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🗿 鎌倉大仏はなぜ屋根がないのか――大仏殿を消した“謎の災害”

鎌倉の高徳院の門をくぐると、大仏の頭の上は青空だ。屋根も天井もない。奈良の東大寺の大仏が巨大な大仏殿の屋根の下で静かに座っているのに、鎌倉の大仏は吹きさらしのまま、どっかりと腰を下ろしている。なぜこっちだけ野ざらしなのか。

実はこれ、最初からじゃない。かつては鎌倉の大仏も、ちゃんと堂の中に座っていた。その大仏殿が、いつの間にか姿を消している。犯人候補は台風と地震と津波の3つだ。ところが記録を順に読んでいくと、いちばん有名な説に思わぬ穴が見えてくるんだ。

東国に金色の巨像を、という大勝負

大仏の正体から押さえておこう。正式な名前は銅造阿弥陀如来坐像で、高徳院の本尊にあたる。像高は約11.3メートル、台座を含む総高は約13.4メートル。重さは約121トン。青銅で鋳た仏さまとしては、とんでもない大きさだ。

造りはじめの記録は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に出てくる。建長4年(1252年)8月17日、深沢の里で金銅八丈の釈迦如来像を鋳はじめた、という記事だ。書かれているのは釈迦如来で、今の阿弥陀如来とは名前が合わない。長いあいだ誤記とされてきたが、手の形が阿弥陀に特有の定印であることから、単純な誤記とは言い切れないという説もある。

完成の時期を示す記録は見つかっていない。手がかりは、鋳物師の丹治久友が鋳た鐘の銘だ。文応元年(1260年)の鐘には、名前しか刻まれなかった。文永元年(1264年)の東大寺真言院の鐘には新大仏寺の大工、同じ年の吉野の金峰山寺蔵王堂の鐘には鎌倉新大仏の鋳物師とある。

4年のあいだに、肩書がついたわけだ。完成はこの4年のうちとみる説がある。着工から8年か12年かかった計算になる。大仏づくりに関わった職人で、名前が伝わるのは彼ひとりだ。

幕府の狙いは何だったのか。文化庁の解説は、関東の鎮護のために幕府が造った大仏だと説明する。許可を出す段階から、幕府が全面的に支えたとみられている。東国の武家政権が、自分たちの土地に巨大な仏さまを据えた。それだけで鎌倉の格は一段上がる。

出来たばかりの姿は、今とは別物だった。全身が金箔で覆われていて、金色にぎらぎら輝いていたらしい。今は青緑の鈍い色に変わったけれど、ところどころに金箔の跡がうっすら残る。往時の名残。

先に立っていたのは木の大仏だった

話はここで終わらない。今の大仏より前に、木で造られた大仏がいたんだ。『吾妻鏡』によれば、嘉禎4年(1238年)3月23日、僧の浄光が企てて、深沢の里で大仏堂の工事が始まった。2か月後の5月18日には、大仏の頭が持ち上がったという。

仁治2年(1241年)3月27日に、大仏殿の上棟式が行われた。寛元元年(1243年)6月16日には、八丈余の阿弥陀如来像が安置されて供養が営まれた。導師は良信という僧だ。勧進をした浄光は、6年のあいだ、都も田舎も身分の上下も問わず浄財を集めたと『吾妻鏡』は書く。

完成間近の様子は、旅の記録にも出てくる。仁治3年(1242年)の秋に参詣した『東関紀行』の筆者は、木の大仏と堂が3分の2ほど出来ているのを目にした。筆者は堂の構えを「十二楼」にたとえて、感嘆している。

浄光は一介の勧進僧に見えるが、背後には幕府の影がちらつく。仁治2年(1241年)には、囚人を逃がした御家人から過怠料を取り、新しい大仏殿の造営料に寄進させた。翌年には、僧の従者が刀を持つことを禁じ、取り上げた刀を大仏に納めさせている。

日蓮の書状にも、大仏殿の名が出てくる。建治3年(1277年)の書状は、名越一門が善覚寺や長楽寺とともに大仏殿を建てたと書いた。名越一門は北条氏の一族だ。文永5年(1268年)の書状には大仏殿別当という役職が見えるから、このころには寺として成り立っていたと考えられている。

なぜ木の大仏のあとに、銅の大仏が造られたのか。理由ははっきり分からない。木の大仏が失われたとみる説が有力だが、銅像を鋳る型に木像を使ったと考える専門家もいる。型の合わせ目から金属がはみ出した跡が、大仏の表と内側の同じ位置に残るからだ。土の像を型にしたとみる研究者との論争は、いまも決着していない。

大仏殿の大きさは、発掘調査でかなり正確に分かった。鎌倉市教育委員会が平成12年度から13年度にかけて大仏の周辺を掘り、柱を据えた跡を確かめた。復元すると、桁行は145尺で約43.9メートル。梁行は140尺で約42.4メートルの五間四方になり、周りには裳階という庇まで付く。

今の東大寺大仏殿は東西が約57メートルだから、間口では鎌倉のほうが十数メートル狭い。それでも11メートル級の青銅仏がすっぽり収まる大建築だ。屋根は瓦ではなかったらしい。瓦の破片が確認されておらず、初期の建長寺と同じこけら葺きか檜皮葺きだったと推定されている。

1369年を最後に、再建の記録が途絶える

その大仏殿は、いつ消えたのか。年表を並べてみる。嘉元3年(1305年)に鎌倉を大地震が襲い、大仏殿は被害を受けた。文化庁の解説はこのとき倒れたと書くが、高徳院が出した修理報告書は、倒壊には至らなかったとみる。

元徳元年(1329年)には再建が図られた。それでも建武元年(1334年)に、大風でまた倒れる。応安2年(1369年)にも大風で倒れて、そこから先は再建の記録が見当たらない。ここが、謎の入り口。

1486年に大仏を訪れた禅僧は、堂はなくて露座だったと書き残した。再建された堂が立っていたなら、この記述は成り立たない。平成12年度から13年度の発掘調査でも、1369年のあとに大仏殿が再建された形跡は見つかっていない。

逃げ込んだ堂が、頭の上から崩れてきた

いちばん古くから語られてきたのは大風だ。出どころは軍記物語の『太平記』。建武元年(1334年)の旧暦8月3日、500人あまりの軍勢が、吹き荒れる風を避けて大仏殿へ駆け込んだ。

堂に入れば助かる。そう思った矢先に、大仏殿のほうが風に耐えきれず倒れた。棟も梁も微塵に折れた、という書きぶりだ。逃げ込んだ者たちは崩れた堂の下敷きになり、1人残らず圧死したという。避難所が、そのまま凶器。

もちろん物語は物語だ。『太平記』は南北朝の動乱を描いた文学で、原型ができたのは1338年から1350年のあいだとされる。史実の記録として使うなら慎重さが要る。ただ、文化庁も高徳院も、建武元年の大風による倒壊を年表に入れている。完全な作り話として捨てるには惜しい材料だ。

応安2年(1369年)の倒壊は、『鎌倉大日記』にも載る。大風で大仏殿が転倒した、と短く書かれた記事だ。この年表は1180年から1539年までの出来事を並べたもので、書き手も成立の事情もよく分かっていない。短い記事だけれど、この倒壊を最後に再建の記録が途絶える点が、あとで効いてくる。

鎌倉は昔から揺れる町だった

次は地震説。鎌倉には、大きな揺れの記録が山ほどある。永仁元年(1293年)4月の大地震では、建長寺が倒れたうえに燃えたと『鎌倉大日記』が書く。ほかの史料は山崩れや多数の死者まで伝えていて、数は史料ごとにばらばらだ。数千とも2万3千余ともいう。

嘉元3年(1305年)の大地震は、永仁の地震から12年後のことだ。大仏殿はこの揺れで傷んだ。元徳2年(1330年)に大仏の造営費を集める動きがあったのは、その修理のためだと読む研究者もいる。

大仏そのものも、揺れの被害者だ。元禄16年(1703年)11月22日の大地震では、台座の石段が前へ崩れ、像が3尺(約90センチ)ほど下に傾いた。大正12年(1923年)の関東大震災では、台座が前面で1尺沈み、像は1尺以上前へ滑り出した。大仏殿の柱は木だ。青銅の塊より揺れに弱いのは、見当がつく。

ただ、1334年と1369年の倒壊は、どちらも大風が原因とされる。地震説は、鎌倉という土地柄と嘉元の大地震から組み立てた推理の色が濃い。決定打に欠けるぶん、次に出てくる津波説のほうが目立つ。

由比ヶ浜の海水が、千度壇に届いた

いちばん劇的なのが津波説で、根拠は『鎌倉大日記』の明応4年の条だ。原文はこうなる。「明応四年八月十五日、大地震、洪水、鎌倉由比浜海水到千度檀、水勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余」。

現代の言葉にしてみよう。1495年9月3日にあたる日に、大地震と洪水があった。由比ヶ浜の海水が千度壇まで来て、水の勢いが大仏殿の堂や屋を破り、溺れた者は200人あまりに及んだ。千度壇は、浜から鶴岡八幡宮へ延びる若宮大路のことだとみられる。

この記事を後押しする材料もある。江戸時代の『続本朝通鑑』など複数の書物は、はっきりと大仏殿破壊と書いた。熊野の記録『熊野年代記』にも、明応4年8月15日に鎌倉で大地震、という記述がある。静岡県伊東市の宇佐美遺跡では、標高7.8メートルの地点から15世紀の津波堆積物が見つかった。15世紀で候補になる大津波は明応4年しかない、という読みだ。

面白い仮説も出ている。伊東市の研究者は、この年の9月に北条早雲が小田原城へ入ったことに目をつけた。津波で壊滅した小田原を、早雲があっさり奪ったのではないか、という読みだ。真偽は分からない。ただ、津波の記録が戦国の幕開けまで引っぱり出してくるんだから、話は大きい。

日付には食い違いがある。会津の年代記『塔寺八幡宮続長帳』は、明応7年(1498年)8月25日の大地震で、鎌倉の由比ヶ浜の海水が大仏殿まで上ったと書く。この日は、熊野灘の南海トラフを震源とする別の大地震の日だ。浜名湖が外海とつながるほどの被害が出た。

1980年代には、『鎌倉大日記』の日付は、この明応7年の誤記だと片づけられた。高徳院の修理報告書の年表も、明応4年を7年の誤記とみて、1498年の大地震と津波で大仏殿が倒れたと載せている。高徳院の公式な説明にも、1498年の大地震の名が挙がる。

万里集九が見た、屋根のない大仏

ここで、津波説にとって都合の悪い証言が出てくる。明応4年の9年前、文明18年10月24日(1486年11月20日)に、禅僧の万里集九が鎌倉の大仏を訪ねた。旅の見聞を漢文でまとめた『梅花無尽蔵』に、そのときの様子が残る。本人が編んだ書物だから、書かれた時期も書き手もはっきりしている。

訳すとこうなる。長谷観音の古い道場を見て数百歩ゆくと、2つの山のあいだに銅の大仏がいる。腹の中は空洞で、数百人は入れそうだ。

背後に穴があって、わらじを脱いで腹に入る。みんなが言うには、この中で博打打ちが昼日中からサイコロを振っているそうだ。最後に、お堂はなく露座だ、と結んでいる。

腹の中で博打とは、なんとも罰当たりな話だ。それだけ大仏はさびれていた。堂はおろか、見張る者もろくにいなかったのかもしれない。万里集九はこのあと、浜に立つ大鳥居も見た。柱は、3人が手を広げて囲むほどの太さだった。

ここで日付の順番を見てほしい。1486年に堂がなかったのなら、1495年の津波にも1498年の地震にも、流される堂はない。高徳院の修理報告書の年表にも、1486年に堂がなかったという記事と、1498年に大仏殿が倒れたという記事が並ぶ。堂のない大仏殿は、倒れようがない。

専門家のあいだでは、津波が大仏殿を流したという話は俗説として退けられてきた。理由はこの食い違いだ。『鎌倉大日記』自身が、応安2年(1369年)に大仏殿転倒と書いているのも、その傍証になる。

地形の壁もある。今の大仏がある場所は標高14メートルほどだ。そこまで水が来るなら、鶴岡八幡宮の前も浸水していなければおかしい。鎌倉の市街の大半が水に浸かってしまうが、日記の書きぶりはそんな規模に読めない。

日記は嘘だったのか

じゃあ『鎌倉大日記』は嘘八百だったのか。そう言い切るのも違う。神奈川県温泉地学研究所の報告は、明応4年の鎌倉に大地震があったこと自体は確かだと整理している。熊野の記録と宇佐美遺跡の津波堆積物が、日記の日付を支えるからだ。

問題は「大仏殿破堂舎屋」の読み方になる。歴史地震の専門家は、津波が大仏殿そのものを壊したのではなく、大仏殿に関わる建物を壊した記述と読むのがせいぜいだろうと考える。肝心の大仏殿は、もうなかったからだ。

一方で、同じ報告は別の可能性も残している。当時、大仏殿に関わる施設が長谷の交差点あたりまで延びていたなら、大きな津波で流された余地が出てくる。「千度壇に届いた」と「大仏殿を破った」は、そのままでは両立しない。

報告は、どちらかを捨てずに両立する読み方を探すべきだと提案している。決着はまだついていない。考古学の調査や地形の研究が進めば、読み方が変わるかもしれない。

堂は消えても、121トンは動かなかった

風でも地震でも津波でも、変わらない不思議な点がある。木の大仏殿は消えたのに、青銅の大仏だけは同じ場所に座り続けた。発掘で確かめた礎石の位置と照らすと、大仏は創建以来、位置も向きも変わっていない。

理由の一部は、重さにあるのだろう。約121トンの青銅の塊は、並みの風ではびくともしない。もっとも、揺れとなると話が別だ。関東大震災のとき、大仏は台座の上で前へ滑り出した。倒れずに済んだのは、滑ったからだと言われている。

昭和の大修理は、この性質を逆手に取った。工事ではガンマ線で首のまわりを撮影し、鋳継ぎの部分に隙間があるのを見つけている。そこで首の内側を樹脂で補強し、像と台座のあいだにステンレスの板を挟んだ。

地震のときは像が台座の上を滑って、揺れを逃がす仕組みだ。木の堂は消え、青銅の仏は残った。壊れ方のくっきりした対比が、この謎をいっそう不思議に見せている。

なぜ屋根は戻ってこなかったのか

倒れた堂を、なぜもう一度建てなかったのか。決定的な史料はない。ただ、鎌倉幕府は1333年に滅びていて、1369年の鎌倉はもう武士の首都ではなかった。大仏殿ほどの大工事に、誰が大金を出すのか。常識的に考えて難しい、と温泉地学研究所の報告は書く。

同じ苦労は、奈良の大仏も味わっている。東大寺の大仏殿は、治承4年(1180年)に平重衡の兵火で焼け、永禄10年(1567年)には三好・松永の兵火でまた焼けた。2度目のあとに仮屋が建てられたものの、大風で倒れ、そこから100年近く大仏は風雨にさらされたと東大寺は説明している。

再建が実ったのは、宝永6年(1709年)。費用を抑えるために、間口は11間から7間へ縮められた。奈良の大仏にも、屋根のない長い時代があったんだよな。

鎌倉の大仏は、南北朝のころから江戸時代の前期まで、建長寺の管理下に置かれた。天文20年(1551年)には、禅僧が鎌倉の大仏は露座だと書き残している。元禄の大地震で傷んだ大仏を立て直したのは、江戸の商人だった。

正徳2年(1712年)、浅草の豪商の野島新左衛門が支えに回り、増上寺の祐天上人が大仏を修復した。寺の名は、新左衛門の法名から高徳院と決まる。ところが新左衛門は数年のうちに咎を受けて流罪になり、復興はいったん頓挫した。

享保18年(1733年)に初代住職として入った養国上人は、ひどい有様を目にした。大仏の全身に3寸、4寸の穴があき、螺髪は落ち、背中の扉もない。鳩や雀が腹の中に巣をつくり、雨の日は穴から雨水が入る。海辺の塩風が、金属の表面を削っていく。

養国は江戸で托鉢を重ね、修理の資金を集めた。享保20年(1735年)に出した勧進帳には、仏像の修復や蓮座、石段に加えて、大仏殿を造立したいという雄大な願いが書かれた。屋根を戻す計画は、確かにあったんだ。同じ年の9月には、銀の白毫と真鍮の肉髻珠ができあがり、白毫は大八車で江戸の町を毎日引き回されて、人々が縁を結んだ。

元文2年(1737年)には、職人160人ほどが約3か月かけて大仏を修理した。それでも大仏殿の願いは実らない。寛保3年(1743年)3月に、高徳院の本堂から火が出て、諸堂がすべて焼けた。大仏は無傷。養国の再建計画は、この火事で終わった。

礎石をたどると、堂の輪郭が見えてくる

境内には、円盤の形をした大きな石が53個、ばらばらに置かれている。直径は約2メートル、厚みは約60センチ。安山岩でできた礎石で、大仏殿の柱を受けていた石だと推定される。

江戸の人も、この石を見ていた。慶長15年(1610年)4月に大仏を参詣した醍醐寺の義演は、日記に「堂ハ無シ、七間方ノ礎残了、大石也」と書いた。延宝8年(1680年)の『鎌倉記』にも、仏のまわりに五尺四方ほどの石が据えてあり、そこに堂が建っていたと見える、とある。

元禄の大地震のあとに出された宝永元年(1704年)の訴状には、大仏殿の柱の跡が東西25間、南北21間、礎石は60と記された。発掘で分かった数字にかなり近い。石の数は、いま53個。数が合わない理由は、分からない。

石の下も調べられた。平成12年度から13年度の調査で、直径約3メートル、深さ約2メートルの穴に、砂利と凝灰岩を交互に突き固めた根固めが出てくる。穴は大仏を中心に方形に並ぶ。重い堂を支えるために、地面そのものをこしらえていたわけだ。

同じ調査で、大仏を鋳たときの跡も確かめられた。型の周りに少しずつ土を盛り上げた、斜めの土の層だ。出土した銅片や鞴の羽口の成分は、大仏本体と一致した。大仏は、今座っている場所で鋳られたことになる。

昔の境内の様子も見えてきた。創建のころ、大仏殿の東から南にかけては広い沼や湿地だった。南側が埋め立てられて参道になったのは、13世紀末のことだ。大仏殿の前は、もとは水っぽい土地だったんだ。

津波の言い伝えは、防災の地図にまで載った

俗説と片づけられても、この言い伝えは消えなかった。神奈川県が2012年に発表した津波浸水予測図は、大仏殿に届くほどの津波まで、コンピュータで作り出して計算に入れている。500年以上前の記録が、今の防災の物差しになっているわけだ。

標高14メートルの大仏の足元まで水が来る津波とは、相当な規模になる。相模灘の側で起きた大きな津波の痕跡は、宇佐美遺跡の堆積物に残るとみられている。言い伝えは、まるきり根も葉もない話でもなかった。

屋根をかけない、という選択

2013年7月の事前調査で、思わぬものが見つかった。大仏の内側の顎のあたりに、投げ入れられた硬貨が150キロほどもたまっていたんだ。取り除く前と後で、頭の揺れ方が変わる。1486年にサイコロの音が響いたあの腹の中で、今は小銭の重みが像の動きに効いていた。

2016年1月、大仏はいったん覆い隠された。足場と素屋根と呼ばれる仮設の屋根が組まれ、東京文化財研究所を中心にクリーニングと調査が始まる。昭和34年の大修理から55年ぶりの本格調査。内側には、墨やマジックの落書き、ガムの付着まであった。屋根のない大仏に、ひと冬だけの屋根。

昭和に仕込んだ滑り免震は、これまで一度も保守されたことがなかった。ステンレス板は、調査でかなり良い状態だと確かめられている。2011年の東日本大震災でも鎌倉は震度4で、免震が本当に働くかどうか試される機会は、まだ来ていない。

調査をもとに作られた保存管理計画は、大仏に覆屋をかけることについて、慎重な検討が求められると書いた。昭和に補強した箇所の劣化も確認されていて、定期的な点検を続ける方針だ。青空の下の大仏は、そのまま守る対象になった。

2016年3月11日、大仏は再び姿を現した。高徳院の参道を歩いて、大仏の正面に立つ。頭の上には広い空がある。足元には、大仏殿の柱を受けていた礎石が、いくつも転がっている。

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