京都市上京区の上御霊神社の境内には、「応仁の乱発祥の地」と刻まれた石碑が、ひっそりと立っている。小さな石。けれどこの森で上がった火は、足かけ11年にわたって京の町を焼き続け、公家も武家も寺社も、灰に変えていく。
これほどの戦が成り行きだけで始まったとは思えず、誰かが裏で糸を引いたのではないか、と疑う声は昔からある。疑われてきた人物は、一人や二人じゃなかった。将軍の妻、将軍の側近、東西の総大将。名前を一人ずつ洗っていくと、話は思わぬ方向へ転がり出すんだよな。
八所の御霊が祀られた森で、火の手が上がった
この神社に祀られているのは、八所御霊と呼ばれる八柱の神だ。始まりは794年、桓武天皇の時代に早良親王の霊を祀ったことで、世を恨んで亡くなったと信じられた人々が、そこに並ぶ。吉備真備の名もある。疫病も天災も怨霊のしわざだと本気で恐れた平安の人々が、鎮めるために祀った神々らしい。
いまも毎月18日の朝には、境内で小さな市が開かれるが、合戦のあった日も、同じ18日だった。怨みを鎮める社の森から、あれほどの戦が始まった。皮肉な話。もちろん偶然にすぎないが、人の怨みを鎮めるはずの場所が、数えきれない死を生む戦の入り口になってしまった。
文正2年、1467年の正月。将軍足利義政は、毎年の恒例だった畠山政長の屋敷への訪問を取りやめ、代わりに政長のライバルの畠山義就を、室町第へ招いた。山名宗全の屋敷の酒宴にも顔を出し、誰が見ても、義就に肩入れする動きだった。
1月6日、義政は政長を管領の座から外し、畠山の屋敷も義就に明け渡せと命じる。管領の肩書きも屋敷も奪われては、政長が京の中で身を置く場所は、もうどこにも残らない。追い込まれた。
17日、義政は細川勝元に、政長への援助をやめるよう命じた。勝元は、山名宗全も義就を助けないなら、という条件をつけて、この命令を受け入れる。政長は孤立した。
18日の午前4時ごろ、政長は自分の屋敷に火を放ち、北へ走って上御霊神社に陣を構えた。その日の午後2時ごろには、山名宗全が天皇らを避難させている。2時間後に義就の軍が攻め寄せたが、西は川、南は相国寺の藪の大堀で、攻め口は東と北の二方向しかなかった。戦は夜通し続いた。
政長と家臣の遊佐長直らは、19日の明け方まで必死に戦い、最後は拝殿に火をかけて、勝元の屋敷へ逃げ込んだ。これが御霊合戦。応仁の乱の幕開けとされる戦いで、この年の3月には、元号が文正から応仁へ改まった。
後継ぎが二人になった将軍家
火種は、一つきりじゃなかった。大きく分けて、三つある。一つ目は管領家の畠山氏、二つ目は同じく管領家の斯波氏で起きた家督争いで、三つ目が、将軍家そのものの跡継ぎ問題だった。
畠山では、政長と義就が家督を奪い合っていた。義就は7年前に家督を追われ、京を離れていたが、文正元年の12月になって、大軍を連れて京へ戻ってくる。歴史学者の呉座勇一氏は、応仁の乱の直接の引き金は畠山家の家督問題だったと語っている。火元は、ここだ。
斯波では、義敏と義廉が争った。文正元年の7月、義政は側近の伊勢貞親らの進言を受けて、家督を義廉から義敏へ戻させる。ところが9月に政変が起きて、家督はまた義廉の手に戻り、数か月で、持ち主が二度も入れ替わったわけだ。
三つ目が、いちばん厄介だった。1464年の11月、義政は出家していた弟の義尋を還俗させ、足利義視と名乗らせて、後継ぎに決める。後見についたのは、管領の細川勝元だった。
ところが翌1465年の11月、正室の日野富子が男の子を産む。のちの足利義尚だ。弟か、実の息子か。後継ぎの候補が二人に増え、義尚の養育役には、義政の側近の伊勢貞親がついた。義視の側にも、文正元年の7月に男の子の義材が生まれ、次の将軍の座をめぐる話は、ますます複雑になっていく。
幕府を回していたのは、二人の大物だった。管領の細川勝元と、山名宗全。宗全は諱を持豊といい、「赤入道」のあだ名で通った男だ。嘉吉元年に将軍義教が討たれた場から戦わずに脱出し、のちに赤松満祐の討伐で名を上げて、5か国の守護にまで登りつめた。
勝元は、ただの武辺者じゃない。和歌や絵に才があり、医術の研究を重ねて『霊蘭集』という書物まで書き、禅宗を信じて龍安寺まで建てた。多才な男。
この二人は、もともと舅と婿の仲だった。1447年に宗全が養女を勝元の正室に送り込み、1454年ごろまでは、手を組んで幕政を動かしていた。最初は、うまくいっていたのだ。
その仲が、やがて割れていく。勝元は宗全の末子を養子にしていたが、1466年に実の子の政元が生まれると、その養子を廃した。畠山と斯波の家督争いでも、二人は別々の陣営を支える。三つの火種に二人の大物の対立が重なって、家の中の騒ぎは、国じゅうを巻き込む戦に化けていった。
弟が逃げ込んだ屋敷と、消えた側近
1466年の9月の初め、足利義視が夜のうちに、住まいの今出川殿を抜け出す。山名宗全の屋敷を経て、たどり着いたのは細川勝元の屋敷で、義視は、伊勢貞親に殺されそうだと訴えた。貞親のほうは、義視に謀反の企てがあると、義政に告げ口していたという。
勝元はすぐ動いた。出仕して義政の前に進み出ると、貞親の訴えは不当だと、はっきり申し開きをした。逃げ出したのは貞親のほうだ。同じ日に、蔭涼軒主の季瓊真蘂も、斯波義敏も、京を去っている。
将軍のそばから、側近がごっそり消えた。義政は、手足を一度にもがれた格好だ。この文正の政変で、斯波の家督は義廉に戻り、山名宗全は、その義廉の後ろ盾に回っていた。
貞親は、1443年に義政と父子のような関係を結んだ側近だった。政所執事として幕府の実務も握り、義尚の養育役として、次の将軍の親代わりにもあたる。いかにも黒幕らしい立場。
義視を追い落とせば得をするのは義尚の側で、そう読めば、筋書きはきれいにできあがる。でも、その後の貞親は、黒幕の動きには見えない。1467年の6月に伊勢から上洛して、翌年の閏10月に幕府へ復帰した。任された仕事は少なく、目立つのは朝倉孝景を東軍へ誘う交渉くらいだ。
1471年には謀反の疑いをかけられ、近江へ逃れて出家する。『応仁記』は、そんな貞親を、淫蕩にふけって幕府の政治を腐らせた悪い役人として描いた。乱が終わってから書かれた物語が、悪者の役を貞親にも割り振ったわけで、同じ手口で、いちばん派手に描かれたのが日野富子だ。
『応仁記』が作った悪女の顔
黒幕と聞いて、真っ先に名前が出るのは日野富子だろう。応仁の乱の張本人として、いちばん広く語られてきた人物で、北条政子、淀殿と並べて「日本三大悪女」と呼ぶ言い方まである。ちなみに、本人が「日野富子」と名乗った事実は、確認されていないらしい。
富子が義政の正室になったのは、1455年のことで、まだ16歳だった。最初の男の子は、1459年に生まれたその日のうちに亡くなっている。1462年と翌年は女の子が続き、1465年にようやく義尚が生まれたが、ここまでの道のりが、平らでなかったのは確かだ。
筋書きはこうだ。義政は弟の義視を後継ぎにしていたのに、そこへ富子が義尚を産んでしまい、後継ぎの座が揺らぎ始める。我が子を将軍にしたい富子は、山名宗全に頼み込んで、義視を追い落とそうとした。その企みが乱の引き金になった、という話が、長く信じられてきたんだ。
出どころは、軍記物の『応仁記』。成立は15世紀の終わりから16世紀の半ばごろとされ、作者は分かっていない。乱から時間がたって形になった本で、一巻本、二巻本、三巻本と、内容の違う本がいくつも伝わる。都の荒れ果てた姿と、戦のむなしさを嘆く本でもある。
一巻本には、富子が宗全に宛てた頼みの書状まで出てくるが、この書状は、他の史料のどこにも見当たらない。学者たちは、『応仁記』が作った話だと指摘する。証拠のない手紙が、悪女の物語を支えてきた。
呉座氏は、史実を詳しく見るほど『応仁記』と正反対ではないか、と述べている。この人が2016年に出した中公新書『応仁の乱』は、ベストセラーになった。富子は乱のあいだじゅう、東軍の側にいた。義視が西軍へ走ったあとも、土御門内裏が燃えないよう、西軍の大内政弘と連絡を取り合っている。山名宗全と組んで乱を起こした人間の動きには、とても見えない。
1477年に大内政弘が京を引き上げたのも、富子が動いたからだ、と呉座氏は強調する。大内を降参させて、本拠の山口へ引き上げさせたことが、乱を終わらせた。富子は悪女どころか、終戦の功労者だったというのが、呉座氏の見立てだ。
では、なぜ悪女にされたのか。女性が表舞台で力を持つと悪く書かれやすい、という指摘がある。もう一つ、富子には金にまつわる悪評が、長いあいだついて回る。
関所の銭と、貸した千貫
富子は、京都の七つの出入り口に関所を設けて、通行料の関銭を取った。名目は、内裏の修理費や祭礼の費用だった。ところが『大乗院寺社雑事記』は、その銭が内裏の修理には使われず、富子が自分のものにしたと書く。記したのは、奈良の大乗院の門跡だった尋尊だ。
米相場にも手を出し、大名には利子をつけて金を貸したが、貸した相手は、東軍にも西軍にもいた。遺した財産は7万貫、いまの金で70億円ほどとも伝わる。夫の義政が東山の山荘づくりで金に困っていたときも、一銭も出さなかった、という話まで、悪評の種になった。
文明12年、徳政を求める民衆の一揆が起きて、怒った人々が関所を壊す。富子は財産を守るために弾圧へ乗り出し、のちには、関所も再び設けた。民衆だけでなく、公家の恨みまで買ったという。
ところが、同じ金の動きを別の角度から見ると、違う絵が出てくる。富子は、大乱で苦しむ朝廷に、たびたび金を差し出していた。文明8年には内裏に詰める小番衆へ1万疋、文明12年に勝仁親王が元服したときは2万疋を贈っている。乱で途切れていた除目や春日祭などの儀式も、富子の金で復活させたという。
戦の終わりにも金が絡んでいて、文明9年の7月には、富子が畠山義就に1000貫を貸した、という記録が残る。義就は、そのあと京を離れた。和平の工作だったとも、引き揚げの費用を出してやったとも伝わる。
大内政弘からは、下国に便宜をはかった礼として、1万疋を受け取っている。いまの金で1000万円ほどの額だ。敵方の大名とも、金のやり取りをしていたわけだ。
義政が実権を失ったあとも、富子は表舞台に立ち続けた。息子の義尚は、成人すると母を疎んじ、1483年には富子を置いて、伊勢貞宗の屋敷へ移った。1489年、義尚は六角高頼の討伐に出た先で、25歳の若さで亡くなる。義政も、翌1490年の正月に世を去った。富子は、義視と自分の妹の間に生まれた義材を、次の将軍に立てようと動いた。
1493年には、細川政元と組んで義材を将軍の座から外し、義澄を11代将軍にすえる。明応の政変だ。夫と息子に先立たれたあとも、政局の真ん中に立ち続けた人だった。富子が世を去ったのは、1496年。57歳だった。
5月26日、夜明け前に戦が始まった
応仁元年の5月25日、細川勝元は室町第を押さえて、将軍の身柄を手に入れる。翌26日の夜明け前、東軍の兵が動き、成身院光宣が正実坊を、武田信賢が実相院を、それぞれ占拠した。ここから京の町は、本物の戦場になっていく。
東軍の本陣は、勝元の今出川の屋敷。西軍の本陣は山名宗全の五辻通大宮の東あたりに置かれ、細川方が東、山名方が西だから、東軍と西軍と呼ぶ。西軍の陣があった一帯が西陣で、織物で名高いあの名前は、ここから来た。
西軍には、宗全のほかに畠山義就、一色義直、斯波義廉らが集まる。東軍には、勝元のもとに畠山政長、京極持清、武田信賢らがついた。三つの火種に絡んだ顔ぶれが、そのまま東西に割れた形だ。
6月3日、将軍の旗が東軍に渡された。足利義視が総大将に立てられて、東軍は幕府の旗を掲げる側になる。『応仁記』は、両軍の兵を東軍16万、西軍11万余と書いたが、後の研究は、この数字を誇張とみる。
8月23日、西軍に大きな援軍が着いた。周防の大内政弘が、伊予の河野通春らを含む7か国の兵1万と、水軍2千艘を率いて入京したのだ。同じ日に、天皇と上皇は室町第へ避難している。西軍は一気に勢いを取り戻す。10月3日には相国寺へ攻め込み、東軍が構える花の御所と内裏にも迫った。
相国寺は燃えた。西軍に内通した寺の僧が火をつけたという話もあり、花の御所は、半分焼け落ちながらも陥落を免れる。応仁の乱で最も激しい戦いと言われるが、決着はつかなかった。この戦いのあと、両軍のぶつかり合いは散発的になり、戦場は京から地方へ移っていく。
将軍の弟が、敵の旗の下に立った
長引く戦で、両軍は兵が足りなくなり、穴埋めに駆り出されたのが足軽だった。もともとは兵糧運びや土木作業をする、正式な武士ではない連中だ。盗賊まがいの者も多く、町への放火や略奪を平気でやった。
東軍の足軽大将、骨皮道賢は、稲荷山に陣を張って敵の後方をかき回した。技量の低い者も多く、それまでタブーだった馬への攻撃まで、足軽は平然とやってのける。一条兼良は『樵談治要』に、洛中洛外の寺や社、五山十刹、公家や門跡の家が滅びたのは足軽のしわざだ、と書いた。
東軍の総大将だった義視は、応仁2年の9月、滞在していた伊勢から東軍へ戻ってくる。ところが閏10月、義政は伊勢貞親を幕府へ呼び戻した。命を狙われたと訴えた相手が、また将軍のそばに座ったわけだ。義視は、もう一度出奔した。
11月23日、西軍は比叡山に使いを出して、義視を迎え入れた。「新将軍」に祭り上げられたのは、つい先ごろまで東軍の総大将だった人だ。正親町三条公躬ら公家も西軍に集まり、幕府は東と西に分かれた。東幕府と西幕府。将軍が二人いる、異様な形になった。
総大将が死んでも、戦は止まらなかった
文明3年の5月21日、西軍の主力だった朝倉孝景が東軍へ寝返った。義政が、越前の守護に任じたからだ。孝景はもともと斯波義廉の重臣で、仕えていた主君を見限った形になる。下剋上の典型とされる出来事で、交渉に当たったのが、あの伊勢貞親だった。
文明5年の1月、山名一族の教之が世を去り、2か月後の3月18日には、宗全が70歳で病死する。2か月足らずのち、5月11日には、細川勝元も44歳で世を去る。東西の総大将が同じ年に相次いでいなくなったのに、京の戦は止まらなかった。
宗全は、死の前の年に家督を孫の政豊へ譲っていた。嫡男の教豊が、乱の始まった年に先立っていたからだ。勝元の死には、表向きは病死ながら、暗殺説も伝わる。乱の黒幕候補だった伊勢貞親も、この年、若狭で亡くなっている。黒幕と名指しされてきた男たちが、そろって世を去っても、戦は終わらなかった。
文明5年の12月19日、義政は将軍職を息子の義尚に譲って隠居する。義尚は、まだ子どもだった。義政は小河に建てた屋敷へひとりで移り、のちに造った東山の山荘が、慈照寺の前身になる。日夜、酒宴に明け暮れていたという。
和議の話は、文明4年には動き出していた。翌文明6年の4月3日、山名政豊と細川政元の間で和睦が成る。政豊は宗全の孫、政元は勝元の子で、親や祖父の代の戦を、子と孫が畳みにかかった形だった。それでも西軍の大内政弘と畠山義就は、京に居座り続けた。
文明9年の9月22日、義就がようやく河内へ下る。11月3日、大内政弘が東幕府に降参し、周防、長門、豊前、筑前の4か国の守護職は、そのまま認められている。11月20日、幕府は「天下静謐」の祝宴を開いた。11年に及んだ大乱の幕引きだ。
祝宴は開かれたが、誰かが天下を握った形にはならなかった。義就は京を出たあとも幕府の命令に従わず、河内と大和を占拠する。この義就が正式に赦されたのは、文明18年の3月だ。乱の後始末は、そこまで尾を引いた。
猿と犬の予言詩
『応仁記』は、乱の流れを、ある予言詩に重ねて描いている。『野馬台詩』という。平安から室町にかけて流行した詩で、中国の宝誌和尚が作ったと伝わる。偽書の可能性が高いとされる。
詩の中に、「猿犬英雄を称す」という一句がある。『応仁記』は猿を山名宗全、犬を細川勝元に当てはめたが、それは宗全が申年、勝元が戌年の生まれだったからだ。二人の総大将は、乱の前から詩に予言されていた。そういう筋書きになる。
『応仁記』ができたのは乱のあとだから、当てはめは後付けになる。大乱を説明したくて、人は予言詩にまで頼ったわけで、江戸の頃には、この詩のパロディが山ほど作られた。事件が起きるたびに、暗号めいた予言を後から書き足す遊びも流行ったらしい。
『江談抄』には、唐で難読の詩を解くよう命じられた吉備真備の逸話がある。その吉備真備が、冒頭の上御霊神社で八所御霊の一柱に祀られているのは、妙な巡り合わせだ。偶然だろうが、できすぎた話だ。
どの名前を当てても、一人では足りない
ここまでに出てきた容疑者を、並べ直してみる。日野富子は、乱を仕組んだ証拠が見つからず、終戦のために動いた人だった。伊勢貞親は、政変で追われ、乱のあいだは脇役にとどまった。細川勝元と山名宗全は、東西の総大将として戦ったものの、出発点は畠山と斯波の家督争いだ。
勝元と宗全の二人で戦を操った、という絵は分かりやすい。『応仁記』が二人を猿と犬に見立てたのも、その分かりやすさのせいかもしれない。ところが事実は、畠山の家督争い、斯波の家督争い、将軍家の跡継ぎ問題が、別々の筋で同じ時期に動いていた。
そこへ幕府の弱さが重なる。力は、管領を出す三つの家や、四職と呼ばれる守護大名に散らばっていた。将軍の力は、もとから弱い。家督の継ぎ方にもはっきりした決まりがなく、将軍家でも守護大名の家でも、お家騒動が絶えなかった。
今の研究は、応仁の乱を、誰か一人の意図を超えて膨らんだ大乱として説明し、黒幕を一人に絞る説明は、単純化がすぎるとする。悪女という答えは分かりやすい。黒幕のいない戦は、そのぶん収まりが悪い。
焼けた上京と、焼け残った下京
残ったのは、灰。文明2年ごろには、京都の寺社や公家、武家の屋敷の大半が、焼けてなくなっていたという。『類聚国史』など、京都にあった古い記録の多くも、焼けたり散らばったりした。乱より前の歴史を調べる研究にまで、傷が及んだ。
焼けたのは、寺社や公家、武家の屋敷が集まる上京だった。商工業者が暮らす下京は、焼け残った。この差が、のちの京都で商売が勢いづく下地になる。公家や民衆は、山科、宇治、大津、奈良、堺といった周りの町や、地方の所領へ逃げていった。
寺社や公家の荘園は横取りされ、荘園の仕組みが崩れる動きに拍車がかかった。幕府の権威は戻らず、守護大名が実力でぶつかり合う戦国の世へ、時代が動いていく。上の命令を下が聞かない風景が、あちこちで当たり前になった。
文明17年、山城の国人たちが団結して、居座っていた両軍に、国から出ていくよう通告する。山城国一揆だ。国人たちは、一種の自治的な政権を作り上げた。上に従うだけだった人々が、自分たちの国を自分で動かし始める。
祇園祭が京の町に戻ったのは、1500年だった。乱が終わってから、二十年あまりが過ぎていた。山名宗全が陣を構えた一帯は、いまも西陣の名で呼ばれる。織物の町。
