## 「古いバケツのフタだと思った」から話は始まる
一九九九年七月四日。ドイツ中部、ザクセン=アンハルト州。ネブラという小さな町の近くに、ミッテルベルクという標高二百五十メートルちょっとの低い丘がある。ドイツの丘としては大したことない高さだ。森に覆われていて、晴れた日には北にブロッケン山、南にキフホイザーの山塊が見える。その丘の斜面で、二人の男が金属探知機を振っていた。仮にヘンリー・Wとマリオ・Rと呼んでおく。二人とも考古学者ではない。趣味と小遣い稼ぎで地面の下の金属を掘る人たちだ。
はっきり言っておくと、これは犯罪だ。ドイツの多くの州、とくにザクセン=アンハルト州には「宝物高権」と呼ばれる制度があって、地中から出てきた重要な文化財は発見者のものではなく州のものになる。おまけに保護地区での無許可の探索そのものが違法。だから二人がやっていたことは、最初から最後まで法に触れている。ここでは当時の経緯を追うだけで、真似を勧める意図はまったくない。金属探知機で遺跡を掘るのは、その土地の記憶を永久に壊す行為でもある。あとで出てくるが、この件はまさにそれをやらかしている。
さて、探知機が反応した。掘り出したのは、緑青まみれの丸い金属板。あとの供述によると、二人はこれを「古いバケツのフタ」か何かだと思ったらしい。価値のないゴミだと。それで、周りを掘り広げるために消防用のつるはしを振るった。刃先が円盤の縁に当たり、金の装飾の一部が欠け、円盤そのものにも傷が入った。三千六百年ぶりの再会が、つるはしの一撃である。世界で最も古い星空の絵に、二十世紀の鉄が食い込んだ瞬間だ。
ところが掘り進めると、様子がおかしい。青銅の剣が二本出てきた。柄には金の装飾がついている。斧が二丁、鑿が一本、そして螺旋状の腕輪の破片。金と武器がまとまって出てくるということは、これはゴミではない。二人はそこでようやく、自分たちが何か途方もないものを引き当てたと気づいた。そして翌日には、その全部を売り飛ばしている。
## 三万一千マルクで始まって、百万マルクまで膨らんだ
最初の買い手はケルンの業者だった。仮にアヒム・Stとしておく。値段は三万一千から三万二千マルク。当時のレートで日本円にすればおおよそ二百万円前後だ。人類史上屈指の遺物にしては、恐ろしく安い。二人の掘り手はそれで手を引いた。彼らにとってはそこで話が終わったが、円盤にとってはここからが地獄だった。
買い取った業者は、まず商品を「きれいに」しようとした。石けんとスチールたわしで擦ったのである。青銅の表面には三千数百年かけて育った緑青の層があり、その層こそが年代を語る最大の証拠なのだが、そんなことは知ったことではない。金の象嵌は擦られて損傷し、貼りついていた土は落ち、表面の情報は大幅に削られた。のちの科学分析が難航する原因の何割かは、このたわしのせいだ。
業者は正規の売却先を探しもした。博物館に持ち込もうとしたが、宝物高権のせいで買えるわけがない。出所不明の重要遺物を公的機関が金を出して買えば、盗掘の資金源になる。断られる。そこで裏側のルートに流れた。仲介したのは「ヒストリア」という名前のレストランを営む女性、ヒルデガルト・B。彼女を経由して、円盤一式は個人収集家のラインホルト・Stの手に渡る。額は二十三万六千マルクとされる。最初の値段の七倍以上。転売のたびに値札が跳ね上がり、一時は百万マルクという数字まで飛び交った。
この二年ちょっとのあいだ、円盤がどこにあったのか、誰の手を何回経由したのか、正確な全容はいまも完全にはわかっていない。所有者は名乗り出ない。領収書も出ない。わかっているのは、この時期に円盤が「商品」として扱われ、少なくとも一度はガチで洗われ、そして出土地の情報が意図的にぼかされ続けたということだ。のちに二〇二〇年の論争で「出土状況が信用できない」と言われる土壌は、まさにこの二年間に耕された。
## バーゼルのホテル、腹にタオルで巻きつけられていた円盤
二〇〇一年、ザクセン=アンハルト州の州考古学官でハレ先史博物館の館長でもあるハラルト・メラーのところに、話が届く。噂として流れていた「星の描かれた青銅の円盤」を、誰かが買い手を探して回っている。写真もあったらしい。メラーはそれを見て、これは本物かもしれないと直感する。彼はのちにこの円盤を「ツタンカーメンの黄金のマスクに匹敵する」と表現することになる。大げさに聞こえるが、彼は本気だった。
問題は、どうやって取り返すかだ。持ち主はドイツ国内で堂々と取引するわけがない。そこでスイスが舞台になった。バーゼル。売り手側は「スイスでなら買い手がつく」と考え、メラー側は「スイス警察と組めば現行犯で押さえられる」と考えた。両者の思惑がひとつのホテルの部屋で交差する。
二〇〇二年二月二十三日。メラーは「金にあかせた裏の買い手」として現れることになっていた。提示された額は七十万マルク。ここで面白いのが、彼が一人で行っていないことだ。同行したのは博物館の化学者クリスティアン=ハインリヒ・ヴンダーリヒ。目的は、売り手を信じ込ませるための小芝居である。二人は「真贋を判定する特殊な液体」なるものを用意していた。実際にはただ煙が出るだけの、化学的にはほぼ意味のない演出だ。金持ちの買い手が連れてきた専門家が、もったいぶって液体を垂らし、白い煙が上がり、うなずく。それらしく見えるだろう、という発想である。考古学者と化学者がスパイ映画をやっているわけだ。
売り手のラインホルト・Stは、ホテルの部屋で上着をめくった。円盤は、タオルにくるまれて彼の胴体に巻きつけられていた。腹に世界最古の星空を巻いて、スイスのホテルの廊下を歩いてきたわけである。ここが本作最高の絵面だと思う。ブツが出た。メラーは受け取り、そして返さなかった。この「返さなかった」というのが後の語り草で、彼は物理的に円盤を抱え込んだまま動かなかったという。周囲の客や従業員に紛れていた私服の警官が動き、ラインホルト・Stとヒルデガルト・Bはその場で確保された。
こうして円盤は、掘り出されてから二年七か月ぶりに、公のもとに戻った。ただし戻ってきたのは円盤とその仲間たちだけで、出土地の情報――どの穴に、どの向きで、何と一緒に、どんな地層の中にあったのか――という、考古学にとって遺物本体と同じくらい大事なものは、地面の中で粉々になったままだった。
## 裁判所が何十日もかけて確かめた、地味で決定的な事実
事件はここで終わらない。二〇〇三年九月、ナウムブルクの裁判所が掘った二人に有罪判決を出した。四か月と十か月。控訴審でそれぞれ六か月と十二か月に引き上げられた。額の大きさや文化財の重要性を考えれば軽いが、当時のドイツの法制ではそんなものだった。この事件をきっかけに、金属探知機の扱いに対する目はドイツ全体で厳しくなっていく。
業者側の裁判はもっと長引いた。何十日という公判日数を重ね、最終的に二〇〇五年、そして関係する手続きは二〇〇七年ごろまで続く。この裁判が結果的にとんでもなく重要な副産物を生んだ。所有権を争ううえで、裁判所は「そもそもこれは本物か」「本当にミッテルベルクから出たのか」を確定させる必要があったからだ。つまり法廷が、考古学の検証を強制的に、かつ徹底的にやらせた。
まず出土地。掘った本人の一人が司法取引に応じ、現場に案内した。二〇〇二年、州の考古学チームが正式にミッテルベルクを発掘する。そこで出てきたものが地味に効く。まず、盗掘の穴そのものが地層の断面として残っていた。掘り返された土と、その下の手つかずの層の境目がはっきり見える。穴の中からは、掘った連中が置いていったペットボトルが出た。製造年代から一九九〇年以降のものだと判明する。つるはしの刃が地面と岩に残した傷も一致した。さらに決定的なのが土の化学分析で、穴の底の未撹乱の層から、周囲より明らかに高い銅と金の濃度が検出された。金属の物体が長期間そこに埋まっていれば、成分は微量ずつ周囲の土ににじみ出る。にじみ出た跡が残っていた、ということだ。
それから土そのものの照合。円盤や剣の隙間にこびりついていた土を採取し、ミッテルベルクの土と、地質的に似た他の六か所の土と比べた。結果、円盤と剣に付着していた土はミッテルベルクの土と九割から九割五分の一致を示した。斧に付いていた土は少しずれたが、これは保管や運搬の過程での汚染で説明がつく範囲とされた。
そして年代。剣の柄には白樺の樹皮が使われていて、これが有機物なので放射性炭素年代測定にかけられる。出た数字は紀元前一六〇〇年から一五六〇年ごろ。剣や斧の形式分類、つまり考古学者が土器や金属器の形の変遷から年代を割り出す地味だが強力な手法でも、紀元前一七〇〇年から一五〇〇年の枠に収まり、より細かく言えばブロンズ時代A2cという段階にきれいに入る。円盤と一緒に埋まっていた仲間たちは、全員そろって同じ時代の顔をしていた。
## この円盤、四回にわたって作り直されている
物としての姿を押さえておこう。直径は三十二センチ前後。重さは二キロちょっと。中央がいちばん厚く四・五ミリ、縁に向かって一・五ミリまで薄くなる、わずかに凸型の板だ。いま見ると青緑色をしているが、これは緑青の色で、作られた当時は茶色がかった濃い紫紺、ほとんど夜空みたいな色だったと推定されている。そこに金が象嵌されている。想像してほしい。ほぼ黒に近い深い紫の面に、金の点が散っている。これは「星図」というより、夜空そのものを板に閉じ込めたオブジェだ。
面白いのは、この円盤が一発で完成したものではないことだ。金の成分や象嵌の技法を細かく見ると、少なくとも四つの段階を経ている。第一段階では、三十二個の小さな金の丸(星)と、大きな円板(太陽か満月)と、三日月が貼られた。星のうち七つは明らかに小さくまとまった一群を作っていて、これがプレアデス星団、日本で言うすばるだと考えられている。残りの二十五個は特定の星座に対応させにくく、そこが後述の批判の火種にもなる。
第二段階で、左右の縁に細長い金の弧が足された。ここが肝で、この弧を貼るときに既存の星が邪魔になった。実際、弧の下敷きになって隠れてしまった星があり、一つは別の場所に貼り直された形跡がある。つまり作り手は、最初のデザインを壊してでもこの弧を入れたかった。第三段階では下の縁に、もう一本の弧が加わる。こちらは内部に細い線が何本も刻まれていて、櫂を並べた船に見える。太陽の船だ、いや虹だ、いや天の川だ、と読み方が割れているパーツである。そして第四段階、縁に沿って三十九個から四十個ほどの小さな穴が、直径三ミリほどのポンチで開けられた。何かに固定するため、あるいは紐を通して掲げるためだと考えられている。埋められる直前の作業だ。
四段階を経ているということは、この円盤が長い時間、複数の世代にわたって使われ、そのたびに意味を上書きされていったことを意味する。作った人と、最後に穴を開けて埋めた人は、たぶん別人だ。下手をすれば二百年くらい離れている。三千六百年前の一枚の板が、すでにその時代の中で「古い物」として扱われ、改造され、最後に葬られた。この重層性が、この遺物のいちばん不気味で美しいところだと思う。
## 銅はアルプス、スズと金はコーンウォール。地図が一気に広がる
素材の産地分析も、この円盤の格を上げた。まず銅。微量元素と鉛同位体の組成から、オーストリア、ザルツブルク州のビショフスホーフェン近郊にあるミッテルベルク鉱山の銅と一致した。ここで最高にややこしいのが名前で、出土地の丘がミッテルベルク、銅の鉱山もミッテルベルクである。全然別の場所なのに同じ名前。この話をするたびに誰かが混乱するので、覚悟して読んでほしい。オーストリアのミッテルベルク鉱山は青銅器時代の一大銅生産地で、稼働のピークは紀元前一七〇〇年から一二〇〇年ごろ、終わりは紀元前九世紀。この「終わり」があとで効いてくる。
スズは、当初から西方が疑われていたが、のちにイングランド南西部コーンウォールが有力とされた。そして金。ここが分析史のいちばん面白いところで、二〇〇二年から二〇〇三年ごろの初期分析では、金はルーマニアのカルパチア地方産だとされた。当時の分析データと比較対象の資料からは、そう読むのが妥当だった。ところが二〇一一年の再分析で、話がひっくり返る。第一段階の星や太陽に使われた金は、コーンウォールのカーノン川の砂金の組成と一致した、と。錫石を洗う川から採れる自然金だ。しかも第二段階の弧に使われた金は、第一段階のものと化学的に別物だった。つまり作り手は、時期の違う、産地の違う金を使い分けている。
ルーマニアからコーンウォールへ。この訂正は、単に地名が変わったという話ではない。円盤の背後にある交易網の向きが、東欧から大西洋側へと丸ごと描き替わったということだ。しかもコーンウォールの金といえば、イングランドのブッシュ・バロウ古墳から出た有名な菱形の金板、ストーンヘンジ圏の至宝と同じ供給源だという議論につながる。中部ドイツの丘に埋まっていた青銅の板が、アルプスの銅と、イギリス南西端のスズと金でできていた。紀元前一六〇〇年のヨーロッパは、我々が思うよりずっと繋がっていた。ちなみにこの円盤を作った人々は、考古学の分類ではウニェチツェ文化と呼ばれる集団に属すると考えられている。中欧に広がった、金属と階層社会をがっつり持った文化だ。
## 仮説その一。あの八十二度は、地平線の目盛りである
では、この円盤は何なのか。いちばん有名で、いちばん人を興奮させる説から行こう。左右の縁に貼られた二本の金の弧、あれが中心から見て張る角度は約八十二度である。そして北緯五十一度のミッテルベルクで、夏至の日の入りと冬至の日の入りの、地平線上の位置がなす角度もまた、約八十二度なのだ。
これは説明が必要だと思う。太陽が沈む方角は、一年を通じて一定ではない。夏至にいちばん北寄りに沈み、冬至にいちばん南寄りに沈み、その間を往復する。この振れ幅は緯度によって決まっていて、赤道に近いほど狭く、高緯度ほど広い。北緯五十一度のミッテルベルクではそれが八十二度になる。つまり弧の一本は「一年で太陽が沈む範囲の全部」を表す扇の骨であり、その端は夏至と冬至という、暦の折り返し点そのものになる。反対側の弧も同じで、こちらは日の出の範囲を示す。
この説の説得力を上げているのが、ミッテルベルクという場所の性質だ。丘の上には直径百六十メートルほどの環状の囲い、土塁と外側の溝が確認されていて、生活の痕跡がほとんどない。人が住んだ場所ではなく、儀礼や奉納のための場所だったと考えられている。そして丘からは、夏至の日没方向にちょうどブロッケン山が見える。ドイツ最高峰級の、魔女伝説で有名なあの山だ。地平線に山という目印があると、太陽の沈む位置を年ごとに正確に読み取れる。天然の観測装置である。おまけに二十五キロほど離れたところには、紀元前四九〇〇年ごろのゴセック環状遺構があって、その門の開口方向がなす角度が、円盤の弧の角度と対応するという指摘もある。太陽の観測という営みが、この地域で数千年にわたって受け継がれていた可能性が出てくる。
ただし忘れてはいけないのは、この弧が第二段階の後付けだということだ。最初のバージョンにはこの目盛りがなかった。誰かが途中で「これは測るための道具でもある」と気づいた、あるいはそう意味を追加した。しかも弧を貼るために星を犠牲にしている。神話の絵が実用の器具に化けた瞬間、という読み方もできる。
## 仮説その二。すばると三日月の位置で、閏月を入れる年を決めていた
もうひとつの大物が、太陰太陽暦の調整装置説だ。これはハラルト・メラーと天文学者ヴォルフハルト・シュロッサーらが押してきた読み方で、キモは月と星の配置にある。
月の満ち欠けで暦を作ると、一年は約三百五十四日になる。一方、太陽が同じ季節に戻ってくるまでは約三百六十五日。毎年十一日ずれる。放っておくと三年で一か月ぶんずれて、暦の上の春に雪が降る。農業をやる社会にとってこれは致命的だから、どこかで十三か月目、つまり閏月を突っ込んで帳尻を合わせる必要がある。問題は「どの年に入れるか」を、文字も数表もない社会でどう判断するかだ。
そこで空を見る。プレアデス星団は、春先の夕方の西空に沈んでいく時期がある。その頃、細い三日月がプレアデスの近くに来る年と、来ない年がある。円盤に描かれているのは、まさにプレアデスと三日月と丸い天体が特定の位置関係で並んだ図だ。この図と同じ光景が実際の空に出た年は、閏月を入れる年である――そういう判定表として使われたのではないか、というのがこの説。空にカードをかざして、絵が一致したら十三か月目を入れる。単純で、しかも文字がいらない。
この読み方を強力に後押しするのが、はるか後代のメソポタミアだ。紀元前七〇〇年ごろに成立した楔形文字の天文文書ムル・アピンには、まさに「プレアデスと月の位置関係で閏月を判断する」という趣旨のルールが書かれている。中東の書物に残された規則と同じ内容が、千年近く前の中部ドイツの青銅板に絵として存在する、という主張になるわけだ。当然「そんな知識が伝わるか」という反発が来るが、擁護側はバルト海の琥珀が紀元前一八〇〇年前後の西アジアの遺跡から出ている事実などを挙げて、長距離の交易網に情報が乗った可能性を指摘する。
さらに数字遊びめいた話もある。星が三十二個で、太陽と合わせて三十三。そして太陽暦の三十二年と太陰暦の三十三年は、日数にしてほぼ一致する。三百六十五かける三十二は一万一千六百八十、三百五十四かける三十三は一万一千六百八十二で、差はたった二日。ここまで来ると偶然かどうか判別できないし、擁護側でも慎重な人は乗らない。だが「あり得るかもしれない」と思わせる程度には気持ち悪い一致だ。
## 仮説その三。そもそも道具じゃない。あれは神話の絵だ
三つ目の立場は、上の二つに冷や水をかけるものだ。要するに、これは観測器具でも計算表でもなく、宗教的・神話的なイメージを描いた奉納品である、という読み方。
この立場の根拠はいくつかある。まず、実用の道具にしてはあまりに壊れやすく、あまりに装飾的だ。厚さ数ミリの青銅板に薄い金箔を貼っただけの物を、毎年野外で空にかざして使うだろうか。それから下の弧、あの「船」。青銅器時代のヨーロッパには、太陽を運ぶ船という図像が広く分布している。スカンディナヴィアの岩絵にも、デンマークの青銅器にも出てくる。太陽は昼のあいだ空を渡り、夜は船に乗って地下の海を戻ってくる。そういう神話だ。だとすればあの弧は角度でも暦でもなく、単に世界の仕組みを描いた絵ということになる。
さらに、天文学的な読み自体を疑う研究者もいる。エミリア・パーストルらは、円盤の星の配置が実際の夜空のどの領域にも対応しておらず、プレアデス以外は事実上ランダムに見えると指摘してきた。太陽の観測に使える実用的な装置だという証拠は見当たらない、というのが彼女の立場だ。星が七つのかたまりを作っているのは確かにプレアデスっぽいが、それ以外の二十五個が何の星なのかは、誰も説得力のある同定に成功していない。もし本当に星図なら、他の星ももう少し秩序立っていていいはずだ、と。
この三つ目の説は、実は一つ目・二つ目と完全に排他ではない。神話の絵として作られ、途中で観測の目盛りが足され、最後には掲げるための穴が開けられて祭具になった――四段階の改造を素直に読むなら、この円盤はそのすべてを兼ねていた可能性がある。意味は一つに決まらないまま、二百年ぶん積み重なったのだ。
## 二〇二〇年、「これは千年若い」と言い出した二人
さて、大炎上の話をしよう。二〇二〇年九月、ドイツの考古学誌に一本の論文が出た。書いたのはバイエルン州立先史コレクションのルパート・ゲプハルトと、フランクフルト大学のリューディガー・クラウゼ。二人とも中欧先史考古学の第一線にいる研究者で、素人でも陰謀論者でもない。主張はこうだ。ネブラの天文盤は青銅器時代のものではない。おそらく鉄器時代、紀元前八〇〇年から紀元前五〇年ごろの、ケルト系の文脈に属する遺物である。つまり千年ほど若い。
彼らの議論の柱は三本ある。第一に、出土状況が信用できない。掘った本人たちの供述は変転しており、そもそも犯罪者の証言だ。彼らが挙げた具体的な数字として、円盤は地表からわずか五センチほどの浅い位置で見つかったとされるが、その場所の青銅器時代の遺物は通常十五から二十センチの深さにあるという指摘がある。浅すぎる。第二に、円盤と、一緒に出たとされる剣や斧は、もともと同じ埋納ではなかったのではないか。付着していた土の分析にはばらつきがあり、別々の場所から来たものを後から一括りにされた疑いがある。掘った側が値段を吊り上げるために、本物の青銅器時代の品と一緒に「埋め直した」可能性まで彼らは示唆した。第三に、円盤そのものの図像や技法を型式論的に見ると、青銅器時代よりも鉄器時代の作風に近い。ゲプハルトは下の弧を船ではなく虹と読み、円盤全体を神話的・シャーマニズム的な表象と解釈する。そして、これまでの天文学的解釈は前提ごと成り立たなくなる、と書いた。
この論文が出た瞬間、話は学界の外に飛び出した。世界中のメディアが「人類最古の星図、実は千年若かった?」と打った。ザクセン=アンハルト州にとっては州の顔であり、観光資源であり、ユネスコ記憶遺産に登録された宝物である。それが偽物とまでは言われないにせよ「勘違いされた別物」だと言われたのだ。ゲプハルト自身が「これは非常に感情的な対象だ」と語ったのは、たぶん本音だったと思う。
## 反論側が並べた、地味だが効く証拠
反撃は速く、そして重かった。エルンスト・ペルニカとハラルト・メラーを筆頭に、地質学者、化学者、土壌学者、考古学者を含む大人数のチームが、同年から翌年にかけて反論を出した。オーストリア科学アカデミーの媒体などを通じて発表され、タイトルは直球で「なぜネブラの天文盤は前期青銅器時代のものなのか」。
内容は先に書いた法廷絡みの検証の総ざらいだ。盗掘の穴の断面。中から出た一九九〇年代以降のペットボトル。つるはしの刃の痕と、円盤の傷の向きの一致。穴の底の未撹乱層に残っていた銅と金の異常濃度。円盤と剣に付いた土の、九割以上のミッテルベルク一致率。剣の白樺樹皮の炭素年代。ここに冶金学が加わる。円盤も剣も斧も、含まれる銅は微量元素と同位体の組成が揃っていて、オーストリアのミッテルベルク鉱山という単一の供給源を指している。そしてその鉱山の操業は紀元前九世紀に終わっている。鉄器時代の始まりより一世紀早い。もし円盤が鉄器時代の産物なら、とっくに閉山している鉱山の銅で作られたことになる。
腐食の分析も効いた。円盤の片面に孔食と呼ばれる腐食が偏っていることから、地中で垂直に近い姿勢で長期間埋まっていたことが推定できる。傷の断面を見れば、古い傷と新しい傷は区別がつく。つるはしの当たった箇所は金属の生地が新鮮に露出していて、これは最近の損傷だ。土が剥がれた方向も、証言された打撃の方向と合う。
図像についても反論がある。下の弧を船と読むなら、船は青銅器時代ヨーロッパにおける定番のモチーフであり、鉄器時代の文脈ではむしろ知られていない、と。年代を下げると、かえって図像の説明がつかなくなるという指摘だ。
そして反論側はかなり容赦のない言い方もした。相手方は初期の、しかも一部は未公刊の資料を選択的に引用し、その後の膨大な研究成果を無視している。鉛同位体データにクラスター分析を不適切に適用している。公刊された図を断りなく改変している。さらに、ある図のデータ点の取り違えがあり、鋲のデータを、実際には一度も分析されていない鑿のものとして扱っていた。元のデータを出した研究者に確認もせずに、と。学術論文で書ける範囲としては、かなり強い言葉だ。裁判所の判断についても触れていて、掘った二人のうち一方の証言は法廷が長時間の吟味の末に信用できると認定しており、もう一方が後に出した本の記述は「創作」と評されたという事実が持ち出された。
## 尿と塩酸とバーナー。もうひとつの贋作説
二〇二〇年の論争は「年代が違う」という話だったが、それ以前には「そもそも現代の贋作だ」という直球の主張もあった。二〇〇五年、レーゲンスブルク大学のペーター・シャウアーが、円盤の緑青は人工的に作れる、尿と塩酸とバーナーがあれば数か月であの色が出せる、と主張した。当時はまだ分析が出そろっていなかったこともあり、この説はそれなりに報じられた。
ただ、この主張には決定的な弱点があった。シャウアーは実物を見ていない。一方で、実物を手に取り、断面を切り、電子顕微鏡と分光分析にかけた研究者は十数人いる。腐食層は表面に塗られたものではなく、金属の内部構造に沿って何層にもわたって進行していて、結晶の育ち方が短期間の化学処理では説明できない。金の象嵌の縁の腐食の入り方も、後付けでは再現できない。同じ頃、ブリストル大学の先史学者リチャード・ハリスンのように、最初は「冗談だと思った、たぶん偽物だ」と考えていた研究者が、分析結果を見て考えを変えた例もある。この贋作説は、いまでは学術的にはほぼ生き残っていない。
とはいえ、贋作説が一度出たこと自体には意味がある。この円盤が「出土状況を持たない遺物」であるという致命的な弱さを、みんなに突きつけたからだ。正規の発掘で出ていれば、こんな議論は一度も起きなかった。つるはし一本で失われた情報の代償を、二十年以上かけて科学が補填し続けている、というのが実際のところなのだ。
## 世界記憶遺産、そして宇宙へ行った円盤
回収後の円盤の「その後の人生」も、なかなか派手だ。二〇〇七年、ミッテルベルクの近くに「アルヒェ・ネブラ」というビジターセンターが開き、丘には巨大な日時計めいたモニュメントが立った。二〇〇八年五月から、実物はハレの州立先史博物館に常設展示されている。二〇一三年六月、ユネスコの世界の記憶に登録された。登録理由の文言がなかなか強くて、二十世紀で最も重要な考古学的発見のひとつであり、世界のどこからも知られていない中で最古の、具体的な天文現象の描写である、というものだ。
二〇二二年には大英博物館の「ストーンヘンジの世界」展に貸し出され、イギリス南西部の金とスズで作られた円盤が、二千数百キロを旅して、同じ金で作られたブッシュ・バロウの金板と同じ部屋に並んだ。これはちょっと出来すぎた再会だと思う。さらに二〇二一年には、レプリカが国際宇宙ステーションに運ばれた。ドイツ人宇宙飛行士マティアス・マウラーが持ち込んだもので、三千六百年前に地上から空を見上げて作られた板が、今度は空の側から地球を見下ろした。円盤の資産価値は一千万ドル超と見積もられたこともある。値段が付くようなものではないが、最初に三万マルクで売られた事実と並べると味わい深い。
## 掲示板とSNSは、この円盤をどう遊んだか
ここからは受容の話だ。ネブラの天文盤がネットで語られるとき、話題はだいたい三つの型に分かれる。
第一の型は「オーパーツ」枠での消費だ。日本語圏のオカルト系サイトや掲示板では、水晶髑髏やアンティキティラ島の機械と並べて紹介されることが多い。ただし面白いのは、この円盤がオーパーツとしては極めて出来が悪いことだ。というのも、青銅器時代の人が青銅と金を使って作った、青銅器時代らしい技術水準の品であり、時代に合わない要素が何ひとつない。オーパーツの定義からすればむしろ模範的に「時代通り」なのである。だから宇宙人由来説や超古代文明説は、この円盤に関してはあまり伸びない。伸びるのは「紀元前一六〇〇年の人が天文学をやっていた」という、地に足のついた驚きのほうだ。この点でギョベクリ・テペや三星堆のように「常識をひっくり返した」と煽られる遺跡とは、ネットでの扱われ方がだいぶ違う。
第二の型は、犯罪ドキュメンタリー枠。腹にタオルで巻いた円盤、煙の出るインチキ薬品、ホテルでの現行犯。この一連の絵面が強すぎるので、考古学の話に興味がない層にもよく刺さる。英語圏の掲示板だと「学芸員がスパイ映画をやった話」としてスレが立ち、日本語圏のまとめでも「囮捜査で回収された人類最古の星図」という見出しがつく。実際、ドイツではこの事件を題材にしたテレビドラマや、メラー自身による一般向けの著作も出ていて、円盤の知名度の半分くらいは、この犯罪譚が稼いだと言っていい。
第三の型が、二〇二〇年以降の論争ウォッチだ。ゲプハルト&クラウゼ論文が出たとき、ネットの反応は面白いくらい割れた。一方には「権威が守りたいだけだろう」「州の観光資源だから絶対に手放さない」といった、いかにも掲示板的な陰謀めいた読み。もう一方には「盗掘品の年代なんて最初から確定できるわけがない、両論併記が正しい」という慎重派。そしてもう一方には「反論の中身を読めば冶金と土壌で完全に決着している、いつまで引っ張るのか」という決着派。歴史クラスタや考古クラスタの中には、この論争を「型式論と自然科学分析のどちらを上位に置くかという方法論の争い」として整理する人もいて、これはかなり本質を突いていると思う。ゲプハルトとクラウゼは物の形と文脈から読み、ペルニカ側は同位体と土から読む。同じ物を見て違う言語で喋っているのだ。
もうひとつ、日本語圏ならではの反応として、プレアデス=すばるという名前の親しみやすさがある。清少納言が「星はすばる」と書いた、あの星団と同じものが、三千六百年前の中部ドイツで金の点として貼られている。この距離感の縮まり方に反応する人はかなり多い。遠い異国の遺物の話が、急に日本の古典と地続きになる瞬間だ。
## まだ埋まっていない穴。反証と未確認点
正直に、わかっていないことを並べておく。
出土状況は永久に完全復元できない。これがすべての根っこだ。土の化学分析でミッテルベルク由来だとほぼ確定できても、円盤が穴の中でどの向きで、他の品とどう並び、どんな順番で置かれたかは失われた。埋納の作法は、意味を読むうえで巨大な情報なのに、そこがまるごと欠けている。だから二〇二〇年の批判は、方法論としては筋が通っていた。証拠の質が低い、という指摘自体は正しい。反論側が勝ったのは「それでも独立した複数の証拠が同じ方向を指す」からであって、「出土記録がある」からではない。
星の同定も未解決だ。七つのプレアデスは説得力があるが、残り二十五個が何なのか、誰も決められていない。オリオンだ、カシオペアだ、いや単に「たくさんの星」という記号だ、と提案は山ほどあるが、決め手がない。もし本気の星図なら、この曖昧さは奇妙だ。
弧の角度も、実は完全な決着ではない。八十二度という数字は魅力的だが、円盤の弧の端をどこと見なすかで測定値は数度動く。しかも片方の弧は現存していない。第二段階で貼られた二本のうち一本は、埋められる前か後かに剥がされていて、残っているのは貼り跡だけなのだ。角度の議論は、失われた一本を復元した上での話になる。ここを厳しく見る研究者はいる。
閏月ルール説も、状況証拠の積み重ねであって直接の証拠はない。ムル・アピンとの一致は印象的だが、千年の時間差と数千キロの距離差をどう埋めるかは仮説の域を出ない。青銅器時代のヨーロッパに、そのレベルの体系的な天文知識があったと示す他の遺物が、いまのところ乏しいのも事実だ。この円盤だけが飛び抜けている。飛び抜けている物というのは、たいてい解釈が難しい。
そして「誰が作ったか」がわからない。ウニェチツェ文化の工人だろうと言われるが、名前も、工房も、同種の別の円盤も見つかっていない。世界に一枚しかない。比較対象がゼロの遺物を型式論で年代づけるのは、そもそも無理筋だという指摘は、実は両陣営に等しく刺さっている。
## なぜ、この一枚の板がこんなに人を掴むのか
理由をいくつか挙げてみる。
まず単純に、絵として強い。深い紫紺の地に金の点。太陽と月と星。これ以上ないくらいわかりやすく、それでいて説明を必要としない。文字も言語もいらない。三千六百年の時間を挟んでも、見た瞬間に「ああ、空だ」とわかる。人類が作った図像で、ここまで即座に通じるものはそう多くない。
次に、時代設定がちょうどいい。ピラミッドほど遠くなく、しかし文字記録が届かない場所にある。ヨーロッパの青銅器時代は、日本で言えば縄文の終わりから弥生の入り口くらい。歴史の授業でほとんど習わない空白地帯だ。その空白から、天文学の証拠らしきものがぬっと出てきた。空白に何かが出てくると、人は勝手に物語を埋めたくなる。
三つ目に、物語の構造が完璧すぎる。犯罪者が偶然掘り出し、価値をわからずゴミ同然の値で売り、闇市場を転々とし、学者がスパイまがいの芝居を打って取り返す。取り返した学者は「ツタンカーメン級だ」と言い、世界が沸き、そして二十年後に別の学者が「あれは千年若い」と言って全部ひっくり返しにかかる。フィクションでこの筋を書いたら、盛りすぎだと言われるだろう。
四つ目、これがいちばん大きいと思うのだが、この円盤は「見上げていた」という事実そのものの証拠だからだ。三千六百年前、ミッテルベルクの丘に立った誰かが、夏至の日没がブロッケン山の上にかかるのを何年も数え、すばるが沈む時期を覚え、月の細さを見て、それを金で板に留めた。何のためかは正確にはわからない。暦かもしれないし、祈りかもしれないし、権力の道具かもしれない。だがその人が空を見上げて、そこに規則を見出そうとしたことだけは、疑いようがない。我々がいまスマホの天気アプリで日の入り時刻を見るのと、根っこは同じ行為だ。三千六百年前の誰かの首の角度が、この板には残っている。それが人を掴むのだと思う。
## 「証拠の質が低い遺物」をどう扱うか、という現代的な問題
改めて全体を眺めると、ネブラの天文盤をめぐる二十数年は、ひとつの遺物の話であると同時に、考古学という学問が「汚れた証拠」とどう向き合うかという方法論の実験場だった。
正規の発掘であれば、遺物は文脈とセットで手に入る。地層、共伴品、配置、周辺の遺構。文脈があるから年代が決まり、意味が推定できる。ところがこの円盤には文脈がない。盗掘者のつるはしが破壊し、業者のスチールたわしが削り、二年間の闇取引が記録を消した。手元にあるのは物体だけ。この状態から、どこまで復元できるのか。
ペルニカらのやり方は、失われた文脈を自然科学で作り直すというものだった。土の元素組成でミッテルベルク由来を九割以上の確度で言う。銅の微量元素と同位体で鉱山を特定する。金の組成で産地を絞る。有機物の炭素年代で絶対年代を出す。腐食層の断面で埋没姿勢と埋没期間を推定する。掘った穴に残されたペットボトルの製造年代で、盗掘の年代を確認する。ひとつひとつは間接証拠にすぎないが、独立した測定が全部同じ方向を指すなら、束としては相当強い。彼らが繰り返し使った論法は「これらが偶然一致する確率を考えてほしい」というものだった。
ゲプハルトとクラウゼの立場は逆で、間接証拠をいくら束ねても、犯罪者の証言に依存した出土地の前提が崩れたら全部崩れる、というものだった。基礎が砂なら上物がどれだけ精密でも意味がない。だから彼らは前提そのものを攻めた。深さが浅すぎる、土の分析にばらつきがある、掘り手の話は変わっている、そもそも一括りの埋納だと誰が確認したのか。そして前提を外したうえで、物体単独から型式論で年代を推定した結果が鉄器時代だった。
この対立は、決着したかどうかで言えば、学界の大勢としては決着している。円盤は前期青銅器時代の産物であり、ミッテルベルクの埋納の一部だという見方が主流に戻った。だが方法論の問いは残った。もし冶金分析がなかったら、あるいはペットボトル一本が穴に落ちていなかったら、この論争はまったく違う様相になっていた。証拠のありなしが、これほど紙一重だったという事実は、けっこう怖い。
個人的にいちばん引っかかり続けているのが、第二段階の改造だ。最初のバージョンには、太陽と月と星しかなかった。夜空そのものの絵だ。ところが後の世代の誰かが、左右に長い弧を貼った。しかもそのために既存の星を潰し、一つを別の場所に移した。
これはデザインの上書きというより、思想の上書きに見える。星の配置は、その時点で「動かしてはいけない神聖な図」ではなかったということになるからだ。動かしていい。潰していい。むしろ、新しく足す弧のほうが優先度が高い。何を足したのかと言えば、地平線という枠と、太陽が動く範囲という測定的な概念だ。
つまり、この円盤の歴史のどこかに「空を眺めるもの」から「空を測るもの」への転換点がある。誰かが、あるいはどこかの世代が、空に規則性を見出し、それを数量として板に刻む価値があると判断した。そのために先祖の作った図を犠牲にした。宗教的な図像を、実用の目盛りに書き換えた。この改変の思い切りの良さは、正直ちょっと戦慄する。
そして第三段階の船。測定装置に、また神話が戻ってきた。太陽を運ぶ舟という、数量とは無縁のイメージが下端に足される。神話から測定へ、また測定から神話へ。行ったり来たりしている。最後の第四段階では縁に穴が開けられ、この板は掲げられる祭具になり、そして地面に埋められた。
一枚の物体の上で、二百年ぶんの世界観の変遷が層になっている。こんな遺物、他にほとんどない。エジプトの壁画は完成したときの世界観しか語らないし、粘土板は書かれた瞬間で止まる。ネブラの円盤は、使われながら書き換えられ続けた。だから読みにくいし、だから面白い。年代論争が起きたのも、突き詰めれば「この物体はいつの物か」という問いが、そもそも成立しにくい構造をしているせいだ。四段階のうち、どの段階を指して「いつの物」と言うのか。
ほとんどの解説が扱わない論点もある。なぜ埋めたのか、だ。
紀元前一六〇〇年前後、ミッテルベルクの丘の上で、この円盤は剣二本、斧二丁、鑿一本、螺旋の腕輪と一緒に地中に置かれた。丘には環状の囲いがあり、人は住んでいない。ここは日常の場所ではない。埋納、つまり意図的な奉納だったと考えるのが自然だ。
だが奉納だとして、何のために。青銅器時代ヨーロッパの埋納には、いくつかの型がある。神への捧げ物。危機に際しての隠匿。権力の交代に伴う「前の時代の道具」の処分。役目を終えた祭具の葬送。どれもあり得る。円盤の縁の穴が埋納の直前に開けられたらしいことを重く見れば、最後にもう一度どこかに固定して掲げ、儀式を行ってから埋めた、という筋書きが描ける。使い納めの儀式だ。
もうひとつ想像を刺激するのが、この時期の中欧の情勢だ。ウニェチツェ文化は紀元前一六〇〇年前後に大きく変質する。豪華な首長墓を作る社会が終わり、別の様式に置き換わっていく。円盤の埋納は、その転換のタイミングとおおよそ重なる。つまりこれは、ひとつの体制が終わるときに、その体制の象徴が地面に納められた痕跡かもしれない。空を測り、暦を管理し、農耕の時期を決める権限を握っていた誰かの、権威の道具。それが不要になったか、あるいは奪われたか、あるいは次の世代が触れてはいけないものとして封じたか。
この読み方が正しいと証明する手立ては、いまのところない。だが、丘の上の囲いの中に、金の空が武器と一緒に埋められたという事実の絵面は、どう考えても普通ではない。空を武器と並べて葬る。三千六百年前の誰かにとって、この二つは同じカテゴリの物だった可能性がある。
最後に、この話の入口に戻る。すべては一九九九年七月の、違法な金属探知の一日から始まった。
繰り返すが、これは犯罪だ。ドイツの多くの州では地中の重要文化財は州の所有であり、保護地区での無許可探索は処罰される。日本でも同じで、埋蔵文化財包蔵地を無断で掘れば文化財保護法に触れる。趣味の金属探知そのものが悪だとは言わないが、遺跡でそれをやるのは、他人の日記を破りながら読むようなものだ。読めた部分は手に入るが、破った部分は永久に戻らない。
ネブラの件で失われたのは、円盤の値段ではない。円盤がどう埋まっていたかという情報だ。もし正規に発掘されていれば、埋納坑の形、円盤の向き、剣の並び、土層の順序、周囲の柱穴や炭化物の分布まで記録され、それだけで解釈は何段階も深まったはずだ。閏月説も、船の意味も、埋めた理由も、いまよりずっと確度の高い議論になっていた。二〇二〇年の論争は、そもそも起こる余地がなかっただろう。
皮肉なのは、この破壊があったからこそ、この円盤がここまで有名になったという点だ。スパイ映画みたいな回収劇も、二十年越しの年代論争も、盗掘がなければ存在しない。文脈を失った遺物だからこそ、世界中の研究者が総がかりで科学分析を投入し、結果として一枚の青銅板に対して、正規発掘品では考えられないほどの検証が積み上がった。土壌学から同位体地球化学から腐食工学まで、動員された分野の幅は異常だ。破壊が注目を生み、注目が検証を生み、検証が価値を確定させた。
それでも、割に合っていないと思う。我々はいま、あの丘の上で何が行われていたかを、永遠に半分しか知ることができない。金の点は残り、その周りの土は失われた。三千六百年もったものが、二十世紀の二日間で決定的に欠けたのだ。ハレの博物館のガラスケースの中で、深い紫紺だったはずの緑色の板が、いまも三十二個の金の点を見せている。あの点は、誰かが空を見上げた記録であると同時に、我々が同じ空の記録をどれだけ雑に扱ったかの記録でもある。見に行く機会があるなら、金の点と一緒に、縁に走るつるはしの傷も探してみてほしい。あそこに二つの時代が同時に写っている。
