- 高速道路の脇に、三十メートルの丘がある
- アメリカン・ボトムという、異様に恵まれた土地
- 1050年、「ビッグバン」が起きる
- 62万立方メートルの土を、籠で運ぶ
- 都市の設計図――大広場、土手道、五度のずれ
- ウッドヘンジ――高速道路が掘り当てた太陽暦
- メルビン・ファウラーの、地図の上の推理
- 二万個のビーズの上に横たわる人
- 周囲に埋められた人々
- 2016年、「男二人」が崩れた
- カフェインを飲んでいた街
- 壁が建つ
- 一夜で焼けた街
- 仮説その一――ミシシッピ川が街を洗った
- 仮説その二――百四十五年のうち百四十年が旱魃だった
- 仮説その三――木を切りすぎて自滅した
- 反証その一――土は、動いていなかった
- 反証その二――旱魃も、決め手にならない
- 仮説その四――内側から壊れた
- ヴェイカント・クォーター――誰もいなくなった四半分
- 子孫は、いまもいる
- 掘られる側の歴史
- 「マウンドを掘ると祟る」という、よその国の物語
- 太陽が丘から昇るのを、まだ見に行ける
高速道路の脇に、三十メートルの丘がある
アメリカのイリノイ州、コリンズビル。州間高速55号線と70号線が重なって走る区間を車で流していると、右手にやたらとでかい丘が見えてくる。緑の芝に覆われた、四角い台形の山。高さはおよそ30メートル、ビルにして十階建てだ。初めて見た人はたいてい「あれ、なんかの造成地?」と思う。そのまま通り過ぎる。
通り過ぎないでほしい。あれは自然の丘じゃない。人間が、籠で土を運んで積み上げた人工の山だ。名前はモンクス・マウンド。メキシコ以北の南北アメリカ大陸で最大の先住民建造物であり、1867年まではアメリカ合衆国で最も高い人工構造物だった。土砂の量は約62万立方メートル。底面積は13ヘクタール強で、エジプトのギザの大ピラミッドの底面よりわずかに広い。
そしてこの丘は、単独で立っているわけじゃない。周囲にはかつて120基前後のマウンドが並んでいた。木の柱を円形に並べた天文観測施設があった。フットボール場45面分の広さを持つ大広場があった。碁盤の目のように整えられた住宅地があり、丸太を2万本使った防御柵があり、人口は1万から2万。同じ時代のロンドンとだいたい同じ規模だ。
名前はカホキア。北米最大の先住民都市。1050年頃に爆発的に生まれ、1350年頃までに完全な無人になった。
誰も、その理由をはっきりとは説明できていない。
アメリカン・ボトムという、異様に恵まれた土地
まず場所の話をしておきたい。カホキアが建っているのは、アメリカン・ボトムと呼ばれるミシシッピ川の氾濫原だ。ミズーリ川がミシシッピ川に合流する地点のすぐ下流、現在のセントルイスの対岸にあたる。東側には切り立った断崖の列があり、そこから川までの間に、幅十数キロ、南北に80キロ以上も伸びる平らな沖積地が広がっている。
この土地は、とにかく肥沃だ。定期的な氾濫が上流から養分を運んでくる。三日月湖や沼が点在していて、魚も水鳥も獲り放題。断崖の上には森があり、シカもクリもヒッコリーの実もある。狩猟採集と農耕を同時にやるには、北米でも指折りの好立地だった。
ここに人が住み始めたのはずいぶん古い。西暦400年頃には農耕的な集落が現れる。ただし規模はささやかで、村がぽつぽつと点在するだけの風景が数百年続いた。転機になったのはトウモロコシだ。西暦900年頃、この地域の食生活の中でトウモロコシの比重が一気に上がる。骨のコラーゲンを調べると、炭素同位体の値がはっきり動く。人々の主食が変わったのだ。
同じ頃、ミシシッピ川流域からアメリカ南東部一帯に、考古学者が「ミシシッピ文化」と呼ぶ生活様式が広がっていく。トウモロコシ農耕、貝殻を混ぜた土器、平頂の土塁マウンドの上に建てた神殿や首長の家、そして広場を囲む町の設計。西暦800年頃から1500年頃まで、フロリダからオクラホマ、ウィスコンシンからルイジアナまで、数百の町がこの様式を共有した。その中心に、突然、桁違いのものが現れる。
1050年、「ビッグバン」が起きる
考古学者のティモシー・パウケタットは、1050年頃にカホキアで起きたことを「政治的・経済的なビッグバン」と呼んだ。この言い方は挑発的だが、データを見ると誇張ではない。
パウケタットとニール・ロピノットが1997年に公表した推計によれば、カホキア中心部の1.8平方キロメートルほどの高密度居住域の人口は、1000年から1050年のエーデルハート期には1400人から2800人だった。それが直後の1050年から1100年、ローマン期と呼ばれる50年間に、1万200人から1万5300人に跳ね上がる。5倍から10倍。世代交代一回分の時間で、村が都市になった。
しかも、じわじわ増えたのではない。発掘現場から出てくる住居跡は、ごく短い期間に集中して建てられている。以前は住宅地だった一角が接収されて儀礼空間に作り変えられ、大広場の造成が始まり、モンクス・マウンドの中核部分が積み上げられる。都市計画がまずあって、それに沿って一気に建設された、としか読めない痕跡が並ぶ。
地質考古学者のロンダ・ダランの研究では、マウンド用の土を採るために3万7000平方メートル以上の巨大な掘削坑が掘られている。
人はどこから来たのか。答えははっきりしている。周りから来た。断崖の上の台地部分にあった農村は、ローマン期に入るとごっそり空になる。それ以前に100棟規模の建物を抱えていた集落が、4世帯の農家だけに縮む。人々は低地に降り、多くはカホキアそのものに吸い込まれた。
さらにフィリップ・スレーター、クリスティン・ヘドマン、トーマス・エマーソンが2014年に発表したストロンチウム同位体分析は、もっと踏み込んだ。歯のエナメル質に残る同位体比は、その人が子ども時代を過ごした土地の地質を反映する。アメリカン・ボトムの地元値と比べたところ、分析した個体の3分の1が「地元じゃない」と出た。しかも同位体比のばらつきが大きい。
つまり、出身地は一箇所ではなく、複数の遠隔地から人が流れ込んでいた。
カホキアは、移民の街だった。
62万立方メートルの土を、籠で運ぶ
モンクス・マウンドの数字は何度見ても頭がくらくらする。高さ30メートル。ランプを含めた長さ291メートル、幅236メートル。四段のテラスを持つ、北米で唯一といっていい多段構造の巨大マウンド。土量は約62万立方メートル、あるいは研究者によっては72万立方メートル。日本の感覚でいうと、仁徳天皇陵クラスの土木工事を、鉄器も車輪も家畜も使わずにやったことになる。
工法は単純きわまりない。石の鍬で土を掘る。籠に入れる。担いで運ぶ。積む。踏み固める。それだけだ。籠一つに入る土が45リットル前後、重さにして25キロ程度と見積もると、必要な籠の数は1400万から1700万回分になる。仮に30人が一日8回ずつ運んだら、単純計算で百六十年以上かかる。もちろん実際にはもっと大人数が投入されただろうし、工事は一気呵成ではなく段階的に進んだ。
その段階の様子は、1960年代にネルソン・リードらが行ったコアボーリング調査で見えてきた。地元の実業家であり先住民文化の研究者でもあったリードは、マウンド頂上にあったはずの神殿を探して掘削を繰り返し、内部が何層もの異なる土と粘土で構成されていることを突き止めた。1968年に『アメリカン・アンティクィティ』誌に載った報告では、建設期間は西暦900年から1150年のおよそ250年と見積もられた。
一方、2007年の深掘り調査や、2010年にワシントン大学セントルイス校でティモシー・シリングが提出した博士論文は、もっと短期集中だった可能性を示している。中核部分は1050年前後に着工し、数十年で現在に近い形まで到達したという読み方だ。
土は近くの採土坑から掘られた。粘土のブロックや氾濫原の芝土を「土嚢」のように積むことで、土だけよりも急な斜面を保てるよう工夫されている。それでも設計には無理があった。平頂で水を溜め込む構造のため、内部に水分が滞留する。1200年頃から西側の斜面で大規模なスランプ、つまり地滑りが始まった。頂上にあった長さ30メートルを超える巨大建物は、西端が崩落したらしい。
今も州の管理者は排水管を打ち込み、崩れた斜面を修復し続けている。千年前の設計ミスの後始末が、まだ終わっていない。
リードの発掘には批判もついた。1970年と1971年、彼はバックホーで頂上の表土を剥ぐ手法を採り、神殿とおぼしき巨大建物の輪郭と、直径1メートル級の巨大な柱穴を検出した。成果は劇的で、当時のイリノイ州知事が州立公園の拡張予算を認める後押しにもなった。だが数百年分の層序が広範囲で破壊されたことに、職業考古学者たちは強く反発した。カホキアの発掘史は、こういう功罪の入り混じった話でできている。
都市の設計図――大広場、土手道、五度のずれ
カホキアは、思いつきで建った街ではない。
モンクス・マウンドの南側には、グランド・プラザと呼ばれる巨大な広場が広がっていた。19ヘクタール、フットボール場にして45面分。もともと起伏のあった地面をわざわざ削り、窪みを埋め、平らに均して造成したことが調査でわかっている。ここで球技のチャンキーが行われ、共同の饗宴が開かれ、宗教儀礼が営まれた。
都市全体は方位に対して約5度傾いたグリッドに沿っている。この傾きの基準になったと考えられるのが、サラ・ベアーズが2010年代に発掘した「ラトルスネーク・コーズウェイ」だ。長さ約1キロ、幅18メートルの人工の土手道が、グランド・プラザからまっすぐ南へ伸び、南端のラトルスネーク・マウンドという尾根型の墓所につながっている。ベアーズはこれを、生者の世界と死者の世界を結ぶ軸線として読んだ。
彼女の研究では、尾根型マウンドに葬られた遺体には海産の巻貝の殻が繰り返し伴っており、貝は水の世界、つまり地下界と死者の領域を象徴していたという解釈が示されている。
さらに東へ24キロ、断崖の上の高台にはエメラルドと呼ばれる別の聖域があった。ティモシー・パウケタットとスーザン・オルトが2012年から2013年にかけて大規模発掘を行った結果、この丘の主軸が方位53度、すなわち18.6年周期でやってくる月の最北出没点に正確に向いていることが確認された。そこには黄色い漆喰の床を持つ「祠の家」が何十棟も建ち、役目を終えると火と水を使った閉鎖儀礼で丁寧に埋められていた。
エメラルドからカホキアへは、幅50メートルの参道がまっすぐ伸びている。パウケタットとオルトは、この月の聖域こそがカホキア誕生の引き金だったと主張した。人を引き寄せたのは経済でも軍事でもなく、宗教だった、と。
ウッドヘンジ――高速道路が掘り当てた太陽暦
カホキアで最も有名な発見の一つは、道路工事のおかげで生まれた。皮肉な話だ。
1961年、州間高速道路のインターチェンジ建設が予定されていた区域で、イリノイ州立博物館のウォレン・ウィトリーが緊急発掘を指揮していた。出てくるのはほとんどが住居跡と貯蔵穴。ところがその中に、妙な形の穴が混じっていた。長さ2メートル、幅60センチほどの細長い穴で、片側が斜めのスロープになり、その先が深さ1メートルほどの円い窪みで終わっている。ウィトリーはこれを「バスタブ状の穴」と呼んだ。
ひと夏の発掘が終わり、ウィトリーが調査図を眺めていたときだ。彼は、そのバスタブ穴だけを地図上に落としてみた。すると、点が円弧に並んだ。等間隔で。
ウィトリーは仮説を立てた。この円弧は完全な円の一部で、穴には高さ6メートル前後の柱が立っていた。そして柱の配置は、夏至・冬至・春分秋分の日の出方位を記録するための暦装置だったのではないか。彼はこの構造を、イングランドのウッドヘンジになぞらえて「アメリカのウッドヘンジ」と呼んだ。
1964年にクランブルック科学研究所の会報に、1969年にはメルビン・ファウラー編の論文集『カホキア考古学への探究』に、その考えを発表している。
仮説は検証された。1963年、ロバート・ホールが、ウィトリーの円弧から逆算した「ここに穴があるはずだ」という地点を掘った。穴はあった。円の中心付近には、周囲の柱より太い観測用の柱の跡まで見つかった。予測して掘って当てる。考古学でこれができる場面はそう多くない。
ウィトリーは1970年代後半に再調査を行い、同じ場所に少なくとも五つの木柱円が重なって造られていたことを確認した。番号順にウッドヘンジ1から5。柱の数は24本、36本、48本、60本と12本ずつ増えていく。直径も73メートルから145メートルまで大きくなる。最後の5番目は東側の日の出方向の弧に12本ないし13本しか立っておらず、完成した円ではなかったらしい。全周なら72本になったはずだ。
研究者の間では、この時期には柱に使える大木が周囲から払底していたのではないか、という見方がある。
柱の材はレッドシダー、和名でいうエンピツビャクシン。この地域で唯一の在来常緑樹であり、赤みを帯びた心材を持ち、腐りにくい。多くの先住民の伝統で神聖な木とされてきた。柱穴からは赤い顔料の痕跡も見つかっており、柱は着色されていた可能性が高い。
1985年、ウィリアム・イセミンガーが最後の三本分の柱穴を探し当て、48本のウッドヘンジ3を原位置で復元した。手に入ったレッドシダーは半分だけで、残りはニセアカシアで代用した。復元作業では、ボランティアが実際に石鍬と籠でスロープを掘り直し、柱を滑り込ませ、腕とロープだけで引き起こしてみせた。1985年当時、円の西側九本分の位置は、道路工事の土取り場によってすでに失われていた。
のちに地権者がその一帯をカホキア・マウンズに寄贈し、円はようやく48本すべてで完結した。
天文学的な精度については、ワシントン大学セントルイス校の物理学者マイケル・フリードランダーが2007年に『ウィスコンシン考古学者』誌で徹底的に検証している。彼の計算によれば、8番の柱は方位59.2度で夏至の日の出、16番は方位121.9度で冬至の日の出、12番は方位90.1度で春分秋分の日の出に対応する。いずれも誤差は1度未満。
しかも中心の観測柱は幾何学的な円心から1.7メートルほど東にずらされており、これがカホキアの緯度で二至の出方位を左右対称にするために必要なちょうどの量だった。偶然ではありえない、というのがフリードランダーの結論だ。
そして、この装置の一番の見せ場は春分と秋分にある。円の中心に立って真東を見ると、太陽はモンクス・マウンドの正面から昇ってくる。約800メートル先の巨大な人工の山が、太陽を産み落とすように見える。マウンドの頂上に住んでいたであろう最高首長は、その瞬間、太陽の兄弟に見えただろう。イセミンガーはそう書いている。
現在も、州の管理者は二至二分の日曜日に一般向けの日の出観察会を開いている。ただし儀式や祈祷は一切行わない。先住民の信仰への敬意から、そう決めているのだという。
メルビン・ファウラーの、地図の上の推理
1960年代の後半、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校のメルビン・ファウラーは、カホキアの航空写真と実測図をひたすら睨んでいた。
彼が気になっていたのは、南側にある小さなマウンドだった。番号は72。高さはせいぜい2メートル、長さ42メートルほどの、細長い尾根型のマウンドだ。カホキアで確認されている尾根型マウンドは六基しかない。しかも72号は、他のほとんどのマウンドが東西南北に沿って並んでいるのに対し、東西線から30度も傾いている。そしてその傾きは、この緯度における夏至の日の出と冬至の日没を結ぶ線と一致していた。
さらにファウラーは、72号マウンドの北東の角が、モンクス・マウンドの南西の角と、グランド・プラザ内にあるマウンド49の西端とを結ぶ南北軸の上に乗っていることに気づいた。都市の中心線だ。彼はウッドヘンジの発見者であるウィトリーと議論を重ね、一つの推理に至る。この軸線が交わる地点には、かつて巨大な柱が立っていたのではないか。
資金を確保して、1967年、発掘が始まった。
柱穴は、彼が予測したまさにその位置から出てきた。しかもそこから北西へ、円弧を描くように別の柱穴が続いていた。予測は当たった。
だが、ファウラーが本当に掘り当てたものは、柱穴ではなかった。
二万個のビーズの上に横たわる人
1967年から1971年にかけて、ファウラーの調査隊は72号マウンドのおよそ三分の二を掘った。その下から出てきたのは、三つの小さなマウンドが重なった複雑な構造と、およそ270体の人骨だった。北米で発掘された先住民の墓としては、最も濃密で、最も異様な内容の一つだ。
中心にあった埋葬を、まず描写しておきたい。
マウンドの中心部にあった小マウンド、72号サブ1の下。巨大な柱穴から西へ5メートルほどの地点に、二人の遺体が上下に重なって、伸びた姿勢で横たわっていた。その下に、そして周りに、海産の巻貝の円盤ビーズが敷き詰められていた。数はおよそ2万個。ファウラーの記録では、ビーズの広がりは頭部の下と横に鳥の頭、腕と脚の下に翼と尾が来る形をしており、全体として猛禽が翼を広げた輪郭を描いていた。
マント状の副葬品か、あるいはビーズを縫い付けた布か。
ビーズだけではない。すぐ近くには七人の男女が葬られ、副葬品が山と積まれていた。南部アパラチア山脈産の未加工の雲母がおよそ二ブッシェル分。メキシコ湾産の海産貝で作られた大量のビーズ。チャンキー競技に使う磨いた石の円盤が15個。スペリオル湖周辺で産する銅で作られた「杖」。そして、二つの山に分けて置かれた800本近い矢尻。
しかも完璧な出来のものばかりで、材料の石はミズーリ、イリノイ、ウィスコンシン、アーカンソー、オクラホマ、テネシーと、各地の産地から集められていた。
千キロ単位の交易網が、一つの墓の中に凝縮されている。
猛禽のビーズ、鳥人の意匠、豪奢な副葬品。ファウラーはこの埋葬を「バードマン埋葬」あるいは「ビーズ・バーリアル」と呼んだ。彼と後続の研究者は、中央の二体を高位の男性、周囲を従者の男性たちと読み、鳥のモチーフが多くの先住民の伝統で戦士や超自然的存在と結びつくことから、神話的な戦士首長の墓だと解釈した。
ある研究者は、この人物をウィネバゴなどの伝承に登場する英雄レッド・ホーンに重ねた。ある研究者は、これは特定の人物の墓ではなく、宇宙観そのものを地面に描いた宇宙図だと論じた。どちらの解釈も、前提は同じだった。中央にいるのは男である、という前提だ。
周囲に埋められた人々
72号マウンドの本当の異様さは、この中心の墓ではなく、その周囲にある。
五つの集団埋葬坑が見つかった。それぞれに20体から50体以上。ほかにも単独やグループでの埋葬が数十あり、集団墓の真上に重ねて葬られたものもあった。合計270体。
中でも人を黙らせるのは、中心の小マウンド72号サブ3の下から出た二つの遺構だ。
一つは、四人の男が旧地表面の上に並んで横たわり、腕を組み合わせていたもの。四人とも、頭と両手が切り落とされていた。
そのすぐ近くに、深い坑があった。中には53人の若い女性が、二列に並べられ、二段に積まれていた。
さらに別の場所には、19人、22人、24人の若い女性を納めた三つの坑が、小マウンドの東、南、南東に配置されていた。南側の坑は後に一部が掘り返され、そこに3万6600個の海産貝ビーズ、約400本の矢尻、多数の骨と角の矢尻、割られた土器が納められた。
南側にはもう一つ、深さ約2メートルの二層構造の坑があった。上層には、赤杉の担架で運ばれてきた14人が10基の担架ごと横たわっていた。担架の棒の一部が腐らずに残っていた。男女、老若が混じっている。その下の層には、39人が無造作に投げ込まれていた。丁寧に安置された上層と、放り込まれた下層。同じ坑の中で、扱いが真逆だった。
これらすべてを最後に一枚の土で覆い、細長い尾根型に整えたものが、72号マウンドである。
若い女性たちの年齢層は、多くが15歳から25歳。イリノイ州立考古学調査所のクリスティン・ヘドマンは、「彼女たちの骨には、どう殺されたかを示す傷が一切ない」と述べている。おそらく犠牲として捧げられたが、薬物を与えられ、絞められた可能性がある、と。
ただし、例外がある。1150年頃と年代づけられた、72号マウンドで最も新しい集団墓の一つには、男女と子どもが混じり、頭蓋骨が叩き割られ、首を切られ、体に石鏃が刺さっていた。骨格分析を担当したイブ・ハーグレイブは、こう対比する。何世代にもわたって整然と繰り返された女性たちの犠牲があり、そして最後に、その場で殺された人々が坑に放り込まれる場面が来る。
ヘドマンとアンドリュー・トンプソンらが2015年に発表した歯の形態とストロンチウム同位体の分析では、この暴力的な集団のみが他のカホキア住民と生物学的に異質で、しかも同位体比の幅が極端に狭かった。単一の限られた地域から来た集団、という読み方になる。ヘドマンは慎重に言葉を選びつつ、「彼らはカホキア内部の政治的なライバルだったのかもしれない」と語っている。
一方で、この2015年の研究は別のことも明らかにした。四つの大規模な集団墓に葬られた若い女性たちは、それまで「よそから連れてこられた供物」と考えられてきたが、ストロンチウム同位体の平均値はいずれもカホキアの地元範囲に収まっていた。歯の形態も周辺地域の集団と似ている。つまり彼女たちは、たぶん地元の人間だった。
遠くから連れてこられた異邦人ではなく、この街で育った娘たちが、この街の儀礼のために殺されて埋められた。そのほうが、はるかに嫌な想像を呼ぶ。
2016年、「男二人」が崩れた
ここからが、カホキア研究史上でも屈指の逆転劇になる。
イリノイ州立考古学調査所のトーマス・エマーソンを筆頭に、クリスティン・ヘドマン、イブ・ハーグレイブ、ドーン・コブ、アンドリュー・トンプソンからなるチームが、2016年、学術誌『アメリカン・アンティクィティ』に「パラダイムの喪失――カホキア72号マウンドのビーズ埋葬を再構成する」という論文を発表した。
きっかけは地味な作業だった。彼らは1967年から1974年にかけて作成された発掘のフィールドノート、実測図、写真を洗い直し、収蔵されている人骨と照合していた。記録に書かれている個体と、実際に棚にある骨が一致しているかどうかを確かめるだけの、確認作業のはずだった。
一致しなかった。
まず数が合わない。ビーズ埋葬に伴う遺体は6体とされてきたが、実際には少なくとも12体あった。
そして性別が合わない。共著者四人がそれぞれ独立に骨を調べた。エマーソンいわく「四人が別々にやって、全員が同じ結論に達した」。中央に重なって横たわっていた二人は、男性二人ではなかった。男性一人と女性一人だった。ビーズの下にいたのは女性だった。
さらに、ビーズ床の上や近くにも男女の対が複数葬られていた。完全に関節がつながったまま安置された遺体もあれば、骨をまとめて束にした状態で、その「重要な男女」の近くに置かれた遺体もあった。そして子どもが一人。ビーズ埋葬に関わる遺体全体では、男性七、女性十、子ども一という構成になる。
ヘドマンは当時の取材にこう答えている。「私たちは、目の前にある個体が記録どおりに記述されているかを確かめていただけなんです。そしてビーズ埋葬を再検討したとき、中央の埋葬に女性が含まれていることがわかった。予想していませんでした」。
エマーソンはもっと直截だ。「私たちは呆然としました。これは全員男性だというのが、長らく福音だったんです」。
この修正は、単なる細部の訂正では済まなかった。エマーソンはこう言う。「地位の高いこれらの埋葬に女性が含まれていたという事実は、ビーズ埋葬の意味そのものを変えます。男性が支配的で女性が端役という体系ではなかった、と私たちはいま理解しています。カホキアにあったのはまさしく貴族層です。それは男性の貴族層ではない。男性と女性であり、その関係性こそが重要なのです」。
そして解釈の軸が動く。中央にいるのが男の戦士首長なら、鳥のビーズは戦士のシンボルであり、レッド・ホーン神話の再演であり、この墓は軍事的なカリスマの誇示になる。だが中央が男女の対で、周囲にも男女の対が並び、子どもがいるなら、読み筋は変わる。エマーソンらは、72号サブ1の埋葬群は「世界の創造と更新、そして豊穣の象徴に結びついた儀礼」の痕跡だと論じた。エマーソン自身、こう語っている。
「私はカホキアで神殿を掘り、その資料を分析してきましたが、象徴体系はすべて生命、豊穣、農耕に関わるものです。石像には女性、蛇、農作物、地下世界が現れる。72号マウンドは、いまやカホキアの象徴と宗教について私たちが知っていることと、はるかに整合的な物語に収まります」。
同じチームが実施した加速器質量分析による放射性炭素年代測定は、72号マウンドの一連の活動を紀元後991年から1023年頃に置いた。ビッグバンより、わずかに早い。都市が爆発する直前に、この墓が造られている。
ついでに書いておくと、ビーズそのものの再検討も後年行われている。発掘以来ほとんど手つかずだった72号マウンドの貝製品を数え直したところ、従来「胸飾り」とされていたものが実は貝の杯だったこと、ビーズの穿孔にヤマアラシの針のような有機質の錐が使われた可能性があることなどが指摘された。そしてマウンド全体を通じて、貝製品もまた対になって配置される傾向があった。人間の男女の対と、器物の対。
「儀礼の劇場」だったという表現が使われている。
カフェインを飲んでいた街
2012年、カホキア研究に別の角度から光が当たった。
ニューメキシコ大学のパトリシア・クラウンと、ハーシー社の技術センターに所属する化学者のジェフリー・ハーストは、以前にチャコ・キャニオンの土器からカカオの痕跡を検出した実績があった。イリノイ大学のトーマス・エマーソンとティモシー・パウケタットは、カホキア特有の「ビーカー」と呼ばれる筒形の小さな土器の破片を彼らに送った。
片側に把手、反対側に小さな注ぎ口、表面には水や地下世界を表すとされる文様が刻まれている、単人用のカップだ。
液体クロマトグラフ質量分析にかけたところ、テオブロミン、カフェイン、そしてウルソール酸が出た。カカオではウルソール酸は出ない。この三つの組み合わせは、モチノキ属の植物、とりわけヤウポン・ホーリーの指標になる。
ヤウポン・ホーリーの葉を焙って煮出した飲料は、16世紀以降にヨーロッパ人が記録した「ブラック・ドリンク」そのものだ。フロリダからテキサス、アーカンソーからノースカロライナにかけての南東部で、男たちが儀礼的な浄化のために飲んだ。カフェイン含有量は濃いコーヒーの数倍とされ、大量に一気飲みすると発汗し、嘔吐する。その嘔吐こそが浄化の核心だった。戦の前や、重要な儀式の前に飲まれた。
問題は場所だ。ヤウポン・ホーリーはカホキアには生えない。最寄りの自生地まで400キロある。そして年代は西暦1050年から1250年。ヨーロッパ人の記録より500年早い。
クラウン、エマーソン、ハースト、パウケタット、ティモシー・ウォードらの論文は、2012年8月に『米国科学アカデミー紀要』に載った。分析されたビーカーは八点。マウンド51の下にあった饗宴の穴から出たもの、儀礼行政の出先集落の祭祀ゴミから出たもの、カホキア本体のマウンド上の文脈から出たもの、南方10キロの小さな農村墓地で成人に副葬されたもの、そして日常的な住居址の穴から出たもの。
少なくとも四点は、儀礼の中で意図的に叩き割られていた。
つまりカホキアの人々は、はるか南から取り寄せた葉を煎じ、専用の器で、儀式として飲んでいた。しかもその習慣は、この街から南東部一円へ広がっていった可能性が高い。カフェインを媒介にした宗教的なネットワークが、コロンブス以前の北米に存在したことになる。
ちなみにこのビーカーの表面に刻まれた「円の中の十字」の文様は、ウッドヘンジそのものを図案化したものだと考えられている。冬至の日の出柱の近くにあった供献の穴からは、太陽の光線らしき放射線と、冬至の日の出・日没位置に印を加えた文様を持つビーカーが出土している。暦と、飲み物と、宗教が、一つの器の上で結びついている。
壁が建つ
繁栄の絶頂は長くなかった。
パウケタットとロピノットの推計では、ローマン期に1万200人から1万5300人だったカホキア中心部の人口は、12世紀のスターリング期には5200人から7200人に落ちる。ほぼ半減だ。13世紀のモアヘッド期にはさらに3000人から4500人まで減る。ローマン期のピークから7割減。
面白いのは、人口が減っているのに公共工事は止まらないことだ。むしろモアヘッド期に労働需要はピークを迎えたとジョージ・ミルナーは推定している。住宅地だった一角が広場に作り変えられ、新しいマウンドの建設が始まり、そして――壁が建つ。
カホキアの中心聖域を囲む防御柵、いわゆるパリセードだ。全長およそ3.2キロ、囲まれた面積は約120ヘクタール。壁は幅1メートル前後の丸太を並べ、深さ1.2メートルから1.5メートルの溝に立てて造られた。丸太の長さは6メートル前後。壁面には20メートルおきに稜堡が突き出していた。稜堡というのは要するに射撃用の張り出しで、弓兵がここから側面射撃をかける。壁には出入り口を隠すスクリーンも設けられていた。
1966年に始まった発掘で、この壁が四回建てられていることが確認された。腐った壁を新しい壁で置き換える形で、およそ200年にわたって更新され続けた。必要な丸太は一回あたり1万5000本から2万本。オークとヒッコリー。年代は研究によって幅があるが、およそ1100年から1275年の間、とりわけ1175年から1275年に集中する。
問題は、誰と戦うつもりだったのかだ。
カホキアには外敵の侵攻を示す明確な痕跡がない。だから壁は防御施設ではなく社会的な境界、つまり聖域と俗域、エリートと平民を隔てる装置だったのではないか、という説も根強い。実際その機能もあっただろう。しかし多くの考古学者が防御説を採るのには理由がある。壁が異様に高いこと。等間隔の稜堡があること。そして一部の区間が、住宅地を無理やり突っ切る形で、急ごしらえに建てられていること。
危険が差し迫っている者の建て方だ。
アンソニー・クルスによる再計算では、壁の柱の総数は初期のもので7880本から1万6200本、二回目で9340本から2万本、以降は減っていく。二回目から最終回にかけて、必要な柱の数も労働時間も22.5パーセントから27.5パーセント減った。稜堡の設計を変えて材木を節約したらしい。カホキアの人々が木材の消費を意識し始めていた可能性を、この数字は示している。
イセミンガーの見積もりでは、壁を一回建てるのに2000人から4000人の労働力が要った。人口が減り続ける都市で、これを四回やった。
同じ時期、広い地域で人骨の外傷が増える。頭蓋骨の打撲痕、切断、刺創。中西部一帯で対人暴力の水準が上がっていることを、複数の骨格分析が示している。
一夜で焼けた街
1150年から1200年頃、カホキアの西側、ミシシッピ川を挟んだイースト・セントルイス地区で、決定的な出来事が起きた。
イースト・セントルイス地区は、カホキア本体と並ぶもう一つの中心地だった。かつては45基前後のマウンドがあり、現在は都市開発で大半が失われている。イリノイ州立考古学調査所が実施した大規模な救済発掘によって、その一角に、柵で囲まれた特別な区画があったことがわかった。中には最大で100棟ほどの小さな建物が密集している。日常の住居ではない。
中からは、儀礼用の品々と、トウモロコシを入れた籠が、いかにも象徴的な少量ずつ出てくる。
その100棟が、一度に、すべて焼けた。
パウケタット、アンドリュー・フォーティエ、スーザン・オルト、トーマス・エマーソンによる2013年の論文は、この大火の解釈として三つの可能性を挙げた。事故、攻撃、そして儀礼的な閉鎖。彼らが最も支持したのは三番目だ。パウケタットの言い方はこうだ。「演出されたように見えるんです。焼けた建物の中には、神殿にあるような同じ籠入りのトウモロコシと儀礼具が、象徴的な数だけ置かれていた」。
重要な指導者の死を受けて、一つの時代の終わりを告げるために意図的に火をつけた。そういう読み方になる。
理由が何であれ、結果は同じだった。焼けたあと、そこには何も建て直されなかった。そしてこの時期を境に、カホキア一帯から、儀礼的に重要だった特定の建築様式が消える。マウンドの建設も、大型建築の造営も、目に見えて減る。メリッサ・バルタスとグレゴリー・ウィルソンが2019年に整理したように、建物を火で終わらせる作法自体はカホキア以前からある伝統だった。
ただしこの規模で、この時期に起きたことは、都市の歴史の下り坂の起点として読まれている。
このあと、カホキアは百五十年かけてゆっくり空になっていく。
仮説その一――ミシシッピ川が街を洗った
では、なぜ人は去ったのか。仮説を一つずつ並べていきたい。どれもそれなりに強く、どれも決定打を欠いている。
最初は洪水説だ。
2015年、ウィスコンシン大学マディソン校のサミュエル・ムニョスとジョン・ウィリアムズを中心とするチームが、『米国科学アカデミー紀要』に論文を出した。彼らはカホキアのすぐ北にあるホースシュー湖という三日月湖の底から堆積物のコアを抜き、レーザー回折による粒度分析にかけた。氾濫のたびに川から運ばれる粗い粒子は、通常の湖底堆積物とは明確に区別できる。
過去1800年分の記録に、八回の大洪水の痕跡が刻まれていた。そして、その分布に癖があった。
西暦600年から1200年の間、大規模な洪水がぴたりと止んでいる。この静穏期に、人々は断崖沿いの斜面から氾濫原そのものへ下りてきて、耕作を集約化し、人口を増やした。カホキアが1050年に爆発したのは、まさにこの洪水のない600年の後半だった。
そして1200年頃、大洪水が戻ってくる。ムニョスらは190キロ下流の別の三日月湖でも同じ層を確認しており、ミシシッピ川の水位は10メートル以上上昇したと見積もっている。この洪水の直後から、カホキア一帯では社会的再編と人口減少が始まり、150年ほどでこの地域は空になる。
論文の主張はシンプルだ。大陸中部の湿潤・乾燥のサイクルが洪水頻度を左右し、それがカホキアの誕生と解体の両方に対応している。氾濫の頻度と規模は、初期農耕社会における複雑性の形成と溶解の、過小評価されてきた要因かもしれない。
さらに2019年には、同じホースシュー湖のコアを使った別の研究が加わる。人間の腸に由来し、土中で何世紀も残る糞便ステロールの濃度を測ると、地域人口の変動が再構成できる。この糞便ステロールの記録は、考古学的な人口推計と見事に並行していた。そして人口のピークは、ムニョスらが特定した大洪水の直前に来る。洪水のあと、糞便ステロールの比率は記録上のどの時期よりも低くなった。
洪水と人口減少の順番が、堆積の層序という、年代測定の誤差に依存しない方法で押さえられている。ミシシッピ川の歴史的な洪水のピークのおよそ7割は4月から6月に来る。作物が水と温度に最も敏感な時期だ。しかも低勾配の大河の水は、数日から数週間かけてゆっくり引く。畑が沈んでいる時間が長い。
説得力はある。ただしこれは、カホキアの中心部が水没したという直接証拠ではない。あくまで、周辺の低地農地が繰り返し打撃を受けたはずだ、という間接的な推論だ。
仮説その二――百四十五年のうち百四十年が旱魃だった
次は干魃説。こちらは樹木年輪が主役になる。
アメリカ地質調査所のラリー・ベンソン、ティモシー・パウケタット、そして樹木年輪学の大家エドワード・クックによる研究は、樹木年輪から復元した降水指標を使って、カホキア地域の気候史を細かく追った。
結果はきれいに二分される。1050年から1100年のローマン期、つまりカホキアが爆発した50年間は、過去千年で最も湿潤な50年間の一つだった。中世温暖期の恵まれた降水が、氾濫原農業を支えた。
そして1100年以降が、地獄になる。ベンソンらの復元では、1100年から数えて145年のうち140年が旱魃だった。特に1276年から1297年の旱魃は深刻で、地域に実質的な打撃を与えたとされる。
この気候の転換は、考古学的な出来事と噛み合っている。カホキアの食糧供給を支えていたのは、東の台地に人為的に配置された農村群、いわゆるリッチランド複合だった。カホキア周辺5キロ圏で養えるのはせいぜい7500人から1万2000人。1万人を超える都市を食わせるには、外から穀物を運ぶしかない。
リッチランド複合はそのために造られた食糧生産基地であり、最盛期には3000人から7400人が住んでいたと推定される。
そのリッチランド複合が、西暦1150年頃、ほぼ全面的に放棄される。15年に及ぶ厳しい旱魃の後半だ。ベンソンらは、カホキアを支えていた農業の接着剤が、このとき剥がれたと見る。そしてほぼ同時期に、2万本の丸太を使った防御柵の建設が始まる。食糧が減り、社会不安が高まり、壁が建った。並べるときれいな因果の鎖に見える。
2021年には、インディアナ大学のブロクストン・バードらが『サイエンティフィック・リポーツ』に、ホースシュー湖とマーティン湖の炭酸塩の酸素同位体比を使った高解像度の気候復元を発表した。それによれば、400年から1200年は相対的に湿潤、1200年から1870年は乾燥。とりわけ1350年から1450年には、過去1600年で最も厳しいと言えるレベルの温暖季旱魃が中西部を襲った。
カホキアが最終的に空になるのは1350年から1400年。ちょうどその真上に、この大旱魃が乗っている。
仮説その三――木を切りすぎて自滅した
三番目が、長らく最も人口に膾炙してきた説だ。環境自滅説、より正確には「木材過剰利用仮説」。
1993年、南イリノイ大学エドワーズビル校のニール・ロピノットとウィリアム・ウッズが提唱した。論旨はこうだ。
カホキア地域には2万5000人規模の人口があり、住宅の壁柱だけで80万本の材木が必要だったと見積もられる。加えて日々の燃料。加えて2万本の丸太を四回使った防御柵。この需要が、断崖上の台地の森を丸裸にした。
森が消えれば、雨が土を削る。削られた土がカホキア・クリークやカンティーン・クリークといった小河川を埋め、氾濫原での洪水が「より頻繁で、より激しく、より予測不能」になる。低地の畑での農業のリスクが上がり、人々はより生産性は低いが安定した台地での農業に移る。台地で耕せば森はさらに減り、侵食はさらに進む。悪循環だ。最後には収量が人口を支えられなくなり、都市は放棄された。
ロピノットとウッズは、実は自分たちでも慎重だった。論文の中で、この筋書きを「カホキア崩壊の有力な原因」に格上げするだけのデータはまだない、と明記している。仮説として提示したのだ。
だが仮説は独り歩きした。この説は、学界でも一般向けの本でも、繰り返し引用された。人間が環境を壊し、その報いで自滅するという物語は、20世紀末から21世紀初頭にかけて、あまりにも受けが良かった。ジャレド・ダイアモンドの著作をはじめ、環境崩壊の教訓譚を集めた本にカホキアは常連として登場するようになる。
そして誰も、検証しなかった。26年間。
反証その一――土は、動いていなかった
2017年、ワシントン大学セントルイス校の大学院生だったケイトリン・ランキンが、カホキアのマウンドの周りを掘り始めた。目的は、洪水にまつわる環境変化を調べることだった。彼女は木材過剰利用仮説を否定しに行ったわけではない。むしろ、その痕跡を探しに行った。
見つからなかった。
彼女が発掘したのは、カホキア・クリークの氾濫原に建てられたミシシッピ期のマウンドの周囲だ。マウンドは年代の物差しになる。マウンドの下にある土壌はマウンド以前、上や横に堆積したものはマウンド以後。この関係を使えば、いつ何が堆積したかを層序で読める。
結果はこうだった。マウンドが乗っている埋没土壌の表面、いわゆる埋没した旧地表面の土壌層は、ミシシッピ期の居住から19世紀半ばまで、安定したままだった。洪水が繰り返し土砂を運び込んだ痕跡がない。しかもこのマウンドは小川に近い低地にあり、仮説が正しければ真っ先に冠水するはずの場所にある。
さらに、その安定した層の上に載っている堆積物には、石炭の燃えかす、クリンカーが混じっていた。マウンド5付近のコア試料でも、堆積層の中に石炭のレンズが挟まっている。カンティーン・クリークの埋積と洪水頻度の上昇は、先住民の伐採ではなく、ヨーロッパ系入植者が19世紀に始めた台地の石炭採掘と森林伐採によるものだった。
ランキンは、ブリンマー大学のケイシー・バリアー、北イリノイ大学のティモシー・ホースリーとの共著で、2021年2月、この結果を『ジオアーケオロジー』誌に発表した。論文のタイトルには「エコサイドの物語を層序記録で検証する」とある。
彼女の言い分は、こうだ。「土地利用が侵食と堆積を招き、あらゆる環境的帰結につながるという、ごくありふれた語りがあります。でも実際に見直してみると、洪水の証拠が出てこないんです」。そして、「この件では確かに大量の木材利用の証拠があります。でもそれは、人が材料を再利用しうるという事実を計算に入れていない。皆さんがリサイクルするのと同じことです。
森林破壊が起きていたと自動的に決めつけるべきではないし、森林破壊がこの出来事を引き起こしたと決めつけるべきでもありません」。
指導教員だったトリストラム・キダーの評価は、もっと熱い。「この研究は、過剰利用仮説がまったく成り立たないことを決定的に示しました。この結論が重要なのは、カホキアでも他所でも、その仮説が一見もっともらしいからです。この驚くべき遺跡を造った人々は、環境に影響を与えました。彼らが防御柵を造り、造り直すために数万本の木を切ったことは知っている。
これは大雑把な推定ではなく、使われた木の本数を数えられるからです。木材の枯渇は問題になりえた」。
「仮説は、検証されないまま真実として受け入れられていました。ケイトリンの研究が重要なのは、彼女が大変な作業をやって仮説を検証し、そうすることでその主張を反証したからです。私はここが面白いところだと言いたい。基礎的で根本的な科学です。この可能性を消したことで、我々は他の説明へ進むことができ、他の道筋を追わざるをえなくなった」。
そして、この説を最初に立てた当人であるニール・ロピノットの反応がいい。彼はランキンの研究を歓迎した。ミズーリ州立大学に移っていた彼は、こう述べている。「カホキアの衰退は一夜にして起きたことではありません。ゆっくりした死でした。そして、なぜ人が去っていったのか、我々にはわからない。政治的な派閥抗争かもしれないし、戦争かもしれないし、旱魃かもしれないし、疫病かもしれない。ただ、わからないのです」。
仮説を出した本人が、自分の仮説の反証を歓迎する。科学の一番いい場面だと思う。
反証その二――旱魃も、決め手にならない
ランキンはそこで止まらなかった。
2024年6月、彼女とワシントン大学セントルイス校のナタリー・ミュラーは、『ザ・ホロシーン』誌に共著論文を発表した。今度の標的は旱魃説だ。
方法は炭素同位体である。植物には光合成の回路が二種類あって、乾燥に適応した草本やトウモロコシは、それ以外の植物とは異なる比率で炭素12と炭素13を体に取り込む。植物が枯れて分解し、土壌有機物になっても、その比率は残る。だから土壌の炭素同位体比を層ごとに測れば、どの時代にどんな植生が優勢だったかがわかる。
もし13世紀末の数十年におよぶ大旱魃で農地が壊滅していたなら、放棄された畑にはプレーリーの草本が侵入してくるはずだ。同位体比はそれを検出できる。
比は、動かなかった。
「広範な作物の不作が起きていたなら予想されるような、プレーリーの草が優勢になる証拠は見られませんでした」とミュラーは述べている。ランキンの見立てはこうだ。「彼らが本当に旱魃の影響を感じていなかった可能性があります」。カホキアの人々は工学と灌漑の技術を持っていて、厳しい条件下でも作物を維持できたかもしれない、と。
ミュラーは食糧の側からも補足する。これだけ洗練された社会なら、穀物や食料の貯蔵体系がまず間違いなくあった。そして住民の食生活は多様だった。魚、鳥、シカ、クマ、森の果実と堅果。いくつかの食料源が消えても、栄養は保てただろう。
では、なぜ去ったのか。ミュラーの答えは、劇的なものを一切期待させない。「何千人もの人が突然、街から流れ出していくような場面は思い描いていません。人々はたぶん、親族の近くにいるため、あるいは違う機会を探すために、散っていっただけでしょう」。
ランキンはこう付け加える。「彼らはこれらのマウンドを造るのに多大な労力を注ぎ込みました。でも、去る原因になった外的な圧力がおそらくあった。事情は複雑だったはずです」。
洪水説も干魃説も、環境データとしては強い。だが「環境が悪化したこと」と「人が去ったこと」の間には、社会という分厚い層が挟まっている。作物が減っても社会が持ちこたえることはあるし、作物が足りていても社会が壊れることはある。ランキンとミュラーの二本の論文は、その当たり前を突きつけた。
仮説その四――内側から壊れた
環境説が次々に足元を掬われるなか、残るのは政治と宗教の話になる。
こちらの説は、証拠の性質が違う。堆積物のコアも同位体比も出てこない。代わりに出てくるのは、都市の作法が変わっていく様子だ。
12世紀の後半から13世紀にかけて、カホキアでは儀礼と権力の見た目が明らかに変質する。ローマン期に住宅地だった一角がスターリング期には広場になり、住民は区画ごとの屋敷地に囲い込まれるようになる。エリートの居住儀礼建築がイースト・セントルイスの大火とともに消え、その建築様式は地域から姿を消す。
モンクス・マウンドの頂上にあった巨大建物は、地滑りで西端が崩れたあと修復されず、南のテラスに雑多な木造建物が建ち、麓にゴミが捨てられるようになった。首長の座であったはずの場所が、格下げされている。
そして防御柵だ。壁を建てるという行為は、内と外を作る。カホキアの人々は、自分たちの街の中心部を、自分たちの街の残りから切り離した。
エマーソンやパウケタットが強調してきたのは、カホキアという都市がそもそも宗教的な仕掛けの上に成立していた、という点だ。エメラルドの月の聖域があり、そこからカホキアへ参道が伸び、ウッドヘンジが太陽の出没を管理し、モンクス・マウンドの上から最高首長が太陽を産む。人身供犠を含む儀礼が世代を超えて反復され、南方から取り寄せたカフェイン飲料が浄化の作法を支える。
この仕掛けが説得力を持っている限り、人は集まり、土を運び、丸太を立てた。
逆に言えば、仕掛けが説得力を失えば、集まる理由もなくなる。
ジョージ・ミルナーのようにカホキアの規模と集権性を控えめに見積もる研究者は、そもそも「崩壊」というほど巨大な体制はなかったと論じる。アンソニー・クルスの柱数の再計算も、より小さな人口とより緩い組織を想定する「ミニマリスト」的な見方を後押しする材料になった。カホキアは巨大な国家ではなく、宗教的な引力で一時的に人を集めた場だった。引力が弱まれば、人はもといた暮らし方に戻る。
そう考えれば、劇的な崩壊は要らない。
パウケタットとロピノットが示した人口曲線は、実際そんな形をしている。急激に立ち上がり、二百年かけてなだらかに下がる。壊滅ではなく、退去だ。
ヴェイカント・クォーター――誰もいなくなった四半分
カホキアが空になったあと、事態はもっと大きな規模で進行した。
1990年、ハーバード大学のスティーブン・ウィリアムズが「ヴェイカント・クォーター」という概念を提示した。ミシシッピ川とオハイオ川の合流点を中心に、北米大陸中部のかなりの範囲が、西暦1450年から1550年頃に大規模に人口を失ったという説だ。
範囲はアメリカン・ボトムからミズーリ州とケンタッキー州の南部、オハイオ川をさかのぼってインディアナ州東端、そしてテネシー川沿いにミシシッピ州北東部とアラバマ州北西部まで及ぶ。
この概念は考古学者の間で広く受け入れられた。ただし時期と範囲については議論がある。チャールズ・コブとブライアン・バトラーは2002年、南イリノイの丘陵内陸部で集めた大量の放射性炭素年代をもとに、オハイオ川下流域の人口喪失はウィリアムズの見積もりの早い側、つまり1450年に近い時期に起きたと論じた。しかも大河沿いだけでなく、辺鄙な内陸のミシシッピ文化集団も同時に消えている。
一方で、カホキア周辺に限れば、話はもう少し複雑だ。ホースシュー湖の糞便ステロール記録を使った2020年の研究は、この地域の人口が西暦1400年頃に最低値に達したあと、1500年までに回復し、1650年頃に最大値を迎え、そして1700年頃に再び減少したことを示した。16世紀から17世紀の再定住は、トウモロコシ農耕とバイソン猟に適した環境条件の変化と重なり、イリノイ連合の人々の暮らし方に合致していた。
18世紀の再度の減少は、戦争、疫病、キリスト教化、そして強制移住が絡み合った結果だ。
この研究の著者たちが強調するのは、次の点だ。カホキアの人口が12世紀から14世紀に減ったことは、この土地における先住民の存在の終わりではなかった。「先住民の消滅」ではなく「先住民の継続」という物語に近づくために、その後の再定住を認識することが重要である、と。
大事な指摘だと思う。「誰もいなくなった」という言い方は、その後にそこで生きた人々を透明にしてしまう。
子孫は、いまもいる
では、カホキアを造った人々はどこへ行ったのか。
複数の現代の部族が、カホキアに祖先をたどる。オセージ、チカソー、ピオリアなど、少なくとも11の部族がカホキア・マウンズの国立公園化に向けた調査に関与している。
なかでも積極的に発言してきたのが、オクラホマ州ポーハスカに拠点を置くオセージ・ネイションだ。オセージ、カウ、オマハ、ポンカ、クアポーの五部族は、デギハ・スー語族と呼ばれる近い言語を話し、共通の起源についての口承を共有している。伝承では、五部族はもともとオハイオ川流域に一つの民として暮らしていた。
ミシシッピ川との合流点に達したところで最初の分離が起き、川を下った人々が「下流の人々」を意味するクアポーになり、流れに逆らって上った人々が「風や流れに逆らって行く者たち」を意味するオマハになった。上流へ向かった集団はやがてミズーリ川の河口、つまり現在のセントルイス周辺に長く留まる。
オセージ・ネイション歴史保存局の局長で、自身も考古学者であるアンドレア・ハンター博士は、口承、言語学、考古学、生物学的証拠を束ねてこの系譜を主張してきた。彼女がまとめた整理では、祖先オセージは後期ウッドランド期にミシシッピ川中流域を北上して現在のミズーリ州とイリノイ州に住み、900年から1000年頃にはカホキアとセントルイス一帯に集落を集中させた。
そしてミシシッピ期の終わり、1300年から1400年頃に、居住の重心をミズーリ州の中央部と西部へ移した。
2015年11月、この主張は制度的な承認を得る。オクラホマ州ノーマンで開かれた先住民墓地保護返還法の全米審査委員会は、ミズーリ州クラークスビルのマウンド遺跡から出た人骨と副葬品をめぐる審議で、オセージの人々が後期ウッドランド文化およびミシシッピ文化と文化的に系譜関係にあると全会一致で認定した。ハンターは当時、「これは大きなことです」と書いている。
「オセージ・ネイションの内部にも、シュガーローフ・マウンドやカホキアとの結びつきを公然と疑う人たちがいました。専門家の委員会が、私たちは結びついていると判断したのです」。
その言葉の背景には、身内との長い闘いがある。2009年、オセージ・ネイションはセントルイス市内に残る唯一のマウンドであるシュガーローフ・マウンドの一部を購入した。当時これは部族内で必ずしも歓迎されず、ある議員が自分の会報で皮肉たっぷりの渾名をつけて茶化したほどだ。ハンター自身は在任中に二度解雇され、二度とも異議申し立てをして職に復帰している。
そして2025年、17年がかりで、シュガーローフ・マウンドは全体がオセージ・ネイションの管理下に戻った。ハンターの言葉。「オセージ・ネイション歴史保存局はシュガーローフ・マウンドを部族のために確保することに専心してきました。この仕事は名誉だと考えています。長い17年の旅路でした。ようやくマウンド全体がオセージ・ネイションの管理下に入るのを見て、心から嬉しく思います」。
かつてセントルイスは「マウンド・シティ」と呼ばれた。40基以上のマウンドが街の中に立っていた。それらは1875年までにほぼすべて削られ、土はミシシッピ川の護岸や道路と鉄道の盛土に使われた。ハンターは言う。「彼らはそれを使ってミシシッピ川の岸を築き、道路や鉄道の盛土にした。多くのマウンドの中にあった私たちの祖先の墓に、まったく敬意を払わずに。
ビッグ・マウンドを崩しているとき、骨を単純にミシシッピ川へ投げ込んでいたという記録さえあります」。
そして現在のカホキア・マウンズについても、ハンターは意味を語る。「私たちがオセージの構成員をあそこへ連れて行くとき、私たちはあの場所と本当に結びつくことができます。私たちの祖先がとても多く埋葬されているので、強い感情があります。訪ねるときはとても特別な時間になります」。
「彼らには遠大な交易網と、巨大な政治的・宗教的体系があった。本当に見事な文化がそこにあったということを、人々に知ってほしいのです」。
掘られる側の歴史
カホキアが「発見」されてからの二百年は、それ自体が一つの物語だ。
1809年から1813年にかけて、フランス系のトラピスト会修道士たちが最大のマウンドのそばに移り住んだ。彼らは小さめのマウンドの上に十八棟ほどの丸太小屋を建てて暮らし、大きいマウンドの頂上には小麦を播き、南側のテラスで野菜を育てた。修道院そのものは大マウンドの上には建てなかったが、いずれ本格的な修道院を頂上に建てる計画はあったらしい。彼らは1813年に去り、あとには名前だけが残った。
モンクス・マウンド、つまり「修道士たちの丘」。
その修道士たちがまだ小麦を育てていた1811年、若い弁護士で歴史好きのヘンリー・ブラッケンリッジがこの平原を歩いていて、丘に出くわす。彼が書いた記述が、カホキアについての最初の詳しい記録になった。
「私は、エジプトのピラミッドを前にしたときに味わうのと変わらない程度の驚愕に打たれた」。「なんという途方もない土の山だろう。これほどの塊を積み上げるには、幾年もの歳月と、幾千の人々の労苦を要したにちがいない」。
彼は歩測で周囲を測り、円周を六百ヤード、高さを九十フィートほどと見積もっている。そして書いた。「いま死の静寂に横たわるこの平原は、かつては忙しく混み合った人々の舞台だった」。
ブラッケンリッジは新聞にこの発見を書いたが、ほとんど無視された。彼は友人だった元大統領トーマス・ジェファーソンへの手紙で、そのことを愚痴っている。ジェファーソン自身は1784年にヴァージニアのマウンドを自ら発掘した経験があり、マウンドを築いたのは先住民だと正しく結論していた。だが当時のアメリカという国は、その話を聞きたがらなかった。
1830年のインディアン強制移住法は、先住民が土地をまともに使えない遊動的な「未開人」であるという前提の上に成り立っている。当時のワシントン市に匹敵する規模の古代の先住民都市が実在したという事実は、その筋書きにとって邪魔でしかなかった。
20世紀に入ってからも、カホキアの扱いはひどかった。1920年代、フィリップス・アカデミーのウォレン・モアヘッドがイリノイ大学の支援で調査を行い、遺跡の重要性を訴えた。その努力もあって1923年に州が公園用地の購入を認め、1925年にモンクス・マウンドを中心とする小さな州立公園が誕生する。だが公園はソリ遊びとキャンプ場とイースターエッグ探しの会場として使われ、遺跡の残りの部分は放置された。
カホキアで二番目に大きかったマウンドは1931年に削られ、跡地にはギャンブル場や住宅地、そしてドライブインシアターが建った。対岸のセントルイスとイースト・セントルイスのマウンド群は、そもそも丸ごと消滅した。
皮肉なことに、この街を救ったのは、この街を切り刻もうとした事業だった。
1950年代、アイゼンハワー大統領の州間高速道路計画がカホキアを貫くことになった。ただしこの計画には、進路上の遺跡を調査するための予算措置が組み込まれていた。結果として、それまでのどの時期よりも潤沢な発掘費用と、明確な調査対象と締切がもたらされた。ウィトリーがウッドヘンジを見つけたのも、ファウラーが72号マウンドに挑めたのも、この救済考古学の波の中でのことだ。
掘れば掘るほど住居跡が出てきて、ここにかつて数千人が同時に暮らしていたことが確定した。
1964年7月19日、カホキア・マウンズは国定歴史建造物に指定される。1966年10月15日には国家歴史登録財に登録。そして1982年、ユネスコの第6回世界遺産委員会がここを世界遺産に登録した。イリノイ州唯一の世界遺産であり、アメリカ合衆国に二十数件しかない世界遺産の一つだ。1989年には常駐スタッフを置く解説センターが開館した。
現在の史跡は約890ヘクタール。かつて120基前後あったマウンドのうち、80基ほどが残っている。近年は国立公園への昇格を目指す動きがあり、そこにオセージ、ピオリア、チカソーをはじめとする部族が参加している。ピオリア族の第二首長ローガン・パッペンフォートは、こう語っている。モンクス・マウンドを登って首長がいた頂上に立つと、それは自分にとって少し帰郷のような旅になる、と。
「マウンドを掘ると祟る」という、よその国の物語
さて、怪談の話をしないわけにはいかない。
アメリカには、「先住民の墓地の上に家を建てると祟られる」「マウンドを掘ると悪いことが起きる」という定番の俗信がある。映画とテレビが半世紀かけて刷り込んだ紋切り型だ。カホキアもその例外ではない。モンクス・マウンドの上に光の玉が浮かぶ、夜の丘の縁を影が横切る、遠くから太鼓が聞こえる、敷地内に取り込まれた旧ドライブインシアターの跡が出る、未確認飛行物体が飛ぶ。この手の話は掃いて捨てるほど蓄積されている。
心霊スポット紹介サイトには一般人の目撃談が並び、「階段を登っていたら見えない手に足を持ち上げられた」「翌日調べたら、近くのマウンドから手のない人骨が出ていたと知って震えた」といった、細部まで作り込まれた投稿もある。
こういう話が生まれるのは、正直、わからなくもない。夕暮れの氾濫原は音が異様に遠くまで通る。遮るものがない平原では、光の加減で見え方が変わる。しかも来訪者は、ここで270体の人骨が出たこと、若い女性たちが集団で埋められていたことを、展示室で読んだばかりだ。脳が勝手に配線をつなぐ。
ただ、この俗信には汚い前史がある。
19世紀のアメリカでは、「マウンド・ビルダー神話」というものが広く信じられていた。北米各地の巨大な土塁は、当時そこに住んでいた先住民に造れるはずがない。だから、かつてこの大陸には失われた高度な「白い人種」がいて、彼らがこれらを築き、のちに「野蛮な」先住民に滅ぼされたのだ、という筋書きだ。エジプト人説、フェニキア人説、ヴァイキング説、イスラエルの失われた部族説。
詩人ウィリアム・カレン・ブライアントの「プレーリーズ」は、この幻想を最も雄弁に歌い上げた作品として知られている。
この神話は無邪気な空想ではなかった。それは、先住民から土地を奪う行為を正当化する道具だった。彼らは元々ここにいた高等な民を殺した侵入者にすぎない。だから彼らの土地への権利は征服によるものにすぎない。ならば我々が奪い返しても構わない。アンドリュー・ジャクソンの強制移住政策は、この物語と地続きだった。
神話は19世紀末に科学的に葬られた。スミソニアン協会のサイラス・トーマスが1894年に公刊した米国民族学局の報告書は、20年におよぶ調査に基づき、マウンドを築いたのは先住民の祖先だと結論した。ピーボディ博物館のフレデリック・ウォード・パットナムも同じ結論に達している。だが一般には長く残った。1950年代の地方史の本にも「失われたマウンド・ビルダー人種」の話は載っている。
そして皮肉なことに、神話が消えたあと、入植者はマウンドへの関心そのものを失った。中西部にあった数千基のマウンドの大半は、ただの邪魔な盛り土として鋤で均された。
オハイオ州の先住民史研究者ジョン・ローは、現代の「祟る墓地」の紋切り型についてこう語っている。「あれは、私の祖先である先住民についての、他人が抱いた空想を、私たちの上に押しつけたものです。私たちに王子や王女はいなかった。君主制もなかった。あれは総じて、非先住民が先住民について何も知らないことの表れです」。そして続ける。「それは私たちを『他者』にする。
私たちを奇妙で、違っていて、今日の人間とは似ていないものにしてしまう。実際には、当時の人々は世界中どこでも、よく似た暮らしをしていたのに」。
「マウンドや土塁を、神秘的で解読不能で、魅惑的でエキゾチックなものとして扱う。でもそれは、私たちが他の誰とも同じ人間で、共同体で暮らし、家族を持ち、良いやり方で持続可能な生活を送っていたという事実から、注意をそらしてしまうと思うのです」。
つまるところ、「呪われた土地」という語り口は、カホキアを守りもしなければ理解もしない。それは、この場所を千年前に作った人々を、人間ではない何かに変えてしまう。
太陽が丘から昇るのを、まだ見に行ける
カホキアの何が人を捉えて放さないのか。少し整理してみたい。
一つは、単純に、あまりにも規模が話と釣り合っていないことだ。人口一万五千の都市、直径125メートルの天文施設、三千二百メートルの防御柵、二万個のビーズ、270体の埋葬。これだけの物量を残した社会が、文字を持たなかった。だから誰が指揮したのか、その人が何と呼ばれたのか、何を信じ、何を恐れ、なぜ最後にここを出たのか、一行も残っていない。物量と情報量の落差が、この場所に異様な引力を与えている。
二つ目は、仮説が反証されていく速度だ。この数年でカホキア研究に起きたことを並べると、なかなかすごい。1967年以来「男二人の戦士首長の墓」と教科書に書かれてきたものが、2016年に「男女の対」に書き換わった。1993年以来「環境自滅の教訓」として引用されてきた説が、2021年に層序で否定された。「大旱魃で作物が壊滅した」という話が、2024年に土壌の炭素同位体で疑われた。
過去十年で、この遺跡についての標準的な説明は、ほとんど全面的に組み替えられている。
しかも、その組み替えの多くが、新しい発掘ではなく、古い記録と古い標本の見直しから出ている。エマーソンたちがやったのは、半世紀前のフィールドノートと、棚に並んでいた骨を突き合わせる作業だ。ランキンがやったのは、26年間誰も検証しなかった仮説を、実際に掘って確かめる作業だ。派手ではない。だが、それが一番効いた。
三つ目は、この遺跡が「終わった話」ではないことだ。72号マウンドの若い女性たちは、いまも誰かの祖先である。オセージ・ネイションはセントルイスのマウンドを買い戻し、17年かけて全体を取り戻した。ピクチャー・ケイブという、カホキア誕生の直前に描かれた四百点近い岩絵を持つオセージにとって最も神聖な洞窟は、2021年に匿名の買い手に二百万ドル以上で競り落とされた。ハンターは入札に敗れた。
この話は千年前で終わっていない。今週の話でもある。
そして四つ目。放棄の理由について、いま最も誠実な答えはたぶん「わからない」だ。
洪水はあった。堆積物のコアがそう言っている。旱魃もあった。樹木年輪と酸素同位体がそう言っている。暴力もあった。壁と、割れた頭蓋骨がそう言っている。だが、そのどれもが単独では、人が街を捨てる理由として十分ではない。逆にどれかを消しても、話は成立してしまう。ロピノットの「政治的な派閥抗争かもしれないし、戦争かもしれないし、旱魃かもしれないし、疫病かもしれない。
ただ、わからないのです」という言葉は、三十年間この問題を考えてきた人間の到達点として、たぶん一番正確だ。
ミュラーの想像も好きだ。何千人もが一斉に逃げ出す劇的な場面はなかった。人々はたぶん、親族の近くに行きたくて、あるいは別の機会を探したくて、少しずつ散っていっただけだろう。都市というものは、みんなが同時に見限らなくても空になる。毎年少しずつ、ここにいる理由が薄れていけば、それで足りる。それはそれで、たぶん一番身にしみる終わり方だ。
いま、カホキアへ行くことはできる。春分と秋分の日曜の朝、ウッドヘンジの中心の柱のそばに三十人から百人ほどが集まる。イセミンガーが脚立に乗って、この装置がどう見つかり、どう機能するかを説明する。そして東を向く。曇っていなければ、太陽はモンクス・マウンドの正面から昇ってくる。
千年前、同じ場所に立った誰かが、同じものを見た。その人が何を思ったのかは、わからない。ただ、太陽の出る位置だけは、当時と一度もずれていない。
