2019年10月31日の未明、首里城の正殿など9棟が焼けた。沖縄の象徴が炎に包まれる映像は、あまりに強烈だ。そこから「首里城は呪われている」という話まで広がった。
でも、首里城が何度も焼けた理由を歴史から追いかけると、超自然的な説明を持ち出す必要はない。王国の政治の中心だったこと、木造建築だったこと、時代ごとの防火体制の弱点。この三つが重なっている。
五度の火災には、五通りの事情がある
記録に残る最初の焼失は1453年だ。王位継承をめぐる「志魯・布里の乱」による火災だった。城は王国政治の中心だからこそ、内乱が起きれば真っ先に巻き込まれる場所でもあった。
二度目は1660年の失火だ。再建には11年かかったという。三度目は1709年で、これも失火が原因だった。再建にあたっては財政が苦しく、薩摩藩から多くの木材提供を受けたという。
四度目は1945年の沖縄戦になる。日本軍が首里城の地下に司令部壕を置いたため、米軍の攻撃対象となり、建物は失われた。戦後に復元された首里城が、五度目となる2019年の火災で再び焼けた。
五回という数字だけを見ると、正直、不思議な因縁を感じるかもしれない。けれども、時代ごとに事情はまるで違う。内乱、失火、戦争、近年の火災。「同じ呪いが五回起こした」と考えるより、政治拠点であり続けた木造の城が、それぞれ別の危険にさらされた歴史。そう見るほうが自然だ。
2019年の出火原因は、いまだに確定していない
2019年の火災について、警察・消防・第三者委員会の調査は、最終的に出火原因を特定できなかった。正殿北東部の電気系統や分電盤の短絡が疑われ、現場にその痕跡のようなものがあったという報道も出た。ただ、「電気系統が原因だった」と確定してはいない。
火の広がり方のほうは、話が別だ。具体的な問題がいくつも見つかっている。木造建築が連なる配置で、防火区画の考え方が十分に反映されていなかった上に、塗装が延焼に影響した可能性もある。放水銃の一部が使えず、消防用水も短時間で不足した。強い輻射熱で消防隊員が退避せざるを得なかった。
出火点を特定できないことと、延焼を大きくした設備上の課題があったこと。この二つは両立する。原因不明という空白をそのまま「呪い」で埋めるより、確認できた防災上の問題を次の建物へ反映するほうが大切だ。
「琉球王の怨念」は火事のあとに生まれた噂
火災のあとには、「首里城は呪われている」「夜に誰もいない城内で足音がする」という話が語られた。大きな災害のあと、説明しきれない不安を怪談の形で受け止めることは珍しくない。まあ、そこはよくある流れだ。
ただ、こうした話は地元の噂やネット上の語りであって、火災原因を示す資料にはならない。2019年の出火原因が特定されていないからといって、怨念が原因になるわけでもない。過去の四回にも、内乱、失火、戦争という現実的な背景がある。
首里城は琉球王国の政治と文化を象徴する場所だったからこそ、焼失は単なる建物火災以上の喪失として受け止められた。やがて「王の魂」や「呪い」という言葉に結びついたのだと思う。怪談は城への思いの強さを映すものではあっても、歴史上の事実とは分けておきたい。
素屋根が外れた2026年、再建は過去の復元を見直した
2019年の焼失後、正殿の再建工事は2022年に始まった。ここからの数年が早い。2026年3月には工事用の素屋根が外され、朱色の外観が姿を現し、同年7月には、正面の大龍柱と正殿へ続く両廊下が報道公開された。
この再建は、作り直し方そのものが違う。1992年の復元をそのままなぞらず、古写真などを使って考証が見直された。大龍柱は、1877年に撮影された写真も参考にして胴体の造形を調整したといい、西之廊下も長さを見直すなど、わかってきた史料を新しい建物へ反映している。
正殿内部の一般公開は、2026年11月23日に再開する予定だという。ただ、これはあくまで未来の予定だ。始まった事実とは、まだ分ける必要がある。
首里城の歴史は、焼けた回数だけの話にとどまらない。焼失のたびに、その時代の人たちが記録を集め、材料をそろえ、もう一度形にしてきた。呪われた城というより、失われるたびに作り直されてきた城。その見方のほうが、五度の火災と現在の復興をまっすぐにつなげてくれる。
