応仁の乱には、話を一気にわかりやすくする説明がある。「日野富子が、わが子を将軍にするために仕組んだ」というものだ。ただ、実際の経過を追うと、一人の黒幕ですべてを説明するのはかなり苦しい。将軍家だけでなく、畠山氏と斯波氏でも後継争いが起き、そこへ細川勝元、山名宗全、将軍側近らの対立が重なっていたからだ。
史料から追える大乱の流れ
応仁元年(1467年)、京都で東西両軍が本格的に衝突した。その前から、畠山氏では畠山政長と畠山義就、斯波氏では斯波義敏と斯波義廉が家督を争っていた。室町幕府8代将軍・足利義政にも長く実子がなく、弟の義視を後継者に定めたあと、正室の日野富子が義尚を産む。そこへ管領・細川勝元と山名宗全がそれぞれの陣営に関わり、複数の争いが同じ場所でぶつかる形になった。
文正元年(1466年)末には畠山義就が軍勢を率いて上洛し、翌年の御霊合戦を経て、京都市中での戦いが広がった。周防・長門の大内政弘も西軍に加わり、越前の朝倉孝景はのちに東軍へ移る。戦いは、東西の総大将だった勝元と宗全が亡くなったあとも止まらなかった。文明9年(1477年)、大内政弘が京都を離れ、畠山義就が河内へ下ったことで、ようやく大きな区切りを迎える。
ここまでの流れを見るだけでも、ひとつの後継争いがそのまま11年続いたわけではないとわかる。参加者はそれぞれ自分の家の存続や権力をかけて動き、途中で立場も変えた。誰か一人が最初から最後まで戦局を操った、という形ではない。
日野富子「黒幕説」はどう広まったのか
日野富子を黒幕とする筋書きは、乱後に成立した軍記物『応仁記』に見える。義政が弟の義視を後継に決めたあとで義尚が生まれ、富子がわが子を将軍にするため山名宗全へ働きかけた、という話だ。親が子のために天下を乱したという筋は覚えやすく、江戸時代の講談や通俗的な歴史読み物にもなじみやすかった。
しかし、近年の見方では、当時の日記類に富子が乱を主導したとわかる記述はほとんど見つからないとされる。山名宗全が対立していた相手も、富子というより伊勢貞親ら将軍側近の勢力だったと見る説明がある。富子の蓄財についても、乱のさなかに集めた金を内裏の修理や朝廷・寺社への支援へ回したという再評価が示されている。
もちろん、だから富子が政治と無関係だったという話にはならない。将軍家の一員として後継問題に関わり、財政面でも大きな力を持った。ただ、「富子が乱を始めた」と断定するには材料が足りず、後世の軍記が人物像をわかりやすく整えた可能性を考える必要がある。
伊勢貞親、細川勝元、山名宗全は黒幕だったのか
富子に代わる候補として挙げられるのが、足利義政の側近・伊勢貞親だ。貞親は義政の乳兄弟で、義尚の後見にもあたった。乱の前段階にあたる文正の政変では、斯波氏の家督問題に介入し、政敵の排除を図ったとされる。政局を大きく揺らした人物ではあるが、貞親一人が全国規模の戦いを計画したとまでは言えない。
東軍の細川勝元と西軍の山名宗全も、わかりやすい黒幕候補だ。二人が畠山氏や斯波氏の争いへ介入し、幕府の主導権を競ったのは大乱の重要な要素だった。ただし、「勝元対宗全」という一直線の構図も、『応仁記』など後世の語りに整理された面がある。実際には、両陣営の内部にも別々の利害があり、総大将が亡くなっても戦いは続いている。
京都の上御霊神社には、御霊合戦と応仁の乱の始まりを伝える石碑がある。こうした場所は大乱の記憶を今へ伝えているが、特定の人物を黒幕と証明するものではない。史跡が示すのは、複数の対立が実際に武力衝突へ進み、京都を巻き込んだという出来事の重さだ。
現代の見方――黒幕を一人に決めない
現在の実証的な見方に近いのは、将軍家、畠山氏、斯波氏の後継争いに、幕府の弱い統制力と有力守護の競争が重なり、誰にも止められない戦いへ膨らんだという説明だ。富子、貞親、勝元、宗全は、それぞれ局面を動かした当事者ではある。でも、全員を動かした秘密の首謀者がいたと示す記録までは見つかっていない。
応仁の乱は「悪人を一人見つければ終わる話」ではない。小さくない争いがいくつも同時に起き、各勢力が目先の利益を求めて介入し、途中からは当初の目的さえぼやけていった。黒幕探しよりも、その複雑さをそのまま見るほうが、11年も終わらなかった理由に近づける。
