- 11時間で消えた赤い城
- 焼けた年を順番に並べてみると
- 2019年の火はどこから出たのか
- 素屋根が外れて、朱色が戻ってきた
- 燃えた回数ぶん、建て直してきた
- 午前2時34分、センサーが鳴った
- 龍潭のほとりで黙って見ていた
- 79トンの水は十数分で尽きた
- 消防法の上では「事務所」だった
- 世界遺産は地面の下にあった
- 焼け残った石の龍
- 犬が吠えて目が覚めた夜
- 夜の御内原で聞いた歌
- 焼けた青磁を洗う仕事
- 火が消える前に流れたデマ
- 「五度目」という数字が効いた
- 噂はいくつにも枝分かれした
- 城の下を千メートル走る穴
- 1453年の内乱、1660年の失火、1709年の薩摩の木
- 瓦は赤か黒か
- 龍は正面を向くのか、向かい合うのか
- 職人の手元
- 首里の人が呪いという語を嫌ったわけ
- 2026年9月の正殿
11時間で消えた赤い城
2019年10月31日の未明だった。沖縄のシンボルである首里城で正殿など9棟が燃え上がり、わずか11時間であの朱色の建物群はまとめて焼け落ちた。衝撃が大きすぎたのか、ネットには「首里城は呪われている」「琉球王の怨念が眠っている」と書き込みが並んでいる。
地元の噂話を集めた記録にも、似た話が載っている。夜の首里城で誰もいないのに足音が響き、それは琉球王の魂だという話が書き留められているんだよな。怖がりたい人には、材料がそろいすぎていた。
ただ、首里城が焼けたのはこの夜が初めてじゃない。600年近い歴史のなかで、この城はすでに五度も焼け落ちている。焼けた年を順に並べていくと、呪いという言葉がどこから湧いてきたのかが自然と見えてくる。
焼けた年を順番に並べてみると
最初の焼失は1453年。記録に残るこの一度目は、「志魯・布里の乱」と呼ばれる王位継承をめぐる内乱で城が焼かれたものだ。王家の内側から出た火だった。
二度目は1660年で、失火による全焼だ。このときは再建に11年を要し、王宮の機能は一時的に「大美御殿」へ移されている。建物が無くても政治は止まらなかった。
三度目は1709年、これも失火が原因とされる。王府の財政が逼迫していたので、薩摩藩から2万本近い木材の提供を受けて、ようやく再建にこぎつけた。
四度目は1945年の沖縄戦になる。日本軍が首里城の地下に司令部壕を構えていたせいで米軍の艦砲射撃の標的にされ、城は灰塵に帰した。五度目が2019年の火災だ。
並べてみると、呪いを持ち出さなくても説明はつくんだよな。建物は木造。琉球王国の政治の中心だったから、王位を争う内乱でも対外戦争でも、まっさきに狙われる場所に建っていた。
燃えやすい材で、必ず標的になる場所。城が焼けるたびに、その時代の為政者たちは膨大な資源と年月をかけて再建を成し遂げてきた。焼失と再建の繰り返しこそ、首里城の歴史そのものだった。
2019年の火はどこから出たのか
じゃあ2019年の火災は何が原因だったのか。警察と消防、第三者委員会が調べた結果は、最終的に「出火原因不明」で終わっている。答えは出なかった。
ただ、疑わしい場所ははっきりしている。沖縄県が設けた再発防止検討委員会の報告書や技術士の分析は、正殿の北東部に集まっていた電気系統を疑った。なかでも有力なのが分電盤のショート、つまり短絡だ。
報道でも、現場から分電盤がショートした痕跡らしきものが見つかったと伝えられた。原因不明という公式の結論と、この痕跡の話は、両方並べて置いておくのが筋だろうね。どちらかに寄せる材料はまだ無い。
延焼の理由は、もっとはっきりしている。首里城公園には防火区画という考え方がほとんど入っていなかった。木造の建物に沖縄独特の「桐油」塗装が重ねてあり、それが火の回りを速めたのではと指摘されている。
ドレンチャー、つまり放水で作る防火壁は作動した。それでも正門裏手の放水銃4基のうち1基は使えず、消防用水約79トンも十数分で尽きている。輻射熱が強くて隊員が一時退避した時間も、鎮火を遅らせた。
呪いの出番は無い。古びた設備と後回しにされた防災投資が積み上がり、その結果として出てきたのが、あの11時間だった。
素屋根が外れて、朱色が戻ってきた
復興は着実に進んだ。正殿の再建工事は2022年に始まり、工事中の正殿は素屋根と呼ばれる工事用の仮設屋根にすっぽり覆われていた。外からは中の様子がまるで見えない。
素屋根の見学エリアは2025年6月9日で供用を終えた。その直後の2025年7月29日から素屋根の解体が始まり、同じ年の10月末、朱色の正殿がついに全身を見せている。
翌年の2026年7月24日には、正殿の正面を飾る「大龍柱」2本と、正殿へ続く「両廊下」が報道公開された。大龍柱は一対の龍の彫刻だ。高さは約3.1メートル、重さは約1.4トンある。
今回の再建では、1877年にフランス海軍が撮った古写真も参考にしたという。胴体の造形も、より史実に忠実な形へ変えたらしい。前と同じ龍じゃないのが面白い。
両廊下にも手が入った。正殿に向かって左側の「西之廊下」は約6.5メートル延長され、1992年の「平成の復元」から、さらに考証を重ねた改良が加えられている。
正殿内部の一般公開は、2026年11月23日の正午から。この記事を書いている2026年9月25日の時点で、中では漆塗りと防火設備の工事がまだ続いていた。30分刻みの事前予約の受付は、9月1日に始まったばかりだ。
燃えた回数ぶん、建て直してきた
首里城は焼けた回数と同じだけ建て直されてきた。呪われた城という語りより、こっちのほうがよほど重い。琉球王国の興亡、薩摩の侵攻、沖縄戦、令和の火災と、城は何度も時代の波をかぶってきた。
そのたびに人が材と金をかき集め、技術と記憶を次の世代へ渡して城を組み直した。2026年11月、五度目の再建を終えた正殿の扉が開く。
午前2時34分、センサーが鳴った
時計を2019年10月31日の未明へ戻す。午前2時34分、正殿に付けられた熱反応センサーが異常を拾った。警備員が煙に気づいたのはその7分後の2時41分で、すぐに119番が入っている。
消防隊が城の前に着いたのは2時50分。ここからが厄介だった。正門から先は石段と城壁が延々と続いていて、ホースを伸ばすだけでどんどん時間が溶けていった。
午前4時をまわると、正殿は音を立てて崩れ始める。5時35分には完全に姿を消し、北殿も南殿も番所も、火はまとめて舐めていった。
鎮圧は午前11時。完全な鎮火が午後1時30分で、発生から数えると11時間近く燃え続けたことになる。焼けた範囲は延べ4800平方メートルにも及んだ。
龍潭のほとりで黙って見ていた
沖縄タイムスの警察担当記者は、記者クラブで午前4時2分に第一報を受け、5分後には車で現場へ向かっている。着いた先には、もう人が集まっている。
龍潭のほとりには近所の住民が集まり、燃えさかる正殿を黙って見つめていた。泣き崩れる人もいた。正殿から南殿のほうへかけて、火の粉が風に乗って舞っていたという。
投入された消防車は53台で、消火にあたった隊員は171人。県内9つの消防本部が県の相互応援協定で動き、9本部にまたがる出動は協定ができてから初めてのことだった。
応援を合わせた延べ台数は60台、人員は219人に達した。それでも火の勢いには追いつけない。数をそろえても、水と足場が足りなかったんだ。
79トンの水は十数分で尽きた
首里城公園に用意されていた消防用水は約79トンで、十数分のうちに空になった。そこから先は、外から水を引いてくるしかない。
正門の裏手にあった放水銃4基のうち、1基は使えなかった。ドレンチャーは動いたものの、火の回りには届いていない。輻射熱が強すぎて、隊員が一度後退を余儀なくされた場面もあった。
地形も敵に回った。石垣と坂の多い地形が消火の邪魔をしたんだよ。高い場所に築かれ、攻めにくく造られた城の姿が、今度は消防隊の前に立ちはだかった。
消防法の上では「事務所」だった
焼けた後、まず問われたのはスプリンクラーがなぜ無かったのかという点だ。答えは拍子抜けするほど制度の話で、1992年に復元された正殿は文化財の指定を受けていなかった。
消防法の分類だと、あの正殿は「事務所」。地上10階以下の事務所には、スプリンクラーの設置義務が無かった。王様の宮殿が、書類の上ではオフィス扱いだったってわけだ。
文化財保護法の側にも、設置基準は書かれていない。文化庁が重要文化財4543棟を緊急に調べたところ、スプリンクラーを入れていたのはわずか66棟だった。配管が建物そのものを傷めるうえ、誤作動で水損も出るので、現場は嫌がる。
皮肉なのは時期だ。文化庁が防火対策ガイドラインを出したのは2019年9月で、首里城が燃えるひと月ほど前にあたる。しかも設置は義務にならず、「勧める」にとどまった。
県の幹部は取材に「大家さんは国だ」と漏らしている。国が整備した施設だから、消火設備も万全のはずだと思われていたわけだ。誰もそこを確かめていなかった。
世界遺産は地面の下にあった
もう一つ、ややこしい事情がある。首里城跡は2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部として世界遺産に登録されたが、対象は地下に眠る石積みや遺構のほうだった。
1992年から建てられた正殿や北殿は、その上に載った新しい建物という位置づけになる。だから建物が焼けても、世界遺産の登録が消えることはなかった。守るべき本体は、焼けなかった地面の下にあった。
焼け残った石の龍
被害の内訳は細かく出ている。正殿と北殿が100パーセント、南殿と番所が74パーセント、書院と鎖之間が93パーセント焼けた。黄金御殿は80パーセント、二階御殿は68パーセントだ。
奉神門は半焼、女官居室は一部焼損で済んだ。王家の私的な生活の場だった御内原の一帯は、まとめて持っていかれた形になる。数字を並べると、被害の偏り方がよく分かる。
正殿に常設していた収蔵品421点は灰になった。助かった物もある。南殿と寄満に置かれた耐火収蔵庫は防火扉が閉まっていて、1000点余りが無傷のまま出てきた。
差は扉一枚。閉まっていたか開いていたか、それだけのことで残る物と消える物がきれいに分かれてしまったのが、なんとも生々しい。
石の龍は立っていた。正殿正面を守る大龍柱は、上から降ってきた燃え落ちた木材を浴びながら、頭を残している。焼け跡の写真でいちばん人の目を引いたのがこれだ。
この一点が、のちの「呪い」話にも「不死の城」話にも使われていく。同じ写真が、見る人によって正反対の物語に仕立てられていったのは皮肉な話だ。
犬が吠えて目が覚めた夜
龍潭の向かいに住む男性の話を書いておきたい。あの夜は犬が吠えて目が覚め、窓を開けると焦げた匂いがして、空が妙に明るかったそうだ。
最初は何かの工事かと思ったという。坂を上がっていくと、消防のホースが石畳を這っていた。
正殿の屋根から炎が真上に伸びて、赤瓦が弾ける乾いた音がずっと続いていた。周りには寝間着のままの人が何十人も立っている。誰も喋らない。
おばあが一人、両手を合わせて座り込んでいた。彼は「あれが一番きつかった」と言う。炎や音より、その姿のほうが胸に刺さったらしい。
男性は子どもの頃、城の無い首里の丘で遊んでいた。米軍の兵舎と大学のキャンパスがあった時代だ。1992年に正殿が建った日は、家族で朝から列に並んだと笑って話してくれた。
「二回、できるところを見た。三回目は見られないかもしれん」。そう言ったときだけ、彼は笑わなかった。
夜の御内原で聞いた歌
焼ける前の首里城で、夜勤に入っていた男性からも話を聞いた。御内原の一帯は照明を落とすと本当に暗く、巡回のとき女の声で歌が聞こえたことが何度かあったという。
節に聞き覚えはなかった。琉歌のようでいて型に当てはまらない旋律だったそうだ。近くの民家から流れてきたのかと疑ったが、風向きが合わなかった。
先輩に打ち明けても、笑われなかったらしい。返ってきたのは「あの辺は昔から聞く人がいる」という一言だった。
御内原は王の私的な空間で、同時に国家最高の神事の場でもあった。聞得大君を頂点とする神女たちが、王の長寿と国の繁栄を祈った場所だ。儀式の中身は外へ出さない決まりだった。
深夜に美しく、どこか哀しい歌声が漏れる。その言い伝えは、火災のずっと前から首里にあった。彼自身は、その体験を呪いに結びつけていない。
「祈っていた場所なんだから、祈りの音が残ってもおかしくない」。焼けた後に御内原の建物が全部持っていかれたと知って、真っ先に浮かんだのがあの夜の暗さだったという。声の主が困らなければいい、と彼は続けた。
焼けた青磁を洗う仕事
発掘に関わった人の話も面白い。城の南西にある京の内は首里森御嶽を含む祭祀の中心で、1980年代からの調査で中国産の陶磁器が大量に掘り出されてきた。
青磁、白磁、元の青花、明の青花。重要文化財に指定された一群で、破片まで数えれば膨大な量になる。その大半が焼けていた。
1459年の火事で焼けた蔵の中身が、そのまま地面に埋まったという見方が強い。京の内の土には、記録に残る五度の焼失より前の焼け跡が、層になって入っていることになる。数え方を変えれば、この城は五度どころじゃなかった。
その人は淡々としていた。「焼けたものを掘る仕事だから」と言い、焼け焦げた青磁を洗い、番号を振り、保管箱に並べていく作業を続けている。
破片の断面に煤が入り込んでいると、いくら洗っても黒が抜けない。2019年の後、同じ作業がもう一巡すると分かったときの気分を聞いた。「呪いだと言われるとやりにくい。仕事が怪談にされる」と彼は答えた。
火が消える前に流れたデマ
火が消える前から、ネットには根拠のない話が流れ始めていた。「在日朝鮮人の仕業」「中国人か韓国人による放火」。政治の色をつけた書き込みも出て、「プロ市民の仕業」「パヨクの陰謀」と言葉が並んだ。
矛先は知事にも向いた。当時、韓国へ出張していた玉城デニー知事について、「韓国に避難している」「知事が指示したかも」と書いた者までいる。
動画サイトには「首里城燃やしたの僕です」と名乗る投稿も上がった。再生数を狙った作りで、叩かれて消えている。ひどい話だ。
この手の便乗は、タレントのスマイリーキクチも取り上げて「まだやるんだ」「憎しみ依存」と呆れていた。デマを追いかけたネットの熱と、実際の捜査の進み方は、最初から噛み合っていなかった。
「五度目」という数字が効いた
呪いの語りが伸びたのは、この騒ぎの少し後だ。放火説が細っていくにつれて、説明のつかない出来事として扱いたい人が増えていった。
効いたのは「五度目」という数字だった。1453年、1660年、1709年、1945年、2019年と並べると人為の匂いが薄れて、まるで周期のように見えてくる。
沖縄の反応は冷ややかだった。城が焼けて泣いた側からすれば、祟りも陰謀も他人事の遊びに映る。「うちの祖父母の家も焼けた。祟りで焼けたのか」という投稿も回ったほどだ。
首里に住む人ほど、呪いという語を嫌っていた。これは覚えておいてほしい。
噂はいくつにも枝分かれした
派生版はいくつも出た。いちばん多かったのが王家の祟り説で、明治政府が1879年に城を接収し、最後の王である尚泰が首里を去った出来事が下敷きになっている。
あの時に連れ出せなかった王家の霊が城に残り、建物が新しくなるたびに焼く。そういう筋書きだった。よくできているぶん、広まるのも早い。
黄金の龍が消えた話もぶり返した。尚泰が城を出るとき、純金の龍像を含む家宝の行方が分からなくなったという古い伝えがある。城のどこかに埋まっていて、ふさわしい者が現れるまで出てこないという話だ。
そこへ「宝を掘ろうとした者がいたから燃えた」という尾ひれが付いた。昔からの伝説に、令和の火事が後からくっついた形になる。
大龍柱の目が光るという話は、火災の後で急に広まった。老いた風水師が「龍の目が曇るとき、この国は形を変える」と言い残した、という体裁で書かれている。曇ったのが1879年、1945年、2019年だと合わせる書き込みまで出た。
予言の文句そのものは、出典がはっきりしない。どこの誰が言ったのかたどれないまま、言葉だけがネットの上をぐるぐる回っていった。
御嶽を壊して城を建てたから、という説明も回った。首里城の中には首里森御嶽があり、正殿前の御庭のすぐ脇が神域にあたる。園比屋武御嶽の石門は城の外、守礼門の近くに立っている。
神の場所の上に、人が屋根を架けた報いだという理屈だ。筋は通って見える。
もう一つが地下説だった。城の下には沖縄戦の司令部壕が走っていて、そこで死んだ兵の霊が地上を焼くという話になる。これが一番しつこく生き残った。
理由は単純で、壕が本当にあるからだ。
城の下を千メートル走る穴
第32軍司令部壕の掘削が始まったのは1944年12月。翌年1月の中旬には、幕僚が使える段階まで進んでいた。
坑口は5か所あった。直線距離で約375メートル、坑道の総延長は約1000メートルと見積もられている。首里の丘を、城ごと巨大な要塞に変えた形だった。
1945年3月24日、参謀長の長勇中将が壕口に木札を掲げている。軍司令官の牛島満中将も、作戦を組み立てた高級参謀の八原博通大佐も、この地下で首里の攻防を計算していた。城が標的になったのは、この司令部が地下にあったからだ。
米軍は首里の丘に司令部があるとつかんでいた。5月25日から3日間、戦艦ミシシッピなどで砲撃を続け、27日に城は焼け落ちている。
司令部が摩文仁の陣地壕へ移ったのは5月30日。撤退のとき、動けない重傷兵が壕へ取り残されたという話が繰り返し語られてきた。
数字は資料によってぶれる。ぶれたまま伝わったから、怪談の側でも人数が勝手に膨らんでいった。噂が育つ土壌は、こういうところにあるんだよな。
壕には今も入れない。落盤の危険があるため、県は詳細調査と保存公開の基本計画づくりを進めている段階だ。観光客が歩く園路の真下に、千メートルの穴がそのまま眠っている。
この構図を知ると、地下説がなぜ生き延びたのか腑に落ちる。足の下に、本物の戦争の跡がある。
1453年の内乱、1660年の失火、1709年の薩摩の木
首里城の最古の遺構は、14世紀末まで遡る。三山時代には中山の城として使われていたから、焼けた記録も相応に古い。
最初の焼失が1453年だ。第一尚氏の尚金福王が死に、王位を争った志魯と布里が城の中で衝突して、城内は完全に壊れてしまった。王権の内側から出た火だ。
二度目の1660年は、失火による全焼で再建に11年かかった。その間、王宮の機能は大美御殿へ移されている。城が無いまま王府が回った11年は、琉球の王権が建物だけに乗っていなかった証拠にもなる。
三度目は1709年で、正殿、北殿、南殿がまとめて焼けた。このときの王府に金は無い。1712年に薩摩藩から2万本近い原木の提供を受けてようやく材が揃い、1715年に再建が終わった。
焼けるたびに、外から材を借りる。首里城の再建史は、いつもそれだった。
戦前にも城は消えかけている。1923年には老朽化した正殿の取り壊しが検討され、それを止めたのが東京帝国大学の伊東忠太と、沖縄の文化調査に入っていた鎌倉芳太郎らだった。
彼らが走り回った結果、計画は撤回された。この二人の名は、のちの復元でもう一度出てくる。
瓦は赤か黒か
1992年の復元でいちばん揉めたのは、瓦の色だった。戦前の写真では屋根が黒っぽく写っていて、地元の老人の証言も「薄い黒」「弁柄が残っていた」と割れていた。
決め手は一人の証言だ。昭和の大修理に関わった浜元朝功が、古材に弁柄の痕跡があったと話し、そこから弁柄色に決まった。
発掘でも、赤瓦が灰色瓦より多く出ている。灰色のものは時代が違うか、琉球処分後の建物の分だという整理になった。赤瓦は焼成温度が低くて済むので、薪代を削りたかった王府の事情にも合っていた。
復元の総指揮をとったのは歴史家の高良倉吉。考古、文献、建築、古文書を突き合わせたうえで、1715年に再建された四代目の正殿を手本に選んでいる。
塗装は27段階に及ぶ。漆と桐油を交互に塗り、そのたび研ぎを入れる。鎌倉芳太郎が戦前に撮った写真と採った拓本が、この手間のかかる工程を組み立てる根拠になった。
黒瓦説を唱える人は今もいる。県も、新しい史料が出たら塗り替えを考えると認めた。決着したように見えて、じつはまだ扉が半分開いたままの話だ。
龍は正面を向くのか、向かい合うのか
令和の再建では、別の論争が起きた。大龍柱の向きだ。1877年にフランス海軍のジュール・レベルテガ中尉が撮った写真では、龍が正面を向いて立っている。
写真の力は強い。沖縄県の公文書館にあるこの一枚が、研究者側の主要な根拠になった。
技術検討委員会は国の史料を重く見て、向かい合う「相対向き」を採った。研究者らは撤回を求めて6000筆の署名を提出し、神奈川大学の後田多敦は「改変」という語を使って批判している。
委員会の側は、新しい史料が出れば設置方法を再考すると答えた。瓦と同じで、ここも扉は閉じていない。
外から見れば細部の話だ。首里に通う人の受け取り方は違う。龍が客を睨むのか互いを見るのか、それは城が誰に向けて建つのかという問いに変わっていく。論争が長引いた理由は、たぶんそこにあった。
職人の手元
再建の材は前回と変わった。1992年はタイワンヒノキの無垢材が主役だったが、台湾が伐採と輸出を止めたので、令和の再建では国産ヒノキが中心に据えられている。
柱と梁は513本。ヒノキ材で約300立方メートルになり、棟木はヒノキの横材4本を継いで長さ約21メートルに仕上げた。
玉座の上に渡る小屋丈梁には、沖縄県産のオキナワウラジロガシを使った。長さ6.4メートル、重さは1.3トンから1.7トンの材が2本入っている。でかい。
屋根の鬼瓦は、正面と背面に2体ずつで計4体が載る。平成の復元より一回り大きく作られた。
赤瓦は県産の土で約6万枚。龍頭棟飾は、陶製のピースを一つずつ焼いて屋根の上で組み上げる作りだ。獅子の装飾は横幅約1.5メートル、高さ約0.9メートルある。
漆は前回と同じく中国産のもの。湿気の多い沖縄の気候に耐える塗り重ねを、職人が探りながら決めていったそうだ。焼物は壺屋陶器事業協同組合が受け持った。
技術の継承も同時に走らせている。焼物、赤瓦、染織、彫刻、木工、塗装彩色の6分野で、県立芸術大学や県工芸振興センター出身の若手を雇った。
広島から2020年に移り住んだ寄定秀美は、赤瓦を打っている。「作ったら屋根に乗って何十年も瓦として残る」。1枚ずつにどれだけ思いを込められるか、それが自分の挑戦だと話していた。
首里の人が呪いという語を嫌ったわけ
不謹慎だから、だけじゃない。この城は焼けた回数と同じだけ建て直されてきた。1671年、1715年、1992年、そして2026年と、建てた側の手間と金と技術がそのたび記録に刻まれている。
呪いで話を締めると、その記録が丸ごと消える。首里の人が呪い話を嫌ったのは、そこが我慢ならなかったからだ。
分電盤、配線、点検の頻度。地味な話ほど次の火事を止める力を持つし、祟りに責任は取らせられない。呪いの語りが広まるほど、確かめるべき配線の話が奥へ押し込まれていった。
首里の人が苛立ったのは、まさにそこだった。
2026年9月の正殿
工事の現況を書いておく。今日は2026年9月25日。素屋根の見学エリアは2025年6月9日で供用を終え、素屋根の解体が始まったのが同じ年の7月29日だった。
10月の末、およそ6年ぶりに正殿が全身を見せた。木工事はすでにひと段落していて、原寸場は2025年3月の中旬に閉じている。
いま中で進んでいるのは、漆の塗りと内装、そして防火設備の据え付けだ。二度と同じ目に遭わせないための配管が、朱塗りの裏側を通っていく。
2026年7月24日には、大龍柱2本と両廊下が報道公開された。西之廊下は平成の復元より約6.5メートル長いので、前の姿を覚えている人なら見比べて気づけるかもしれない。
一般公開は2026年11月23日の正午から。前日の22日には政府主催の復元完成式が入り、オープニングセレモニーは11月23日の午前9時に始まる。
正殿内の見学は、30分刻みの事前予約制。受付は2026年9月1日に始まった。入場料も同じ日に改定されて、大人は400円から1000円、高校生は300円から760円になった。
小中学生は160円から370円に上がる。寄付もずいぶん集まった。クラウドファンディングで5.7億円、那覇市に1.7億円、沖縄県に2.2億円、県内報道10社の募金で0.7億円が寄せられている。
合わせて約10.5億円が、復興へ回った。焼けた翌日から、募金箱の前には列ができていた。その光景を、首里の人はよく覚えている。
