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乙巳の変――蘇我入鹿暗殺の真相と中大兄皇子・中臣鎌足の陰謀

乙巳の変は、645年、飛鳥の宮中で蘇我入鹿が斬られた政変だ。中大兄皇子と中臣鎌足が計画し、その後の政治体制を大きく動かした事件として知られている。ただし、暗殺現場の細かな描写も、入鹿が殺された本当の理由も、現場で作られた記録からそのままわかるわけではない。事件の記録、後世の伝承、現代の解釈を分けて見ていこう。

『日本書紀』が描く暗殺の場面

『日本書紀』によれば、645年6月12日、飛鳥板蓋宮では三韓からの使者を迎える儀式が行われる予定だった。入鹿は警戒心が強く、普段は剣を手放さなかったが、この日は宮中へ入る前に剣を外されたという。宮の門は閉じられ、中大兄皇子と中臣鎌足の側は、入鹿が逃げられないよう準備していた。

実行役は佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田だったとされる。ところが二人は恐怖で動けず、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読む声も震えた。様子を不審に思った入鹿が理由を尋ねたところ、中大兄皇子が先に飛び出して斬りかかり、実行役も続いた。傷を負った入鹿は皇極天皇の前で、自分に何の罪があるのかと訴えたと記されている。

この場面は、人物の動きや会話まで細かい。ただ、乙巳の変から『日本書紀』の成立までは長い時間が空いている。『日本書紀』が完成したのは720年で、藤原氏側の家伝『藤氏家伝』も、事件を起こした側に近い立場の記録だ。臨場感のある文章だからといって、会話や動作のすべてを現場の速記のようには読めない。

事件後に確認できる政治の動き

入鹿が殺された翌日、父の蘇我蝦夷は甘樫丘の邸宅に火を放ち、自ら命を絶ったとされる。この火災で、蘇我氏が持っていた『天皇記』『国記』も失われたという。蘇我本宗家はここで大きな打撃を受け、事件を起こした側が新しい政治の中心へ移った。

皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が孝徳天皇として即位する。中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足も新政権の要職に就いた。さらに「大化」という元号が定められ、その後の政治改革へつながっていく。乙巳の変と大化の改新は同じ言葉のように扱われることもあるが、前者は宮中での暗殺と政変、後者はその後に進められた政治改革として分けたほうがわかりやすい。

ここから確実に言えるのは、入鹿の暗殺によって権力関係が大きく変わり、中大兄皇子と鎌足の側が新体制の中心へ入ったことだ。ただし、「最初から改革だけを目的に暗殺した」とまで断定できる材料は、今回確認した範囲では見当たらない。

なぜ入鹿は狙われたのか

『日本書紀』は、蘇我蝦夷・入鹿父子が皇室をしのぐほど力を持ち、皇位継承へ介入したことを、事件を正当化する理由として描く。入鹿が古人大兄皇子を次の天皇に据えようとしたという見方もあり、中大兄皇子にとって入鹿は、自分の立場を脅かす政敵だったと考えられている。

もう一つ挙げられるのが、643年の山背大兄王一族の滅亡だ。入鹿がこの襲撃を主導したとされ、皇族側に強い反発と恐怖を生んだという説明がある。乙巳の変を、山背大兄王一族への報復を含む政変として読む見方だ。

ほかにも、東アジア情勢を踏まえた外交・国防方針の対立、軽皇子や皇極天皇が背後にいたとする説などがある。しかし、これらは事件後の結果や限られた記述から動機を組み立てたものだ。皇極天皇や軽皇子を「黒幕」と決める直接の証拠までは確認されていない。

「蘇我氏は悪、皇子と鎌足は改革者」ときれいに分ける説明にも注意したい。蘇我氏は仏教受容や外交に関わった一族でもあり、入鹿を有能な政治家として見直す説もある。一方で、その評価を反転させるだけで暗殺の理由がわかるわけでもない。残った記録が事件の勝者に近い以上、書かれた内容の立場を意識しつつ、わからない部分は残しておく必要がある。

空を飛ぶ首は後世の伝承

入鹿の死には、強烈な怪談もまとわりついた。斬られた首が宙を飛び、御簾に食いついた。飛鳥寺や多武峰まで飛び、中臣鎌足を追った。そんな話が後世に語られている。

ただし、『日本書紀』本文に、入鹿の首が空を飛んだという記述はない。明日香村に残る蘇我入鹿首塚も、鎌倉時代後期から南北朝時代に造られたとされる五輪塔で、645年の墓だと直接確認されたものではない。史実の遺物というより、入鹿の死を記憶する場所として受け継がれてきたものだ。

多武峰で中大兄皇子と中臣鎌足が計画を話し合ったため「談山」と呼ばれるようになった、という談山神社の由来も伝承として残る。橿原市の入鹿神社では、入鹿本人が祭神として祀られ、地元では学問や首から上の病に関わる信仰を集めてきたとされる。正史で逆臣のように描かれた人物が、別の土地では神として敬われている。この落差はおもしろいが、どちらか一方が事件の真相を直接伝える証拠というわけではない。

乙巳の変で確認できる核は、入鹿が宮中で殺され、その直後に蘇我本宗家が倒れ、新しい政権が動き始めたことだ。暗殺時の会話、黒幕の存在、空を飛ぶ首は、それぞれ確かさが違う。ひと続きの劇として読むより、記録と伝承を切り分けたほうが、古代最大級の政変が抱える本当の謎が見えてくる。

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