスクの前で儀式をやっていた。復讐する気があるなら、権力を握った初日にやればいい。二十年寝かせる復讐というのは、人間の感情の動きとして不自然すぎる。
さらに補強材料がある。ハトシェプストの側近だった高官の何人かは、彼女の死後もトトメス三世のもとで職を保っている。粛清の形跡が薄い。もし憎悪の政変だったなら、まず人が消えるはずだ。
では何が起きたのか。ここからは主要な仮説を、ひとつずつ分けて見ていきたい。
仮説その一、王位継承の書き換え説
現在の主流はこれだ。破壊の目的はハトシェプスト個人への攻撃ではなく、王統の系譜を整理することだった、という見方である。
治世第四十年代のトトメス三世は、もう老境に入っていた。彼には後継者問題があった。長子アメンエムハトは早くに死んだらしく、王位は別の息子アメンヘテプ二世に渡ることになる。ところがこのアメンヘテプ二世、母親の出自がやや弱い。一方で、ハトシェプストの血を引く王族や、彼女の系統に連なる有力者が、まだ生きて力を持っていた可能性がある。
もし「女性でも王になれる」という前例が壁の上に堂々と残っていたら、それは対抗馬にとって都合のいい判例になる。
だから消したのだ、という論法だ。ハトシェプストの治世を歴史から取り除けば、トトメス二世からトトメス三世へ、そしてアメンヘテプ二世へと、男系で一直線につながるきれいな系譜が出来上がる。実際、後世の王名表を見ると、ハトシェプストの二十二年はごっそり抜けていて、トトメス三世の在位年数がその分長くなっている。ラムセス期のアビドス王名表にも、トリノ王名パピルスにも、彼女はいない。政治的には完璧な仕事だ。
この説を支持する材料として、破壊が「選択的」だった点がよく挙げられる。削除の対象になったのは、彼女を王として描いた図像と、王としての名前だった。王妃時代の彼女、つまりトトメス二世の妻としての記録は、比較的手つかずで残っていることがある。人格を消したいならそんな区別はしない。消したかったのは「女の王」という前例のほうだ、と考えると筋が通る。
そしてもうひとつ。この破壊は、トトメス三世が息子アメンヘテプ二世を共同統治者に立てた時期と重なる可能性が高い。だからアメンヘテプ二世自身が主導したのではないか、という説もある。彼の治世には、王妃の名前を記録しない、王族女性の称号を弱めるといった、女性の政治的存在感を削ぐ傾向が見られる。父の代に始まった作業を、息子が仕上げた、あるいは息子が焚きつけた。そう読む研究者もいる。
仮説その二、儀礼的な無力化説
そして二〇二〇年代に、まったく別の角度から議論をひっくり返す研究が出た。
対象になったのは、デイル・エル・バハリの葬祭殿周辺から出た大量の彫像群だ。
一九二〇年代、メトロポリタン美術館のハーバート・ウィンロックの隊が、神殿の東側にある採石場跡の窪地から、粉々になった女王像の破片を何千点も掘り出した。この場所は「ハトシェプストの穴」と呼ばれるようになった。座像、立像、スフィンクス、オシリス柱。復元作業は二十世紀考古学の偉業と呼ばれ、今もニューヨークの一室に、継ぎ接ぎされた彼女の像がずらりと並んでいる。
この破片群を、破壊の様式という観点から改めて洗い直した研究が発表された。エジプト学者ジュン・イー・ウォンによるもので、英国の考古学専門誌に掲載されている。
論点はこうだ。もし憎悪による攻撃なら、破壊は顔に集中するはずだ。実際、政治的な図像破壊では、目や鼻や口が徹底的に潰される。名前を消し、顔を消し、力を奪う。ところがハトシェプスト像の破片を見ると、顔が無傷のまま残っているものがかなりある。むしろ壊れているのは、首、腰、膝といった、彫像の構造的に細い部分だった。
これは何かというと、エジプトで死者や像を「無力化」するときの標準的な手順に一致するのだ。
像は単なる彫刻ではなく、そこに霊が宿る器だと考えられていた。だから使わなくなった像、あるいは持ち主が死んだ像は、そのまま放置せず、決まった作法で機能を止める。首、腰、膝で折る。これは破壊というより、電源を落とす行為に近い。神殿から撤去された王の像に対して、この処理を施した例は他の王でも確認されている。
つまり、ハトシェプスト像の多くは「憎まれて壊された」のではなく「役目を終えたので規定通りに解体された」可能性がある、というのがこの研究の主張だ。
もちろん、名前を削る作業と像の解体は別の事象であり、名前の削除に政治的意図があったことは動かない。しかし「トトメス三世が怒りに任せて槌を振るった」というイメージそのものは、少なくとも彫像に関しては支持しにくくなる。
この研究が良いのは、一次資料に戻ったことだ。百年前のウィンロックの発掘記録、写真、出土位置の記載を読み直し、実際にどの部位がどう壊れていたかを再構成した。派手な新発見ではなく、古い記録の読み直しで通説が動く。考古学のいちばん面白いところが出ている。
仮説その三、そもそも一枚岩ではなかった説
三つ目として、上の二つを混ぜたような立場もある。要するに「削除」は単一の命令による単一の事業ではなく、数十年にわたる複数の動機の重なりだった、という考え方だ。
現場を見ると、削除の徹底度がひどくばらついている。
カルナックの目立つ場所の彼女の名前は執拗に潰されているのに、同じ神殿の見えにくい場所にはそのまま残っている。デイル・エル・バハリでも、地面に近い部分だけ削られて上のほうが無傷、という箇所がある。彼女がカルナックに建てた巨大なオベリスクは、倒されも削られもせず、下部を壁で囲んで隠すという処理を受けた。隠したということは、壊す意思はなかったということだ。
こういう不均一さは、中央の強い意志による一斉作戦というより、現場の職人が予算と日程の範囲で処理していった作業の痕跡に見える。目立つところから片づけ、足場が要る高所は後回しにし、途中で予算が尽きて終わる。あるいは、途中で王が代替わりして方針が緩む。何十年もかけて、断続的に、いろんな人の判断が積み重なった結果があの状態なのではないか。
そう考えると、「なぜ削ったのか」という問いに単一の答えを求めること自体が筋悪なのかもしれない。最初に命じた人間の動機と、実際に鑿を握った人間の理解と、二十年後に続きをやった人間の目的は、全部違っていた可能性がある。
確認できる記録と、掘り出されたもの
ここで、確実な物証として何が残っているのかを整理しておきたい。
まず彼女の建築が大量に残っている。デイル・エル・バハリの葬祭殿はもちろん、カルナックのアメン大神殿には彼女が建てた花崗岩のオベリスクが今も一本立っている。高さおよそ三十メートル弱、単一の石から切り出されたもので、現存する古代エジプトのオベリスクとしては最も高い部類だ。もう一本は倒れて破片になり、上部が聖池のほとりに横たわっている。
彼女はこのオベリスクの運搬を巨大な艀で行わせ、その様子をデイル・エル・バハリの壁に彫らせた。二本のオベリスクを縦に並べて載せた船を、二十七隻の曳船が引く。荒唐無稽に見えるが、艀の実在を疑う研究者は今はあまりいない。
カルナックの赤い礼拝堂も重要な物証だ。石英岩と閃緑岩で作られたアメンの聖船安置所で、彼女の死後に解体され、その石材が後の王の建造物の中詰めとして使われた。皮肉なことに、この転用のおかげで石はよく保存された。二十世紀に第三塔門などの内部から数百点の刻銘ブロックが回収され、カルナック野外博物館で組み直されている。彼女の神託の場面が読めるのは、この再構成のおかげだ。
同じことがベルリンやパリの博物館にある散逸ブロックにも言える。破壊は完全ではなかったし、むしろ隠蔽が保存として機能した例がいくつもある。
シナイ半島やヌビアにも彼女の名前がある。トルコ石鉱山の碑文、ブヘンの神殿。地方では削除の手が及ばなかったのだ。中央から遠いほど、彼女は残った。
彫像は前述の通り、ウィンロック隊の発掘によって膨大な破片が回収され、復元されている。座って前を見つめる白い石灰岩の像、オシリスの姿で腕を組んだ柱像、獅子の体に彼女の顔を載せたスフィンクス。ニューヨークの展示室でこれらに囲まれると、消されたはずの人物が異様な密度でそこにいる感覚がある。
彼女を消そうとした作業は、結果的に破片を穴に埋め、三千年後の考古学者に一括で発見させることになった。地上に置かれ続けた像なら風化と再利用で消えていたかもしれないのに、埋められたおかげで残ったのだ。
KV60の床に転がっていた女
物語の後半は、ミイラの話になる。
一九〇三年、ハワード・カーターが王家の谷でKV60という小さな墓を開けた。ツタンカーメンを掘り当てる十九年前の話だ。
中は荒らされていて、副葬品はほとんどなかったが、二体の女性のミイラがあった。一体は棺の中に、もう一体は床に、包帯を剥がされた裸の状態で転がっていた。カーターはミイラ化した鵞鳥だけ持ち出して、墓を閉じた。
一九〇六年にエドワード・エアトンが再度開け、棺に入っていたほうのミイラを棺ごとカイロへ送った。この棺には「王の偉大な乳母、シトレ・イン」という銘があった。そしてどちらの発掘者も、墓の正確な位置を記録しなかった。KV60は、そのまま砂に埋もれて行方不明になる。
八十年以上経った一九八九年、パシフィック・ルーテル大学のドナルド・ライアン率いる調査隊が、この墓を再発見した。中には、あの床のミイラがまだ横たわっていた。
身長およそ百五十九センチ。年齢は五十代から六十代。かなり肥満していて、垂れた乳房を持ち、右腕が肘のところで曲げられ、拳を握って胸の上に置かれていた。
この腕の形は効いてくる。曲げた腕を胸に置く姿勢は、王族、とくに王としての埋葬に用いられる型なのだ。ライアンたちはこのミイラを新しい木棺に納め、墓に戻した。
実は、この女性がハトシェプストではないかという指摘自体は、もっと古い。一九六〇年代、エジプト学者エリザベス・トーマスが、この床のミイラこそ王家の谷から追い出された女王本人ではないか、と示唆していた。乳母の棺に女王が入っているのではなく、女王が棺を追われて床に置かれたのだ、と。ただ、証明する手段がなかった。
歯の一片
二〇〇七年、当時エジプト考古最高評議会を率いていたザヒ・ハワースが、大がかりな検証プロジェクトを発表した。候補となる数体の身元不明の女性ミイラをCTスキャンにかけ、王族との関係を探るというものだ。
決定打とされたのは、意外なところから出てきた。
デイル・エル・バハリの王家のミイラ埋蔵所、通称DB320から回収されていた小さな木箱がある。表面にハトシェプストのカルトゥーシュが刻まれた、いわゆるカノポス箱だ。中には防腐処理された内臓の塊が入っていた。これをCTにかけたところ、内臓のほかに硬い小さな物体が写った。歯だった。
一方、KV60の床のミイラの口腔をスキャンすると、奥歯が一本欠けていて、抜けた跡の歯槽が残っていた。研究チームはこの歯槽の形状と、箱から見つかった歯の歯根の形状を照合した。発表によれば、両者の寸法はミリ単位で一致した。歯の破片が、ミイラの顎の穴にぴたりとはまった、というわけだ。
ハワースはこれをもって「ハトシェプストを発見した」と宣言した。ツタンカーメン以来の重要な発見だ、という言い方までされた。
同時に、このミイラの健康状態についてもかなりの情報が出た。ひどい虫歯と歯周病があり、膿瘍を起こしていた。歯を抜いた痕は、抜歯というより歯が割れて崩れた跡に近いという見方もある。骨には関節の変形があった。相当な肥満だった。糖尿病を示唆する所見があるとも報じられた。そして骨盤や脊椎に、転移性の腫瘍を思わせる病変が見られた。つまり癌だ。
さらに話を派手にしたのが、ドイツの博物館が二〇一一年に発表した分析だ。
ハトシェプストの名を刻んだ小さなガラス瓶の中身を調べたところ、パーム油やナツメヤシ油に混じって、多環芳香族炭化水素の一種であるベンゾピレンが検出された。これは強い発癌性を持つ物質として知られている。瓶の中身は、皮膚の炎症を鎮めるための塗り薬だったと考えられている。
彼女の家系には遺伝性の皮膚疾患があったことが示唆されていて、痒みや炎症に悩まされていた可能性がある。つまり、彼女は皮膚を治すために毎日塗っていた薬で、じわじわ発癌物質を浴びていたのではないか、という話になった。
これは物語として強烈だ。美と健康のために使っていたものが命を削っていた。しかも証拠が瓶に残っていた。報道は一気に飛びついた。
反証と、まだ確定していないこと
ただし、ここから冷や水を浴びせる作業が必要になる。
まず歯の照合について、二〇一一年に真っ向からの批判が出た。歯科形態学の観点から検討したところ、箱に入っていた歯は下顎の臼歯であり、KV60Aのミイラで欠けていたのは上顎の臼歯だという指摘だ。上と下では合うはずがない。この批判が正しければ、同定の根幹が崩れる。反論もあり、決着はついていない。
次にDNAだ。ミトコンドリアDNAの解析が試みられ、第十八王朝初期の王族女性のミイラとの関連が示唆された、という報告があった。しかし詳細なデータが完全な形で査読誌に公開されているとは言い難く、古代DNAの分野では汚染の問題が常につきまとう。エジプトの高温環境で三千五百年経った試料からどこまで信頼できる配列が取れるかは、専門家の間でも慎重論が根強い。二〇〇七年以降、決定的な追試が公表されていないこと自体が、そこそこ物を言っている。
そもそもKV60Aが誰であれ、彼女がなぜそこにいたのかも説明がついていない。
ハトシェプストのために掘られたKV20には、彼女の名を記した石棺が二基あった。ひとつは彼女自身のもの、ひとつは父トトメス一世のために作り直したもの。しかし遺体はなかった。KV60はKV20から目と鼻の先にある。第三中間期の神官たちが盗掘対策で王のミイラを移動させたとき、彼女もついでに移された、というのが素直なシナリオではある。しかしそれなら、なぜ彼女だけ棺から出され、床に置かれたのか。あるいは、床の女性はやはり乳母で、棺に入っていたほうこそが別人だったのか。
健康状態の解釈にも留保が要る。
CT画像から糖尿病を診断するのは、原理的にかなり難しい。骨の変化から推測できることには限界がある。癌についても、骨の空洞が腫瘍なのか死後の変化なのかを見分けるのは容易ではない。肥満に見える体型についても、ミイラ化の過程で組織が変形することを考えると、生前の姿をそのまま反映しているとは限らない。塗り薬の瓶にしても、瓶が彼女の名を持つことと、彼女が中身を長年使っていたことは別の話だ。名前入りの容器は贈答品や奉納品でもありうる。
もっと根本的な留保もある。私たちは彼女の死因を知らないし、死んだときの状況も知らない。暗殺説を唱える人は昔からいるが、それを支持する物証は今のところ何もない。壁画から名前が消えたことと、彼女が誰かに殺されたことは、まったく別の問題だ。
つまり現状はこうだ。KV60Aがハトシェプストである可能性はそれなりに高い。しかし「確定した」と言うには、まだ足りない。多くの一般向け記事が「ハトシェプストのミイラ」として写真を載せているが、学術的には今も留保つきの同定であることは、頭の隅に置いておいたほうがいい。
三千年後の再発見と、物語になった女王
彼女が歴史に戻ってきたのは、十九世紀だ。
ナポレオンのエジプト遠征以降、ヨーロッパの調査隊がテーベ西岸に入り、崖の下の巨大な廃墟を記録しはじめた。デイル・エル・バハリのレリーフは、削られた王名と、その周囲に残る「彼女」を指す女性形の代名詞という、奇妙な組み合わせを研究者に突きつけた。
ヒエログリフが解読されて間もない時期、この矛盾は謎だった。名前のない王。女性形で語られる男の姿の人物。解読者シャンポリオン自身がこの矛盾に困惑した記録が残っている。
十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、断片が繋がっていく。エドゥアール・ナヴィルの調査、そしてメトロポリタン美術館の長期発掘。ハトシェプストという名前と、その二十二年間が、少しずつ再構成された。
ただ、再構成された彼女は、しばしば当時の欧米の価値観のフィルターを通っていた。
二十世紀前半の記述には、「野心的な女」「王位を簒奪した継母」「若き王を抑圧した支配的な女性」といったトーンが目立つ。ヴィクトリア朝的な女性観と、家父長制的な王権理解が、そのまま古代に投影されたわけだ。トトメス三世は不当に虐げられた英雄で、ハトシェプストはそれを阻んだ障害物、という構図。復讐説がここまで長生きしたのは、この構図が当時の読者にとって心地よかったからでもある。
二十世紀後半、フェミニズムの文脈で彼女の再評価が始まる。今度は逆に「ガラスの天井を破った最初の女性」「平和と繁栄をもたらした賢明な統治者」として、やや持ち上げすぎな像も作られた。小説、児童書、テレビドキュメンタリー、ゲーム。世界史のストラテジーゲームでエジプトの指導者として登場する例もあり、彼女の名前は学問の外にも定着した。日本語圏では、漫画やライトノベル、歴史ものの読み物を通じて「男装の女王」として知られている。
面白いのは、どの時代の物語も、彼女の「削られた」という事実を核に据えることだ。功績よりも、消されたことのほうが物語になる。抹消されたという事実そのものが、彼女を忘れられない存在にしてしまった。皮肉としては完璧すぎる。
ネットの向こう側での盛り上がりかた
現代の考察界隈での彼女の扱いは、だいたい三つの流れに分かれている。
ひとつめは「消された女帝」という物語消費だ。
名前を削られた、という一点が持つ絵面の強さは圧倒的で、動画サイトのサムネイルにも、まとめ記事の見出しにも使いやすい。復讐説がとっくに疑問視されているにもかかわらず、一般向けの発信では今も「継子の逆襲」の枠組みが繰り返されている。
詳しい人がコメント欄で「開始は二十年後だから復讐じゃない」と指摘し、それがまた別のスレッドで「実は復讐じゃなかったらしい」として広まり、さらに雑に伝わって「トトメス三世は無実だった」まで単純化される。この伝言ゲームの過程自体が、なかなか見ものだ。
ふたつめは、ジェンダー論と結びつけた議論。
彼女が男性の図像を借りたことをどう解釈するか、というテーマは、現代の関心と接続しやすいので定期的に燃える。「彼女は自分の性別を否定していたのか」「あれは政治的パフォーマンスにすぎないのか」といった問いが投げられ、専門的な議論と現代的な読み替えが混ざって収拾がつかなくなる。研究者側は「当時のエジプト人の王権観念を、現代の性自認の枠で切るのは筋が違う」と繰り返すが、この整理はあまり広まらない。
みっつめは、ミイラと病気の話。
KV60Aの写真は、率直に言ってかなり生々しい。膨れた腹、崩れた顔、握られた拳。この写真を軸に、虫歯だの糖尿病だの発癌性の塗り薬だのが並べられ、「贅沢の代償」みたいな道徳話に加工されることがある。
ここには気をつけたほうがいい。三千五百年前の人物の体型や病歴を、現代の健康観で採点する行為には何の意味もない。彼女は当時の栄養状態と医学水準のなかで生きて死んだ人間であって、教訓として消費されるために掘り出されたわけではない。
あと、定番の陰謀論もそれなりにある。ハトシェプストは聖書に出てくるモーセを拾った王女だという説、彼女のプント遠征は実はもっと遠くまで行っていたという説、ミイラの同定は政治的な演出だという説。どれも証拠のハードルを大幅に下げれば成立する類の話で、真面目に相手をする必要はないが、こういう話が絶えないこと自体が、彼女の物語の吸引力を示している。
なぜ、この話はこんなに刺さるのか
理由はいくつか思いつく。
第一に、「消そうとして消しきれなかった」という構図が、単純に強い。
人は、隠されたものを見つけたがる。壁から名前が削られている、という視覚的な事実は、それだけで読み手の中に「では本当は何があったのか」という問いを立ててしまう。削られた面は空白ではなく、空白の形をした情報なのだ。しかも彼女の場合、削除が不完全だったせいで、削られた輪郭からもとの記号が読み取れる箇所すらある。鑿の跡ごしに元の名前が透けている。これほど雄弁な破壊もそうない。
第二に、答えが二転三転していること。
復讐説が定説になり、年代測定で崩れ、政治説が主流になり、さらに彫像の破壊様式の研究がその一部を切り離す。この動き方は、歴史が固定された事実の集合ではなく、証拠と解釈の綱引きであることを、これ以上ないくらいわかりやすく見せてくれる。しかも新しい説が出るたび、悪役の顔が変わる。トトメス三世が悪人だったり、政治的に合理的な老人だったり、そもそも無関係だったりする。読み物としてお得すぎる。
第三に、彼女自身のキャラクターが強い。
付け髭をつけて玉座に座り、自分は神の娘だと壁に彫らせ、南の果てに船を出し、崖に前衛的な神殿を建て、乳香を焼いて目の縁に塗った。どのエピソードも絵になる。二十年以上を戦争なしで回した、という統治実績も地味に効いている。武力ではなく建設と交易で権威を作った王というのは、古代においてかなり珍しい。
第四に、終わり方が中途半端であること。
彼女の死因はわからない。ミイラの同定は確定していない。センエンムトの墓は空で、彼がどこへ行ったのかもわからない。娘ネフェルウラーもいつの間にか記録から消える。誰が最初に鑿を振り下ろせと命じたのかも、確実には言えない。これだけ材料があるのに、決定的な一点が全部欠けている。人が推理をやめられない構造になっている。
そして最後に、たぶんこれがいちばん大きいのだが、彼女の話は「記録される」ということの意味を、正面から突きつけてくる。
彼女は王名表から消された。何百年ものあいだ、エジプト人にとって彼女は存在しなかった。それでも彼女は残った。石が丈夫だったから。作業が雑だったから。破片が穴に埋められたから。転用された石材が壁の中で守られたから。歴史から抹消するという行為が、これほど徹底的に、しかも結果的に失敗した例は、そう多くない。
削るという行為は、削られた対象より、削った側の意図のほうを永久に記録してしまう。それを三千五百年かけて証明したのが、この話なのだと思う。
七年の助走が意味していたこと
ここからは、上で並べた材料を、もう少し踏み込んで噛み直しておきたい。
まず時系列を、あらためて頭に入れ直す。トトメス二世が死んで、ハトシェプストが摂政に入る。ここが起点。それから七年ほど経って、彼女は王を名乗る。
この七年という助走期間が、実は相当重要だ。
もし彼女が権力に飢えた簒奪者なら、夫の死の直後に動いたほうが早い。幼王の後見という立場は、乳児が相手なら特に強い。それをやらず、七年かけている。この七年で何をしていたかというと、おそらく人事だ。アメン神官団を掌握し、財務と建設の実務を握る官僚を自分の側に配置し、王女ネフェルウラーに神妻の地位を与えて宗教的な足場を作る。センエンムトの異例の出世も、この期間に進んだと考えられている。
言い換えると、彼女は権力の座を「奪った」というより、下から積み上げて、最後に称号だけを上書きした、という順序で動いている。
これは政変ではなく、制度の中での長期的な地位の固定化だ。エジプトの官僚機構は保守的で、正統性のない命令には従わない。彼女が二十年以上、目立った反乱も内乱もなしに統治できたということは、体制がそれを受け入れていたことを意味する。壁の上の神婚説話は、その受け入れを事後的に補強する装置だったのだろう。
次に、彼女とトトメス三世の関係を再考したい。ここが復讐説の心臓部だったわけだが、記録を見ると二人の関係はかなり奇妙だ。
彼女は彼を消していない。共同統治者として並べ続けている。トトメス三世は彼女の治世のあいだ、軍事の実務を担当していた形跡があり、少なくとも遊ばされていたわけではない。彼が単独王になった直後にメギドで見せた戦術眼と度胸は、二十年間ぼんやり待たされていた人間のものではない。あれは経験を積んだ指揮官の判断だ。つまり彼女は、彼を後継者として実務訓練させていた可能性がある。
だとすると、彼女の王位は「奪ったもの」ではなく「預かったものを、返さないまま名乗り続けたもの」に近い。相続の否定ではなく、相続の引き延ばし。彼女が死ねば自動的に彼が単独王になる、という前提は最初から崩れていない。だからこそ、彼女の死後に粛清が起きなかった。だからこそ、彼が二十年も彼女の記念物を放置できた。
なぜ二十年後に手が動いたのか
ここを詰めると、動機の本命が見えてくる。
老王の治世末期に起きる問題はいつも同じで、後継指名だ。トトメス三世の長子は先に死んだ。次に指名されたアメンヘテプ二世は、母系がやや弱い。そこに、もしハトシェプストの血統を背負う対抗馬がいたら。あるいは、いなくても、いつか現れうるとしたら。
このとき壁の上に残っている「女性が正統な王として二十二年統治した記録」は、極めて危険な前例になる。
前例というのは、単なる過去の出来事ではない。それが公的に記録され、神殿に刻まれ、儀式で読み上げられているかぎり、それは制度の一部だ。エジプトの王権は文字と図像によって現実になる。壁に彫られていないものは、ある意味では存在しない。逆に言えば、壁から消せば、存在しなかったことにできる。
だから彼らは削った。感情ではなく、制度の書き換えとして。これが現在の主流解釈の骨格だ。
そして、この解釈のいいところは、あの奇妙な選択性を説明できる点にある。王としての彼女は消され、王妃としての彼女はしばしば残された。危険なのは「王だった女」であって「王の妻だった女」ではないからだ。彼女が女であること自体は問題ではない。女が王でありうるという判例が問題だったのだ。
さらに、二〇二〇年代の彫像研究が加わることで、絵はもう一段複雑になる。ここは慎重に整理したい。
名前の削除と、像の破壊は、別の作業だ。同じ時期に、同じ命令系統で行われた可能性は高いが、目的まで同じとは限らない。名前を削るのは記録の書き換えであり、政治的行為だ。一方、像を撤去して首と腰と膝で折るのは、宗教的な処理の作法でありうる。神殿から像を下げる以上、そこに宿る霊を放置するわけにはいかない。決まった手順で機能を止め、まとめて埋める。宗教的には、むしろ丁寧な扱いですらある。
この二つを混ぜて「憎悪による大破壊」として語ってきたのが、これまでの通説だった。分けて考えると、憎悪の証拠として使えるものが急に減る。顔が無傷で残っている像がある、という一点は、それだけでけっこう効く。人が本気で誰かを憎んで石像を壊すとき、まず顔を潰す。これは古今東西ほぼ例外がない。
ただし、この新しい見方を採るときにも、慎重であるべき点はある。ウィンロックの発掘から百年経っている。破片は復元のために洗浄され、接合され、欠損部は補われている。出土時の状態を完全に再現することはもうできない。破壊の様式論は、当時の記録と写真の精度に依存する。そこに解釈の余地がある以上、「儀礼的無力化だった」も、断定ではなく有力な仮説として置いておくのが正しい距離感だと思う。
腕の位置と、埋まらない二つの穴
ミイラの話にも、もう一度戻る。
KV60Aについて、いちばん引っかかるのは腕の位置だ。曲げた右腕を胸に置く姿勢は、王としての埋葬様式に対応する。乳母のミイラがこの姿勢をとる理由は考えにくい。だから、少なくともこの女性が高い身分の人物であったことは、かなり確からしい。そこに、年齢、体格、歯の状態、そして墓の位置がKV20の至近であることが重なる。状況証拠としては悪くない。
一方で、決定打とされた歯の照合には、上顎か下顎かという致命的な批判がぶら下がっている。DNAは追試が乏しい。この二つが埋まらないかぎり、同定は宙に浮いたままだ。もどかしいが、それが誠実な現状認識だろう。むしろ興味深いのは、この宙ぶらりんの状態が二十年近く続いていること自体だ。それだけ、古代人の身元確認というのが難しい。
彼女の健康状態の話も、もう一度冷静に置き直しておく。
虫歯があり、歯周病があり、関節に変形があり、太っていて、骨に何らかの病変があった。この程度のことは、五十代まで生きた古代の人間としてはさほど特別ではない。むしろ、当時としては相当な長寿だ。栄養状態がよく、肉体労働をせず、上等な食事を毎日とっていた人物の体は、こうなりやすい。これは彼女の生き方の失敗ではなく、彼女の地位の反映だ。
発癌性成分が検出された瓶についても、同じことが言える。刺激の強い成分が入った軟膏を、皮膚疾患のために日常的に使っていた。それが結果的に体を蝕んだかもしれない。これは因果関係が証明された話ではなく、状況的な推測だ。ただ、推測としては説得力がある。彼女の一族に皮膚の病気があった形跡があること、瓶が彼女の名を持つこと、油脂の中に燃焼由来と思われる物質があったこと。三つがそれなりに噛み合う。
そのうえで思うのは、この話が持つ皮肉の構造だ。
彼女は自分を神の娘として壁に彫らせた。人間ではない存在として自己定義した。ところが三千五百年後、彼女について最も詳細にわかったのは、痛む歯と、荒れた皮膚と、痩せない体だった。神の娘の証明ではなく、人間の体の記録が残った。壁の上の永遠と、CTスキャナの中の現実。この落差は、たぶん彼女の物語の芯にある。
削った側の意図だけが、永久に残る
最後に、この一件から引き出せる一般的な教訓のようなものを書いておきたい。
ひとつ。記録の抹消は、ほぼ必ず失敗する。
エジプトの官僚機構は、たぶん人類史上でもトップクラスに徹底した組織だった。それでも消しきれなかった。石が硬く、対象が多く、現場が広く、時間が長く、人が雑だったからだ。抹消は完全な作業を要求するが、完全な作業を人間の組織が長期間維持することはできない。どこかで手が緩む。緩んだ隙間から、消されたものが漏れ出す。
ふたつ。破壊は、破壊された側ではなく破壊した側の情報を残す。
何を削り、何を残したか。どこを徹底し、どこを手抜きしたか。そのパターンは、命令者の優先順位をそのまま化石化する。彼女の名前が削られたパターンから、私たちは彼女ではなく、彼女を消そうとした人々の恐れを読み取っている。何を恐れたか。女性の統治そのものではなく、王位継承の秩序が揺らぐことを恐れた。その恐れは、削られた文字の分布に、いまも刻まれている。
みっつ。定説は動く。
復讐説は百年以上、まともな学説として通用していた。それを崩したのは新しい発掘ではなく、既存の碑文をもう一度、順番に読み直す作業だった。彫像の再検討も同じで、百年前の発掘記録の読み直しだ。新しいデータがなくても、既にあるデータの見方を変えれば結論は変わる。これは考古学に限った話ではないだろう。
そしてよっつめ。彼女は、たぶん自分がこうなることを、まったく想定していなかった。
彼女が壁に彫らせたのは、永遠に読まれ続けるための文章だった。名前を読み上げられ、供物を捧げられ、その繰り返しによって死後の存在が維持される。それが古代エジプト人の考える永遠だった。名前を削られるというのは、その永遠を断つ行為であり、彼女にとっては二度目の、そしてより完全な死を意味したはずだ。
ところが実際に起きたのは逆だった。
削られたせいで彼女は目立った。空白が人を呼んだ。三千五百年後、彼女の名前は世界中の教科書に載り、彼女の神殿には毎日観光客が入り、彼女の像はニューヨークの一室を占領している。名前を読み上げられ、語られ続けている。彼女が望んだ永遠の形とは全然違うけれど、機能としては、たしかに彼女は生き延びた。
削り取られた楕円の枠は、今も神殿の壁に残っている。中身は空だ。でもその空白の形は、はっきりと彼女の名前をしている。
