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鎌倉大仏はなぜ屋根がないのか――大仏殿を消した“謎の災害”

鎌倉の大仏は、最初から青空の下に座っていたわけではない。かつては大仏殿の中に安置されていた。その建物が失われ、再建されなかったため、現在の「露座の大仏」になった。厄介なのは、大仏殿を最後に壊したのが台風、地震、津波のどれだったのか、はっきり決められないことだ。

大仏殿は確かにそこにあった

高徳院の本尊は、銅造阿弥陀如来坐像だ。この銅製の大仏は、建長4年(1252年)ごろに造立が始まったとされる。それ以前に木造の大仏があり、損傷したため銅像へ造り直したという説も伝わっている。つまり、今の大仏は二代目だったのかもしれない。

現在の大仏は落ち着いた緑青色をしている。ところが、顔などには金箔の痕跡が残るとされ、完成時には金色に輝いていたと考えられている。その像を覆う木造の大仏殿も、あわせて建てられた。

話は伝説だけで終わらない。境内には大仏殿の礎石が残り、発掘調査も行われている。2000年から2001年の調査では、建物の痕跡が検討された。大仏殿が実在したことは、現地の遺構からも追えるわけだ。

ただし、建物の正確な姿や規模、何度建て直されたのかには不明点が残る。奈良の大仏殿と同じ姿だったと決めつけることはできない。

容疑者は暴風、地震、津波

大仏殿の倒壊について古くから挙げられるのが、暴風説だ。軍記物『太平記』には、大風を避けて大仏殿へ入った人々が、建物の倒壊に巻き込まれたという場面がある。逃げ込んだ先が崩れるという、救いのない情景だ。

ただし、『太平記』は軍記文学でもある。大仏殿が暴風で被害を受けた手がかりにはなるが、書かれた場面をそのまま事故記録とはみなせない。関東で起きた地震によって建物が損傷したという説もあるが、どの地震が決定打だったかは定まっていない。

もっとも有名なのが津波説だ。明応7年(1498年)の地震は、大きな津波を起こしたとされる。鎌倉は海に近く、津波が高徳院まで達し、木造の大仏殿を流したという説明が広まった。明応4年にも大仏殿が津波被害を受けたと読む記録があるとされる。

ところが、この筋書きには引っかかる点がある。応安2年(1369年)以降、大仏殿が再建された記録は見当たらないという説明もあるからだ。14世紀後半までに建物が失われていたなら、1498年の津波を「最後の大仏殿を流した唯一の災害」とする話とは合わない。明応期の記録が、すでに露座だった大仏や周囲の施設の被害を指した可能性も考える必要がある。

建物だけが消え、大仏は座り続けた

木造の建物が失われた一方、青銅製の大仏は現地に残った。像は高さ約11.3メートル、重量は約121トンと推定される。大きく重い青銅像と、柱や屋根でできた木造建築では、風、水、揺れを受けたときの壊れ方がまるで違う。

暴風なら屋根や柱が先に壊れ、津波なら木材が流されても、重い像までは動かなかった可能性がある。地震でも、建物が倒壊する一方で像が残ることは考えられる。重さと素材そのものが、結果として大仏を守った形になる。

ただし、「重かったから絶対に無傷だった」という単純な話でもない。大仏は長い間に補修を受けており、近代の地震では台座が損傷した記録もある。現在の姿は、災害に一度も傷つかなかった像ではなく、被害を受けるたびに守られてきた像だ。

どの災害が大仏殿を消したとしても、大仏本体が残ったことだけを奇跡や超自然現象として説明する必要はない。素材、重量、構造の違いで説明できる範囲がある。拍子抜けするかもしれないが、そこは物理の領分だ。

なぜ誰も建て直さなかったのか

大仏殿が失われたあと、簡単な覆いが作られ、それも別の災害で壊れたという伝承がある。しかし、仮設の建物がいつまであったのかを詳しく追える記録は乏しい。伝承どおりなら、屋根は一度ならず二度失われたことになる。

室町から戦国期の鎌倉は、幕府の中心だったころの力を失っていた。巨大な木造建築を再建し、維持する資金や政治的な後ろ盾が足りなかったことが、露座のままになった理由として考えられている。

江戸時代には、僧侶や有志が勧進を行い、大仏の修理や境内の整備を進めた。それでも大仏殿は再建されず、屋外に座る姿そのものが鎌倉大仏の特徴になった。

大仏殿を消した最後の一撃は、今も特定できていない。暴風、地震、津波が別々の時期に被害を与え、その積み重ねで再建が途絶えた可能性もある。答えを一つに絞るより、史料の年代と遺構を照らし合わせるほうが、露座になった歴史を無理なく説明できる。

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