近江屋の二階で何が起きたのか
慶応3年11月15日、西暦なら1867年12月10日の夜のことだ。京都の近江屋で、坂本龍馬が中岡慎太郎もろとも斬られた。龍馬はその晩のうちに死亡し、中岡も2日後に息を引き取った。
犯人については、佐々木只三郎が率いた京都見廻組の関与が今のところ最有力とされる。ただし実行者の全員、命令系統、政治的な黒幕まで断定できる決定的資料はない。ここは先に断っておく。
ついでに一つ訂正しておきたい。この話では佐々木只三郎を新選組の人間として扱っているが、佐々木は京都見廻組の与頭だ。この分類は誤りである。
事件の骨格をまず押さえる
大政奉還からおよそ1か月後、しかも龍馬33歳の誕生日に起きた事件だった。現場は京都河原町の醤油商、近江屋新助の家である。2階にいた龍馬と中岡慎太郎が刺客に斬られ、下僕の藤吉も襲われた。
龍馬が負ったのは、頭部などへの致命傷だ。その夜のうちに死亡した。中岡は一時証言を残したのち死亡した。近江屋で龍馬が持っていた刀は陸奥守吉行で、高知県立坂本龍馬記念館も暗殺時の所持を確認している。現場の血痕を残す掛軸や屏風などが、事件の物証として今に伝わる。
京都見廻組説が最有力になるまで
最重要の根拠は、元見廻組隊士である今井信郎の供述だ。箱館戦争のあとに捕らえられた今井は、佐々木只三郎の指図で見廻組の者と龍馬捕縛に赴いたと述べた。討ち果たした事件への関与を認定され、1870年に禁錮刑となった。
その後の今井の談話、渡辺篤の告白、関係者の回想は、細部にそれぞれ違いがある。今井が名前を出した実行者には、早い時期に死亡した人物が多い。生存者を庇ったのではないか、という疑いもある。
だから「見廻組の組織的な関与」は有力でも、そこ止まりだ。誰の刀が致命傷を与えたのかまで確定したわけではない。
なぜ最初に新選組が疑われたのか
事件直後、現場に残された刀鞘や伊東甲子太郎らの証言から、新選組が疑われた。なかでも矛先が向いたのは原田左之助だ。幕末当時の新選組は、反幕府勢力を取り締まる代表的な組織だった。事件の印象とも結びつきやすかったのだろう。
しかし後年の今井供述などによって、現在は京都見廻組説のほうが有力になっている。新選組と見廻組は、どちらも京都の治安に関わる幕府側の組織だ。ただし別の組織である。佐々木只三郎を「新選組隊士」や「新選組の指揮官」と説明するのは、訂正が必要になる。
幕府・京都守護職
見廻組が公務として龍馬を捕縛し、抵抗を想定して討ち取ったとする説だ。実行主体の説明としては、これがいちばん単純になる。ただし上位者から暗殺命令が出たことを示す命令書は、確認されていない。
薩摩藩
龍馬が武力討幕ではなく大政奉還と公議政体を進めたため、薩摩の急進派には邪魔だったという説だ。動機の推測ならいくらでもできる。しかし見廻組を動かした証拠も、直接の命令書もない。
土佐藩
龍馬の独自行動や海援隊が藩の統制を乱し、後藤象二郎らに不都合だったという説である。これも関係者の利害から作られた仮説だ。実行命令の一次史料を欠いている。
紀州藩
海援隊の船「いろは丸」が沈没した件をめぐる、賠償交渉への報復説だ。恨みの背景は具体的で分かりやすい。ただし近江屋襲撃との直接の接続は確認されていない。
イギリス・外国勢力
武器商人や外交勢力が、維新後の利益を守るために龍馬を排除したという説だ。龍馬の国際関係を拡大解釈したもので、実行者も資金も命令経路も、それを示す史料がない。
「龍馬手帳」と「新選組日記」は実在するのか
この話では「龍馬手帳」に西郷隆盛と大久保利通への警戒が記されているとする。「新選組日記」のほうは、事件直後の動きを記録しているという。だが所蔵機関も史料名も翻刻も、文書番号も該当箇所も示されない。
高知県立坂本龍馬記念館が公開する書簡や所蔵資料の情報とも接続できない。現状では検証不能だ。
またこの話では、愛刀の吉行が質入れされていて現場になかったとされる。ところが同館のFAQは、暗殺時にも龍馬が吉行を所持していたと明記している。この点はこの話の誤りだ。
証言を読むときに気をつけたいこと
今井の供述は事件から数年後のものだ。後年談となると、さらに時間が経っている。当事者の多くが鳥羽・伏見の戦いで死亡した。中岡の死ぬ前の証言にも、伝聞を経た記録がある。
新政府側にも旧幕府側にも、それぞれ政治的な利害があった。「実行犯」と「指揮者」と「黒幕」は、そもそも別の問いだ。史料同士の一致点と矛盾点は、分けて扱う必要がある。
黒幕探しはどこから始まったのか
「黒幕は誰だ」ゲームの起点は、事件直後に現場を検分した者たちの直感的な犯人指名にある。海援隊と陸援隊の同志は、残された刀鞘や下駄に食いついた。さらに「こなくそ」という方言が決め手にされる。伊予訛りとされた言葉だ。
そこから彼らは新選組の原田左之助を真っ先に疑った。報復として天満屋事件まで起こしている。紀州藩士の三浦休太郎を襲った、あの事件だ。つまり黒幕論争は、被害者側の早とちりの復讐からスタートしたことになる。
実行犯が京都見廻組だと公式に浮上するのは、明治3年(1870年)の今井信郎の自供を待たねばならない。それまでの数年間、犯人の座は空席のままだった。そのあいだに噂だけが太っていったわけだ。
黒幕候補は幕末オールスター
黒幕候補の顔ぶれは、幕末オールスターが勢揃いする豪華さだ。まずは幕府と京都守護職。公務としての捕縛に龍馬が抵抗し、殺害されたという筋になる。
次が薩摩藩だ。西郷隆盛が事件後に「不幸中の大幸」と書いたとされる手紙が、動機として何度も引用される。三番目が土佐藩の後藤象二郎で、大政奉還の手柄を独占するため邪魔な龍馬を消した、という説になる。福岡藤次(孝弟)の不可解な態度も、疑いの燃料にされている。
四番目は紀州藩で、いろは丸沈没の賠償金への報復だ。五番目に中岡慎太郎の共犯・巻き添え説がくる。現場に居合わせた中岡こそ本来の標的だった、あるいは何かを知っていた、という逆張りである。六番目がイギリス・グラバー・フリーメイソン説になる。
地域や媒体によって「推し黒幕」が違うのも面白い。幕末ファンのあいだでは、自分の推し藩を犯人にしない忖度合戦の様相すらあるらしい。
実行犯は決まっても黒幕は決まらない
実行犯は京都見廻組でほぼ確定、というのが現在の主流だ。今井信郎の自供と、渡辺篤(吉田)の告白が組織的な関与を裏づけている。しかし誰の刀が致命傷を与えたのかは分からない。命令がどこまで上がっていたのかも、依然ブラックボックスのままだ。そこに異説が食い込んでくる。
一つ目がフリーメイソン・グラバー黒幕説だ。「龍馬からグラバー、ジャーディン・マセソン商会、そしてロスチャイルド」という壮大な資金ラインを描く。用済みになった龍馬が国際資本に消された、とする都市伝説である。
根拠として持ち出されるグラバー邸の「フリーメイソンの石柱」は、実は後世に寄贈された別物だ。時代がまるで合っていない。
二つ目が薩摩黒幕説になる。武力討幕に舵を切った薩摩の急進派にとって、公議政体と非戦論の龍馬は障害だった、という動機論だ。ただし見廻組を動かした証拠はゼロである。
三つ目が中岡標的説だ。政治的に急進化していた中岡こそ本命で、龍馬は巻き添えだった、という読み方になる。
断言してしまえば、実行犯は見廻組で決まりだ。黒幕論のほうはどれも一次史料の命令書を欠いたまま、動機の状況証拠だけで戦っている。だからこそ永遠に盛り上がる。
ネット民が今日も殴り合っている論点
5chやnote、YouTubeの考察系では、「実行犯(見廻組)と黒幕は別問題」という整理が共有されている。それでも盛り上がるのは、もっぱら黒幕論のほうだ。
人気なのが薩摩黒幕説になる。「西郷の不幸中の大幸の手紙が証拠」「非戦派の龍馬は討幕派に邪魔だった」というストーリーが、繰り返し貼られている。
一方でフリーメイソン説は、冷静にツッコまれる定番のオモチャだ。「ロマンはあるがソースが石柱一本で草」「グラバー邸の石は後世寄贈でアウト」といった具合になる。
「そもそも龍馬は当時そこまで大物じゃない」という声もある。幕府から見れば、逃亡中の指名手配犯を見廻組が公務で討っただけ、という身も蓋もない現実派だ。これも一定の支持を集めている。お笑いや雑学系のメディアが「幕末最大のゴシップ」として扱うほど、エンタメ化は進んでいる。
物語として辿る「近江屋の夜」
慶応3年11月15日、旧暦でいえば龍馬が生まれた日でもある。その夜、京都・河原町の醤油商である近江屋新助宅の二階に、龍馬と土佐の同志・中岡慎太郎がいた。炬燵を挟んで語り合っていたという。
話題は軍鶏鍋の注文だったとも、今後の政局だったとも伝わる。表の戸を叩く音がして、下僕の藤吉が応対に出た。次の瞬間、階段を駆け上がる複数の足音が響いたのだ。障子越しに刃が振り下ろされた。
龍馬は額と背に致命傷を負いながらも、とっさに脇差を抜いて応戦したと伝わる。いかんせん多勢に無勢だった。中岡もまた全身に深手を負っている。それでも絶命までの二日間、途切れ途切れに事件の様子を語ったという。
この惨劇の舞台となった部屋には、文人・板倉槐堂による《梅椿図》の掛軸が掛けられていた。この掛軸には今も血の飛び散った痕が残っている。表具の上部には、事件後に海援隊士・長岡謙吉が記したとされる追悼の文言がある。
生々しい現場の記憶をそのまま今に伝える、数少ない物証だ。後年、この掛軸は美術館に所蔵されることになった。都市伝説界隈では、この血染めの掛軸そのものに霊的な力が宿っているという噂もある。近くで長時間見つめていると、当時の断末魔の声が聞こえてくるらしい。
発祥をたどる――「新選組説」はなぜ最初に広まったのか
事件直後、現場には下駄と刀の鞘が残されていた。この鞘の持ち主は誰なのか。さらに「こなくそ」という掛け声が聞こえたという証言も出てきた。伊予訛りとされる言葉だ。
そこで容疑は、伊予出身の新選組隊士・原田左之助にかかった。海援隊と陸援隊の同志たちは、この見立てを信じ込んだ。報復として紀州藩士・三浦休太郎を襲撃する、天満屋事件まで引き起こしている。
つまり「黒幕は誰か」という問いをめぐる最初の物語は、被害者側の早とちりの復讐劇だったことになる。状況証拠だけを頼りに突っ走ったわけだ。
この新選組犯人説は、その後じわじわ後退していく。龍馬の額の刀傷が左利きの人物によるものとされ、右利きだった原田左之助とは矛盾する、という指摘が出たからだ。後年の京都見廻組・今井信郎の自供も効いた。
それでも「新選組が龍馬を斬った」というイメージは強く残っている。時代劇や小説を通じて、長く大衆の記憶に刻まれ続けることになった。
派生・別バージョン――フリーメイソン説の系譜
数ある黒幕論のなかでも、都市伝説として特に人気が高いのがフリーメイソン・国際資本黒幕説だ。骨格はこうなる。龍馬は貿易商社の亀山社中を設立して、わずか数か月で大量の銃器を海外から調達している。一介の脱藩浪士には、到底用意できないはずの量だ。
この資金と武器の出所として名指しされるのが、スコットランド出身の武器商人トーマス・グラバーである。グラバーはさらに、国際商社ジャーディン・マセソン商会の代理人だったとされる。
ここから物語は一気に広がっていく。「龍馬からグラバー、ジャーディン・マセソン商会、そしてロスチャイルド」という壮大な資金と情報のラインが描かれる。フリーメイソンという国際的な秘密結社が、開国と倒幕という日本の近代化そのものを陰から操っていた、という筋書きだ。
この説の物証としてしばしば持ち出されるのが、グラバー園に現存する石柱に刻まれたフリーメイソンの紋章になる。「グラバー邸そのものがロッジとして機能しており、龍馬もそこに出入りしていた」という語りも広まった。ロッジとはフリーメイソンの集会所のことだ。
一方でこの石柱は、実際には1966年に贈られたものである。龍馬の時代とは百年近い隔たりがあり、時代考証上の弱点として同時に指摘されている。
また、日本のフリーメイソン組織を統括する日本グランドロッジ関係者の著作もある。そこではグラバー本人がフリーメイソンだったという証拠はない、と明言されているとも紹介される。
それでもなお語りは死なない。「薩長同盟の立役者は実はグラバーであり、龍馬はその表の顔にすぎなかった」という話がある。「龍馬は国際資本の意図を知りすぎたために消された」という語りもある。どちらも陰謀論としての魅力を失わないまま語り継がれている。
さらに枝分かれする形で、「中岡慎太郎こそが本命の標的だった」とする逆張り的な説もある。政治的に急進化していた中岡が、何か重大な機密を握っていたという読み方だ。龍馬はたまたま同席していたために、巻き添えを食っただけになる。
この説は、実行犯である見廻組の狙いが本当に龍馬だったのか、という一次資料上の曖昧さに漬け込む形で語られている。真偽はともかく、黒幕論に新たな角度を与える異説として一定のファンを持っている。
目撃談・体験談集
近江屋跡地、つまり現在の京都・河原町にかつての建物は残っていない。それでも周辺を訪れた歴史ファンや心霊スポット巡りの愛好者からは、いくつかの体験談が寄せられている。
ある夜間の史跡巡りをしていた男性の話だ。龍馬中岡遭難之地の碑の前に立った際、周囲の喧騒が唐突に遠のいたという。耳鳴りのような音とともに、一瞬だけ強い寒気を覚えた。
本人はそれを「暗殺された二人の無念が、今も土地に染み付いているのだろう」と解釈している。以来その場所を訪れるたびに、一礼をしてから立ち去るようにしているそうだ。
また別の体験談もある。血染めの掛軸を美術館で間近に鑑賞した来場者が、ガラスケース越しに掛軸を見つめていた。すると突然背筋に冷たいものが走り、慌ててその場を離れたという。
掛軸に残る血痕は、歴史的な物証として静かに展示されているものだ。それでも来場者のなかには「あの染みを見ていると、当時の断末魔が聞こえてくるような気がした」と証言する者も少なくないという。
京都の史跡めぐりガイドを務めるある人物のエピソードも面白い。外国人観光客を近江屋跡へ案内した際、まだ説明もしていないうちからのことだ。同行者の一人が急に「ここで誰かが叫んでいるような気がする」と怯えた表情を見せたという。
偶然の思い込みと片付けることもできる。ただ「土地が何かを覚えている」という感覚は、事件現場を訪れる者たちのあいだで繰り返し語られる典型的な体験として定着している。
ネットでの広まり
歴史系やオカルト系の掲示板とSNSでは、実行犯の議論より黒幕論のほうが圧倒的に盛り上がる。そういう傾向が指摘されている。中でも人気なのが薩摩藩黒幕説だ。
大政奉還後に西郷隆盛が「不幸中の大幸」と評したとされる書簡が、繰り返し「動機の証拠」として引用される。一方でフリーメイソン説には、やや冷ややかな指摘が定番のツッコミとして定着している。「ロマンはあるが、根拠が石柱一本というのは弱すぎる」「グラバー邸の石柱は後世の寄贈品だと知って冷めた」といった調子だ。
それでもなお、直感的な違和感は根強く支持されている。「龍馬ほどの人物が、一介の浪士の器量だけであれだけの武器と資金を動かせたはずがない」という感覚だ。フリーメイソン説や国際資本説は、歴史的な検証を経てもなお一定の人気を保ち続けている。
動画考察勢のあいだでは「実行犯(見廻組)と黒幕は別の問い」という整理が前提になっている。そのうえで、あえて黒幕論のロマンを楽しむというスタンスが広く共有されているそうだ。幕末史そのものをエンターテインメントとして味わう文化が、しっかり根付いているのがうかがえる。
近江屋事件と京都・河原町の実像
近江屋事件が起きた京都・河原町一帯は、幕末には京都の中心的な商業地だった。土佐藩をはじめ諸藩の関係者が出入りする土地でもある。現場となった醤油商・近江屋新助宅は現存しない。
跡地には「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」の碑が建てられ、今も多くの歴史ファンが訪れる史跡になっている。事件直後に龍馬を診察し、絶命を看取った関係者の証言も残る。二日後まで生きた中岡慎太郎の伝聞証言もある。
これらは当時の混乱した政治状況を色濃く反映している。証言者それぞれの立場によって、細部が食い違う点も少なくない。
事件から数年後の明治3年(1870年)、元京都見廻組隊士の今井信郎が口を割った。佐々木只三郎の指図のもとで龍馬捕縛に赴いた、という供述だ。今井は禁錮刑に処せられ、実行犯についてはようやく組織的な輪郭が見え始めた。
しかし命令がどこまで上位から出ていたのかは分からない。政治的な黒幕が存在したのかどうかも、150年以上を経た今なお一次史料による決定的な裏付けを欠いている。だからこそこの事件は、歴史ファンとオカルトファンの双方を惹きつけ続けているわけだ。
