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⚔️ 乙巳の変――蘇我入鹿暗殺の真相と中大兄皇子・中臣鎌足の陰謀

645年6月12日、飛鳥板蓋宮に笑いながら丸腰で入った男

舞台は飛鳥板蓋宮だ。その日、大極殿では三韓進調という儀式が開かれる予定になっていた。新羅と百済と高句麗、いわゆる三韓の使者が朝貢の品を差し出す、国の威信を見せつける晴れの舞台。時の最高権力者だった蘇我入鹿も、そこへ顔を出すことになっていた。

入鹿は父の蝦夷とともに蘇我本宗家を率いていて、飛鳥の甘樫丘には城塞のような邸宅までどんと構えていた。事実上の最高権力者としてふるまっていた男だ。当然、警戒心は強い。いつも護衛を連れ歩き、剣を手放さない人物だったと伝わっている。

ところが、この日だけは違った。中臣鎌足は入鹿の性格を知り抜いていたのか、滑稽な芸を見せる道化芸人を使って入鹿を笑わせたらしい。儀式の場にそぐわないという理由をつけて、剣まで外させることに成功したという。丸腰になった入鹿は、笑いながら大極殿へ入っていった。

この瞬間から、飛鳥板蓋宮は死地に変わっていた。門は中大兄皇子の命令であらかじめ閉ざされ、入鹿がどこへも逃げられないように最初から手が回されていたわけだ。なんとも怖い話だ。

実行役は二人いた。佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田だ。どちらも大伴氏や犬養氏の流れを引く武人で、二振りの剣を運び込み、入鹿に斬りかかる役目を負っていた。ところが儀式が始まっても、この二人がまったく動けない。

入鹿の威圧感に負けたのか、その場の異様な緊張に呑まれたのか。二人は恐ろしさのあまり、水で飯を無理やり流し込もうとして、それすら吐き戻してしまったと『日本書紀』は書く。本番直前に飯が喉を通らない。気持ちはわかるけど、よりによってこの日だ。

鎌足は青ざめる二人を叱る。なんとか動けと、二人を励まし続けた。そのあいだにも儀式はどんどん進んでいき、三韓からの上表文を読み上げる役の男が、じわじわと追い詰められていった。

読み上げ役は蘇我倉山田石川麻呂。蘇我氏の人間でありながら、のちに中大兄皇子の側につく人物だ。実行役がいつまでたっても動かないことに焦り、石川麻呂の全身から汗が噴き出し、声は乱れ、手まで震え出したという。これはまずい。

あまりに様子がおかしいので、入鹿本人が「なぜそんなに震えているのか」と問いただしたとも伝わる。まさに一触即発。暗殺の計画そのものが、狙われている当の入鹿に見抜かれかねない一瞬だった。

腰の抜けた実行役を見かねて、皇子が自分で剣を抜いた

ここでついに皇子が動く。実行役たちの腰が抜けているのを見て、中大兄皇子は自ら物陰から飛び出し、剣を抜いて入鹿に斬りかかった。斬りつけたのは肩から頭にかけてだと記録にある。これで、ようやく二人の硬直が解けた。

佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田も、追いすがるように斬りつける。いくつもの刀傷を負った入鹿は、それでも皇極天皇の御座のすぐ前まで、這うようにしてじりじりと進んでいった。すさまじい執念だ。「私に何の罪があるというのですか、どうかお裁きください」と訴えたという。

皇極天皇は驚いて席を立ち、殿中へ入ってしまう。中大兄皇子はそれを制するように叫んだと伝わる。「入鹿は皇族を滅ぼし、皇位を覆そうとしていた、天孫を入鹿に代えるようなことがあってよいのか」という言葉だ。直後、入鹿は絶命した。

しかも、妙に生々しい後日談まで記録に残っている。折悪しくちょうど雨が降り出して、庭には水があふれかえり、入鹿の遺体にはむしろがかけられたという。みじめな最期だった。

この名場面、書いたのは殺した側の子孫だった

ここで一度、足を止めよう。この臨場感たっぷりの場面を伝えるのは、ほぼ唯一の一次資料である『日本書紀』と、藤原氏側の家伝『藤氏家伝』だ。問題は書き手のほうだ。どちらも勝者である中大兄皇子と中臣鎌足の子孫、のちの天皇家と藤原氏が編纂や監修をした文書になる。

『日本書紀』の成立は720年。乙巳の変から数えて、実に75年もあとのことだ。しかも編纂の中心にいたのは、中臣鎌足の子の藤原不比等だったと伝わる。自分の父親が主犯格として関わった暗殺事件の顛末を、その息子が国の正史としてまとめた格好になる。危うい構図。

研究者たちも疑っている。この部分の記述はそのまま信用できない、という見方が歴史研究の世界では根強い。1967年12月には、藤原京の遺跡から「己亥年十月」と記された木簡が見つかった。これで、日本書紀のこの周辺の記述が編纂の途中で書き換えられていたとわかった、という指摘もある。

要は、後の都合に合わせて事実を加工することをいとわない書物だった、と物証が裏づけたことになる。あの名場面も例外じゃない。入鹿が斬られながら罪を訴えたくだりは、『日本書紀』か原史料の段階で作られた劇的な表現だろう、と見る研究者もいる。

暗殺の細かいところまでがやけにリアルに描かれているからこそ、読んでいるこっちには本当らしく見えてしまう。でも、それこそが正史の技巧なのかもしれない。よくできた仕掛け。

入鹿はなぜ殺されなきゃならなかったのか

表向きの理由は単純だ。蝦夷と入鹿の親子は二代にわたって大臣という立場を超え、皇室さえしのぐ権勢を握り、皇位の継承にまで口を出すようになった。これを正すための義挙だったというのが、日本書紀の語る建前になる。いわゆる蘇我氏の専横。

もっとも有力視される動機のひとつが、皇位簒奪計画説だ。入鹿は皇極天皇の子で、母が蘇我系の古人大兄皇子を次の天皇に据えようとしていた。蘇我の血を引く天皇を通じて、いずれ実質的な王権を握るつもりだったんじゃないか、という見立てだ。これが本当なら話が変わる。

中大兄皇子にとっての入鹿は、ただの邪魔者どころか、皇位そのものを奪おうとする存在だったことになる。そりゃ穏やかじゃない。動機としては、いちばん筋の通りやすい話だ。

もうひとつ外せないのが、山背大兄王一族の殺害に対する報復説だ。乙巳の変のわずか2年前、643年に蘇我氏は聖徳太子の子である山背大兄王とその一族を斑鳩宮で襲い、皆殺しに追い込んでいる。主導したのは入鹿だという。皇族のあいだに、強い恐怖と反感が植えつけられた。

中大兄皇子や中臣鎌足は、この一件を「入鹿は皇族を滅ぼしかねない危険人物だ」と訴える根拠に使ったのかもしれない。あるいは、本当にこの虐殺への報復として動いたのか。どちらの解釈も、多くの歴史読み物が共通して語っている筋だ。恨みの根は深い。

外交と国防の対立説も面白い。蘇我氏は東アジアの情勢、とくに高句麗で権力者の淵蓋蘇文が政変を起こして独裁体制を築いたことを、強く意識していたという。それで倭国の中で権力を集め、国防を固めようとしていた、という見方だ。甘樫丘や畝傍山のまわりの防御施設も、その流れで語られる。

これまでの百済一辺倒の外交をやめて、各国と協調する路線を目指していた、という説まである。それに対して中臣鎌足ら保守派や伝統派が反発し、クーデターに動いたんじゃないかという読み方も存在する。こっちは政策の争いになる。

陰謀論好きにたまらないのが、黒幕探しの派生説だ。ひとつめは皇極天皇黒幕説。山背大兄王が即位すれば、聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が新しい都になり、皇極天皇が進めていた飛鳥での都市計画は頓挫してしまう。それを避けたい皇極天皇が、入鹿に山背大兄王の一族を襲わせたんじゃないか、という説だ。

ふたつめは軽皇子黒幕説だ。のちの孝徳天皇だな。入鹿が仏教を強く推し進める一方で、中臣鎌足は神道を重んじる立場にいて、二人はまさに水と油だった。おまけに軽皇子自身も、皇位継承の本流から外されかけていた。

644年、鎌足がひそかに軽皇子のもとを訪ねたという記録がある。そこで鎌足は「軽皇子が天下の王となることに、誰が逆らえましょうか」と述べたという。政変のあとの皇位について、鎌足と軽皇子のあいだで前もって密約が結ばれていたことを、うっすらにおわせる話だ。ぞくっとする。

入鹿が悪かったから殺された。それだけで片づけるのは、さすがに単純すぎる。いくつもの勢力の利害がどろどろにからみあった、生々しい宮廷政治の産物だったと見るほうが、実態に近いのかもしれない。

蘇我氏は本当に悪玉だったのか

ここからは、もっと異説や都市伝説寄りの話になる。歴史作家の関裕二氏らが、くり返し投げかけている説がある。蘇我氏は悪玉だというイメージそのものが、藤原氏の手であとから作られたプロパガンダじゃないか、というものだ。怪しくなってきた。

言い分はこうだ。『日本書紀』はあくまで朝廷の正史として、時の権力者に都合よく編纂された書物だ、と。同じころに成立した『古事記』とは、政治的な立場が食い違う部分がある。同じ時代の出来事について異なる史書がふたつある時点で不自然で、両方とも勝者の物語として読むべきだという。

蘇我氏は、仏教を積極的に取り入れて飛鳥文化を花開かせた、革新的な一族でもあった。馬子の代には隋や唐との外交を主導した。入鹿自身も高句麗の政変から学び、国防の体制を強めようとした有能な統治者だった、という評価も少なくない。悪人一色の一族とは違う。

なのに後の世では、天をも恐れぬ大悪人とか、超自然的な魔力を持つ怪人として描かれていく。理由を考えると見えてくる。殺した側は中大兄皇子と中臣鎌足で、その子孫が天皇家と藤原氏だ。自分たちの暗殺を正当化するために、蘇我氏という悪役がどうしても必要だった結果だ、と見る向きは多い。

面白いことに、地元での評価が正史とまるっきり逆になっている場所がある。奈良県橿原市小綱町の入鹿神社だ。ここでは素盞鳴尊とともに蘇我入鹿本人が祭神として祀られていて、本殿には入鹿の木造坐像まで安置されている。逆臣のはずなのに、だ。

地元では学問の神や聡明さの神として長く敬われてきて、さらに首の上の病に効く神としても信仰を集めているという。なんとも皮肉な話だ。『日本書紀』が逆臣と断じた人物を、その血縁の地では守り神として拝み続けている。この落差は、正史の一方的な語りに対する民間伝承からの静かな異議申し立てに見えて仕方がない。

甘樫丘が燃え、蘇我本宗家が消えた日

入鹿が斬られた翌日、6月13日(あるいは7月11日)に、父の蘇我蝦夷は甘樫丘の邸宅に火を放ち、自ら命を絶った。この火災で、蘇我氏が編纂した『天皇記』や『国記』などの史書も焼けたという。これが痛かった。

蘇我氏側の言い分を書いた記録は、これで歴史から完全に消え去った。結果として現代に残るのは勝者側の記録だけ、という状況がこの火事でいよいよ決定的になってしまったわけだ。蘇我本宗家は、この日をもって滅亡した。あっけない幕切れだった。

6月14日(7月12日)には皇極天皇が退位を決め、弟の軽皇子が孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子になる。新しい政権では阿倍内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣、中臣鎌足が内臣の座についた。そう、右大臣の石川麻呂は、暗殺の当日に震えながら上表文を読んでいた、あの男だ。出世したな。

7月17日には、日本史上で最初の元号となる大化が定められた。そこから公地公民制や班田収授法などの改革、のちに大化の改新と呼ばれる一連の国政改革が、矢継ぎ早に断行されていった。仕事が早い。

ここで構図が見えてくる。乙巳の変はあくまでクーデターの実行段階で、そのあとに続く大化の改新こそが本当の狙いだった、という形だ。皇族の血で手を汚したあとだからこそ、権力の正統性を示す改革を急いで打ち出す必要があったんだろうな。

斬られた首が宙を舞い、御簾に食いついた

お待たせした。ここから先が、この話のいちばんおいしいところ、怨霊譚だ。斬られた入鹿の首について、『日本書紀』の本文には直接の記述がない。ところが後の世の伝承になると、切り落とされたこの首が、ただごとではない動きを見せたと語られるようになっていく。

切り落とされた入鹿の首は宙を舞い、御簾に食いついたというんだ。斬られて絶命して終わり、じゃない。入鹿は超自然的な力を持つ存在として、死んでからもなお首だけで暴れ続けた、という話になっている。ぞっとする。

首が飛んだ先はひとつじゃない。伝承によると、飛鳥寺、別名の法興寺まで飛んでいったという話があり、その本堂の裏には首塚が建てられたと語られる。もうひとつが、明日香村にいまも残る蘇我入鹿首塚だ。

こっちは鎌倉時代の後期から南北朝時代にかけて造られた五輪塔を、首塚として祀ったものだ。これも、入鹿の首がここまで飛んできたという伝承にもとづいている。当時の人たちが入鹿という人物にどれほど強い恐怖を抱いていたか、この塚の由来ひとつで十分に伝わってくる。怖がられたものだ。

もっと不気味なのが、多武峰まで首が飛んだという伝承だ。いまの談山神社がある山。首が落ちた夜には、天地が大いに鳴動したと語られている。ただ落ちたというより、まるで怨霊が地上に降り立ったかのような、おどろおどろしい描かれ方をしている。

何より背筋が寒くなるのは、この首が飛んで終わりじゃなかったことだ。暗殺の黒幕である中臣鎌足を、首が追いかけまわしたという言い伝えが残っている。追われた鎌足は多武峰を目指して逃げていき、氣都倭既神社の近くにある茂古の森へ身を隠したという。想像したくない光景だ。

皇極天皇や中大兄皇子には、さほどひどく祟っていないとされる。本命は鎌足だ。実行を裏で仕組んだ鎌足こそが怨霊の標的で、本当の黒幕は誰だったのかをいかにも暗示しているように見える。陰謀論好きにはたまらない材料だよ。

この首が鎌足を追いかけたという伝承そのものが、民間の記憶の痕跡なんじゃないか。そういう読み方もできる。乙巳の変の首謀者は誰だったのか、正史には書かれない裏の真実を怪異譚の形でしか語れなかった、という見方だ。

暗殺の作戦会議室に建つ神社

この怨霊伝説の舞台になった多武峰には、いまも談山神社が鎮座している。社名の由来が、まさにこの事件と直結しているんだ。中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったのは飛鳥寺の蹴鞠の会で、皇子が蹴った沓を鎌足が拾ったことから親しくなったという。ここまではいい話だ。

その二人が乙巳の変の計画を練るために、人目を避けてこの多武峰の山中で密談を重ねた。そこからこの山は談山(かたらいやま)と呼ばれるようになり、それが談山神社の社号の由来になったと伝わる。ここは、日本史上でも最大級の暗殺クーデターの作戦会議室の跡地に建つ神社。すごい場所だ。

中臣鎌足は死後、藤原氏の祖として同社の祭神に祀られ、今日に至っている。いわば藤原氏の氏神だ。学業成就や大願成就のご利益で知られ、紅葉の名所としても有名になっている。その静かなたたずまいの裏に、暗殺計画という血なまぐさい出発点があったと知れば、参拝のときの感慨もまた違ってくる。

田んぼの中の五輪塔と、甘樫丘からの眺め

明日香村の伝飛鳥板蓋宮跡のすぐそばに残る蘇我入鹿首塚は、いまも観光客が訪れる史跡として整えられている。何もない田園風景のなかに、五輪塔がひっそりと立つ。周りは静かだ。そのそばにたたずむだけで、千三百年以上前にここで一人の権力者が斬り殺された、その出来事の重みが、じわりと迫ってくる。

甘樫丘にも登ってみるといい。蘇我氏の邸宅があったとされる高台から、飛鳥の宮跡を一望できる。かつて絶対的な権力を握っていた一族の本拠地が、いまはただの静かな観光地として残されているわけだ。この落差もまた、乙巳の変という事件が持つ歴史のアイロニー。

加害者側のフィルター越しに見えている事件

教科書では、乙巳の変は大化の改新への第一歩として片づけられがちだ。でも中身は違う。掘れば掘るほど出てくるのは、史料のもろさと、いくつもの黒幕説と、勝者による歴史の書き換え疑惑だ。スリル満点の政治ミステリー。

唯一の詳しい記録である『日本書紀』は、暗殺の首謀者の一族がまとめた正史だ。だとすれば、僕らが知っている乙巳の変の物語は、最初から加害者側の弁明というフィルターを通した姿でしかありえない。これは重い。

蘇我氏の専横、皇位簒奪の計画、山背大兄王一族への報復。どれも一理ある。ただ同時に、どれもが入鹿を殺してよかったという結論をあとから補強するための道具立てかもしれない。その疑いは、いつも頭の片隅に置いておきたい。

この先で掘り下げたいことも、まだ残っている。ひとつは木簡や金石文のような一次史料の見直しだ。1967年の藤原京木簡の発見が示すとおり、考古学の新しい発見は、これからも『日本書紀』の記述を書き換えうる。地面の下は嘘をつかない。

入鹿神社のように、地元では逆に敬われているという民間信仰もそうだ。正史の一方的な語りに対する大事な対抗記録として、もっと丁寧に掘り下げるだけの値打ちがあるものだと思う。怨霊伝承も同じ。首が飛んで鎌足を追いかけた話は、ただの怪異譚として消費するより、本当の黒幕は誰だったのかという民衆の記憶の痕跡として読む余地が大きい。

飛鳥の地に立ってみるといい。板蓋宮跡から談山神社、首塚、入鹿神社までを実際に歩けば、正史が語らない部分の重さを、きっと肌で感じ取れるはずだ。田んぼの向こうに、あの五輪塔が小さく見えてくる。

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