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サレム魔女裁判・九か月の全記録――少女の発作から二十人の死まで、裁判記録が丸ごと残った「世界一よく分かる集団狂気」を解剖する

一六九二年の冬、マサチューセッツの片田舎で、九歳の女の子が床を転げ回った。

それから九か月で、二十人が死んでいる。十九人が絞首され、一人が石で押しつぶされた。牢の中で息を引き取った人も、確認できるだけで五人はいる。告発された人間は百五十人を超え、名前が記録に残っているものだけでも二百人近い。

しかもこの事件、記録がほぼ丸ごと残っているのが恐ろしい。逮捕状。召喚状。供述書。証言の速記。判事の日記。牧師の説教草稿。被告本人が獄中から出した嘆願書。集団狂気というやつは普通、燃え尽きたあとに灰しか残さない。ところがサレムだけは、燃えている最中の写真が何百枚も残ってしまった。だから世界中の歴史家と心理学者と社会学者が、三百年以上たった今もこの九か月をつつき回している。

これはその九か月の話だ。そして、なぜそれが始まり、なぜ止まらず、なぜ止まったのかという話でもある。

そもそもサレムという村は、うまくいっていなかった

まず場所の話をさせてほしい。ここを外すと、あとが全部わからなくなる。

一六九二年のサレムには、二つのサレムがあった。海に面した港町のサレム・タウンと、その内陸側に広がる農村部のサレム・ヴィレッジだ。今のマサチューセッツ州ダンヴァースにあたるあたりが、当時のサレム・ヴィレッジにおおむね対応する。魔女裁判の火が最初についたのはこの村のほうで、裁判が開かれたのは町のほうだった。

サレム・ヴィレッジは、行政的に中途半端な土地だった。独立した町ではない。税はサレム・タウンに納める。なのに教会だけは自前で持っている。この「半分だけ独立」という宙ぶらりんの状態が、村の人間をずっといらいらさせていた。

考えてみてほしい。教会を持てば牧師を雇わなければならない。牧師を雇えば給料を払わなければならない。給料を払うとなれば、誰がいくら出すかで必ずもめる。実際この村は、牧師と揉めるのが伝統芸みたいになっていた。サミュエル・パリスの前にも三人の牧師が村と喧嘩別れしている。そのうちの一人が、のちに魔女として絞首されるジョージ・バロウズだ。この伏線はあとで効いてくる。

そして村の中には、はっきりした二つの人脈があった。パトナム家を中心とする内陸側の農業層と、ポーター家を中心とする町寄りの商業層。前者は独立志向で牧師パリスの支持者、後者は町との結びつきが強くパリスに批判的だった。この対立軸が告発の分布とどれくらい重なるのかは、後世の歴史家が延々と議論することになる。そこはあとでたっぷり扱う。

もう一つ、忘れてはいけない背景がある。戦争だ。

当時ニューイングランドの北の辺境、今のメイン州のあたりでは、ワバナキ連合とイギリス人入植者の血みどろの戦いが続いていた。一六八九年に始まったこの戦争は、入植地を丸ごと焼き、村人を皆殺しにし、生き残りをサレムやアンドーヴァーへ難民として押し流していた。一六九二年一月にはメインのヨークが襲われ、五十人ほどが殺され、百人前後が連れ去られている。少女たちの発作が始まったのは、まさにその知らせがサレムに届いた頃だ。

つまり、火をつける前から、この村は乾燥しきっていた。

一六九二年一月、牧師館の床で何かが始まった

サミュエル・パリスは、牧師としては遅咲きの男だった。

もともとはバルバドスの砂糖農園を継いだ商人で、経営が傾いてボストンに逃げ、それから神学に転じた。一六八九年にサレム・ヴィレッジの牧師の座におさまるが、給料や薪の支給をめぐって村と延々ともめ続ける。一六九一年十月には、村の委員会がついに彼への給与支払いを打ち切った。牧師館の暖炉に焚べる薪すら滞る冬に、あの発作は始まった。

一六九二年一月半ば。パリスの娘ベティは九歳。同居していた姪のアビゲイル・ウィリアムズは十一歳。この二人が、突然おかしくなった。

同時代の記録によれば、二人は家具の下に潜り込み、奇妙な姿勢に体をねじり、意味の通らない言葉を叫び、何もない空間に向かって手を振り回した。火の中に飛び込もうとしたとも、井戸に向かって走ろうとしたとも伝えられる。祈りの言葉を唱えようとすると喉が詰まったように黙り込み、聖書を読み聞かせると耳をふさいで悲鳴を上げた。

牧師の家の子が、祈りに反応して苦しむ。パリスにとっては、家庭の問題であると同時に、職業上の悪夢だった。

パリスはまず祈った。何日も祈った。効かなかった。次に医者を呼んだ。村の医師ウィリアム・グリッグスは、いろいろ試したあげく、当時の医者が手詰まりのときに使う最終診断を下す。これは自然の病ではない、と。つまり、悪しき手がこの子らにかかっている。

現代の目で読むと、この診断こそが最初のドミノだ。医学が降参した瞬間、問題は神学と司法の領分に移った。そして十七世紀のニューイングランドにおいて、「自然の病ではない」の次に来る問いは一つしかない。

誰がやったのか。

魔女ケーキという、致命的な一手

二月二十五日、村人のメアリー・シブリーという女性が、パリス家で働く奴隷のティチューバとその夫ジョン・インディアンに、あるものを作らせた。魔女ケーキだ。

作り方はシンプルで、そして不気味だ。苦しんでいる少女たちの尿をライ麦粉に混ぜて焼く。それを犬に食わせる。すると犬が苦しみだし、その反応から誰が呪いをかけたかがわかる、とされていた。イギリスの民間呪術の伝統的な手口である。

これが最悪だった。理由は二つある。

一つ目。この一手によって、「呪いをかけた犯人が特定できるはずだ」という前提が、村人の共通了解として固定された。それまで少女たちの症状は「病気かもしれない何か」だった。魔女ケーキ以降、それは「誰かの犯行」になった。捜査が始まってしまったのだ。

二つ目。パリスはこれに激怒した。彼は説教壇からシブリーを名指しで叱責し、悪魔の道具で悪魔と戦うな、と説いた。だが牧師の怒りは事態を鎮めるどころか、事件の重大性を村中に告知する効果しか持たなかった。

しかもこの魔女ケーキは、ティチューバの手を通っている。台所で働く女が呪術の道具に触った。この一点が、彼女を最初の容疑者にした。

そして少女たちは、ついに名前を口にする。三つの名前を。

最初の三人は、もっとも殴りやすい標的だった

一六九二年二月二十九日、三人の女への逮捕状が出された。サラ・グッド、サラ・オズボーン、そしてティチューバ。

この人選が、あまりにも典型的で、あまりにも残酷だ。

サラ・グッドは三十代の物乞いだった。夫のウィリアムは日雇いで、一家は定住する家を持たず、村人の納屋を渡り歩いていた。パイプをふかし、施しを断られると口の中で何かをぶつぶつ言いながら去っていく。村人はその「ぶつぶつ」を呪いだと解釈した。要するに、共同体が持て余していた貧困の象徴である。しかも彼女は妊娠していた。

サラ・オズボーンは事情が違う。彼女は資産のある未亡人で、亡夫の遺産をめぐって親族と法廷闘争の最中だった。相手はパトナム一族。さらに彼女は再婚相手と結婚前から同居していたという噂があり、三年近く教会の礼拝に出ていなかった。ピューリタンの村で礼拝を欠席し続ける女は、それだけで半分有罪だ。

ティチューバは、パリスがバルバドスから連れてきた奴隷だった。出自については先住民系とする記録が多く、後世に「黒人」「アフリカ系」として描かれるようになったのは十九世紀以降の脚色に近い。いずれにせよ、彼女には身分がなく、法的な後ろ盾がなく、殴られても誰も助けに来ない立場だった。

三月一日、村の集会所で予備審問が開かれた。判事はジョン・ホーソーンとジョナサン・コーウィン。見物人で建物はぎゅうぎゅう詰めになり、床が抜けそうだったという。

ホーソーンの尋問は、そもそも尋問の体をなしていない。彼はサラ・グッドにこう切り出す。あなたはどの悪霊と関わりを持っているのか。あなたはなぜこの子どもたちを傷つけるのか。有罪を前提とした問いしか投げない。グッドが否定すると、では誰がやったのかと畳みかける。追い詰められたグッドは、オズボーンの名を出した。被告が被告を売った、最初の瞬間だ。

サラ・オズボーンも否認した。自分こそ魔法にかけられた被害者だと訴えた。誰も聞かなかった。

そして三人目が呼ばれた。

ティチューバの自白で、物語が起動した

ティチューバは、最初否認した。ところが二日目、彼女は語りはじめる。

証言記録に残る彼女の言葉は、驚くほど具体的で、驚くほど豊かだ。

黒い服を着た背の高い男が現れて、自分に仕えろと言った。その男はボストンから来たと言った。赤い猫と黒い猫が来て、子どもたちを傷つけろと命じ、断ると引っかいた。豚のような姿、大きな黒い犬のような姿で四度現れた。黄色い小鳥がいて、悪魔はそれを与えると約束した。そして棒か竿にまたがって空を飛んだ。うしろにグッドとオズボーンが乗っていた、と。

さらに彼女は、悪魔の帳面の話をする。そこには九つの印があった。つまり、この村にはまだ九人の魔女がいる。

これがすべてを変えた。

考えてみてほしい。それまでの構図は「三人の変わり者が疑われている」だった。ティチューバの自白によって、構図は「村に組織された九人以上の魔女団がいて、そのボスは正体不明」に書き換わった。犯人はまだ捕まっていない。今も動いている。誰が仲間かわからない。

なぜティチューバはこんな話をしたのか。有力な説明は、彼女が殴られたからだ。後年の記録によれば、パリスは自白するまで彼女を打ったとされる。

そしてもう一つ。彼女は生き延びるための最適解を、おそらく直感的に見抜いていた。この土地の法では、自白して悔い改め、他の魔女の名を挙げた者は、しばしば処刑を免れた。逆に、最後まで無実を主張した者が吊るされた。

実際、ティチューバは処刑されていない。裁判が終わるまで獄に留め置かれ、獄費を払えないまま放置され、最終的に誰かがその費用を肩代わりして買い取り、記録から消えた。彼女がその後どこでどう生きたのかは、わかっていない。

彼女の自白が、この事件に「筋書き」を与えた。あとに続く自白者たちは、ほぼ全員がこの筋書きの変奏を語ることになる。黒い男、帳面、署名、空を飛ぶ集会。三百年後の我々が「魔女のイメージ」として思い浮かべるものの相当部分は、殴られた奴隷女が二日目に語りはじめた即興のディテールに由来している。

三月、標的が「まともな人間」に移る

ここまでなら、まだ収まる余地はあった。共同体の周縁にいる三人を叩いて、それで気が済む。よくある話だ。

だが三月に入って、告発は決定的な一線を越える。

三月十一日以降、苦しむ者の輪が広がった。アン・パトナム・ジュニア(十二歳)、エリザベス・ハバード(十七歳)、マーシー・ルイス(十九歳)、メアリー・ウォルコット(十七歳)。やがて大人も加わる。アン・パトナム・シニアは三月十八日に発作を起こしはじめた。

そして三月十九日、アン・パトナム・ジュニアが名指ししたのは、マーサ・コーリーだった。

マーサ・コーリーは村の教会の正式な会員だ。信心深い。評判も悪くない。ただ一点、彼女は魔女裁判そのものを馬鹿にしていた。少女たちの発作を信じないと公言し、夫のジャイルズが審問を見に行こうとしたとき、馬の鞍を隠して止めようとしたという話まで残っている。

つまり、疑う者が真っ先に殴られた。これは以後、この事件を一貫して支配する法則になる。

三月二十一日の審問で、ホーソーンはマーサに尋ねた。なぜこの子らを傷つけるのか。マーサは答えた。私は傷つけていない。私は福音を信じる女です。そのやりとりの最中も、少女たちは体をよじり、彼女が唇を噛めば自分たちの唇から血が出ると叫んだ。マーサが手を動かせば、少女たちの手も同じ形にねじれた。

法廷は、この同調をそのまま証拠として受け取った。

三月二十四日には、さらに衝撃的な逮捕が起きる。レベッカ・ナース、七十一歳。八人の子を育て上げ、村では敬虔さの見本のように扱われていた老女だ。彼女が連行されたとき、村の空気が変わったと複数の記録が伝えている。

あの人が魔女なら、誰でも魔女になり得る。安心できる人間が一人もいなくなった瞬間だった。

四歳の魔女

同じ三月二十四日、もう一人が逮捕されている。ドロシー・グッド。サラ・グッドの娘で、四歳だった。記録には「ドーカス」と誤記された名も残る。

四歳の子どもが三日間、大人の判事に尋問された。少女たちは、この子が自分たちを噛んだと言って腕の歯型を見せた。獄中でのやりとりで、ドロシーは自分には小さな蛇がいて、それが人差し指の付け根を吸うのだと語った。判事たちはその場所を調べ、蚤に刺されたほどの赤い点を見つけた。彼らはそれを、悪魔から与えられた使い魔が乳を吸った痕だと判定した。

四歳児の空想が、法的証拠になったのである。

ドロシーはボストンの獄に送られ、鎖につながれた。八か月あまりを牢で過ごし、その間に母が牢の中で妹を産み、その赤ん坊が死に、そして母が絞首されるのを経験した。釈放されたときには五歳になっていた。

一七一〇年、父ウィリアム・グッドが当局に出した補償の請願書には、この娘のその後が短く書かれている。牢に入れられて以来、正気を失い、生涯にわたって自分の面倒を見ることができなくなった、と。父は妻と赤ん坊を失い、娘の一生を奪われ、その対価として三十ポンドを求めた。

この事件で最も残酷な一行は、法廷記録ではなく、この請願書にあると思う。

政治の空白が、この事件の共犯者だった

ここで政治の話を挟まなければならない。地味だが、これがないと「なぜ半年も裁判が開かれなかったのか」「なぜ開かれた途端に人が死にはじめたのか」がわからない。

一六九二年前半のマサチューセッツには、合法的な政府がなかった。本国での名誉革命のあおりで旧来の統治体制が倒れ、新しい特許状が届くまで、植民地は法的にグレーな暫定政権が回していた。つまり、死刑判決を出せる正規の上級裁判所が存在しなかったのだ。

だから三月から五月にかけて、逮捕された人々はどんどん牢に積み上がっていった。裁く仕組みがないまま容疑者だけが増える。五月の時点で、ボストンとサレムとイプスウィッチの牢には数十人が押し込まれていた。

当時の牢は暗く、湿り、寒く、食事も寝具も自弁が原則で、しかも収監費用は本人負担だった。無実の者が、無実を証明する機会も与えられないまま、自腹で腐っていく。

五月十四日、新総督ウィリアム・フィップスが新特許状を携えて到着する。フィップスは船の難破財宝を引き揚げて成り上がった叩き上げで、法律家ではない。彼が見たのは、牢に溢れる容疑者と、パニック寸前の植民地だった。

五月二十七日、フィップスは特別法廷を設置する。オイヤー・アンド・ターミナー。「聴いて、決する」という意味の古い法律用語だ。緊急の刑事案件を片づけるために臨時に立てる法廷で、それ自体は珍しい仕組みではない。問題は中身だった。

首席判事に据えられたのはウィリアム・ストートン。副総督で、神学の訓練を受けており、法律家としての正式な教育は受けていない。そして彼は、霊視証拠の有効性を露ほども疑わなかった。判事の中にはサミュエル・シューオール、ジョン・ホーソーン、ジョナサン・コーウィン、バーソロミュー・ゲドニーらが並ぶ。ホーソーンとコーウィンは、すでに三月から予備審問で被告を追い詰めてきた当事者だ。

つまりこの法廷は、捜査した人間がそのまま裁く構造になっていた。有罪率が跳ね上がるのは、構造的に必然だった。

霊視証拠という毒

この事件の核心を一つだけ選べと言われたら、私は迷わずここを選ぶ。霊視証拠、スペクトラル・エビデンスだ。

理屈はこうだ。悪魔は人間の姿を借りて現れることができる。ただし、本人の同意がなければその姿は使えない。だから、もし被害者が「あの人の霊が私を苦しめた」と証言したなら、それはその人が悪魔と契約を結んでいる証拠になる。

この論理の恐ろしさがわかるだろうか。証言する側だけが見える。被告は反証できない。アリバイも意味がない。処刑の日の朝に教会にいようが、家族と食卓を囲んでいようが、「あなたの霊が同時刻に私の首を絞めていた」と言われたら終わりだ。物証は要らない。目撃者も要らない。苦しむ者が指をさせば足りる。

しかも、この論理には最初から神学的な穴があった。悪魔が無実の人間の姿を勝手に借りることはできないのか。全知全能の神が、そんな悪魔の芸当を許さないと、どうして断言できるのか。

聖職者たちは、この穴に気づいていた。気づいていて、はっきり塞がなかった。

六月十五日、ボストン周辺の牧師団が「協議に付された数名の牧師の回答」という文書を法廷に提出している。そこには、悪魔は神の許しのもとで無実の、それどころか有徳の人物の姿でさえ現れうる、と明記されている。ここまではいい。ところが文書は最後に、当局が疑わしき者に対して迅速かつ精力的に対処することを勧める、と付け加えてしまった。

法廷は後半だけを読んだ。当然だ。

この文書の起草には、コットン・マザーが深く関わっている。五月三十一日にも彼は判事に手紙を書き、霊視証拠だけに頼るなと警告していた。だが同時に、悪魔と魔女の実在を疑うなとも書いていた。ブレーキとアクセルを同時に踏むような態度だ。そして走っている車は、ブレーキを踏まれても、アクセルの音のほうをよく聞く。

六月十日、ブリジット・ビショップ

特別法廷が最初に裁いたのは、ブリジット・ビショップだった。

彼女は六十歳前後の女性で、サレム・タウンに住んでいた。三度結婚し、二人の夫を見送っている。派手な赤い胴着を着ていた、酒場を営んでいた、深夜に若者を集めて騒いでいた、といった話が記録に混じっているが、後世の研究では別人のサラ・ビショップとの混同がかなり含まれるとされている。

ただ一つ確かなのは、彼女が十年以上前にも魔術の疑いをかけられ、そのときは証拠不十分で放免されていたことだ。

一度疑われた者は、二度目に殺される。

六月二日の裁判で出された証拠は、こんな具合だった。彼女の霊が現れて自分をつねり、首を絞めたという証言。彼女が法廷で誰かを睨むと、その相手がばたりと倒れ、彼女が触れると起き上がるという実演。彼女が壊された家の壁の中から、針の刺さった布人形が出てきたという大工の証言。人形にしか使えないほど小さなレースを彼女が染めさせようとした、という証言。

そして彼女は「こんな人たちは見たこともない、この場所に来たこともない」と述べた。おそらく本当だったのだろう。彼女はサレム・タウンの住人で、村の少女たちと面識がなかった可能性が高い。

判決は有罪。六月十日、絞首。処刑地は長らくギャロウズ・ヒルの頂上と言われてきたが、二〇一六年に研究チームが史料と地形の照合を行い、実際の現場はその麓のプロクターズ・レッジという小さな岩棚だったと結論づけている。

この判決の直後、判事の一人ナサニエル・ソルトンストールが辞任した。彼はこの法廷のやり方に耐えられなかった。歴史に残る良心の行使だが、同時に、彼が抜けた席は霊視証拠を疑わない人物で埋められた。

良心的な人間が先に降りると、部屋の平均値は悪化する。この構造も、以後何度も繰り返される。

七月十九日、評決がひっくり返った日

七月十九日、五人が吊るされた。サラ・グッド、レベッカ・ナース、スザンナ・マーティン、エリザベス・ハウ、サラ・ワイルズ。

この日のことを語るには、六月三十日に戻らなければならない。レベッカ・ナースの裁判だ。

七十一歳。耳が遠い。病がちで、法廷まで運ばれてきた。村人三十九人が、彼女の人柄を保証する嘆願書に署名していた。当時のサレムで、魔女容疑者のために三十九人が名前を書くというのは、途方もない勇気の集積である。署名者の中には、パトナム家と近い立場の人間さえいた。

そして陪審は、無罪の評決を出した。

法廷が揺れた。傍聴席の少女たちが一斉に発作を起こし、悲鳴と痙攣で場が制御不能になった。ここでストートンが動く。彼は陪審に、被告のある発言をもう一度検討するように促した。

その発言とは何か。自白した囚人のデリヴァランス・ホッブズが証人として引き出されたとき、ナースが「あの人を連れてくるのですか、あの人は私たちの一人なのに」と口にしたという件だ。ナースの意図は明らかに「あの人も私と同じく囚われの身なのに」だった。ストートンはこれを「我々魔女の仲間なのに」と読み替える余地があると示唆した。

陪審長が彼女に問い直した。ところがナースは、耳が遠くて質問が聞こえなかった。あるいは、混乱して答えられなかった。沈黙が返ってきた。

陪審は評決を覆した。有罪。

その後、フィップス総督が一度は執行猶予を出したという記録もある。だが猶予の知らせが出た途端、少女たちの発作が再燃し、猶予は撤回された。七月三日、彼女は自分の教会から破門された。永遠の魂の救いを共同体から公式に取り消されたということだ。

そして七月十九日、彼女は吊るされた。

同じ日、サラ・グッドは処刑台の上で牧師ニコラス・ノイズから自白を迫られ、こう言い返したと伝えられている。私は魔女ではない、お前が私の命を奪うなら、神はお前に血を飲ませるだろう。ノイズは二十五年後、脳内出血で口から血を吐いて死んだ。この符合が本当かどうかはさておき、サレムの語り継がれ方をよく表す挿話ではある。

処刑後、遺体は岩の間の浅い穴に投げ込まれた。ナースの家族は夜を待って現場に行き、遺体を掘り出して自分たちの土地に運び、密かに埋葬したと伝えられている。

八月十九日、主の祈りが完璧に唱えられた

八月十九日、五人が処刑された。ジョージ・バロウズ、ジョン・プロクター、ジョン・ウィラード、ジョージ・ジェイコブズ、マーサ・キャリア。

主役はバロウズだった。

彼は元サレム・ヴィレッジの牧師である。一六八〇年に着任し、給料の未払いでもめ、妻を亡くしたときの葬儀費用をジョン・パトナムから借り、返せず、訴えられ、一六八三年に村を去った。その後メインの辺境で牧師をしていた。四月三十日、トマス・パトナムらの訴えによって告発され、五月四日、メインのウェルズで食事の最中に逮捕されて連行された。

彼にかけられた嫌疑は異様だった。小柄なのに超人的な力を持ち、マスケット銃の銃身に指を一本入れて持ち上げた。重い樽を片手で運んだ。人間業ではない、悪魔の力だ、と。さらに、死んだ二人の妻の霊が法廷に現れ、彼に殺されたと訴えたという証言まで出た。聖餐に長く与っていないこと、子どもに洗礼を受けさせていないことも、不信心の証拠として並べられた。

そしてもう一つ。彼はメインの戦場で先住民の襲撃を生き延びていた。何度も。周囲の入植地が壊滅する中、彼だけが無事だった。これは当時の感覚では奇妙なことだった。ワバナキと通じているのではないか、という疑いが、彼を「魔女団の首領」に押し上げていく。ティチューバが語った「黒い服の背の高い男」の空席に、彼がはめ込まれたのだ。

処刑当日、ギャロウズ・ヒルには記録的な群衆が集まった。梯子の上に立たされたバロウズは、無実を訴える演説をし、そして主の祈りを唱えた。

一言も間違えずに。

当時の常識では、魔女に主の祈りは唱えられないことになっていた。必ずどこかでつかえる、言い間違える、悪魔がそれを許さない。ところがこの男は、澱みなく、静かに、最後まで唱えきった。群衆がざわついた。同時代の記録者ロバート・カレフによれば、その言葉と態度は多くの見物人の涙を誘い、処刑を止めようという動きさえ起きかけたという。

そこへ、馬に乗ったコットン・マザーが割って入った。彼は群衆に向かって説いた。この男は正式に按手を受けた牧師ではない。そして悪魔はしばしば光の天使の姿に身を変えるのだ、と。

群衆は静まった。処刑は続行された。残る四人も同じ日に吊るされた。

カレフは処刑後の光景も書き残している。バロウズの遺体は縄で引きずられ、岩の間の二フィートほどの浅い穴に他の二人とまとめて放り込まれた。上着は剥がれ、片手と顎、そしてもう一人の足が土から突き出したままだったという。

同じ日に死んだジョン・プロクターは、六十歳の農場主で酒場を営んでいた。彼は最初から発作を「鞭で打てば治る」と言い切っていた口の悪い現実主義者で、召使いのメアリー・ウォレンが発作を起こしたときも容赦なく叱りつけた。そのメアリー・ウォレンが、のちに告発する側に回る。プロクターは獄中から嘆願書を出し、自白させるために若者たちが拷問されている実情を訴えたが、届かなかった。妊娠していた妻エリザベスは、出産まで執行が延期され、その間に裁判が崩壊したために生き延びた。腹の子が母親の命を救ったのだ。

九月十九日、「もっと重しを」

ジャイルズ・コーリーは八十歳を超えていた。気の短い、訴訟好きの、決して感じのいいとは言えない老農夫だった。若い頃に使用人を殴って死なせ、罰金を払った過去もある。妻のマーサはすでに逮捕されており、彼自身も四月に告発された。

彼は起訴に対する答弁を拒んだ。有罪とも無罪とも言わなかった。

イギリス法では、被告が答弁しなければ陪審裁判に進めない。そして答弁を拒む者には、答弁を引き出すための強制手段が用意されていた。ペイン・フォート・エ・デュール、すなわち「強く厳しい罰」。板の下敷きにして、その上に石を積み上げていく。

九月十七日か十八日、彼はサレム・タウンの牢の脇の空き地に連れ出され、裸にされ、板を載せられ、石を積まれた。二日にわたって、判事が来ては答弁を促した。彼はそのたびに、同じ二語だけを返した。

もっと重しを。

九月十九日、彼は死んだ。証人によれば、圧迫のあまり舌が口から押し出され、保安官が杖でそれを押し戻したという。ニューイングランドの歴史で、この方法で殺された人間は彼一人だ。

なぜ答弁を拒んだのか。よく語られるのは、有罪判決を受けると財産が没収されるため、判決前に死ぬことで土地を息子たちに残そうとした、という説明だ。実際にはマサチューセッツで没収が自動的だったかは怪しく、彼は事前に財産譲渡の手続きを済ませていたともいう。

もう一つの見方は、もっと単純だ。彼はこの法廷を、法廷として認めなかった。自分の口から一言も与えないことが、彼にできた唯一の否認だった。

どちらにせよ、この二語は効いた。三百年たっても、この事件を象徴する言葉として残っている。石を積まれた老人が最後に選んだのは、屈服でも懇願でもなく、挑発だった。

妻のマーサは、その三日後に吊るされた。

九月二十二日、最後の八人

九月二十二日、八人が処刑された。マーサ・コーリー、メアリー・イースティ、アリス・パーカー、メアリー・パーカー、アン・プーデイター、ウィルモット・レッド、マーガレット・スコット、サミュエル・ウォードウェル。

一日の処刑人数としては最多で、そしてこれが最後になった。

ウォードウェルは一度自白していた。自白すれば助かるという不文律に従ったのだ。ところが彼は法廷で自白を撤回した。嘘をついて自分を汚すことに耐えられなかった。撤回した瞬間、彼は死刑ルートに乗った。処刑台で最後の言葉を述べようとしたとき、絞首人のパイプの煙が喉に入り、彼はむせて言葉を継げなくなった。見物人はそれを、悪魔が彼の口を塞いだのだと語り合った。

マーサ・コーリーは処刑台で祈りを唱えた。同時代の記録によれば、それは見事な祈りだった。

そして、その日の帰り道である。牧師ニコラス・ノイズが、絞首台に並ぶ遺体を見上げてこう言ったと伝えられている。あそこに地獄の火にくべられる八人がぶら下がっているのを見るのは、なんという恐ろしい光景か。

この一言が、逆効果だった。人々はもう、そういうふうには見ていなかった。彼らが見ていたのは、祈りを唱えて死んだ老女であり、自白を撤回して死んだ男であり、そして数週間前に主の祈りを完璧に唱えた牧師の記憶だった。

九月二十二日以降、サレムで誰も処刑されていない。

牢の中で死んだ人たち

処刑された二十人の陰で、牢の中で死んだ人たちがいる。

サラ・オズボーンは五月十日、ボストンの牢で死んだ。逮捕から七十日あまり。彼女は最初から病身で、鎖につながれ、暗く湿った牢に放置された。裁判すら受けていない。この事件の最初の死者は、判決を一度も聞いていない。

ロジャー・トゥーサカーは六月十六日に牢死した。彼は民間療法師で、魔女を見分ける術を心得ていると吹聴していた男だ。魔女を狩る技術を持つと言った者が、魔女として狩られた。

アン・フォスターはアンドーヴァーの七十代の女性で、自白して娘と孫娘を巻き込み、十二月三日に牢で死んだ。遺体は遺族が獄費を払うまで引き取れなかった。息子が支払った額の記録が残っている。

リディア・ダスティンは、無罪になったあとに死んだ。一六九三年一月に無罪判決を受けたが、獄費を払えなかったために釈放されず、そのまま牢に留め置かれ、三月十日に死んだ。無罪の人間が、金がないという理由だけで牢で死んだのだ。

そしてサラ・グッドの赤ん坊。彼女は獄中で出産し、その子は牢の中で死んだ。名前も年齢も記録に残っていない。

死者を数えるとき、二十人という数字が使われる。だがそれは絞首と圧殺の合計であって、この九か月がもたらした死の総数ではない。

自白すれば助かるという、地獄のルール

この事件でいちばん不気味な力学を挙げるなら、私はこれを推す。

普通、裁判というものは自白した者を重く罰する。ところがサレムでは逆だった。自白して悔い改め、他の魔女の名を挙げた者は、ほぼ処刑されていない。五十人以上が自白したが、そのうち処刑されたのはウォードウェルただ一人で、それも自白を撤回したからだ。

なぜか。神学的な理屈はこうだ。自白は悔悛の第一歩であり、悔い改めた魂は救われうる。だから殺して魂を地獄に落とすより、生かして償わせるほうがよい。加えて実務的には、自白者は情報源として価値があった。生かしておけば次の名前を吐く。

結果として、この制度は最悪のインセンティブを生んだ。無実を主張する人間だけが死ぬ。嘘をつく人間は生きる。しかも嘘をつくには、誰か別の人間の名前を差し出さなければならない。

だからアンドーヴァーでは、家族が総出で自白した。母が自白し、娘が自白し、孫が自白する。互いを名指ししながら、全員で生き延びる。狂気の沙汰に見えるが、当事者の立場に立てば、これは合理的な生存戦略だった。

そしてこの構造こそが、告発を無限に増殖させたエンジンだった。一人自白するたびに、新しい名前が三つ四つ生まれる。名前が生まれれば逮捕される。逮捕された者は自白すれば助かると知る。また名前が生まれる。

止まる理由がない。数学的に止まらない。

アンドーヴァーへの飛び火

サレムより多くの人間が告発された町がある。アンドーヴァーだ。

一六九二年の夏、アンドーヴァーのジョセフ・バラードという男が、病の妻の原因を突き止めようとして、サレム・ヴィレッジの「苦しむ少女」たちを町に招いた。彼女らには魔女が見える、とされていたからだ。専門家を呼んだつもりだったのだろう。

呼ばれた少女たちは、目隠しをした状態で並べられた町人に順番に触れさせられた。触れた瞬間に発作が止まれば、その人物が犯人。いわゆるタッチ・テストである。当然ながら、これはいくらでも操作できる。

アンドーヴァーからは四十人以上が告発された。単一の町としては最多だ。そして自白の連鎖がここで爆発する。子どもが自白し、母を巻き込む。母が自白し、姉妹を巻き込む。

だが、この町から反撃も生まれた。治安判事ダドリー・ブラッドストリートは、四十件近い逮捕状に署名したあと、これ以上は署名しないと宣言した。彼と妻はただちに告発された。彼らは町を逃げ出した。

老牧師フランシス・ダンも抵抗した。彼自身の家族から多数の告発者が出ていたにもかかわらず、彼はタッチ・テストと自白の信頼性を公然と疑った。やがて彼の周囲の女性たちが次々に告発される。それでも彼は折れなかった。

そして自白した者たちの一部が、後日、集団で撤回の請願を出す。自分たちは脅され、混乱し、生き延びるために嘘を言った。もう嘘をつき続けることはできない、と。命がけの撤回だった。

告発が上流に届いた日

告発の連鎖が止まった理由は、良心の目覚めではない。少なくとも、それだけではない。

夏から秋にかけて、告発される人間の階層が上がっていった。最初は物乞いと奴隷だった。次に村の周縁の変わり者。それから教会員の老女。牧師。農場主。

そして商人と、その妻たちに届いた。

ボストンの有力商人ジョン・アルデン。船長で、植民地の交易と軍事の要人だった彼は、サレムの法廷に引き出され、少女たちに名指しされ、投獄された。彼は十五週間ののち牢を破って逃げ、事態が収まってから戻ってきた。彼が書き残した法廷の描写は辛辣で、少女たちが誰を指すべきか周囲の大人に耳打ちされていた様子を暴いている。

さらに、フィップス総督の妻レディ・メアリー・フィップスの名前まで挙がった。総督夫人である。ここまで来ると、話が変わる。

もう一つ、決定的だったのは知識人の反撃だ。ボストンの商人で数学に通じたトマス・ブラッタルは、十月八日付の書簡で法廷の手続きを徹底的に解剖した。触れば発作が止まるという実験には対照が存在しない。被告の自白は拷問同然の圧迫のもとで得られている。判事たちは自分の前提を検証していない。この文書は写しで出回り、上流階級の空気を変えた。

そして十月三日、インクリース・マザーがボストンの牧師団の前で「良心の諸事例」を読み上げる。そこにはこう書かれていた。誰かが霊や悪魔に告発されたというだけで命を奪うことは、この地に無辜の血の罪をもたらす。

彼はさらに、有名なあの一文を記している。十人の魔女容疑者が逃れるほうが、一人の無実の者が断罪されるよりましだ。

十月十二日、フィップスはこれ以上の投獄を停止するよう命じた。十月二十九日、特別法廷は解散した。

自分たちの階層に火が回ってきた瞬間に、火は消された。これがサレムの終わり方だ。美しくもなんともない。

マザー父子の、煮え切らない立場

インクリース・マザーとコットン・マザーの父子は、この事件でいちばん評価の割れる二人だ。

父インクリースは、ハーヴァード学寮長を務めた植民地随一の権威だった。彼はロンドンで新特許状の交渉にあたっていて、事件の初期には現地にいない。帰ってきて事態を見て、十月に「良心の諸事例」を書き、霊視証拠を断ち切った。彼が引き金を引かなければ、法廷はもっと長く走っていた可能性が高い。

ただ、彼も魔女の実在は疑っていない。彼が否定したのは証拠の種類であって、犯罪の存在ではない。しかも同書の付録では、バロウズの裁判については判決を支持するようなことを書いている。息子の立場をかばったのだと見る研究者が多い。

息子コットンのほうは、もっとややこしい。彼は五月三十一日に判事へ手紙を書き、霊視証拠に頼りすぎるなと明確に警告している。六月の牧師団文書でも、悪魔が無実の者の姿を借りうると認めている。にもかかわらず、バロウズの処刑の場では群衆を鎮める側に回り、そして裁判が終わったあと、判事から史料の提供を受けて「見えざる世界の驚異」を書いた。この本は、裁判を全面的に擁護している。

なぜか。私見だが、彼は事件を「魔女裁判の失敗」としてではなく「悪魔の侵攻に対する防衛戦」として理解しつづけたかったのだと思う。裁判が間違いだったと認めることは、悪魔の実在という彼の世界観の土台を揺らす。だから彼は、手続きは反省するが構図は守る、という立場に落ち着いた。

その甘さを、同時代人が突いた。商人ロバート・カレフは一七〇〇年に「見えざる世界のさらなる驚異」を出し、マザー父子の言動を年代順に並べて矛盾を暴いた。コットン・マザーの父はこの本をハーヴァードの構内で焼いたと伝えられる。それでも本は残り、後世の評価はほぼカレフの側についた。

一六九三年、ルールを一つ変えたら世界が変わった

一六九三年一月、新設の上級司法裁判所が残りの案件を裁きはじめた。首席判事は相変わらずストートンだった。だが決定的な変更が加えられていた。霊視証拠は採らない。

結果は劇的だった。五十六人が起訴され、有罪となったのはわずか三人。しかもその三人には、ほどなくフィップスの執行猶予が出た。ストートンは激怒して法廷を出ていったという。彼は最後まで、自分たちが正しかったと信じていた。生涯、一度も謝罪していない。

一月三十一日以降、猶予と釈放が続き、五月にはフィップスが一般恩赦を出して、牢に残っていた者たちを解き放った。ただし、獄費を払える者から順に、である。払えない者は牢に残った。リディア・ダスティンのように。

同じ証拠、同じ被告、同じ裁判官。ルールを一つ変えただけで、有罪率が九割から数パーセントに落ちた。これほど明快に「証拠法とは何か」を示した実験は、歴史上そう多くない。

一六九七年の贖罪日と、一人だけ立ち上がった判事

一六九七年一月十四日、マサチューセッツ植民地は公式の断食と贖罪の日を定めた。魔女裁判で犯された過ちについて、神の赦しを乞うためである。

その日、ボストンのオールド・サウス教会で、判事サミュエル・シューオールが立ち上がった。彼は自分の告白文を牧師サミュエル・ウィラードに渡し、自分は起立したまま、それを読み上げてもらった。文面は、あの法廷の罪と過ちについて、自分が誰よりも責めと恥を引き受ける、という趣旨だった。

これは、この事件で唯一の、判事による公的な謝罪である。

シューオールはその後、生涯にわたって毎年一日を断食と悔悛にあてたと伝えられる。そして一七〇〇年、彼は北米で最初期の奴隷制反対の小冊子「ヨセフの売却」を書いた。自由は生命に次いで価値があり、誰もそれを自ら手放すことも、他人から奪うこともできない、と彼は書いた。彼が一六九二年に何を見たかを思えば、この文章の重みは違って読める。

同じ日、この裁判の陪審員十二人も、連名で誤りを認める文書を出している。自分たちは暗闇の中にあり、悪魔の力を理解できず、無実の血を招く判断をしてしまった、と。

牧師サミュエル・パリスも一六九四年に「和解のための省察」という文書を出して、自分の関与を部分的に詫びた。だが村人は納得しなかった。彼は一六九六年に辞任し、村を去った。

一七〇六年、告発者が会衆の前に立った

そして一七〇六年八月二十五日、アン・パトナム・ジュニアが教会の会衆の前に立った。

彼女は一六九二年に十二歳で、最も多くの人間を告発した少女の一人だった。彼女の証言はレベッカ・ナースを、マーサ・コーリーを、ジョージ・バロウズを死へ運ぶ材料になった。両親はすでに亡く、彼女は幼い弟妹を抱えて暮らしていた。

告白文は牧師が読み上げ、彼女は立っていた。文面はこうだ。自分は一六九二年、まだ幼かった頃、神の摂理により、多くの人が魔術のかどで告発され処刑される道具として使われた。今、そのことを深く悔いる。自分は悪意からではなく、サタンに欺かれたのだと信じたい。とりわけレベッカ・ナースとその姉妹たちに対して犯した罪を、心から悔いる。無実の血を流す原因となったことについて、神と、傷つけたすべての人々の赦しを乞う。

この文章の評価は、今も割れる。悪意はなかった、サタンに欺かれたのだ、という言い方は責任の回避ではないか。他の告発者は誰一人謝っていないのだから、これでも例外的に立派ではないか。両方とも、たぶん正しい。

一つだけ確かなことがある。彼女は教会員になるためにこの告白をした。つまり、この共同体で生きていくためには、これを言わなければならないという空気が、十四年かけてようやく生まれていた。空気は変わったのだ。遅すぎたけれど。

アン・パトナム・ジュニアは一七一五年、三十七歳前後で死んだ。生涯独身だった。

名誉回復に三百三十年かかった

法的な後始末は、気が遠くなるほど長引いた。

一七一一年十月、植民地議会が私権剥奪の取り消しを可決し、二十二人の名誉が回復された。同年十二月には五百七十八ポンド十二シリングの賠償が遺族に配分されている。だが、この措置は請願を出した家族の分しかカバーしていない。声を上げなかった家、声を上げられなかった家は、そのまま残された。ブリジット・ビショップやスザンナ・マーティンらの名は、このとき回復されなかった。

一九五七年、マサチューセッツ州議会が追加の決議を出す。きっかけは、アン・プーデイターの子孫が州に働きかけたことだった。ただしこの決議も詰めが甘く、名前を個別に列挙せず「アン・プーデイターおよび他の者」という書き方で済ませてしまった。

二〇〇一年十月三十一日、当時のジェーン・スウィフト知事が署名した法案で、残っていたブリジット・ビショップ、スザンナ・マーティン、アリス・パーカー、ウィルモット・レッド、マーガレット・スコットの名が明記され、正式に無実とされた。三百九年後である。

そして最後の一人が残っていた。エリザベス・ジョンソン・ジュニア。

アンドーヴァーの女性で、一六九二年当時二十二歳。自白して有罪判決を受けたが、フィップスの猶予で処刑を免れた。彼女の一族からは二十八人が告発されている。祖父は彼女を「少し足りない」と評していた記録があり、知的障害があった可能性が指摘されている。彼女は結婚せず、子を残さなかった。

子孫がいないということは、請願を出す人間がいないということだ。しかも母親が同姓同名だったため、記録上の混乱もあった。だから彼女だけが、一七一一年にも、一九五七年にも、二〇〇一年にも、取り残された。

二〇一九年、ノース・アンドーヴァーの中学校で公民科を教えるキャリー・ラピエールが、この話を八年生の授業で取り上げた。生徒たちは調べ、法案の文面を書き、議員に手紙を出し、資料をまとめ、州上院議員ダイアナ・ディゾグリオに直接プレゼンした。

そして二〇二二年、チャーリー・ベイカー知事が署名した州予算にこの条項が組み込まれ、エリザベス・ジョンソン・ジュニアは正式に無実となった。有罪判決から三百二十九年。

十四歳の子どもたちが、三百年前の二十二歳の女性の名前を取り戻した。この事件の最後の一行としては、悪くない。

この四つの日付の間隔を見ると、修復という作業がいかに気長で、いかに気まぐれかがよくわかる。一七一一年に回復されたのは、請願を出した家族の分だけだった。声を上げられる遺族がいる者だけが救われた。一九五七年は子孫の働きかけがきっかけで、しかも名前の列挙を怠った。二〇〇一年にようやく五人の名が明記された。そして二〇二二年、子孫のいない一人が、赤の他人の中学生たちによって取り戻された。

この最後の一段が、私にはいちばん大事に思える。それまでの名誉回復は、すべて血縁が動かした。子孫が請願し、家系が声を上げた。エリザベス・ジョンソン・ジュニアには、それがなかった。だから三百年放置された。

彼女を救ったのは、彼女と何の関係もない子どもたちだった。歴史の間違いを正す動機が、血縁から公共に移ったということだ。それは、この事件が「ある一族の悲劇」から「社会全体が引き受ける記録」に変わったことを意味する。

なぜサレムだけが、これほど詳しくわかるのか

ここで史料の話をしておきたい。

ヨーロッパでは、十五世紀から十八世紀にかけて数万人が魔女として処刑されている。規模で言えばサレムは小さい。それなのにサレムが世界の魔女裁判の代名詞になっているのは、ひとえに記録のせいだ。

残っているものを挙げると、まず司法文書がある。告発の申し立て、逮捕状、予備審問の速記録、証言の供述書、大陪審の起訴状、死刑執行令状。当時のマサチューセッツは書記を置いて審問の内容を書き取らせており、しかもその紙束が焼けも捨てられもせずに残った。

次に、当事者による同時代の記述がある。牧師デオダット・ローソンは三月から四月にかけてサレム・ヴィレッジに滞在し、少女たちの発作や審問の様子を目撃して短い報告を出した。判事サミュエル・シューオールは克明な日記をつけていた。コットン・マザーは擁護の本を書き、ロバート・カレフは批判の本を書いた。牧師ジョン・ヘイルは事件に加担したあとで悔い、一六九七年に自省的な記録を残した。賛成派と反対派の両方が、同じ出来事について書いている。

さらに教会記録、村の集会の議事録、土地台帳、税の記録、家系の記録がある。だから研究者は「誰が誰を告発したか」を、「誰と誰が土地でもめていたか」「誰が誰の教会で会員だったか」と突き合わせることができる。

十九世紀のチャールズ・アップハムが最初の本格的な資料整理をやり、二十世紀にはボイヤーとニッセンバウムが文書集成を編み、二十一世紀にはバーナード・ローゼンタールを中心とするチームが記録の校訂版を完成させた。デジタル化も進み、原文の綴りのまま読める。

つまりサレムは、集団狂気の標本として、たまたま完璧な保存状態でホルマリン漬けになった。だから議論が終わらない。

しかも、この事件が世界的な象徴になった理由は、記録の完備だけではないと思う。もう一つある。この事件は極めて短期間に、明確な始まりと明確な終わりを持ち、そして当事者自身によって公式に誤りと認定された。

ヨーロッパの魔女狩りの多くは、だらだらと数十年続き、静かに下火になり、誰も謝らなかった。サレムは違う。九か月で燃え尽き、五年後に植民地が公式に断食日を定めて詫び、判事の一人が教会で立ち上がり、告発者が十四年後に会衆の前で赦しを乞うた。

集団的な誤りと、その公式の認定が、両方とも記録に残っている。だから教材として機能する。他人事にしにくい。

説その一、麦角菌が犯人だったのではないか

一九七六年、心理学者リンダ・カポラエルが科学誌に論文を発表した。少女たちの発作は麦角中毒だったのではないか、という説である。

麦角は、ライ麦などの穀物に生えるカビの一種で、リゼルグ酸系の化合物を含む。中世ヨーロッパでは麦角に汚染されたパンによる集団中毒が繰り返し起きていて、症状は二型に分かれる。壊疽型では四肢が黒く腐って脱落する。痙攣型では手足のひきつり、皮膚を這うような感覚、幻覚、精神錯乱が出る。

この痙攣型の症状は、確かにサレムの少女たちの記述と重なるところがある。しかも一六九一年から九二年にかけての気候は湿潤で、ライ麦は当時の主食穀物の一つで、湿地帯に接した農地がまさに告発者の集中した地域にあった。カポラエルはそこまで踏み込んで論じた。

この説は爆発的に流行した。理由は簡単で、わかりやすいからだ。悪いのはカビだった。人間の悪意ではなかった。誰も本気で誰かを憎んだわけではなかった。この結論は、我々を安心させてくれる。

だが反論のほうが、はるかに強い。

翌一九七六年のうちに、心理学者ニコラス・スパノスとジャック・ゴットリーブが同じ誌上で徹底的な反駁を出した。彼らの指摘はこうだ。痙攣型麦角中毒は、通常はビタミンの一種の欠乏と併発する形で現れ、しかも症状は嘔吐、下痢、そして持続的な筋の硬直を伴う。サレムの記録には、この種の消化器症状の記述がほとんどない。また痙攣型の患者は普通、数週間で回復するか死ぬかであって、都合よく法廷でだけ発作を起こしたりしない。

家庭単位の分布も説明できない。パリス牧師の家には大人四人と子ども四人がいた。同じ鍋の粥を食べていたはずだ。なのに発症したのは二人だけだった。カビの毒は、同じパンを食べた人間を選り好みしない。

地理も合わない。告発と発作はサレム・ヴィレッジから二十キロ以上離れたアンドーヴァーへ広がり、そちらのほうが件数は多くなった。汚染された特定の畑の穀物が、そんなふうに飛び火するはずがない。

年齢と性別の偏りも説明できない。発作を起こしたのはほぼ全員が若い女性だった。麦角に性別の好みはない。

そして決定的なのは、当時の証言に「演技していた」という記述が複数残っていることだ。ある証人は、苦しむ側の一人が面白半分でやっていると口にするのを聞いたと供述している。別の証言では、発作が止まった直後に少女が普通に会話していたと述べられている。中毒は演技をやめられない。

だから今日、専門の歴史家で麦角説を支持する者はほとんどいない。それでもこの説は一般向けの記事に生き残っている。単純明快な説明は、正しさとは無関係に強い。

説その二、土地と派閥の争いだったのではないか

一九七四年、ポール・ボイヤーとスティーヴン・ニッセンバウムが「取り憑かれたサレム」を出した。魔女裁判研究を一変させた本である。

彼らの議論はこうだ。サレム・ヴィレッジは二つに割れていた。西側の内陸に住み、農業に依存し、サレム・タウンからの独立を求め、牧師パリスを支持したパトナム派。東側の町寄りに住み、商業経済に組み込まれ、パリスに批判的だったポーター派。この分裂は牧師の給料をめぐる争いとして表面化し、村の集会は何年も機能不全に陥っていた。

そこで彼らは、告発者と被告発者の住所を地図に落とした。すると、告発者は西側に、被告発者は東側に偏る傾向が出た。つまり魔女告発は、経済的に追い詰められた農業層による、豊かになりつつある商業層への攻撃だった。パトナム家の人間が告発の中心にいたのは偶然ではない。彼らは実際に、土地相続をめぐる訴訟で負け続けていた一族だった。

この読みは強力だ。サラ・オズボーンの遺産争いの相手はパトナム家だった。ジョージ・バロウズの借金の債権者もパトナム家だった。トマス・パトナムは、二十件近い告発文書に署名している。娘のアン・パトナム・ジュニアと妻のアン・シニアが、家の敵を次々に名指ししていく。これを偶然と呼ぶのは無理がある。

だが、この説にも穴がある。

第一に、範囲だ。この事件はサレム・ヴィレッジで終わらなかった。アンドーヴァー、トップスフィールド、グロスター、ボストンまで広がり、被告発者の総数で言えばサレム・ヴィレッジ在住者は少数派になる。パトナム派とポーター派の喧嘩は、アンドーヴァーの四十人以上の告発を一ミリも説明しない。

第二に、地図そのものへの疑問がある。研究者ベンジャミン・レイは後年、ボイヤーとニッセンバウムが使った地図と住所比定を再検証し、彼らが描いた東西の分布は史料の裏づけが弱いと指摘した。位置の特定を厳密にやり直すと、きれいな二分割は崩れる。

第三に、宗教とジェンダーが抜け落ちている。なぜ被告の圧倒的多数が女性だったのか。なぜ人々は本気で悪魔の実在を信じていたのか。経済決定論はここに答えを持たない。歴史家の中には、この本は動機のすべてを財布に還元してしまったと批判する者もいる。

それでも、この本の功績は消えない。魔女裁判を「迷信の暴走」ではなく「共同体の構造が生む現象」として見る視点は、ここから始まった。

説その三、集団ヒステリーと心因性の発作

心理学寄りの説明もある。少女たちの症状は、今日でいう転換性障害、あるいは集団心因性疾患だったという見方だ。

強いストレス下で、身体的な原因がないのに神経学的な症状が出る。痙攣、失声、麻痺、視覚異常。そしてそれは伝染する。閉鎖された集団の中で、誰か一人が倒れると、次々に同じ症状が出る。学校や工場での集団発症の事例は、現代にも数え切れないほど報告されている。

サレムの条件は、この説明にかなり適合する。少女たちは長時間労働と厳格な宗教規律の下にあり、性的にも社会的にも表現の出口がなく、多くが戦争で家族を失った孤児や奉公人だった。マーシー・ルイスはメインでの襲撃で家族を失っている。エリザベス・ハバードは叔父の家に引き取られた身寄りのない娘だった。彼女らにとって「苦しむ者」の役割は、生まれて初めて手にした社会的な力だった。大人が耳を傾け、判事が意見を求め、有力者が名前を尋ねる。

反論もある。集団心因説は、発作の発生は説明できても、告発の選択を説明できない。なぜ苦しむ少女たちは、よりによって家の敵の名前を挙げたのか。なぜ告発のタイミングが、法廷の需要と絶妙に一致していたのか。無意識の症状というには、あまりに戦略的な場面がある。

さらに、記録には明確な演技の痕跡がある。針を服に隠していた者がいた。発作の直前に隣の少女に耳打ちしていた場面が証言されている。誰を指すべきか大人が示唆していたという目撃談もある。

だから現在の主流は、二者択一を採らない。本物の心因性症状と、意識的な誇張と、大人による誘導が、層になって重なっていたと見る。最初の数人は本当に苦しんでいた。途中から加わった者の一部は、確実に演じていた。そして観客席の大人たちは、その両方を等しく真実として受け取った。

説その四、辺境戦争のトラウマが噴き出した

二〇〇二年、歴史家メアリー・ベス・ノートンが「悪魔の罠のなかで」を発表した。この本は、サレムを内政ではなく戦争の文脈に置き直した。

ノートンの論はこうだ。一六八九年から続く辺境戦争は、ニューイングランド北部を壊滅させていた。メインとニューハンプシャーの入植地が次々に焼かれ、住民は殺されるか捕虜になるかした。生き残りは南へ逃げ、エセックス郡の町々に流れ込んだ。一六九二年一月末のヨーク襲撃の報は、まさにパリス家の少女たちが発作を起こした時期にサレムへ届いている。

そしてノートンは、告発の中心にいた人物たちの経歴を洗い直した。マーシー・ルイス、スザンナ・シェルドン、サラ・チャーチルら、主要な告発者の多くが辺境からの難民か、辺境で家族を失った者だった。彼女らが法廷で語る幻視には、しばしば辺境の襲撃を思わせる映像が混じる。焼かれる家。血。武装した黒い姿。

なぜ「黒い男」の首領が、よりによってメインの牧師ジョージ・バロウズだったのか。彼は辺境の襲撃を何度も生き延びていた。人々の目には、それが不自然に映った。悪魔の軍勢と先住民の襲撃者は、当時の想像力の中で重なり合っていた。実際、告発された者の中には、悪魔はメインの森で自分を勧誘したと述べた者がいる。

さらにノートンは、判事たちの立場に注目する。オイヤー・アンド・ターミナー法廷の判事の何人かは、辺境防衛の失敗に責任を負う立場にあった。植民地の防衛に失敗し、住民を守れなかった男たちが、内なる敵を摘発することで挽回しようとした。そう読むと、彼らの異様な熱意に説明がつく。

反論も当然ある。戦争と魔女狩りの相関は、時期的に完全ではない。辺境戦争は一六八九年から続いていたのに、なぜ一六九二年の冬に爆発したのか。また、辺境と縁のない告発者も告発対象も大量にいる。ノートンの読みは説得力があるが、個々の告発の因果を追うには粗い、という批判がある。

それでも、この本以降、サレムを「田舎の村の内輪もめ」としてだけ語るのは難しくなった。

説その五、女と財産をめぐる構造

一九八七年、歴史家キャロル・カールセンが「女の姿をした悪魔」を出した。彼女は、告発された女性たちの財産関係に注目した。

ニューイングランドの魔女容疑者には、はっきりした偏りがある。中年以上の女性。息子のいない女性。相続によって土地を受け取る立場にある女性。つまり、男系の財産継承の流れから逸脱してしまった女たちだ。

ピューリタン社会の財産は、原則として父から息子へ流れる。ところが息子が死ぬ、あるいは生まれないと、その流れが止まる。財産は娘や妻の手に落ちる。すると彼女は、本来なら別の男に行くはずだった資産を握ることになる。その瞬間、彼女は共同体の構造にとっての異物になる。

サレムの被告を並べると、確かにこの型に当てはまる人が多い。サラ・オズボーンは亡夫の遺産をめぐって係争中だった。ブリジット・ビショップは二人の夫を見送って財産を持っていた。マーサ・コーリーには婚外子がいた。レベッカ・ナースの一族は土地紛争を抱えていた。

この説の強みは、なぜ被告の八割近くが女性だったのかという問いに、真正面から答えている点だ。心理でも経済でもなく、相続制度という具体的な仕組みを指している。

反論としては、こう言われる。財産型に当てはまらない被告も大量にいる。サラ・グッドは何も持っていない物乞いだった。ドロシー・グッドは四歳だ。処刑された者の中には男性も六人いる。相続構造は「誰が疑われやすいか」の説明にはなるが、「なぜ一六九二年に、この規模で爆発したか」の説明にはならない。

説その六、身も蓋もないが、これは詐病だった

バーナード・ローゼンタールは一九九三年の「サレム・ストーリー」で、もっと不愉快な可能性を突きつけた。少女たちの相当部分は、意識的に嘘をついていた、という読みだ。

彼が並べる証拠は具体的だ。ある法廷で、少女が刺されたと訴えて折れた針を差し出したが、その針が直前に別の人物のものだと判明した場面がある。発作の記述が、日を追うごとに定型化していく様子も指摘される。最初はばらばらだった症状が、法廷で「効く」型に収斂していく。学習しているのだ。

そして、告発の対象選択には明確な自己防衛の論理が見える。自分を疑いはじめた人間が、次の標的になる。メアリー・ウォレンは告発者から被告に転落しかけ、慌てて告発者側に戻った。自白した者が次の名前を出す。これは無意識ではなく、生存の計算だ。

ローゼンタールの読みへの反論は、動機の弱さだ。九歳と十一歳の子どもが、二十人を殺すために計画的に嘘をつき通したというのは無理がある。最初の発作は、たぶん本物だった。そして詐病説は、大人たちの責任を軽く見せてしまう。少女が何を言おうと、それを法廷に持ち込み、証拠として採用し、絞首刑を宣告したのは大人の判事たちだ。誰かが嘘をついたことより、その嘘を制度が真に受けたことのほうが、はるかに大きな問題である。

この事件を「昔の人は迷信深かった」で片づけたくなる誘惑

ここで一度、読み方の話をさせてほしい。いちばん危ない読み方がある。

一六九二年のサレムに関わった人々は、当時の基準で言えば教育水準が異様に高い。ハーヴァードは一六三六年に創立されていて、判事や牧師の多くはそこの出身だ。ピューリタンは識字率の高い集団で、聖書を各自が読むことを求めた。法の手続きにも意識的だった。彼らはイングランドの法律書を持っていたし、証拠のあり方について議論もしていた。

つまり、これは無知な農民の暴走ではない。植民地のエリート層が、当時の最良の知的装備を使って、真剣に、丁寧に、二十人を殺した事件だ。

そこが怖い。真剣さは誤りへの防御にならない。丁寧さも防御にならない。前提が一つ狂っていると、その上に積まれた論理が緻密であればあるほど、結論は遠くまで運ばれる。

ホーソーンの尋問記録を読むと、彼は本当にきちんと質問している。順序立てて、論点を押さえて、矛盾を突いている。ただ、最初の前提が「この人は有罪である」だっただけだ。

少女たちは加害者だったのか

現代の読者は、しばしばこの事件を「悪い少女たちが善良な大人を殺した話」として読む。アーサー・ミラーの戯曲の影響が大きい。あの作品では、アビゲイル・ウィリアムズが計算高い加害者として描かれる。

だが史料を読むかぎり、この構図は成り立たない。

まず、告発者の多くは社会的に最底辺に近かった。マーシー・ルイスは辺境の襲撃で家族を失い、奉公人としてパトナム家にいた。エリザベス・ハバードは親戚の家に引き取られた孤児で、無給の働き手だった。メアリー・ウォレンはプロクター家の使用人だった。サラ・チャーチルも似た境遇だ。彼女たちは財産も後ろ盾も将来もない、十代の女中である。

そういう人間が突然、村でいちばん発言を聞かれる存在になった。判事が身を乗り出す。牧師が意見を求める。有力者が名前を尋ねてくる。この経験が持つ引力は、想像を絶する。

そしてここが効いてくるのだが、彼女たちは一度その役割に入ったら、降りられなかった。発作が嘘だったと認めれば、それまで指さした人々を殺した責任が全部自分に降ってくる。

メアリー・ウォレンが実際にそれをやりかけた。彼女は四月に、あの子たちは嘘をついていると言いはじめた。すると即座に、彼女自身が告発された。牢に入れられ、拷問に近い扱いを受け、そして告発者側に戻った。以後、彼女は誰よりも激しく発作を起こすようになる。

これは道徳の問題というより、罠の問題だ。降りる出口が塞がれている限り、人は走り続ける。

そして、大人たちの役割

もっと厳しく見ておきたい人物がいる。トマス・パトナムだ。アン・パトナム・ジュニアの父である。

彼はこの事件で少なくとも十数件の正式な告発文書に署名し、供述書を書き、法廷に持ち込んでいる。娘と妻と、家の奉公人が発作を起こし、彼がそれを法的な文書に翻訳した。

十二歳の子どもが「あの人の霊が見えた」と言うのと、四十歳の家長がそれを宣誓供述書に整えて治安判事に提出するのとでは、行為の重みがまったく違う。前者は子どもの言葉だ。後者は法的手続きの起動である。

そして彼には動機があった。相続争いで負けていた。実家の財産をめぐって義理の兄弟と法廷で争い、敗れていた。村の権力構造の中で、パトナム家は緩やかに転落していく側にいた。オズボーン家との係争、バロウズへの貸金、トップスフィールドとの境界紛争。彼が告発に関わった人物のリストは、彼の家が争ってきた相手のリストと不気味なほど重なる。

これを完全な陰謀と呼ぶのは行き過ぎだと思う。彼はおそらく本気で悪魔を信じていた。だが、本気で信じている人間の目には、自分が憎む相手の悪意がいちばんよく見える。信念と利害は、多くの場合、対立しない。仲良く手を組む。

獄費という、静かな殺人装置

私がこの事件を調べていていちばん引っかかったのは、実は獄費の話だった。

十七世紀のマサチューセッツでは、投獄された人間は自分の食費と宿泊費を自分で払う。これは当時の制度としてはごく普通だった。だがサレムの文脈では、これが恐ろしい意味を持つ。

無実の人間が、無実だと証明されても、金がなければ牢から出られない。リディア・ダスティンは一六九三年一月に無罪判決を受け、そのまま牢に留め置かれ、三月十日に死んだ。彼女を殺したのは魔女裁判ではない。無罪判決後の請求書である。

同じ理由で、多くの家族が経済的に破滅した。夫が牢に入れば、その間の農作業は止まる。家畜は売り払われる。土地は差し押さえられる。処刑されなかった人々も、財産を失い、共同体での立場を失い、隣人に告発された記憶とともに残りの人生を生きた。

一七一一年の五百七十八ポンドという賠償額は、失われたものに対して笑ってしまうほど少ない。しかも請願した家族にしか支払われていない。

制度の暴力は、判決の瞬間だけに現れるのではない。判決の前と後に、事務的な形で、静かに大量に降り積もる。これは現代の刑事司法についても、まったく同じことが言える。

反対した人は、ちゃんといた

この事件を「誰も反対しなかった集団狂気」として語るのは、事実に反する。反対した人はいた。しかも、けっこういた。

判事ナサニエル・ソルトンストールは、最初の処刑のあとに辞任した。レベッカ・ナースのために三十九人が署名した。ジョン・プロクターとエリザベス・プロクターのために三十一人が署名した。メアリー・イースティは獄中から手続き改善の嘆願書を書いた。アンドーヴァーの治安判事ダドリー・ブラッドストリートは署名を拒み、老牧師フランシス・ダンは公然と疑義を唱えた。商人トマス・ブラッタルは十月に、法廷の論理を解剖する書簡を書いた。自白した者たちの一部は、命がけで撤回の請願を出した。

彼らはみな、代償を払った。ソルトンストールは告発の噂に苦しんだ。ブラッドストリート夫妻は告発されて町を逃げた。ダンの周囲の女たちは次々に牢に入った。署名者の何人かは、自分が次の標的になるリスクを承知で名前を書いた。

だから正確に言うなら、これは「誰も反対しなかった事件」ではない。「反対の声が、制度を止めるには足りなかった事件」だ。

この違いは大きい。前者なら教訓は「勇気を持て」で済む。後者の教訓はもっと厄介で、個人の勇気だけでは足りない、止めるための仕組みが要る、ということになる。

一人の物語――レベッカ・ナース

一六二一年、イングランドのノーフォークに生まれた。夫フランシスとともにサレム・ヴィレッジで農場を営み、八人の子を育てた。教会に通い、近所づきあいに慎ましく、村の誰もが認める善良な老女だった。一六九二年三月、七十一歳。

彼女は病床にいた。逮捕の知らせが来たとき、彼女は起き上がれず、こう言ったと記録されている。私はこの三日間、体を起こすこともできずにいました。私は生まれざる子と同じく潔白です。

法廷での彼女は、ほとんど反論らしい反論をしていない。耳が遠く、質問の半分は聞き取れなかった。少女たちが床を転げ回るたび、彼女は両手を上げ、天を見て、こう繰り返した。神よ、私を助けてください。

村人三十九人が嘆願書に署名した。息子と娘たちは、少女たちの言動の矛盾を集めた文書を提出した。ある証人は、彼女の霊が現れたという主張がどれほど不自然かを具体的に指摘した。これは組織的な弁護だった。この時代のこの状況で、これだけの人数が魔女容疑者のために署名するというのは、想像を絶する勇気の集合である。

そして陪審は、一度は無罪を出した。この事件で唯一、法廷が正気に戻りかけた瞬間だった。

それを首席判事が一言でひっくり返した。彼女の耳が遠かったせいで、決定的な問いへの返事が返ってこなかった。沈黙が有罪の証拠になった。

七月三日、彼女は教会の会衆の前で破門された。ピューリタンにとって破門は、地上の共同体からの追放であると同時に、永遠の救いからの除名を意味する。七十一歳の女が、集まった隣人たちの前でそれを宣告された。

七月十九日、彼女は吊るされた。遺体は他の四人とともに岩の間に投げ込まれた。家族が夜に掘り返して連れ帰ったという言い伝えは、今もダンヴァースの旧ナース農場の敷地に残る記念碑とともに語られている。

一七一二年、彼女の破門は教会によって正式に取り消された。二十年かかった。

一人の物語――マーサとジャイルズ・コーリー

夫婦で殺された例は、この事件に何組かある。だがコーリー夫妻ほど象徴的な組み合わせはない。

マーサは村の教会の正式会員だった。信心深く、聖書をよく読み、そして頭が回った。彼女は少女たちの発作を最初から信じていなかった。近所の人間に向かって、あの子らの言うことに耳を貸すなと言った。夫が審問を見物に行こうとしたとき、馬に乗せまいと鞍を隠したという話まで残っている。

疑った女が、真っ先に狙われた。一六九二年三月十九日、アン・パトナム・ジュニアが彼女の名を挙げる。三月二十一日の審問で、彼女は堂々と反論した。魔女など信じていない、と法廷で言い切った。

それは自殺行為だった。魔女の実在を疑うことは、当時の枠組みの中では、悪魔の側に立つことと区別がつかなかったからだ。

夫のジャイルズは、最初は妻を守らなかった。それどころか、彼女が夜中に不審な様子だったという趣旨の証言をしている。祈ろうとしたら口が動かなかった、といった曖昧な話だ。おそらく彼は、素朴に、正直に、見たままを述べた。そしてそれが妻を追い詰めた。

そのジャイルズ自身が、四月に告発された。彼はここで態度を変える。一切、法廷に協力しなかった。答弁を拒み、板と石の下で二日耐え、二語だけを残して死んだ。

彼が本当に何を考えていたのか、記録は教えてくれない。財産を守るためだったのかもしれない。妻を売った自分への罰だったのかもしれない。あるいはただ、あの法廷にひとかけらの正当性も認めたくなかったのかもしれない。

九月十九日に夫が死に、九月二十二日に妻が吊るされた。三日違いである。マーサは処刑台で祈りを唱え、その祈りは見ていた者の記憶に残った。

そして皮肉なことに、この二人を殺した法廷は、その一か月後に解散した。あと五週間、どちらかが持ちこたえていれば、二人とも生きていた。

一人の物語――メアリー・イースティの嘆願書

メアリー・イースティは、レベッカ・ナースの妹だった。トウン家の三姉妹のうち、二人が処刑され、一人が生き延びた。

彼女は四月に逮捕された。審問での彼女は落ち着いていて、その落ち着きが逆に判事を戸惑わせた。ホーソーンは少女たちに向かって、本当にこの女だと確信できるのかと問い直したという記録がある。彼が確信を疑った、数少ない場面だ。

そして驚くべきことに、彼女は五月十八日に釈放された。二か月の投獄のあと、家に帰された。

二日後、マーシー・ルイスが激しい発作を起こし、イースティの霊が戻ってきて自分を苦しめると訴えた。他の少女たちも同調した。新たな逮捕状が出て、彼女はベッドから引き立てられた。

彼女は自分の運命を理解していた。そして獄中で、法廷と判事たちに宛てた嘆願書を書いた。

その文書には、こう書かれている。自分の命のために願うのではない。自分が死ななければならないことはわかっている。だが、これ以上、無辜の血が流されないようにしていただきたい。主はご存じである。もし彼らが自らの過ちを悟るのでなければ、この地で流れる血は止まらないだろう。

さらに彼女は、具体的な提案までしている。自白した者たちを個別に、他の者から隔離して、しばらく置いてから聴取してほしい。彼らは死の恐怖から嘘を言っているかもしれない。そして自分は、他の誰かの命を救えるならば、自分の命を差し出すことをためらわない、と書いた。

死刑囚が、自分の裁判の手続き改善案を書いて裁判所に提出したのである。しかも自分のためではなく、後続の被告のために。

九月二十二日、彼女は吊るされた。ロバート・カレフによれば、彼女が夫と子どもたちに別れを告げた言葉は、その場にいた者すべての涙を誘うほど深く、真剣で、キリスト者らしいものだったという。

彼女の嘆願書は、法廷の記録の中に残された。読まれた形跡はある。動いた形跡はない。だが三百年後、この事件について書かれるあらゆる文章に、この文書は引用され続けている。

一人の物語――ティチューバのその後

最後にもう一人、記録が途切れる人の話をしたい。

ティチューバは、この事件の点火装置だった。彼女の自白がなければ、話は三人の変わり者の逮捕で終わっていた可能性が高い。だが彼女は、身を守るために語り、語ることで火薬庫に火をつけた。

彼女の立場を想像してみる。奴隷である。主人は彼女を殴った。周りに味方はいない。法廷は最初から彼女を魔女だと決めている。否定すれば殴られ、吊るされるかもしれない。認めれば、少なくとも今日は生き延びられる。この選択肢の中で、彼女は語ることを選んだ。

しかも彼女が語ったのは、ただの「はい、私は魔女です」ではなかった。黄色い小鳥。赤い猫と黒い猫。豚に化けた獣。空を飛ぶ棒。九つの署名が入った帳面。彼女はほとんど即興で、一つの完成した神話体系を作り上げた。判事たちが求めていた物語を、彼女は正確に読み取り、それを上回る解像度で返した。

これは知性の産物である。生き延びるための、極めて高度な知性の。

そして彼女は生き延びた。処刑されなかった。だが自由も手に入らなかった。彼女は裁判が終わるまで牢にいた。パリスは彼女の獄費を払うことを拒んだ。理由は簡単で、彼女がその後の裁判で証言を撤回し、自白は主人に殴られて強要されたものだと述べたからだ。主人を売った奴隷に、主人は金を出さなかった。

一六九三年、彼女は誰かに獄費を肩代わりされ、その人物の所有物になった。そこで記録は終わる。どこへ行ったのか、いつ死んだのか、わからない。

この事件の被害者は、名誉を回復された。一七一一年に、一九五七年に、二〇〇一年に、二〇二二年に。だが名誉回復の対象になるのは、有罪判決を受けた者たちだ。ティチューバは正式な有罪判決を受けていない。だから彼女の名は、どのリストにも載っていない。

火をつけた人であり、最初に燃やされた人でもある。彼女の不在は、この事件の記憶の仕方そのものを問うている。

赤狩りと「るつぼ」――サレムが二十世紀に蘇った

サレムが二十世紀に蘇ったのは、一九五三年である。

劇作家アーサー・ミラーが戯曲「るつぼ」を書いた。舞台は一六九二年のサレム。だが誰もがこれが何の話かわかっていた。当時アメリカでは、下院非米活動委員会と上院の調査が吹き荒れ、共産主義者の摘発が進んでいた。名前を挙げれば助かる。挙げなければ職を失う。挙げられた者はまた名前を出す。

ミラーはこの構造の同型性に気づいた。魔女狩りとは、証明不可能な内心の罪を追及し、自白と密告だけを証拠として受け入れる手続きのことだ。中身が悪魔崇拝であろうと共産主義であろうと、機械は同じように回る。

ミラー自身、一九五六年に委員会に召喚された。彼は自分のことは話すが、他人の名は挙げないと述べ、議会侮辱罪に問われた。判決はのちに覆された。彼は自分の戯曲の登場人物と同じ選択を、現実で迫られたわけだ。

「るつぼ」は史実そのものではない。ミラーはジョン・プロクターの年齢を大幅に下げ、アビゲイル・ウィリアムズの年齢を上げ、二人の間に不倫関係を設定した。史料にそんな根拠はない。歴史家はこの脚色を苦々しく思っている。何しろ、多くの人がこの戯曲でサレムを知るからだ。

だが戯曲としては、あれは正しい。事実の再現ではなく、機構の再現をやったからだ。

「魔女狩り」という言葉が、今日これほど日常語になっているのは、ほぼこの戯曲のおかげである。同時に、この言葉が濫用されてもいる。都合の悪い追及をすべて「魔女狩り」と呼ぶ用法が定着した結果、本来の意味、つまり証拠なしに内心を裁く手続きの異常さが、薄まってしまった面もある。

現代のサレムは、魔女で食っている

これは皮肉でも非難でもなく、単なる事実だ。

市の愛称は「ウィッチ・シティ」。パトカーには箒にまたがった魔女のマークが入っている。公立小学校の一つは「ウィッチクラフト・ハイツ」という名前で、高校の運動部の呼称は「ウィッチーズ」だ。

十月になると、この人口四万人台の街に、桁違いの人間が押し寄せる。ハロウィンに向けた「ホーンテッド・ハプニングス」という祭りが一か月続き、ピークには百万人規模の来訪者があるとされる。占いの店、幽霊ツアー、魔女博物館、ろう人形館、土産物屋。飲食と宿泊と小売が潤い、市の財政もこれに依存している。

一方で、この街には本物の記念碑もある。

一九九二年、三百年を機に処刑された二十人を悼む記念碑が造られた。石のベンチが石壁に並び、それぞれに名前と処刑の日付と処刑法が刻まれている。壁の敷石には、被告たちが法廷で口にした無実の訴えの言葉が刻まれ、その文字は途中で壁の下に消え込むように配置されている。誰にも最後まで聞いてもらえなかったことを、石で表現している。

二〇一六年、研究チームが史料と地形と地質の照合によって、処刑地はギャロウズ・ヒルの頂上ではなく麓のプロクターズ・レッジであることを確定させた。翌二〇一七年、その場所に慎ましい記念碑が建てられた。周囲はごく普通の住宅街である。裏庭のすぐ向こうに、十九人が死んだ岩棚がある。

批判は当然ある。二十人が殺された事件で商売をしていいのか。魔女の帽子とプラスチックの箒を売る店の三百メートル先に、殺された人の名を刻んだ石がある。この落差をどう考えるのか。被害者の子孫の中には、街の扱いに強い不快感を表明してきた人たちがいる。歴史家も、観光が広める「魔女のイメージ」が、実際に起きたことから人々の目を逸らしていると指摘してきた。隣人が隣人を告発し、法廷が証拠のない話を採用し、老人と子どもが牢で朽ちた。それが実際に起きたことだ。

一方で、こうも言える。観光がなければ、この街の史跡の多くは維持できなかった。裁判記録の保存も、教育プログラムも、記念碑の建設も、金が要る。そして毎年百万人が、たとえ仮装しに来たのだとしても、この事件の名前だけは持ち帰る。

どちらが正しいという話ではない。歴史の悲劇を、その現場に住み続ける人々がどう抱えるのか。サレムはその難問の、たぶん世界で最も極端な実例だ。

結局、なぜ起きたのか

ここまで読んでくれた人には、もう答えが一つでないことがわかっているはずだ。

麦角のせいでもない。土地争いのせいだけでもない。戦争のせいだけでもない。少女が嘘をついたせいだけでもない。それぞれの説は、事件のある側面をよく照らし、別の側面を照らせない。

私の見方はこうだ。サレムでは、独立していれば無害だったはずの条件が、たまたま同時に、同じ場所で重なった。

信仰の側の条件がある。悪魔は実在し、この世で活動し、人間と契約を結ぶ。これは当時の常識だった。奇矯な信念ではない。ヨーロッパじゅうの大学人がそう考えていた。

法の側の条件がある。証拠として何を採るかについて、当時の法はまだ緩かった。そこに霊視証拠という、反証不可能な証拠形式が持ち込まれた。

制度の側の条件がある。合法的な政府が半年空白になり、容疑者だけが牢に溜まった。そこへ、経験の浅い総督が、神学者を首席判事に据えた臨時法廷を立てた。

共同体の側の条件がある。村は二つに割れ、牧師の給料でもめ、土地の境界でもめ、独立をめぐってもめていた。恨みの在庫がたっぷりあった。

外部の条件がある。北の辺境で戦争が続き、難民が流れ込み、恐怖と喪失が日常だった。誰かのせいにしたい圧力が、社会全体にかかっていた。

そして最後に、偶然の条件がある。牧師館の子どもが最初に倒れたこと。医者が「自然の病ではない」と言ったこと。誰かが魔女ケーキを焼いたこと。殴られた奴隷が、想像力豊かな作り話をしたこと。

どれか一つ欠けていたら、たぶん違う結末になっていた。歴史というのは大抵そういうものだ。

なぜ九か月も止まらなかったのか

だが、より重要な問いは「なぜ始まったか」ではなく「なぜ九か月も止まらなかったか」だと思う。

止まらなかった理由は、私の見るところ四つある。

一つ目は、反証を許さない証拠の設計だ。霊視証拠は、その性質上、否定できない。アリバイが通用しない。物証が要らない。証人は自分の見たものを語るだけでよく、被告にはそれを検証する手段がない。こういう証拠形式を一度受け入れてしまうと、システムは無罪判決を出す能力を失う。実際、霊視証拠を外した瞬間に、有罪率は九割から数パーセントに落ちた。

二つ目は、自白のインセンティブ設計だ。自白して他人を売れば生きられ、無実を主張すれば死ぬ。この設計の下では、告発が幾何級数的に増える。しかも自白は「魔女は実在する」という前提を毎回強化する。五十人が自白したという事実そのものが、法廷にとっては最大の証拠になった。誤りが自己を証明していく回路である。

三つ目は、疑う者が罰せられる構造だ。マーサ・コーリーは疑って告発された。ジョン・プロクターは発作を嘲笑して告発された。ダドリー・ブラッドストリートは署名を拒んで告発された。ジョン・アルデンは有力者だったが投獄された。反対意見を言うことのコストが、命に設定されていた。この設定の下では、どんなに賢い人間でも黙る。黙れば、システムは「反対意見が存在しない」という誤った信号を受け取る。

四つ目は、責任者に撤退の道がなかったことだ。六月に一人吊るした時点で、法廷はもう引き返せなくなっていた。間違いを認めることは、殺人を認めることになるからだ。七月に五人、八月に五人と積み上がるにつれ、撤退のコストは指数関数的に上がっていく。ストートンが最後まで謝らなかったのは、彼が特別に頑固だったからというより、謝れる地点をとうに通り過ぎていたからだ。

そして止まったのは、五つ目の条件が揃ったときだった。告発が、この装置を止められる立場の人間に届いたとき。総督夫人が名指しされ、有力商人が投獄され、そして権威ある神学者が「証拠の種類が間違っている」という、当事者にとって面子を保てる形の出口を差し出したとき。

インクリース・マザーの議論の巧みさは、そこにある。彼は「魔女はいない」と言わなかった。「悪魔はいない」とも言わなかった。彼が言ったのは、証拠の取り方が間違っている、ということだけだ。世界観は温存したまま、手続きだけを否定した。だから受け入れられた。

正しさは、しばしば、受け入れ可能な形に折り畳まれて初めて機能する。これは三百三十年たった今でも、そのまま使える教訓だと思う。

三百年前の田舎町の話、では済まない三点

サレムの教訓としてよく引かれるのは「集団に流されるな」とか「デマを信じるな」といった標語だ。悪くはないが、それでは足りないと思う。

この事件が本当に示しているのは、もっと具体的な三点だ。

第一に、反証不可能な証拠を制度に入れてはいけない。誰かの内心、誰かにしか見えないもの、否定できないもの。それを裁定の根拠にした瞬間、その制度は無罪を出す能力を失う。サレムは、この命題の実験結果を九割対数パーセントという数字で残してくれた。

第二に、自白のインセンティブ設計が結果を決める。嘘をつくほうが得になる仕組みを作れば、人は嘘をつく。それは倫理の問題ではなく設計の問題だ。五十人以上の自白は、彼らが不誠実だったからではなく、制度が誠実さを罰していたから生まれた。

第三に、異議を唱えるコストを下げておくこと。マーサ・コーリーが疑いを口にして殺され、メアリー・ウォレンが撤回しようとして牢に入れられた社会では、誰も本当のことを言えない。そして本当のことが言えない社会は、自分が間違っていることを自分で発見できない。誤りに気づく能力は、反対意見のコストに反比例する。

三百三十年前の田舎町の話だと思って読むと、これはただの怖い昔話だ。だがこの三点は、法廷にも、職場にも、学校にも、そしてネットの上にも、そのまま存在している。証明できないことで人を裁く場面。認めたほうが楽になる仕組み。異論を唱えた者が真っ先に叩かれる空気。

ジャイルズ・コーリーが石の下で言った二語は、たぶん抵抗の言葉だ。だがあの言葉が三百三十年も語り継がれているのは、それが格好いいからではない。彼が石を積まれた理由、つまり答弁を拒む人間に石を積むという手続きが、そこに用意されていたこと。そっちのほうが、実は本題だからだ。

制度は、悪意がなくても人を殺す。九か月あれば、二十人を。

それを丸ごと記録に残してくれたという一点において、サレムは今も、世界でいちばん役に立つ標本であり続けている。

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