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神器を奪い、雪の吉野で殺された皇子たち――禁闕の変と後南朝、七十年の亡霊

嘉吉三年の秋、京都の内裏が燃えた。三種の神器のうち二つが持ち去られた。そして十四年後、雪に埋もれた吉野の山奥で、十八歳と十五歳の兄弟が寝込みを襲われて首を落とされる。この二つの事件は、教科書ではせいぜい一行、下手すると載ってすらいない。でも調べ始めると止まらなくなる。南朝という「終わったはずの王朝」が、終わったあとに七十年も亡霊のように暴れ回った記録なんだよな。しかもその亡霊は、令和の今も奈良の山奥で毎年きちんと祀られている。ここから話を始めよう。
## 嘉吉三年九月二十三日、内裏に火が上がった夜
西暦にすると一四四三年十月十六日。その夜、京都は妙な緊張感に包まれていた。というのも、「今夜、室町殿が襲われる」という噂が昼のうちから流れていたからだ。室町殿というのは将軍の御所のことで、当時の将軍は足利義勝——といっても七月に十歳で急死したばかりで、幕府は空位状態。管領の畠山持国が実務を回していた。噂を聞いた幕府方の兵は、当然のように室町殿の周りを固めた。
これが完全な陽動だった。噂を流した連中の狙いは室町殿じゃない。土御門東洞院殿、つまり天皇の住む内裏のほうだ。警備がごっそり抜けた御所に、夜になって二百から三百といわれる武装集団が押し寄せた。集結地点は神泉苑だったと伝わる。あの、雨乞いで知られる池のある庭園だ。そこから闇にまぎれて内裏へ向かい、火を放った。
炎が上がったとき、内裏の中にいた人間の反応は記録として残っている。後花園天皇はこのとき二十五歳。押し入ってきた三十人か四十人ほどの一隊が清涼殿にまで踏み込んできた。天皇は冠を脱ぎ捨て、女房——つまり女官の装束に着替えさせられて御所を脱出した。付き従ったのは四辻季春という公家ひとり。逃げ込んだ先は左大臣・近衛房嗣の邸である。国の頂点にいる人間が、女装して裏口から走って逃げた。これが一四四三年の日本で実際に起きたことだ。想像するとけっこう凄まじい絵面である。
## 清涼殿から消えたもの、清水寺で見つかったもの
襲撃者たちが奪ったのは、天皇本人ではなかった。彼らが清涼殿で持ち去ったのは、宝剣と神璽。三種の神器のうちの二つだ。宝剣は天叢雲剣、いわゆる草薙剣の形代。神璽は八尺瓊勾玉。天皇その人をさらうより、神器を奪うほうが優先されたというところに、この事件の性格が全部出ている。彼らは強盗じゃない。正統性を奪いに来たんだ。
宝剣のほうは、わりとあっさり戻ってきた。九月二十五日の早朝、清水寺で心月坊承桂という僧が発見して朝廷に返している。比叡山で見つかったという別バージョンの記録もあるが、清水寺説のほうが通りがいい。剣は重いし、逃走中に持て余したのかもしれない。あるいは、そもそも本気で持ち去るつもりがなかったのかもしれない。
問題は神璽だ。こっちは戻ってこなかった。勾玉というのは箱に入れて抱えられるサイズで、隠すのも運ぶのも簡単だ。奪った側は山伝いにこれを南へ運び、その後およそ十五年にわたって朝廷は神璽なしで運営されることになる。三種の神器が揃っていない天皇。これは当時の感覚だと、かなりまずい。皇位の根拠そのものにヒビが入った状態が十五年続いたわけだ。
## 「源尊秀」という素性不明の男
この襲撃の総大将として名前が挙がるのが、源尊秀という人物だ。後鳥羽上皇の子孫を自称していたという。自称、というところがポイントで、この男の素性は現在に至るまでよくわかっていない。討ち死にしたという記録もあるし、逃げ延びたという記録もある。事件の首謀者でありながら、その後の消息が完全に途絶えている。
長らく、この源尊秀こそが後の「自天王」だとする説が有力だった。禁闕の変を起こした男が神璽を抱えて吉野の奥に潜み、そのまま後南朝の王として担がれた——という物語だ。話としては最高にきれいに繋がる。だが明治の史学者・菅政友が「尊秀王ヲ自天王ニ当テシハ誤ナリ」とばっさり切って捨て、これが定説になった。同一人物ではない、と。物語がきれいすぎるものは大体あとで壊される。
尊秀とともに担ぎ出されたのが、金蔵主と通蔵主の兄弟だ。金蔵主は万寿寺の禅僧、兄の通蔵主は相国寺常徳院の禅僧。二人とも南朝の血を引くとされている。要するにこの襲撃は「南朝皇胤を担いだクーデター」の体裁を取っていた。禅寺に押し込められていた元皇族が、還俗して神器を取り戻しに来た。中世の日本には、こういう「寺に預けられたまま消えていく血筋」が無数にいて、その一部が時々こうやって暴発する。
この事件でいちばん人を困惑させるのが、日野有光の参加だ。日野家といえば室町幕府の中枢中の中枢。足利将軍家に代々正室を送り込んできた家柄で、有光自身も従一位まで昇った大物公家である。しかも息子の日野資親も参議・右大弁を歴任した現役の公卿。この親子が、なぜ南朝残党のクーデターに乗ったのか。
同時代の人間も、後世の研究者も、ここで首をひねっている。よく言われるのは、幕府内部の権力闘争が背景にあったという読みだ。将軍義教が嘉吉の乱で殺され、跡を継いだ義勝も十歳で死に、幕府は権力の真空状態にあった。その中で日野家の立ち位置も揺らいでいた。有光は自分の一族の地位を回復するために、南朝という「使える神輿」に賭けた——という筋書きである。攻城団のブログなどではこの事件を「南朝の残党を隠れ蓑にした実力者の暗闘」と表現していて、この見方は結構広く共有されている。
つまり、後南朝というのは純粋な南朝復興運動ではなかった可能性が高い。都合よく使われる「大義名分の在庫」だったんだよな。負けた王朝の血筋というのは、政治的に困っている人間にとって使い勝手のいい札になる。この構造は、このあと何度も繰り返される。応仁の乱で山名宗全が「西陣南帝」を担いだときも同じ理屈だ。
## 比叡山に籠った三日間と、六条河原に並んだ首
御所を焼いて神器を奪った一党は、そのまま比叡山へ逃げ込んだ。東塔の根本中堂と、西塔の釈迦堂。延暦寺の中枢施設に立て籠もったわけだ。比叡山は当時、幕府もおいそれと手を出せない聖域だった。ここに籠れば持久戦に持ち込める——という計算があったのだろう。
しかしこの計算は外れる。比叡山の側が一枚岩じゃなかったからだ。護正院という僧坊が幕府方について動き、山内から一党を攻撃した。九月二十五日から二十六日にかけて激しい戦闘があり、金蔵主が討ち死に、日野有光も討ち死にした。二十六日の明け方には、事実上決着がついている。事件発生から三日足らずだ。幕府は九月二十九日、護正院の功績を正式に称賛している。
そこからの処断は速かった。九月二十八日、六条河原で日野資親以下の捕虜が処刑された。処刑された人数は五十人前後とも伝わる。父の有光は戦場で死に、息子の資親は河原で首を斬られた。十月二日には勧修門跡の門主だった教尊が関与の疑いで逮捕されている。そして通蔵主。彼は四国へ流罪と決まったが、護送の途中、摂津の太田というところで「原林」なる者に殺された。十月四日のことだ。流罪という名目の、事実上の処刑である。皇胤を公式に死刑にはできない。だから道中で消す。中世の政治のやり方が生々しく出ている一件だ。
## 神璽はどこへ消えたのか――十五年の空白
さて、神璽である。比叡山の一党は壊滅したのに、勾玉は出てこなかった。誰かが戦闘の前に山を降り、南へ運んだ。行き先は吉野の、さらに奥。大和と紀伊の国境に近い北山という土地だ。ここに後南朝の「行宮」があった。
行宮といっても、京都の御所のようなものを想像してはいけない。山中の集落に建てられた館である。奈良県川上村の記録では、尊義王という人物が近江から川上郷に移り、皇子の尊秀王(後の自天王)と忠義王を連れて「三之公」というところに御所を構えたとされている。三之公は今でも川上村の地名として残っていて、御所跡と廟所が指定されている。標高の高い、川に沿った細長い谷だ。冬は雪に閉ざされる。
この十五年間、朝廷は神璽なしで回っていた。当然、これを取り返したい勢力は山ほどいる。だが場所がわからない。わかっても、吉野の奥は地元の武装集団——のちに「吉野十八郷」と呼ばれる郷士たちが押さえている。よそ者が入って生きて帰れる土地じゃない。この地理的な要塞性こそが、後南朝が七十年も生き延びた最大の理由だ。神器を守っていたのは皇族ではなく、谷そのものだったと言ってもいい。
## 赤松の遺臣たち――家を潰した男たちの十六年
ここで話は播磨に飛ぶ。嘉吉元年、一四四一年。赤松満祐が将軍・足利義教を自邸に招いて暗殺した。世に言う嘉吉の乱だ。義教は「万人恐怖」と呼ばれた恐怖政治の将軍で、次は自分が潰されると踏んだ赤松が先手を打った。だが幕府軍の追討を受けて赤松本家は滅亡。名門赤松氏は、家名ごと歴史から消された。
残されたのが、主家を失った遺臣たちである。彼らにとって最大の願いは「赤松家の再興」だ。旧主の血筋を継ぐ幼い赤松政則を担いで、幕府に許しを乞い続けた。だが将軍を殺した家である。普通に頭を下げたところで許されるわけがない。何か、途方もない手柄が要る。
そこで浮上したのが神璽だった。幕府側——特に管領の細川勝元が、遺臣たちにこう持ちかけたと伝わる。神璽を取り返してくれば、赤松家の再興を認める。細川にしてみれば、山名宗全という巨大なライバルを牽制するために赤松を復活させたい思惑があった。赤松の旧領は山名が押さえていたからだ。政治の駆け引きと、家を失った男たちの執念と、神器の行方。この三つが一本に繋がった瞬間だった。
遺臣たちは吉野に入った。いきなり攻めたわけじゃない。虚言を弄して後南朝に接近した、と記録は伝えている。落ちぶれた武士として、南朝に仕えたいと申し出て、内部に入り込んだのだ。何年かかけて信用を得た。この潜入の期間が一番怖いところだと思う。皇子たちの身の回りで働き、笑って挨拶をしながら、彼らはずっと殺す日を測っていた。
## 長禄元年十二月二日、雪の中で二人の皇子が死んだ
一四五七年十二月十八日、旧暦で長禄元年十二月二日。子の刻、つまり深夜零時ごろ。大雪だった。吉野の山中で、赤松遺臣およそ三十人が二手に分かれて動き出す。
北山の行宮を襲ったのは丹生屋帯刀左衛門と四郎左衛門の兄弟。ここにいたのが一宮、自天王。十八歳。もう一隊、河野郷の行宮を襲ったのが上月左近将監満吉らで、こちらにいたのが二宮、忠義王。後南朝で征夷大将軍を名乗っていた弟のほうだ。十五歳とも伝わる。
雪の夜、山の館に押し入る。寝込みを襲われた側に抵抗の余地はほとんどなかった。両宮とも討たれ、首を取られた。赤松の遺臣たちは神璽を奪い、そのまま山を降りようとする。ここまでは計画通りだった。作戦は成功したのだ。数分間だけは。
そこから先が地獄になった。皇子たちが殺されたことを知った吉野十八郷の郷士たちが、猛烈な勢いで追撃をかけてきた。地元の山を知り尽くした人間たちと、闇と雪。赤松勢は伯母谷というところで捕捉され、討ち死にする。神璽は奪い返された。皇子たちの首も奪い返された。作戦は成功して、そして失敗したわけだ。
川上村には「御首載石」と呼ばれる石があった。奪い返した皇子の首を、いったんこの石の上に安置したという伝承の場所だ。吉野川の河畔にあったこの石は、昭和三十四年の伊勢湾台風で流された。その後、大滝ダムの建設にともなって記念碑が移され、いまは国道百六十九号線沿いに碑が立っている。車で走っていると見落とすような、小さな碑だ。
追撃戦にも具体的な名前が残っている。地元の伝承では、敵将の中村貞友を射殺したのは弓の名手・大西助五郎とされる。名前と役割がここまで細かく残っているのが、この地域の伝承の特徴だ。単に「村人が取り返した」ではなく、誰がどこで誰を射たかまで語り継がれている。それだけこの夜が、村にとって決定的な出来事だったということだろう。
取り返した首は金剛寺に埋葬された。神之谷という集落の奥にある寺だ。ちなみに神璽は、このあともう一度動く。翌長禄二年三月、小寺藤兵衛入道という赤松遺臣が、大和の国人・越智家栄の協力を得て再度これを奪取する。同年八月三十日、神璽はようやく京へ戻り、朝廷に返還された。禁闕の変から十五年。赤松政則には家督相続が認められ、加賀北半国の守護職、備前国新田荘、伊勢高宮保が与えられた。赤松家は復活した。二人の少年の首と引き換えに。
## 神之谷に五百七十年、途切れなかった朝拝式
ここからが本当の本題かもしれない。長禄三年以降、吉野の民は毎年二月五日に「朝拝式」という儀式を始めた。二月五日は自天王が即位したとされる日だ。年の初めに天皇へ拝賀する儀式を模した形式で、自天王の遺した武具を御神体として拝む。
これが、現在まで一度も途切れずに続いている。二〇二五年二月五日に行われたものが第五百六十八回。奈良新聞の報道によれば、この年は裃を着けた出仕人十一人が参列し、金剛寺境内の宝物庫が開かれた。庫内には自天王が生前着用したという兜、鎧の袖、胴丸などが納められている。これらは国指定重要文化財だ。式では天皇を祝福する「賀詞」が奏上され、玉串が奉奠され、保存会に伝わる巻物「由来記」が朗読される。参列者は毎年百人から百五十人ほど。
かつては参列に厳しい制限があった。首と神璽を奪い返した郷士たちの男系子孫——「筋目」と呼ばれる家の者しか参列できなかったのだ。五百年以上、血で参加資格が管理されてきた儀式である。現在はこの制限はなくなっている。村の教育委員会の上嶋教孝氏は、菊のご紋の入った裃を着けて行われるこの行事が、江戸時代も戦時中も途切れずに続いてきたことにこそ意味がある、という趣旨のことを語っている。江戸時代というのは幕府が北朝系の朝廷を戴いていた時代で、戦時中は言うまでもなく皇国史観の真っ只中だ。その両方を、この村は静かに通り抜けた。
金剛寺の裏手には宮内庁が管理する御陵がある。周囲はのどかな山村の風景で、血なまぐさい歴史とは無縁に見える。大滝ダムを過ぎて神之谷の集落から山道を上っていく。そこに、五百七十年前の十二月の夜を毎年思い出す装置がある。
## 自天王とは誰だったのか――終わらない系譜の喧嘩
で、その祀られている自天王だが、正体については今も決着がついていない。ここが後南朝という主題のいちばん厄介で、いちばん面白いところだ。
『南朝皇胤紹運録』という系図史料では、自天王の父は空因、つまり禁闕の変で死んだ金蔵主だとされている。だがこの系図の信頼性を疑う研究者は多い。芝葛盛は『康富記』の記載を根拠に、皇子たちの父は梵勝・梵仲という兄弟のほうだろうと推定した。村田正志は長慶天皇の三世孫だと見た。川上村の伝承では尊義王が父で、近江から川上郷に入ったことになっている。関係する史料ごとに違う人物が父として立ち上がってくる。
さらに厄介なことに、明治期に宮内省が自天王の墓として指定したのは瀧川寺のもので、地元が「首を埋めた」と伝える金剛寺とは食い違っている。国が指定した墓と、村が守ってきた墓が別。この状態のまま百年以上が過ぎている。
そもそも、自天王と忠義王が本当に南朝の血を引いていたかどうかすら、学術的には立証されていない。ある葬祭関係のコラムはこの点をはっきり書いていて、それでも遺臣の末裔たちは五百年以上にわたって伝統を守り続けてきた、と続けている。証明できないものを、五百年守る。この「証明されないまま続く」という状態こそが、後南朝伝説の本体なんじゃないかと思う。
ついでに言うと、「後南朝」という呼び名自体、そんなに古いものじゃない。江戸末期の儒学者・斎藤拙堂が名付けたもので、一般に定着したのは戦後だ。名前がつく前は、これは単に「山の中の、名前のない話」だった。
## 「私が本当の天皇だ」――昭和二十一年、熊沢天皇が現れる
後南朝の亡霊は、二十世紀にもう一度、はっきりした形で出てくる。熊沢寛道という男である。
一八八九年、愛知県生まれ。養父の熊沢大然から「うちは南朝の子孫だ」と教え込まれて育った。熊沢家の主張によれば、後亀山天皇の直系で、応仁の乱のときに「西陣南帝」として担がれた熊野宮信雅王に始まる家系だという。一九二〇年に養父が死ぬと、寛道は自分が南朝の天皇として即位した、と称し始める。戦前は政治家に上申書を送り続けたが、時代が時代である。下手をすれば不敬罪だ。誰も相手にしなかった。一九三五年頃には埋蔵金の発掘にも関わっていたらしい。この時点では、要するに変わった人だった。
風向きが変わったのは敗戦後だ。一九四五年の戦災で店を失った寛道は、その年の十一月、マッカーサーに請願書を送りつけた。これがライフ誌の記者の目に留まる。一九四六年一月、「日本に自称天皇がいる」という記事が国際的に報じられ、日本の新聞各紙も追随した。「熊沢天皇」の誕生である。占領下という異常な時期に、天皇制そのものが揺らいでいた瞬間だった。そこに南朝の子孫を名乗る男が現れた。話題にならないわけがない。
一九四六年五月には「南朝奉戴国民同盟」という政治団体を作り、全国を遊説した。昭和天皇との面会と退位を求めたが、当然拒否される。一九四七年には選挙に出て落選。一九五一年一月には東京地裁に訴えを起こし、皇位は不法に奪われたものだと主張した。裁判所の判断は「天皇は裁判権に服さない」で門前払い。同年九月にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本が独立を回復すると、世間の関心は潮が引くように消えていった。一九五七年には自称天皇の位を「尊信天皇」に譲って自らは法皇を名乗り、一九六〇年の選挙では日本共産党を支持すると表明したりもしている。一九六六年六月十一日、膵臓癌で死去。晩年は池袋で間借りしながら『日本史の誤りを正す』という本の編纂をしていた。
文春オンラインなどが後年まとめているように、この時期に現れた自称天皇は熊沢一人ではない。三浦天皇、外村天皇、長浜天皇——十数人が名乗り出たと言われる。敗戦という穴に、南朝の亡霊がいっせいに湧いた。そしてその全員が、遡っていくと吉野の山と繋がっている。
なぜ近代日本でこんなに南朝が持ち出されるのか。ここには制度的な下地がある。徳川光圀の『大日本史』が、三種の神器の所在を理由に南朝を正統とした。この史観は水戸学を通じて幕末の志士に流れ込み、明治維新の思想的燃料になった。ちなみに『大日本史』は享保五年に朝廷への献上を打診したとき、権大納言・一条兼香から北朝正統論で返され、享保十六年には刊行不許可になっている。当時の朝廷は北朝の子孫なんだから、当たり前といえば当たり前だ。
そして明治四十四年、一九一一年。国定教科書が南北両朝を並立で記述していることが政治問題化する。読売新聞が社説で噛みつき、野党の立憲国民党が第二次桂内閣を攻撃する材料に使った。衆議院議員の藤澤元造が質問主意書を出し、その後議員辞職に追い込まれている。政府は教科書の執筆責任者だった喜田貞吉を休職処分にした。元老・山縣有朋が南朝正統の立場で動き、最終的に明治天皇の勅裁という形で「南朝が正統」と決着した。学問の話が、内閣を揺らす政争になり、天皇の裁定で終わった。
この決着には皮肉がついている。近年の研究では、北朝初代の光厳天皇も本物の三種の神器を継承していたことがほぼ確実とされている。神器の所在を正統性の根拠にする論法そのものが、足元から崩れているわけだ。法制史学者の瀧川政次郎は、そもそも神器の所在で皇位を判定することの論理的な無理を指摘している。そしてもう一つ。南朝正統が国家の公式見解になったということは、南朝の子孫を名乗る人間に理屈上の足場を与えたということでもある。熊沢寛道が戦後に大手を振って登場できたのは、戦前の国家が「南朝が正統」と決めてしまっていたからだ。国が仕掛けた論理が、三十五年後に国自身に跳ね返ってきた。
## 語り継がれた三つの話――村と、旅人と、掲示板
伝承というのは公式記録の隙間に溜まる。後南朝についても、いろんな層の語りが残っている。
ひとつは村の語りだ。川上村に伝わる「由来記」の巻物は、朝拝式のたびに朗読される。そこには自天王が三之公に御所を構え、二月五日に即位し、長禄元年の雪の夜に討たれ、郷士たちが首を取り返して金剛寺に埋めた、という筋が記されている。見逃せないのは、この語りが「村の誇り」の形をしていることだ。村人は敗者を守った側として自分たちを語る。皇子を守れなかった悔恨ではなく、首を取り返した誇り。五百七十年、その形で語り継がれてきた。取材に応じた村の人が「変わらないために変わり続ける」という言い方をしていたのが印象的で、参列資格を緩めたのも、保存会を作ったのも、続けるための変化だという理屈である。
ふたつめは旅人の語りだ。奈良の史跡を歩くブログや個人サイトには、金剛寺や三之公を訪ねた記録がいくつも上がっている。共通して書かれているのは、あまりに静かで、あまりに何もない、ということだ。大滝ダムを過ぎ、細い道を上り、集落を抜けた先に寺がある。周囲は杉山で、川の音しかしない。ここで人が二人殺されたと言われても実感が湧かない、と書いている人がいた。そして必ずと言っていいほど、裏手の宮内庁管理の御陵に触れる。柵があって、宮内庁の札が立っている。国がここを何かとして扱っているという事実だけが、いきなり生々しく立ち上がってくる。
みっつめはネット上の語りだ。後南朝は、掲示板やまとめサイトで根強い人気がある。「日本のジャコバイト」「日本版の隠れ王朝」といった呼ばれ方をする。人気の理由ははっきりしていて、未解決の穴が多いからだ。源尊秀はどこへ消えたのか。自天王の父は誰なのか。神璽は本当に本物だったのか。国指定の墓と村の墓がなぜ違うのか。どの問いにも決定的な答えがない。答えがないから議論が終わらない。個人ブログでは系譜伝承を細かく突き合わせて「この系図は後世の創作だ」と論じる人がいる一方、南朝の血脈が今も続いていると主張するサイトもある。森茂暁の『闇の歴史、後南朝』が角川選書で出ているあたりが、この分野の学術的な到達点として何度も参照されている。
## なぜこの話はここまで怖いのか
冷静に考えると、後南朝の事件そのものはそこまで大規模じゃない。禁闕の変は三日で鎮圧された。長禄の変で死んだのは二人と、追撃で死んだ三十人ほどの武士だ。応仁の乱に比べれば規模は小さい。それなのに、この話は妙に後を引く。
理由のひとつは、殺された側が子どもだったことだと思う。十八歳と、その弟。山奥で、雪の夜、寝ているところを。しかも殺したのは、何年もかけて信用を得て近くにいた人間たちだ。この「近づいて、待って、殺す」という手順が、事件の温度をおかしくしている。合戦で死んだのではない。裏切られて死んだ。
もうひとつは、動機がやたらと生々しいことだ。赤松の遺臣たちは、南朝が憎かったわけでも、皇統を正したかったわけでもない。潰れた自分の家をもう一度立てたかっただけだ。そのために、山奥にいる少年二人を殺す価値があると判断した。そして実際に、それで家は再興された。取引が成立してしまった。人間の忠義というものの、いちばん見たくない断面が出ている。
そして最後に、この話が終わっていないことだ。神璽は返された。後南朝は明応八年、一四九九年に王が流されて駿河の三島まで来たという記録を最後に、史料から消える。だが村は祀り続けている。宮内庁は陵を管理し続けている。系譜論争は決着していない。昭和には子孫を名乗る男が現れて裁判を起こした。五百七十年経っても、この件はまだ処理が終わっていない。処理が終わらない出来事というのは、幽霊とほとんど同じものなんだよな。毎年二月五日、奈良の山奥で宝物庫の扉が開き、少年の鎧の前で人が頭を下げる。その光景は、供養というより、まだ生きている誰かへの挨拶に見える。
改めて全体を眺め直すと、この七十年の物語を貫いているのは「本物とは何か」という問いだ。禁闕の変で奪われたのは神璽、つまり皇位の物証だった。奪った側は南朝の皇胤を名乗り、守った側は北朝の天皇を戴いていた。どちらも自分こそが本物だと言った。そして十五年後、赤松の遺臣が神璽を取り戻したことで、朝廷は「本物」を回復した——ということになっている。だが本当にそうなのか。十五年も山中にあった勾玉が、返還されたときに本物だと誰がどう確認したのか。この点を検証した記録は驚くほど乏しい。神璽は箱に収められたまま、開けて中を見ることが憚られる代物だ。つまり返ってきた時点で、それが本物であることを保証するのは「これが神璽だ」という宣言だけになる。中世の日本が最終的に頼ったのは物質ではなく合意だった。そう考えると、赤松遺臣の任務は「物を取り返すこと」というより「取り返したという事実を作ること」に近い。彼らは家の再興という報酬のために、国家の正統性の物語を一本、書き直したことになる。
もうひとつ掘り返しておきたいのが、川上村の側の合理性だ。よそから見ると、村がなぜ五百七十年も他人の皇子を祀り続けるのか不思議に思える。だが村の視点に立つと筋が通る。あの谷は険しく、平地が乏しく、外部の権力から見て価値の薄い土地だった。そこに「皇子が住んだ」「その皇子を守って戦った」という記憶が入ると、土地の意味が変わる。ただの山村ではなく、皇統を守った村になる。朝拝式が「筋目」の男系子孫だけに限定されていたという事実は、これが単なる宗教行事ではなく、村の中の身分と権威を再生産する装置でもあったことを示している。誰がその夜に戦ったか。その記憶が家の格になる。五百年間、二月五日は村の序列を確認する日でもあった。この機能があったからこそ、この儀式は江戸時代も戦時中も途切れなかったんだと思う。純粋な信仰は途切れる。社会的機能を持った信仰は途切れない。
そして参列制限を撤廃した現代の判断も、同じ論理で読める。「筋目」の家が減り、村の人口が減れば、限定された儀式は物理的に維持できなくなる。だから資格を開いた。保存会を作り、外部の参観を受け入れ、村の公式サイトで発信するようにもなった。「変わらないために変わり続ける」というのは、伝統というものの実態を突いた表現だ。純度を守ろうとして消えていった祭りは日本中に無数にある。川上村はそれを選ばなかった。血の資格を捨てて、儀式そのものを生き延びさせた。
最後に、後南朝伝説がなぜ日本人の一部を強く引きつけるのかを考えておきたい。表向きの理由は「判官贔屓」だろう。負けた側、隠れた側、正統でありながら追われた側。日本の物語文化はこの型が大好きだ。だが後南朝の場合、もう一歩深いところに引っかかりがある。それは、この国の正統性が「万世一系」という一本の線で説明されているのに、その線が室町の山奥で明らかに二股に分かれた痕跡が残っている、という事実だ。しかもその分岐点は消されていない。宮内庁が陵として管理し、村が儀式を続け、国が明治に「南朝が正統」と宣言してしまっている。つまり分岐は公式に認められているのに、その先がどうなったかは誰も言わない。線が途中でほどけたまま、床に垂れている。
この「ほどけた端」を見つけると、人は引っ張りたくなる。熊沢寛道が引っ張った。戦後に十数人の自称天皇が引っ張った。今もネットで系図を突き合わせている人たちが引っ張っている。そしていくら引っ張っても、確定した答えは出てこない。史料が足りないからだ。北山や河野郷の行宮の場所すら、確定していない部分がある。決着しないから、伝説は生き続ける。逆に言えば、この件は決着しないほうが健全なのかもしれない。決着させようとした明治政府は、教科書問題で内閣が揺れる羽目になった。決着を求めなかった川上村は、五百七十年間ずっと同じ日に扉を開けている。どちらが賢いかは、まあ、言うまでもない気がする。二月五日、奥吉野。雪が残っていることもある。あの日の夜と、同じ季節だ。

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