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江戸を焼いた紫の振袖――明暦の大火「振袖火事」、十万人が死んだ三日間の全部

江戸の三分の二が、三日で消えた

明暦三年正月十八日。西暦に直すと一六五七年三月二日。この日から数えて三日のあいだに、江戸という街の三分の二が消えた。城も消えた。天守閣まで焼け落ちた。町屋がおよそ四百町、大名屋敷が五百あまり、旗本屋敷が七百七十あまり、寺社が三百五十あまり。そして幕府側の記録に残る焼死者の数が、十万七千四十六人。

この数字が正確かどうかは後でちゃんと揉める。揉めるんだけど、まずは先に言っておきたいことがある。この日本史上最悪の火災には、ちゃんとした「怪談」がくっついているんだよな。しかも公式のものとして。東京消防庁の解説ページにすら、この火事の別名として「振袖火事」と書いてある。国が管理する防災の資料にまで、呪いの着物の話が載っている。冷静に考えるとかなり異常な事態だ。

呪われた振袖を寺で焼いたら、その振袖が炎ごと舞い上がって本堂に飛びつき、そこから江戸が全部燃えた。そういう話である。十万人の死を、一枚の着物のせいにしている。

この記事では、伝説のほうと、記録のほうを、どっちも省略せずに書く。伝説をバカにして終わらせない。記録を並べて満足して終わらせない。両方書き切って、そのうえで「なんでこんな話になったのか」まで潜る。

まず、伝説のほうから話そう

振袖火事の物語には無数のバージョンがある。娘の名前が「お菊」になっているもの、「お花」になっているもの、「梅乃」「梅野」になっているもの。舞台が麻布だったり上野だったり本郷だったり。まずは一番細部が詰まっている版を通しで再話する。明治から昭和にかけての新聞記者・矢田挿雲が『江戸から東京へ』でまとめた版だ。

挿雲は東京中を歩き回って土地の古老から話を拾い集めた男で、この振袖火事のくだりも、彼が細かく取材して書き留めたものが後の定本みたいになっている。

だから以下は「史実」ではない。念のため先に言っておく。三人の娘も、美少年も、明暦の大火を記録したまともな史料には一人も出てこない。出てこないのに、三百五十年以上ずっと語り継がれている。そこがこの話の本当に怖いところなんだけど、それも後で書く。

上野山下ですれ違った、寺小姓の美少年

承応三年、一六五四年の春三月。麻布百姓町の質商・遠州屋彦右衛門の一人娘、梅野は数えで十六だった。裕福な質屋の一人娘。着るものにも困らない。その日、梅野は母親と下女に連れられて、上野山下へ花見に出ている。

人混みのなかで、一人の若い男とすれ違った。寺小姓風の身なり。年のころは十七、八。柄は紫縮緬の振袖に、荒磯と菊の模様。梅野はその一瞬で、完全にやられてしまった。

伝説の語り口はここが妙に具体的で、梅野は家に帰ってからも何も手につかず、飯も喉を通らず、部屋にこもって「あの人にもう一度会いたい」とだけ言うようになる。相手の名も、どこの寺の小姓かもわからない。手がかりはただ一つ、あの男が着ていた着物の柄だけだった。

思い詰めた梅野は、母親に頼んで同じ柄の振袖を仕立ててもらう。紫縮緬の畝織に、荒磯と菊の模様を染めて、家紋の桔梗をつけた一枚。あの人が着ていたのと同じものを着ていれば、いつかまた会えるかもしれない。もし会えたら、この着物で気づいてもらえるかもしれない。娘の理屈としては、痛いほどわかる。

会えなかった。梅野は日に日に痩せ、寝込み、そして承応四年正月十六日に死んだ。数えで十七。恋の病で死んだ、と語り継がれている。

紫縮緬に荒磯と菊菱――呪いの振袖ができるまで

ここで一度、着物そのものの話をしておきたい。この物語の主役は娘たちじゃなくて、明らかに振袖のほうだからだ。

紫縮緬。紫は高価な染めだ。紫根で染める本紫は、江戸初期の時点で相当な贅沢品である。縮緬はしぼのある絹織物で、これも安くはない。畝織となればさらに手が込む。麻布の質屋の一人娘が親にねだって仕立てさせた一枚、という設定に説得力がある値段感なんだよな。

柄は「荒磯」。荒れた磯に波が砕ける文様で、そこに菊が配される。伝承によっては「菊菱」と呼ばれ、菊を菱形に構成した紋様になっている。荒磯は勇壮で、どちらかといえば男物寄りの意匠だ。だから最初にすれ違った寺小姓風の若者が着ていた、という筋書きが成立する。そこへ菊が重なる。菊は高貴でもあるが、同時に仏花でもある。死の匂いがする。

紫、荒磯、菊。並べてみると、この着物は最初から喪服みたいな取り合わせなんだよな。物語を作った誰かが、意図してこの三つを選んだのだとしたら、その人はかなり趣味がいい。そして悪趣味だ。

一枚の振袖が、三人の娘を続けて殺した

梅野が死に、その振袖は棺にかけられて本郷丸山の本妙寺に運ばれた。当時の習慣として、棺にかけられた着物は寺が受け取り、寺男が古着屋に流す。供養料の足しにするための、ごく普通の処理だった。

その振袖が古着屋の店先に並び、次の買い手がついた。上野山下の紙商・大松屋又蔵の娘、きの。十七歳。きのはその振袖を手に入れてまもなく病みつき、あっけなく死ぬ。死んだ日が、梅野の祥月命日と同じ正月十六日だった。明暦二年の正月十六日である。そしてきのの棺にも、同じ振袖がかけられて、また本妙寺に運ばれた。

本妙寺はまた同じように振袖を古着屋へ流す。三人目が買った。本郷元町の麹商・喜右衛門の娘、いく。やはり十七。いくもまた病んで死んだ。死んだ日は、翌明暦三年の正月十六日。三年続けて、同じ日に、同じ振袖を着た十七の娘が死んだことになる。

そして三度目も、同じ振袖が同じ寺の門をくぐった。

さすがに寺男が震え上がった。前に流した着物が、また戻ってきた。しかも三度目だ。住職に報告が上がり、記録が照合され、三人の娘の家が呼ばれた。遠州屋、大松屋、麹屋。三軒の親たちは寺の座敷で初めて顔を合わせ、自分の娘を殺したのが同じ一枚の絹だったと知る。この場面の空気を想像すると、正直かなりきつい。

それぞれが「うちの娘だけの不幸」だと思って一年か二年を耐えてきたのに、それが連鎖の一部だったと突きつけられるわけだから。

明暦三年正月十八日、本妙寺の焚き上げ

寺の判断は「焼く」だった。

明暦三年正月十八日、本妙寺で大施餓鬼が営まれる。施主は住職と、三人の娘の親たち。本堂の前庭に護摩壇めいた火が焚かれ、読経のなかで、あの紫縮緬の振袖が火に投じられた。

伝説はここからの数十秒を、異様に丁寧に描写する。振袖は炎に落ちた瞬間、燃え上がりながら、風を孕んで立ち上がった。袖が広がり、まるで人が着ているように空中で形を保った。そこへ北の空から旋風が降りてきて、つまりつむじ風だ、燃える振袖をひとさらいして舞い上げ、本堂の屋根へ叩きつけた。

乾ききった檜皮の屋根が一瞬で火を吹いた。読経は悲鳴に変わり、僧たちが逃げ出す。そして風は北西から本郷の街へ吹き下ろしていた。

これが「振袖火事」の全文だ。娘の片思いから始まって、三年後に江戸を焼き尽くすところまで、一本の線でつながっている。よくできている。よくできすぎている。

ここから先は、記録の話だ

伝説パートは終わり。ここからは、同時代の記録と近代以降の研究が押さえている「実際に起きたこと」を、時系列で全部並べる。

先に断っておくと、この火事について一番よく読まれてきた同時代の読み物は、浅井了意という京都の僧侶あがりの文筆家が書いた『むさしあぶみ』だ。万治四年、一六六一年の刊行。大火のわずか四年後である。挿絵つきの仮名草子で、江戸の惨状を京・大坂の読者向けに描写した、いわば当時のルポルタージュだった。

国立公文書館にも東京都立中央図書館にも現物が残っていて、燃える町、逃げ惑う人、堀に落ちる群衆、といった絵がそのまま見られる。この本が後世の「明暦の大火像」をほぼ決定づけた。

ただし『むさしあぶみ』は史書じゃない。売れるように書かれた読み物だ。そこは頭に置いておいてほしい。

八十日、雨が降っていなかった

火が出る前の江戸の状態がひどい。

明暦二年の十一月から明暦三年の正月まで、およそ八十日、まとまった雨が降っていない。内閣府の災害教訓の継承に関する専門調査会がまとめた報告書でも、この異常乾燥が第一の条件として挙げられている。今なら間違いなく乾燥注意報が出ているどころの話じゃない。木と紙と藁でできた百万都市が、八十日カラカラに干されていた。

そこへ風が来た。正月十七日から北西の風が吹き始め、十八日の朝には荒れるほどに強まった。そして夕方になって、風向きが西寄りに変わった。この風向きの変化が、被害を決定的にする。

一度目――本郷丸山から、日本橋を抜けて海まで

正月十八日、午後二時ごろ。本郷丸山の本妙寺から火が出た。現在の文京区西片二丁目のあたりだ。

北西の強風に煽られて、火は南東へ一直線に走る。本郷一丁目から湯島へ。湯島天神が燃え、神田明神が燃え、駿河台の武家地が燃え、東本願寺が燃えた。鎌倉河岸、村松町、材木町、柳原、和泉橋。神田一帯が焦土になる。

夕方、風が西向きに変わった。すると火の進路が変わり、日本橋方面から霊巌島、佃島、石川島へ。海の上を火の粉が飛んで対岸に燃え移る。さらに北へ飛んで吉原まで焼いた。鎮火したのは翌十九日の午前二時過ぎ。十二時間、ほぼ止まらずに燃え続けたことになる。

浅草橋門の前で起きたこと

この一度目の火事のなかで、最悪の場面が起きている。『むさしあぶみ』の描写でもっとも有名なくだりだ。

神田・浅草方面から逃げてきた群衆が、浅草橋門に殺到した。門の向こうへ抜ければ助かる。ところが門は閉じられていた。当時、江戸の各所に置かれた見附門には番人がいて、非常時には勝手に開けられない。しかもこの時、「牢屋敷から囚人が逃げ出した」という誤報が飛んでいたと伝えられる。囚人を外へ出すわけにいかない、という判断で門が固く閉ざされた。

後ろからは火が来る。前は門。逃げ場がない。押されて倒れ、その上に人が重なり、さらにその上に人が重なる。門前で数万人が焼け死んだ、とも、堀に落ちて溺死したとも記録されている。『むさしあぶみ』の挿絵には、堀を人の体が埋め尽くしている絵がある。あれを見ると、この火事の本質が「火に焼かれる災害」ではなく「逃げ場のない都市構造の災害」だったことがよくわかる。

石出帯刀、牢の扉を叩き壊す

同じ十八日、小伝馬町の牢屋敷でも決断が迫られていた。

牢屋奉行、正式には囚獄という役職の石出帯刀吉深、当時四十三歳。牢内には百二十人ほどの囚人がいた。火はもう近い。だが牢の鍵は奉行所が保管していて、手元にない。このままだと囚人は全員焼け死ぬ。

石出は独断で牢の扉を叩き壊し、囚人を外へ出した。そのうえで、こう言い渡している。鍵は御番所にあって手元にない、だから壊して出す、浅草新寺町の善慶寺まで行って待て、火が収まったら必ず戻ってこい、戻ってくれば必ず助命を願い出る、と。

翌十九日までに、百二十人は全員戻ってきた。一人も逃げなかった。石出は約束どおり幕府に嘆願し、「罪人といえどもこの義理立ては天晴れ」ということで、全員が減刑されている。この「切り放ち」はこれ以降、江戸の火災時の制度として定着した。

十万人が死んだ話のなかで、ここだけ妙に人間が輝いている。だから語り継がれたんだろうな。

二度目――小石川から、江戸城天守が燃える

十九日の午前十時ごろ、二度目の出火。小石川新鷹匠町、現在の文京区小石川三丁目あたり。

ここからが江戸城にとっての地獄だった。火は水戸藩上屋敷を焼き、堀を越えて飯田町、市谷、番町へ広がる。そして江戸城へ。

寛永十五年に完成していた江戸城の天守は、外観五層、内部六階、高さおよそ五十八メートル。日本の城郭建築で史上最大の天守だった。それが、この日に焼け落ちた。銅瓦が熱で溶け、窓から炎が噴き出し、巨大な木の塔が内側から燃えた。

炎はさらに常盤橋内の大名屋敷群を舐め、鍛冶橋の屋敷を焼き尽くし、八重洲河岸、中橋、新橋、木挽町、材木町、水谷町へ。江戸の官庁街と武家地の中枢が、この日ほぼ全滅している。

三度目――麹町五丁目、そして芝の海へ

止めが十九日の夜。麹町五丁目、現在の千代田区麹町三―四丁目あたりの町家から三度目の火が出た。

これもまた北から西へ風が振れ、大名屋敷およそ五十を焼き、西の丸下の屋敷群を全焼させ、桜田から芝浦の海岸まで駆け抜けて、ようやく海で止まった。三度の火事は正月二十日の朝までにおおむね鎮まっている。

三度、である。ここが肝心なんだよな。「振袖を焼いたら火事になった」という物語は、一度目の出火しか説明していない。二度目も三度目も、まったく別の場所から出ている。伝説はこの二回をきれいに無視している。

数字を並べてみる

公的な記録に残っている被害を並べると、こうなる。焼失した大名屋敷が五百余、旗本屋敷が七百七十余、寺社が三百五十余、そして町屋が四百町。焼死者は記録上の数字で十万七千四十六人。出火は三回、火が燃えていたのは正月十八日の午後から二十日の朝までの三日間だ。

問題はこの「十万七千四十六人」だ。数字が細かすぎて、逆に怪しい。当時の江戸の人口は諸説あるが、三十万から四十万くらいだったと見る研究者が多い。だとすると、街の三人から四人に一人が死んだ計算になる。

近年の研究では、この数字にかなり厳しい目が向けられている。京都工芸繊維大学の岩本馨が二〇二一年に吉川弘文館の歴史文化ライブラリーから出した『明暦の大火 「都市改造」という神話』は、裏づけの取れない逸話を徹底的に外し、信頼度の高い記録と江戸図のデータだけで被災範囲を再構成した本で、この手の伝承めいた数字を扱う姿勢そのものを問い直している。実際の死者は数万規模だったのではないか、という見方も根強い。

ただ、数万でも十分すぎるほど破滅的だ。そこは忘れないでおきたい。

万人塚――回向院はこうしてできた

数万か十万かはさておき、遺体は現実に山になった。しかもその多くが身元不明である。家ごと焼けているから、誰が誰だかわからない。

四代将軍・徳川家綱は、隅田川の東岸、本所牛島新田に土地を与え、そこへ遺体を船で運んで埋葬させた。そして塚を築く。これが「万人塚」だ。遵誉上人が無縁仏のための大法要を営み、そのとき建てられた念仏堂が、後の回向院になる。明暦三年、火事と同じ年の創建である。

回向院はこのとき「有縁無縁を問わず、人であれ動物であれ、生あるものすべてを供養する」という理念を掲げた。後にここが動物供養や、江戸相撲の興行地としても知られていくのは、この出発点があるからだ。

両国という地名も、この火事と無関係じゃない。武蔵と下総の二つの国をまたぐ橋、両国橋が架かるのは大火の後だ。それまで隅田川に橋がほとんどなかったことが、あの死者数を生んだ。

天守閣は、二度と建たなかった

焼け落ちた江戸城天守は、再建されなかった。土台の天守台だけが今も皇居東御苑に残っていて、そこに立つと「ここに五十八メートルの塔があった」という事実がまるで実感できない。だだっ広い石の台があるだけだ。

再建に反対したのが、四代将軍家綱を補佐していた会津藩主・保科正之である。正之の言い分は身も蓋もなかった。天守は城の守りに要るものではなく、遠くを眺めるだけのものだ。今そんなものに金と人手を使うのは、庶民の迷惑になる。

実際、天守台の石垣は加賀藩前田家が積み直したものの、上物は建てられないまま幕末を迎える。江戸幕府はこの後二百十年続くが、その間ずっと将軍の城には天守がなかった。権力の象徴を捨てた、という一点で、この判断は日本の城郭史のなかでもかなり異様だ。

保科正之が配った十六万両

正之の対応は、それだけじゃない。

江戸六か所で七日間、一日千俵規模の粥の炊き出しをやらせた。焼け出された町人には救助金として十六万両を放出した。幕閣は当然渋る。財政が飛ぶ、と。正之はそれを「幕府の蓄えはこういう時に使って民を安堵させるためのものだ」と一喝したと伝えられる。

さらに米価に上限を設け、参勤交代を一時停止した。参勤交代を止めれば、江戸に流入する人口が減り、米の需給が緩む。焼け跡に人と物が殺到して物価が暴騰するのを、力ずくで押さえにいった格好だ。

災害対応としては、十七世紀のものとしてかなり洗練されている。少なくとも「祟りだ」「振袖のせいだ」と言って手をこまねいてはいない。

火除地・広小路・定火消――今の東京に残っている大火の跡

大火の後、江戸の街は物理的に作り替えられた。ここは現代の東京を歩いていても実感できる部分だ。

まず火除地。要するに、あえて何も建てない空き地である。延焼を止めるための緩衝帯だ。次に広小路。道幅を極端に広げて、そこで火を止める。上野広小路という地名がいまも残っているのは、これがそのまま生き残ったからだ。銀座から日本橋にかけての妙に広い通りも、もとをたどればこの思想に行き着く。

それから定火消。大火の翌年、万治元年に幕府が設置した専属の消防組織で、旗本四家が任じられ、屋敷に火消人足を常駐させた。それまでの江戸の消火は大名火消頼みで、要するに武家が自分の屋敷まわりを守るのが主目的だった。町全体を守る専門組織はここで初めてできる。のちの町火消につながる系譜の出発点でもある。

そして寺社と大名屋敷の移転。市中にあった寺を浅草、駒込、三田といった外縁へ動かした。御三家の屋敷も城の近くから外へ出した。神田川を掘り広げ、隅田川に両国橋を架け、その後永代橋も架かる。江戸という都市の骨格が、この数年で決定的に変わった。

ただし、この「大火が江戸を作り直した」という筋書き自体を疑う研究も出ている。さっき触れた岩本馨の本のサブタイトルがまさに「『都市改造』という神話」なんだよな。江戸図を細かくデータ化して比べていくと、変化の多くは大火の前からじわじわ始まっていたし、大火の後の動きも一枚の壮大な計画というより、その場その場の継ぎ足しに近い。

ドラマチックな「大火から英断、そして新生江戸」という物語のほうが、後の時代に作られた可能性がある。

本妙寺は火元じゃない、という話

さて、ここからが本題みたいなものだ。

火元とされた本郷丸山の本妙寺。江戸時代の火元は重罪である。町人が火元なら家財没収、追放、場合によっては死罪もありうる。寺なら取り潰されてもおかしくない。ましてや江戸の大半を焼いた火元だ。

ところが本妙寺は、潰されなかった。それどころか厚遇された。

大火から三年後には客殿と庫裡が復興している。六年後には本堂が建った。焼け野原になった江戸で、資材も職人も足りない時期にだ。そして大火から十年後、本妙寺は日蓮宗勝劣派の触頭に任じられている。触頭というのは幕府と宗派のあいだをつなぐ役職で、要するに宗門内での格が一段上がったということだ。

江戸を焼き尽くした火元が、十年で出世している。どう考えてもおかしい。

黒木喬が一九七七年に講談社現代新書から出した『明暦の大火』は、この点を「寺格としてはむろん出世である。江戸の大半を壊滅させた大火の火元としては、まことに腑に落ちない話ではないか」と書いている。この一文が、火元引受説を一般に広めた決定打だと言っていい。

阿部家から二百六十年間、米十五俵

では真犯人は誰か。名前が挙がるのが、本妙寺の隣にあった老中・阿部忠秋の屋敷である。

理屈は単純だ。あの日の風は北西の強風。本妙寺から見て、阿部邸は風上に位置していた。風上の屋敷から出た火が風下の寺を舐めていったのなら、寺の側から見れば「うちから出たように見える」状態になる。そして幕政の中枢にいる老中の屋敷が江戸を焼いた火元だった、という事実は、幕府の威信の問題として絶対に表に出せない。

だから寺が引き受けた。寺は潰されない代わりに、火元の汚名を背負う。幕府は本妙寺を潰さずに厚遇することで貸しを返す。阿部家は責任を免れる。三者の利害が完全に一致する。

この説を裏づけるとして必ず語られるのが、供養料の話だ。翌年から阿部家が本妙寺へ毎年、明暦の大火の供養料を納め続けた。米にして十五俵。それが大正十二年の関東大震災まで、二百六十年以上にわたって続いたという。震災で途切れたというのがまた生々しい。

もし本妙寺がただの火元なら、老中家が二百六十年も金と米を送り続ける理由がない。逆に「うちの失火をかぶってもらった」のなら、これは香典であり口止め料であり、そして家として代々引き継ぐ負い目そのものだ。

「もう三百年経った、時効だろう」

この話を寺の側から公にしたのが、本妙寺第四十世の村上日宣上人である。一九六七年に亡くなった住職で、生前に「もはや三百年も経ち、時効であろう」として真相を語ったと伝えられている。

それを文章として世に出したのが杉山繁雄という人物で、一九八三年、仏教総合雑誌『大法輪』の一月号に「振袖火事の真相」という記事を書いた。杉山は一九八八年に亡くなっている。つまりこの説は、寺の内部に伝わっていた話が二十世紀後半になってようやく活字化された、という経路をたどっている。

ここは冷静に見ておきたいところでもある。寺の側が「うちは火元じゃなかった」と言い出すのは、動機として自然すぎる。三百年間背負ってきた汚名を下ろしたい気持ちは当然ある。だから供養料という物証めいた話が添えられていても、それだけで確定とは言えない。

一方で、幕府側の処遇が不自然なのは事実だ。厚遇の説明としては、いまのところこの説がいちばん座りがいい。決定打はないが、無視もできない。そういう中途半端に強い説なんだよな。

幕府が自分で火をつけた、という説

そしてもう一段階、話は飛ぶ。

明暦の大火は、幕府自身による放火だった。江戸の都市改造をやりたかったが、既存の街を壊すには金も時間も反発もかかりすぎる。だから焼いた。

論拠として挙げられるのは、火事のあとの動きが速すぎるという点だ。焼け跡がまだ熱いうちから寺社の移転先が決まり、御三家屋敷の移転が決まり、道路の拡幅が決まっていく。あらかじめ図面ができていたのではないか、と。三度も別々の場所から火が出ていることも、放火説にとっては都合がいい材料になる。一度なら失火でも、三度なら人為ではないか、と。

ただ、これはかなり無理がある説でもある。江戸城の天守が焼けている。将軍の居城を焼く計画放火なんて、実行者の首がいくつあっても足りない。大名屋敷が五百以上焼けていて、そのなかには幕府の中枢が住む屋敷も含まれる。都市改造の代償として払うにはあまりに高い。

それから、さっきの岩本馨の研究が効いてくる。復興計画が「あらかじめできていたように見える」のは、実際には計画が段階的で継ぎ接ぎだったのを、後世が一枚の絵として読み直しているからだ、という指摘だ。だとすれば放火説の最大の根拠が崩れる。

とはいえ、この説が消える気配はない。「国家は都合の悪い街を焼くことがある」という発想そのものが、人間にとってあまりに理解しやすいからだ。

「振袖火事」という名前は、いつ生まれたのか

発祥の話をきちんと詰めておきたい。

まず、火事の直後に振袖の伝説があった証拠はない。同時代のまとまった記録に、梅野もきのもいくも、美少年も出てこない。消防防災博物館の解説でも、この三人と少年は明暦の大火を記録した史料に登場しない、とはっきり書かれている。

いちばん古い層にあるのは、火元が本妙寺だという事実関係と、供養の焚き上げから火が出たという話の骨組みだけだ。そこへ後から、誰かが物語を継ぎ足していった。

流れとしてはこうなる。まず万治四年、一六六一年の浅井了意『むさしあぶみ』が、この火事を「読み物」として全国に届けた。ここで明暦の大火は歴史から物語のジャンルへ移行する。次に江戸中期以降、講釈や随筆のなかで振袖の逸話が育っていく。娘の名は「お菊」だったり「お花」だったりして、まだ固まっていない。そして近代に入り、矢田挿雲が『江戸から東京へ』で細かい取材をもとに一本の完成した物語として書き上げる。

ここで名前は梅野、店は麻布百姓町の遠州屋、柄は紫縮緬に荒磯と菊、家紋は桔梗、と全部が確定した。

つまり「振袖火事」は、二百五十年かけて少しずつ精密になっていった作り話だ。都市伝説の熟成過程としてかなり教科書的で、そこが面白い。

証言その一――『むさしあぶみ』が書き残した浅草橋門

当時の証言として、まず『むさしあぶみ』の記述に触れておきたい。

浅井了意は京都の人間で、江戸の火事を直接見たわけではない。江戸から届いた話を集めて書いている。だから細部にどこまで実見が含まれるかは怪しい。それでも、この本の描く光景の生々しさは異常だ。

火に追われた人々が浅草橋門へ殺到する。門は閉じている。人の圧力で前の者が倒れ、その上に人が積み重なる。堀へ落ちる者があり、落ちた者の上へさらに落ちる者があって、堀が人の体で埋まる。そこを渡って向こうへ行こうとした者が、また沈む。挿絵にはこの光景がそのまま描かれていて、水面に無数の頭と手が浮いている。

さらに了意は、財産を抱えて逃げた者ほど死んだ、という趣旨のことも書いている。長持を背負い、蔵の鍵を握りしめ、家財に未練を残した者が動けなくなって焼けた。身一つで逃げた者が助かった。この観察はたぶん本当だろうと思う。災害のたびに繰り返される話だからだ。

この本が二百年以上にわたって「明暦の大火とはこういう火事だった」という共通イメージを作った。功績でもあり、同時に、伝説を伸ばす土壌にもなった。

証言その二――西片を歩いてみると、何もない

火元とされる本郷丸山、いまの文京区西片二丁目のあたりを歩いてみた話をしておく。

まず、何もない。ここが日本史上最大の火災の出火地点だと示すものが、事実上ない。あるのは坂と、静かな住宅街と、大学関係の建物だ。本郷通りから一本入ると急に空気が変わる、感じのいい高台の街である。地形としては確かに高い。ここから吹き下ろす北西風に乗った火が、湯島、神田、日本橋と一直線に走った経路が、地図を見ながら歩くとやけに納得できる。

坂を下って湯島天神まで歩くと二十分ほど。神田明神まではさらに十分。この距離を、火は一時間もかからず走った計算になる。夕方の混んだ本郷通りをのろのろ歩きながら、あの日はこの空が全部オレンジだったのか、と思うと足が止まる。

近所で立ち話をした年配の方は、「このへんが火元だって話は聞いたことあるけど、うちは戦後に来たからねえ」と言っていた。それが普通なんだと思う。三百七十年近く経つと、街は忘れる。忘れないのは物語のほうだけだ。

証言その三――巣鴨の本妙寺で、供養塔の前に立つ

本妙寺はもう本郷にない。明治四十一年から三年をかけて、豊島区巣鴨五丁目へ移転している。本郷丸山にはおよそ二百七十年いたので、地元では「丸山様」と呼ばれていた。

いま巣鴨の本妙寺の境内には、明暦大火の供養塔が立っている。訪ねてみると、想像よりずっと小さい。都営三田線の西巣鴨から歩いて数分、染井霊園にほど近い一角で、境内は静かだ。昭和二十年の東京大空襲でこの寺は鐘楼と山門の片側以外をすべて失っていて、つまりこの寺は二度、東京の大火に焼かれている。そのことを知ってから境内を見ると、少し言葉に詰まる。

同じ境内には、遠山金四郎景元の墓もある。剣術家の千葉周作の墓もある。江戸の有名人が集まっている寺なのに、案内はごくあっさりしている。

供養塔の前で会った参拝者の一人は、はっきりこう言っていた。うちの寺じゃないけど、ここが火元だって決めつけられてるのが昔から気の毒でね、と。三百七十年前の話を、いまも「気の毒」と言う人がいる。伝説の粘着力というのは、こういうところに出る。

証言その四――両国の回向院で聞いた話

墨田区両国の回向院にも行った。国技館のすぐそば、駅から歩いて数分の場所にある。

境内に入ると、ここが本当に十万人規模の無縁仏の上に建った寺なのか、と一瞬わからなくなるくらい、ごく普通の都会の寺だ。ペット供養で有名になっているので、犬や猫の名前が彫られた小さな石碑がびっしり並んでいる。鼠小僧次郎吉の墓もあって、削って持ち帰ると勝負運がつくというので角が丸くなっている。

その一角に、大火の犠牲者を弔う塔がある。ここに立って初めて、この寺の成り立ちを思い出す。身元のわからない遺体を船で川を渡して運び、まとめて埋めて、その上に念仏堂を建てた。それがこの場所の起点だ。

参拝に来ていた地元の年配の男性が言っていたのが印象に残っている。この辺は関東大震災でも東京大空襲でも人がたくさん死んでいて、回向院はそのたびに引き受けてきた、だからここは「江戸と東京の全部の死者の受け皿」なんだ、と。実際、この寺は明暦の大火をきっかけに生まれて、その後の三百七十年、東京が焼けるたびに同じ役目を果たしている。

そう考えると、この寺の存在自体が、あの火事がまだ終わっていない証拠みたいに見えてくる。

なぜ、この話はこんなに怖いのか

振袖火事が三百七十年近く生き延びている理由を、少し分解してみたい。

一つ目は、規模と原因のギャップだ。十万人が死んだ、という数字は大きすぎて感情が追いつかない。人間の頭は、大きすぎる災害を「意味のある物語」に変換したがる。振袖一枚、娘一人の片思いという極小の原因を持ってくると、災害が急に理解可能なサイズになる。理解できることは、心の負担が軽い。

二つ目は、因果のきれいさだ。娘が死ぬ、着物が回る、また娘が死ぬ、供養する、供養が裏目に出る。この構造は完璧に閉じている。しかも「弔おうとした行為が最悪の結果を生む」という反転が入っている。善意が破滅を呼ぶ話は、いつの時代も強い。

三つ目は、物が主役だという点だ。人を呪う怨霊は珍しくないが、この話の主役は着物である。持ち主が死んでも着物は残り、次の持ち主のところへ流れていく。中古品として、正規の流通経路に乗って。日常の経済活動そのものが呪いの運搬装置になっている。ここが本気で気持ち悪い。古着屋という当たり前の場所が、急に危険地帯に見えてくる。

四つ目は、責任の逃がし場になる点だ。もし火元が老中の屋敷なら、あるいは幕府の放火なら、話は権力の失態になる。だが呪いのせいなら、誰も悪くない。統治の責任が超自然に転嫁される。伝説というのはしばしばこういう政治的な機能を持つ。振袖火事の物語がやたら流通したこと自体、体制にとって都合がよかった可能性が高い。

掲示板と考察界隈での扱われ方

ネット上でのこの話の扱われ方も見ておきたい。

まず、オカルト系のまとめでは定番中の定番だ。日本三大呪物みたいなくくりで振袖が出てくることも多い。ただ、いま面白いのはそこじゃなくて、歴史クラスタとオカルトクラスタが同じスレッドで殴り合う構図のほうだ。

歴史側の言い分は明快で、「三回出火してるのに一枚の着物で説明できるわけがない」「同時代史料に娘が出てこない」「そもそも十万人という数字が怪しい」となる。オカルト側は「じゃあ寺はなぜ潰されなかったのか」「阿部家の供養料はどう説明する」と返す。ここで議論が噛み合うのが面白いところで、火元引受説はオカルト側にも歴史側にも使える弾なんだよな。だから話が終わらない。

もう一つよく見るのが、都市計画クラスタの参戦だ。上野広小路の由来や、皇居東御苑に天守がない理由をたどると、必ずこの火事に行き着く。「東京の道が妙に広い場所は大体これのせい」という話は定期的にバズる。防災の文脈で語られることも多くて、八十日間無降雨プラス北西の強風という条件が、現代の東京で再現されたらどうなるかというシミュレーション的な議論もよく立つ。

あとは単純に、伝説の細部の異同で盛り上がる層がいる。娘の名前が版によって違う、店の場所が麻布だったり上野だったりする、柄が「菊」なのか「菊菱」なのか。この手の考察は不毛に見えて、実は伝説がどう成長したかを追うのに一番向いた作業でもある。

結局、あの日何が燃えたのか

事実として確かなのは、こうだ。

明暦三年正月十八日から二十日にかけて、江戸で三度の火災が起き、街の大半と江戸城が焼けた。極端な乾燥と強風が条件を作った。火除地も広小路も定火消もまだなく、隅田川には橋がなく、見附門は閉じられ、逃げる場所がなかった。都市の作りそのものが人を殺した。

そして幕府はその後、街の骨格を作り替え、天守を諦め、無縁仏のために寺を建てた。

伝説のほうは、その巨大な事実に後からかぶせられた薄い布みたいなものだ。ただ、その布は妙に手触りがよくて、三百七十年経っても剥がれない。呪いの振袖なんて存在しなかったはずなのに、いまも本妙寺の前で「気の毒だ」と言う人がいて、回向院の塔の前で手を合わせる人がいる。

物語のほうが長生きする。それがこの話の、いちばん怖いところかもしれない。

「三」という数字が、やたらと出てくる

ここまで書いてきて、あらためて引っかかっている点をまとめて掘り下げておきたい。

まず、この事件の構造には「三」という数字がやたらと出てくる。三人の娘、三度の出火、三日間の炎上、そして火元をめぐる三つの説。偶然の一致だと思うが、伝説が育つ過程でこの反復が効いていた可能性はある。人は三回繰り返されたものを「法則」だと感じる。娘が二人なら偶然、三人なら呪いになる。物語を作った誰かが意識的にそう設計したのだとしたら、たいしたセンスだ。

逆に無意識にそうなったのだとしたら、それはそれで人間の語りの癖の標本として興味深い。

次に、供養料の話をもう少し疑ってかかりたい。米十五俵という単位が絶妙なんだよな。老中家にとって痛くもかゆくもない量で、しかし二百六十年続けるとなると累計は相当になる。もしこれが後から作られた話なら、この「地味にリアルな金額」を思いつく人間の感覚がすごい。もし本当なら、阿部家の家政記録のどこかに、毎年決まった時期に決まった量の米が出ていく記載が残っているはずだ。

大名家の会計文書は意外と残っているものなので、そこを丹念に洗えば決着がつく可能性はある。誰かがやっているのかもしれないが、少なくとも一般向けの本で「阿部家側の帳簿を確認した」という記述にはお目にかかったことがない。ここは、この説の最大の弱点であり、同時に最大の伸びしろだと思う。

幕府放火説がなぜ死なないのか

三つ目に考えたいのが、幕府放火説がなぜ死なないかという問題だ。合理的に考えれば無理筋だ。天守を焼く放火計画などありえない。にもかかわらず、この説は明治以降ずっと再生産されてきた。理由はたぶん、結果があまりにきれいに幕府に有利だったからだ。寺社は外へ出た、御三家も出た、道は広がった、橋が架かった。どれも平時なら数十年かけても実現しなかったであろう改造が、数年で片づいている。

人は「誰かが得をした」という事実から「誰かが仕組んだ」という結論に飛びたがる。陰謀論の基本骨格そのものだ。

ただ、ここで岩本馨の指摘が刺さってくる。実は改造はそこまで一気呵成ではなかった。大火の前から動いていた計画もあれば、大火の後で何年もかけて場当たり的に決まったものもある。「焼け跡に即座に理想都市が立ち上がった」という像は、後世が作った要約なのだ。つまり放火説は、事実ではなく要約に対して立てられた仮説ということになる。要約を疑うと仮説の足場が消える。

歴史の陰謀論を潰すのに一番効くのは、動機の否定ではなく、前提となる事実像の精密化なんだと、この件はよく教えてくれる。

四つ目。伝説の側の機能について、もう少し踏み込んでおきたい。振袖火事の物語は、災害の責任を誰にも負わせない構造をしている。娘は悪くない。親も悪くない。寺も善意でやった。強いて言えば運命が悪い。これは被災者の心理としては、実はかなり救いのある形なんだよな。誰かを恨まずに済むからだ。十万人が死んだ街で、恨む相手を探し始めたら社会が壊れる。

「呪いだった」で全員が納得できるなら、その物語は復興のための社会的な装置として機能していたことになる。伝説を「非科学的な迷信」として切り捨てるのは簡単だが、その機能まで含めて見ると、もう少し敬意を払っていい気がする。

死因は「街の設計」だった

五つ目に、忘れがちな事実を一つ。この火事で死んだ人の大半は、火に直接焼かれたのではなく、逃げ場を失って死んでいる。門が閉まっていた、橋がなかった、道が狭かった。つまり死因は「街の設計」だ。だからこそ幕府の対策が広小路と火除地と橋だったわけで、そこは的確に本質を突いている。江戸幕府は呪いを信じていなかった。信じていたのは、道幅と橋の数だ。この現実主義は、当時の水準としてかなり大したものだと思う。

最後に、いま同じことが起きたらどうなるか、という話をしておきたい。八十日無降雨と北西の強風という条件は、現代の東京でも普通に起こりうる。木造住宅密集地域、いわゆる木密は、都心の外周部にいまだに広く残っている。関東大震災でも東京大空襲でも、被害を決定づけたのは火だった。防災の専門家が明暦の大火をいまだに研究し続けているのは、懐古趣味ではなくて、これが過去の話ではないからだ。

そう考えると、この記事で扱ってきた「呪いの振袖」というモチーフは、案外いいお守りなのかもしれない。呪いは信じなくていい。ただ、あの物語のおかげで明暦の大火という出来事が三百七十年近く忘れられずに済んでいる、というのは間違いなく事実だ。人が事実だけを記憶できる生き物なら伝説は要らないが、残念ながらそうではない。物語がついていないと、災害は驚くほど早く忘れられる。

西片の住宅街に何の痕跡もないのが、その証明だ。

だから、たまには紫の振袖の話をするのも悪くない。梅野もきのもいくも実在しなかったが、あの日、逃げ場を失って堀に落ちた何万人かは実在した。振袖の話を入口にして、そっちまでたどり着く人がいるなら、あの作り話にも仕事はあったということになる。

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