四百年以上たった今でも、この女の名前を出すと場の空気が一段下がる。バートリ・エルジェーベト。日本では「エリザベート・バートリ」と呼ばれることの方が多い。若い娘の血を浴びて若返ろうとした伯爵夫人。犠牲者は六百五十人。ギネスブックに「史上最多の殺人を犯した女性」として載っていた時期すらある。
ただ、この話にはちょっと厄介な事情がある。有名なエピソードのほとんどが、彼女が死んだあとに作られたものなのだ。血の風呂も、鉄の処女も、壁に塗り込められた話も、全部あとづけ。じゃあ何が残るのか。残るものは、実はかなり気味が悪い。血の風呂がなくても十分に気味が悪い。そこがこの事件の一番おいしいところだと思っている。
順番に潰していく。長くなる。覚悟してほしい。
## 大晦日の二日前、副王は雪の中を城まで登ってきた
一六一〇年十二月二十九日。場所は当時のハンガリー王国北西部、いまのスロバキア西部にあたるチェイテ城。標高三百メートルほどの石灰岩の丘の上に建つ、細長い形の城だ。麓の村からは徒歩で三十分ほど登る。冬の坂道は凍る。
その日、ハンガリー副王(ナードルとも呼ばれる、王国の実質的なナンバーツー)トゥルゾー・ジェルジが、武装した一団を率いてこの坂を登った。同行していたのはエルジェーベトの娘婿ふたり、ズリンスキ・ミクローシュとドルゲト・ジェルジ。つまり身内が同行している。ここ、あとで効いてくるので覚えておいてほしい。
映画やゲームだと、この場面はだいたい地下室である。血まみれの浴槽、鎖につながれた娘たち、刃物を手にした伯爵夫人。踏み込んだ兵士が絶叫する。かっこいい。だが記録はもっと拍子抜けする。彼女は食事中だった。大広間で、普通に飯を食っていた。
トゥルゾーが妻に宛てて翌日書いた手紙が残っている。城内で死んだ娘をひとり、そして瀕死の娘をひとり見つけた、という内容だ。ここで注意したいのは、この手紙が驚くほど具体性に欠けることだ。何人の遺体があったのか、どこにあったのか、どんな状態だったのか。副王ともあろう人物が、国家的スキャンダルの現場を押さえた翌日に書く文章としては、あまりにも情報が薄い。後世の法制史研究者がここに引っかかるのも当然だと思う。
死んだ娘には名前がある。ドリツァ。棒で殴られて死んだとされる。殴られた日付は、まさにこの十二月二十九日。踏み込まれたその日、あるいはその直前だ。タイミングが良すぎる、と言う人もいる。逆に、だからこそ現行犯だったのだ、と言う人もいる。この一点でずっと殴り合いが続いている。
生き残った方の娘についても、実は妙なことがある。彼女はその後の裁判で一度も証言していない。名前すら記録に残っていない。生存者がいたのに証言台に立たせなかった。四百年後の我々が首をかしげる程度には、これは変だ。
その場でエルジェーベトは身柄を拘束された。同時に四人の使用人が捕らえられる。ウーイヴァーリ・ヤーノシュ、通称フィツコ。イロナ・ヨー。ドロッチャ・センテシュ、通称ドルコ。カタリン・ベネツキー。少し遅れて、村の呪術師とされたエルジ・マヨロヴァも捕まる。
坂を降りる列がどんな様子だったかは、誰も書き残していない。
## そもそもこの人、ハンガリーで一番ヤバい血統の出だった
一五六〇年八月七日、ニールバートルで生まれた。父はエチェディ=バートリ・ジェルジ、母はショムヨーイ=バートリ・アンナ。姓を見ればわかる通り、父も母もバートリ家だ。同族結婚である。バートリ家はこれを何世代も繰り返していた。
この一族がどれくらいの家かというと、伯父にあたるバートリ・イシュトヴァーンはトランシルヴァニア公からポーランド王にまで上りつめている。ハンガリー王国の中で、ハプスブルク家の次に強い一族と言っていい。土地も金も兵も持っていた。そしてカルヴァン派、つまりプロテスタントだった。カトリックのハプスブルク家から見れば、金があって兵があって信仰が違う厄介な連中、ということになる。
一族の伝説も派手だ。悪魔崇拝に耽った叔父がいたとか、召使いを痛めつけるのが趣味だった叔母がいたとか。エルジェーベト自身も幼少期に発作を起こしたという話が伝わる。てんかんではないかと推測されることが多いが、これも後世の憶測が積み重なった部分が大きい。近親婚の反復と遺伝的疾患を結びつける語り口は、十九世紀以降の「退化論」的な発想と相性が良すぎるので、そのまま信じるのは危ない。
ただ、確実に言えることがひとつある。彼女は当時の水準で異様に教養があった。ラテン語、ドイツ語、ギリシャ語を解した。手紙を自分で書いた。領地の経営を自分でやった。十六世紀末から十七世紀初頭のヨーロッパで、これができる女性は本当に少ない。
そして残された私信を読むと、拍子抜けするほど普通なのだ。玉ねぎを何連買うか。牛の売買。小麦の割り当て。ザリガニの手配。これが「血の伯爵夫人」の日常だった。政治的な文面もある。ボチカイの蜂起のときには、ある女性とその娘のために口を利いてやっている。子どもたちの将来のために所領を整理する手紙もある。有能な事務家であり、同時にそこそこ情のある人間に見える。
もちろん、私信が普通だから無実だ、という理屈は通らない。凶悪犯だって玉ねぎは買う。ただ、我々が思い浮かべる「黒いドレスで血の浴槽に沈む女」という像と、実際に紙の上に残っている彼女との落差は、頭に入れておいた方がいい。
## 夫は「黒いベイ」と呼ばれた男だった
一五七一年、十四歳のナーダシュディ・フェレンツ二世と、十歳か十一歳のエルジェーベトが婚約する。結婚式は一五七五年五月八日、ヴァランノーの館。招待客四千五百人という規模の披露宴だった。当時のハンガリーで、これは国家的行事に近い。
面白いのは、夫の方が妻の姓を名乗ろうとしたことだ。バートリ家の格の方が上だったからである。この一点で両家の力関係がわかる。
フェレンツは軍人だった。対オスマン戦争の前線指揮官として名を上げ、エステルゴム、ヴァーツ、ヴィシェグラード、セーケシュフェヘールヴァール、ジェールといった要塞の奪還に関わっている。あだ名は「黒いベイ」あるいは「ハンガリーの黒い騎士」。オスマン側が彼につけた呼び名だ。
そして彼は、捕虜に対する残虐さでも知られていた。ここが重要になる。後世の説の中には、「彼女に拷問を教えたのは夫だ」というものがある。捕虜の扱い方をそのまま召使いに応用した、という筋書きだ。「星を蹴らせる」と呼ばれる仕置きの話も伝わる。指の間に紙を挟んで火をつけ、痛みで暴れる様子を眺めるというものだが、これも出所ははっきりしない。
読み書きに関しては、夫婦で大きな差があった。フェレンツは母語のハンガリー語ですら文章を書くのが得意でなく、ラテン語とドイツ語は軍務に必要な範囲でかじった程度だった。妻は三言語を操る。この不均衡がふたりの関係にどう作用したかは、想像するしかない。
子どもは五人ないし六人。アンナ、オルショヤ、カタリン、アンドラーシュ、パール。ミクローシュを数える資料もある。長女アンナはズリンスキ・ミクローシュ六世に、次女カタリンはドルゲト・ジェルジに嫁いだ。この娘婿ふたりが、後に城へ踏み込む側に回る。
フェレンツは一六〇四年一月四日に死んだ。病名は不明。従軍中の急死だった。四十七歳前後。
## 未亡人になってから、噂は加速する
夫が死んだ時点で、エルジェーベトは四十三歳。手元には広大な所領と、王家に対する巨額の債権が残った。ハンガリー王国最大級の資産家未亡人の誕生である。
同じ頃から、彼女の周囲の話がおかしくなっていく。
まず、アンナ・ダルヴリアという女がチェイテに入る。資料によって一六〇一年前後とされる。彼女は「魔女」と呼ばれた。実際に何者だったのかははっきりしない。薬草を扱う女、産婆、あるいは単に評判の悪い年寄りの侍女。どれもありうる。ただ、後世の物語では常に「エルジェーベトを闇に引きずり込んだ悪の助言者」という役を割り当てられる。この配役の便利さそのものが怪しい。ダルヴリアは一六〇九年頃に死んだとされ、それを引き継いだのが村の呪術師エルジ・マヨロヴァだった、という筋書きになっている。
次に、聖職者からの苦情がある。ルター派の牧師マジャリ・イシュトヴァーンが、一六〇二年から一六〇四年にかけて、チェイテで娘たちが不自然に死んでいると訴えた記録がある。埋葬を拒んだ司祭がいたという話も伝わる。夜、城から悲鳴が聞こえるという村の噂も、この時期のものとされる。
そしてもうひとつ、後の展開を決定づける動きがある。一六〇九年の冬、エルジェーベトはチェイテに「ギュナエケウム」を開いた。要するに、下級貴族の娘を預かって行儀作法や教養を教える寄宿学校だ。当時の大貴族の館ではよくある事業で、それ自体は何も怪しくない。
だが、これが決定的な意味を持つことになる。相手が農奴の娘なら、領主は生殺与奪の権を持っていた。当時のハンガリー貴族には領地内の裁判権があり、農奴を死なせても法的に問題になりにくい。ところが下級貴族の娘は違う。彼女たちには家があり、後ろ盾があり、訴える口がある。この学校を開いた瞬間、エルジェーベトは自分の免責が届かない範囲に手を伸ばしたことになる。国家が介入する隙間が、そこで初めて生まれた。
法制史の側から事件を検討する研究者が、この一六〇九年を転換点として重く見るのはそのためだ。事件は「悪行が積み重なって発覚した」のではなく、「介入可能な形になった瞬間に処理された」という読み方ができる。
## 一六一〇年三月、ふたりの公証人が村を回りはじめる
王マーチャーシュ二世が調査を命じる。実務を担ったのは副王トゥルゾー・ジェルジ。彼はエルジェーベトの親戚筋でもあり、亡き夫フェレンツの戦友でもあった。つまり最初から利害の内側にいる人間だ。
トゥルゾーの下で証言を集めたのは、公証人のツィラーキ・モージェシュとケレストゥーリ・アンドラーシュ。ふたりは一六一〇年三月から村々を歩きはじめる。九月から十月にかけて集中的に聞き取りが行われ、最終的な証言者数は三百人を超えた。三百二十七人という数字を挙げる資料が多い。
この数だけ聞くと、動かしがたい証拠に見える。三百人が同じことを言っているなら、それは事実だろう、と。
ところが中身を見ると印象が変わる。ハンガリー側で史料を精査した研究では、三百二十七件のうち、内容を評価できる証言は百七件程度。そのうち具体的な中身のある供述をしていたのは、実質十人程度に絞られるという。残りは「そういう噂を聞いた」「誰それがそう言っていた」という伝聞だ。
しかも、その十人の中身がまるで揃わない。「数え切れないほど」と言う者、三百人と言う者、五百六十人と言う者、六百五十人と言う者。誰ひとり同じ数字を出さない。目撃者はいない。全員が誰かから聞いた話をしている。
そして、この証言収集の起点にいた人物がまた興味深い。ベネデク・デジェーとヤカブ・シルヴァーシ。どちらも亡きフェレンツに仕えていた家臣で、エルジェーベトの所領管理に関わっていた。ハンガリー側の一部の研究者は、一六〇八年頃にエルジェーベトが所領の棚卸しを始めたことに注目する。帳簿を洗われて困る人間がいたのではないか、という見立てだ。実際、この二人の名前は証言の流れの上流に何度も出てくる。
もちろんこれは推論だ。決定的な証拠はない。ただ、「誰が最初に言い出したのか」を追うと、事件の景色が少し変わるのは確かだ。
## ビッチェの二日間――伯爵夫人が座っていない法廷
裁判は一六一一年一月二日と七日、ビッチェで開かれた。二日だけである。
被告席に伯爵夫人はいない。裁かれたのは使用人四人だけだ。エルジェーベト自身は正式に起訴されていない。判決も受けていない。法的には、彼女は最後まで有罪になっていない。
これは奇妙に見えるが、当時の法体系を踏まえると理屈は通る。一五一四年の『三部法典』は、ハンガリー貴族に対して極めて強い身分保障を与えていた。「一にして同じ自由」という原則で、大貴族は国家の恣意的な介入から守られる。貴族を逮捕できるのは、原則として現行犯の場合だけ。だからこそ「その日、死んだ娘がいた」という状況が必要だったのだ、と法制史側は読む。
そして、四人の供述がどう取られたかも問題になる。彼らは裁判の前に拷問を受けている。ラック(エクレウス)にかけられたという記述がある。当時のハンガリーの手続きでは、拷問下の自白は、拷問室の外で二十四時間以内に本人が自発的に追認して初めて証拠になる。この追認の記録がない。つまり、当時の基準ですら、この供述は本来証拠として使えない。
さらに、審問にあたった側があらかじめ「こういう供述が欲しい」という筋書きを持っていたという指摘もある。地元の聖職者が事前に材料を渡していた、という話だ。
判決は速かった。イロナ・ヨーとドロッチャ・センテシュは、焼けた鉄鋏で指を引き抜かれたうえで生きたまま焼かれた。フィツコは斬首され、その後に遺体が焼かれた。若く、知的な障害があったとされ、斬首は「慈悲」として与えられた。カタリン・ベネツキーだけが死刑を免れ、終身刑になった。彼女は他の三人から虐待されていた側だ、という判断が働いたらしい。エルジ・マヨロヴァも後に処刑されている。
ここで致命的な問題が起きる。証人であり被告であった三人が、判決の直後に消えた。トゥルゾーの一派以外の誰も、彼らに質問をする機会を持てなかった。再尋問は永久に不可能になった。事件の中核にいた人間の口が、二日で全部閉じられた。
## フィツコの供述――十六年仕えた下男が語ったこと
ウーイヴァーリ・ヤーノシュ、通称フィツコ。捕まったとき、まだ若かった。資料によっては十代後半とされる。小柄で、知的な障害があったと記録される。バートリ家に十六年仕えていた。
彼の供述は、四人の中で最も具体的だ。数字も出す。殺された娘の数を「三十七人」と答えている。別の箇所では、自分が埋めた遺体の内訳まで語る。窪地に五人、庭に二人、そしてドロッチャが殺した二人を墓地に。
方法についても述べている。ウィーン製の紐で手と腕をきつく縛る。全身が黒くなるまで殴る。ある娘は死ぬまでに二百発以上打たれた、と。この「全身が黒くなるまで」という言い方は、他の証言者の口からも出てくる。証言の間で共有された定型句なのか、実際に繰り返し見られた光景なのかは判断がつかない。
彼はさらに踏み込んだことも言っている。一六〇九年のクリスマスの集まりで、エルジェーベトが王マーチャーシュと副王トゥルゾーを毒殺する計画を立てていた、というのだ。
この一節が非常に重要だ。使用人の少年が、拷問の下で、なぜ「主人が国王と副王の暗殺を企てていた」と語るのか。もしこれが本当なら、事件の性格は殺人事件から反逆罪に変わる。反逆罪なら、財産の全面没収が可能になる。つまりこの供述は、審問した側にとってあまりにも都合が良い。
冤罪説を採る側は、ここを最大の突破口にする。誘導がなければ出てこない種類の答えだ、と。逆に有罪説を採る側は、この一言があるからといって他の供述まで全部否定できるわけではない、と返す。どちらの言い分にも一理ある。
そしてフィツコ自身は、他の三人と同様、責任を可能な限り自分から遠ざけようとしている。悪いのは主人であり、既に死んでいるアンナ・ダルヴリアだ、という方向に話を持っていく。死人に責任を押しつけるのは、追い詰められた人間の常套手段でもある。
## イロナ・ヨーの供述――乳母だった女が語ったこと
イロナ・ヨーは、エルジェーベトの子どもたちの乳母だった。つまり一族の内側に何十年もいた人間だ。信頼されていたはずである。その彼女が、最も凄惨な内容を語る。
彼女が挙げた犠牲者の数は、およそ五十人。フィツコの三十七人より多い。同じ屋根の下にいた人間同士で、これだけ数字がずれる。
供述の内容は読んでいて気持ちのいいものではないので、ここでは概略にとどめる。火から取り出した焼けた鉄棒を口や鼻に押し当てたこと。針を使ったこと。鋭い鋏で肉を引き裂いたこと。ある娘の口に指を入れて左右に強く引き、口の端が裂けたこと。
一点だけ、史料の読み方として押さえておきたいことがある。彼女の供述には、血を集めたとか、浴槽に溜めたとか、そういう記述が一切ない。ここが後の話に効いてくる。四百年後に世界中が知っている「血の風呂」は、最も詳しく語ったこの女の口からも出ていない。
イロナ・ヨーは、焼けた鉄鋏で指を引き抜かれた後、火刑にされた。乳母として仕えた家の主人は、同じ日に城の中で生きていた。
## ドロッチャ・センテシュの供述――洗濯女ドルコが語ったこと
ドロッチャ・センテシュ、通称ドルコ。洗濯女だったとされる。四人の中で、最も「実行役」として描かれる人物だ。
彼女の供述として伝わるのは、鋏を使って娘たちの指を一本ずつ切ったこと、そして血管を切ったこと。フィツコの供述の中では、彼女が殺した娘二人を自分が墓地に埋めた、と名指しされている。つまり四人は互いを名指ししている。
この相互の名指しが、実は史料として一番厄介な部分だ。全員が拷問を受け、全員が自分の罪を減らそうとし、全員が他の三人と不在の主人と死んだダルヴリアに責任を振っている。四人の供述を重ねると、一見して「複数の証言が一致している」ように見えるのに、細部は全然噛み合わない。数字も違えば、遺体の処理の話も違う。
同じ現場にいた四人が、同じ出来事について、これだけばらつく。強制された自白の特徴そのものだ、と言えばそう見える。恐怖と混乱の中の記憶なんてそんなものだ、と言えばそうも見える。ここでも決着はつかない。
ドロッチャもイロナ・ヨーと同じ処刑を受けた。指を引き抜かれ、生きたまま焼かれた。
## カタリン・ベネツキーの供述――ひとりだけ死ななかった女
四人目のカタリン・ベネツキーだけが処刑を免れた。終身刑である。
理由は、彼女が他の三人から虐待されていた側だと判断されたためとされる。無理やり手伝わされていた、というわけだ。実際に彼女がどう供述したのかは、まとまった形では伝わっていない。
この判断の存在自体が、実は興味深い。裁判所は四人を一括で処理しなかった。個々の関与の度合いを一応は区別している。つまり、完全な吊るし上げのための儀式ではなく、それなりに法的な形式を守ろうとした痕跡がある。
一方で、こうも読める。誰かひとりを生かしておくことで、「これは公正な裁判だった」という体裁が整う。しかも生かされたのは、最も内情を知らない立場の人間だ。そして彼女は牢に入れられ、その後の消息は途絶える。彼女に再尋問した記録は残っていない。
その後の彼女がどうなったのか、誰も知らない。
## 村人たちの声――「聞いた」という言葉の海
四人以外の証言も見ておきたい。
城の使用人頭だったベネデク・デジェーは、靴屋の娘イロンカという名前を出している。裸にされ、刃物で責められたという。ヤーノシュ・デジェーという人物は、自分の姪カタを預けたが返してもらえず、エルジェーベトから「返さない、むしろ殺してやる」という意味のことを言われた、と証言している。
ルター派の説教師ポニツキーはもっと踏み込む。エルジェーベトは人肉を食べた、と主張した。証拠はない。さらに彼は、彼女が猫に変身したとも言っている。
ここでいったん立ち止まってほしい。人肉食と猫への変身。この二つが、公的な調査の証言として記録に混ざっている。当時、この二つは同じレベルの「事実の申し立て」として扱われていた。魔女裁判の全盛期であり、動物への変身は法廷で真面目に検討される主題だった。
つまり、この証言集は「近代的な意味での目撃証言の集積」ではない。噂と信仰と恐怖と敵意が渾然一体になった、十七世紀初頭の村の情報空間そのものだ。三百二十七という数字の重みは、その前提の上で測らないといけない。
もうひとつ。証言はほとんど例外なく、村の娘が城に上がって帰ってこなかった、という形をとる。これは事実である可能性が高い。この時代、召使いとして館に入った娘の死亡率は普通に高かった。疫病、結核、栄養不良、事故。一六一〇年前後のこの地域では、ペストやチフスの流行が記録されている。ある週に八人の娘が死んだ、という記録があるが、その週にエルジェーベトはウィーンにいたことが別の手紙で確認できる、という指摘もある。
娘が帰ってこないのは事実。それが殺人によるものかは別の話。この二つを混ぜないで読むのは、四百年後の我々でもけっこう難しい。
## 「六百五十人」という数字は、どこから湧いたのか
一番有名な数字を潰しておく。
裁判で公式に認定された数は八十人前後だ。フィツコが三十七、イロナ・ヨーが五十前後、判事団が三十七から八十の間と結論づけた、という記録がある。この幅の広さ自体が、証拠の弱さを物語っている。
では六百五十はどこから来たのか。
出所はたった一件の伝聞である。ズザ(スザンナ)という名の使用人が、宮廷の役人ヤカブ・シルヴァーシがエルジェーベトの私的な帳面にその数字が書かれているのを見た、と証言した。それだけだ。
問題点を並べる。まず、その帳面は証拠として提出されていない。誰も現物を見ていない。次に、シルヴァーシ本人が自分の証言の中でこの帳面について一言も触れていない。「見た本人」が言及していないのだ。そしてこれは、AがBの見たものについて語る、という純粋な伝聞である。さらに、四百年間、どの歴史家もこの帳面を発見していない。
数字も揺れる。六百五十とする資料もあれば、六百十二とするものもあり、六百十人分の名前のリストだったとするものもある。同じ「見た」という話が、伝わるうちに数字を変えている。伝説が育つときの典型的な挙動だ。
にもかかわらず、六百五十は世界中に定着した。理由は単純で、繰り返されたからである。ある本がその数字を書き、次の本が前の本を引用し、その次が孫引きする。三回も繰り返せば、数字は出典を失って「事実」になる。証明ではなく累積によって事実化した数字、というやつだ。
日本語圏でこの数字が広まったのも同じ経路をたどっている。「本人の記録では六百五十人、裁判での正式認定は八十人」という並記の形が定型化していて、多くの日本語記事がこの形を踏襲している。並べて書くと、まるで六百五十の方に一次資料の裏づけがあるように見えてしまうのが、この書き方の怖いところだ。
## 壁の中の三年半、そして一六一四年八月二十一日
裁判のあと、エルジェーベトはチェイテ城に留め置かれた。よく知られているのは、扉も窓も漆喰で塗り固められ、食事を差し入れる小さな穴だけが残された、という話だ。
これは半分怪しい。彼女が幽閉されたのは確かだが、完全に壁で塞がれていたという描写は後世の脚色が入っている可能性が高い。この期間に面会者があったという指摘もある。三年半のあいだ、彼女が完全に密閉された石室で生きていたという像は、物語としては最高に絵になるが、史料の裏づけは弱い。
はっきりしているのは、この幽閉が「判決」ではないということだ。彼女は有罪判決を受けていない。にもかかわらず自由を失った。法的にはただの超法規的な軟禁である。
一六一四年八月二十一日、彼女は死んだ。五十四歳。死の数日前に、手足が冷たいと訴えたという話が伝わる。
死後の扱いも定まらない。当初はチェイテ村の聖ラースロー教会に葬られたとされる。だが村人が「あの女をここに埋めるのか」と反発したという話があり、生家のあるエチェドへ移されたとも言われる。エチェドのバートリ家の墓所に運ばれたという説だ。ただし決定的な確認は取れていない。墓標もない。
つまり、この事件の主人公の遺体が今どこにあるのか、誰も知らない。四百年間、行方不明のままだ。これは怪談としては最上級の後日談だと思う。
## ここからが本題――「処女の血の風呂」が生まれた年
さて、本丸に入る。
血の風呂の話は、裁判記録に存在しない。三百二十七件の証言にも、四人の自白にも、トゥルゾーの手紙にも、王マーチャーシュの書簡にも、一切出てこない。十七世紀の同時代文書に、この話は一行もない。
初めて活字になったのは一七二九年である。事件から百十八年後。彼女が死んでから百十五年後。
書いたのはイエズス会士のトゥローツィ・ラースロー(一六八二年生、一七六五年没)。『ハンガリーとその王たちの略史』と呼ばれる著作の中で、いわゆる「悲劇の物語」として彼女を扱った。
そこで語られる筋はこうだ。ある日、エルジェーベトが侍女を打った。侍女の血が彼女の肌に飛んだ。血がかかった部分の皮膚が若返ったように見えた。そこから彼女は、若い娘を殺してその血を浴びるようになった。
これが原型である。以後三百年、この筋書きは一ミリも変わらずに使い回されている。映画も小説もゲームも、全部トゥローツィの発明を再演している。
トゥローツィがこれを自分で作ったのか、地元の口承を拾ったのかは分からない。ただ、彼が書いた時期と場所には注目する価値がある。一七二五年から一七三四年にかけて、ハプスブルク帝国の東部辺境では吸血鬼騒動が吹き荒れていた。セルビアで墓を掘り返して杭を打つ事件が相次ぎ、その報告書がウィーンに上がり、ヨーロッパ中で「吸血鬼」が知的流行になっていた時期だ。血で若返る貴婦人の物語は、この空気の中で書かれた。読者の側に受け入れる準備ができていた、と言ってもいい。
トゥローツィの記述には、明確な誤りもある。彼はエルジェーベトがルター派に改宗したと書いているが、彼女は生涯カルヴァン派だった。カトリックの聖職者が、プロテスタントの大貴族の女を書いている。この構図を割り引かずに読むのは無理がある。
そして皮肉なことに、本物の裁判記録が発見されたのは一七六五年、公刊されたのは一八一七年だった。血の風呂の話が世に出てから八十八年後である。ようやく出てきた一次史料には、血の風呂の記述がなかった。だがもう遅かった。物語の方が先に世界を制圧していた。史実は、既にできあがった伝説と競争するはめになり、そして負けた。
## 一七九六年、ドイツ語で「完成形」になる
トゥローツィの話を、より読み物として洗練させたのがミヒャエル・ヴァーゲナーだ。一七九六年に『哲学的人間学への寄与』という書物の中でバートリを扱っている。この本経由で、血の風呂の話はドイツ語圏に広がり、そこから英語圏へ流れ込んだ。
ヴァーゲナー版の効果は大きい。トゥローツィのラテン語の歴史書は専門家しか読まないが、ドイツ語の読み物なら教養層が読む。伝説が「学者の書き物」から「一般教養」に昇格した瞬間が、たぶんここだ。
英語圏でこの話を決定的に一般化したのは、十九世紀の聖職者にして怪奇趣味の書き手サビーン・ベアリング=グールドである。彼が一八六五年に出した狼男についての本の中で、バートリの話が紹介される。これで英語読者に届いた。
面白いのは、伝説の伝播ルートがきれいにたどれることだ。一七二九年のイエズス会士のラテン語、一七九六年のドイツ語の読み物、一八六五年の英語の怪奇本。三段跳びで世界に出ていく。事件そのものではなく、書物の連鎖が「血の伯爵夫人」を作った。
## 派生その一、鉄の処女という完全な後付け
バートリの話にはよく「鉄の処女」が出てくる。人型の鉄の棺で、内側に無数の棘があり、閉じると中の人間を貫くという例のあれだ。バージョンによっては、チェイテ城の鉄の処女は機械仕掛けで自動的に動き、犠牲者を抱きしめて血を絞り出し、その血が管を通って下の浴槽に流れ込んだ、ということになっている。
これは全部嘘だ。というより、鉄の処女という道具自体が中世に存在しない。
鉄の処女の「歴史」を作ったのは、ヨハン・フィリップ・ジーベンケース。一七九三年に、一五一五年八月十四日にニュルンベルクで贋金作りの処刑に使われた、と書いた。この記述が全ての起点になっている。それ以前に鉄の処女に言及した文献は見つかっていない。十九世紀より前に、この道具の記録は存在しないのだ。
有名なニュルンベルクの鉄の処女は、一八〇二年前後に展示されたのが最初らしい。原品は第二次世界大戦の空襲で失われた。複製が一八九〇年にイギリスの貴族に売られ、一八九三年のシカゴ万博で展示され、現在はローテンブルクの犯罪博物館にある。要するに見世物のために作られた道具だ。中世の刑具を誤解して再構成したもの、という見方が有力である。
そして時系列を見てほしい。鉄の処女の捏造が一七九三年。ヴァーゲナーのバートリ本が一七九六年。三年差だ。同じ時期に、同じ読者層に向けて、同じ趣味で流通していた素材である。二つがくっついたのは必然だった。
「機械仕掛けで血を絞る鉄の処女」というアイデアは、産業革命前夜の想像力そのものでもある。中世の城に置くには、あまりにも十八世紀的な発明品なのだ。
## 派生その二、猫になる女と、狼女の系譜
裁判証言の中に、既に「猫に変身する」という主張があったことは先に触れた。説教師ポニツキーの申し立てだ。
これがなぜ出てくるかというと、当時の民衆にとって、残虐な行いと魔術は同じ引き出しに入っていたからだ。人間離れした所業をする者は、人間でない何かに変じられる。だから猫になる。この論理は当時の裁判では珍しくない。
そしてこの「変身」の要素が、後の受容で狼男の系譜と接続する。ベアリング=グールドが彼女を紹介したのが、よりによって狼男の本の中だった、という事実は象徴的だ。血で若返る女という話が、獣人の伝承と同じ棚に並べられた。以後、英語圏の怪奇読み物では、バートリは吸血鬼と狼女の中間あたりに位置づけられていく。
アンナ・ダルヴリアが「魔女」とされたのも同じ回路だ。証言の中で、彼女は薬草や呪術に通じていたことになっている。エルジ・マヨロヴァに至っては、村の呪術師として捕らえられ、火刑にされた。事件の周辺では、魔女裁判が並行して進んでいたと言っていい。バートリ事件は連続殺人事件であると同時に、魔女狩りの一事例でもある。この二重性を落とすと、事件の温度が正しく伝わらない。
## 派生その三、彼女はドラキュラの母親なのか
「エリザベート・バートリはドラキュラのモデルのひとりだ」という説は、日本語圏でもよく見かける。
この説を強く押したのは、ドラキュラ研究で知られるレイモンド・マクナリーだ。一九八三年に、彼女がストーカーのドラキュラ像の形成に大きな役割を果たしたと論じた。根拠の中心はこうだ。血を飲んで若返るという発想は、既存の吸血鬼伝承には存在しない。だからストーカーはバートリの血の風呂伝説からそれを取った、と。城に住み、貴族的で、周囲に女を侍らせ、絶対の服従を要求する。ドラキュラ伯爵とバートリ伯爵夫人は似ている、とも書いた。
これに正面から反論したのが、同じくドラキュラ研究者のエリザベス・ミラーである。彼女の指摘は鋭い。マクナリーの説は、ストーカーがベアリング=グールドの狼男本のバートリの章を読んだ、という前提の上に成立している。この前提が崩れれば、説全体が崩れる。
そしてミラーによれば、崩れる。ストーカーの創作ノートが残っているのだ。彼はベアリング=グールドの本から確かにメモを取っている。だがメモを取ったのは狼男の身体的特徴の部分だけだった。犬歯、毛の生えた広い手のひら、鼻の上でつながる眉毛。バートリについての短い節からは、一行もメモを取っていない。読んだ形跡がない。
ミラーの結論は「見当違い」というものだ。血で若返るという発想は他の経路からも来うるし、ストーカーの想像力から出たとしてもおかしくない。
つまり、現時点で「バートリがドラキュラの母」という言い方は、根拠が薄い。ただし、である。ドラキュラの後、二十世紀の吸血鬼映画の中で、彼女が圧倒的に消費されたのは事実だ。原因ではなく結果として、彼女は吸血鬼文化の中心に座った。順序が逆なのだ。ここは押さえておきたい。
## 派生その四、生きたまま壁に塗り込められた話
これも定番だ。窓も扉も漆喰で塞がれ、食事の穴だけが残された石室で、三年半、彼女は生きた。
絵として最強である。ゴシック小説の理想形と言っていい。生きながらの埋葬というモチーフは十九世紀の怪奇趣味の中核テーマで、この話がそこにぴたりと収まったのは偶然ではないだろう。
だが、この描写がどこまで史実かは怪しい。幽閉されていたのは間違いない。ただ、完全な密閉だったという記述は後代の脚色を含む可能性が高く、面会があったという指摘もある。三年半を完全な暗闇で生き延びるのは、栄養と衛生の面でもかなり無理がある。
面白いのは、この話が「有罪説」と「冤罪説」の両方で使える点だ。有罪説側は「悪魔的な女にふさわしい末路」として使う。冤罪説側は「裁判もせずに人ひとりを壁の中に消した権力の暴力」として使う。同じエピソードが、立場によって真逆の意味を持つ。伝説の便利さの見本のような話だと思う。
## 一七四〇八グルデン――冤罪説の骨格
ここからが、現代の議論の中心だ。
冤罪説の一番硬い柱は、金である。
王家はナーダシュディ家に借金をしていた。長期にわたるオスマンとの戦争で、フェレンツは私財を投じて軍を動かしていた。その未返済分が、一七四〇八グルデンとされる。当時の額として、これは王室の財政を直撃する規模だ。
もしエルジェーベトが反逆罪で有罪になれば、財産は没収され、債権も消滅する。王家は一銭も返さずに済む。これが動機だ、というのが冤罪説の中核である。
第二の柱は宗教だ。彼女はカルヴァン派。ハプスブルク家はカトリックで、対抗宗教改革を推し進めていた。ハンガリーのプロテスタント大貴族は、体制側から見て潜在的な敵である。しかもバートリ家はトランシルヴァニアに影響力を持ち、そのトランシルヴァニアはオスマン帝国の宗主権下にある半独立国だった。ハプスブルクにとって、この一族は国境をまたぐ危険因子だ。
第三の柱は、事前の合意である。ここが一番効く。
娘婿のズリンスキ・ミクローシュが書いた手紙が残っている。一六一〇年十二月十二日付。逮捕の十七日前だ。そこには「以前に交わされた合意」への言及がある。翌十三日の手紙では、幽閉と所領の分配についての取り決めが確認されている。
つまり、踏み込む半月以上前に、身柄をどうするか、財産をどう分けるかが決まっていた。捜査の結果として処遇が決まったのではない。処遇が先に決まっていて、あとから現場を押さえに行った。
さらに一六一一年二月十二日、四人の処刑後の手紙で、ズリンスキはトゥルゾーに感謝を述べている。「より小さい方の悪」を選んでくれたおかげで、一族の名誉が守られ、大きな恥から免れることができた、という趣旨だ。
この三通を並べると、事件の設計図が見えてくる。トゥルゾーは王に対して、貴族の女を公開処刑すれば貴族階級全体に悪影響が出る、と説いた。落としどころはこうなった。公開裁判はしない。伯爵夫人は裁かない。使用人だけを裁いて処刑する。伯爵夫人は幽閉する。所領は子どもたちに渡る。
そして見逃せないのが、エルジェーベトが一六一〇年九月三日、逮捕の三か月以上前に遺言を作成していることだ。全財産を三人の子に譲る内容である。有罪判決がない以上、国庫には没収の法的根拠がない。所領は息子ナーダシュディ・パールに、滞りなく渡った。
面白い皮肉がある。この決着によって、王家の借金は消えなかったのだ。有罪にできなかったので、債務は生きたまま残った。ハプスブルクの財政にとって、この裁判は失敗だったことになる。「王家の借金帳消しが目的だった」という説明は、結果だけ見れば成立していない。
## だが冤罪説にも、けっこう大きな穴がある
ここで冤罪説に全乗りするのは早い。反証も並べておきたい。
第一に、証言の量である。三百二十七人。たとえ大半が伝聞でも、これだけの数の人間が「あの城で娘が死ぬ」という共通の認識を持っていた事実は残る。全部が陰謀で捏造されたとするなら、その捏造の規模自体が非現実的だ。十七世紀初頭の村落社会で、三百人以上に口裏を合わせさせる方が難しい。
第二に、一九七〇年代以降の文書館調査で見つかった史料の存在だ。二百二十四件の証言記録が新たに確認された、とする研究がある。冤罪説が最初に唱えられた当時よりも、史料の総量は増えている。それを踏まえてなお、多数派の歴史家は「完全な無実」を採らない。
第三に、時系列だ。苦情が始まったのは一六〇二年から一六〇四年、マジャリ牧師の訴えである。この時点でトゥルゾーは動いていないし、フェレンツはまだ生きているか死んだばかりだ。政治的陰謀の準備期間としては早すぎる。噂は、政治が動き出すよりずっと前から存在していた。
第四に、そもそもの前提の話。当時、大貴族の館で召使いが死ぬことは、それ自体が事件にならなかった。領主には裁判権があり、農奴の生殺与奪は事実上その手にあった。だから「殺していたが、当時は罪にならなかった」という状態が普通にありうる。エルジェーベトが特別に残虐だったのではなく、当時の水準で普通に残虐だった可能性がある。この場合、彼女は無実でもなければ、突出した怪物でもない。ただの時代の平均値だ。
そして、これが一番居心地の悪い結論なのだ。「実は無実だった」なら話は美しい。「六百五十人殺した怪物だった」なら話は分かりやすい。だが「当時の貴族としてありふれた程度に人を死なせていて、政治的な都合で選ばれて処理された」というのが最もありそうな線で、これは物語として全然おいしくない。
だから、この線は流通しない。
## 舞台裏の話――農奴、裁判権、そして戦争で溶けた金
背景をもう少し詰めておく。ここを飛ばすと事件の輪郭がぼやける。
当時のハンガリー王国は三つに割れていた。中央部はオスマン帝国の直轄領。東のトランシルヴァニアはオスマンの宗主権下の公国。そして北と西の細長い帯が「王領ハンガリー」で、ハプスブルクが支配していた。バートリの所領はこの王領ハンガリーの西端にあり、一族の本拠地は東のトランシルヴァニア側にも根を張っていた。つまり彼女は、分断線をまたいで足を置いている人間だった。
一五九一年から一六〇六年まで、いわゆる長期戦争が続いた。この戦費が全てを歪ませる。ハプスブルクは金がなく、大貴族に立て替えさせた。フェレンツのような前線指揮官は、自分の領地の収益で兵を養った。戦争が終わったとき、王は貴族に多額の債務を負っていた。
一方、農村の側では第二次農奴制と呼ばれる状況が進んでいた。西欧では農奴制が緩んでいく時期に、東欧では逆に締まっていく。領主が土地に農民を縛りつけ、賦役を強化する。農奴は法的に領主の裁判権の下にある。館に上がった娘が死んでも、村は泣き寝入りするしかない。
宗教も割れていた。十六世紀後半のハンガリーは、人口の相当部分がプロテスタントになっていた。ルター派、カルヴァン派、さらに反三位一体派まで。ハプスブルクとイエズス会が対抗宗教改革を進め、これが一六〇四年から一六〇六年のボチカイの蜂起につながる。エルジェーベトの私信にもこの蜂起の影が差している。
トゥルゾー・ジェルジ自身はルター派だった。彼はカトリックの王とプロテスタントの貴族層の間で綱渡りをしていた人物であり、一六〇八年に副王に就任している。この事件を処理したときの彼は、就任二年目の政治家だ。ここで存在感を示す必要があった、という読み方もできる。
この全部が重なった場所に、金持ちで、教養があり、プロテスタントで、後ろ盾の夫を失った、四十代後半の女性がいた。
構造としては、たぶん一番狙われやすい位置にいる。
## ネットではどう語られてきたか
日本語圏でこの人物が広く知られるようになった大きな要因のひとつが、桐生操による一連の著作だ。『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』をはじめとする本が版を重ね、文庫にも電子書籍にもなった。ここで提示された像は、基本的にトゥローツィ以来の伝説を軸にした、濃厚で娯楽性の高いものだった。日本語圏の「エリザベート・バートリ観」の相当部分は、この系譜の上にある。遠藤周作が『妖女のごとく』で彼女をモデルにした人物を出したのも、この題材の吸引力を示している。
ネット上の語られ方は、だいたい三層に分かれている。
一層目は、単純な猟奇まとめ。「史上最悪の女性殺人鬼」「六百五十人」「血の風呂」。ここでは伝説がそのまま流通する。
二層目は、その反動としての「実は冤罪だった」系。数年おきに定期的に盛り上がる。ハプスブルクの陰謀、借金の帳消し、宗教対立。ここで語られる内容は、おおむね正しい方向を向いている。ただ、勢い余って「彼女は完全に無実で、ただの有能な女領主だった」まで振り切ることが多い。証言三百件超という事実の重さが、この層では軽視されがちだ。
三層目は、キャラクターとしての消費。日本語圏だと、これが圧倒的に厚い。『Fate/EXTRA CCC』とその後の『Fate/Grand Order』に登場する「エリザベート・バートリー」は、アイドルを目指す竜の少女という設定で、原典の陰惨さをほぼ全部脱ぎ捨てている。同じ作品世界にはその成れの果てとして「カーミラ」が別個に存在し、こちらが伝説寄りの造形を引き受ける。ひとりの歴史上の人物が、キャラクターとして二重化して同居している状態だ。この分裂は、伝説と史実の分裂とちょうど相似形になっていて、なかなか味わい深い。
英語圏の掲示板やコミュニティでも、似た三層構造が観察できる。歴史系の質問板では「バートリの犯行はどこまで裏づけられているのか」という質問が定期的に投げられ、その度に「血の風呂は一七二九年の創作」「三百人超の証言はあるが大半は伝聞」「政治的動機は実在するが完全な冤罪とまでは言えない」という趣旨の長文回答がついて、また忘れられる。この忘却と再発見のサイクルが二十年近く回り続けている。
面白いのは、どの層でも「彼女が壁に塗り込められた」という話だけは異様に生き残ることだ。この一点は伝説側の描写なのに、冤罪説を唱える人ほど強調する。裁判もなく人間を壁に消した権力、という絵が使いやすいからだ。伝説の部品が、伝説を否定する側の武器として再利用されている。
## 映画、音楽、ゲームの中の彼女
映像作品での代表格は、一九七一年のイギリス映画『鮮血の女王』(原題は「カウンテス・ドラキュラ」)だ。イングリッド・ピットが演じる伯爵夫人が、若い娘の血で若返るというストレートな血の風呂もの。同じ一九七一年に『赤い唇』というベルギー・フランス合作もあり、こちらはデルフィーヌ・セイリグが吸血鬼としてのバートリを演じる。冷たくエレガントな造形で、こちらの方が今見ると新しい。
一九七三年にはヴァレリアン・ボロフチェックの『インモラル物語』の一編として、パロマ・ピカソが演じるバートリが登場する。芸術映画側からのアプローチだ。
二〇〇六年の『ステイ・アライブ』では、呪われたゲームの中の敵として登場する。二〇〇七年の『ホステル2』には「バートリ夫人」が出てくる。二〇〇八年のスロバキア映画『バートリ』は、ユライ・ヤクビスコ監督、アンナ・フリエル主演の歴史大作で、こちらは冤罪説寄りの立場で作られている。中欧の作り手がこの題材を扱うと冤罪説に傾く、というのは象徴的だ。
音楽での存在感はさらに強い。スウェーデンのブラックメタルバンド、バソリーは彼女から名前を取っている。北欧のこのジャンル全体の源流に位置するバンドであり、つまりブラックメタルという音楽ジャンルの根っこに彼女の名前が埋まっていることになる。イギリスのヴェノムには「カウンテス・バソリー」という曲があり、これはジャンルの名前そのものになったアルバムに入っている。クレイドル・オブ・フィルスの一九九八年のアルバムは、彼女の物語を丸ごと一枚使って語る構成だ。スレイヤーも二〇〇九年の作品で彼女に触れている。
ゲームでは、一九九四年の『悪魔城ドラキュラ』シリーズ作品に登場するエリザベート・バートリーが早い例だ。ドラキュラの姪という設定で、第一次世界大戦を引き起こして叔父を復活させようとする。二〇二三年のアニメシリーズでも、彼女を軸にした造形が使われた。日本のソーシャルゲームでの扱いは先に触れた通り。二〇二一年の『バイオハザードヴィレッジ』のドミトレスク夫人にも、彼女の影が指摘される。
ざっと並べると分かるが、彼女ほど「実在の人物」でありながら「ジャンルの共有財産」になった例は珍しい。ヴラド三世と並ぶ双璧だが、ヴラドの方は串刺し公という実在の記録に基づいた恐怖であるのに対し、バートリは記録にないもので恐れられている。ここが決定的に違う。
## チェイテ城は、いま
現地の話をしておく。
城は十三世紀半ば、ホント=パーズマーニ家のカジミールによって建てられた。もとは国境警備の拠点だ。馬蹄形の塔を持つロマネスク様式に始まり、十五世紀から十六世紀にゴシック様式へ、十七世紀にルネサンス様式へと改築されている。マーテー・チャーク、スティボル家といった有力者の手を経て、一五七五年にエルジェーベトの結婚祝いとして彼女の手に渡った。
彼女の死後、城は静かに衰えていく。一七〇八年、ラーコーツィ・フェレンツ二世の反乱軍に占領された。その後放置され、一七九九年に焼けた。以後二百年以上、廃墟のままだった。
二〇一〇年代に入って整備が進み、二〇一四年から観光地として本格的に開放されている。麓の駐車場からだと林の中を二十分ほど登る。駅から歩くルートはもっと急で、雨の日は滑る。城内には小さな博物館があり、肖像画や武具、当時のドレスの複製が展示されている。解説板はスロバキア語と英語。土産物屋もある。
丘そのものは国立自然保護区に指定されていて、希少な植物が生えている。血なまぐさい伝説の舞台が、いまは植物保護区だというのは、なかなかいい落ちだと思う。
麓のチェイテ村には聖ラースロー教会がある。エルジェーベトが最初に葬られたとされる場所だ。ただし墓は無標。中に本当に何かがあるのかも定かでない。生家のあるエチェドに移されたという伝承もあるが、確認は取れていない。
心霊の話も当然ある。訪問者による報告で多いのは、影のような人影、輪郭のはっきりした全身の姿、そして誰もいない場所からの声だ。伯爵夫人本人の霊が出るという話もあり、顔がない姿で現れる、というバージョンが語られている。顔がない、というディテールが個人的にはよくできていると思う。彼女の肖像画として流通しているものの多くは後世の複製で、本当の顔がどうだったのかは実のところ不確かなのだ。伝説が顔を奪った人物の霊が、顔なしで出る。話としてきれいすぎるくらいだ。
## で、結局なぜこの話はこんなに怖いのか
整理してみる。
第一に、加害者が女性であること。これは身も蓋もないが決定的な要素だ。近世ヨーロッパの語りの中で、女の暴力は男の暴力より何倍も異物として扱われた。同じ行為でも、女がやると「自然の秩序が壊れた」という次元の話になる。トゥローツィが一七二九年に血の風呂を書き込めたのも、当時の読者の中に「女は理性を欠き、虚栄と欲望に駆られる存在だ」という前提があったからだ。美貌のために人を殺す女という筋書きは、その前提の上でしか成立しない。伝説は彼女の罪より、当時の男たちの女性観の方をよく写している。
第二に、密室性。城という閉じた空間、外から見えない内部、上がったきり帰ってこない娘たち。これは怪談の基本構造そのものだ。しかも権力によって外部の目が遮断されている。「助けを呼べない」ことが構造として保証されている空間ほど怖いものはない。
第三に、若さと美への執着という動機。これが強い。誰でも身に覚えがあるからだ。金や権力への欲望は他人事にできるが、老いたくないという気持ちは全員が知っている。血の風呂の話が三百年生き延びたのは、猟奇的だからではなく、動機が身近だからだと思う。読者は彼女を理解できてしまう。理解できる怪物が一番怖い。
第四に、決着していないこと。彼女は裁判にかけられていない。有罪でも無罪でもない。遺体の所在も不明。日記も見つからない。生存者は証言していない。証人は全員処刑された。全ての決着点に穴が開いている。事件は閉じていない。閉じていない話は、何度でも掘り返される。
そして第五。これが一番だと思うのだが、この事件は「何が本当か分からない」という状態そのものが恐怖の中身になっている。血の風呂が創作だと知っても怖さは減らない。むしろ増える。なぜなら、創作でない部分が確実に残っているからだ。娘たちが城に上がり、帰ってこなかったこと。三百人以上が同じ噂を語ったこと。四人が拷問の末に焼かれたこと。ひとりの女が四年近く石の中に閉じ込められて死んだこと。
血の浴槽はなかった。それだけだ。それ以外は、たいがい本当に起きている。
## 記録が誰かの手に渡ると、何が起きるのか
ここまで書いてきて、自分でも整理がついてきたことがある。バートリ・エルジェーベトの物語は、事件の物語ではなく、記録が誰かの手に渡ったときに何が起きるかの物語だ。そこをもう少し掘りたい。
まず、この事件の史料構造がどれだけ特殊かを確認しておきたい。普通、歴史上の凶悪事件には「一次史料が乏しくて分からない」という限界がある。バートリの場合は逆だ。史料はある。三百件を超える証言記録があり、四人の自白調書があり、副王の書簡があり、娘婿たちの手紙があり、本人の遺言があり、私信が数百通残っている。十七世紀初頭の事件としては、むしろ異様に恵まれている。にもかかわらず、何が起きたのか分からない。
これは史料の量の問題ではなく、史料の性質の問題だ。証言のほぼ全部が伝聞である。自白の全部が拷問下で取られている。書簡は全て利害関係者が書いている。遺言は逮捕を予期した状況で作られている。つまり、どの文書も「誰かが何かを企図して作った文書」であり、中立な記録がひとつもない。事実を映す鏡がなく、意図の反射だけが積み重なっている。
この状態で、我々は何を言えるのか。言えることは実はある。「誰が何を言いたかったのか」は、かなり正確に復元できるのだ。トゥルゾーは自分の政治的立場を守りたかった。娘婿たちは一族の名誉と所領を守りたかった。王は金の問題を解決したかった。デジェーとシルヴァーシは自分たちの帳簿を守りたかった。四人の使用人は生き延びたかった。村人は消えた娘の説明が欲しかった。トゥローツィは読ませる本を書きたかった。
これらの意図を全部並べると、事件の周りに人間の動機の見本市ができる。そしてその中心に、何も語らなかった人物がひとりだけ立っている。エルジェーベト本人だ。彼女は否認した、とされる。だがその否認の詳細な記録がない。四年近く生きていたのに、何を考えていたのか分かる文書がほとんど残っていない。事件の中心に穴がある。
この穴の形が、四百年にわたって物語を吸い込んできた。
次に、伝説の生成過程についてもう一段深く考えたい。
一七二九年という年に注目すると、いくつかのことが同時に起きている。ハプスブルク領の東部辺境で吸血鬼騒動が最高潮に達していた時期であり、同時に啓蒙主義が台頭しはじめた時期でもある。この二つは矛盾しない。むしろセットだ。理性の光が当たりはじめると、影の輪郭がはっきりする。それまで漠然と信じられていたものが、「これは迷信である」と名指しされることで、初めて物語として自立する。吸血鬼が学問の対象になった瞬間に、吸血鬼は娯楽になった。
トゥローツィのバートリも同じだ。彼は歴史書を書いていた。歴史として書いたからこそ、この話は口承とは違うステータスを得た。活字になり、著者名がつき、書物の中の一節として引用可能になった。伝説が引用可能になると、加速度がつく。ヴァーゲナーが引用し、ベアリング=グールドが引用し、二十世紀の怪奇作家が引用する。誰も原典を検証しない。検証する必要を感じないからだ。既に活字になっているものは、活字になっているという事実だけで信用される。
これは現代のネットでの情報伝播と全く同じ構造をしている。まとめ記事が別のまとめ記事を参照し、参照元が失われても数字だけが生き残る。六百五十という数字が四百年かけてやったことを、いまの情報環境は数日でやる。バートリ事件は、情報の劣化と自己増殖の、最も長期の観察例なのだ。四百年分のデータが揃っている実験室だと思えばいい。
もうひとつ、あまり語られない論点を出しておきたい。この事件で最も割を食ったのは誰か、という話だ。
答えははっきりしている。四人の使用人である。
エルジェーベトは幽閉されたが、貴族としての扱いは最後まで残った。所領は子に渡り、家は存続した。息子ナーダシュディ・パールは何の問題もなく家督を継いだ。一族の名誉は、娘婿の言葉を借りれば「守られた」。
一方、イロナ・ヨーとドロッチャ・センテシュは、焼けた鉄鋏で指を引き抜かれてから生きたまま焼かれた。フィツコは首を落とされて焼かれた。エルジ・マヨロヴァも焼かれた。カタリン・ベネツキーは牢に消えて記録から消えた。
彼らは全員、拷問下で語らされた。彼らの言葉が、四百年後のいま我々が読んでいる唯一の「証言」である。この事件について何かを語ろうとするとき、我々は必ず、拷問で引き出された言葉を経由することになる。血の伯爵夫人の物語を消費するということは、この四人の悲鳴を経由して物語を味わうということだ。ここは意識しておきたい。
そして、消えた娘たち。名前が残っているのはごくわずかだ。ドリツァ。靴屋の娘イロンカ。カタ。これだけである。仮に数十人が死んだとして、そのほとんどは名前もなく記録から落ちた。生き残ったひとりの娘に至っては、名前すら書き留められなかった。事件の被害者として最も語られるべき人間が、最も語られていない。
物語が誰を主役にするかは、いつも権力の勾配に沿っている。伯爵夫人は主役になった。彼女は名前を持ち、顔を持ち(実際には不確かな肖像だが)、動機を与えられ、映画になり、ゲームのキャラクターになり、バンド名になった。殺されたとされる娘たちは、数字になった。六百五十という数字に。個人が数字に還元されるプロセスとして、これほど分かりやすい例もない。
さて、では結局、彼女は何をしたのか。
正直に言うと、僕は「グレーの濃いところ」にいたと思っている。無実だとは思わない。証言の量と、噂の発生時期の早さと、聖職者の苦情が政治的な動きより先行していた事実は、無視するには重すぎる。館の中で娘が死んでいたのは、たぶん本当だ。
同時に、彼女が特別な怪物だったとも思わない。当時のハンガリー貴族の館で、召使いが打たれて死ぬことは、法的にも社会的にも「事件」ではなかった。彼女がやっていたことは、程度の差はあれ、周囲の館でも起きていた可能性が高い。彼女が裁かれたのは、それが異常だったからではなく、彼女が金と土地と信仰の点で標的として適切だったからだ。そして一六〇九年に下級貴族の娘を預かる学校を開いたことで、免責の壁に自分から穴を開けてしまった。
この読み方は、有罪説にも冤罪説にも収まらない。だからどちらの陣営からも歓迎されない。「怪物だった」なら痛快で、「無実だった」なら義憤が湧く。「時代の平均値で、政治的に選ばれた」だと、誰の感情も動かない。
だがこれが一番怖い結論だと思う。なぜなら、これは彼女が特別ではなかったという意味だからだ。特別な悪魔がひとりいた話ではなく、あの時代のあの階層では、それが日常の一部だったという話になる。ひとりの怪物は退治できる。日常は退治できない。
最後に、この題材の現在について。
近年、ハンガリーやスロバキアの側から、伝説を解体する方向の研究や記事が増えている。三百二十七件の証言のうち評価に耐えるのは百七件、実質的な内容を持つのは十人程度、という精査もその流れの中にある。所領の棚卸しと証言の発生を結びつける読み方も出てきている。英語圏では、私信の翻訳や裁判史料の紹介が進み、法制史の観点から手続きの違法性を細かく検証する試みもある。研究者の中には、彼女を宗教的にも思想的にも進んだ人物として再評価しようとする者までいる。
一方で、伝説は全く衰えていない。むしろゲームやアニメを通じて、かつてないほど広い層に届いている。史実を知る人は増えたが、伝説を知る人はもっと増えた。差は縮まっていない。開いている。
これは失敗ではないと思う。伝説には伝説の仕事がある。血の浴槽に沈む伯爵夫人という像は、四百年かけて、人が老いを恐れる気持ちと、権力が閉ざした扉の向こうを想像する恐怖と、女性の力に対する社会の落ち着かなさを全部吸い込んだ、巨大な容れ物になった。史実がそれを解体しても、容れ物の需要は消えない。
だからこそ、両方知っておく価値がある。血の風呂は一七二九年に生まれた作り話だと知ったうえで、その作り話が三百年生き延びた理由を考える。三百二十七件の証言が大半伝聞だと知ったうえで、それでも噂が生まれた土壌を考える。彼女が裁かれなかったと知ったうえで、代わりに焼かれた四人のことを考える。
チェイテ城の丘は、いまは珍しい植物が生える自然保護区だ。夏には草が生い茂る。石垣の隙間から風が抜ける。麓の教会には印のない場所があって、そこに誰かがいるのかいないのか、誰も確かめていない。
四百年たっても、この件はまだ閉じていない。
