- 公家が帰った夜、1万3000の兵が寺を囲んだ
- 5月17日から6月2日まで、日付だけを並べる
- 本能寺を襲ったのは3000か、1万3000か
- 名前だけの史料で組まれた黒幕劇
- 挙がった史料名を一つずつ潰す
- 南蛮寺を建て直させたのは信長だ
- 肴が腐っていた、という話
- 愛宕山の百韻に混じった一字の違い
- 光秀が細川父子に書いた、50日と100日の約束
- 三職推任と、尾張の暦
- 朝廷が命じた、と言うのなら
- 光秀から銀50枚を受け取った男
- 近衛前久は浜松へ逃げた
- 鞆の浦に置かれた小さな幕府
- 動かなかった毛利と、15年ぶりの京
- 上様も殿様もご無事だ、という嘘
- 230キロを走った秀吉の陣
- 堺の家康は知恩院で腹を切るつもりだった
- 渡海は6月2日の予定だった
- 軍記物から講談へ、匿名掲示板へ
- 具足の音と馬のいななき
- この話に貼る札
- 本能寺跡から天王山まで
- 小栗栖の藪と六条河原
公家が帰った夜、1万3000の兵が寺を囲んだ
天正10年6月1日の夜、本能寺には公家たちが顔をそろえていた。勧修寺晴豊と甘露寺経元は祝賀の勅使として足を運び、近衛前久もほかの公家と連れ立って寺を訪れている。信長が毛利攻めに向かう途中で京に入ってから、まだ3日。その夜が、信長の最後の夜になる。
夜が明ける前、その寺を1万3000の兵が取り囲んだ。亀山城を出た明智光秀の軍勢だ。老ノ坂を越え、桔梗の旗指物を掲げて京へ向かったという。午前4時ごろには包囲が整い、8時前には寺での戦いが終わっている。
昼ごろになると、明智勢は嫡男の信忠が入っていた二条御新造にも攻めかかり、戦いは2つの場所に広がった。二条御新造は、もともと誠仁親王の御所にあたる。親王は戦いが始まる前に御所を出て内裏へ移ったと伝わり、朝廷の人々にとっても、変は目の前で起きた出来事だった。信忠もここで最期を迎え、織田家は当主と後継ぎを同じ日に失った。
信長の最期は、史料で食い違う。『信長公記』では、信長は初め弓で戦った。弦が切れると槍に持ち替えたが、右の肘に槍傷を受けて奥へ退き、内側から納戸を閉めて腹を切った。
宣教師フロイスの『日本史』は少し違う。信長は矢を受けたあと、薙刀という鎌のような武器を振り回し、腕に銃弾が当たるまで戦った。奥の部屋に入って戸を閉じたあとは、割腹して死んだと言う者もいれば、御殿に放火して焼け死んだと言う者もいる。
遺体は、見つからなかった。戦いのあと、明智勢はしばらく探したが、行方は分からずじまいだった。
その空白は、後世のあらゆる陰謀論を呼び込む余白になる。救出されたのではないか。影武者だったのではないか。黒幕が周到に仕組んだのではないか。
『信長公記』には、信長が「これは謀反か、いかなる者の企てぞ」と問う場面がある。森蘭丸が「明智が者と見え申し候」と答えると、信長は「是非に及ばず」と言ったという。信長自身が発したこの問いに、いまも答えは出ていない。
光秀が主君を討った。ここまでは動かせない。動かせないからこそ、背後に誰かいたのではないかという話が、何百年たっても消えずにいる。朝廷、足利義昭、羽柴秀吉、徳川家康。名前の挙がった顔ぶれは、どれも当時の天下に関わる大物ばかりだ。
「敵は本能寺にあり」という光秀の台詞は、同時代の史料に一言も残っていない。元になったのは、元禄のころに成立した『明智軍記』の「敵は四条本能寺・二条城にあり」と、寛永18年(1641年)成立とされる林羅山の『織田信長譜』だ。
5月17日から6月2日まで、日付だけを並べる
5月17日、備中の秀吉から、毛利輝元がまもなく出陣するという知らせと、信長に出馬を求める要請が届く。5月28日、愛宕山の連歌の会。5月29日、要請に応じた信長の上洛。同じ日、四国方面軍が摂津と和泉に集まる。
6月1日の夜、公家たちが本能寺を訪れた。6月2日は、四国へ渡る予定の日でもある。その朝、光秀の兵が本能寺を囲んだ。動機を探る人たちは、この2週間足らずのどこかに引き金を探してきた。
本能寺を襲ったのは3000か、1万3000か
同じ出来事でも、書物ごとに数字が揺れる。『祖父物語』は本能寺に向かった寄手を3000余騎と書いており、亀山城を出たときの1万3000人とは桁がひとつ違う。どちらが実数に近いのかは、いまの史料だけでは決め切れない。
信忠の手勢も、記録によって数が違う。500人余と書くものがあれば、1000から1500に膨らませて書くものもある。信忠は昼ごろに始まった攻撃を、この限られた人数で受けた。
山崎の戦いでは、秀吉を主役に据えた『太閤記』が光秀の軍勢を約1万6000と書き、羽柴軍はその2倍から3倍に及んだと伝わる。人の腹の中の話となれば材料はさらに乏しく、黒幕説が次々に生まれる余地もそこにある。
史料の成り立ちも、読む前に押さえておきたい。もっとも基本になる『信長公記』は、信長の家臣だった太田牛一の著で、自筆本の池田本には、慶長15年(1610年)の奥書がある。変から28年後の日付だ。ここには光秀の謀反の経過が淡々と記されるだけで、黒幕を示唆する記述はない。
勧修寺晴豊の日記は、『晴豊公記』や『日々記』の名で伝わり、信長や変についての記述が多く、史料としての価値が高い。晴豊は変の直後に二条新御所の様子を書き留め、6月13日には光秀の娘のひとりを保護した。一方、秀吉に近い人物が書いた『惟任退治記』は、光秀を倒した側の記録だ。徳川実紀のように江戸の世に編まれた書物と同じ棚に並べるには、出どころがばらばらすぎる。
名前だけの史料で組まれた黒幕劇
本能寺の変には黒幕がいた。そう言い切る筋書きが、いくつも並んで流れている。ここで見るのは物語の出来ではなく、根拠として置かれた史料のほうだ。名前しか出てこない引用が、どれだけ混ざっているか。
この話が描く陰謀劇で、あの夜の光秀は単なる実行者に過ぎない。朝廷は信長の急速な権力集中に恐怖し、密使を放って光秀の背を押した。宣教師たちは南蛮寺を守るために暗躍した。毛利にいたっては、1年以上前から光秀と文を交わしていたという。
秀吉は光秀の不満を知りながら泳がせ、事が起きた瞬間に中国大返しを敢行した。まるで用意されていたかのようだ。まあ、物語としてはよくできている。
ところが、その筋書きを支えるはずの史料はどうか。命令書も資金記録も出てこない。連絡文も、同時代証言の鎖も示されていない。
そのくせ史料の名前だけは立派に並ぶ。『多聞院日記』『フロイス日本史』『毛利家文書』『京都町衆日記』、それに英語の題で引かれる宣教師書簡集。どれも巻や日付や原文、翻刻頁、所蔵先を示さないまま、確認できない文言を引用風に配置している。
とくに苦しいのが宣教師の筋だ。信長の仏教弾圧を止めるために光秀を動かし、信長の死後に利益を得た、という組み立てになっている。ところが信長は、京都の南蛮寺建立と布教を保護した側だ。公的な記録や教会史資料と、まるで逆行する。
挙がった史料名を一つずつ潰す
ここからが本題だ。『多聞院日記』から見ていく。「信長、公家を軽視」という一節が引かれるが、巻も日付も原文もない。完全一致する条文は特定できない。
同日記からは、村人が光秀軍を「幽霊の軍勢」と恐れたという話も出てくる。こちらも出典箇所がない。そもそもこれは奈良興福寺僧の日記だ。そこへ京都近郊の匿名村人談を付した形になっていて、疑義が大きい。
『フロイス日本史』は、宣教師が信長に不満を持ち光秀に接触したと記す、とされる。だが該当箇所は出てこない。一般に確認できる布教史とは逆向きだ。『毛利家文書』のほうは、1581年の光秀・毛利秘密連絡が売りになる。文書番号も差出人も宛先も日付もなく、特定不能だ。
『京都町衆日記』には軍勢と信長の叫びがある、という。ところが書名が曖昧で、引用箇所も所蔵先も示されない。英語題の宣教師書簡集では、光秀が何か呟き坂本から京都へ急いだ、と書簡が語ることになっている。書簡の日付も執筆者も原文もない。伝聞の形そのものが不自然だ。
残る二つも似たようなものだ。『信長公記』に、信長が光秀を公然と侮辱した記述がある、とされる。しかし俗説の基礎には後世の軍記が混在しており、どの条文か特定が必要になる。『太閤記』の素早い行動が秀吉の事前察知を示す、という主張も同じだ。後世の叙述と結果からの推測であって、事前共謀の直接証拠ではない。
史料名を挙げるだけでは、引用にならない。成立年代、該当日、底本、原文、現代語訳、前後文脈。最低でもここまで揃って、はじめて引用と呼べる。
南蛮寺を建て直させたのは信長だ
京都の南蛮寺は、織田信長の保護と所司代・村井貞勝の援助のもとで、1576年に建て直されたと紹介される。カトリック教会史も、信長が宣教へ好意を示したと記す。謁見と保護によって布教が伸びた、という整理だ。
信長が仏教勢力と戦ったのは事実だ。だからといって、宣教師が信長暗殺を望んだことには直ちにならない。むしろ信長の死後、最終的に全国政権を確立した秀吉は、1587年に伴天連追放令を出した。
結果だけ見ても、信長の死が宣教師の布教障害を除いた、という単線的説明は成立しにくい。宣教師関与を主張するなら、要るものは決まっている。光秀との面会、依頼、資金、密使、事件前の予告、事件後の内部報告。この話は、そのどれも示していない。
イエズス会黒幕説の根拠は、だいたい三つだ。鉄甲船に代表される信長の軍事的先進性への警戒、大村純忠による長崎のイエズス会への寄進、黒人従者・弥助の存在。ただし専門サイトの側でも「学術的根拠に乏しく、本能寺の変の諸説の中でも特に荒唐無稽と評される」と指摘されている。
それでもなお、千利休をイエズス会の手先やドルイド教徒とみなす過激な陰謀論ブログも存在する。千利休が信長を本能寺へ誘導した、という筋だ。黒を好む茶の湯の美意識までもが「証拠」として動員される。正直、ここまで来ると付き合いきれない。
肴が腐っていた、という話
光秀が信長を恨んでいた。昔から語られる筋だ。5月、家康の饗応役を務めた光秀は、出した肴が傷んでいたために役を解かれたという。面目を潰された、というわけだ。
怨恨説は、この解任を、光秀が追い詰められた場面として使う。信長が光秀の功績を認めなかったという話も、材料になる。恨みだけで1万を超える兵を動かすには足りないと考える論者もいて、そうした人たちが、光秀の外に原因を探し始めた。黒幕説の入口は、おおむねここにある。動機は、1つに絞れない。
誰かが光秀の背中を押した。押したのは誰か。名前を挙げる説は、それぞれ別の史料を握っているが、その数と質は、説ごとにまるで違う。先に断っておく。これから並べる説のうち、確かな証拠で決着がついたものはなく、定説がないまま、材料だけが積み上がってきた。
愛宕山の百韻に混じった一字の違い
変の少し前、光秀は愛宕山の威徳院で連歌の会を開いた。日付は編纂された書物がそろって5月28日とするが、写本には24日や27日と書くものもある。同席したのは息子の光慶、当代一の連歌師と呼ばれた里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如らだ。
発句は「ときは今あめが下しる五月かな」と読まれ、伝本によっては「天下しる」「あめが下知る」とも書かれる。「とき」に土岐氏の名を掛け、天下を治める決意を詠んだと読む人は昔から多く、この句は謀反の予告として語られてきた。
異論も根強い。勢田勝郭は、「天が下なる」でなければならないと主張した。「しる」だと、天下を取る意思が連歌の座にいた全員に共有されてしまうが、「なる」なら、降り続く五月雨をそのまま詠んだだけの句になるからだ。
正直、どちらにも読める句だ。一字の違いで、決意の証拠にも、ただの雨の句にもなる。黒幕を探す前の段階で、光秀本人の動機ですらこれだけ揺れる。
光秀が細川父子に書いた、50日と100日の約束
変のあと、光秀は味方を集めようとした。頼みの綱は細川藤孝と忠興の父子だ。忠興は天正6年に、信長の薦めで光秀の娘の玉を妻に迎えており、光秀とは親戚の間柄だった。
6月9日付の手紙には、50日か100日のうちに近国を固め、そのあとは息子の十五郎と忠興に政権を渡すという言葉がある。自分は何も望まない。そう書いて、細川父子を誘った。
藤孝の返事は、剃髪だった。雅号を幽斎玄旨と改め、田辺城に隠居して家督を忠興に譲り、光秀の再三の要請を断って、喪に服すという形で中立を貫く。
近くの一色氏が光秀方についたため、南丹後の細川氏は軍勢を動かせない立場に置かれた。光秀は、周りからの助けをほとんど得られないまま、山崎へ向かう。
この手紙を、念入りな計画の文面とは読みにくい。光秀が自分の考えで動いた証拠と見る論者もいて、重臣の斎藤利三は、無謀だと反対したと伝わる。黒幕がいたなら味方の手当てがもっと厚かったはずだと、単独犯行説は突く。
三職推任と、尾張の暦
朝廷説は、変の5週間ほど前の動きから始まる。4月25日、晴豊が京都所司代の村井貞勝の屋敷を訪ね、信長を征夷大将軍、太政大臣、関白のどれかに任官させる話を詰めた。5月4日には、2度目の勅使が信長のもとを訪ねている。この経緯は、晴豊自身の日記に書き残された。
征夷大将軍は武家の頭領で、太政大臣と関白は朝廷の最高位だ。信長は、そのどれを取るかという返答を避けた。5月17日に秀吉から出馬要請が届き、中国への出陣が動くと、この件はうやむやになる。朝廷が信長に官を贈ろうとしたのか、信長が官を欲しがったのか。ここは研究者の見方が分かれる。
もうひとつの材料が暦だ。暦をつくる権限は、古くから朝廷が握ってきた。尾張暦を採るかどうかという問題は、変の要因を論じる中で語られ、作暦大権と呼ばれる争いの1つに数えられる。
官位と暦。この2つが、朝廷は信長を邪魔に思ったという説の土台になる。信長が朝廷の上に立とうとしたと読み、追い詰められた朝廷が光秀を動かしたと組み立てる。この筋で、光秀は朝廷の意を受けた実行役だ。
朝廷が命じた、と言うのなら
信長と朝廷の関係には、研究上の論点が実在する。暦問題、官職推任、三職推任。どれも作り話ではない。ただし「緊張があり得た」ことと「朝廷が暗殺命令を出した」ことは、まるで別だ。
密勅も、伝奏も、使者も、光秀側の受領記録も、直接証拠は確認されておらず、信長の死後に公家の権威が回復したから黒幕だ、という推論も雑すぎる。短期と長期の政治結果を単純化しているだけだ。事件後に主導権を握ったのは、光秀ではなく秀吉だ。朝廷が独立権力を回復したわけではない。
光秀から銀50枚を受け取った男
吉田兼見は、神道の家柄である吉田家の当主で、京で光秀と親しかった人物だ。足利義昭、信長、秀吉、細川幽斎とも付き合いが広く、日記の『兼見卿記』は変の前後を知る手がかりになる。変のあと、兼見は光秀のもとへ2度、勅使として出向き、礼として銀50枚を受け取っている。
光秀と顔を合わせたのはほかにも2度あり、朝廷や五山へ銀が贈られたことも伝わる。朝廷説の論者は、この近さを光秀と朝廷の結びつきと読む。材料は、日記の中の勅使と銀に集まっている。
6月14日、織田信孝の使者を名乗る津田越前入道が兼見を訪ねてきた。用件は、銀の供与への抗議だ。兼見は釈明に追われ、秀吉や信孝への対応まで迫られる羽目になった。
兼見の日記には癖がある。変のあった天正10年の分だけ、以前に書いた版が別本として残る。光秀に関わる箇所が書き直されたと指摘され、銀をめぐる詮議の影響まで分析されてきた。
近衛前久は浜松へ逃げた
朝廷説で名前が挙がるのは、正親町天皇と、公家の筆頭格にあたる家柄の近衛前久だ。風説が立った。本能寺を撃った光秀の軍が、前久の屋敷から銃を放ったというのだ。この話は、文献の側で明確に退けられている。
前久は信長を太政大臣に推して、自分はその職を辞していた。6月1日には本能寺も訪れており、信長との仲は、極めて親密だった。
変の後、前久は髪を落として龍山と号したが、信長の三男信孝や、のちに猶子となる秀吉からも詰問を受ける。逃げた先は、徳川家康のいる遠江の浜松。誤解は1年ほどで解け、家康の取りなしで京に戻った。
慶長13年、前久は信長の命日に追悼の句会を開いている。変から26年後のことだ。念のため書き添えると、直接の命令書や密約を記した文書は挙がっていない。朝廷説の根拠は、状況の近さにとどまる。
鞆の浦に置かれた小さな幕府
義昭と信長の仲は、早くから冷え込んでいた。1569年1月、信長は9箇条の掟書を義昭に承認させ、翌年1月には5箇条を書き足している。義昭は、これに強い不満を抱いた。
足利義昭は、1573年に信長に敗れて京を追われた。1576年2月には、毛利輝元の勢力下にある備後の鞆へ移り、毛利の庇護のもとで将軍の看板を守り続ける。鞆の御座所には、奉公衆、奉行衆、同朋衆、猿楽衆、侍医、女房衆など50人以上が仕えていた。
義昭は輝元を副将軍に任じて各地の反信長勢力を束ねようとし、武田勝頼や上杉謙信には、講和を命じている。藤田達生は、この体制を鞆幕府と名づけた。亡命政権とはいえ、体裁は幕府そのものだったという。
義昭が毛利を後ろ盾に光秀と結び、信長を除こうとした。そういう大きな絵を描く論者がいる。光秀はもともと義昭に仕え、細川藤孝も、もとは幕府に仕えた人物だ。
重臣の斎藤利三の実兄、石谷頼辰も、幕府の奉公衆の出身だった。利三は長宗我部元親とも縁続きになり、旧幕臣の人脈が、光秀の周りに厚かった。
変のあと、光秀が紀伊の雑賀衆、土橋重治に送った書状が伝わり、そこには足利義昭の入京に触れる言葉がある。義昭黒幕説は、ここを重く見る。2014年には、林原美術館で石谷家の文書が見つかり、元親と利三のやりとりを伝える内容が、動機論にも影響を与えた。
動かなかった毛利と、15年ぶりの京
義昭説には、大きな穴がある。毛利が、動かなかったのだ。秀吉が撤退した翌日、毛利方は紀伊の雑賀衆の知らせで変を知った。光秀が書状を送った先と同じ雑賀衆が、毛利に変を知らせている。
吉川元春と小早川隆景は、毛利輝元の叔父にあたる。吉川元春は追撃を主張したが、小早川隆景は、誓紙を交わした以上は和睦を守るべきだと退ける。義昭の後ろ盾である毛利は、結局、秀吉の背中を追わず、光秀が義昭の入京を口にしても、頼みの綱は動かなかった。
混同してはいけないものもある。事件後に光秀から毛利方へ協力を求める動きと、1581年から共謀していたという主張は別だ。この話が言う1581年密約には、文書の特定がない。
義昭が京に戻れたのは、変から5年後だ。1587年3月、九州へ向かう秀吉が鞆の近くに立ち寄り、義昭と会った。そのあと義昭は御座所を鞆から津之郷に移し、10月には毛利の兵に護衛されて京へ戻る。およそ15年ぶりの帰京。
1588年1月13日、義昭は秀吉と参内して将軍職を朝廷に返上し、秀吉の奏請で准三宮の称号を受けて、室町幕府は名実ともに滅びる。義昭が世を去ったのは、慶長2年のことだ。
上様も殿様もご無事だ、という嘘
秀吉説は、信長の死でいちばん得をした者を探す。山崎で光秀を討ち、織田家の中で主導権を握ったのは秀吉だ。変の直後の動きが速すぎると見て、事前の関与を疑う。
6月3日の夜から4日にかけて、秀吉は備中の陣で変を知った。毛利との講和を急ぐ一方で、「上様も殿様もご無事で切り抜けられた」という虚報を流している。上様は信長、殿様は信忠のことだ。生きているはずのない2人が、言葉の上では生き延びた。
数日のあいだ、各地で信長の生存を伝える情報が錯綜した。光秀に付くか、織田に付くか。
この虚報を、事前に知っていた者の手際と読む人がいれば、報せを得てから知恵を絞っただけだ、と読む人もいる。批判する側は、光秀が決行する日を秀吉が前もって知る手段が見当たらない、と指摘する。どちらにも決め手はない。
230キロを走った秀吉の陣
変報の入手経路には、説がいくつもある。ひとつは、光秀が毛利へ送った密使を捕らえたという説。もうひとつは、備中の庭瀬で怪しい飛脚を捕まえたところ、秀吉を追い撃つよう促す密書が出てきたという説。3つ目は、信長の側近で茶人の長谷川宗仁の使者が知らせたという説だ。
秀吉は、清水宗治の籠もる備中高松城を水攻めにしていた。変を知ると備前と備中への道を封じ、自分の陣にも口止めを命じた。毛利には信長の死を伏せたまま、講和を結んでいる。当初求めた5か国の割譲は、備中、美作、伯耆の3か国に切り替わり、条件には宗治の切腹が入った。
宗治が腹を切ったのは6月4日の午前10時ごろと見られ、秀吉は酒と肴を贈って、切腹のあとで宗治を武士の手本と褒めたと伝わる。毛利が変を知ったのは、秀吉の撤退の翌日だった。
撤退の日は、6月4日の午後とする説と6日とする説がある。4日説なら、5日に沼城へ入ったことになる。高松からは約22キロの道のりで、備中高松城の水攻めは、すでに講和で終わっていた。姫路城に着いたのは、6日の夜とも、7日の夕方とも、8日とも伝わる。
9日の朝に姫路を出て、明石を経て、兵庫の港の近くで野営した。11日の夕方には尼崎に着く。12日は富田に陣を張り、13日の朝に出て山崎に着いた。高松から山崎まで、約230キロの行軍だ。
230キロという距離は、正直、聞いただけで足が痛くなる。この速さを、事前に知っていた証拠と読む説がある。研究者も、秀吉が上方の情報を得るために使者を置いていた可能性までは認める。渡邊大門は、そこまでにとどめた。
毛利氏と対峙していた秀吉の戦線、変報の入手、中国大返し、山崎の戦い。ここまでは史実だ。迅速な対応は、事前共謀を持ち出さなくても説明できる。軍事指揮、講和、情報伝達、競争相手より先に動く合理性。理由ならいくらでも並ぶ。
秀吉の成功は、時間が勝負だと見抜いた判断の結果とも、幸運の産物とも評される。どちらの評価にも、一理ある。
村井貞勝の扱いも引っかかる。彼は本能寺の変で、信長の嫡男・信忠とともに二条御所で戦死した側近だ。その人物が光秀へ偽情報を流して変を誘発したとするなら、動機、伝達経路、生存利益の説明が必要になる。この話では「可能性」として名前を置くだけだ。
堺の家康は知恩院で腹を切るつもりだった
家康黒幕説は、信長が家康の暗殺を計画していたのを察知した家康が、光秀と結んで先手を打った、という筋書きだ。明智憲三郎氏の著作で広く知られるようになった。
5月に光秀が饗応した家康は、変の日には堺にいた。河内の飯盛山の付近で茶屋四郎次郎から信長の死を知らされた家康は、いったん京へ上り、知恩院に駆け込んで追い腹を切ると言い張ったらしい。本多忠勝らが説得して、三河へ帰る決心がついた。
この逃避行は、神君伊賀越えと呼ばれる。堺を出たのは6月2日。同行は34名。酒井忠次、石川数正、本多忠勝らのほか、織田家中の長谷川秀一と西尾吉次、それに穴山信君の一行も加わった。
通説の道筋は、木津川の渡しから宇治田原城、近江の甲賀、伊賀の柘植を経て、伊勢の長太から海路で大浜へ出るというものだ。ただ、石川忠総の留書は桜峠越え、徳川実紀は御斎峠越え、戸田本三河記は甲賀越えと書く。2020年代には、大和を通ったという説も注目され、道筋ひとつにも、定まった答えがない。
三河に着いたのは、6月4日の深夜から5日の未明だ。ちなみに穴山信君は、落ち武者狩りに襲われて腹を切ったとも、別行動のところを殺されたとも伝わる。家康黒幕説の材料は薄い。当の本人が、命を落としかねない旅をしたことは動かない。
渡海は6月2日の予定だった
天正8年6月まで、信長は長宗我部元親に、四国は切り取り次第でよいという朱印状を出していた。その後、方針が変わり、土佐と阿波の南半分だけを認めて、ほかの占領地は返せと命じた。
元親は拒み、天正9年の後半には、織田と長宗我部の交渉が決裂する。光秀の重臣の利三は元親と姻戚の縁があり、石谷家文書は、変の直前のやりとりを伝えるものとして注目された。四国説は黒幕を名指しせず、信長の方針転換に光秀の動機を求める。
光秀は、織田の側で長宗我部との取次役だった。方針転換は、その光秀の面目を潰した。四国説はそう読み、光秀の単独の恨みから決起したと見る。比較的史料に近い立場の解釈になる。
その利三は、もとは西美濃三人衆の稲葉一鉄に仕えていた。軍功の割に厚遇されず、一鉄に諫言を退けられて稲葉家を去り、光秀に召し抱えられている。
5月の上旬、信長は三男の信孝を総大将にして、四国方面軍を組んだ。丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄が副将についた。5月29日には、信孝が摂津の住吉に、信澄と長秀が大坂に、頼隆が岸和田に集まっている。総勢は1万4000。
渡海の予定日は、6月2日だった。この日付の一致を重く見て、軍勢が海を渡る前に光秀が動いたと読む人もいる。その朝、本能寺で信長が自害し、作戦は立ち消えになる。津田信澄は、信長の甥で、光秀の娘婿でもある。その信澄は、信孝と長秀に野田城で殺された。
軍記物から講談へ、匿名掲示板へ
江戸期に入ると、『甫庵信長記』などの軍記物が脚色を加える。光秀の恨みや野心を物語的に膨らませていく。講談や歌舞伎の世界では「光秀の悪逆」「信長の非情」という対立構図が繰り返し演じられた。庶民のあいだに「本能寺には裏がある」という感覚が、土壌として育っていった。
黒幕論そのものが学術的な体裁を取り始めたのは、戦後の歴史小説以降だ。平成に入ってからは「本能寺の変・四国説」のような研究者による再検討が出てくる。同時に、明智憲三郎氏に代表される在野研究者の「光秀・家康共謀説」が並行して広まった。
ネット上での爆発的な拡散は、2000年代後半から2010年代のブログ・まとめサイト文化にある。5ちゃんねる系の歴史板やオカルト板では、「本能寺の変の黒幕は誰か」というスレッドが定期的に再燃してきた。家康説、秀吉説、朝廷説、宣教師説がそれぞれ支持者を集め、長年にわたって議論の応酬になってきた。
動画サイトの歴史考察系チャンネルでは、大河ドラマの放映期に合わせて黒幕説をテーマにした動画が急増する。概要欄に並ぶのは、こんなコメントだ。「イエズス会説は面白いが根拠が薄い」「朝廷説は動機はあるが証拠がない」。
文章投稿サイトやアメーバブログでは、在野の歴史愛好家が独自の年表を作り、毛利・秀吉の書状のやり取りの速度を分析して、事前共謀があったはずだと主張する。そういう投稿が人気を集めている。
攻城団などの読者投稿欄では、単独犯行説を支持する声が依然として最多だ。それでも「黒幕がいたほうが物語として面白い」という娯楽的な支持は根強い。史実性と物語性が分かちがたく絡み合っている。
具足の音と馬のいななき
本能寺は現在、京都市中京区に再建されている。変の直後に焼けた現場は、移転前の別の場所にあったとされ、跡地には石碑が立つ。
心霊系のまとめサイトには、こんな投稿が繰り返し掲載されている。夜間にこの跡地付近を通ると、具足の音や馬のいななきを聞いた、というものだ。「京都市在住・60代男性」を名乗る匿名の証言が紹介されることもある。「あの夜の無念がまだ地面に染み込んでいる気がする」。そういう感想だ。
亀岡市には光秀の首塚と伝えられる場所があり、地元では「二つの怨霊を封じ込めた塚」として語られる。参拝者の間では「写真を撮ると必ず何か光るものが写り込む」という噂が根強い。
坂本城跡(大津市)を訪れた個人ブログの投稿者は、湖畔で夕暮れに佇んでいるときの話を記している。「甲冑姿の武者が水面を見つめている影を見た気がした」。光秀が本拠とした坂本の地には、今も彼への同情的な感情が根強いことがうかがえる。
「京都市の60代男性」「40代女性」が怨念や黒幕を感じるという記述は、歴史事件の証拠ではない。取材日も場所も質問も録音もない。実名または匿名化方針もないため、聞き取り資料としても再検証できない。現代人の印象は、伝説受容の記録にはなり得る。ただ、1582年の因果関係を証明しない。
この話に貼る札
実在事件へ、裏付け未確認の引用と受益者推理を重ねたものだ。分類するなら、黒幕複合説の資料監査ということになる。
本能寺跡から天王山まで
本能寺跡(京都市中京区)、明智光秀の居城であった坂本城跡と亀山城跡、山崎の戦いの古戦場である天王山。さらに光秀の首塚がある亀岡市と、毛利氏と対峙していた備中高松城跡。いずれも黒幕説を語るうえで欠かせない実在の舞台だ。
信長が保護したとされる南蛮寺跡も、京都市内に伝承地がある。宣教師黒幕説を語る者は、しばしばこの場所を「証拠」として引き合いに出す。
これらの史跡を巡りながら黒幕説を検証する「聖地巡礼」的なブログ記事や動画は、年々増加している。史実の重みと都市伝説的想像力が、同じ土地の上で共存し続けている。
小栗栖の藪と六条河原
光秀は、変のあと安土城に入って近江を押さえようとしたが、勢多城の山岡景隆が瀬田橋を落として進路を塞いだ。山崎の戦いは、変のわずか11日後だ。
6月13日、山崎で光秀は秀吉に敗れた。予想を超える秀吉軍の進軍に、態勢を十分に整えられなかったと伝わる。勝龍寺城を抜けて落ちる途中、小栗栖の藪で農民の落ち武者狩りに遭い、竹槍で刺されたという。深手を負い、家臣の介錯で自害したとも伝わる。
光秀の首は、翌日に羽柴方へ届いた。京の本能寺に晒され、そのあと粟田口でも晒される。信長が最期を迎えた寺で、光秀は首になって晒された。
それでも生き延びた、という話がある。光秀は僧侶の南光坊天海になったという説だ。日光東照宮の造営に光秀の意匠が隠されている、という「考察」まで存在する。
利三は、近江に潜んでいた。猪飼秀貞に騙されて秀吉に引き渡され、6月18日に六条河原で処刑される。友人の絵師、海北友松と東陽坊長盛が遺骨を奪い、真如堂に葬った。
