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診察もされずに「狂人」と決められ、翌々日に湖で死んだ王――ルートヴィヒ二世とグッデン博士、シュタルンベルク湖に消えた三時間の全記録

一八八六年六月十三日、聖霊降臨祭の日曜日。ドイツ、シュタルンベルク湖の岸辺。

夜十一時すぎ、雨の降る真っ暗な水面に、二つの体が浮いていた。ひとつは前々日まで王だった男。もうひとつは、その男を「治療」する立場にあった精神科医。水深は、深いところでも大人の腰ほど。岸からは目と鼻の先。二人とも、どうしてそこで死んだのか、いまだに誰も説明できていない。

しかも王のほうは、死ぬ五日前に「不治の偏執病、終身にわたり統治不能」と診断されていた。

診断した医師は、王を一度も診察していない。会ってすらいなかった。使用人たちの供述書だけを机の上で読み、それで一国の君主の人生を終わらせる書類にサインした。そしてその医師自身が、五日後に王と一緒に湖で死んでいる。

この話、どこから切っても妙な角度が出てくる。順番に見ていこう。

誰も診ていない診断書が、国王を廃位した

まず、事の異常さをはっきりさせておきたい。

一八八六年六月八日、ミュンヘン大学精神医学教授でオーバーバイエルン管区精神病院長のベルンハルト・フォン・グッデンが、一通の鑑定書を提出した。対象はバイエルン国王ルートヴィヒ二世、当時四十歳。診断は「きわめて進行した程度で心を病んでいる」「偏執病(狂気)」、そして「不治」「生涯にわたり統治不能」。

この書類には、グッデンのほかに三人の精神科医の署名が並んでいる。エアランゲン管区精神病院長のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ハーゲン、ヴュルツブルク大学の精神医学教授でグッデンの女婿にあたるフーベルト・フォン・グラスハイ、ヴェルネック管区精神病院長のマックス・フープリヒ。当時のバイエルン精神医学界の看板が四枚そろっている。権威という点では文句のつけようがない。

問題は中身ではなく、手続きだ。

四人のうち、ルートヴィヒ二世に会ったことがあるのはグッデンひとりだけ。それも十四年前、王が彼を弟オットーの主治医に任命したときの一度きりである。四人の誰も、鑑定にあたって王を診察していない。面接も、問診も、観察もしていない。文書の本文は前夜のうちにグッデンが下書きし、六月八日に清書された。残り三人は、文面の作成に関与しないまま署名しただけだった。

材料になったのは、王の身の回りにいた人間からの聞き取りである。厩舎付きの側近カール・ヘッセルシュヴェルト、侍従アダルベルト・ヴェルカー、宮廷書記ルートヴィヒ・クルークの記録、そして一時は王のもっとも近くにいながら失寵していた元厩舎長リヒャルト・ホルニヒ、元官房書記官たちの書面。

彼らが語った奇癖の一覧が、体系だっているとは言いがたい形で並べられた。夜中に食事をとる。人前に出たがらない。給仕に無茶な命令を出す。幻覚らしきものを口にする。アルプス湖にケーブルカーを架けると言い出す。並べたあとに、結論だけがきっぱりと書かれていた。

摂政に指名される予定だったルイトポルト公は、この点にひっかかったらしい。六月七日の協議で、精神科医が甥を直接診察してはどうかと提案している。これに反対したのが首相格のヨハン・フォン・ルッツだった。代わりに証人には宣誓させると約束して、直接診察の話は消えた。

なぜ誰も診なかったのか。理由は身も蓋もない。診察に行ったら王が拒む。拒まれたら鑑定できない。鑑定できなければ摂政を立てられない。摂政を立てられなければ、国王官房金庫の破産と、大臣たちの失脚が現実になる。

つまり「診ない」ことは手抜きではなく、設計だった。

そしてこの設計図の上を、五日後に二つの死体が流れていく。

ローエングリンに撃たれた十五歳

ルートヴィヒ二世が生まれたのは一八四五年八月二十五日、ミュンヘン郊外のニュンフェンブルク宮殿。父は後のマクシミリアン二世、母はプロイセン王女マリー。祖父ルートヴィヒ一世が自分の誕生日と同じ日に孫が生まれるのを、時計を見ながら待っていたという逸話がある。名前も祖父の意向で「ルートヴィヒ」になった。

少年時代を過ごしたのは、父が改築したホーエンシュヴァンガウ城。壁一面に白鳥の騎士ローエングリンの伝説が描かれた城だ。子どものころから、白鳥は彼にとって単なる装飾ではなく、自分の来歴そのものだった。

決定的だったのは一八六一年二月、十五歳のときにミュンヘンで観た『ローエングリン』である。舞台の上で、名を明かしてはならない騎士が白鳥に引かれて現れ、そして去っていく。この体験を、彼は生涯にわたって反芻し続けた。十か月後に観た『タンホイザー』も同様だった。

一八六四年三月十日、父マクシミリアン二世が急死する。ルートヴィヒは十八歳で即位した。学業の途中で、政治の訓練はほとんど受けていない。整った顔立ちと長身のこの若い王を、ミュンヘンの市民は熱狂的に歓迎した。この時点では、誰も「狂王」などとは呼んでいない。

即位後、彼が真っ先にやったことは、法案の審議でも軍の視察でもなかった。宮廷書記官フランツ・ゼーラフ・フォン・プフィスターマイスターに命じ、リヒャルト・ワーグナーを探させたのである。

ワーグナーという爆弾

当時のワーグナーは、借金取りに追われて各地を転々としている状態だった。革命に関与した過去もあり、素行の評判も悪い。そこへ王の使者が現れる。一八六四年五月四日、ミュンヘンのレジデンツで、二人は一時間四十五分にわたって会った。

ワーグナーがこのとき書いた言葉が残っている。彼は美しく、賢く、魂があり、愛らしい。この俗な世界で、彼の生が神々の束の間の夢のように溶けてしまうのではないかと恐れる。おおよそ、そういう意味のことを書いている。

王はワーグナーの負債を肩代わりし、住居と生活費を与え、作曲の資金を出した。『トリスタンとイゾルデ』の初演は一八六五年、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は一八六八年。バイロイト祝祭劇場の資金が尽きたときには十万ターラーを貸し、ワーグナーの邸宅ヴァーンフリートの建設も支援した。

一八七六年の『ニーベルングの指環』全曲初演では、王はゲネプロと三回目の公演には行ったが、皇帝ヴィルヘルム一世ら賓客の並ぶ初日は避けている。人が多い場所が、心底だめだったのだ。

一方で、この庇護は最初から政治的な火薬だった。閣僚も宮廷も市民も、素性の怪しい作曲家に王が金を注ぐことを歓迎しなかった。一八六五年十二月、王は内閣の圧力に屈してワーグナーをミュンヘンから追放する。

十八歳で即位した王にとって、これは最初の敗北だった。国王といえども、閣僚の意思には逆らえない。彼はこのことを、生涯忘れなかったように見える。

もうひとつ、王の私生活のほうにも爆弾があった。

一八六七年、エリーザベト皇后の妹ゾフィー・シャルロッテと婚約する。国中が祝賀ムードに包まれ、式は八月二十五日の王の誕生日に決まった。ところが王は式を十月十二日に延期し、さらに十一月二十八日へ延期する。ゾフィーの父バイエルン公マクシミリアンが、これ以上延ばすなら破談だと最後通牒を出すと、王は臣下が君主にこのような書簡を送ってよいものかと激怒し、婚約を解消した。

破棄の手紙のなかで、王はゾフィーを『ローエングリン』のエルザ、自分をハインリヒと呼んでいる。現実の女性ではなく、舞台の登場人物として書いていたのだ。破談後、王は婚約者の写真を破り、手紙を焼き、胸像を窓から放り出した。空いた場所には、ワーグナーの胸像が置かれた。

以後、王が結婚することはなかった。近侍の美青年たちへの傾倒はしばしば噂になり、一八八五年二月からは人手不足を理由に軽騎兵の兵士を身辺に配属させたことで、噂はさらに広がった。当時のドイツ刑法百七十五条は男性同士の性行為を犯罪としており、これは廃位を正当化する材料としては使えないが、王の孤立を深める要因ではあった。のちの鑑定書がこの点に一切触れていないのは、王を守るためだったとも、触れれば議会で扱いきれなくなるからだったとも言われる。

石になった夢と、その正確な値段

一八六六年の普墺戦争でバイエルンはオーストリア側について敗れ、一八七一年のドイツ帝国成立で、バイエルン王は事実上プロイセン皇帝の下に組み込まれた。主権者としての王ではなくなった彼は、現実の国からどんどん退いていく。代わりに始めたのが、築城だった。

ノイシュヴァンシュタイン城の起工は一八六九年九月五日。中世の騎士の城として構想され、設計原案を描いたのは建築家ではなくミュンヘン宮廷歌劇場の舞台美術家クリスティアン・ヤンクだった。つまりあの城は、はじめから舞台装置として設計されている。ワーグナー宛の一八六八年の手紙で、王はこの新しい城には『タンホイザー』と『ローエングリン』の思い出が収められると書いている。

リンダーホーフ城はロココ趣味の小宮殿で、三つのうち唯一一八八六年に完成した。庭には『タンホイザー』のヴェーヌスの洞窟が人工的に造られ、王はローエングリンの扮装をして貝殻の舟に乗り、楽士に演奏させた。ヘレンキームゼー城はキーム湖の島を買い取って建てたヴェルサイユ宮殿の再現で、鏡の間まで作ってある。ほかにファルケンシュタイン城の構想もあり、オリエント風の宮殿も夢見ていた。

金額を並べると、この趣味の規模が見えてくる。

一八八六年六月時点での支出は、ノイシュヴァンシュタイン城が六百十八万四十七マルク、リンダーホーフ城が八百四十六万九百三十七マルク、ヘレンキームゼー城が千六百五十七万九千六百七十四マルク。合計で三千百二十二万六百五十八マルク。

ヘレンキームゼーは七十室のうち五十室が未完成のままで、それでいてノイシュヴァンシュタインの二・五倍を食っている。ノイシュヴァンシュタインですら、躯体が約二百万マルクなのに内装が約四百万マルク。金がかかったのは石ではなく、装飾のほうだった。

当時の一マルクを現在の日本円でおよそ三千円と見積もる試算がある。それに従えば、ノイシュヴァンシュタインが約百八十億円、リンダーホーフが約二百五十億円、ヘレンキームゼーが約五百億円。三城で約九百四十億円になる。バイエルンのような規模の国にとって、個人の趣味としては桁が違う。

ただし、しばしば誤解されているように、これらは国庫から出た金ではない。

一八三四年の法律でヴィッテルスバッハ家には王室費が支給されることになっており、一八七六年以降その額は年間四百二十三万マルクだった。ここから宮廷の維持費、王族の生活費、官吏と使用人の給料を全部払うので、王が自由に使えたのは年に五十万から百万マルク程度。加えて父マクシミリアン二世から相続した私財の収益が年約五十万マルク。そして一八七一年以降、プロイセン王のドイツ皇帝戴冠を後押しした見返りに、宰相ビスマルクから秘密資金ヴェルフェン基金を通じて年三十万マルクが入っていた。

この程度の原資で、年平均百万マルクの建設費を払い続けたらどうなるか。

一八六九年から一八八三年までの十五年間に、国王官房金庫からおよそ千五百万マルクが建設に消えた。一八八四年半ばには未払い金が八百二十五万マルクに達し、施工業者、内装業者、家具職人、画家、金銀細工師といった債権者からの民事訴訟と、官房金庫の差し押さえが現実の脅威になった。

財務大臣エミール・フォン・リーデルが動く。ビスマルクから百万マルクを緊急に引き出し、残る七百十五万マルクは官房金庫を担保にバイエルンの銀行団に債券を発行させて凌いだ。返済は一九〇一年まで十八年かけて年約四十万マルク。財務大臣はこのとき、速やかな支払いと新たな負債の回避しかない、と釘を刺している。

王は聞かなかった。内装工事を続け、一八八五年夏までに新たに六百五十九万マルクの未払いを作った。バイエルン抵当為替銀行からも七十六万マルク借りている。一八八六年六月時点の負債総額は約千四百三十万マルク。現在の日本円でおよそ四百三十億円。

そして一八八五年八月二十九日、王は財務大臣に直接手紙を書いた。余の指示に基づく建設は滞りなく続行され完成しなければならない、官房金庫の状態が悪いために滞っているので、財務の調整に必要な措置を取り、余の事業を支援せよ。そういう趣旨である。九月三日付の返信で、リーデルは、あらゆる支出の厳しい制限以外に改善策はない、と断った。王は激怒し、財務大臣を罷免するよう指示したと伝えられる。

歴史家がこの手紙を重視するのは、ここで線が越えられたからだ。それまで王の借金は王家の私的問題だった。王が閣僚に解決を命じた瞬間、それは国政の問題になった。以後、閣僚たちは王の財政を自分たちの首の問題として扱いはじめる。

ナネッテ・ヴァーグナーの委任状で、火がついた

火種が引火したのは一八八六年二月二十二日である。

王は金策のため、シュトゥットガルトの評判の悪い金融仲介人ナネッテ・ヴァーグナーという女性に委任状を出した。宮廷書記のルートヴィヒ・クルークが警察の力を借りてこの委任状を取り戻し、事なきを得たが、この一件は閣僚を震え上がらせた。国王の名前が怪しげな金融ブローカーの手に渡っていたのである。

三月二十日、閣議は王の「健康状態」を調査させることを決定した。三月二十三日、ルッツはグッデンを呼び、外相クライルスハイム男爵とともに会談する。この席でグッデンは、王を原発的に狂っていると断言した。そして、十分な文書資料が提供されるなら鑑定書を書く用意があると申し出た。

この時点で、結論は先に決まっていたことになる。

同じころ、ミュンヘン第一地方裁判所には官房金庫を相手取った支払い請求が次々と持ち込まれていた。五月には最初の期日が入る。新聞は王の借金を大々的に書きはじめ、政府はもう記事をもみ消そうとしなかった。居酒屋では王の奇矯な生活が肴になり、根も葉もない噂が飛び交った。同時に、何年も放置してきた閣僚への批判も高まっていた。

四月六日、王はビスマルクに手紙を書いて助言を求めている。宰相は十四日付で、閣議を通じて議会に諮るべきだ、と返した。四月十七日、王はその通りの指示を出した。閣僚たちはこの命令を実行しなかった。議会に出せば政権交代の引き金になりかねない、というのが本音だったとも言われる。

五月五日、閣僚は王に書面で通告する。議会が金を出す見込みはない、厳しい節約と、軽騎兵の解任と、ミュンヘンへの帰還を求める。王は罵倒で応じ、官房書記官を罷免し、腹心の側近と理髪師に、金を用意してくれる別の大臣を探せ、と命じた。

この反応を見て、五月半ば、閣僚たちは記録に残さない会議で決断した。摂政を立てる。そのために憲法上必要なのは、王の統治不能を確定させることだけだ。

六月八日の鑑定書、六月九日の決定、六月十日の宣言

六月一日、より格の高い人物にも証言が求められた。失寵していた元厩舎長リヒャルト・ホルニヒ、元官房書記官のルートヴィヒ・アウグスト・フォン・ミュラーとフリードリヒ・フォン・ツィーグラーが書面を提出する。ヘッセルシュヴェルトとヴェルカーは、グッデンとクライルスハイムの立ち会いのもとで再度尋問された。

六月七日、ルイトポルト公は閣僚を招集する。彼はまだ迷っていた。甥を退位させることはできないのか、と問い、クライルスハイムは、強制が必要になるし、精神病者の退位文書は無効だ、と答えた。そこへルッツとグッデンが加わり、ルイトポルトは押し切られた。それでも彼は、精神科医が王を直接診察してはどうかと持ちかけている。ルッツが反対し、証人に宣誓させる案にすり替わった。

六月八日、鑑定書提出。六月九日、閣議はルイトポルト公を摂政に立てることを決定し、摂政宣言が署名された。一七五六年のバイエルン民法典の禁治産規定を援用して、王の私財には二人の後見人が任命された。ただし禁治産宣告そのものは、公式には告知しないことになった。表沙汰にすると、法的な粗が見えるからである。

そして六月十日未明、第一次国家委員団がノイシュヴァンシュタインに向かう。ここから、事態は喜劇になる。

六月十日午前三時、ホーエンシュヴァンガウ発の茶番

委員団の顔ぶれは重い。外相クライルスハイム男爵が率い、後見人として帝国参議テリング・イェッテンバッハ伯と厩舎長マクシミリアン・フォン・ホルンシュタイン伯、カール・テオドール・フォン・ヴァッシントン中佐、枢密顧問官ルンプラー博士、そして医師としてグッデンとその助手フランツ・カール・ミュラー、さらに看護人四名。王をノイシュヴァンシュタインからリンダーホーフへ移し、医師の監督下に置く手筈になっていた。

彼らはホーエンシュヴァンガウで夜食をとってから城へ向かった。その献立が記録に残っていて、これがまた笑えない。

コンソメ、鱒のオランダ風、鶏のマレンゴ風、フォアグラのテリーヌ、鹿のもも肉のロースト、アスパラガス、ラズベリーのバニラクリーム。飲み物はシャンパン十本、バイエルンビール四十マス。

一国の君主を捕らえに行く前夜に、これである。当然、一行の何人かは仕上がっていた。

ところが情報は漏れていた。御者のフリッツ・オスターホルツァーが厩舎から駆け上がって王に急報した。王は地元の憲兵と消防団を招集し、城門を固めさせる。午前三時半、王は寝室のバルコニーから、近づいてくる一団を見下ろしていた。芝居に詳しいこの王は、侍従にこう言ったという。この件は、失敗した芝居のように見える。

城門の前で、十人の憲兵が委員団を迎えた。陛下の名において、何人も城に入ることは許されない。委員団は交渉を試み、摂政公の書面を突きつけ、もみ合いになった。その最中に、持参していたクロロホルムの瓶が割れた。

捕らえに来た側がクロロホルムを持っていた。この一点だけでも、後世の陰謀論には十分な燃料になる。

さらにそこへ、この動きを嗅ぎつけた男爵夫人シュペラ・フォン・トルフゼスが現れる。彼女は傘を振り回して委員たちを追い散らし、国王万歳と叫んだ。夜明けの山城の門前で、傘を持った貴婦人に大臣たちが追い立てられている。

王は委員団を逮捕させ、ノイシュヴァンシュタインの門楼に監禁した。このとき王が鉛筆で書いた指示が残っている。いちばん悪いやつらは縛れ。ホルンシュタインと大臣。猿ぐつわをかませろ。全員をひどく殴らせろ。丈夫な縄で縛って、血が出るまで鞭打たせろ。

命令は実行されなかった。午後一時ごろ、正式な摂政宣言が届き、捕虜たちは解放される。

王の最後の手紙は、あまりに筋が通っていた

同じ日、王は従弟のルートヴィヒ・フェルディナント公に手紙を書いた。長らく所在不明で、二〇一六年になってヴィッテルスバッハ調整基金が一族から入手し、バイエルン州立文書館の秘密家門文書館に収められた。王の生涯最後の手紙とされる。

最愛の従弟よ、字が汚いのを許してくれ、大急ぎで書いている。今日どれほど前代未聞のことが起きたか考えてみてくれ。今夜、厩舎から急いで者が上がってきて報告した。何人かの人間が、恐ろしいことに大臣と私の宮廷役人の一人まで含めて、こっそり到着し、私の馬車と馬を私の背後で連れ去るよう命じ、私をリンダーホーフへ強制的に連れて行こうとした。明らかにそこに監禁するためだ。神のみぞ知る、退位を強要するためだろう。要するに恥ずべき陰謀だ。こんな犯罪の背後に誰がいるのか、おそらくルイトポルト公だ。憲兵と消防団が勇敢に立ちはだかってくれたおかげで、とりあえず阻止された。恥ずべき反逆者どもは逮捕した。このことは当面、君の胸にしまっておいてくれ。しかしこんな破廉恥がどうして可能なのか。私について金をばら撒いて意図的に流されている噂、いわゆる病気の話、一音節も真実ではないのだが、それは前にも書いた通りだ。ひどすぎる。この悪意の深淵に光を当てなければならない。

この手紙が効いてくるのは、文面が明晰だからだ。

王は自分の身に何が起きつつあるかを正確に把握し、原因を推測し、対抗策を人に依頼している。前日に「不治の偏執病で判断力が崩壊している」と診断された人間の文章としては、あまりに筋が通っている。歴史家ゲルハルト・イムラーがこれを小さなセンセーションと評したのは、そのためだ。

六月十一日、王が動かなかった一日

十日の午後、翼側副官アルフレート・フォン・デュルクハイム・モンマルタン伯が電報で呼ばれて到着した。彼が王に会って驚いたのは、精神の異常をうかがわせる言葉が一つも出てこなかったことだった。王は憤っていたが、話は通じていた。

連中は今日にも私を襲うだろう。私は狂人ではない。なぜ縛る必要がある。グッデンの命令で縄と拘束衣が用意されていると聞かされた王は、こう続けた。狂人として扱うことはできないはずだ。これは全部、金の問題にすぎない。ここのテーブルの上に誰かが数百万マルク置いてくれたら、それでも私を狂人扱いするかどうか見てみたい。

デュルクハイムは、ただちにミュンヘンへ行って民衆に直接訴えるよう進言した。バイエルンの田舎では王は圧倒的に人気があった。首都に姿を現して演説すれば、状況はひっくり返った可能性が高い。チロルへ逃げる案も出た。

王は、どちらもしなかった。理由がまた彼らしい。私は公衆の前に出るには、あまりにひどい顔をしている。

四十歳の王は、若いころの美貌をすっかり失っていた。甘いものばかり食べ続けたせいで歯はほとんど残っておらず、体重は増え、頬は落ちくぼんでいた。人前に出ることへの恐怖は、この時点でほとんど病的な水準に達していた。皮肉なことに、この決定的な瞬間に目的をもって行動できないこと自体が、後世の歴史家によって「鑑定書の主張を王自身が裏づけてしまった証拠」と読まれることになる。

デュルクハイムには摂政公から、ただちにミュンヘンに出頭せよ、さもなくば反逆者とみなす、という命令が届いた。王は引き止めたが、最後にはこう言った。君が戻らなければならないことは理解する、でなければ君の経歴と将来が失われる。

デュルクハイムは到着したミュンヘンで実際に逮捕され、反逆罪で投獄された。手続きの法的根拠が怪しいことと、軍の士気に与える悪影響をビスマルクが指摘したため、まもなく釈放され、手続きも打ち切られている。

その日の午後、王は毒を求めた。自分の命を絶つために。

十一日午後二時、ミュンヘンから第二次委員団が出発した。今度は政治家を外し、医師だけで構成されている。グッデン、助手ミュラー、憲兵隊長一名、看護人五名。汽車で十時間の行程だった。ノイシュヴァンシュタインでは、五人の侍従と理髪師一人を除く余分な人員が全員ミュンヘンへ呼び戻されていた。王は散歩に出たがったが、城を囲む政府側の憲兵がそれを許さなかった。

六月十二日、把手を外された馬車へ

深夜零時すぎ、第二次委員団がノイシュヴァンシュタインに到着した。今度は誰にも止められない。

見張りの憲兵が急げと促す。王が自殺を試みている、と。侍従のマイヤーが打ち明けた。もう何度も塔の鍵を要求している。おそらくあそこから飛び降りるつもりだ。鍵は紛失したと言ってごまかしている。

公式の記録によれば、このあと王に罠が仕掛けられた。塔の鍵が見つかったと伝えられ、酔っていた王は塔へ走った。そこで待っていたのがグッデンである。医師はこう告げた。陛下は四人の精神科医によって鑑定を受けられました。その所見により、ルイトポルト公が摂政に就任されました。私は陛下をベルク城へお連れするよう命じられております。それも今夜のうちに。陛下がお命じになれば、馬車は四時に出発いたします。

寝室へ連れ戻された王は、目の前の医師が誰であるかを認識した。十四年前、自分の手で任命した男だった。そしてこの夜、王は例の問いを発する。

どうして私を精神病だと宣告できるのか。あなたは以前に私を見たことも、診察したこともないではないか。

グッデンの答えが、会話の記録として残っている。陛下、それは必要ありませんでした。文書資料はきわめて豊富で、完全に証明的であり、圧倒的とさえ言えます。

午前四時、四台の馬車で出発。三台目に、扉の把手を外された車室に、王がひとりで座らされた。道中、ペイセンベルクとシュタインガーデンで馬を換える。九時四十五分、ヴァイルハイムとゼースハウプトのあいだの森で十五分の休憩。

ゼースハウプトでの最後の馬替えのとき、宿駅の主人の妻テレーゼ・フォーグルが王に水の入ったグラスを差し出した。

王は答えた。ありがとう、ありがとう、ありがとう。そしてテレーゼに何かを小声で囁いた。この囁きの中身が伝わっていないことが、のちに救出計画をめぐる憶測の種になる。

フォーグル家はこのグラスを長く保存し、こんな詩を添えた。波の墓に沈む前に、精神の夜に包まれて、彼はここから最後の一杯を飲んだ、その願いは叶えられた。そして一粒の涙が落ちた、それはグラスにとって真珠であれ。

十二時三十分、レオーニで最後に停車し、王のためにパンを買った。まもなくベルク城に到着する。

城は改装されていた。というより、即席の精神病棟に作り替えられていた。ドアの取っ手はすべて外され、扉には覗き穴が開けられ、窓には格子を入れるための穴が壁に打たれている最中だった。侍従は精神病看護人に入れ替わっている。

十三時三十分、昼食。宮廷料理人テオドール・ヒルナイスが献立を記録している。ライン鮭、じゃがいも、牛肉のグリーンピース添え、赤ワインの代わりに水。テーブルに置かれたのは刃を潰したナイフだけ。食器は秘密の伝言が貼られていないか検められた。

十五時ごろ、王は就寝し、深夜零時に起こすよう命じた。医師ミュラーがそれを禁じた。陛下には秩序をもたらさねばなりません、昼は昼、夜は夜としていただきます。

ベルクの村では憲兵が巡回していた。作家オスカー・マリア・グラーフの伝えるところでは、こんな触れが出されたという。本日より、日没後に路上に出ること、訪問すること、城壁の近くや上の公園の柵のあたりに姿を見せることを禁ずる。厳重に禁止する。

住民は従わなかった。湖には城の前を行ったり来たりする小舟が何艘も見えていた。グラーフはこう吐き捨てている。俺たちには口を閉じていろと言い、王様を片づけようというのか。こっそり、ならず者みたいに殺そうというのか。あの連中め。

王は零時には起こされなかったが、二十三時四十五分に自分で目を覚ました。衣服は与えられなかった。せめて靴下をくれ、寒い、と頼んでいる。パン一切れとオレンジを食べた。

六月十三日、聖霊降臨祭の日曜日

その日は寒く、しばしば土砂降りになった。夜明けは五時二分。王は例によって真夜中から起きていて、日の出を寝床で迎えている。天気からして、太陽そのものは見なかっただろう。対岸のペッキングの向こうに日が沈む前に、ルートヴィヒ二世とベルンハルト・フォン・グッデンはこの世にいなくなる。

六時十五分ごろ、王はグッデンを呼んだ。アウフキルヒェンの聖霊降臨祭のミサに出たいと申し出たが、却下された。

十一時、二人は最初の散歩に出る。看護人は残るよう求められた。湖上には一艘の小舟が浮かんでいて、乗っているのは元厩舎長リヒャルト・ホルニヒとランバルディ伯だった。二人は歩き、ベンチで休み、十二時十五分ごろ城に戻る。一九五三年に発表されたある新聞小説は、この散歩のときに漁師リードルが王に夜の脱出の合図を送ったと書いているが、裏付けはない。

午後、王は幕僚統制官ツァンダーと医師ミュラーと話した。ツァンダーが残した最後の会話の記録がある。私はルイトポルト公殿下の高潔さについて、必ず正しく処理されるであろうと申し上げた。すると陛下は、起きたことを見ればわかるだろう、たとえこの者たちがそれをしなくても、後に続く公たちがするだろう、と仰せられた。陛下は、自分が何もしないようにと講じられた予防措置について、繰り返し嘲笑された。

「それ」とは、王を殺すことである。

十六時三十分、夕食。料理人が七品を用意した。バンドヌードルと焼きソーセージ、魚のマヨネーズ和え、マッシュポテト添えの牛肉、いんげんと仔牛の胸腺、鹿のロースト、アスパラガス、デザートにチョコレートクリームとレモンアイス。飲み物はビール、五月ワイン二杯、ライン産ワイン三杯、アラック二杯、レヴァント産のアニス酒。最後にレモンアイスとコーヒー。

つまり王はしっかり酔っていた。身長一メートル九十一センチ、体重百キロ前後の巨漢が、である。

食事の最中、あるアメリカ人記者がグッデンにインタビューをしていて、興味深いことを伝えた。レオーニの居酒屋で、王が明日ミュンヘンに現れるという話が流れている、と。

そして王は、約束していた夕方の散歩を改めて求めた。

十八時三十五分、「看護人はついてきてはならない」

十八時三十五分。玄関で、グッデンは看護人マウダーに残るよう指示した。記録されている言葉はこうだ。看護人はついて行ってはならない。

規則は逆だった。自殺のおそれがあると自分で診断した患者を、単独で外へ連れ出してはいけない。しかも二日前に王は毒を求めている。周囲には王を熱狂的に慕う住民がいて、湖には小舟が浮かんでいる。それでもグッデンは看護人を置いていった。

なぜか。この一点が、殺人説の最大の入口になった。グッデンは陰謀の一味で、王を孤立させるためにわざと看護人を外したのだ、という筋書きである。

もっと穏当な説明もある。前夜、王は自分の措置の厳重さを嘲笑していた。数日間そばで観察したグッデンは、王が落ち着いており、危険はもう去ったと判断した可能性がある。実際、彼は死の数時間前、ミュンヘンの当局に「順調」という趣旨の電報を打っている。

二人は外套と傘を持って出た。宮廷料理人ヒルナイスは、来るはずのなかった夜食を仕込みながら、こう記している。天気は悪く、雨模様でかなり風が強い。ちなみにその夜食の献立は、コンソメ、胸腺入りオムレツ、アスパラガスサラダ添えのローストチキン、締めに杏のコンポートだった。

医師は王の左側を歩いた。二人は城の庭を南へ向かって歩いていく。

ここから先に、目撃者はいない。当事者は二人とも、一時間半後には死んでいる。

十八時五十分ごろ。王は外套と傘を脱ぎ捨てた。両方とも、のちに岸辺で発見される。上着も脱いだ。それから水へ入った、と考えられている。脱出のためだったのか、二日前に予告していた通り自ら死ぬためだったのかは、わからない。この日は悪天候にもかかわらず、湖には終日ボートが出ていた。外套を着たままの医師が、慌てて後を追った可能性がある。そして、争いが起きた。

十八時五十三分四十秒。王の懐中時計が止まった。ただし看護人マウダーは、この時計が三十分遅れていたと証言している。だとすれば実際の時刻は十九時二十四分ごろになる。

二十時六分二十五秒。グッデンの時計が、水の浸入によって止まった。

二つの時計のあいだには、一時間以上の開きがある。この差が、事態のややこしさを象徴している。二人は同時に水に入ったのではない。あるいは、どちらかの時計が止まったあとも、水面の上で何かが続いていた。

グッデンの死顔にはデスマスクが残っている。右の額の上に大きな瘤がある。顔にはひっかき傷。首には絞められたような痕。帽子はぐしゃぐしゃに潰れていた。爪が一枚折れていた。

六十二歳の小柄な医師と、四十一歳の泥酔した巨漢が、水の中で本気で揉み合ったとしか思えない痕跡である。ルートヴィヒ二世は左利きだった。左手で殴れば、相手の右額に当たる。

当直の憲兵ラウターバッハ、クリーア、レヒルは、その時点ですでに行方不明者の捜索を始めていた。

公園の南側には、真新しい馬車の轍が残っていた。誰が、何のために、そこに馬車を停めたのかは説明されていない。

二十二時三十分、ベルクからミュンヘンへ最初の電報が打たれた。陛下は六時半に医務参事官グッデン博士と公園に散歩に出られ、現在まで戻られず。さらなる命令を乞う。

そのすぐ後、水中から王の外套と上着が、互いに入れ子になった状態で見つかった。傘と帽子も。

二十三時十分。王の御用漁師ヤーコプ・リードルが、城の管理人フーバー、精神科医ミュラーとともに、湖に漂う二つの遺体を発見した。前王はシャツ一枚。完全に着衣のままのグッデンの遺体が、テーブルの長さ一つぶんほど後ろに浮いていた。水深は、腰の高さにも満たない場所だった。

長時間の蘇生措置が行われた。零時、フランツ・カール・ミュラーが正式に二人の死亡を確認した。

検死――肺には水がなかったのか

遺体は六月十四日、ベルクで数時間、地元住民に公開された。これは異例のことだ。通常は宮廷と政治のエリートが最初に遺体に接する権利を持つ。だがこのときは、自殺への疑念と民衆の動揺のほうが重かった。実際にミュンヘンでは、王の死の報が伝わった夜のうちに群衆が街に出て、内閣が王を殺したという声が公然と上がっていた。

十四日の午後には、ミュンヘンから来た高位の委員会が死亡の記録を取った。十七時七分に委員会は帰り、十九時半ごろ、彫刻家によって王のデスマスクが取られた。同じ日の二十時、宮廷石膏成形師アドルフ・マルクが右手の型を取っている。石膏像に貼られた当時のラベルにこう書かれている。バイエルン国王ルートヴィヒ二世陛下の右手の石膏鋳型、一八八六年六月十四日夜八時、ベルク王城にて、王室石膏成形師アドルフ・マルク、ミュンヘン。夜九時、遺体はいかなる宗教儀式もなしに、静かにミュンヘンへ運ばれた。

解剖は六月十五日、ミュンヘンのレジデンツで行われた。執刀はミュンヘン大学の解剖学者ニコラウス・リューディンガー。時刻は午前八時から十三時十五分まで。高級官僚と医師からなる立会人がついた。

そしてここに、この事件最大の争点がある。

伝えられている所見のうち、疑問を呼ぶものが三つある。第一に、王の遺体には外傷らしい外傷がなかったこと。膝のわずかな擦り傷を除けば、目立つ傷はない。銃創も、刺し傷もない。第二に、肺に水が入っていなかったとされること。第三に、死因が明快に書き切られていないこと。

第二の点が一番よく引かれる。溺死の典型的所見は、肺に水が入り、気道に泡沫が生じることだ。それが無いのなら、水を吸い込む前に死んでいたことになる。ここから「湖に入ったときにはすでに死んでいた」「銃で撃たれていた」という推論が伸びる。

ただ、反論も古くからある。溺水時に喉頭が痙攣して気道を塞ぐ乾性溺死なら、肺に水は入らない。摂氏十二度の水に泥酔した肥満体の男が全力で駆け込めば、冷水刺激で不整脈や心停止が起きる可能性も高い。つまり「水を飲まずに水中で死ぬ」ことは、医学的に十分ありうる。

一方、解剖には別の発見もあった。王が生後七か月のときに罹患した化膿性髄膜炎の痕が前頭葉に瘢痕として残っており、前頭側頭部の萎縮も見られた。頭蓋が異様に小さいという記載もある。この所見は当時のグッデンは当然知らない。のちに精神科医ハンス・フェルストルらがヴィッテルスバッハ家の秘密文書を調べて注目し、器質性の疾患、つまりピック病すなわち前頭側頭型認知症の可能性を指摘することになる。

グッデンのほうの検死はさらに厄介だ。顔の複数のひっかき傷、右目の上の打撲、そして首の絞扼痕。ただし絞扼痕は公式の検分のあとで確認されたとされ、ここも記録の扱いが曖昧である。

そもそもこの解剖は、現代の司法解剖の基準を満たしていない。撮影も乏しく、現場保存の概念も薄く、政治的圧力のもとで行われた。だから「所見に矛盾がある」ことは、陰謀の証拠にも、単なる粗雑さの証拠にもなりうる。この両義性が、百四十年間このテーマを生かし続けてきた。

公式見解は、自殺だった

政府が流した筋書きはこうだ。廃位に打ちひしがれた王が湖で自ら命を絶とうとした。グッデンがそれを止めようとした。もみ合いになり、力の勝る王が医師を水中に押さえ込んで死なせ、その後、自分も溺れた。

この説を、単なる政府の言い分ではなく学術的に固め直したのが、一九八六年の没後百年に発表されたヴィルヘルム・ヴェープキングの報告である。

ヴェープキングは元検事で裁判官。ヴィッテルスバッハ家当主フランツ公の依頼により、バイエルン州の全公的文書に加えて、通常は非公開の秘密家門文書館の資料まで閲覧を許された。彼はそれらを現代犯罪学の基準で評価し、四百ページを超える大部の報告にまとめた。

結論は明快だった。ルートヴィヒとグッデンの死は第三者によって引き起こされたものではない。とりわけ、銃創による死は確実に排除される。王はほぼ確実に、かねてから抱いていた自殺の考えを、その日実行した。

自殺説を補強する材料もいくつかある。王は生涯を通じて何度も自殺の意思を口にしていた。婚約時代には結婚するくらいならアルプ湖に身を投げたいと言い、債権者が城を差し押さえるなら自殺すると脅していた。六月十日には毒を求めている。六月十三日昼には、たとえこの者たちがやらなくても後の公たちがやるだろう、と、自分の死を前提とした語り方をしている。

さらに、動機の問題がある。文書館員ゲルハルト・イムラーらが指摘する通り、六月十三日の時点で王はすでに禁治産宣告を受け、廃位され、摂政が立ち、内閣は目的を達していた。政治的に、彼はもう王手を掛けられた駒だった。ここでわざわざ殺す必要が、誰にあるのか。

それでも消えない四つの疑問

だが自殺説には、素朴だが強力な反論がある。

第一。泳げる男が、腰の深さで溺れるのか。若いころのルートヴィヒ二世は達者な泳ぎ手として知られていた。一メートル九十一センチの巨漢が、八十センチの水で溺死するというのは、直感に反する。もっとも、これには泥酔していた、冷水で心臓が止まった、四十歳の彼は若いころとは別人の体だった、という応答が用意されている。

第二。肺の水の問題。上述の通り、これは決定打にはならないが、疑問としては残り続ける。

第三。グッデンの傷。首の絞扼痕まで説明するには、水中での激しい格闘を想定しなければならない。自殺しようとしている人間が、止めに来た医師を絞め殺してから溺れる、という筋書きは、心理としてかなり奇妙だ。もちろん、パニックのなかで起きた偶発的な事態と見ることもできる。

第四。時刻の断層。王の時計が十八時五十四分、補正すれば十九時二十四分で止まり、グッデンの時計が二十時六分で止まる。この一時間から二時間、二人はどこで何をしていたのか。二人ともすぐ水に沈んだのなら、時計の停止時刻がここまで離れる理由がない。

そしてもうひとつ。ヴェープキングが依拠した資料そのものが、いまだに完全公開されていないという構造的な問題がある。

ヴィッテルスバッハ家の秘密家門文書館は、バイエルン州立文書館の中にありながら、閲覧には当主個人の許可が必要とされる。研究者ハインツ・ヘフナーは、この閲覧制限が早くから育った伝説の花束を咲かせ続け、歴史的真実の探究を妨げてきた、と書いている。棺の開封要求も、家は一貫して拒んでいる。理由は死者の安息を尊重するというもの。理屈としてはまっとうだが、疑う人間を納得させる材料にはならない。

脱出計画説――湖上で待っていた舟

自殺説と殺人説のあいだに立つのが、脱出計画説である。王は死のうとしたのではなく、逃げようとしていた、という筋書きだ。

ノイシュヴァンシュタインで自分が精神病と宣告されたと知ったとき、王は翼側副官デュルクハイム伯とともに脱出計画を練り始めた、とされる。デュルクハイムは即座に協力者と連絡を取った。ゼースハウプトの宿駅の女主人アンナ・フォーゲルが、王の馬車の通過をフェルダフィングにいるエリーザベト皇后に通報する役。オイラスブルクのオイゲン・ベック・フォン・ペッコツ男爵が、湖を囲むレオーニ、アンマーラント、アンバッハ、ゼースハウプトの各地に逃走用の馬車を配置する役。そしてベルクの漁師ヤーコプ・リードルが、城の公園の岸辺で舟を出し、王をいずれかの馬車まで運ぶ役。

この説が完全な空想でないのは、周辺の事実が妙に揃っているからだ。

オーストリア皇后エリーザベトは、まさにその数日間、対岸フェルダフィングのホテル・シュトラウホに滞在していた。彼女は王の従姉であり、宮廷を嫌って逃避行を繰り返す点でも同類で、王が唯一心を許した女性だった。ポッセンホーフェンは彼女の実家である。リードルはそれ以前から、王の秘密の手紙を舟で対岸のエリーザベトへ運ぶ役をたびたび務めていた。

ベルク城では、王が精神病者として扱われる準備が整えられていた。だが王に忠実な使用人たちは、皿の裏に紙を貼りつけて計画を伝えることに成功した、と言われる。

そして十三日の夕方、王は外套と傘を投げ捨てて水へ走った。

この説の弱点も明白だ。もし脱出計画が本当にあったなら、なぜ王は十日と十一日に、はるかに現実的な選択肢を両方とも拒んだのか。ミュンヘンへ行く。チロルへ逃げる。動ける時に動かなかった人間が、監視下の三日目に泳いで逃げようとしたというのは、順序として不自然である。

銃殺説――上着の弾痕をめぐる長い物語

殺人説のなかで最も広く語られてきたのが、銃殺説だ。

骨格はこうである。湖岸には脱出を助けるための舟が待っていた。王が水に入り、舟に手をかけたその瞬間、岸の茂みから銃声が響いた。王はその場で崩れ落ちた。漁師は恐慌をきたして遺体を水に押し込み、自分の小屋へ漕ぎ戻った。証人となってしまったグッデンも岸で撃たれた。あるいは絞められた。そして二十時ごろ、実行側が医師にひっかき傷をつけ、二つの遺体を四十メートルほど北の水中に投げ込んだ。

これを支える証拠として繰り返し挙げられてきたのが、次の四つである。

ひとつ目は、シュタルンベルクの公医ルドルフ・マッグをめぐる話。マッグが王の遺体を検分し、背中に二つの銃創を見つけたが、当局に沈黙を強いられた、という筋書き。その告白文書は娘アンナが死去した際に散逸したとされる。

ふたつ目は、上着の弾痕。これは後で詳しく書く宣誓供述の話になる。

三つ目は、王の衣類が焼却されたという証言。ベルリンの研究者ペーター・グロヴァシュが伝えるところでは、一九五〇年にフェルディナント公が死去した後、ミュンヘンのニュンフェンブルク宮殿の一角で、銃弾で損傷した王の衣服が焼かれた場面を目撃した男性の父親がいたという。当時宮殿に住んでいたという女性の証言もこれを裏づけているとされる。

四つ目は、画家ヘルマン・カウルバッハが死の直後に描いたとされる王の肖像。美術史家ジークフリート・ヴィッヒマンは、この絵と、彼が一九八七年にケルンの競売でヴィッテルスバッハ家と競り合って落札したという王の侍医シュライス・フォン・レーヴェンフェルトの遺品を根拠に、肺への銃創を主張した。

問題は、どれも実物が手元にないことだ。マッグの告白文書は失われ、王の上着は焼失し、日記は消え、重要書類は安全のため海外の文書館に分散されたと説明される。銃殺説は、ほとんど「かつて存在した証拠についての証言」で組み立てられている。

さらに、常識的な反証もある。解剖の場には多数の立会人がいた。背中に二つの銃創があれば、それを全員に隠し通すのは難しい。もちろん陰謀論の側は報告書は意図的に偽造されたと言う。この論法が始まると、どんな記録も反証にならなくなる。

グーグルメンナーが主張するプロイセンの狙撃手が風銃を使ったという説にも、実証的な反論がある。風銃は静かだというのが説の前提だが、ミュンヘンのドイツ狩猟博物館が二〇一一年まで展示していた実物をドキュメンタリー撮影のために射場で試射したところ、発射音は九十デシベルを超えていた。遠くからなら枝の折れる音と間違えるかもしれないが、無音ではない。城の敷地を警備していた人間は全員、銃声は聞いていないと断言している。

そしてもう一点、動機の壁がある。六月十三日の王は、すでに廃位され、監禁され、財産の後見人まで立てられていた。政治的には無力化が完了していた。それでも殺す理由があるとすれば、彼が生きているかぎり復権の可能性が残るから、という理屈になるが、これは推測の域を出ない。

証言その一――少年が見た、灰色のロデンコート

二〇〇七年、この事件に新しい目撃者が現れた。ミュンヘン在住の元銀行員デトレフ・ウーターメーレ、当時六十歳。彼は宣誓供述書を提出した。

供述の中身はこうである。

一九五〇年代のある午後、十歳だったウーターメーレは、母ゲルトルートと妹とともに、ミュンヘンのニュンフェンブルク宮殿近くのリヒルデン通りにあるアパートを訪ねた。住んでいたのはヨゼフィーネ・フォン・ヴルブナ・カウニッツ伯爵夫人。ヴィッテルスバッハ家のアーダルベルト系の資産管理を長年務めていた人物で、母の親しい友人だった。

コーヒーとケーキが済んだあと、伯爵夫人は客たちを引き寄せ、声をひそめてこう言った。皆さんは今から、元国王ルートヴィヒ二世のご一族の知らないところで、その死の真相を知ることになります。これから、あの方が亡くなった日に着ておられた外套をお見せします。

一同は暗い廊下の長持のところへ移動した。伯爵夫人は中から灰色のロデンコートを取り出し、光にかざした。ウーターメーレの供述によれば、その背中には大きく離れた二つの銃痕が見えた。

彼が半世紀も黙っていた理由は、伯爵夫人がその場で口外を禁じたからだという。二〇〇七年の六月、王の命日にまつわる報道をまた目にして、ようやく研究者ペーター・グロヴァシュに打ち明ける決心をした。彼は書いている。私は宣誓のうえで、十歳のとき、両親と妹とともに、背中に二つの銃痕のあるバイエルン王ルートヴィヒ二世の外套を見たことを表明する。すでに亡くなっていた母ゲルトルートは、この場面を克明に記した書き物を息子に残していた。

この供述には、無視できない重みと、無視できない弱さが同時にある。

重みのほうは、伯爵夫人の立場だ。彼女はヴィッテルスバッハ家と姻戚関係にあり、資産管理まで任されていた。本物の遺品に触れられる位置にいた人物である。しかも晩年、彼女は一族と争っていた。復讐の動機があったとも読める。

弱さのほうは、もっと単純だ。十歳の記憶を五十年後に語ることの精度。伯爵夫人が客に怪談を披露して楽しんでいた可能性。そして、その外套に開いていたのが本当に銃痕だったのか、単なる虫食い穴だったのか、もはや確かめようがないこと。

一九七三年十二月、ヴルブナ・カウニッツ伯爵夫人は七十七歳で、夫とともに自宅の火災で亡くなった。外套は、その後の混乱のなかで行方不明になっている。

証言その二――漁師の沈黙と、その値段

ヤーコプ・リードルは、一八八六年六月十三日の夜、二十一歳だった。ベルクの漁師で、王の御用漁師であり、桟橋の番人でもあった。この事件で彼が果たした役割は、記録の上ではっきりしている。彼は捜索に加わり、城の管理人フーバー、精神科医ミュラーとともに、二つの遺体を発見した。

しかしベルクの地元に残る話は、そこで終わらない。

まず、遺体が発見された後の扱いが妙だとされる。遺体はすぐに城へ運ばれず、数時間、リードルの舟小屋に置かれた。現在の住所でいえばゼー通り十一番地にあたる建物である。

次に、金の問題。リードルは一八九三年、湖に直接面したウンターベルクの土地に自分の家を建てた。若い漁師がどこからその金を得たのかは、地元でも長く語り草になった。彼はやがてベルクの村長にまでなっている。

そして、沈黙。リードルは生涯、あの夜のことを一言も語らなかった。伝わっている台詞は、たったひとつだけである。俺をハールに送るのは簡単だっただろうよ。

ハールというのは、ミュンヘン近郊にある精神病院の所在地だ。つまり、余計なことを言えば精神病者として収容するぞ、と脅されていた、という含みになる。

彼の家族を通じて伝わったとされる話がある。リードルは学校で使うノートに、あの夜の記憶を書き残していた。未亡人パウラがそれを、再婚相手の漁師頭マルティン・メルトルに話した。メルトルはさらに、「ルートヴィヒ二世記念碑再建協会」の創設者アルベルト・ヴィーデマンに内容を伝えた。ただしヴィーデマン自身はノートの実物を見せてもらえていない。メルトルが一九六一年ないし一九六三年に亡くなって以降、そのノートは行方不明である。ノートはリードルの墓の中にあるのではないか、と言う者もいる。

アウフキルヒェンにあるリードルの墓は、いまも王が殺されたと信じる人々にとって、一種の巡礼地になっている。

ノートの一頁だけがヴィーデマンに渡され、筆跡鑑定に回されたという話も伝わる。そこに書かれていた内容は、王が舟に片足をかけた瞬間、岸から一発の銃声が響き、王はその場で絶命した、という趣旨だったとされる。

ただ、この一連の話をどう扱うかは難しい。伝聞が三段階、四段階と重なっている。物証はない。リードルの家の資金源も、真面目に働いた漁師が七年かけて家を建てたと考えれば説明がつく。それでも「事件の第一発見者が、生涯口を閉ざし、その後に不自然な財を成した」という構図そのものが、人の想像力に火をつけ続けてきたのは間違いない。

証言その三――司祭が呼ばれた午後

もうひとつ、時系列を根本からひっくり返しかねない話がある。

バイエルンの王党派団体の代表シュテファン・イェッツが二〇一一年に、ある郷土暦の記事から見つけたとして紹介したものだ。

それによると、当時アウフキルヒェンの司祭だったミヒャエル・ベックは、一八八六年六月十三日の午後の段階ですでにベルク城に呼ばれていた。ベッドに横たわり、喉を鳴らして苦しんでいる王に、終油の秘跡を授けるためである。ところがベックは周囲の人間に妨げられ、儀式を最後まで行うことができなかった、というのである。

公式の記述では、王の遺体が湖から引き上げられたのは二十三時すぎだ。もしこの話が本当なら、王は夕方の散歩の前、あるいは散歩の途中の早い段階で瀕死の状態にあり、湖で発見されたという話そのものが作り物になる。

同じ司祭ベックについては、もうひとつ別の伝聞もある。彼が王の顔つきから溺死説に疑問を呈した、というものだ。

この証言をどう評価するか。まず出典が郷土暦の記事であり、一次史料からの距離が遠い。次に、司祭が終油に呼ばれたという記録が公文書に見当たらない。だが逆に言えば、この事件では公文書のほうが信用されていない、という前提で議論が進んできた。だからこの種の話は否定もされないまま、王党派のあいだで語り継がれる。

クロロホルム説も、司祭がらみで伝わっている。作家ルドルフ・ライザーは、当時のアウフキルヒェンの司祭がこう言ったとしている。何もかも麻酔薬の臭いがした。グーグルメンナーはさらに、ミュンヘンの補佐司教ヨハネス・ノイホイスラーが一九七〇年六月十三日の説教で王は麻酔のなかで死んだと述べたと主張している。六月十日の城門前で割れたクロロホルムの瓶が、この説の土台にあるのは明らかだ。

証言その四――皇后と、村人と、料理人

事件の直後に語られた言葉のなかで、いちばん有名なのは対岸にいた女性のものである。

オーストリア皇后エリーザベト、通称シシィ。彼女はまさにその数日間、フェルダフィングのホテル・シュトラウホに滞在していた。従弟の死を知った彼女は、公式の説明を一切信じなかった。彼女が残したとされる言葉は、バイエルンの方言でこうだ。あいつらが殺したんだ。

彼女はまた、こうも言っている。王は狂ってなどいなかった。ただ夢の世界に生きる変わり者だっただけだ。

もうひとりは村の目線。作家オスカー・マリア・グラーフは、六月十二日にベルクで出された日没後の外出禁止の触れに対する住民の反応を書き留めている。俺たちには黙っていろと言い、王様を片づけようというのか。こっそり、ならず者みたいに殺そうというのか。あの一味め。

つまり、王がまだ生きているうちから、村ではこれは殺しになると話されていた。殺人説は死後に生まれたのではない。死ぬ前日から、すでに村の空気のなかにあった。

三人目は、いちばん近くにいた人間のひとり。宮廷料理人テオドール・ヒルナイスは、少年のころから王の厨房で働き、後年に回想を残した。彼が記録した最後の献立、王が食べた七品の夕食と、ついに供されなかった夜食のおかげで、我々は六月十三日の城内の空気を分単位で想像できる。天気は悪く、雨模様でかなり風が強い、という彼の一行が、この事件でもっとも信用できる観測記録かもしれない。

ミュンヘンでの反応も激烈だった。死の報が広まった夜、市内で群衆が集まり、内閣に対する抗議行動が起きた。王が殺されたか、あるいは自殺に追い込まれたか、どちらにせよ内閣の責任だという見方は、外交団のなかにまで浸透していた。この騒ぎは数日続いた。

政府は情報統制で応じた。関係者には沈黙を義務づけ、報道には検閲を敷いた。王の死後に批判的な分析を書いた新聞記者は容赦なく訴追され、自由刑を科された。この弾圧が、皮肉にも「隠したいことがあるからだ」という確信を国民に植え付けることになる。

葬儀――静かに済ませるはずが、二・五キロの行列になった

遺体は六月十五日から十六日にかけてレジデンツの宮廷礼拝堂に安置され、六月十九日に埋葬された。

政府は当初、この葬列をできるだけ静かに済ませたかった。死から二日たっても、通常規模の葬列を出すかどうかすら決まっていない。ようやく決まった当初の経路は、レジデンツからマリエン広場を経て聖ミヒャエル教会まで。歴代バイエルン君主の葬列と比べて、距離にして三分の一以下という異例の短さだった。要するに、人目に触れる時間を最小化したかったのである。

これに待ったをかけたのが、ミュンヘン警察本部と管区政府だった。この経路では群衆をさばけない、規制線が破られて騒乱になる、と警告したのだ。葬列の二十四時間前になって、経路が変更・公表された。レジデンツからブリエンナー通り、ケーニヒス広場、アルツィス通り、ゾフィーエン通り、カールス広場、ノイハウザー通りを経て聖ミヒャエル教会へ。距離は二・五キロメートル、当初案の三倍近くになった。

外国の君主家と政府の代表が公式に参列したのは、バイエルン王の葬儀としては初めてだった。ドイツ皇太子フリードリヒ、オーストリア皇太子ルドルフらが列に並んだ。

埋葬先も意味深長だ。当初はマクシミリアン一世やマクシミリアン二世と同じテアティーナ教会になると見られていた。実際に選ばれたのは聖ミヒャエル教会。理由は宮廷教会の地下墓所が満杯だからと説明されたが、これは口実だった。ルートヴィヒ二世と、のちの弟オットーだけが、歴代の系列から外された場所に置かれたのである。

心臓は、ヴィッテルスバッハ家の伝統に従って別に葬られた。一八八六年八月十六日、防腐処理された心臓が亜鉛の容器に収められ、金メッキ銀製のハート型の壺に納められて、六頭立ての馬車でミュンヘン東駅へ運ばれた。全市の鐘が弔鐘を鳴らし、人々が帽子を取り、祈りながら行列の後を歩いた。

壺の高さは六十センチ、ルイ十四世様式の装飾。前面に王のモノグラム、背面にバイエルンの紋章、両脇にアルペンローゼとエーデルワイスの束。王が愛したものの意匠である。アルテッティングの恵みの礼拝堂の八角堂に、両親の心臓と並べて安置された。礼拝堂の入口にはラテン語でこう刻まれた。バイエルン王ルートヴィヒ、一八四五年ミュンヘンに生まれ、一八八六年ベルクにて没す。その骨はここからミュンヘンへ、心臓はこの礼拝堂へ、魂は天へ。

死の七週間後、城の扉が開かれた

王は生前、はっきりと言っていた。ノイシュヴァンシュタインには誰も立ち入らせるな、と。彼にとってあの城は住居ですらなく、聖杯城であり、私的な神話の内部だった。

その願いは、死後七週間で反故になった。

一八八六年八月一日、ノイシュヴァンシュタイン城は入場料を取って一般に公開された。同時に、この城の名前が正式に「ノイシュヴァンシュタイン」と定められる。生前は「ホーエンシュヴァンガウの新城」などと呼ばれていて、いまの名がついたのは死後なのだ。八月五日付で最初のガイドブックが発行されている。

最初の八週間だけで、およそ一万八千人が押し寄せた。摂政ルイトポルトの命により、建築家ユリウス・ホフマンが一八九〇年から一八九二年にかけて最低限の工事を続行し、婦人館と四角塔を完成させた。主塔と礼拝堂の建設は見送られ、外部装飾も内装も、当初構想の簡略版にとどめられた。あの城が「未完成のまま観光地になった」というのは、こういう意味である。

王の遺産管理人たちは、一八九九年までに建設債務の帳尻を合わせてしまった。第一次世界大戦までの期間、ノイシュヴァンシュタインはヴィッテルスバッハ家にとって安定した収益源になり、王の城群はおそらく一九一四年以前の王家最大の収入源だった。

数字だけ追うと、この転換の皮肉が際立つ。一九三九年の入場者は約二十九万人。百万人を初めて超えたのは一九八〇年。一九九〇年には百四十二万五千人を超えて過去最高を記録した。近年も年間百三十万から百四十万人前後で推移し、夏の最盛期には一日六千人が入る。一八八六年の公開以来の累計来訪者は六千万人を超えた。バイエルンの城群全体では年間およそ五百万人が訪れる。

つまり、王を破産に追い込み、廃位の口実になった三つの城は、彼の死後、バイエルンでもっとも稼ぐ資産になった。城のために国を傾けたと非難された男が、城で国を潤している。ディズニーランドの城のモデルとされる白亜の建物は、この転倒の上に立っている。

ちなみにノイシュヴァンシュタインは、外見こそ中世風だが、中身は当時の最先端だった。着工の一八六九年は日本でいえば明治二年。セントラルヒーティング、温水、自動回転式の焼き串を備えた厨房、工業用の鉄骨窓、各階の水道、電話、自動水洗のトイレ。この城は懐古趣味の産物であると同時に、十九世紀の技術の粋でもあった。二〇二五年には、ルートヴィヒ二世の宮殿群としてユネスコの世界遺産に登録されている。

湖に立つ十字架と、償いの礼拝堂

死の現場にも、記念物が三つ建った。

最初は、母である王太后マリーが息子のために発注した死者灯である。高さは七メートル近く、赤い石でネオゴシック様式に造られている。八角形の段状の基壇から溝彫りの柱が伸び、赤いガラスをはめたランタン状の冠部とブロンズの十字架で終わる。設計はユリウス・ホフマン。ゴシック体のブロンズ銘板が命日を刻み、四つの菱形の紋章が添えられている。落成式は一八八七年八月二十五日、王の誕生日にして名の日だった。費用は摂政ルイトポルトが負担した。もとは湖岸のすぐ際に立っていたが、後に現在の位置へ移された。

次に、一八八七年から一八九〇年のあいだに、岸辺の浅瀬の水中に素朴な木の十字架が立てられた。これがいわゆる追悼十字架である。ただしこの十字架が示すのは、死亡地点そのものではなく、王の遺体が引き上げられた場所だというのが通説だ。いまも同じ位置に、水から突き出すようにして立っている。

三つ目が、記念礼拝堂、通称ヴォティーフ礼拝堂である。

一八九六年、王の十周忌に摂政ルイトポルトが自ら礎石を据えた。設計はここでもユリウス・ホフマン。施工と内部装飾は息子のルドルフ・ホフマンが引き継ぎ、一九〇〇年六月十三日に献堂された。守護聖人は王の名の由来であるフランス王ルイ九世。建設費は弟オットー王の財産から出た。ノイシュヴァンシュタインで働いていた芸術家たちが動員され、初期ロマネスク様式に、ビザンティン風の意匠が重ねられている。

内部の図像は徹底してノイシュヴァンシュタインを引き写している。主後陣のフレスコには世界の審判者としてのキリストがマンドルラの中に座り、右手を祝福に上げ、左手にアルファとオメガの記された生命の書を持つ。この構図は、ノイシュヴァンシュタインの玉座の間の後陣の反復である。円蓋の中心には、バイエルンの守護者としての聖母が八つの司教区の紋章に囲まれて座る。主後陣の両側壁には、バイエルンの菱形紋と真珠と宝石をちりばめた王冠、そしてラテン語の銘。すべての穹窿肋には菱形の盾と、青いリボンの絡む月桂樹の花綱が描かれ、栄光ある治世を暗示する。

面白いのは、この建物の呼び名をめぐる綱引きだ。摂政と州政府にとって、これはあくまで記念礼拝堂だった。ところが世間はそう受け取らなかった。人々はこれを、摂政が王の死への関与を償うために立てた誓願、つまりヴォティーフだと解釈した。だからヴォティーフ礼拝堂という呼び名が定着した。管理する公爵家の行政組織は、いまも公式には記念礼拝堂としか言わない。

礎石が置かれるまでに十年かかったのも、この空気のせいだと説明されてきた。摂政と政府は、バイエルンの民衆の少なからぬ部分から王の死の共犯者と見なされていた。世論が鎮まるのを待つ必要があったのである。

礼拝堂は二〇一四年から二〇一八年にかけて大規模な修復を受けた。長年の湿気で壁に塩類が析出しており、慎重な除去が必要だった。この工事に対して、管理団体であるヴィッテルスバッハ調整基金はバイエルン文化財保護メダルを受けている。四月から十月まで見学が可能だ。

そして毎年、命日にもっとも近い日曜日には、王党派とヴィッテルスバッハ家の人々がここに集まり、記念ミサを行い、死者灯に花輪を捧げる。主催するのは「ルートヴィヒ二世――汝の忠実なる者たち」という団体である。この集まりの歴史は礼拝堂より古い。礼拝堂ができる前は、王が一八七〇年代半ばに建てさせたベルク城の王室礼拝堂に集まっていた。

黒い頭巾の男たち

追悼式の周辺に、ときどき異様な集団が現れる。全身を覆う黒い長衣に、目の部分だけ二つのスリットを開けた頭巾。手には黒い手袋。彼らはグーグルメンナー、あるいはグーゲルメンナーと名乗る。

もともとこの言葉は、葬列の随行者を指す普通名詞だった。十四世紀には、懺悔者が目の部分だけを残して全身を覆っていた。公開の贖罪を禁じた教皇の命令が発端で、イタリアやスペインから頭巾つきの喪服の習慣が伝わった。悲しみが深いほど顔を隠し、故人が裕福なほど多くの頭巾が雇われた。

一八一八年のバイエルン王国憲法は君主の葬列の構成を定めており、棺を載せた車の前を、常に二十五人のグーグルメンナーが歩くことになっていた。身分の低い使用人でも、頭巾をかぶれば匿名のまま公式の葬列に加われた、という説明もある。彼らは交差させた蝋燭と故人の紋章を掲げた。一八八六年のルートヴィヒ二世の葬列にも、一九二一年のルートヴィヒ三世の葬列にも、彼らの姿があった。

現在の秘密結社としてのグーグルメンナーは、おそらく一九九八年、王の百十二回目の命日に結集した。ルートヴィヒ二世自身が創設した「コアリツィオン」という王室秘密結社の後継を自任している。原型の組織は、報道と世論を陰から監視し、敵対者を抑え込み、近代の精神、つまり君主制の廃止に抗い、王の一種の親衛隊として働くことを任務としていたという。

彼らは滅多に人前に出ない。一九九八年十二月三十一日には、カバレット芸人ゲオルク・リングスグヴァンドルの芝居に抗議して、ミュンヘン・カンマーシュピーレの前に完全覆面で立った。一九九九年六月、百十三回目の命日には、覆面禁止条例をものともせず、松明を胸の前で交差させてミュンヘンの街を練り歩いた。二〇〇七年には、州首相を退いたばかりのエドムント・シュトイバーを「バイエルン州大統領」に推挙するよう求めた。標語はラテン語で、生の只中にあって我らは死に囲まれている、という意味の一句。

組織は騎士制度を模した七階級のヒエラルキーを持つ。ノヴィス、エキュイエ、シュヴァリエ、コマンドゥール、コネタブル、セネシャル、そして最高位のノートニエ。フランス語の階級名が並ぶ。入会はできず、任命されるだけだという。会員数は三桁だと自称し、加入儀礼と識別儀礼の内容を漏らせば最高刑が科されるとも言う。ある取材に応じた六十歳ほどの男性は、学者だった。ほかの二人も堅い職業に就き、家庭があり、郊外の一戸建てに住んでいた。

彼らの主張はただ一点、王は殺された、である。そしてその証明のために、聖ミヒャエル教会の地下にある棺を開けろと要求し続けている。

いちばん大胆な行動は二〇〇〇年五月十日に起きた。三人が金髪の女性を連れて地下墓所に降り、彼女が前室の番人の気を引いているあいだに、棺の下に装置を差し込んで下面を撮影した。彼らはインターネット上でこう発表した。棺に穴がある。

写真には確かに、棺の底に穴が写っていた。彼らはこれを、ヴィッテルスバッハ家が一九三〇年代にすでに遺体を棺から移した証拠だと解釈した。理由は、背中の二つの銃創が発覚するのを恐れたから。ヒトラーが政権を取ったあと、総統命令による棺の開封が現実味を帯びていた、王殺しが証明されればヒトラーはバイエルン自由州を政治的に強く圧迫できた、というのが彼らの論理である。

歴史家ペーター・グロヴァシュですら、この部分には距離を置いている。彼はグーグルメンナーが再構成した現場見取り図を証拠能力に乏しいとし、図は偽造されている可能性もあり、いかようにも解釈できると書いた。事実が神話に作り替えられている箇所がいくつもある、とも。もっとも、そのグロヴァシュ自身も時計の証拠と漁師の手記は歴史的に信憑性があるという立場だから、疑いのグラデーションは複雑である。

ヴィッテルスバッハ調整基金の資産管理責任者は、こう答えている。カトリックであるヴィッテルスバッハ家は、敬意の観点から棺の開封を拒否する。王の死者の安息は侵されてはならない。彼はこうも付け加えた。仮に棺を開けて調査し、殺害の痕跡が見つからなかったとしても、きっと誰かが新しい矛盾を見つけて、議論は最初から始まるでしょう。

聖ミヒャエル教会の地下墓所には、いまも一日およそ五十人が訪れる。花を供える者もいれば、棺に口づける者もいる。癒しの力があると信じられているのだ。棺の周りの床は擦り減っている。真鍮の板にはこう刻まれている。もっとも素晴らしき王ルートヴィヒに、一八八六年六月十三日。

法的には、この件はもう終わっている。ミュンヘンの上級検事はかつてこう述べた。新たな証拠が出てきても、告訴が出されても、検察はもうルートヴィヒの件を捜査できない。考えられるすべての被疑者が、とっくに死亡しているからだ。

精神医学の再審――そもそも診断は正しかったのか

一方、まったく別の戦線でも論争が続いている。そもそもグッデンの鑑定は正しかったのか、という問題だ。

批判の急先鋒がハインツ・ヘフナーである。ハイデルベルク科学アカデミーとマンハイムの中央精神保健研究所で五年にわたり、国内外の私的・公的な文書を渉猟した研究プロジェクトを率いた。フリッツ・ティッセン財団とロバート・ボッシュ財団の共同助成を受けた大がかりな仕事で、法制史の側からは元連邦憲法裁判所裁判官パウル・キルヒホフが加わっている。成果は二〇〇八年に『ある王が排除される』として刊行され、二〇一一年に第二版が出た。

ヘフナーの結論は厳しい。王が精神を病んでいたことを示す信頼できる根拠は、グッデンの鑑定書からも王の行動からも得られない。彼は王の状態を、社会恐怖を伴う築城熱と診断し直した。そして、グッデンが鑑定において公共の利害に迎合する用意があったことをほのめかしている。使用人が主人について信頼できる証言を提供できるはずがない、とも書いた。

これに正面から反論したのが、精神科医レギナルト・シュタインベルクらである。彼らの論点はこうだ。証人は社会的地位ではなく信憑性で評価されるのが法の一般原則であり、鑑定に用いられた証人はすべて宣誓している。当時の精神医学の知識と社会の枠組みのなかでは、四人の鑑定医が下した偏執病という診断は妥当だった。グッデンが王を追い落とす原動力だったとか、反逆的な意図を持っていたとかいう非難には根拠がない。

第三の立場もある。二〇〇七年、ハッカー、ザイツ、フェルストルは、王をスキゾタイプ(統合失調型)パーソナリティ障害と前頭側頭型変性の組み合わせとして再解釈する論文を出した。解剖で見つかった前頭葉の瘢痕と前頭側頭部の萎縮を根拠に、ピック病の可能性が語られるようになった。一八九二年に記載された疾患で、一八八六年にはまだ存在しない概念である。

面白いのは、この論争の当事者たちが「グッデンは王を診察しなかった」という一点だけは、誰も擁護していないことである。診断内容が当時として妥当だったかどうかは意見が割れる。だが手続きの正当性については、擁護派ですら「直接診察を行うことなど誰にも想像できなかった」という当時の状況説明に逃げるしかない。

ちなみに、ビスマルクの反応が記録に残っている。この鉄血宰相は鑑定書の信憑性を疑い、あれは王の屑籠から掻き集めたものだと評した。それでいて、閣僚たちの計画は黙認した。政治とはそういうものである。

なぜ看護人を外したのか、もう一度考える

ここからは、並べた事実をもう一段、押し込んで考えてみたい。

いちばん引っかかるのは、やはり看護人の件である。この一点さえなければ、事件は事件にならなかった。

グッデンは無能な医者ではない。ミュンヘン大学の精神医学講座を一八七四年から持ち、オーバーバイエルン管区精神病院を率いていた。当時のドイツ精神医学の第一人者のひとりで、脳解剖の分野でも業績がある。彼が「自殺のおそれのある患者を単独で外へ連れ出してはならない」という初歩を知らなかったはずがない。しかも王は二日前に毒を求めている。彼自身がその報告を受けていた。

考えられる説明は三つある。

ひとつ目は陰謀。彼は計画の一部で、王を人目のないところへ連れ出す役だった。この説を採るなら、彼自身が死んだことは計画の破綻か、あるいは口封じということになる。ただしこの筋書きは、彼が計画を知りながら、丸腰で、外套と傘だけを持って、泳げない体で、泥酔した巨漢の隣を歩いていったことをうまく説明できない。殺害現場に随行する共犯者としては、あまりに無防備すぎる。

ふたつ目は油断。三日間そばで観察して、王は落ち着いていると判断した。実際、王は十二日の夜も十三日の午後も、自分に対する厳重な警戒を嘲笑っていた。これを「もう危機は去った」のサインと読み違えた可能性は十分ある。しかも彼は死の数時間前、ミュンヘンへ楽観的な電報を打っている。この電報を、ヘフナーは嘘だと言い、反対派は悲劇的な誤診だと言う。どちらにせよ、この電報は「グッデンは本気で大丈夫だと思っていた」ことの証拠になりうる。

三つ目は、鑑定医から主治医への役割変更に伴う判断の歪みである。

書類の上で不治と断じた医者が、実際に本人に会ったとき、自分の診断を修正する動機はきわめて薄い。修正すれば、廃位の根拠が崩れ、自分の署名の重みが自分に跳ね返る。だから彼は、目の前の落ち着いた王を見ても「一時的に落ち着いているだけの偏執病者」として処理し続けたのではないか。そして「落ち着いているのだから、看護人はいらない」という、診断と矛盾する運用に流れた。

診断の硬直と、運用の緩みが同時に起きる。役所でも病院でもよくある光景だが、この場合は二人が死んだ。

二つの時計は、どちらの説にも使える

時計の問題も整理しておきたい。

王の時計は十八時五十三分四十秒で止まり、グッデンの時計は二十時六分二十五秒で止まった。看護人マウダーは王の時計が三十分遅れていたと述べており、補正すれば十九時二十四分ごろ。それでもグッデンの時計とは四十分以上の差がある。

素直に読めば、王が先に水に入り、グッデンが後から入った、あるいは、グッデンは一度水から出た、ということになる。もし二人が同時に格闘しながら水に沈んだのなら、こんな差はつかない。

ここで殺人説の側は、二十時ごろに実行側が遺体を移動させたと読む。ドイツ語圏で語られてきた再構成では、二十時前後に医師の遺体に事後的な傷がつけられ、二つの遺体が四十メートルほど北へ運ばれて投げ込まれた、という筋書きになっている。この読みだと、時計の差は作業の時刻を示すことになる。

自殺説の側にも読み方はある。王が水に入って時計が止まり、グッデンが岸で王を捕まえようとして格闘し、額を殴られ、爪を折り、帽子を潰され、それからようやく水に引き込まれた。そういう順序なら、四十分の差は説明可能な範囲に収まる。二十時六分という時刻は「グッデンの上着のポケットまで水が到達した瞬間」であって、彼が水に入った瞬間ではない。厚手の外套を着ていれば、時間差は生じる。

つまり時計は、どちらの説にも使える。証拠としては両刃なのだ。この事件の材料は、ほとんど全部この性質を持っている。

「もう殺す必要はなかった」は本当か

動機の問題も、もう少し丁寧に見たい。

殺人説に対する最強の反論は、イムラーらの「王はすでに詰んでいた」である。六月十三日の時点で、廃位は完了し、摂政は宣言され、財産には後見人が立ち、身柄は看護人つきの城に押し込められていた。政治的には無害化されている。ここで殺すのは、リスクだけが大きい。

しかし、この反論には穴もある。

禁治産は民事上の措置であり、公式には告知しないことになっていた。つまり法的な基盤は、実はかなり脆かった。もし王が城を抜け出してミュンヘンに現れ、民衆の前で「私は正気だ」と演説したらどうなるか。十日に王がそれをしなかったのは彼の性格ゆえであって、制度が阻んだからではない。デュルクハイム伯はまさにそれを進言していた。バイエルンの田舎では王の人気は圧倒的だった。十一日に住民が禁令を無視して湖に舟を出し、城の周りをうろついていた事実も、その空気を示している。

だから「もう殺す必要はなかった」は、事後の視点から見た評価にすぎない。当時の閣僚が、王の脱出と復権をどこまで恐れていたかは、また別の問題である。ゼースハウプトで王が宿駅の女将に囁いた言葉が伝わっていないこと、レオーニの居酒屋で王は明日ミュンヘンに現れるという噂が流れていたこと、アメリカ人記者がその噂をグッデン本人に伝えていたこと。これらを並べると、十三日の午後、ベルク周辺には確かに緊張があった。

同時に、脱出計画説にも同じ弱点がある。十日と十一日に、王は現実的な選択肢を二度断った。動ける状況で動かなかった人間が、監視下の三日目に泳いで逃げるという行動に出るのは、心理の順序として不自然だ。

ただ、十一日と十三日では条件が違う。十一日の王はまだ城の主で、公然と行動する選択肢があった。十三日の王は看護人つきの被収容者で、残された手段は駆け出すことしかなかった。追い詰められた人間の行動は、しばしば整合しない。

証言の質を、並べて比べておく

この記事で紹介した証言は、性格がまるで違う。

ウーターメーレの供述は、宣誓済みで、母親の書き残しという傍証があり、しかし対象は五十年前の十歳の記憶で、現物は失われている。リードルの手記は、本人が語らず、未亡人から再婚相手へ、そこから研究者へと伝わった三次情報で、現物は行方不明。司祭ベックの終油の話は、郷土暦の記事という出典から出てきたもので、一次史料の裏づけがない。エリーザベト皇后の言葉は、感情の記録としては確かだが、事実の記録ではない。

これらを「証言が三つも四つもあるのだから何かある」とまとめるのは、たぶん間違っている。むしろ逆で、これだけ長い時間にわたって、これだけの人数が関心を持ち続けたにもかかわらず、決定的な一次資料が一つも出てこなかった、と読むほうが正確だろう。ウーターメーレの供述が二〇〇七年に新証拠として大きく報じられたこと自体が、それまで新しい物証が皆無だったことの裏返しである。

ただし、証言が事実でなくても、証言が生まれる土壌は事実である。

伯爵夫人が客に「これが王の外套です」と言って灰色のロデンを見せたこと自体は、たぶん本当に起きた。彼女がヴィッテルスバッハ家と縁が深く、晩年に一族と争っていたことも事実だ。一九五〇年代のミュンヘンの上流の応接間で、王の死をめぐる囁き話が娯楽として消費されていたという光景は、それ自体が資料的価値を持つ。バイエルンにおいて、この事件が半世紀以上たっても「囁いて語るべき話題」であり続けたことの証拠なのだから。

この事件が生んだ、最大の逆説

ルートヴィヒ二世は、人に見られることに耐えられなかった。だから城に籠もった。だから夜に活動した。だから初日の公演を避けた。だから「私は公衆の前に出るにはひどい顔をしている」と言って、自分を救ったかもしれない選択肢を捨てた。

その人が死んで七週間後、彼の城は入場料を取って公開された。

年間百三十万人が、彼が誰にも見せたくなかった寝室と玉座の間を歩いている。累計六千万人。彼の死顔は石膏に取られ、ブロンズに鋳られた。右手も型を取られた。心臓は銀の壺に入れられて展示されている。棺は擦り減るほど人に触られている。

彼を狂王と呼んで排除した政府は、彼のつくったものを最大の収入源にした。彼をメルヘン王に仕立て上げたのも、彼を殺したと疑われた側の後継者たちである。一八八六年八月一日の一般公開は、たった七週間前まで「国庫を食い潰す狂気の証拠」とされていた建物を、一夜にして「国民的文化財」に読み替える作業だった。この読み替えの速さこそ、この事件でいちばん怖い部分かもしれない。

同じことは礼拝堂にも言える。摂政ルイトポルトは、甥の死の現場に礼拝堂を建てた。当人は記念礼拝堂と呼んでほしかった。だが民衆はヴォティーフ、つまり誓願の、償いの礼拝堂と呼んだ。名前をつけるのは建てた側ではなく、見る側なのである。管理団体がいまも公式に記念礼拝堂と言い張っているのは、その名づけの戦いが、百年以上たってもまだ終わっていないという意味だ。

誰も悪魔的ではないのに、人が消える

この事件がホラーとして機能する理由は、幽霊が出ることではない。誰も悪魔的ではないのに、人がひとり確実に消えるところにある。

ルッツは国を守ろうとした。リーデルは財政の常識を守ろうとした。ルイトポルトは最後まで迷い、直接診察を提案までしている。グッデンは当時の医学の水準では標準的な判断をしたと弁護しうる。ホルンシュタインは職務として証言を集めた。誰ひとり「王を殺そう」とは言っていない。

書類が回り、署名が集まり、汽車が出て、馬車が四台走り、扉の把手が外され、そして三日後に人が死ぬ。

この静かな連鎖こそが、この話をいつまでも不気味にしている。悪意ある一人の犯人がいれば、話はむしろ楽になる。犯人を裁けば終わるからだ。だが実際にあるのは、それぞれ合理的に振る舞った人々の集合と、その結果として湖に浮かんでいた二つの体だけである。

だからこそ、人は犯人を探す。プロイセンの狙撃手を、風銃を、憲兵を、陰謀を。犯人がいたことにしないと、この話は収まりがつかない。グーグルメンナーが黒い頭巾をかぶって棺を開けろと叫び続けるのは、たぶん真実の追求であると同時に、収まりのつかなさへの対処でもある。

なぜ百四十年たっても終わらないのか

この事件が特殊なのは、陰謀論が後から作られたのではなく、最初からそこにあったことだ。

村人は六月十二日の夜、すでに王を片づける気だと話していた。ミュンヘンの群衆は、六月十四日の未明にはもう街頭で内閣を非難していた。外交団のなかにさえ同じ見方があった。歴史家ハンス・ミヒャエル・ケルナーは、殺人の疑いが自然発生的かつ無統制に生じた原因を三つ挙げている。省庁の振る舞い、死をめぐる不可解な状況、そして政府による情報遮断。

そこに政府は検閲で応じた。記者を投獄した。文書を秘匿した。棺を開けさせなかった。閲覧に当主の個人的許可を必要とする文書館を維持し続けた。

この構図が、疑念を燃料に変える機械として完璧に機能してしまった。隠せば隠すほど、隠されているものが大きく見える。人が死者の安息と言えば言うほど、そこに何かがあるように聞こえる。ヴィッテルスバッハ調整基金の管理責任者が言った通り、たとえ棺を開けて何も出なくても、次の矛盾が発見されるだけだろう。

もうひとつ、この話が語り継がれる理由は、構造が寓話として強すぎることだ。

権力を持たない王がいる。彼は現実の政治から降りて、舞台装置のような城を建てる。金が尽きる。大臣たちが彼を邪魔になったと判断する。医者が呼ばれ、会いもしないまま診断書を書く。書類一枚で人生が終わる。三日後、その人は湖で死んでいる。医者も一緒に。

これは十九世紀バイエルンの話であると同時に、「専門家の権威」「診断という名の政治」「手続きの正当性」という、いまも生々しい問題の原型でもある。だから、精神医学者たちがいまだに専門誌で殴り合っている。だから、黒い頭巾の男たちが松明を持って街を歩く。

確定していることだけを、もう一度

最後に、事実として確定していることだけを並べておく。

一八八六年六月八日、四人の精神科医が署名した鑑定書が提出された。誰も王を診察していない。六月九日、閣議が摂政の設置を決めた。六月十日未明、第一委員団はノイシュヴァンシュタインの城門で憲兵に阻まれ、王の命令で門楼に監禁され、午後に解放された。同じ日、王は従弟に恥ずべき陰謀を訴える手紙を書いた。六月十一日深夜、医師だけの第二委員団が到着した。六月十二日午前四時、王は把手のない馬車でベルクへ運ばれ、十二時三十分ごろ到着した。六月十三日十八時三十五分ごろ、王とグッデンは看護人を伴わずに散歩に出た。王の時計は十八時五十四分に、グッデンの時計は二十時六分に止まった。二十三時十分ごろ、漁師と管理人と医師が、腰の深さの水に浮かぶ二つの遺体を発見した。零時に死亡が確認された。六月十五日の解剖で、王の遺体に明白な外傷はなく、肺には水がなかったと伝えられている。グッデンの遺体には額の打撲、顔のひっかき傷、首の圧迫痕、折れた爪があった。ヴィッテルスバッハ家は棺の開封を拒み続けており、秘密家門文書館の閲覧には当主の許可を要する。

わかっているのは、それだけだ。そして、それだけあれば十分に眠れなくなる。

王自身が残した言葉が、この事件のすべてを封じている。永遠の謎でありたい、自分自身にとっても、他人にとっても。

彼はその願いだけは、完璧に叶えた。

シュタルンベルク湖の水面には、いまも木の十字架が立っている。あれが示しているのは死んだ場所ではなく、体が引き上げられた場所である。どこで死んだのかは、誰も知らない。

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