羅生門は実在したのか――『今昔物語集』の鬼が棲む門の正体
芥川龍之介の小説で知られる羅生門には、ちゃんと実在した門の記憶がある。ただし、歴史上の門と、老婆が死体の髪を抜く話、渡辺綱が鬼の腕を斬る話は、もともと一つの出来事ではない。長いあいだに別々の物語が重なり、「鬼が出る都の門」というイメージができあがった。
平安京の正門だった羅城門
門の本来の名は「羅城門」。平安京を南北に通る朱雀大路の南端に置かれた正門で、現在の京都市南区唐橋羅城門町、東寺の西側あたりにあったとされる。都へ入る人を迎える、いわば平安京の表玄関だった。
ところが、門は長く残らなかった。平安京の西側はしだいに衰え、羅城門も十分に維持されなくなったらしい。歴史書『扶桑略記』には、天元3年(980年)の暴風雨で倒壊したとある。その後に再建された記録はなく、現在は「羅城門遺址」と刻まれた石碑が位置を伝えている。現地に当時の門や上層部が残っているわけではない。
「羅生門」という表記は芥川が初めて作ったものではなく、室町時代の能にも見える。ただ、近代以降にこの名を広く印象づけたのが、1915年に発表された芥川の短編だったことは間違いない。
『今昔物語集』の老婆は鬼ではない
羅城門を舞台にした有名な話は、平安時代末期ごろに成立した『今昔物語集』に収められている。人目を避けて門に潜んだ盗人が上層の明かりに気づき、様子を見に行くと、老婆が若い女の死体から髪を抜いていた。老婆は、かつらにして売り、生きる足しにするつもりだと弁明する。すると盗人は老婆の衣服などを奪い、そのまま逃げてしまう。
ここで大事なのは、老婆が本物の鬼として描かれているわけではないことだ。暗い門の上で死体にまたがる姿を、盗人が恐れたのである。話の末尾には、引き取り手のない死者が門の上に置かれていたという趣旨の説明もある。ただし、これはあくまで説話集に記された語りで、個々の出来事を確認できる同時代の事件記録とは性格が違う。
芥川の『羅生門』は、この話をそのまま写した作品でもない。主人公を解雇された下人に変え、飢え死にするか盗人になるか迷う人物として描いた。老婆の「生きるため」という理屈を聞いた下人が、それを自分の略奪にも当てはめる。古い怪談を、人が追い詰められたときに善悪をどう扱うのかという物語へ組み替えたわけだ。
渡辺綱の鬼退治は別の伝承
羅生門にはもう一つ、渡辺綱が鬼と戦う話が結びついている。源頼光の家臣として知られる綱が鬼の腕を斬り落とす伝承は、よく知られた形では一条戻橋が舞台だ。ところが、室町時代の能『羅生門』では、鬼が現れる場所が羅城門に移されている。
能では、羅生門に鬼が出るという噂を確かめに向かった綱が襲われ、刀で鬼の腕を斬る。斬られた腕を鬼が取り返しに来る後日談は、のちに歌舞伎などでも親しまれた。この鬼退治と、『今昔物語集』の老婆の話は別系統である。舞台が同じ門になったため、後世の受け手にとっては一続きの怪異のように見えるようになった。
廃墟の門が怪異の舞台になった理由
では、なぜこの門ばかりが怪異の舞台に選ばれたのか。羅城門は、整えられた都の内側と、その外側を分ける場所だった。しかも倒壊する前から荒廃が進み、人通りの少ない門として想像された。境界に立つ大きな廃墟は、盗人、身寄りのない死者、鬼といった、都の秩序から外れた存在を語る舞台にしやすかったのだろう。
だからといって、門に鬼が実在した証拠があるわけではない。「門の上に死者がいた」という話も、『今昔物語集』が伝える説話の範囲を越えて断定はできない。史実として確かめられるのは、平安京の正門がこの地にあり、10世紀末に倒壊して再建されなかったこと。そこへ説話、能、歌舞伎、近代文学が順番に物語を足していった。
今の羅城門跡は、小さな石碑が立つ静かな場所だ。建物は消えても、「都の入口が荒れ果てたら何が起きるのか」という不安は物語の中に残った。羅生門の怪異は、一夜の心霊事件というより、実在した門の廃墟を何百年もかけて読み替えてきた、その積み重ねとして見るほうが面白い。
