サイレンが鳴ると、町は一瞬で色を失った
夏の陽ざかり、あるいは夜半過ぎ。空襲警報のサイレンが鳴り響くと、町はいつも一瞬にして色を失った。
灯火管制で消されていた電灯すら意味をなさなくなるほどの閃光。腹の底に響く爆音。十一歳だった少女は、まだ幼い体でその轟音の渦の中を必死に走っていた。彼女はのちに祖母となり、孫たちにこの記憶を語ることになる。
一つ目の記憶は、地方都市での空襲の夜のことだ。
逃げ惑う人々の中に、誘導にあたる若い兵隊がいた。彼は怒鳴るでも急かすでもなく、ただ「ここは危ないからあっちへ逃げなさい」と、群衆をかき分けながら安全な方向を指し示し続けていた。
少女はその声に従って走った。命を拾った。
だが翌朝、その兵隊は遺体で発見された。名前も知らない。階級章すら覚えていない。ただ「若い兵隊さん」としか記憶に残らなかった人物である。
同じように、少女の曾祖父にあたる人物も命を落とした。町内会長として近隣住民の避難誘導の先頭に立ち続け、自分の避難が最後になった結果、逃げ遅れたのだという。
二人はともに、他人を先に逃がすことを選び、その代償として自分自身が炎の中に取り残された人々だった。
「逃げてるんじゃないよ非国民!」
二つ目の記憶は、もっと生々しい。
終戦のわずか数日前、少女は隣町で小規模な空襲に遭遇する。疎開先だったのか、焼け出された後の避難先だったのかは分からない。すでに自宅は燃え、両親を失っていた少女は、無我夢中で逃げていた。
そこへ、見ず知らずの中年女性が怒鳴りつけてきたのだという。逃げてるんじゃないよ非国民。
焼け跡と土埃にまみれ、精魂尽き果てていたであろう少女は、その瞬間、抑えていた何かが決壊するように怒鳴り返した。親が死んでるんだよ。うちも燃えちゃったんだ。
相手の女性は、それきり黙り込んだ。何を思っていたのかは分からない。自分の言葉の残酷さに気づいたのか、それとも極限状態にあった自分自身への嫌悪だったのか。
孫は祖母からこの話を聞いたとき、こう受け止めている。終戦間際、もう限界で一般市民もどっかおかしくなってたのか。
幽霊も出てこない話が「不思議な話」に収められた理由
この証言が世に出たのは、体験談・不思議な話の投稿を集める「coredake!ミステリー」というサイトである。「戦争にまつわる不思議な話」太平洋戦争編というコーナーだ。
こうした戦争体験の証言投稿は、幽霊譚や怪奇現象を主に扱う不思議な話のまとめの中に、しばしば異色のジャンルとして紛れ込む形で存在してきた。実際にこの証言には幽霊も超常現象も一切登場しない。
それでもこの種のサイトに採録され続けるのは、投稿者自身が「祖母から聞いた話」を、恐怖体験や不可解な出来事の延長線上にあるものとして書き留めたためだと考えられる。
戦時中の記憶を語り継ぐ場は年々失われつつある。家族の口伝えで受け継がれた証言が、不思議な話の投稿サイトという意外な受け皿を通じてかろうじて記録・拡散されていく。この現象自体が、現代における戦争体験継承の一つの形になっている。
投稿者は自身のことを「孫」と位置づけ、こう書き添えている。祖母は若い頃はけして自分から語らなかった戦争の話を、年老いたせいか、孫たちに少しずつ話してくれるようになった。
この一文こそが、証言の重みを支えている。何十年もの沈黙を経て初めて語られた記憶であるという事実が、単なる昔話以上の切実さを与えているのだ。
その言葉は、就職も婚約も壊した
「非国民」という語そのものは、日中戦争から太平洋戦争にかけて特に多用されるようになった言葉である。国家への協力を怠る者、あるいは国策に非協力的とみなされた者を指弾する際に使われた。
単なる悪口ではない。社会的な制裁を伴う、極めて重い烙印だった。
一九三二年、上智大学の学生が信仰上の理由から靖国神社参拝を拒否した事件では、新聞が彼らを非国民と書き立てた。その結果として就職の道を絶たれたり、婚約を解消されたりする者まで出たと伝えられている。
兵役に就けない障害者が、国家からの戦力外通告を受けたに等しい扱いを受け、自ら命を絶つ例まで記録に残っているという。この言葉の破壊力は、現代の想像をはるかに超えるものだった。
十軒ごとに張られた監視の網
この言葉が家庭や隣近所という最も身近な空間にまで浸透した背景には、「隣組」という制度がある。
一九四〇年、内務省の通達によって全国に組織化されたこの制度は、江戸時代の五人組・十人組という相互扶助の慣習を下敷きにしていた。十軒前後の世帯を一組として結束させ、防空活動や物資供出、配給といった戦時動員の末端組織として機能した。
規模を見ると、その徹底ぶりに驚く。一九四一年の時点で、全国におよそ百二十万もの隣組が存在し、事実上すべての国民がいずれかの組に組み込まれていたとされる。
表向きは相互扶助の組織だ。だがその実態は、隣保団結の精神の名のもとに、住民同士が互いの行動を監視し合う装置でもあった。
内閣情報局が残した資料には、なかなか恐ろしい記述がある。空襲時の消火活動に協力しない、あるいは物資を買いだめするといった、自分や家族の安全を優先する行動そのものを「非国民的」と規定しているのだ。
つまり、空襲から逃げる行為そのものが、当時の空気の中では後ろ指をさされかねない行為だった。少女に浴びせられた罵声は、この巨大な監視システムが末端の個人の口から噴き出した、ごく典型的な瞬間である。
砲弾より怖かったもの――佐々木テルさんの記憶
coredakeの祖母の証言と驚くほど重なる実在の証言が、二〇二〇年に朝日新聞によって報じられている。
岩手県大槌町に暮らしていた佐々木テルさん、当時九十七歳。太平洋戦争末期に起きた釜石艦砲射撃を経験した人物だ。
米英連合軍艦隊による艦砲射撃で七百八十二人以上が犠牲になったとされるこの日、佐々木さんは「働きに行かねば非国民だ」と後ろ指をさされることを恐れ、危険を承知の上で軍需工場へ向かったという。
わずか二時間で二千五百六十五発もの砲弾が撃ち込まれる中、彼女は防空壕で息を殺して耐えた。砲撃がやんで壕の外に出ると、あたりは一面の火の海と化し、瓦礫のあいだに折り重なるように遺体が横たわっていたと証言している。
非国民と呼ばれることへの恐怖が、砲弾そのものよりも人々の行動を強く縛っていた。この事実は、coredakeの祖母の証言が特殊な例外ではなく、当時の日本社会に広く根を張っていた構造的な現象だったことを裏づけている。
逃げてきた子どもが、逃げた先でまた排除される
戦時下の日本社会が生んだ排他の構図は、空襲下の罵声だけにとどまらない。
都市部から地方へ避難した学童疎開の子どもたちが、受け入れ先の地域で「よそ者」として差別やいじめを受けたという証言も数多く記録されている。空襲を逃れて疎開してきたはずの子どもたちが、今度は疎開先の子どもたちから都会の子、余所者として排斥されるのだ。
加害者側だった人物が、七十年以上の時を経てから当時を悔い、被害者を探し出して謝罪の旅に出たという報道も存在する。
怒鳴るおばさんも、疎開児童をいじめた子どもたちも、根底にあるのは同じ心理だったと考えられる。極限状態にある共同体は、しばしば外部から来た者、あるいは自分たちの規範から外れた行動を取る者に対して、攻撃性を集中させる。空襲という理不尽な暴力にさらされ続けた人々が、その恐怖と苛立ちのはけ口を、より弱い立場の他者に向けてしまう。
誘導した者が死に、指揮した者が生き残る
証言に描かれた構図――誘導してくれた若い兵隊が翌朝には遺体で見つかった、町内会長だった曾祖父が逃げ遅れて死んだ――もまた、記録に残る空襲被害の実態と符合する。
空襲時、住民の避難誘導や初期消火の最前線に立たされたのは、決まって若い兵士や、町内会長・隣組長といった民間の末端責任者たちだった。彼らは持ち場を離れることを許されず、結果として爆撃の直接的な危険に最後まで身をさらし続けることになった。
一方、指揮系統の上位にいる将校や行政の幹部は、比較的安全な防空壕や後方の指揮所に退避できる立場にあることが多かった。
東京大空襲や大阪大空襲の記録類でも、警防団員や国民学校の教員、町会役員が、住民を誘導しながら自らは逃げ遅れて命を落とした例は数多く報告されている。彼らの死はしばしば殉職として顕彰される一方、その大半は名前も残らないまま忘れられていった。
coredakeの証言者が「若い兵隊さん」の名も知らないまま語り継いでいるのは、まさにこの典型例である。
沈黙が数十年も続いた理由
「若い頃はけして自分から語らなかった戦争の話を、年老いたせいか、孫たちに少しずつ話してくれるようになった」という一節は、戦争体験者に共通してみられる現象として、複数の研究者・報道機関が指摘してきたところでもある。
防衛大学校で軍事社会学を専門とする研究者が、平成四年から六年にかけて元日本兵およそ六十人へ聞き取り調査を行った際にも、多くの元兵士が家族にすら戦闘体験を詳細に語らなかったという実態が明らかになっている。
臨床心理学の観点からは、こう分析されている。自分だけが生き残ってしまったという罪悪感。自分よりもっと過酷な経験をした人がいるという遠慮。それらが長年にわたって語りを困難にしていた。
一方で、高齢になり社会的な役割や体力が衰えるにつれて、抑え込んでいた記憶があふれ出すように語られ始める例も少なくない。夜な夜な戦友の名を呼びながら点呼を続けたという、認知症が進んだ元兵士の証言も伝えられている。
心の奥底に刻まれた極限体験は、時間が経っても決して消えない。老いによって理性の抑制が緩んだとき、再び「いま、ここ」で起きているかのように立ち現れるのだという。coredakeの祖母もまた、長い沈黙の果てに、ようやく孫たちにその記憶を託すことができたのだろう。
「今の日本にも同じ空気がある」と書き込まれる
戦争体験の証言をまとめたサイトや自治体の平和資料アーカイブのコメント欄、あるいは孫の世代がSNSやnoteに書き残す祖父母の戦争体験記には、共通する反応のパターンが見られる。
一つは後悔の声だ。もっと早く、もっと詳しく聞いておけばよかった。祖父母が存命のうちには聞く機会を逃し、亡くなってから初めてその重みに気づいたという述懐は、数え切れないほど繰り返されている。
もう一つは、「非国民」という言葉が持つ現代的な既視感への言及である。自粛要請や同調圧力といった現代の社会現象と、戦時中の隣組による相互監視を結びつけて論じる向きは根強い。この種の証言が紹介されるたびに、今の日本にも同じ空気がある、といった感想が寄せられる傾向にある。
少女が浴びせられた罵声と、それに怒鳴り返した反骨。それは単なる過去の悲劇としてではなく、極限状況における人間の弱さと強さの両方を映す鏡として、繰り返し語り直されている。
この証言に幽霊もオカルト的な現象も登場しないにもかかわらず、不思議な話として記録され続けているのは、平時の道徳では到底理解しがたい人間の変貌のせいだろう。見ず知らずの少女を怒鳴りつける残酷さと、名も知らぬ兵士や町内会長の献身が、同じ空の下で同時に起きていた。その事実そのものが、平和な時代を生きる読み手にとって現実離れした「不思議」に映るのだ。
戦争体験者の高齢化が進み、直接の証言を聞ける機会が年々失われていく中で、この短い証言は、名も知らぬ兵士や町内会長、そして怒鳴り合った二人の女性の記憶を、かろうじて現代に留める貴重な記録であり続けている。
