日本の最果て、台湾までたった百十キロという場所に、四十年ずっと決着のつかない喧嘩の種が沈んでいる。与那国島の南、新川鼻という岬の沖合百メートル。水深二十五メートルの底に、九十度の角を持った巨大な階段がある。東西二百五十メートル、南北百五十メートル、高低差二十五メートル。ビルでいえば八階建てくらいの塊が、まるごと段々に削られて海の中に立っている。
これを見て「人が造った神殿だ」と言う人がいる。「ただの岩だ」と言う人がいる。両方とも大学教授だ。両方とも現地に何十回も潜っている。そして両方とも、四十年経っても相手を説得できていない。
この話、単なるトンデモ談義だと思って読み始めると足をすくわれる。反証の側がめちゃくちゃ緻密で面白いんだよな。そしてその緻密な反証を全部聞いたうえでもなお、写真を見ると「いや、これ人工物じゃね?」と思ってしまう。そこがこの海底地形の本当の怖さだ。
ハンマーヘッドを探していた男が、九十度の角にぶつかった日
一九八六年。与那国島でダイビングサービスをやっていた新嵩喜八郎という男が、海に潜っていた。目的は遺跡探しじゃない。シュモクザメ、いわゆるハンマーヘッドシャークの群れが集まるポイントを新規開拓するためだった。与那国は冬になると北の海からハンマーヘッドが押し寄せてくる。百尾を超える群れが川のように流れていく「ハンマーリバー」が見られる、世界でも数えるほどしかない島だ。
新嵩はその群れの通り道を、地道に一本ずつ潜って探していた。
島の南側、新川鼻の沖。そこは地元の漁師でもあまり寄りつかない場所だった。黒潮の本流が島の南を横切っていて、潮が走るときは人間が泳いで抗える速度じゃない。それでも凪の日を狙って新嵩は入った。
透明度は三十メートル以上あった。与那国の海はそういう海だ。青いというより、水がないみたいに見える。そのがらんとした青の向こうに、影があった。
近づいて、新嵩は動きを止めた。目の前に、直角があった。
自然の岩場を何百本と潜ってきた人間の目は、直角に敏感だ。海の岩は基本的に丸い。波と砂に削られて角が取れる。それなのに、そこにあったのは定規で引いたような稜線だった。しかも一段じゃない。段が続いている。踊り場のような平面があり、その先にまた段があり、垂直の壁が立ち上がっている。壁の下には、当然あるべきものがなかった。崩れた岩のかけらだ。
壁が自然に割れてできたなら、割れた分の破片が足元に散らばっていないとおかしい。それがない。掃除したみたいに、平らな面がむき出しになっていた。
本人は後年、あのとき鳥肌が立ったと語っている。そして同時に「これは島の宝になる」と直感したという。ここが面白いところで、新嵩はすぐには騒がなかった。しばらく黙っていたんだ。観光ダイビングの世界で、場所を先に押さえるという発想もあっただろうし、何より自分が見たものの正体がわからなかった。
彼が最初に相談したのは、ダイビング仲間だった共同通信の記者だ。その記者を通じて、東京大学海洋研究所の石井輝昭教授に話が届いた。石井教授の反応は、この物語の最初の重要な台詞になった。あなたは大変なものを発見した、自然であれ人工であれ、こういうものが存在するというのは世界の地質学界に一石を投じたことになる――そう言われたという。
自然であれ人工であれ、と学者はきちんと留保をつけた。四十年後の今もなお、その留保のところで全人類が揉め続けている。
元日の一面が、ローカルな岩を全国区の謎に変えた
発見から報道までに九年かかっている。この空白期間がまた与那国らしい。当時の与那国は定期便も細く、東京から行こうとすれば那覇と石垣を経由して丸一日がかりだった。地元のダイバーが海底で妙な岩を見つけた、という話が本土に届く回路がそもそも存在しなかった。
転機は一九九五年一月一日。琉球新報をはじめとする地元紙が、元日の一面で海底の構造物を大きく報じた。元日の紙面というのは、その年いちばん夢のある話を載せる場所だ。そこに海底遺跡が乗った。ここから一気に火がついた。
そしてこのタイミングで、物語の主役が交代する。琉球大学理学部の海洋地質学者、木村政昭。この人が全面的に前へ出てくる。木村は一九四〇年生まれ、東京大学で理学博士を取った本物の地質学者だ。海底火山や地殻変動の研究で業績があり、地震予知の分野でも独自の「時空ダイアグラム」という手法を主張して、雲仙普賢岳の噴火や兵庫県南部地震を予測したと自称している。
つまり主流からは少しはみ出しているが、経歴そのものは正真正銘のアカデミアの人だった。
その木村が、与那国の海底地形に人生の後半を注ぎ込むことになる。一九九二年と一九九四年に予備調査、一九九七年から一九九九年にかけて七度の潜水調査。二〇〇二年には水中テレビロボットを投入し、二〇〇五年には東京大学生産技術研究所が音波探査で三次元の地形データを取得した。木村のチームは音響測深と潜水を組み合わせて、海底の等高線図を丹念に描いていった。この作業量については、批判側の研究者ですら評価している。
誰もやっていなかった海域の地形図を、私財と大学の予算を突っ込んで作り上げたのは事実だ。
木村の結論は明快だった。あれは人工物である。城か神殿だ。道路がある、擁壁がある、敷石がある、排水溝がある、門がある。彼はそう言い切った。
「ムー大陸は琉球にあった」――言い出しっぺの一冊
人工物説の初出はどこか。ここを押さえておくと話が整理される。
木村政昭は一九九一年に『ムー大陸は琉球にあった』という本を出している。与那国の海底地形が全国紙で報じられる四年前だ。つまり木村は、海底に人工物があるという話をする前から、琉球列島にかつて超古代文明があったという枠組みを先に持っていた。順番が逆なんだよな。仮説が先にあって、そこに証拠が飛び込んできた。
ムー大陸というのは、そもそも一八七〇年代にオーギュスタス・ル・プロンジョンがマヤの文書を誤読したところから始まり、一九三一年にジェームズ・チャーチワードが『失われたムー大陸』で完成させた完全な創作だ。太平洋のど真ん中に巨大な大陸があって、六千四百万人が住む高度文明を築いていたが、一万二千年前に一夜にして沈んだ――そういう話。
学術的な裏付けはゼロで、プレートテクトニクスが確立した時点で地質学的にも成立しなくなった。
それでも日本ではムーが異様に強く残った。理由のひとつは、沖縄に「ニライカナイ」という信仰があることだ。海の彼方、あるいは海の底に神々の国があり、そこから豊穣と生命がやってくる。この土着の他界観と、沈んだ大陸というモチーフが噛み合いすぎた。木村自身、ニライカナイこそがムー文明圏の記憶ではないかという趣旨のことを繰り返し書いている。
木村の著作はその後も続く。一九九二年『南海の邪馬台国』、一九九七年『太平洋に沈んだ大陸』。邪馬台国沖縄説というのも彼の持論で、卑弥呼の国は九州でも畿内でもなく南西諸島にあったと主張している。海底遺跡はその文明の物証という位置づけになる。歴史学界からの支持はまったく得られていないが、本としてはよく売れた。
そこへ海外の増幅装置が加わる。イギリスのグラハム・ハンコック。『神々の指紋』で世界的ベストセラーを出した作家だ。ハンコックはBBCの番組で与那国を知り、二〇〇一年に自ら潜りに来た。二〇〇二年に出した『神々の世界』では与那国に相当な紙数を割いている。
彼の論法は独特で、個々の地形が自然に説明できることは認めたうえで、「これだけ不自然な形が狭い一区画に集中している確率はどれくらいなんだ」と統計的な違和感を突く。この言い方は反論しにくい。だから今も生き残っている。
もうひとり、名前を出しておくべき人がいる。ロバート・ショック。ボストン大学の地質学者で、ギザのスフィンクスは通説よりはるかに古いという「水食説」で有名になった人だ。与那国にも潜り、彼はこう言った。九十五パーセント以上は自然のものだ、と。ただし、残りを完全にゼロとは言わなかった。自然の岩場を古代人が多少手直しして使った可能性は否定できない、という言い方をした。
この「九十五パーセント」という数字が、その後あらゆる場所で切り取られて使われることになる。人工説の側は「ショックですら人の手を認めた」と読み、自然説の側は「ショックですら九十五パーセントは自然だと言った」と読む。同じ一文が両陣営の弾丸になっている。
城門、二枚岩、亀の岩――海の底には地名帳がある
現地のダイビングガイドたちは、海底地形の各部にきっちり名前をつけている。これが観光資源としてよくできていて、案内される側は自然と「遺跡を巡っている」気分になる。名前の力は侮れない。
いちばん有名なのが「大階段」あるいは「メインテラス」と呼ばれる区画だ。幅の広い平面が何段も連なり、その端が垂直に落ちている。段の高さは一定ではなく、低いところで数十センチ、高いところは一メートルを超える。人間の歩幅には明らかに合っていない。人工説の側はこれを「儀礼用の祭壇であって歩くためのものではない」と説明し、自然説の側は「段差が不揃いなのは自然にできた証拠だ」と説明する。
同じ段差が両方の証拠になる。この構図が最後まで続く。
「城門」は狭い。ダイバー一人がやっと通れるくらいの隙間で、両側に巨石が立ち、上に一枚の岩が渡っている。門としか見えない形をしている。西側には「アーチ門」と呼ばれるトンネル状の岩もあって、こちらは高さ百六十センチ、幅八十センチ、奥行き三メートルほど。中腰でくぐれるサイズだ。人が造った通路のスケール感にぴたりとはまる。
「二枚岩」はアーチ門の先にある。巨大な板状の岩が二枚、寄り添うように立っている。ここも定番の撮影スポットだ。「亀の岩」は上から見ると亀の甲羅そっくりの輪郭を持つ岩で、木村はこれを亀のレリーフだと解釈した。沖縄の亀甲墓との連想もあって、この岩は人工説の象徴のひとつになっている。ほかにも牛や大鷲に見えるという浮き彫りが報告されていて、木村の図版ではそれらに輪郭線が引かれている。
「水路」は十メートルほどのまっすぐな溝。「拝所」は潮の流れがぴたりと止まる静かな窪みで、ここに入るとダイバーの耳から流水音が消える。名前のせいもあって、多くの人がここで手を合わせるという。「ループ道路」は構造の南東側に沿って走る帯状の平坦面で、木村はこれを周回路と読んだ。「三角プール」は一辺十数メートルの扇形の削り跡。
「太陽石」はワンボックスカーくらいの大きさの巨石で、木村はこれが影で時刻を示す日時計のような役割を果たしていたと主張した。
そして海面から近い場所には、木村が「人面岩」と呼ぶ岩がある。人の顔のように見える、あるいは中国か古代琉球の王の横顔に見えるという。あのジャック・マイヨールが与那国に通っていた頃、この人面岩を覗き込む姿が印象的だったらしく、二〇〇三年三月二十三日、島の石舞台に彼のメモリアルプレートが設置されたとき、そこに刻まれたのは人面岩を見つめるマイヨールの姿だった。素潜りの伝説が、海底の顔を覗き込んでいる。
話としてこれ以上ない。
落石がない、という一点で四十年粘る
木村政昭の主張の中で、いちばん強いのは何か。装飾を全部そぎ落とすと、たぶんこの一点に集約される。垂直の壁の直下に、崩れ落ちた岩片が積もっていない。
考えてみてほしい。高さ数メートルの垂直な岩壁が自然の割れ目でできたなら、割れて落ちた岩が下に溜まっているはずだ。陸の崖では当たり前の光景だし、海中でも本来そうなる。ところが与那国の海底地形では、平坦面がきれいに露出している。まるで誰かが片づけたみたいに。
木村はここに「人の手」を見た。石を切り出して運び出した採石と加工の跡だ、と。加えて彼は、岩に残るくさび状の穴を指摘した。石を割るために楔を打ち込んだ痕跡だという。穴は直線状に並んでいて、明らかに規則性がある。さらに柱を立てたとみられる円形の穴、傾斜面に刻まれた線刻、そして周辺から採取したという石器や線刻石版。
年代についても手を打った。ベリリウム10と炭素14による測定を行い、二〇〇三年には琉球大学理学部紀要に「表面照射年代測定法による与那国島海底遺跡年代測定の試み」という論文を出している。同じ年に日本造船学会誌にも調査研究を寄せている。表面照射年代測定というのは、岩の表面が宇宙線に晒されていた期間を測る手法で、つまり「この面はいつ空気中に出ていたか」を推定できる。海に沈んだ時期の逆算に使える理屈だ。
行政方面にも動いた。一九九八年、沖縄県に遺跡発見届を提出。二〇〇一年にユネスコの水中文化遺産保護条約ができると、この地形が水中文化遺産の定義に当てはまるという回答を引き出したと述べている。二〇〇五年には与那国町長が水中文化遺産条例の制定に言及し、二〇一六年三月には史跡指定や世界遺産、ジオパーク登録の検討を表明した。
同年十月には学術的評価のための調査に着手し、第一回検討会議では専門家が「保護すべき」という点では一致した。
ただし――ここが大事なんだが――「保護すべき」と「人工物である」は別の話だ。文化庁も沖縄県も、この地形を文化財として認定していない。国による調査も保存工事も行われていない。四十年、公的な認定はゼロのままだ。
節理という、身も蓋もない答え
自然説の中身に入る。これがまた、聞くとちょっとがっかりするくらい単純で、だからこそ強い。
与那国島の岩は、八重山層群と呼ばれる地層でできている。新第三紀中新世前期、およそ千六百万年から二千万年前に堆積した砂岩と泥岩だ。砂岩と泥岩が交互に重なった互層で、水平方向に何枚もの層理面が走っている。そこへ、地殻の応力で垂直方向の割れ目が入る。これが節理だ。しかも与那国周辺は八重山断層群が走る地震地帯で、垂直の節理が二方向、直交して入っている。
水平の層理面が一組、垂直の節理が二組。この三つが直交していると何が起きるか。岩は自然に直方体のブロックに割れる。豆腐を賽の目に切ったみたいに。そこに波が当たり続けると、弱い部分から順にブロックが抜けていって、残った部分が階段になる。九十度の角も、平らなテラスも、垂直の壁も、これで全部説明がつく。
同じ理屈でできた地形は世界中にある。長野県木曽の寝覚の床は、花崗岩の方状節理が川に削られて巨大な四角い岩塊の群れになっている。北アイルランドのジャイアンツ・コーズウェーは玄武岩の柱状節理で、あまりに整然としているので巨人が敷いた石畳という伝説がついた。アメリカのユティカ頁岩も似た顔をしている。人間は昔から、規則的な岩を見ると誰かが造ったと思いたがるらしい。
自然説を唱えたのは一人や二人じゃない。琉球大学理学部の中村衛教授、同じく古川雅英教授。琉球大学教育学部の尾方隆幸准教授は「九十パーセント以上は自然の地形」と述べ、二〇一九年には数値標高モデルと陸上の地質調査を組み合わせた論文で、島内のティンダバナ、久部良、サンニヌ台という三か所のジオサイトと海底地形を比較し、風化と侵食が層理と節理に沿って働いた自然地形だと結論づけた。
元沖縄県埋蔵文化財センター所長の安里嗣淳は、二〇〇〇年三月の紀要に「与那国島海底遺跡説批判」という直球のタイトルで論文を書いている。
海外勢も同じだ。ロバート・ショックは砂岩の平行な層理面と垂直節理を挙げて自然の破断だと言い、彼と同行したジョン・アンソニー・ウェストは「木村は自然のプロセスを十分に見ていない」と評した。南太平洋大学のパトリック・ナンは陸上のサンニヌ台を調べて「純粋に自然」と断じた。
ドイツの地質学者ヴォルフ・ヴィッヒマンは一九九九年と二〇〇一年の二度、シュピーゲルTVの取材で現地に潜り、自然の作用で形成されうると報告している。
そして東京海洋大学の水中考古学者、岩淵聡文はもっと踏み込んだ。学術的には人工の構造物ではないということで既に決着している、と。
陸に、同じ顔がある
自然説の側が出した決定打を一つ挙げるなら、これになる。サンニヌ台だ。
海底地形から北東へ二・五キロほど行った海岸に、サンニヌ台という県指定名勝の岩場がある。軍艦岩とも呼ばれる。ここが何かというと、海底地形とそっくりなんだよな。平らなテラスがあり、直角の段があり、垂直の壁がある。柱穴のような丸い穴も開いている。線状の刻みもある。違いは一つだけ。陸の上にあって、誰も人工物だと言わない。
これは反証としてかなり効く。同じ地質、同じ節理、同じ波の作用を受けた場所に、水中と陸上でほぼ同じ形が出ている。片方が自然なら、片方も自然と考えるのが素直だ。
そして驚くべきことに、木村自身が自著の中で「形が非常に似ている」と認めている。そのうえで、サンニヌ台が自然物なら海底遺跡も自然だと言われても仕方ない、という趣旨のことまで書いている。彼はサンニヌ台にも人の手が入っていると主張する方向に舵を切り、炉の跡らしきものから採った炭を放射性炭素で測って千五百年前という値を出した。
ところが、これも本人が後に「後世の焚き火かもしれず説得力に欠ける」と自ら引っ込めている。加工痕とされた線についても、批判側は「二本入っている節理を一本と見誤っている」と指摘した。
自分の説の弱点を自著に書いてしまう。ここに木村政昭という人の誠実さと、同時に致命的な脇の甘さが同居している。彼は嘘つきではない。ただ、見たいものが見えてしまう人だった。
ウニが開けた穴、台風が動かした岩
反証の各論に入ると、細かさが楽しくなってくる。
まず楔の跡。神戸大学の原俊雄准教授が実物を調べたところ、あれは石を割るための楔穴ではなく、ウニなどの穿孔性生物が岩を削って作った巣穴だと判定された。沖縄美ら海水族館の見解も、この海域ではウニの穴として珍しくないというものだった。穴が直線に並ぶのは、ウニが柔らかい節理の線に沿って掘り進むからだ。しかも比川海岸には、およそ六十年前つまり戦後にできたことが確認できる同種の穴もある。
古代人の楔ではなく、現代のウニだった。
柱穴とされた円い穴も同じ運命をたどった。あれは甌穴、いわゆるポットホールだ。岩のくぼみに小石が入り、水流でぐるぐる回されて穴を深く削っていく。決定的だったのは、いくつかの穴の底に、穴の直径とぴったり同じ長径を持つラグビーボール状の石が実際に残っていたことだ。しかも穴の内壁には、石が回転した線状の擦り跡がついていた。犯人が凶器を抱えて現場に残っていたようなものだ。
擁壁とされた石の並びについても、原准教授は整形の痕跡も積み石の構造も確認できなかったと報告している。さらに手厳しい指摘がある。人工説の書籍に載っているイラストや復元図で、実際には傾斜三十度から四十度しかない斜面が、七十度くらいの切り立った壁として描かれているというのだ。図解のほうが実物より遺跡らしくなっている。
そして落石問題。あの最強のカードにも答えが出ている。まず与那国の南岸は黒潮の直撃地帯で、潮流が緩んだ岩片を平坦面から掃き出していく。ショックもこの点を指摘している。加えてループ道路と呼ばれる部分は、隣接する岩の山に向かって傾いていて、落ちた石はそちらへ転がる。そして台風だ。一九九四年の台風十三号のとき、与那国では最大瞬間風速七十・二メートル、波高二十一メートルが記録された。
この規模の波は、一トンから六トンの巨石を低い場所から高い場所へ数メートル動かす。実際に陸上で動いた岩が確認されている。数千年、いや一万年のあいだにこの規模の台風が何百回も通過したなら、海底の緩い岩片が残っているほうがおかしい。むしろ「落石がない」ことこそ、猛烈な自然の力が働き続けた証拠になってしまう。
三角プールにも突っ込みが入った。あの構造は全体が十度から十二度傾いている。傾斜二十一パーセント、坂道でいえば激坂だ。傾いた場所に水は溜まらない。プールとして機能しない。そもそも構造全体がこれだけ傾いていること自体、人が住んだり儀礼を行ったりする場所としては不自然すぎる。
人工説はこれを「後から地滑りで傾いた」と説明したが、中村衛教授は周辺海域に海底地すべりの明確な証拠はないと述べ、古川雅英教授も二千年から三千年前の急激な地殻変動の証拠はないとした。
太陽石も落ちた。反対側から見ると、あれは薄い岩が段差状に残っているだけの、ごく普通の岩塊だとわかる。しかも二〇〇〇年の台風十二号のあと、もともとあった岩場から転落して位置が変わっている。日時計だったはずの石が、台風で動いた。
年代が六回変わった、という致命傷
人工説の信頼性をいちばん削ったのは、外部からの批判ではなく、年代の揺れだった。
木村は当初、この地形を四千年前から二千四百年前のものとした。次に一万年以上前と言い、六千年前という数字も出した。そして二〇〇七年、太平洋学術会議の場で三千年前から二千年前へと再修正した。理由はこうだ。二千年から三千年前の海水面は現在とほぼ同じだった。だから海面上昇では沈まない。地殻変動で沈んだと考えるべきだ、と。
これは苦しい。一万年前説の強みは、氷期の海面が今より百二十メートル低かったという明確な地質学的事実に乗れる点にあった。それを捨てて、証拠のない急激な地殻沈降に乗り換えた。しかも二千年から三千年前の与那国に、二百五十メートル級の石造建築を造る集団がいたという考古学的証拠は皆無だ。
ブリティッシュコロンビア大学のリチャード・ピアソンは、紀元前二千五百年から二千年頃のこの地域の住民に石造記念物を建造する能力はなかったと指摘している。当時の八重山は、貝塚文化の狩猟採集と初期農耕の世界だ。土器はある。石斧もある。だが巨石建築の系譜はどこにもない。
一方で二〇〇五年から二〇〇六年に琉球大学が主催した本格調査では、十世紀後半から十一世紀前半という、まったく別の年代が示された。これは沖縄の歴史でいえばグスク時代の入口で、遺跡というにはあまりに新しい。
一万年前、六千年前、四千年前、三千年前、二千年前、そして千年前。数字が動きすぎた。仮説が証拠に合わせて動くのは科学として正しい姿だが、動いた先で毎回「やっぱり人工物だ」という結論だけが固定されていると、それは仮説ではなく信念だと見なされる。
派生説の見本市
四十年も転がっていると、説は勝手に増える。
ムー大陸説は本家本元だ。太平洋に沈んだ超古代大陸の東の端が琉球であり、与那国の構造物はその遺構だという読み。木村の一九九一年の著書が起点で、月刊誌『ムー』が繰り返し取り上げて日本のオカルト読者に定着させた。物証としては成立しないが、物語としての完成度が高すぎて、いまだに検索の最上位に居座っている。
邪馬台国沖縄説も木村の持論から派生した。卑弥呼の国は南西諸島にあり、海底の構造物はその文明圏の一部だという主張だ。九州説と畿内説が延々やり合っている隙間に、第三の候補地として滑り込む形になった。歴史学界の支持はまったくない。
ニライカナイ起源説は、もう少し柔らかい。沖縄の海の彼方の他界信仰は、実際に水没した土地の記憶が神話化したものではないか、という読み方だ。これは民俗学として一定の説得力がある形に整えることも可能で、実際「かつて陸だった浅瀬が沈んだ記憶」が伝承に残るケースは世界中にある。ただし、それは「巨大な石の神殿があった」ことを意味しない。
レムリア大陸説やアトランティス接続説は、海外の掲示板でよく見る。インド洋のレムリアや大西洋のアトランティスと与那国を結んで、氷河期に地球規模の海洋文明ネットワークがあったという壮大な図を描く。グラハム・ハンコックの路線に近いが、彼よりさらに大胆だ。
古代宇宙飛行士説もある。地球外の技術で切り出されたという主張で、これは英語圏の動画コンテンツで根強い。日本語圏ではさすがに少数派だが、海外の与那国関連動画のコメント欄には確実に一定数いる。
採石場説というのが個人的にはいちばん惜しい。海底地形を神殿でも自然でもなく「石切場」と見る説だ。岩を切り出した跡なら、階段状の段差も、直線的な溝も、平らな面も説明できる。ただしこれも、水没時期に石を切り出す文明があった証拠が必要になるので、結局は同じ壁にぶつかる。
そして折衷説。自然の節理でできた岩場を、古代の人々が神聖な場所として使い、部分的に手を加えた――という読み方だ。ショックが示唆した路線であり、二〇二六年にも取り上げられている「一万年前かそれ以前に人の手が加えられた可能性」という中間シナリオもここに入る。実はこれがいちばん現実的で、いちばん面白くない。オカルトとしては弱く、学術としては証拠不足。だから誰も強く推さない。真ん中の説はいつも人気がない。
もう一つ触れておくべき最新の動きがある。二〇二四年に菅浩伸らのチームが発表した研究では、水平の層理面と二組の直交する垂直節理が組み合わさることで直角の階段状地形が自然に形成されうることを示し、陸上に同じパターンが存在することを決め手とした。自然説の側は、四十年かけて説明の解像度を上げ続けている。
潜った人間だけが知っていること
ここからは証言だ。写真や図面ではなく、実際に自分の体で海底地形の前に立った人たちの話。
まず発見者の新嵩喜八郎。彼が語る発見の瞬間は、何度聞いても生々しい。ハンマーヘッドの群れを追って未開拓のポイントに入り、青い水の中に段々の影を見た。鳥肌が立ったという。彼が最初に感じたのは学術的興奮ではなく、これは島の宝になるという直感だった。与那国は当時、人口二千人を切ろうかという離島で、産業は漁業と製糖と泡盛くらいしかなかった。若者は石垣や那覇へ出ていく。
そこへ、海の底に世界が見に来るかもしれないものがある。彼が九年間ほとんど黙っていた理由は、正体がわからなかったからだけではないだろう。扱い方を間違えたら、島の宝が島の外の誰かに持っていかれる。そういう警戒が働いていたはずだ。実際その後、彼はダイビングサービスを通じてこの地形を島の観光の柱に育て上げた。人工か自然かの決着より先に、経済としての決着がついてしまった。
次に木村政昭。彼が初めて潜ったときの述懐は、研究者の言葉としては異様に情緒的だ。ライトの光が届く範囲に、直線と直角が次々と現れる。地質学者として自然の岩を数え切れないほど見てきた目に、それは「造られたもの」としか映らなかったという。彼は後年、人為的影響の証拠は膨大だと繰り返している。この人の四十年は、傍から見れば空回りだったかもしれない。だが与那国の海底の三次元地形図は彼が作った。
潜水回数も、音波探査のデータ量も、批判側の誰よりも多い。皮肉なことに、木村説を潰すために使われた基礎データの一部は、木村自身が集めたものだ。
三人目、ヴォルフ・ヴィッヒマン。ドイツの地質学者で、一九九九年と二〇〇一年にシュピーゲルTVの取材班と一緒に潜った。彼の観察はドライで容赦がない。壁とされる面を触り、層理面の走向を測り、割れ目の方向をコンパスで記録していく。そして彼が出した結論は、これらは自然の作用で形成されうる、というものだった。ただし彼の報告で興味深いのは、潜っている最中の感覚については別のことを書いている点だ。
データを取っている間ずっと、これは建造物だという印象が消えなかったという趣旨のことを述べている。目で見た印象と、測定した数値が食い違う。この地形の本質はそこにある。
四人目、グラハム・ハンコック。二〇〇一年に潜り、その体験を『神々の世界』に書いた。彼はテラスの縁に手をかけ、その角の鋭さに驚いたと記している。そして彼の議論の核心は個々の構造ではなく、密度だ。これほど不自然に見える形が、これほど狭い一区画に、これほどの数まとまって存在する確率はどれくらいなのか。
二〇二四年から二〇二五年にかけて、ポッドキャストで考古学者フリント・ディブルと激突したときも、彼はまったく同じことを言った。人工構造を示すものは何一つ見えない、と言うディブルに対して、ハンコックはこう返した。あなたがこれを純粋な自然だと見るのは驚きだが、どうやら我々は完全に違う目を持っているらしい、と。
五人目は名もない一般ダイバーの記録から。台風十八号の接近でツアーが飛びかけた末に、ようやく海に入れた旅行者の記録がある。傾斜路からエントリーして、人工的としか思えない穴を潜り抜け、二枚岩を見上げ、メインテラスに出て、亀岩を回る。ガイドは各所の名前と人工物としての解釈を淀みなく説明してくれる。そして彼はこう書いている。こういう形状はさすがに自然にはできないのでは、と。この感想がすべてだ。
学術的な決着がどうであれ、あの場所に行った人間のかなりの割合が、同じ結論に一瞬たどり着く。
六人目、ジャック・マイヨール。映画『グラン・ブルー』のモデルになった素潜りの伝説だ。彼は晩年に何度も与那国へ通った。目的はハンマーヘッドと、海底地形と、そして立神岩周辺の海だった。彼が人面岩を覗き込む姿は島の人々の記憶に強く残り、二〇〇三年に石舞台に据えられたメモリアルプレートには、まさにその姿がエッチングされた。マイヨールが人工か自然かについて明確な学術的見解を残した記録はない。
彼にとってはたぶん、どちらでもよかった。深く潜れる場所であることのほうが大事だった。
掲示板とポッドキャストで、四十年目に燃え上がる
ネット上のこの話題の扱われ方が、また味わい深い。
日本語圏では、二〇〇〇年代前半のオカルト板が最初の主戦場だった。当時は人工説がかなり優勢で、木村の図版や『ムー』の記事の画像が貼られては盛り上がっていた。潮目が変わったのは、批判側の詳細な検証が個人サイトやブログで公開され始めてからだ。ウニの穴、甌穴の中のラグビーボール状の石、傾斜を誇張したイラスト。こういう具体的な指摘は破壊力が段違いで、「木村説は終わった」という空気が徐々に定着した。
今の日本語圏の主流は、遺跡説を信じている人はもうあまりいないが、それでも「見た目はやっぱりすごい」という一点では全員が合意している、という奇妙な均衡状態にある。
英語圏はまったく違う。向こうでは今も現役の論争だ。二〇二四年から二〇二五年にかけて、人気ポッドキャストでのハンコック対ディブルの討論が数千万回再生され、その中で与那国が繰り返し映された。切り抜き動画のタイトルは決まって「ヒートアップ」だ。コメント欄は完全に真っ二つで、片方は「地質学者が説明できていない」と言い、もう片方は「砂岩の節理を知らないだけ」と言う。
二〇二五年四月のエピソードをきっかけに、与那国の名前が英語圏で一気に跳ねた。日本の離島の海底の岩が、アメリカのポッドキャスト文化の中で新しい命を得たわけだ。
学術の側の反応は、日本語圏でも英語圏でも一貫して冷たい。特に厳しいのは水中考古学の分野で、東京海洋大学の岩淵聡文は、この騒動が一九九〇年代の日本の水中考古学を大きく停滞させた一因だと指摘している。予算も人材も限られた分野で、「海底遺跡」という言葉が超古代文明のイメージと結びついてしまったせいで、真面目な沈没船調査や港湾遺構の研究が「そういう分野」と見なされる副作用が生じた。
学界がこの話題に不機嫌なのには、それなりの理由がある。
ただし岩淵は、同時に建設的な提案もしている。人工説を放棄したうえで、世界有数の大規模な節理群として自然遺産に位置づければ、観光資源としてもダイビング拠点としても十二分に価値がある、と。立派な水中自然遺産だ、というのが彼の言葉だ。これは実は、島にとって悪くない出口かもしれない。
島にはもともと、石と海の記憶がある
与那国という島の背景を知ると、この地形が「遺跡」として受け入れられた土壌が見えてくる。
島の北側にティンダバナという、高さ八十五メートルの断崖がある。国指定の名勝で、上に立つと祖納の集落と湾が一望できる。ここに、サンアイ・イソバという女酋長の伝説が残っている。十五世紀から十六世紀の人物とされ、身長は二メートルを超えていたという。彼女はティンダバナを城として島を統治し、外からの侵略者を退けた。実在したかどうかは確かめようがないが、島の人々にとっては歴史そのものだ。
巨大な女性の首長が断崖の上に住んでいた島。この記憶がある場所で、海の底に巨石の城があると言われたら、それは自然に受け入れられる。
もっと重い記憶もある。琉球王府の支配下に入った与那国には、人頭税が課された。年齢に達した島民全員に一律で課税する制度で、病気だろうが怪我をしていようが容赦がなかった。この制度の下で、島には二つの地名が生まれた。
久部良バリは、久部良集落の近くにある岩の裂け目だ。幅三メートルから五メートル、深さは七メートルほど。ここに妊婦を集めて跳び越えさせたという伝承がある。跳べなかった者を、人口抑制のために選別したというのだ。もう一つが人枡田、トゥングダと呼ばれる田んぼだ。太鼓の合図で島民を集め、遅れて来た者を処刑したとされる。どちらも文献的な裏付けは弱く、後世に作られた語りだという見方も強い。
だが島の人々はこの話を語り継いできた。
与那国にはカイダー字という独自の象形文字も伝わっていた。物の形をかたどった記号で、納税の記録や送り状に使われたという。中国の文字とも日本の文字とも違う、この島だけの記号体系だ。木村が海底の岩に刻まれた線を「原始的な文字」と解釈したとき、島にはすでに独自の文字の記憶があった。これも効いている。
そして地形だ。サンニヌ台の直角の岩場、立神岩という海から突き出た巨大な柱状の岩、軍艦岩。与那国の海岸線には、人が造ったとしか思えない形の岩がごろごろしている。島の人々は昔からそれを見て育っている。だから海の底に同じものがあると聞いても、驚きはするが、あり得ないとは思わない。むしろ「やっぱりあったか」という感覚に近い。
二〇一六年には島に自衛隊の沿岸監視隊が配備され、島の空気はまた変わった。国境の島であること、台湾までわずかな距離であること、その地政学的な現実と、海底に沈む古代文明という夢想が、同じ島の同じ海で同居している。
なぜこの岩は、四十年も人を狂わせるのか
理由はいくつもあるが、根っこは三つだと思う。
一つめは、直角の暴力性だ。人間の脳は直線と直角を「意図」として処理する。自然界に直角が少ないから、直角を見ると設計者を探す。これは進化的にほぼ強制されている反応で、理屈で消せない。だから節理の説明を完璧に理解した人でも、写真を見た瞬間に一度は「人工物だ」と思ってしまう。この一瞬の確信が、あらゆる論理の前に来てしまう。
二つめは、水中であることだ。もしこれが陸上にあったら、四十年も揉めていない。誰かが掘って、土器か骨か炭が出るか出ないかで話が終わっていた。ところが海の中では、調査に船と機材と資格と天候が要る。潜れる時間は一本四十分ほど。黒潮の流れが走れば中止。だから誰も全体を「見て」いない。見ているのは断片だけだ。断片しか見えないとき、人は想像で埋める。海というのは、想像で埋める余地を最大化する場所なんだよな。
三つめは、決着させる主体が存在しないことだ。文化庁は文化財と認定していないので調査しない。認定しないのは学術的に人工物と認められていないからで、学術的に認められないのは公的調査が行われていないから――という循環が回り続けている。木村政昭は個人と大学の予算でここまでやったが、彼は水中考古学者ではない。水中考古学者たちは最初から関わろうとしなかった。誰も審判をやりたがらない試合が、四十年続いている。
そこへ観光が乗った。名前がつき、コースができ、半潜水艇まで走るようになった。「与那国海底地形」より「与那国海底遺跡」のほうが客は来る。だから現地では今も遺跡と呼ばれる。学術的な呼称と観光上の呼称が別々に存在していて、どちらも間違いではないという状態だ。この二重性がまた、決着を遠ざけている。
そして最後に、この話には悪役がいない。木村政昭は名誉のために嘘をついたわけではないし、批判側も個人攻撃をしているわけではない。新嵩喜八郎は本物の発見をしたし、島は正当に観光の恩恵を受けている。誰も悪くないまま、真相だけが海の底に残っている。だからこの話は気持ちよく終われない。気持ちよく終われない話は、いつまでも語られる。
四十年の喧嘩は、証拠ではなく解像度の争いだった
改めて全体を俯瞰すると、与那国島海底地形の四十年は「証拠の争い」ではなかった。「解像度の争い」だった。ここを押さえないと、この論争の奇妙な粘り強さが理解できない。
人工説と自然説は、実は同じ対象を見ていない。木村政昭が見ているのは全体の構図だ。二百五十メートル四方の中に、階段があり、道があり、門があり、壁があり、穴がある。それらの位置関係が、都市計画のように読める。この読みは、地形図を眺めていると本当に説得力がある。等高線を追っていくと、通路が構造物を巡り、テラスが階層的に配置されているように見えてくる。
木村が四十年降りられなかったのは、この「図面としての整合性」に取り憑かれたからだ。
一方、批判側が見ているのは局所だ。ウニの穴一つ、甌穴の中の石一つ、節理の走向一本。彼らは全体像には興味がない。というより、全体像を語る資格が個々の証拠にはないと考えている。柱穴だと言われた穴が甌穴だと確定した時点で、その穴を根拠にした議論は終わる。そうやって足元の証拠を一つずつ剥がしていけば、全体像は自然に崩れる。実際、この方法は極めて有効だった。
二〇〇〇年代半ば以降、人工説の物証はほぼ全て個別に反駁されている。
問題は、物証を全部剥がしても、あの階段が消えないことだ。ここが厄介なところで、批判側は「なぜ階段に見えるか」の説明には完全に成功しているが、「見えている階段そのもの」を消すことはできない。水平の層理と直交する二組の垂直節理で階段はできる。これは正しい。だが同じ説明が成り立つ場所は世界中に無数にあるのに、なぜ与那国のこれだけが群を抜いて建築的に見えるのか。
ハンコックの「密度の議論」は、実はここを突いている。詭弁っぽく聞こえるが、完全には論破されていない。
これに対する自然説側のいちばん誠実な答えは、たぶん「選択バイアス」だ。人間は建築的に見える岩場だけを取り上げて名前をつけ、そうでない岩場は無視する。与那国の海底には、遺跡ポイントの周辺にも似たような節理の岩場が延々と続いている。そのうち特にフォトジェニックな二百五十メートルだけが切り取られて「遺跡」になった。世界中の海底に無数の節理地形があって、その中の最も建築的な一つが与那国だった。
それだけだ、と。この説明は正しいと思う。だがつまらない。そしてつまらない正解は、面白い誤答に負けることがある。少なくとも一般の人気投票では。
年代論についてもう一度整理しておきたい。人工説が本当に苦しいのは、地質学ではなく考古学の側なんだよな。仮に一万年前に人の手が入ったとしよう。すると与那国周辺に旧石器時代後期の人間集団がいて、彼らが数百メートル規模の石造構造物を造ったことになる。当時の東アジアで、それに比肩する構築物はどこにも存在しない。世界最古とされるトルコのギョベクリ・テペでも一万一千年前、規模ははるかに小さい。
与那国の海底地形が人工物なら、それは人類史の年表を根本から書き換える。書き換えるには、階段の写真だけでは足りない。
逆に二千年から三千年前だとすると、今度は状況証拠が全部逆を向く。この時期の八重山諸島には貝塚時代後期の文化があり、土器も石器も貝製品も出土している。だが巨石建築を造る社会構造の痕跡はゼロだ。人口も少ない。労働力を組織する首長制の証拠もない。そして海面は現在とほぼ同じだから、造ったそばから沈める理由がない。急激な地殻変動で沈んだという説明には、それを裏づける地質データがない。
二〇〇五年から二〇〇六年の琉球大学調査が示した十世紀後半から十一世紀前半という年代に至っては、その時代の与那国は文献にも記録が残り始める頃で、二百五十メートルの神殿が造られて水没したなら誰かが覚えているはずだ。誰も覚えていない。
つまり人工説は、どの年代を選んでも別の矛盾に突き当たる。これは仮説として構造的に詰んでいる。四十年かけて年代を六回動かしたのは、木村が場当たりだったからではなく、動かせる場所がどこにもなかったからだ。
では自然説が完全勝利かというと、これも言い切れない部分が一つ残る。人が全く関わっていないと証明することは、原理的にできない。海底地形の一部を、かつて陸だった時代の人間が採石場として使った、あるいは何らかの目印として利用した、あるいは単に登って眺めていた――そういう可能性は、否定する方法がない。ショックの「九十五パーセント」という留保も、突き詰めればここに由来する。
地質学者として自然形成を証明することはできても、人間が一度も触れなかったことを証明する手段はない。だから彼は九十五と言った。あの数字は妥協でも日和見でもなく、科学者として言える限界だった。
この論争が現代に持つ意味も考えておきたい。二〇二〇年代に入って、いわゆる「失われた文明」言説はネット動画とポッドキャストの世界で爆発的に拡大した。ハンコックのドキュメンタリーシリーズが世界的な配信プラットフォームで公開され、考古学者たちが公式に抗議声明を出す事態にまでなった。ポッドキャストでのハンコック対ディブルの討論は、その緊張が頂点に達した瞬間だった。
そしてその討論の中で、与那国は「最も強力な物証」として何度も持ち出された。日本の離島の岩場が、グローバルな疑似考古学論争の最前線に立たされている。
面白いのは、日本国内では既に決着済みと見なされている話が、海外ではまだ生きているという非対称だ。日本語で書かれた詳細な反証――ウニの穴、甌穴の石、傾斜の誇張、サンニヌ台の類似――のほとんどは英語に翻訳されていない。だから英語圏の議論は、二〇〇〇年前後の情報水準で止まっている。言語の壁が、一つの仮説を二十年延命させた。これは情報流通の話としてかなり示唆的だ。
そして与那国の側から見ると、この論争はもはや学術問題ではなく地域資源の問題になっている。人口千五百人ほどの島に、この地形を見るためだけに人が来る。ダイビングサービスが成り立ち、宿が埋まり、半潜水艇が動く。冬にはハンマーヘッドの群れが来て、夏には遺跡が来る。二〇一六年に町が史跡指定やジオパーク登録の検討を表明したのも、この資源を制度的に守りたいからだ。
同年十月の第一回検討会議で、人工か自然かで割れている専門家たちが「保護すべき」という一点だけは全員一致したというのは、この話全体の中で最も健全な瞬間だったと思う。
岩淵聡文が提案した「水中自然遺産」という着地点は、実によくできている。あれを世界有数の大規模節理群として位置づければ、学術的に正しく、かつ観光的にも損をしない。むしろ地質学的には本当に貴重だ。あれだけの規模で層理と節理の直交構造が水中に露出している場所は、世界的にも珍しい。人工物として売るより、自然物として売ったほうが、長期的には強いブランドになる可能性すらある。
ジャイアンツ・コーズウェーは巨人の石畳という伝説を残したまま、世界自然遺産になった。伝説を捨てる必要はない。伝説は伝説として残し、事実は事実として登録すればいい。
最後に、この四十年で結局何がわかったのかを言っておく。わかったのは、与那国の海底地形が自然の産物である可能性が圧倒的に高いということだ。これは動かない。物証はほぼ全て反駁され、年代論は破綻し、陸上に同型の地形が存在する。学術的にはもう議論の対象ですらない。
だがもう一つ、同じくらい確かなことがある。あの場所に潜った人間の多くが、水中で一瞬「これは造られたものだ」と確信するという事実だ。地質学者も、素潜りの伝説も、旅行者も、同じ反応をする。ヴィッヒマンですら、データを取りながらその印象が消えなかったと述べている。これは錯覚だが、錯覚が集団的に、再現性を持って発生している。錯覚の再現性というのも、それはそれで観察に値する現象だ。
千六百万年前に積もった砂と泥が、地殻の力で賽の目に割れ、氷期の海面低下で陸になり、波と風に削られ、また海に沈んだ。そこに人間が潜って、直角を見て、都市を幻視した。この一連の流れの中で、いちばん不思議なのは岩のほうじゃない。岩を見て神殿を見てしまう、こちら側のほうだ。
与那国の海の底では今日も、誰も造っていない階段が、誰かを待つみたいに段を連ねている。そして四十年前と同じように、そこへ潜った誰かがまた、水の中で息を詰めることになる。この構造だけは、たぶんあと四十年経っても変わらない。
