奈良盆地の東南に、やけに大きな遺跡がある
奈良県桜井市の纒向遺跡は、奈良盆地東南部に広がる3世紀を中心とする大規模遺跡だ。三輪山を東に仰ぐ一帯で、見えるのは田畑と住宅地ばかりだ。石垣も天守も、復元された宮殿もない。見た目は郊外。
それでも、邪馬台国の話が出るたびにこの名前が顔を出す。確認されたものは、計画性をうかがわせる溝と建物群、祭祀具、各地系統の土器、初期古墳群だ。掘れば出てきた。纒向は、列島規模の人・物の結節点として重要視される。一つの村の暮らしには、どうやっても収まらない品揃えなんだよな。
掘って出てきたのは、ただの村ではなかった
発掘された遺構・遺物が示すのは、地域の通常集落だけでは説明しにくい集約機能と広域交流だ。人が集まり、物が運ばれ、何かが繰り返し行われた痕跡が濃い。村の枠を超えた。
3世紀前半の区画溝から出た犬骨、木製仮面・盾・鎌柄など、祭祀や外来系文化を考える資料もある。犬の骨も出た。どれも、ありふれた農村の土から出てくる品じゃない。
ただ、先に一つ断っておく。遺跡全体は未調査部分が大きく、中心域の復元は更新途上にある。今の纒向像は完成図というより、途中経過だ。
王権の中枢か、女王の都か、季節の市か
纒向の性格については、「初期ヤマト王権の中枢」「邪馬台国の都」「祭祀・交易の季節的拠点」など、毛色の違う説明がある。どれも出土した遺構と遺物から組み立てられていて、一つに絞る決め手が出ていない。
卑弥呼の時期と重なること、箸墓古墳が近いことは重要だが、国名・人物名を記した同時代銘文は未発見だ。年代と距離が近い、という状況だけが手元にある。
広域交流の印とされる外来系土器も、人の移住・交易・献上など複数の仕組みで説明可能。経路は複数あった。土器が動いた理由を、支配の一択に絞れない。
見出しの断定に飛びつく前に
大型建物=女王宮殿、木製仮面=卑弥呼の祭具、犬骨=卑弥呼の犬、という個別同定は、どれ一つとして証明されていない。どれも結びつけたくなる材料ではあるが、名前を書き残した同時代の証拠はない。
だから纒向の話を読むときは、報道見出しと発掘報告書の記述を区別する。混ぜると、面白い物語は残っても遺跡そのものは見えなくなる。
田園の下から現れた三世紀の拠点
奈良県桜井市の纒向遺跡を歩くと、目に入るのは三輪山を東に仰ぐ田畑と住宅地だ。復元された宮殿が立ち並んでいるわけでもない。遺跡の範囲は広く、現代の集落や農地と重なる。だから、調査できるのは工事予定地や発掘区として開けた小さな区画に限られる。
現在語られている「纒向像」は、そうした多数の調査区から得た建物跡、溝、土器、木製品をつなぎ合わせたものだ。穴だらけの下絵から、全体像を起こしていく作業に近い。穴を埋めて作った。
一八三次まで掘った。桜井市の保存管理計画によれば、二〇一五年までの第一次から第一八三次までに発掘された面積は約五万平方メートル。数字は大きいが、推定される遺跡全体では一部にすぎない。中心部の配置も周縁の使われ方も、調査のたびに書き換わる余地を残している。
それでも纒向は特別だ。二世紀末から四世紀にかけての短い期間に、大規模な施設、広域から運ばれた土器、祭祀に用いたらしい品々、最初期の前方後円墳が狭い地域へ集まるからだ。
弥生時代から同じ場所で普通の農村が徐々に大きくなった、という姿とは異なる。三世紀に新たな目的を帯びた拠点が立ち上がったように見える。何かが変わった。その急な変化が、邪馬台国や初期ヤマト政権をめぐる議論を引き寄せてきた。
住む場所より、人が集まって働く場所
巨大な遺跡なら人口の多い都市だったと思いたくなる。ところが、三世紀に確実に属する竪穴建物は、遺跡の規模に比べてあまりに少ない。無いのは家の跡。保存計画でも、当時の一般的な居住施設が十分に確認されていない点が重要な特徴として扱われている。
もちろん、発掘範囲の偏りは考慮しなければならない。それでも、「多数の家族が密集して暮らす町」という絵をそのまま当てはめるのは難しい。
代わって目立つのが、掘立柱建物、物を運ぶ水路、区画のための溝、祭祀土坑だ。薄いのは暮らしの跡。日常の住まいより、集会、儀礼、物資の集積、製作、饗宴などの活動のほうに、はっきり比重を置いた場所だったのかもしれない。常住者が少なく、必要な時期だけ各地から人が集まったとする見方も、この遺構構成から生まれた。
ただ、住居跡が少ない理由は一つに決められない。原因の候補は複数。後世の耕作や河川作用で浅い遺構が根こそぎ失われたのかもしれず、まだ掘っていない区域に居住域が残っている、という線もある。建物の形式が別の地域と異なり、発見しにくい場合もある。
偏りが見つかった。結局、「住民のいない祭都」と断定するより、これまで見つかった施設の偏りを手掛かりに、拠点の性格を探る段階にある。
大型建物群は何を示すのか
軸が揃っていた。辻地区では、柱を地面に据えた建物が東西方向の軸をはっきり意識して並び、その一角から大型の建物跡が検出された。建物同士の位置関係や建て替えの順序が検討され、三世紀前半の中心施設を考える有力な資料だ。
これは、自然に家が増えただけでは生まれにくい配置だ。土地を測り、柱材と労働力を集め、全体を計画した主体がいたことをうかがわせる。誰かが設計した。
大型で整然とした建物だから、一定の権力をもつ人々が使用した可能性は高い。床の上で何が行われ、誰が座ったかは柱穴から直接読めない。柱の穴は建物の大きさと並びをはっきり教えてくれても、そこで座った人の身分や役目までは何も記録しなかった。政治的な会合、儀礼、物資の管理、来訪者を迎える施設など、用途には幅がある。
中国史書に記された卑弥呼の「宮室」へ直結させるには、年代だけでなく、機能や使用者を示す別の証拠が要る。しかも、そこがいちばん埋まっていない部分なんだよな。
建物群の評価では、同じ地面に存在した時期の確認も欠かせない。発掘平面図に複数の建物が見えても、すべてが同時に立っていた保証はない。前後の柱穴をまとめて宮殿群と描けば、実際より壮大になる。柱穴の重なり、埋土、出土土器を比べる。どの建物が共存したかを整理して初めて、当時の景観へ近づける。
外来系土器が語る広い往来
遠くの器が混じった。纒向で出土する土器のうち、他地域の特徴をもつものは時期によって一五%から三〇%ほどに達するという報告がある。北部九州、瀬戸内、山陰、北陸、東海、近畿の別地域、さらに関東へつながる系統が認められる。三世紀中頃から後半に比率が高くなり、列島各地から人や物が集まる結節点だったことを強く印象づける。
土器は単なる荷物じゃない。煮炊きや貯蔵に使う器には、地域ごとに作り方や形の癖がある。遠方の器が持ち込まれたなら、食料や贈答品とともに運ばれた場合がある。故郷で使い慣れた器を携え、人が移動した可能性もある。
外から来た製作者が纒向付近の粘土をそのまま使い、故郷ゆずりの技法で焼いたなら、形は外来系でも生産地は地元になる。この違いを見分けるため、形態だけでなく胎土、鉱物組成、焼成の痕跡などが調べられる。
「九州系の壺が一個出たので、九州勢力が支配した」という読み方は成り立たない。壺は出た。交易、婚姻、使節、職人の移住、儀礼への参加など、人と器が動く経路は複数ある。
見落とせないのは、異なる背景をもつ人々が継続して纒向に関わったらしいことだ。その往来を受け入れる仕組みが纒向に存在したことも同じだ。
桃の種、木の仮面、祭りの痕跡
二千個を、超えた。辻地区の大きな土坑からは、二千個を超える桃の種をはじめ、植物質の遺物や土器などがまとまって見つかった。二千個は、うっかり落とした数じゃない。桃は中国の思想や後世の日本の儀礼で邪気を払うという扱いだ。だから、祭祀の後に一括して捨てた穴ではないか、という見方が強い。
ただ、種だけで儀礼の名称や主催者までは分からない。食べた桃の廃棄、供物、饗宴が組み合わさった可能性も検討される。
埋没した旧河道の周辺では祭祀土坑がまとまり、木製の鳥、船、高坏など、日常道具を小さく表した品も出土した。川べりに穴が並んだ。水辺を境界とみなし、祈りや送りの場に選んだ光景を想像させる。
動物骨や植物遺体を含む例では、何を食べ、何を供え、どのように片づけたのかを、土の中の配置そのものから読み取る。手順が残った。土の断面が、そのまま行為の記録になる。
第一四九次調査で出土した木製仮面は、三世紀前半のものとされる国内最古級の例で、樫製の鍬を作り替えている。元は樫の鍬だった。縦約二六センチ、横約二二センチの板に目と口が開けられ、顔に当てることを意識した形をもつ。
仮面を用いる演技や儀式を考えさせる一方、誰を表したのか、実際に人が装着したのかは確定していない。「卑弥呼が使った仮面」と紹介すれば、年代が近いという状況証拠を人物同定へすり替えてしまう。
古墳の形が整っていく過程
纒向周辺には、古墳時代の始まりに欠かせない墳墓が集中する。狭い範囲に並んだ。纒向石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノ山、箸墓などだ。後円部に小さな突出部を付けたような一群は、「纒向型前方後円墳」と呼ばれる。そこから巨大で整った箸墓古墳へ至る変化が論じられてきた。
前方後円墳は、ある日に完成形が発明され、全国へ同じ設計図が配られたわけでもない。弥生時代の墳丘墓には円形、方形、突出部をもつものなど地域ごとの伝統があった。円いものも四角いものも、突出部を付けたものも、それぞれの土地でそれぞれの理屈にしたがって積まれ、隣とそろえる理由を持たなかった。
纒向周辺の古墳と、瀬戸内や吉備、九州などの墳墓を比べてみる。重なりが出た。すると、形、葺石、埋葬施設、祭祀の方法が選び直され、共通性を増していく過程が見える。
古墳の築造順を決める基準の一つが土器だ。周濠や墳丘周辺から出た庄内式、布留式などの土器を、集落の層序や型式変化と照らし合わせる。
纒向で組み立てられた土器編年は三世紀を細かく考える土台になった。目盛りが生まれた。ただ、古い土器の混入、築造中と完成後の廃棄の違いがある。纒向石塚をはじめ、早い段階の古墳の年代には現在も議論があり、一本の年表だけが確定しているわけでもない。
初期ヤマト政権の中枢という見方
大型施設を計画する力、各地から人と物を集める力、新しい墳墓形式を共有させる力。力の集まる一か所。これらを一か所で捉えられることから、纒向を初期ヤマト政権の中枢とみる説には厚い根拠がある。後の大和王権が展開する奈良盆地に位置し、三輪山麓という交通と信仰の要地をそのまま占めることも、その評価を支える。
「政権」と呼んでも、律令国家のように役所と法で全国を一元統治した姿を想定する必要はない。地域集団の首長が儀礼や婚姻、贈答、軍事協力で結びつく。その調整役となる王が頭角を現した段階かもしれない。
外来系土器の多さは、中央が地方を完全支配した証明にならない。北部九州から関東までの器が同じ土地へ運び込まれた事情を、上からの命令だけで説明しきるのは難しい。地方側も独自の利害で集まった連合の痕跡と読む余地がある。
それから、纒向が重要だった時期と、後の王宮が別の場所へ移る時期を分けて考える必要がある。拠点の盛衰は王権の消滅だけでなく、河川環境、交通路、墓域、儀礼の中心が変わった結果でも起こる。一都市をそのまま一王朝と対応させると、遺跡の複雑な使われ方が見えなくなる。
邪馬台国畿内説を支える点、決め手にならない点
邪馬台国畿内説では、三つの点が重視される。纒向の形成時期が、卑弥呼の活動した三世紀前半から中頃と重なること。列島規模の交流が認められること。それに、巨大な箸墓古墳が近接することだ。
『魏志倭人伝』が伝える女王の都に相当する規模と政治性をもつ候補として、纒向は外せない。この点だけなら、畿内説は強い。
ところが、中国史書の方角と距離をそのまま積み上げると、邪馬台国の所在地をめぐる解釈は分かれる。決着は、まだ先。旅程記事には水行と陸行の読み方、起点、当時の距離単位、写本上の問題が絡む。
考古資料側でも、決め手は出ていない。魏との交渉を直接に示す紀年銘の鏡や、「邪馬台国」「卑弥呼」とはっきり読める文字資料が、纒向の土から出たわけでもない。
大型建物、祭祀具、箸墓を一続きの物語にしてみる。すると、「卑弥呼の宮殿で祭りを行い、死後に箸墓へ葬られた」という鮮明な場面ができる。できすぎた場面。けれど、各資料は出土地点も年代幅も証明できる範囲も異なる。組み合わせが有力な仮説であることと、個々の名称まで判明したことは別だ。
北部九州説など別の所在地論も、文献の旅程、対外交渉の窓口、中国製品の分布を根拠にして、きちんと組み立てられている。所在地論を比べる際に、都合のよい資料だけを一地域へ集めてはいけない。同じ年代基準と同じ厳しさで、双方の証拠を点検しないと意味がない。
纒向が初期ヤマト政権の重要拠点であることが認められても、それだけで邪馬台国と同一になるわけでもない。ここは何度でも念を押しておきたい。
「都市」という言葉の中身
纒向は「日本最初の都市」とも表現される。この言葉が指す範囲は、人口密度の高い恒久的な市街地だけにとどまらない。政治的な集会、儀礼、交易、手工業を受け入れ、周辺から食料や資材を供給される。そういう中心地という意味で使われる場合がある。
三世紀の纒向に現代の都市像を重ねれば、道路沿いに家や店が隙間なく並ぶ復元図になってしまう。ところが、旧河道、湿地、耕作地、空閑地の間に施設群が点在する。隙間だらけの土地。必要に応じて人が往来した景観だったらしい。
水路は物資輸送に役立つ一方、洪水や堆積で施設配置を変える要因にもなった。便利さと危うさが同じ場所に並んでいた。
季節的な集会拠点という説は、居住跡の少なさと外来系土器の多さを説明しやすい。ただ、季節利用を直接記した暦や文書はない。
政治中枢、祭祀場、交易地という候補は、どれか一つを選ばせる関係にない。同じ場所が時期や機会によって複数の役割を担ったと考えるほうが、資料の幅に合う。
発掘成果が変える纒向像
発掘は地面を掘り下げるため、同じ場所を元に戻して再調査することが難しい。柱穴の土色、遺物の高さ、重なった地層を図面、写真、三次元データに残す。それから、遺物を洗浄して報告書を作る。現地発表の直後に出た仮の年代や用途が、整理作業を経て修正されるのは珍しくない。
報道では「卑弥呼の宮殿発見」のような短い見出しが先に広まる。見出しと報告は別物。研究紀要や発掘報告書を読むと、建物の時期幅、欠けた範囲、類例、別解釈が詳しく記されている。
刺激的な呼び名を叩くのが目的じゃない。どの観察事実からどこまで推定したかをたどることで、その発見がどれほどの重みをもつかを正確に理解できる。
纒向の魅力は、名前の付いた王を一人だけ探すことに尽きない。三世紀の列島で、離れた地域の人々がどのように出会い、儀礼を共有し、巨大墳墓を造る政治関係へ移ったのか。それを一つの地域で追える点にある。
未調査部分の大きさは弱点であると同時に、次の小さな調査区ひとつが、これまでの配置や年代をまるごと変える可能性を残している。纒向の話が何度も書き換わるのは、そういうわけだ。
