吸血鬼という言葉が、最初に紙に印刷されたのは小説ではない。役所の書類だ。
もっと言えば、税務と補給を担当する下級役人が上司に宛てて書いた、言い訳まじりの報告書である。しかもその役人は、事後に「もし手続きに落ち度があったなら、それは私ではなく、恐怖で我を失った民衆のせいにしていただきたい」と書き添えている。責任回避の一文まで含めて、完全に役所の文書なんだよな。
この一枚の紙から、ヨーロッパは十年以上まともに議論した。神学部が論文を出し、医学部が反論した。新聞が煽り、大蔵大臣が風刺され、教皇庁が見解を求められ、最後には女帝が勅令で墓暴きを禁止する。空想の産物ではない。行政文書と、そこに署名した実在の公務員たちの話である。
- 一七一八年、帝国が「そこ」を手に入れた
- 一七二五年七月、キシロヴァ村。役人が墓地へ引きずり出された日
- 「死臭がしなかった」――報告書が記録したもの
- 文書としての『フロンバルト書簡』
- 一七二五年七月二十一日、ウィーンの新聞に載る
- 五年後、メドヴェジャ村。アルノルト・パウレという名の元ハイドゥク
- 一七三一年冬、二度目の流行と、軍医グラーザーの現地調査
- 一七三二年一月七日、墓地での一日
- 『検分と発見』が記録した十七人
- 五人の署名
- 文書が国境を越える
- ロンドンで起きた奇妙な転用――「政治的吸血鬼」
- 学者たちの大混乱
- カルメ神父という、困った味方
- ヴォルテールの毒舌と、ルソーの一撃
- カトリック側の反撃
- 一七五五年、ヘルメルスドルフ。ロジーナ・ポラキンという名の犠牲者
- ファン・スヴィーテンの覚書と、三月一日の勅令
- ゲオルク・タラールという現場主義者
- なぜ腐らなかったのか、という問いへの答え
- 血はどこから来たのか
- 爪と髪の話
- 連続死の正体
- なぜこの話は、今も怖いのか
一七一八年、帝国が「そこ」を手に入れた
話の起点は戦争だ。オイゲン・フォン・ザヴォイエン公がベオグラードでオスマン軍を破ったのが一七一七年。翌一七一八年に結ばれたパッサロヴィッツ条約で、ハプスブルク帝国はセルビア北部、バナト、ワラキア小部分を手に入れた。地図の上では勝利である。現場では、まったく統治経験のない土地を丸ごと抱え込んだということだった。
新領土は正式な行政区ではなく、軍が直接管理する軍政国境地帯として運営された。住民の多くはセルビア正教徒だ。オスマン領から逃れてきた難民や、国境防衛の義務と引き換えに土地と免税特権を与えられた民兵たちである。この民兵をハイドゥクと呼ぶ。もとは山賊や義賊を指す言葉だが、ハプスブルクの制度下では、村ごとに組織された半農半兵の国境警備隊員を意味した。
村にはハドナクと呼ばれる隊長格がおり、バリャクタル、つまり旗手がいて、伍長がいる。軍の階級がそのまま村の身分になっている社会だ。この点は効いてくるので押さえておいてほしい。後に出てくる報告書に登場する死者たちは、ほぼ全員がこの階層に属している。「ハイドゥクの息子ミロエ、十六歳」というような書かれ方をするのは、それが行政的に意味のある肩書きだったからだ。
そしてハプスブルク側は、この地域に役人を置いた。カメラル・プロヴィゾール、日本語にすれば財務管区の代官のような職である。徴税、穀物の管理、人口の把握、紛争の裁定。地味で、面倒で、誰も来たがらない仕事だ。正直、想像するだけで気が重くなる。
グラディスカ管区にその職で赴任していたのが、エルンスト・フロンバルトという男である。
彼の下の名前が判明したのは、驚くべきことについ最近だ。二〇一七年十一月、研究者アルバロ・ガルシア・マリンがウィーンの戦争文書館でベオグラード管区の書簡録を調べている。一七二四年の二件の記録に「エルンスト・フロンバルト」という表記を見つけた。一件は同年四月十一日付で、正教会の神学校建物に関する報告だ。もう一件は同年七月二十日付で「代官エルンスト・フロンバルト宛」と書かれた行政文書である。
それまで三百年近く、この男は「フロンバルト氏」としか呼ばれてこなかった。吸血鬼史上もっとも重要な一次史料を書いた人間の名前が、二十一世紀になるまで半分しか分かっていなかったのである。
一七二五年七月、キシロヴァ村。役人が墓地へ引きずり出された日
その年の初夏、フロンバルトの執務室に村人の代表団が押しかけてきた。キシロヴァ村、現在のセルビア、ヴェリコ・グラディシュテ近郊のキシリェヴォと考えられている村からの陳情である。
彼らの訴えはこうだ。十週間ほど前、村のペーター・プロゴヨヴィッツという住民が死んだ。埋葬は正教の慣習に従って行われた。ところがその後、村では一週間のうちに老若合わせて九人が死んだ。全員、二十四時間ほどの短い病を経て死んでいる。
そして問題は、死んでいく者たちが臨終の床で口を揃えて同じことを言った点にある。十週間前に死んだはずのプロゴヨヴィッツが夜中に来て、自分の上に乗り、喉を絞めた、と。
村人の恐怖を決定的にしたのは、故人の妻の行動だった。彼女は近所に、夫が戻ってきて自分のオパンツィ、つまりバルカン地方の革製の靴を返せと要求した、と話した。そして荷物をまとめて村を出て、別の村へ移ってしまったのである。妻が逃げた。この事実の破壊力は、報告書を読むと生々しく伝わってくる。
理屈より先に、共同体の心が折れたのだ。
村人たちはフロンバルトに、墓を開ける許可と立ち会いを求めた。フロンバルトは断った。彼は役人である。上級官庁に報告して、ベオグラードの判断を仰ぐのが正しい手続きだ。彼はそう説明した。
村人たちの返答が、この事件でいちばん恐ろしい部分かもしれない。報告書によれば、彼らはこう言った。あなたの好きにすればいい。だが立ち会いも法的な承認も与えられないなら、我々は家も土地も捨てて出ていくしかない。ベオグラードから返事が来る頃には、村ごと悪霊に滅ぼされているかもしれない。
トルコの時代には実際にそういうことがあった。それを待つ気はない。
これは脅迫ではなく、通告だ。ちなみに、この手の申し出を断れる役人はまずいない。しかも役人にとっては死活問題である。村が消えれば税収が消える。国境地帯の防衛力が消える。
人口が消えれば、帝国の新領土経営そのものが失敗したことになる。
フロンバルトは折れた。グラディスカの司祭を連れて、キシロヴァ村へ向かった。
「死臭がしなかった」――報告書が記録したもの
墓が開けられたのである。フロンバルトは自分が見たものを、驚くほど即物的に書いている。
まず、死体に特有の臭いがまったくしなかった。鼻がいくらか落ちていた以外、遺体は完全に新鮮だった。髪と髭が伸びていたのである。爪は、古いものが剥がれ落ちて新しいものが生えていた。皮膚は、やや白っぽい古い層が剥がれ、その下から新しい皮膚が現れていた。
顔も手も足も全身も、生前より完全なくらいだったのである。
そして口の中に、新しい血があった。
フロンバルトはこの部分に「驚きなしにではなく」という一句を挟んでいる。役所文書のなかで、書き手の感情が一瞬だけ漏れる箇所だ。念のため書いておくと、彼はここでしか動揺を見せない。彼は続けて、周囲の一般的な見解ではこれは殺した人々から吸った血だとされている、と書いている。自分の判断としては書かない。
伝聞として書く。
これも役人の書き方だ。
その後のことは、彼は詳細に書かない。村人たちが猛烈な速さで杭を削り、遺体に対して彼らの慣習に従った処置を行った、とだけ記す。杭が刺されたとき、耳と口から完全に新鮮な血が大量に流れた。そして、ここが読んでいて笑ってしまうところだが、フロンバルトはこう書く。「その他にも野性的な兆候が起きたが、高い敬意のゆえに省略する」。
つまり、上司に書けないものを見たのだ。近代の法医学が知っているとおり、腐敗ガスが充満した遺体を穿孔すると、ガスが声帯を通って音を発することがある。また体液が勢いよく噴出することがある。当時の農民にとっては「うめき声を上げた」という体験であり、フロンバルトにとっては「報告書に書きたくない何か」だった。
最後に遺体は焼かれた。そしてフロンバルトは締めくくる。以上を最も称賛すべき行政庁に報告する。同時に、もしこの件で過ちがあったのなら、それは私ではなく、恐怖で自分を見失った下層民の責任に帰していただきたく、恭順かつ謙虚にお願い申し上げる。
保身の一文である。だがこの一文があるおかげで、我々はこの文書が空想でも創作でもなく、実際に上司へ提出された行政報告だと分かる。作り話に責任回避は要らない。ここは押さえておいてほしい。ここは押さえておいてほしい。
文書としての『フロンバルト書簡』
この報告書の原本は、現在のところ失われているか、所在不明である。残っているのは写しだ。ウィーンの宮廷国家文書館、トルコ関係文書群の第百九十一巻、フォリオ二十五から二十六に綴じられている。表題は長い。「一七二五年、セルビア王国グラディスカの皇室財務代官フロンバルト氏より発せられた書簡の写し。
当時セルビア王国で流行していた、いわゆるヴァンピリすなわち吸血者に関するもの」。
この写しには日付が入っていない。そして綴じ込まれている位置が、一七二五年の一月から二月の書類の間なのだ。実際の事件は初夏である。文書管理の現場で起きた、ごくありふれた整理ミスだろう。だがそのおかげで、後世の研究者はこの文書の作成日をめぐって長く議論することになった。
そして決定的なのが、この文書に含まれる一語だ。「いわゆるヴァンピリ」。ラテン語化された複数形で書かれたこの言葉が、印刷物における「吸血鬼」の最古の用例とされる。フロンバルトは説明を加えていない。彼にとっては現地語の呼称をそのまま音写しただけだった。
だがこの音写が、ドイツ語からフランス語へ、フランス語から英語へと渡り、二百年後にはハリウッドの看板になる。
一七二五年七月二十一日、ウィーンの新聞に載る
フロンバルトの報告は、ベオグラードを経由してウィーンに届いた。そして一七二五年七月二十一日、『ヴィーナーリシェス・ディアリウム』紙に掲載された。一七〇三年創刊、現在の『ヴィーナー・ツァイトゥング』の前身にあたり、現存する世界最古級の新聞である。
見出しは、事件の重大さに比べて拍子抜けするほど地味だ。「ハンガリーのグラディスカ管区からの一書簡の写し」。それだけである。編集部が特に価値を認めた形跡はない。同じ号には、ウィーン周辺の結婚と死亡のリストが並んでいる。
役所からの回覧文書を、埋め草として一段組で流した。そういう扱いに見える。
だがライプツィヒの新聞編集部がこれを見つけて転載した。そしてその転載を、ミヒャエル・ランフトという若い神学者が読んだ。ランフトは当時、墓の中で死者が音を立てて何かを噛むという伝承、ドイツ語圏に古くからある「死者の咀嚼」の話を研究していた。彼はフロンバルトの記事を、自分の研究対象の新事例として取り込んだ。そして一七二五年に『墓の中の死者の咀嚼について』というラテン語の学位論文を書く。
この本は一七二八年に増補され、さらにドイツ語版が出る。つまり吸血鬼は、まず学術文献の脚注として学界に入ったのだ。
この時点では、まだ爆発していない。ハプスブルク当局にとって、一七二〇年代最大の懸念事項はペストだった。バルカン国境は防疫線でもあり、軍医と検疫官が配置されていたのは疫病を止めるためである。吸血鬼は、彼らの業務リストの最下段にすら載っていなかった。
五年後、メドヴェジャ村。アルノルト・パウレという名の元ハイドゥク
次の舞台は、西モラヴァ川沿いの村メドヴェジャだ。現在のセルビア、トルステニク近郊にあたる。
一七二七年ごろ、この村のハイドゥク、アルノント・パウレ、近代の文献では英語風に「アルノルト・パウレ」と表記されることが多い。だが、文書に残る綴りに近いのは前者だ、この男が干し草を積んだ荷車から落ちて首の骨を折り、死んだ。二十代か三十代の、ごく普通の事故死である。
問題は、彼が生前に村人へ繰り返し語っていた話だった。オスマン領セルビアのコソヴァにいた頃、自分は吸血鬼に苦しめられた。だから吸血鬼の墓の土を食べ、その血を体に塗って、災厄から逃れたのだ、と。
これは民間伝承としての防御呪術である。だが同時に、決定的な自己申告でもあった。この地方の信念体系では、吸血鬼の血に触れた者は死後に吸血鬼になる。パウレは自分で自分に印をつけていたことになる。
死後二十日から三十日のあいだに、四人の村人が「パウレに苦しめられている」と訴え、そして死んだ。村人たちはハドナクの助言を仰いだ。この男は以前にも同種の事態に立ち会った経験があった。四十日ほど経った頃、パウレの墓が開けられた。
このときの所見は、後にフリュッキンガーの報告書に村人の証言として記録される。遺体は完全に無傷で腐敗していなかった。目、鼻、口、耳から新鮮な血が流れ出た。シャツも覆いも棺も血まみれだったのである。手足の古い爪は皮膚とともに剥がれ落ち、その下に新しい爪が生えていた。
彼らは慣習に従って心臓に杭を打った。その際、はっきりと聞き取れるうめき声が上がり、大量の血が流れ出たのである。遺体は同日中に灰になるまで焼かれ、灰は墓に投げ込まれた。
そして彼らは、パウレに殺されたとされる四人にも同じことをした。犠牲者は吸血鬼になる、という論理の一貫した適用である。ここには残虐さより、むしろ官僚的な徹底さがある。感染症の接触者追跡と発想がほぼ同じなのだ。
さらにパウレは人だけでなく家畜も襲い、血を吸ったとされた。村人はその家畜の肉を食べていた。この一点が、五年後の第二波の説明原理になる。
一七三一年冬、二度目の流行と、軍医グラーザーの現地調査
一七三一年の秋から冬にかけて、メドヴェジャで再び人が死にはじめた。しかも短期間に集中して。
村人たちは軍に訴えた。ヤゴディナ管区の司令部にいた中佐シュネッツァーは、これを疫病の可能性として扱った。ペスト警戒である。彼は帝国防疫医グラーザーを現地に派遣した。
グラーザーの報告書は一七三一年十二月十二日付だ。彼はまず、疫病の徴候を探した。そして見つからなかった。彼の診立てでは、死者たちの症状は脇腹の刺すような痛み、胸の痛み、長引く熱、手足の痙攣である。彼はこれを栄養失調と、正教の厳格な断食習慣による衰弱に帰した。
彼が記録した死者の名前は貴重だ。時系列に並べると、ミリツァ(五十歳の女性)、ミロイ(十四歳の少年)、ヨアヒム(十五歳の少年)、ペタル(生後十五日の男児)、スタナ(二十歳の女性)とその新生児、ヴチツァ(九歳の少年)、ミロサヴァ(ハイドゥクの妻、三十歳)、ラデ(二十四歳の男性)、ルジツァ(四十歳の女性)。六週間で十三人が死んだ、と彼は書いている。
グラーザーが記録した村人の説明も面白い。彼らはミリツァとスタナがこの流行を始めたと考えていた。ミリツァは六年前にオスマン領から村に来た女性で、隣人としては申し分なく、悪魔的なことを信じたり行ったりしたことは一度もない、と全員が証言した。ただ一度だけ、彼女は世間話のなかで、オスマン領にいた頃に吸血鬼に殺された羊を二頭食べたことがある、と話していたのである。
スタナのほうは、オスマン領では吸血鬼が非常に活発だったので、身を守るために吸血鬼の血を自分に塗ったことがある、と認めていた。
つまり村人は、二人を悪人だと言っていない。むしろ善良だったと証言している。彼女たちは加害者ではなく、汚染された人間として扱われているのだ。この構造は現代の感染症の語られ方に不気味なほど近い。
グラーザーの結論部分が、この事件の転回点になる。彼は疫病はないと断言しながら、こう上申した。住民を落ち着かせるため、彼らの慣習に従った処置を許可すべきである、と。これは医学的判断ではなく、治安判断だ。そしてこの一文が、報告書を軍の指揮系統に押し上げた。
グラーザーの報告はヤゴディナのシュネッツァーからベオグラードの上級司令部に送られた。副司令官ボッタ・ダドルノが動いたのである。彼は本格的な調査団の派遣を命じる。
一七三二年一月七日、墓地での一日
一七三二年一月七日、メドヴェジャ村の墓地に、帝国軍の一団が立った。
構成は、フュルステンブッシュ男爵歩兵連隊の連隊付き軍医ヨハン・フリュッキンガー、同連隊の下級軍医ヨハン・フリードリヒ・バウムガルテン、マルッリ連隊の下級軍医ジーゲレ。そしてアレクサンダー連隊の上級中尉ビュットナーと、同連隊の少尉ヨーハン・ハインリヒ・フォン・リンデンフェルス。医師三人と将校二人だ。国家が公式に編成した、記録に残る限り世界で唯一の吸血鬼調査委員会である。
彼らはまず村の聞き取りから始めた。立会人は、スタラーテのハイドゥク隊長ゴルシツ、村のハドナク、バリャクタル、そして最古参のハイドゥクたち。全員一致の証言として、五年前のアルノント・パウレの一件が語られた。
そして今回の被害の説明として、パウレに殺された家畜の肉を食べた者から新しい吸血鬼が出た、という理屈が示された。三か月のあいだに十七人の老若が死に、そのうち何人かは前触れの病気なしに二日か、長くても三日で死んだ。
続いてハイドゥクのヨヴィツァが証言する。彼の義理の娘スタノイカは、十五日前、健康そのもので床についた。ところが真夜中、恐ろしい叫び声とともに、恐怖に震えながら跳ね起きた。彼女は、九週間前に死んだハイドゥクの息子ミロエに喉を絞められた、と訴えたのである。それから胸に激しい痛みを覚え、一時間ごとに悪化して、三日目に死んだ。
これを聞いた委員会は、その日の午後、村の最古参ハイドゥクたちを伴って墓地に向かい、疑わしい墓を開けさせた。
『検分と発見』が記録した十七人
フリュッキンガーの報告書は、ラテン語の表題を持つ。『検分と発見』。医学の所見報告に用いられる定型の書き出しで、ドイツ語の副題は「セルビアのメドヴェジャにおいて、トルコ国境にて、一七三二年一月七日に生じた、いわゆる吸血者について」となっている。
内容は、番号を振った検死所見の連続だ。ここが決定的に効いてくるところで、この文書は物語ではなく、医療記録の形式で書かれている。ラテン語の解剖学用語が、ドイツ語の地の文に埋め込まれている。胸腔、血管外に漏出した血液、動脈と静脈、心室、肺、肝臓、胃、脾臓、腸。専門教育を受けた人間が、専門の様式で書いた文書なのだ。
第一に、スタナという二十歳の女性。二か月前、三日間の病の後に出産の際に死んだ。彼女は死ぬ前に自分で、吸血鬼の血を体に塗ったことがある、だから自分も子供も吸血鬼になるだろう、と語っていた。その子供は出産直後に死に、ぞんざいな埋葬のせいで犬に半分食われていた。母親の遺体は完全に無傷で腐敗していなかったのである。
開いてみると、胸腔に血管外へ漏れ出た新鮮な血液が相当量あった。動脈と静脈、心室は、通常なら凝固した血で満たされているはずが、そうなっていなかった。肺、肝臓、胃、脾臓、腸はすべて、健康な人間のそれと同じように新鮮だったのである。ただし子宮だけは大きく腫れ、外側がひどく炎症を起こしており、胎盤と悪露が残留していたため完全に腐敗していた。
手足の皮膚は古い爪とともに自然に剥がれ落ち、その下に新鮮で生き生きした皮膚と、まったく新しい爪が現れていた。
この第一項目の書きぶりが、この文書の性格を全部説明している。腐敗していない、と書きながら、子宮は完全に腐敗していた、とも書いている。都合の悪い所見を隠していない。フリュッキンガーは見たものを見たまま書いており、その上で解釈が当時の枠組みに引っ張られている。それが史料としての価値を跳ね上げている。
第二に、ミリツァ。およそ六十歳。三か月の病の後に死に、埋葬から九十日余り経っていた。胸には大量の液状の血があった。他の内臓は前例と同様、良好な状態だったのである。
そして解剖の際、周りに立っていたハイドゥクたちが全員、その太った完全な体に驚愕した。彼らは口を揃えて、この女を若い頃からよく知っているが、生涯を通じて非常に痩せて干からびていた、と証言した。そして、彼女は墓の中でこの驚くべき肥満に到達したのだ、と強調したのである。
墓の中で太った。この一文が持つ気味悪さは、三百年経っても薄れない。
第三に、生後八日の乳児。九十日間墓にあり、同様に吸血鬼の状態だった。
第四に、ハイドゥクの息子ミロエ、十六歳。三日間の病の後に死に、九週間土中にあった。他の吸血鬼と同様の状態で発見された。
第五に、ヨアヒム。これもハイドゥクの息子、十七歳。三日間の病の後に死に、八週間と四日埋葬されていた。解剖の結果、同様の状態だった。
第六に、ルシャという女性。十日間の病の後に死に、六週間前に埋葬された。胸だけでなく胃底部にも大量の新鮮な血があった。同じことが、生後十八日で五週間前に死んだ彼女の子供にも見られたのである。
第七に、十歳の少女。二か月前に死亡。前記と同じ状態で、完全に無傷で腐敗しておらず、胸に大量の新鮮な血があった。
第八に、ハドナクの妻とその子供。妻は七週間前、子供は生後八週間で二十一日前に死んだ。掘り出したところ、母子ともに完全に腐敗していた。近くに横たわっていた吸血鬼たちと土も墓も同じであったにもかかわらず、である。
第九に、村のハイドゥク伍長の下男ラデ、二十一歳。三か月に及ぶ病の後に死に、五週間の埋葬の後、完全に腐敗した状態で発見された。
第十に、村のバリャクタルの妻とその子供。五週間前に死亡。同様に完全に腐敗していた。
第十一に、スタニコ。村のハイドゥク、六十歳。六週間前に死亡だ。胸と胃に、他と同じく大量の液状の血が見られた。全身が例の吸血鬼の状態にあった。
第十二に、ミロエ。ハイドゥク、二十五歳。六週間土中にあり、同じく吸血鬼の状態だった。
第十三に、スタノイカ。ハイドゥクの妻、二十歳。三日間の病の後に死に、十八日前に埋葬された。解剖したところ、顔がすっかり赤く、生き生きした色をしていた。前述のとおり、彼女は真夜中にハイドゥクの息子ミロエに喉を絞められたと言っていたのである。
そして実際、右耳の下に指の長さほどの、内出血した青い痕が見えた。墓から取り出す際、鼻から大量の新鮮な血が流れた。解剖では、何度も述べたとおり、正真正銘の芳しい新鮮な出血が、胸腔だけでなく心室にも見られたのである。内臓はすべて完全に健康で良好な状態だった。全身の皮下組織は、手足の新鮮な爪とともに、まるでまったく新しいもののようだった。
ここで目を引くのは第八項から第十項だ。ハドナクの妻と子、下男ラデ、バリャクタルの妻と子。この五人は「完全に腐敗していた」と記録され、吸血鬼ではないと判定された。しかもフリュッキンガーは、彼らが吸血鬼たちのすぐ近くに、同じ土と同じ墓に埋まっていたと明記している。
つまりこの委員会は、全員を吸血鬼にはしなかったのだ。腐っている者は腐っていると書いた。この選別があるからこそ、当時の読者はこの報告を信頼した。もし全員が無傷だったなら、誰かの嘘だと片付けられただろう。半分が腐っていて半分が腐っていなかったという事実こそが、ヨーロッパの知識人を十年間悩ませた核心である。
検分の後、現地のロマの人々が吸血鬼と判定された遺体の頭部を切断し、遺体とともに焼き、灰は西モラヴァ川に投じられた。腐敗していた遺体は、元の墓に戻された。
五人の署名
報告書の末尾は、署名の連なりである。ここが行政文書としての完成部分だ。
まず医師三人の連署。印章、ヨハン・フリュッキンガー、フュルステンブッシュ男爵歩兵連隊付き連隊軍医。印章、ジーゲレ、マルッリ連隊軍医だ。印章、ヨハン・フリードリヒ・バウムガルテン、フュルステンブッシュ男爵大佐歩兵連隊軍医。
そして将校二人による証明文が続く。下記に署名する我々は、フュルステンブッシュ連隊の連隊軍医と、連署した二名の軍医助手が上記の吸血鬼に関して検分したすべての事柄が、あらゆる点において真実に合致し、我々自身の立ち会いのもとで実施され、検分され、検査されたことを、ここに証明する。その確認のため、自筆の署名と捺印を付す。ベオグラード、一七三二年一月二十六日。印章、ビュットナー、アレクサンダー連隊上級中尉。
印章、ヨーハン・ハインリヒ・フォン・リンデンフェルス、アレクサンダー連隊少尉だ。
一月七日に現地で検分し、一月二十六日にベオグラードで署名した。十九日のあいだに文書は清書され、指揮系統を上がっていったことになる。原本はウィーンに現存する。
将校の証明文が付いていることの意味は大きい。医師の所見だけでは医学的意見にすぎない。将校が「我々の目の前で行われた」と証明した瞬間、これは軍の公式記録になる。証拠能力が変わるのだ。ルソーが後に皮肉を込めて指摘するといる。
この文書には調書、名士の証明、外科医の証明、聖職者の証明、司法官の証明という、当時の法廷が要求するすべての形式が揃っていた。
文書が国境を越える
そこからの速度が異常だった。
まずウィーン駐在の外交官たちが写しを本国に送っている。デンマークのコペンハーゲンの国立文書館には、駐ウィーン公使フォン・ベルケンティンが一七三二年二月九日付で『検分と発見』を送付した書簡が残っている。検分から一か月と二日。外交ルートは早い。
そして三月三日、ハーグで発行されていたフランス語の雑誌『ル・グラヌール・イストリク』が、「物理学的問題――正式に証明されたある種の驚異について」と題する記事を掲載した。この記事はフリュッキンガーの報告書を全文フランス語に訳して載せている。フランス語圏で「ヴァンピール」という語が初めて印刷された瞬間だ。
同じ三月、ロンドンの『ロンドン・ジャーナル』が、要約され、かなり歪んだ形の『検分と発見』を掲載した。これが英語圏における吸血鬼の初出とされる。英語での最古の用例としてしばしば挙げられるのは、一七三二年三月十六日付の『グラブ・ストリート・ジャーナル』である。
同じ年の『ジェントルマンズ・マガジン』三月号には、「ヴァンピールと呼ばれるある種の死体が、血をすべて吸い出すことで数人を殺した」という記述が載った。
一七三一年から一七四五年にかけて、学術通信誌『コンメルキウム・リッテラリウム』だけで、一七三二年の事件に関する記事が十七本出ている。ヨーロッパ全体では、この一件をめぐる記事や小冊子が百点を超えたとされる。ドイツ語圏では大学の学位論文が量産された。ライプツィヒ、イェーナ、ハレ、ヴィッテンベルク。神学部と医学部が別々に、それぞれの方法論で吸血鬼を論じた。
ドイツ語では、匿名の著者による小冊子が数多く出ている。長い表題の一つを訳すとこうなる。「セルビアにおいて新たに現れた吸血者すなわちヴァンピールに関する、奇異にしてきわめて驚嘆すべき報告。真正なる情報より伝えられ、歴史的および哲学的考察を付す」。一七三二年刊、著者は頭文字のみ、刊行地の記載なし。
中身は、フロンバルトの一七二五年報告とフリュッキンガーの一七三二年報告を並べて掲載し、その後に延々と考察を加えるという構成だ。考察部分では、土壌の保存作用、生き埋め、想像力による病、正教会の破門観念といった自然的説明を検討したうえで、それでもなお悪魔の関与を真剣に考慮する必要がある、と結論している。
読み物として非常によくできている。二つの一次史料を全文載せて、読者に判断材料を与えたうえで、著者の見解を最後に置く。現代のノンフィクションの構成と変わらない。売れないはずがなかった。
ロンドンで起きた奇妙な転用――「政治的吸血鬼」
面白いのは、イギリスでの受け止め方だ。
一七三二年五月の『ロンドン・マガジン』に、「政治的吸血鬼」という記事が載った。元は『ザ・クラフツマン』という新聞に掲載されたもので、この新聞は時の首相ロバート・ウォルポールを徹底的に攻撃していた反政府紙である。書き手はケイレブ・ダンヴァースという筆名で、実体はニコラス・アムハーストという文人だ。
記事は、三月の新聞で報じられたハンガリーの村メドレイガの怪異について、ある医師と若い紳士が議論する場面から始まる。医師は嘲笑し、紳士は信じる。そこにダンヴァース氏が割って入り、自説を披露する。
彼はこう言う。この報告が来た東方の諸地方は、寓意的な文体を非常に好む。加えてハンガリーの諸邦はトルコ人とドイツ人にかなり厳しい手綱で統治されている。だから彼らはあらゆる不満を比喩と寓話に包んで表現するのだ。
そして畳みかける。この吸血鬼どもは生者の血を吸うという。ところで、この国においてすら、強欲な大臣を指す言葉として「蛭」や「吸血者」以上に一般的な表現があるだろうか。収奪する大臣は、その圧政を墓の向こうまで持ち越す。公収入を先食いし、税と間接税の永久債務を人民に負わせることによって、残された者たちを苦しめ続ける。
そしてそのような大臣の重荷に呻く者たちは、しばしば所有地を売るか抵当に入れることを強いられる。つまり彼らもまた、同じやり方で自分の子孫を苦しめることになるのだ。
さらに別の記事では、こう茶化している。ハイドゥクと呼ばれるポール・アーノルドは、たかだか四人を殺したというのだから、たんなる大臣の手先にすぎない。もし彼が本当に地位のある吸血鬼だったなら、我々は何万人という数字を聞かされていただろう、と。
四十日埋葬されても腐敗していなかったという点についても反論する。悪事の作者は精神であって肉体ではない。人は自分の悪徳を、財産と同じく墓へ持っていくことはできない。彼の腐敗とその果実は残って、後世の鼻を刺し続けるのだ、と。
つまりイギリスでは、ヨーロッパ大陸を真剣に悩ませた超自然の問題が、上陸して三か月で政権批判の風刺に化けた。この落差そのものが、当時の情報環境をよく物語っている。ハプスブルクの国境地帯では生死に関わる公文書だったものが、ロンドンのコーヒーハウスでは首相を叩く棍棒になった。
学者たちの大混乱
ドイツ語圏の学者たちは、もっと真面目に悩んだ。
彼らが最初に参照したのは、実は吸血鬼の本ではない。カール・フェルディナント・フォン・シェルツという法律家が一七〇四年に書いた『マギア・ポストゥマ』、直訳すれば「死後の魔術」という著作だ。オロモウツで刊行された百十八ページの本で、検閲官の許可は一七〇四年の二月と七月に下りている。
この本には「吸血鬼」という語が一度も出てこない。吸血の記述もない。扱われているのは、モラヴィアで死後に戻ってきて生者を悩ませたとされる女性の事例と、十四世紀ボヘミアの年代記からの類例である。石を投げる、家財を荒らす、人を苦しめる。現代人ならポルターガイスト現象と呼びそうな内容だ。
シェルツはこれを法学と神学の両面から論じ、イエズス会の悪魔学者マルティン・デル・リオらを引きながら、こうした事例で遺体に処置を加える際の手続き的正当性を検討している。
つまり吸血鬼騒動の前に、ハプスブルク領内には「死後の魔術」という法概念のカテゴリーがすでに存在していた。だからこそ役所は一七二五年に慌てなかった。分類する箱があったのだ。
そこにフロンバルトとフリュッキンガーの二つの報告が投げ込まれ、議論は爆発した。ランフトは死者の咀嚼という枠組みで説明を試み、想像力の作用を重視した。テュービンゲンのゲオルク・ベルンハルト・ビルフィンガーのように、ライプニッツとヴォルフの哲学の系譜から霊魂と身体の関係を論じる者もいたのである。神学者は、死者を蘇らせる権能は神のみに属するというキリスト教の教義をどう守るかに腐心した。
医学者は自然的原因を探した。
議論の焦点は、実は「吸血鬼はいるか」ではなかったのだ。文書は本物である。署名者は帝国の軍人である。所見の記述は具体的で、しかも都合の悪いことまで書いてある。では、この観察された事実をどう説明するか。
それが問いだった。近代科学が生まれる直前の、いかにも十八世紀らしい問題設定である。
カルメ神父という、困った味方
この論争にもっとも大きな影響を与えた一冊が、ベネディクト会士オーギュスタン・カルメによるものだ。
初版は一七四六年、『天使、悪魔、霊の出現、およびハンガリー、ボヘミア、モラヴィア、シレジアの亡霊と吸血鬼に関する論考』という表題で出た。一七五一年に大幅増補され、『霊の出現、およびハンガリー、モラヴィア等の吸血鬼あるいは亡霊についての論考』と改題されて、国王の出版特許つきで刊行された。全二巻、百十五章。第一巻は霊の出現、魔術、妖術、悪魔憑き、幽霊。
第二巻は復活の記録、亡霊、吸血鬼、歴史的事例研究、そして掘り出された遺体だ。
カルメは真面目な聖書学者だった。彼のやり方は徹底した事例収集である。生物学、心理学、化学、語源学まで動員して、伝えられた事例を一つずつ検討する。明らかな詐欺は詐欺と断じる。だが彼は、説明のつかない事例については判断を保留した。
この保留が、彼を微妙な立場に追い込む。信者からは吸血鬼の存在を認めたと読まれ、啓蒙主義者からは迷信を延命させたと叩かれた。実際には、彼はどちらにも与していない。彼がやったのは、証言を集めて整理し、判断材料を残すことだった。だが十八世紀半ばのヨーロッパは、判断を保留する人間に居場所を与えなかった。
そのカルメの本が、皮肉なことに吸血鬼という主題を文学の側へ運ぶ導管になる。十九世紀の作家たちが東欧の吸血鬼について調べるとき、最初に手に取ったのは軍の報告書ではなくカルメだった。ポリドリの一八一九年の作品、そしてブラム・ストーカーの一八九七年の作品まで、系譜はここを通っている。
ヴォルテールの毒舌と、ルソーの一撃
一七六四年、ヴォルテールが『哲学辞典』に「吸血鬼」の項目を書いた。
彼の筆致は容赦がない。この項目でヴォルテールは、吸血鬼はポーランド、ハンガリー、シレジア、モラヴィア、オーストリア、ロレーヌに現れた。だが、ロンドンにもパリにも現れなかった、と指摘する。啓蒙の光が届いた場所には吸血鬼が出ない、という当てこすりだ。カルメについては、「カルメは彼らの歴史家となり、旧約新約を扱ったのと同じやり方で吸血鬼を扱った。
すなわち、それ以前に語られたすべてを忠実に報告したのである」と書いた。褒めているように見えて完全な嘲笑である。
そして項目の締めくくりが有名だ。パリやロンドンにも吸血鬼はいた。ただし彼らは死者ではなかった。真っ昼間に人民の血を吸っていた相場師、仲買人、実業家たちである。彼らは死んではいなかったが、腐敗していた、と。
ロンドンの『ザ・クラフツマン』が三十年以上前にやった風刺と、発想がまったく同じである。この比喩は当時、それだけ手垢がついていたのだ。
ヴォルテールが笑い飛ばした一方で、ジャン・ジャック・ルソーはまったく別の角度から刺した。パリ大司教クリストフ・ド・ボーモンに宛てた一七六三年の公開書簡のなかで、彼はこう書いている。
この世に立証された歴史というものがあるとすれば、それは吸血鬼の歴史である。そこには何一つ欠けていない。調書、名士の証明書、外科医の証明書、司祭の証明書、司法官の証明書。司法上の証明としてはこれ以上ないほど完全だ。それでいて、いったい誰が吸血鬼を信じているというのか。
これは吸血鬼をからかった文ではない。証拠の形式が完璧でも人は信じない、という認識論の刃を、ルソーは教会の奇跡証明に向けて突きつけている。吸血鬼はその道具に使われた。だが結果として、ルソーは『検分と発見』という文書の性質をもっとも正確に言い当てた一人になった。あの報告書は、当時の証拠基準を完璧に満たしていたのだ。
だから厄介だった。
カトリック側の反撃
カトリック教会の側にも動きがあった。
トラーニ大司教ジュゼッペ・ダヴァンツァーティは、枢機卿ヴォルフガング・シュラッテンバッハからモラヴィアの死後魔術事件の話を聞き、一七三九年ごろに『吸血鬼についての論考』を書き上げている。だがこの本が実際に印刷されたのは一七七四年、論争の最盛期がとうに過ぎた後だった。
ダヴァンツァーティの論法は、カトリック的合理主義とでも呼ぶべきものだ。彼はまず悪魔の関与を最小限に切り詰める。ただし完全な懐疑には走らない。次に、吸血鬼として現れる存在を煉獄の魂として位置づける。煉獄はプロテスタント圏には存在しない概念であり、この一手でカトリックだけが使える説明枠が確保される。
そのうえで、これらの出現に超自然的な目的はないと否定し、最後に自然的説明を提示する。すなわち吸血鬼とは、集団的暗示によって生じる霊的な流行病である、というものだ。
彼はまた、吸血鬼がモラヴィアとハンガリーにしか現れないという地理的偏りを指摘し、聖職者が地域の恐怖を利用しているのではないかと疑問を投げている。教会内部から出た、かなり踏み込んだ批判である。
教皇ベネディクトゥス十四世は、この問題に慎重に関与した。彼は最初、可能性そのものは開かれていると見ていたが、次第に懐疑に傾いた。彼の関心の中心は列聖審査の厳格化にあり、奇跡と自然現象の切り分けを制度として確立することだったのである。吸血鬼はその文脈で、区別すべき自然現象の側に置かれていく。
一七五五年、ヘルメルスドルフ。ロジーナ・ポラキンという名の犠牲者
決定打は、思わぬところから来た。
一七五五年、上シレジアのヘルメルスドルフ、現在のチェコ、オパヴァの西約十キロにあるスヴォボドネー・ヘルジュマニツェで、また墓が暴かれた。
きっかけになったのは、テュロル出身の女性の遺体だったのである。彼女は薬草と民間療法で知られ、死後二年半ほど経っていた。掘り出されたところ「保存されていた」とされ、騒ぎが起きた。そして騒ぎのなかで、もう一人の遺体も掘り出されたのだ。ロジーナ・ポラキンという名の、ポーランドから来た女性である。
彼女は死んでからまだ四週間しか経っていなかった。墓地のいちばん新しい埋葬だった。
彼女の遺体は斬首され、焼かれたのである。しかも地元の聖職者の承認のもとで。
報告がウィーンに届いたとき、マリア・テレジアは激怒した。さらに調査を進めると、一七三一年に同じ地方の同じ行政機関が、九人の吸血鬼容疑の遺体を焼くことを許可している。そのうち七人が子供だったことが判明した。
女帝は一七五五年二月九日、二人の医師を派遣する。皇室軍医の筆頭ヴァプストと、解剖学教授ガッサーである。首都の第一線の医学者が、辺境の吸血鬼事件に投入されたのは、これが初めてだった。彼らは三月十七日付で報告を提出する。そこには十九体の遺体が掘り出され、焼かれた経緯が記録されていた。
ここから話は国際政治になる。四月三日、プロイセンの新聞『ベルリーニシェ・プリヴィレギルテ・ツァイトゥング』と『ベルリーニシェ・ナハリヒテン』が、「三月十六日、上シレジアより」と題する吸血鬼記事を同時に掲載した。二紙同時掲載は信憑性を演出する古典的な手法だ。記事は、墓の発掘が皇帝の勅令によって行われたかのように書いていた。つまりマリア・テレジアが迷信を公認しているという印象を作ったのである。
背後にいたのはフリードリヒ二世だとされる。オーストリア側は五月八日に反論記事を出したが、掲載されたのは影響力の小さいほうの新聞一紙だけだった。国境地帯の墓暴きが、七年戦争前夜のプロパガンダ戦の弾になったわけだ。
ファン・スヴィーテンの覚書と、三月一日の勅令
マリア・テレジアが最終的に頼ったのは、侍医ジェラール・ファン・スヴィーテンである。
オランダ出身のこの医師は、ウィーン大学医学部の改革者であり、帝国の医療行政の設計者だった。彼は一七五五年に「吸血鬼論に関する所見」を書いた。イタリア語版が一七五六年に、ドイツ語版が一七六八年に、『幽霊の存在についての論考、付・吸血鬼論』という書物の付録として刊行されている。
ファン・スヴィーテンの立場は明快だ。吸血鬼は存在しない。遺体が腐敗していないように見えるのは、土壌の性質、温度、そして故人が生前に患っていた病気の性質によって説明できる。血液が液状のままなのも、四肢が動くのも、自然現象である。
彼はロジーナ・ポラキンの事例を論拠の中心に据えた。埋葬から四週間しか経っていない遺体が腐敗していないのは当たり前だ、と彼は指摘する。それを吸血鬼の証拠として斬首し焼却したのは、無知以外の何物でもない、と。彼は文中で「なんという無知か。まったく恐るべき愚昧さだ」と叫んでいる。
もっとも、ファン・スヴィーテンの筆致には現代から見て看過できない偏りもある。彼は吸血鬼信仰の根源を正教会の「分離派的な単純さ」に帰した。啓蒙の言説が、辺境と正教徒を後進性の象徴として扱うという構図が、ここではっきり出ている。この点は差し引いて読む必要がある。実際には、遺体の非腐敗をめぐる不安と処置の慣習は、西欧のカトリック圏やプロテスタント圏の民間伝承にも広く見られたものだ。
特定の地域や信仰の側にだけ「野蛮」を割り当てるのは、当時の政治的な語り口であって、事実の記述ではない。
そして制度が動く。一七五五年三月一日、女帝は第三百八十五号勅令を発した。表題は「迷信は廃止されるべし」。この文書のなかで、「死後の魔術」という用語が公式に用いられている。以後、墓を暴き遺体を処置する行為には、教会でも地方役人でもなく、中央から派遣された医師と司法官の判断が必要とされることになった。
地方の裁量が奪われたのだ。
これは吸血鬼を否定した法令であると同時に、医学と国家が死体を独占的に管理する体制を作った法令でもある。ヨーロッパの死のあり方が、ここで一段階変わった。
ゲオルク・タラールという現場主義者
もう一人、記憶されるべき人物がいる。ゲオルク・タラール。一七〇〇年にマインツで生まれた軍医で、ハンガリー語、ルーマニア語、ラテン語を操った。
彼は一七五五年からワラキアとバナトで調査を行い、一七五六年に『解剖学的外科学的検分と発見』という報告をまとめた。フリュッキンガーの報告書と同じ定型の表題を使っているのは、明らかに意図的だ。同じ形式で、まったく違う結論を出すという宣言である。
タラールの決定的な独創は、死体を見なかったことにある。正確に言えば、死体より先に、生きている患者を診た。彼は「吸血鬼に襲われている」と訴える村人たちを片っ端から診察し、症状を標準化された様式で記録し、それから原因を分析した。現代の疫学調査に近い手順である。
彼の診断は貧血だった。原因は栄養不良と過度の断食。彼は現地の食生活を細かく記録している。冬の長い断食期間、パンでとろみをつけたスープ、玉ねぎ、にんにく、キャベツ、かぼちゃ。そこに蒸留酒の過剰摂取と不規則な食事が重なる。
治療として彼が行ったのは、瀉血、断食の中止を含む食事療法、催吐剤の投与だった。当時の医療水準では標準的な処置である。だが彼の治療哲学には、はっきりと教育的な意図があった。患者の想像力から死者を退去させ、その席に本当の病因の理解を座らせること。それが目的だ、と彼は書いている。
そして効果があったと彼は報告する。「病人があれほど早く回復するのを見るや、彼らは自分たちの見解の誤りを認め、何マイルも遠くから薬を求めてやってきた」。
グラーザーが一七三一年に書いた「栄養失調と断食」という診断が、二十五年後にタラールによって体系的に裏づけられたことになる。最初の現地医師の見立ては、実は正しかったのだ。ただ彼は、それを治安上の理由で押し通さなかった。
なぜ腐らなかったのか、という問いへの答え
さて、いちばん肝心な問いに戻ろう。フリュッキンガーは嘘をついたのか。
ほぼ確実に、ついていない。彼が書いたことは、条件が揃えば普通に起きる。
まず季節だ。メドヴェジャの検分は一月七日に行われた。西モラヴァ川流域の一月である。死者たちが埋葬されたのは十一月から十二月にかけて。つまり全員が、地温が下がりきった時期に土に入っている。
腐敗を進める細菌の活動は温度に強く依存する。地中数十センチの温度が低く保たれれば、分解の速度は劇的に落ちる。
次に土壌だ。粘土質で水を含み、酸素が乏しい土は、腐敗菌の活動を抑える。そして同じ条件が、まったく別の変化を促す。死蝋化、いわゆるけん化である。
これは化学反応だ。体脂肪の中性脂肪が、嫌気性細菌、たとえばクロストリジウム属などが持つリパーゼによって加水分解され、グリセロールと遊離脂肪酸に分かれる。適度な水分があると、この分解が進む。次に不飽和脂肪酸が水素化されて、より安定したパルミチン酸やステアリン酸に変わる。そこに土壌中のカルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウムといった陽イオンが結合し、金属石鹸ができる。
これが死蝋、いわゆる屍蝋だ。
出来上がるのは灰白色から乳白色、褐色がかった、ろうのような物質である。最初は柔らかく湿っているが、やがて硬化して殻のように遺体を覆う。この殻の下では、軟部組織も、外傷も、場合によっては毒物の痕跡さえ保存される。数百年単位で保たれた例が知られている。
形成に必要な条件は、水分、低酸素、そして脂肪だ。温度に関しては摂氏二十一度から四十五度が最適とされるが、低温でも進行する。ただし遅い。摂氏四度前後の冷たい水中では十二か月から十八か月かかる。温帯の通常条件でも、目に見えてくるのに三か月、広範囲に及ぶのに五、六か月といったところだ。
ここでミリツァの話に戻る。九十日以上埋葬されていた、六十歳前後の女性。生前は痩せて干からびていたと村人全員が証言している。それが墓の中で「驚くべき肥満」になっていた。
これは死蝋化と腐敗ガスの複合効果でかなり説明がつく。腐敗の初期に発生するガスが体腔と皮下組織に溜まると、遺体は明らかに膨張する。顔は丸くなり、腹は張り、四肢は太くなる。生前に痩せていた人ほど、この変化は劇的に見える。しかも寒冷な土中では、この膨張状態が長く維持されうる。
村人たちが仰天したのは当然だ。彼らは彼女の生前の体を知っていた。だからこそ、目の前の遺体が別人のように見えたのである。
血はどこから来たのか
「胸に大量の液状の血があった」「凝固していなかった」。これがフリュッキンガーの所見の中核だ。
まず、死後の血液は必ずしも凝固したままではない。死後しばらくは凝固するが、その後、血液中の線維素溶解酵素の働きで凝血が再び溶ける現象が起きる。特に急死、窒息死、感染症による死では、血液が液状のまま留まりやすいことが知られている。三日以内に死んだ、と繰り返し記録されている死者たちの多くは、まさにこの条件に当てはまる。
次に、口や鼻から流れ出る血の正体だ。法医学ではこれを浸出液と呼ぶ。組織が分解し、腹腔や胸腔の内容物が発生ガスの圧力に押されて、体の開口部から押し出される。血液成分が混じるため、赤黒い液体として出てくる。フリュッキンガーが「墓から取り出す際、鼻から大量の新鮮な血が流れた」と書いたスタノイカの所見は、遺体を持ち上げて姿勢が変わった瞬間に浸出液が押し出された、と読めば何の不思議もない。
胸腔に「血管外に漏出した血液」があったという記述も同様だ。血管壁は死後に脆くなり、内容物が漏れる。分解が進んだ組織からも液体が滲む。それが体腔に溜まる。フリュッキンガーは「凝固した血で満たされているはず」の血管がそうなっていない、と正しく観察している。
彼の観察は精密で、解釈だけが時代の枠に閉じ込められていた。
そして杭を打った際の音と出血。腐敗ガスで内圧が高まった遺体に穿孔すると、ガスが気道と声帯を通過して音を出すことがある。同時に、圧力で体液が噴出する。アルノント・パウレの「はっきり聞き取れるうめき声」と「大量の出血」は、この現象の記述として読める。フロンバルトが「敬意のゆえに省略する」と書いた「野性的な兆候」も、おそらく同種のものだ。
爪と髪の話
「古い爪が剥がれ落ち、新しい爪が生えていた」。この記述はフロンバルトの報告にもフリュッキンガーの報告にも出てくる。両方の文書で独立に記録されているということは、実際にそう見えたということだ。
答えは脱水と皮膚の後退にある。死後、皮膚は水分を失って収縮する。爪の根元の皮膚が下がると、それまで隠れていた爪の基部が露出する。結果として爪が伸びたように見える。同じ理由で、髭剃り跡の毛が伸びたように見え、歯茎が後退して犬歯が長く見える。
牙のイメージの一部は、ここから来ている可能性が高い。
そして爪そのものの剥落。腐敗が進むと表皮が真皮から剥離する。水疱ができ、皮膚が層ごと剥がれる。爪はこの表皮とともに脱落する。剥がれた下から現れるのは、それまで外気に触れていなかった、まだ変色していない皮膚と爪床だ。
生前より色が薄く、時にピンクがかって見える。
十八世紀の農民が「古い皮膚が剥け、新しい皮膚が現れた」と表現したのは、まさにこの状態である。彼らの観察は正確だった。ただ、剥がれた下にあるものを「新生」と解釈したのだ。生き続けている証拠として。
顔が赤く生き生きしていた、という記述にも説明がある。死斑だ。血液が重力に従って体の下側に沈下し、その部分の皮膚が赤紫色に変わる。仰向けに埋葬された遺体では、背中と、そして頭部が低くなっていれば顔面にも死斑が出る。青白い死体を予期していた人間が、赤みのさした顔を見たときの衝撃は想像できる。
スタノイカの右耳の下にあった「指の長さほどの内出血した青い痕」も同様だ。これは死斑の分布か、あるいは死戦期の変化として説明できる。村人たちはこれを、ミロエに絞められた指の痕として読んだ。証拠と物語が、ぴったり噛み合ってしまった瞬間である。
連続死の正体
では、なぜ人が次々に死んだのか。
グラーザーとタラールが指摘した栄養失調と断食は、有力な背景要因だ。正教の教会暦は年間を通じて厳格な断食期間を設ける。特に降誕祭前の四十日間の断食は十一月中旬から始まり、十二月二十四日まで続く。メドヴェジャの死者が集中した時期と、見事に重なる。冬季、貯蔵食料が乏しくなり、動物性たんぱく質を断ち、蒸留酒でしのぐ。
免疫力は確実に落ちる。
そこに何らかの感染症が入れば、致死率は跳ね上がる。二日から三日で死ぬ急性の経過、胸の痛み、高熱、痙攣。この症状群からは複数の候補が挙がる。発疹チフスや回帰熱のような、シラミやダニが媒介する熱性疾患は、密集した冬季の居住環境で流行しやすい。
炭疽も候補として繰り返し名前が挙がる。理由は、この事件の説明原理そのものにある。村人たちは「吸血鬼に殺された家畜の肉を食べた者から新しい吸血鬼が出た」と言った。ミリツァは吸血鬼に殺された羊を二頭食べていた。家畜が死に、その肉を食べた人間が死ぬ。
この因果の形は、人獣共通感染症の伝播そのものだ。炭疽菌は土壌中で長期間芽胞として生存し、家畜を斃し、その肉や毛皮を扱った人間に感染する。肺炭疽は急速に進行し、胸痛と呼吸困難を伴って数日で死に至る。
もちろん、三百年前の記述から確定診断はできない。だが村人たちの「因果の見取り図」、つまり死んだ家畜、その肉、そして人間の連続死という筋が、疫学的にきわめて筋の通った観察だったことは動かない。彼らは伝播経路を正しく把握していた。ただ、病原体という概念を持っていなかったので、その空欄に死者の名前を入れたのである。
そして、恐怖そのものの効果も無視できない。フリュッキンガーの報告に出てくるスタノイカは、真夜中に叫び声を上げて跳ね起き、絞められたと訴え、胸の痛みを覚えて三日で死んだ。睡眠麻痺の典型的な体験だ。金縛りの最中、胸部の圧迫感と、何者かがのしかかっているという幻覚は世界中で報告されている。すでに衰弱している人間が、これを「自分は選ばれた、あと三日で死ぬ」と解釈したとき、何が起きるか。
プロゴヨヴィッツの九人の犠牲者も、全員が臨終の床で同じ証言をしている。伝染したのは病だけではない。
なぜこの話は、今も怖いのか
吸血鬼映画をいくら観ても怖くない人が、この事件の資料を読むと背筋が冷える。理由ははっきりしている。
第一に、書類が実在するからだ。ウィーンの文書館に、署名と捺印つきで綴じられている。作者不詳の伝承ではない。エルンスト・フロンバルト、ヨハン・フリュッキンガー、ジーゲレ、ヨハン・フリードリヒ・バウムガルテン、ビュットナー、ヨーハン・ハインリヒ・フォン・リンデンフェルス。全員に階級と所属連隊がある。
彼らは給料をもらってこの仕事をした。
第二に、文書が誠実だからだ。もしこれが捏造なら、全員を吸血鬼にしただろう。ところがハドナクの妻と子、下男ラデ、バリャクタルの妻と子は「完全に腐敗していた」と書かれている。しかも「近くに埋まっていて土も墓も同じだったにもかかわらず」という但し書きつきで。書き手は、自分の結論に不利な事実を消していない。
この誠実さが、かえって記録の全体を重くする。
第三に、村人が愚かではないからだ。彼らはミリツァを悪人だと言っていない。良い隣人だったと証言している。彼らは家畜の肉という伝播経路を特定した。彼らは死んだ順序を記録した。
彼らは相談し、経験者に助言を求め、役人に立ち会いと法的承認を求めたのである。手続きを踏んでいる。彼らがやったのは、持っている情報と概念の範囲で、可能な限り合理的に振る舞うことだった。
そして第四に、これが一番効くのだが、彼らの推論を、我々は笑えないからだ。原因不明の連続死がある。共通の接点を探す。最初の死者に遡る。接触者を追跡する。
二次感染を想定する。汚染源を焼却処分する。この手順は、二〇二〇年代に我々が全世界で実演したものと、構造がまったく同じだ。違うのは病原体という概念があるかどうかだけである。
概念が一つ足りないだけで、人はここまで行く。それがこの事件のいちばん怖いところだ。
ここからは、事件の外側にあるものを掘る。
まず、この騒動が「なぜ一七二〇年代だったのか」という問題を、もう一段深く見ておきたい。答えは疫病でも迷信でもない。書類だ。
十七世紀まで、バルカン半島のこの地域はオスマン帝国領だった。村で誰かが死に、村人が死体をどうにかしたとしても、それはウィーンにもパリにも記録されなかった。オスマンの地方行政は、この種の村落内部の慣習に文書を残す仕組みを持っていなかったし、そもそも関心がなかったのである。フロンバルトの報告に村人が言う「トルコの時代にはそういうことがあった」という一句は、決定的に重要だ。彼らは以前からやっていたのだ。
誰も書き留めなかっただけである。
一七一八年、そこにハプスブルクの官僚制が入った。この帝国は、とにかく書く。何でも書く。徴税記録、人口記録、防疫記録、宗教施設の建物の状態、そして村人が持ち込んだ苦情。フロンバルトが上司に報告書を書いたのは、彼が吸血鬼に興味を持ったからではなく、報告書を書くのが仕事だったからだ。
つまり吸血鬼のヨーロッパ的な誕生は、超自然現象の発生ではなく、行政の可視化の産物である。国家が新しい領域に文書化の網をかけた瞬間、その網に、それまで見えていなかったものが引っかかった。人類学者が現地調査に入った途端に「発見」される慣習と、構造は同じだ。
もう一つ、しばしば見落とされる論点がある。フロンバルトは、なぜ許可を出したのか。
彼の報告書を素直に読めば、答えは経済である。村人は「立ち会いと法的承認がなければ、家も土地も捨てて出ていく」と言った。国境地帯の代官にとって、これは最悪の脅しだ。ハプスブルクの新領土経営は、住民をそこに定着させることに全部かかっていた。オスマン領から逃れてきた人々に土地と特権を与えて国境に張り付けておく。
それが軍政国境の基本設計である。村が逃散すれば防衛線に穴が開く。まあ、当然の判断だ。
だからフロンバルトは、迷信を許可したというより、行政上の損失を回避した。そして自分の判断が事後に問題視されることも分かっていたから、あの責任回避の一文を末尾に置いた。彼は超自然を信じたのでも否定したのでもなく、担当区域の人口維持という業務目標に従って動いたのだ。二十一世紀の役所でも見かける行動である。
グラーザーの一七三一年の上申も、まったく同じ構造だ。彼は医師として「疫病ではない、栄養失調だ」と正しく診断した。そのうえで「住民を落ち着かせるために処置を許可すべきだ」と書いた。医学的真実と、統治上の必要が矛盾したとき、彼は後者を選んだ。この判断が、結果としてベオグラード司令部を動かし、フリュッキンガーの委員会を生み、ヨーロッパ全体を巻き込む文書を作り出した。
歴史の皮肉としてこれ以上のものはない。吸血鬼を否定した医師の報告書が、吸血鬼を世界に広めた委員会を招集させたのだ。
次に、あまり語られない「文書の形式」という論点を掘る。
『検分と発見』が持っていた破壊力は、内容ではなく形式にあった。当時のヨーロッパには、超自然的な出来事の証言など掃いて捨てるほどあった。魔女裁判の記録、悪魔憑きの供述、聖人の奇跡の報告。それらは信じる者だけが信じ、疑う者は形式そのものを疑えばよかった。教会の記録だから、拷問による自白だから、聖職者の利害があるから、と。
ところがフリュッキンガーの報告書は、そのどれでもない。世俗の軍隊が、医学教育を受けた三人と、利害関係のない将校二人を送り込んで作った文書である。医師は所見だけを書き、将校は「我々の目の前で行われた」とだけ証明した。役割が分離されている。しかも所見には、結論に不利なデータが五件含まれている。
近代の科学論文が備えるべき要件を、この文書はほぼ満たしていた。手続きの記述、観察の記録、反例の明示、複数の独立した証人による確認。だからこそ、当時のヨーロッパの知識人は「これは処理できない」と感じた。ルソーが「司法上の証明としてはこれ以上ないほど完全だ」と書いたのは、皮肉であると同時に、正確な形式評価である。
そしてここに、近代科学が生まれる直前の思考の風景がある。人々は「事実」と「解釈」を分ける訓練をまだ受けていなかった。「腐敗していない遺体があった」は事実だ。「だから死者が動いている」は解釈だ。この二つを切り離すには、腐敗という現象の生化学的な理解が必要で、それは十九世紀を待たなければならなかった。
ファン・スヴィーテンは一七五五年の時点で正しい方向を指した。だが、彼が挙げられた理由は「土壌」「温度」「病気」という粗い三点にとどまっている。なぜ土壌と温度が効くのかは説明できなかった。彼は正解の位置を指差したが、地図は持っていなかった。
ここで一つ、公平のために書いておきたいことがある。
この事件を語るとき、ヨーロッパの啓蒙側の記述には強い偏見が混じっている。ファン・スヴィーテンは吸血鬼信仰の根源を正教徒の「単純さ」に帰した。プロイセンの新聞は、オーストリアの後進性を嘲笑するために記事を使った。西欧の知識人は東欧を、迷信の地として消費したのである。この構図は十九世紀の小説群に受け継がれ、二十世紀の映画で完成される。
トランシルヴァニアが恐怖の代名詞になったのは、地質でも民俗でもなく、この情報操作の帰結だ。
だが実際には、遺体の非腐敗をめぐる恐怖と、それに対する処置の慣習は、ヨーロッパのほぼ全域にあった。中世以来の記録は、イングランドにもフランスにもドイツにも北欧にもある。違いは、その慣習が中央政府の文書網に引っかかったかどうかだけだ。特定の民族や宗派を「そういうことをする人々」として扱う語り方は、十八世紀の政治宣伝の産物であって、事実の記述ではない。この記事もその轍だけは踏みたくない。
さて、視点を変えて、この事件が現代に残したものを数えてみる。
第一に、言葉だ。フロンバルトが一七二五年に「いわゆるヴァンピリ」と書いた語は、ドイツ語圏の新聞と学術誌を経由し、一七三二年三月三日のハーグでフランス語になり、同じ月にロンドンで英語になった。七年足らずで三大言語に定着している。十八世紀の情報伝播速度としては異常に速い。それを可能にしたのは、外交ルート、新聞、学術通信誌という三本の回路が同時に動いたからだ。
この語彙の伝播経路そのものが、初期近代のメディア史の教科書的な事例になっている。
第二に、制度だ。一七五五年三月一日の第三百八十五号勅令「迷信は廃止されるべし」は、単に墓暴きを禁じただけではない。死体に対する処置の権限を、共同体と教会から、国家が任命した医師と司法官へ移した。これは死をめぐる権力の再配置である。誰が死者の体を扱ってよいのかという問題は、以後の解剖学教育、法医学、公衆衛生行政のすべてに繋がっていく。
近代の死体観は、吸血鬼騒動を経由して形作られた側面がある。
第三に、方法だ。ゲオルク・タラールが一七五六年にやったこと、つまり死体ではなく生きている患者を診る、症状を標準様式で記録する、原因を分析する、地域の食習慣と季節を変数として扱うという手順は、疫学調査の原型といっていい。しかも彼は治療の目的に「患者の想像力から死者を退去させる」という認知的な項目を明記した。心理教育の発想である。彼が現地語を三つ話せたことも偶然ではない。
聞き取りができなければ、この調査は成立しなかった。
第四に、文学だ。これは有名な話だが、経路を正確にたどると面白い。軍の報告書がカルメの著作に取り込まれ、カルメが十九世紀の作家たちの参照文献になり、そこからポリドリの貴族的吸血鬼像が生まれ、最終的にストーカーの城に至る。途中で、農民のハイドゥクは伯爵になり、粘土質の墓は霧の城になり、断食による貧血は優雅な倦怠になった。だが最初の一歩は、干し草の荷車から落ちて首を折った国境警備兵である。
最後に、キシリェヴォの現在について書いておく。
プロゴヨヴィッツが埋葬されたとされる村は、今もセルビアのドナウ川沿いに存在する。近年、村はこの歴史を観光資源として使いはじめた。世界最初の吸血鬼の村、という触れ込みだ。ヨーロッパの吸血鬼観光といえばルーマニアのブラン城が有名だ。だが、あそこは実際にはヴラド三世ともストーカーの小説ともほとんど関係がない。
文書に裏づけられた「最初の一件」の現場は、キシリェヴォのほうだ。
ただし、墓の場所は分からない。プロゴヨヴィッツの遺体は焼かれ、灰は墓に投げ込まれた。三百年分の埋葬が上に重なっている。同じことがメドヴェジャにも言える。十三人の遺灰は西モラヴァ川に流された。
回収は不可能だ。
つまりこの事件には、物証が一つも残っていない。残っているのは書類だけだ。
そこがまた、この話の底の深いところなのだ。我々が知っているのは、誰かが見たと書いたことだけである。フリュッキンガーが胸腔を開いて何を見たのか、本当のところは彼の記述からしか分からない。彼は正直に書いた。おそらく正確にも書いた。
だが我々が持っているのは、彼の言葉であって、彼の見たものではない。
ルソーの問いに戻ろう。調書があり、外科医の証明があり、司法官の証明があり、法的な証明としては完璧だ。それでも、誰が信じるのか。
三百年前の答えは「誰も信じなかった」だった。だが正確に言うと、そうではない。人々は吸血鬼を信じなかったが、文書は信じた。文書が本物だと認めたうえで、その内容を説明する別の理屈を探した。土壌、温度、断食、想像力、集団暗示、死後の化学変化。
探し続けて、二百年かかって、ようやく答えらしきものに辿り着いた。
その探索の過程で生まれたものが、法医学であり、疫学であり、近代の死体管理制度である。吸血鬼は存在しなかった。だが吸血鬼を否定しようとした努力は、確実に何かを残した。
ハプスブルクの辺境で、名前も知られていなかった代官が、村人に押し切られて墓地へ歩いていったあの日の記録は、そういう意味で、ヨーロッパが自分の理性を試された最初の書類の一枚だったのだ。
そして、あの一文を思い出してほしい。
「もしこの件で過ちがあったのなら、それは私ではなく、恐怖で自分を見失った下層民の責任に帰していただきたい」
三百年前の役人が書いた保身の一文。だが読み返すたびに思う。この男は、あの墓の前で確かに何かを見た。そして書けなかった。「高い敬意のゆえに省略する」と誤魔化したのである。
省略されたその一行の中に、この事件のすべてが入っている気がしてならない。
