世界には、まだ誰にも読めていない文字がいくつかある。その中でも、ロンゴロンゴはちょっと異質だ。なにが異質かというと、読めなくなった瞬間が、ほぼ特定できてしまう点である。エジプトの神聖文字は千数百年かけてじわじわ忘れられた。インダスの印章は四千年前に途絶え、線文字は三千年以上前だ。
ところがロンゴロンゴは違う。一八六〇年代の、たった数年のあいだに読み手が消えた。しかも、その消えかたを目撃した人間の記録が残っている。つまりこれは、人類が「文字が死ぬ瞬間」を至近距離から見てしまった、たぶん唯一の事例だ。その板が、いま世界に二十数枚しかない。
しかも一枚も、生まれ故郷のラパ・ヌイには残っていない。この記事では、その板そのものの話をする。モアイの話ではないし、島の生態系がどうなったかという話でもない。彫られた記号の並び、それを彫った人間、それを読んでいた人間、そしてそれを読もうとして失敗し続けている人間たちの話だ。長い。
だが、途中で飽きるような題材ではないと思う。
- 手のひらに乗る「しゃべる板」の正体
- 一センチの鳥、一センチの魚、一センチの人
- 板をひっくり返しながら読む、という異常な作法
- 一八六四年一月、修道士が見た「どの家にもある板」
- 人毛の釣り糸に巻かれて、それは司教のもとへ届いた
- 「読める者はもういない」という答え
- 一八六二年、水平線に船が現れた
- 焼かれた板、糸を巻かれた板、カヌーになった板
- タフア――櫂の刃に彫られた、島でいちばん饒舌な板
- アルク・クレンガ――溝を掘った、贅沢な一枚
- ママリ――月を数えている、たった一つ意味のわかった板
- エシャンクレ――人毛の糸巻きにされていた、あの板
- ケイティ――一九一四年、図書館とともに焼けた板
- サンティアゴの杖――二千三百二十字、唯一の「杖」
- ロンドンの板――港町の骨董屋で見つかった一枚
- 大サンクトペテルブルク板とワシントンの板――船底になった二枚
- ベルリンの「ブーメラン」――流木で、焼けていて、触ると崩れる
- 小さきものたち――胸飾り、鳥人像、嗅ぎタバコ入れ
- ポイケの重ね書きと、布切れの騒動
- ジョーサンのリストとメトロの歌――最初の、そして最も罪深い失敗
- 一八八六年、ラム酒と老人――ウレ・ヴァエ・イコの夜
- エヴェシの妄想――インダス文字とロンゴロンゴ
- バルテルの目録――解読はできなかったが、地図を作った男
- 王の系譜か――ブチノフとクノロゾフの読み
- フィッシャーの「三つ組」――いちばん有名で、いちばん叩かれた説
- フョードロワの逐語訳――本人が「狂人の作品」と呼んだもの
- ポズドニャコフ兄弟の統計――記号は、たぶん五十二個しかない
- それでも読めない――近年の音節説と、その先
- 文字なのか、文字もどきなのか
- 一四九三年から一五〇九年――炭素が吐き出した異物
- その数字を、うのみにしてはいけない理由
- ネットの中のロンゴロンゴ――宇宙人、沈んだ大陸、そして地道な反証
- 島の記憶――アナケナの朝、王が板を掲げた
- 島の記憶――ハンセン病の集落で、老人はまだ書いていた
- 島の記憶――コロの夜、死者の手柄を数える板
- 島の記憶――板でいっぱいだった家と、女たちの胸飾り
- 島には一枚もない、という事実
- 読めない、というのはどういうことか
手のひらに乗る「しゃべる板」の正体
まず、モノとしてのロンゴロンゴを押さえておきたい。ここを飛ばすと、後の話が全部ふわっとする。ロンゴロンゴは、木の板に彫られた記号の列である。ラパ・ヌイ語では「コハウ・ロンゴロンゴ」と呼ばれる。コハウというのは、もともとカヌーの船体に使う木材を指す言葉らしい。
ロンゴロンゴのほうは「唱える」「呼ぶ」といった意味に結びつけられる。合わせて「しゃべる板」とか「唱えるための木」といったニュアンスになる。オーストラリアの博物館の解説なんかは、そのまま「トーキング・タブレット」と訳している。悪くない訳だと思う。大きさは一定していない。
いちばん小さいものは手のひらに収まる十センチちょっと。いちばん長いサンティアゴの杖は百二十六センチある。標準的な板は三十センチから六十センチくらいで、厚みは二センチ前後。ようするに、まな板とか、分厚い定規とか、そのへんのサイズ感だ。うやうやしく祭壇に飾る石碑みたいなものではなく、抱えて持ち歩ける日用品のサイズである。
材質がまた面白い。長いこと「トロミロという島固有の木で作られている」と言われてきた。トロミロはラパ・ヌイの象徴的な樹木で、いまは野生では絶滅している。ロマンのある説明だ。ところが実際に樹種を分析してみたら、大半はトロミロではなかった。
カトリーヌ・オルリアックらの調査で、多くがマコイ――太平洋ハマボウ、いわゆるパシフィック・ローズウッドと呼ばれる樹だと判明した。高さ十五メートルほどになる木で、島でも育つ。そして、残りがもっと妙なのだ。ヨーロッパのトネリコ。アフリカ産の針葉樹。
どう見ても島に生えていない木が混じっている。つまり、外から来た船の櫂やら板材やらを削って再利用している。漂着した流木を使ったものもあり、木が足りなかったのだ。島には大きな樹がほとんど残っていなかった。一七二二年にオランダ船が来たときの記録には、島は「大きな木を欠いている」と書かれている。
ここが最初の引っかかりどころになる。書くための材料が慢性的に不足していた島で、なぜ文字が生まれ、なぜ維持されたのか。紙のない場所で、貴重な木を削ってまで残したかった情報とは何だったのか。この問いは、記事の最後まで消えない。
一センチの鳥、一センチの魚、一センチの人
記号のほうを見よう。一つの記号のサイズは、だいたい一センチ。高さ一センチの図像が、びっしりと横一列に並ぶ。それが板の表と裏に、七行から十四行。一枚で千を超える記号が彫られているものも珍しくない。
全部合わせると、現存する記号の総数は一万五千前後になる。図像は「生き物の輪郭の様式化」と言われる。人らしきもの。鳥らしきもの。魚。
植物もある。それに幾何学的な形。頭のある記号はほぼ例外なく頭を上に向けていて、正面を向くか、右を向いている。この向きの規則性がかなり厳格で、それ自体が「これは適当な落書きではない」という証拠になっている。そして、記号同士がくっつく。
人の胴体に鳥の頭が生えたような形、魚の記号が手のように使われている形。こういう合体形を合字と呼ぶ。この合字の存在が、後の記号数の数えかた論争を地獄にする。何を一個と数えるのか、誰も合意できないのだ。彫りかたも伝承が残っている。
まず黒曜石の破片で下描きを彫る。次にサメの歯で溝をなぞって深くする。二段構えだ。ある証言によれば、ある王は魚の骨に煤をつけて記号を下描きし、それからサメの歯で彫ったという。この二段階が、じつは現代の研究に効いている。
下描きだけして仕上げをしなかった線が、いくつかの遺物に残っているのだ。ニューヨークの鳥人像がそうで、黒曜石で引いただけの線がサメの歯で仕上げられておらず、時間とともに擦れて消えかけている。バルテルが拓本で採録したときは、こういう浅い線をごっそり見落としていた。後年フィッシャーが線描で描き直したとき、その差が問題になった。
つまり、我々が「ロンゴロンゴのテキスト」だと思っているものは、誰が写したかによって微妙に違う。原典の段階で揺れている。三分の一ほどの板には、あらかじめ浅い溝が彫ってあり、行を書くための罫線だ。この溝の有無で「溝付き」「溝なし」と分類される。罫線を引いてから書く、という発想がある時点で、これはかなり整った運用がされていたと考えたくなる。
板をひっくり返しながら読む、という異常な作法
ロンゴロンゴでいちばん有名なのは、たぶん読みかたの奇妙さだろう。正式には逆行牛耕式という。ブストロフェドンというのは「牛が畑を耕すように」という意味のギリシャ由来の語で、行が右から左、次は左から右、と交互に折り返す書きかたを指す。古代の地中海世界にもあり、それ自体は珍しくない。ロンゴロンゴが異常なのは、そこに百八十度の回転が加わることだ。
読み手は板の左下の角から始める。左から右へ一行読む。行の終わりまで来たら、次の行に目を移す――のではなく、板そのものを百八十度ひっくり返す。そしてまた左から右へ読む。これを繰り返す。
だから、板を固定して眺めると、一行おきに文字が逆さまに見える。上下逆の行と正立の行が、交互にサンドイッチされており、想像してみてほしい。薄暗い場所で、何人もの前で、板をくるくる回しながら朗々と唱える人間の姿を。読むという行為が、そのまま身体の所作になっている。文字を目で追うのではなく、文字と一緒に踊るような読みかただ。
読む方向がこうだと確定できたのは、いくつかの手がかりが重なったからだ。行が折り返す位置で記号がねじれているもの。行の末尾で入りきらずに押し潰された記号。そして、複数の板に共通して現れる並びの照合。この三つを突き合わせると、開始点と進行方向が決まる。
ついでに言うと、片面の行数が奇数だった場合、裏面は左上から始まって上から下へ進むことになる。読み手はこの切り替えも把握していなければならない。素人がふらっと手に取って読める代物ではない。
一八六四年一月、修道士が見た「どの家にもある板」
ここから、発見と喪失の話に入る。時系列で追いたい。一八六四年一月二日。ウジェーヌ・エローという名のフランス人が、ラパ・ヌイに上陸した。カトリックの平修道士である。
彼は宣教のために島に住み着いた最初のヨーロッパ人で、エローの島暮らしは、控えめに言っても悲惨だった。持ち物は次々に持っていかれ、言葉も通じず、体調も崩し、それでも彼は島の家々に出入りしていた。そして、あることに気づき、彼はこう書いている。どの小屋にも、木の板か、いろいろな種類の象形文字らしきものに覆われた棒がある。それは島にいない動物を描いたもので、島の人々は尖った石でそれを描く。
それぞれの図には名前がついている。しかし、彼らがそれらの板に払う注意はごくわずかだ。この文字はもはや何かの原初的な文字の名残として、意味を求めずに保たれている習慣にすぎないのではないか、と思わせる。淡々としている。あまりにも淡々としており、ここが、ロンゴロンゴをめぐる最大の「もし」だ。
エローは、島じゅうの家に文字板がある光景を見た。
おそらく数百枚。彼はそれを一段落だけ書いて、それきり報告の中で触れなかった。読み手を探したという記録もない。誰かに読ませて書き取ったという記録もない。なぜか。
いくつか説明はつく。まず、彼は宣教師であって学者ではなく、文字の解読は彼の仕事ではなかった。次に、彼自身の生活が破綻寸前だった。そしてもう一つ、これが重い――島の人々が彼に見せたがらなかった可能性だ。板には禁忌が絡んでいた形跡がある。
それ以前に島を訪れたヨーロッパ人が誰一人この板に言及していないのも、単に見落としたのではなく、見せられなかったからだと考える研究者は多い。エローは一度島を離れ、のちに戻り、一八六八年八月に結核で亡くなった。彼が見た数百枚の板のうち、いま残っているのは二十数枚である。
人毛の釣り糸に巻かれて、それは司教のもとへ届いた
一八六八年。タヒチのパペーテ。フロランタン・エティエンヌ・ジョーサンという司教がいた。フランス生まれ、タヒチ初代司教。現地では自分のミドルネームのタヒチ読みから「テパノ」と呼ばれていた。
彼のもとに、ラパ・ヌイから来た改宗者たちからの贈り物が届く。贈り物というのは、人間の髪の毛を撚った長い紐で、十六メートル。おそらく釣り糸である。ラパ・ヌイでは人毛の紐は貴重品で、贈答品としては上等な部類だ。問題は、その糸が何に巻かれていたかだった。
糸巻きの芯にされていたのは、記号のびっしり彫られた木の板だった。ジョーサンはこれを見て凍りついた、と伝えられる。彼はポリネシア各地を回り、タヒチ語の文法書まで書いた人物だ。ポリネシアに文字がないことを知っていた。にもかかわらず、目の前に文字らしきものがある。
彼はすぐさま、ラパ・ヌイにいるイポリット・ルーセル神父に手紙を書いた。板をすべて集めろ。そして、それを読める者を探せ。これが、ロンゴロンゴ回収作戦の始まりである。エローが数百枚を目撃してから、わずか四年後だった。
そして四年で、ほとんど全部が消えてしまう。
「読める者はもういない」という答え
ルーセル神父が集められた板は、ほんの数枚で、司教は島の識者、ウルパノ・ヒナポテという人物に問いただした。返ってきた答えが、この件のすべてを要約している。この文字を読める者は、島にはもういない。ペルー人が賢者たちを皆殺しにしてしまったからだ。だから、あの木片はもう誰の関心も引かない。
人々はそれを薪にして燃やすか、釣り糸を巻きつけるのに使っている。司教のもとに最初に届いた板が、まさに釣り糸の糸巻きだったことを思い出してほしい。あれは象徴でも比喩でもなく、実際にそういう扱いだったという物証だった。集められた板を持ち寄って、島の人々に読ませてみたこともある。だが、誰の読みも一致せず、同じ板を見て、まったく違うことを言うのだ。
一八六二年、水平線に船が現れた
なぜ賢者たちが消えたのか。ここは慎重に書く。一八六二年から翌年にかけて、ペルーの船団がポリネシア各地で人さらいを行い、ラパ・ヌイもその標的になった。島の人口の相当部分が連れ去られる。連れ去られた人々の多くは、劣悪な労働環境と病で命を落とした。
国際的な抗議を受けて送還が試みられたが、帰路と帰島後に伝染病が広がり、生還者はごくわずかにとどまる。このとき失われた人々の中に、王も、司祭も、そして板を読む専門家たちも含まれていた。当時の王の後継者もさらわれている。ここで強調しておきたいのは、これは「文明が自滅した」という話ではまったくない、という点だ。島の外から来た暴力が、特定の知識を担っていた人々を集中的に奪った。
そして帰島者が持ち込んだ天然痘が追い打ちをかけ、一八七〇年代には島の人口は二百人を下回った。ある記録では、一八七二年の時点で島に残っていたのは百十一人だとされる。四千人規模だったと推定される社会が、十数年で百人ちょっとになる。文字を読み書きする技能というのは、人口の中のごく一部の人間が担うものだ。専門家層が集中的に失われれば、たとえ社会そのものが生き延びても、技能は復元できない。
ロンゴロンゴに起きたのは、そういうことだった。被害を数字で語るのは冷たく響くかもしれない。だが、その冷たさの向こう側に、名前のある一人ひとりがいたことは忘れないでおきたい。生き延びた人々の子孫は、いまもラパ・ヌイにおり、彼らは滅んだ民族ではない。現在進行形で、自分たちの言語と文化を保っている人々だ。
焼かれた板、糸を巻かれた板、カヌーになった板
板がどう失われたかは、残った板そのものが語っており、ここが実に生々しい。ラージ・サンティアゴ板と呼ばれる一枚には、右側に十センチほどの深い抉れがある。これは火起こしのために板を擦った跡だと考えられている。同じ板の一部は実際に焼け落ちている。千七百字以上あったはずのテキストが、火種を作るために削られた。
サンクトペテルブルクの大きな板と、ワシントンの大きな板。この二枚には、縁に沿って穴が並んでおり、九つ、あるいは十二。これは紐で縛るための穴だ。板はカヌーの舷側板として転用されていた。そして、これに対応する口伝がある。
ニアリという男が、打ち捨てられていた板を集めてカヌーを作ったという話だ。板は文字が彫られている分だけ薄くなっていて、あまり良い船にはならなかったらしい。ベルリンの板は、五か所で焼かれた跡がある。そのうえ湿った土の中に長く置かれており、おそらく洞窟だ。いまでは触るだけで表面が剥がれ落ちる。
パリには、板を切り刻んで作られた嗅ぎタバコ入れがある。七センチ四方ほどの小箱で、六面すべてに記号が残っている。誰かが、読めなくなった聖なる板を、携帯用の小物入れに仕立て直したのだ。こうして並べると、ある種の残酷な合理性が見えてくる。読めない文字が彫られた、加工済みの平らな木材。
木材が慢性的に不足している島。使い道は、いくらでもあった。ただし――ここは公平に書きたい――宣教師が焼却を主導したという話も繰り返し語られてきた。異教の遺物として排斥された、と。この筋書きは完全な作り話ではないが、単純化されすぎている。
実際には、板を集めようとしたのも宣教師だった。ジョーサンは必死になって回収させている。読み手を失った社会が板を実用品に転用したことと、キリスト教化のなかで板への敬意が薄れたことは、どちらも起きた。片方だけを悪役にすると、話が嘘になる。
タフア――櫂の刃に彫られた、島でいちばん饒舌な板
ここからは、板を一枚ずつ見ていく。タフアは、ラパ・ヌイ語で「櫂」を意味する。名前のとおり、これはヨーロッパ船かアメリカ船の櫂の刃を切り落として作られた板だ。九十一センチ、幅十一・五センチ、厚さ二センチ。材はヨーロッパ産のトネリコとされてきた。
表裏それぞれ八行、合計およそ千八百二十五字。現存する板としては最大級のテキスト量を持つ。一八七〇年、ルーセル神父とツムボーム神父が島で回収し、タヒチのジョーサンに送った。ジョーサンの死後、この板は転々とする。パリ、ベルギーのブレーヌ・ル・コント、ローマ近郊のグロッタフェッラータ、そして最終的にローマへ。
いまはローマの修道会本部にあり、考えてみると異様な話だ。どこか外国の船から流れ着いた櫂の刃を、島の誰かが拾い、削り、そこに千八百字を彫り込んだ。そして書き終わったその板が、また船に乗って、地球の反対側のローマにいる。櫂は結局、旅を続けたわけだ。
アルク・クレンガ――溝を掘った、贅沢な一枚
アルク・クレンガはローマにあり、太平洋ハマボウの材で、溝付き。千百三十五字ほど。この板が効いてくるのは、二〇二四年の放射性炭素年代測定で対象になった四枚のうちの一枚だからだ。結果は一八三〇年代から五〇年代あたり。つまり、ヨーロッパ人が本格的に島に関わりはじめた時代の木である。
ここで先回りして言っておくと、この「新しい」という結果は、ロンゴロンゴが新しいことを意味しない。木が伐られた年代であって、彫られた年代ではないからだ。この区別は後でしつこく扱う。
ママリ――月を数えている、たった一つ意味のわかった板
現存するロンゴロンゴのうち、内容が部分的にでも判明していると認められているのは、この一枚だけだ。ママリは二十九センチ×十九・五センチ×二・五センチ。太平洋ハマボウ製で、片面十四行、合計およそ千字。保存状態は極めて良い。
一八七〇年、ツムボーム神父が回収してジョーサンに送った。いまはローマ。この板の表面、六行目から八行目あたりに、三日月の形をした記号が規則的に現れる区画がある。トマス・バルテルは、これがラパ・ヌイの太陰暦だと見抜き、もう少し詳しく言う。ジャック・ギーの分析によれば、この区画には三日月の記号が並び、それに魚の記号が付随する。
魚は上向きと下向きがある。月が満ちていく期間には魚が上を向き、欠けていく期間には下を向く。さらに、満月の六夜前と六夜後には、通常より小さい三日月が置かれている。これは月が地球から遠い位置――遠地点にあって、見かけの直径が小さくなることに対応していると考えられる。つまりこれは、ただの日付の羅列ではない。
二十八夜の月に、閏の夜を一晩入れるか二晩入れるかを判断するための天文規則ではないか、というのがギーの見立てだ。ここが痺れるところであり、ロンゴロンゴが解読されていないというのは事実だ。だが、この区画については「何をしているか」が分かっている。月の満ち欠けを数え、暦のずれを補正する手続きが書かれている。分かっていないのは「何と読むか」だけだ。
構造は見える。音は聞こえない。この状態が、ロンゴロンゴ研究の全体を象徴している。なお、ママリの材の分析には別の謎がある。オルリアックの計算では、この板を切り出すには高さ十五メートル級の幹が必要になる。
ところが一七二二年の記録では島に大木はなく、一七七〇年には幅十五センチの板すら取れなかったとされる。ということは、ママリは相当古い時代の木か、外から来た木ということになる。二〇二四年の測定では、この板は一六九〇年代から一七二〇年代という値が出た。ヨーロッパとの本格的な接触より前の木である可能性が高い。
エシャンクレ――人毛の糸巻きにされていた、あの板
ジョーサン司教のもとに最初に届いた、あの板がこれである。三十センチ×十五センチほど。楔形に割れた木片で、上下に切り欠きがあり、片面に深い溝。表に七行、その斜めの縁にもう一行の痕跡、裏に六行。合計二百七十字ほど。
名前のエシャンクレは、フランス語で「切り欠きのある」という意味だ。その切り欠きこそ、人毛の紐を巻きつけるための構造だった――というより、糸を巻くために後から削られた可能性がある。文字板が、糸巻き用に加工されている。一八六九年、ツムボーム神父と、ウルパノ・ヒナポテという人物によってジョーサンのもとへ届けられた。
ヒナポテは、のちに「読める者はもういない」と司教に告げる、あの人物と同じ名で記録されている。そしてこの板が、二〇二四年に世界のニュースを駆けめぐることになる。現在はタヒチのプナアウイアにある博物館に長期貸与されており、皮肉と言えば皮肉だ。島から持ち出された板の一枚が、いちばん故郷に近い場所に置かれている。
ケイティ――一九一四年、図書館とともに焼けた板
これは実物が存在しない。ケイティは三十九センチ×十三センチ。溝付き。表に九行、裏に八行、合計およそ八百八十字。虫食いが少しあるほかは美しい状態だった。
ジョーサンはこれを「虫食いの板」と呼んでおり、一八七〇年に回収され、タヒチへ。一八八八年、ジョーサンはこれをパリの修道会本部に送り、ベルギーのルーヴァン・カトリック大学の東洋学者に届けるよう指示した。板は一八九四年にルーヴァンへ渡り、大学図書館に収蔵される。一九一四年、第一次世界大戦の緒戦でルーヴァンは戦火にさらされ、大学図書館は焼失し、ケイティも一緒に燃えた。
残っているのは、それ以前に取られた拓本と、二組の写真だけだ。片方の写真は、記号の溝に白い充填材を入れてコントラストを上げたもので、いまでも研究に使われている。拓本のほうはカリフォルニアの図書館にある。ロンゴロンゴの現存点数が二十数点しかない、という話をするとき、この一枚は「かつてあった」側に数えられる。世界大戦が、ラパ・ヌイの文字を一枚削ったのだ。
サンティアゴの杖――二千三百二十字、唯一の「杖」
これは板ではなく、棒だ。長さ百二十六センチ。断面は円形で、直径は五・七センチから六・四センチある。全周にわたって記号がびっしり彫られており、十三行と、もう半端な一行。記号の総数はおよそ二千三百二十。
現存するロンゴロンゴの中で最長のテキストである。一八七〇年、島にいたフランス人植民者ジャン・バティスト・デュトルー・ボルニエが、チリ海軍のコルベット艦の士官たちにこれを渡した。彼はこれを「王のものだった」と説明したという。デュトルー・ボルニエという男は島の歴史に暗い影を落とす人物で、彼の言うことをどこまで信じるかは難しい。杖は一度所在不明になり、一八七六年にサンティアゴの自然史博物館に収まった。
この杖の特異な点は、垂直の区切り線が百三本入っていることだ。他のテキストでこれがあるものはほとんどない。フィッシャーはこれを「節」の区切りだと解釈した。そして、ここに例の記号があり、バルテルの番号で言う七六番。この杖の上に五百六十四回現れる。
五百六十四回だ。二千三百二十字中の五百六十四字だから、四分の一近い。この記号が何なのかをめぐって、ロンゴロンゴ研究史でいちばん激しい喧嘩が起きた。それは後述する。内容についても意見が割れている。
フィッシャーは創世の詠唱だと言い、ギーは戦の記録と系譜だと言う。統計的に見ると、この杖は他のテキストと語彙の重なりが薄く、孤立している。杖だけが違うジャンルだった可能性がある。
ロンドンの板――港町の骨董屋で見つかった一枚
これは来歴が変わっている。一九〇〇年ごろ、大英博物館の学芸員だったオーモンド・マドック・ダルトンという人物が、ロンドンの波止場地区の骨董店でこれを買った。店の主人は「最近の持ち主の家に三十年以上あった」と言ったという。つまり、一八七〇年前後にはもうヨーロッパに来ていた計算になる。二十二センチ×六・八センチ×一・八センチ。
太平洋ハマボウ製。溝なし。二百五十字ほど残っており、もとは二百九十字くらいだったらしい。ダルトンは一九〇三年十一月にこれを大英博物館に寄贈した。彫りが粗いので、当初は贋物ではないかと疑われた。
だが後年、メトローもバルテルも本物と認めている。さらに面白いのは、表面の下に髪の毛のように細い記号の痕跡が見えることだ。一度彫った板を削って彫り直した重ね書きの可能性がある。内容については、フィッシャーもバルテルも「これはリストだ」と見ている。似た記号の並びが繰り返されるからだ。
しかも、他の板のテキストを言い換えて要約したような構造をしている。だとすると、これは「他のロンゴロンゴ・テキストの目録」かもしれない。板の索引カードだ。フィッシャーはこの板の制作年代を一八六〇年代直前と見る。ロンゴロンゴの制作が止まる、ぎりぎり最後の時期だ。
大サンクトペテルブルク板とワシントンの板――船底になった二枚
大サンクトペテルブルク板は、六十三センチ×十五センチ。取っ手のような出っ張りがあり、表裏それぞれ十一行、合計千五百字前後。これも一八七〇年にルーセル神父が回収し、オロンゴのある家から出たとされる。チリのコルベット艦に載せられ、タヒチのジョーサンのもとへ運ばれた。一八七一年七月二十四日、タヒチのハアパペ伝道所を訪れたロシアの人類学者ニコライ・ミクルーホ・マクライが、これを贈られる。
彼は帰国後もこの板を手放さず、一八八八年末に亡くなるとき、コレクションごとロシア地理学協会に遺贈した。協会は一八九一年にこれを博物館へ永久貸与した。だから、いまサンクトペテルブルクにある。大ワシントン板のほうは、六十三センチ×十二センチ×一・六センチ。流木製。
片端が尖っていて、縁に十二の穴が開いている。七百三十字ほどが読み取れるが、もとは千二百字あったと推定される。一八八六年十二月、アメリカ海軍のモヒカン号の主計官ウィリアム・トムソンが、島でこれを含む二枚を入手した。彼自身の言葉によれば「大変な苦労と、相当な出費の末に」手に入れたという。仲介したのはアレクサンダー・サーモンという島の実力者だった。
一八九〇年四月、スミソニアン協会に寄贈された。後年の聞き取りで、この板はもともとプヒ・ア・ロナという書き手のものだったと分かっている。彼の家は「板でいっぱいだった」という。宣教師の影響が強まった後、それらは打ち捨てられ、ニコラス・パカラティという人物がトムソンに売った。穴が並んでいるのは、さっき書いたとおりカヌーの舷側板に転用された跡だ。
プヒ・ア・ロナの家を埋め尽くしていた板の、たった一枚が、船板になり、アメリカの博物館に収まっている。
ベルリンの「ブーメラン」――流木で、焼けていて、触ると崩れる
ベルリンにある板は、現存するロンゴロンゴ遺物の中で最も巨大で、最も脆い。百三センチ×十二・五センチ×五・二センチ。ぐにゃりと曲がっているので「ブーメラン」というあだ名がついている。材は風化した流木だ。順序が重要である。
この木は、彫られる前にすでに長期間風化しており、海を漂い、砂浜で焼かれ、日に晒された木を拾ってきて、そこに彫った。彫った後で五か所を焼かれ、さらに湿った土中に――おそらく洞窟の中に置かれた。結果、表面はぼろぼろだ。表に七行、記号として判別できるのは百八十七字ほど。裏には十三行分の溝の跡があるが、記号は一つも読めない。
フィッシャーの推定では、もとは千二百から千三百字あった。来歴もはっきりしている。一八八二年、ドイツ帝国の砲艦ヒエーネ号の艦長ヴィルヘルム・ガイゼラーが島でこれを購入した。ベルリンの民族学博物館長アドルフ・バスティアンの依頼を受け、バルパライソのドイツ領事シュルーバッハが手配した買い付けである。板は一八八三年にバスティアンのもとへ届いた。
この板については、後年、単独で放射性炭素年代測定の論文が書かれている。ロンゴロンゴという文字体系が、いつまで遡れるのかという問題に、この一枚がどう答えるか。それが焦点だった。
小さきものたち――胸飾り、鳥人像、嗅ぎタバコ入れ
ロンゴロンゴは板だけではない。レイミロと呼ばれる三日月形の胸飾りにも、記号が彫られたものがある。ロンドンにある小さいほうのレイミロは四十一・二センチ×十・五センチ、太平洋ハマボウ製。上部中央に穴が二つあり、そこに紐を通して衣服から吊るした。下の縁に沿って、一行だけ記号が並ぶ。
五十字ほどで、末尾に六つほど「コマリ」と呼ばれる女陰の記号が続く。この品には、一九一四年七月にキャサリン・ラウトレッジが島の古老二人に見せたときの証言が付いている。二人はこれを女性の装身具だと言い、片側に五つずつ、計十個をつけるものだと説明した。そして、記号が彫られたレイミロなど見たことがない、と付け加えた。文字入りの胸飾りは、当時すでに例外的なものだったのだ。
ニューヨークの鳥人像は、三十三センチ×八センチ×六・二センチの立像だ。ラパ・ヌイの鳥人信仰を表す姿で、体の右側と首に、二字から十三字の短いテキストが七つ、バラバラに彫られている。合計三十八字。前述のとおり、黒曜石の下描きのまま仕上げられておらず、いくつかは擦れて消えかけている。一八九一年から九三年のあいだにアメリカ自然史博物館に入った。
島でどう入手されたかは不明だ。フィッシャーは本物と見ているが、記号が後から彫られた可能性を指摘する研究者もいる。そしてパリの嗅ぎタバコ入れ。七十一ミリ×四十六ミリ×二十六ミリほどの小箱で、板を切り分けて組み直したものだ。記号は鋼の刃で彫られているので、明らかにヨーロッパの道具が入ってからの仕事である。
それでも本物とされるのは、極めて珍しい記号がいくつか含まれているからだ。贋作者がわざわざ超レア記号を使う理由がない。九十字ほどが六面に散っている。特定の記号が繰り返されるので、これもリストの類だと考えられている。
ポイケの重ね書きと、布切れの騒動
真贋の話をしておきたい。ロンゴロンゴ研究には、この問題がずっとつきまとう。ポイケの板は、一九三七年にホセ・パテという人物が、ポイケ火山の麓の石造家屋跡の基礎のそばで見つけた。十・七センチ×五・八センチ×二・七センチ。完全な形で残っているものとしては最小だ。
ところが、表面のテキストがおかしい。逆行牛耕式になっていないのだ。これは贋作によくある特徴で、フィッシャーはこれを観光客向けの模造品に分類した。しかし話はそこで終わらない。強い斜光を当てると、その下に、もっと小さい記号が六行か七行、両面に薄く浮かび上がる。
フィッシャーの見立てはこうだ――誰かが、本物だがすでに判読不能になっていた板の上に、模造の記号を彫り重ねたのではないか。下層から拾える痕跡は五十五個ほど。バルテルもフィッシャーも、結局これを転写できなかった。もう一件、最近の騒動がある。樹皮布の切れ端に赤い顔料で九つの記号が書かれた小片が、二〇一八年に競売に出た。
付属の説明によれば、一八六九年三月にラパ・ヌイの女性から譲られ、懐中時計のケースに入れて保管されてきたという。既知のテキストからの写しではないので本物だ、という主張がなされた。これに正面から反論したのが、ラパ・ヌイ出身の歴史家クリスティアン・モレノ・パカラティである。彼の指摘は具体的だ。当時の宣教師は島に寄港した船をすべて記録していたが、この品の由来に出てくる人物の来島記録がない。
さらに、一八七一年以前の膨大な系譜記録、洗礼記録、埋葬記録のどこにも、そこに記された女性名は現れない。ラパ・ヌイの女性名として存在しないのだ。彼はこの品を、二〇一〇年代に作られた土産物だと断じた。そして彼はもう一つ、痛烈なことを書いている。この件を発表した研究者たちは、安楽椅子から立ち上がって現地の専門家に聞いていれば、こんな間違いはしなかっただろう、と。
ジョーサンのリストとメトロの歌――最初の、そして最も罪深い失敗
さて、解読の話に入る。ジョーサン司教は、板を手に入れた。次に必要なのは読み手だ。タヒチで働いていたラパ・ヌイ出身の労働者の中に、メトロ・タウア・ウレという男がいた。彼は読めると言っている。
一八六九年から一八七四年にかけて、ジョーサンはメトロに四枚の板を見せ、彼が唱えるのを片端から書き取った。
そうしてできたのが「ジョーサンのリスト」である。記号を、神、人、陸、海、動物、植物、道具、動作、複合記号の九つに分類し、それぞれに意味を割り当てた目録だ。発表当時、これはロンゴロンゴのロゼッタ・ストーンだと期待された。そして、ほとんど何の役にも立たなかった。何が起きていたのか。
後の検証で、致命的な事実が次々に出てきた。
メトロはケイティ板を、片面は逆向きに、もう片面は正しい向きに読んでいた。読む方向すら把握していなかったのだ。さらに、ママリ板の暦の区画にある、誰が見ても満月と分かる記号を、彼は満月と認識しなかった。アルフレッド・メトローの分析はもっと辛辣だ。メトロが唱えていた文の大半は、単なる説明文だった。
鳥の記号を見れば「鳥が飛んでいる」と言い、頭飾りの記号を見れば「頭飾り」と言う。メトロー自身が驚いている。これらの文はメトロがその場で即興したものなのに、なぜこんな単純な説明を唱えたのか、と。メトローの推測はこうだ。メトロは、板を前にしたら唱えるものだ、ということは知っていた。
だから唱え、中身がないまま、形式だけを再現してみせたのだ。ただしメトローは、完全に無価値だとも言っていない。少なくとも「この図像は何を描いたものか」については、メトロの言葉が手がかりになる。様式化が進んで元の姿が分からなくなった記号については、その手がかりも怪しくなるが。このメトロの読みが、その後の研究に長い毒を残した。
ジョーサンのリストを土台にした解読は、片端から破綻することになる。最初のボタンの掛け違いというより、最初のボタンが偽物だった。
一八八六年、ラム酒と老人――ウレ・ヴァエ・イコの夜
十七年後、アメリカ海軍のモヒカン号がやってくる。主計官のウィリアム・トムソンは、島に十日ちょっとしか滞在しなかったが、猛烈な勢いで資料を集めた。彼は、島の最後の大首長に仕えていた老人を探し当て、ウレ・ヴァエ・イコという。この老人は板を読めるという評判で、ウレは拒んだ。神父たちに叱られる、というのが理由だった。
キリスト教の教えに背く行いだと考えていたらしい。彼は丘に逃げ込んだ。トムソンは追った。そして最終的に、老人にラム酒を飲ませ、酔ったウレは、板の写真を見せられて、唱えはじめた。トムソンとサーモンはそれを書き取り、こうして採録された詠唱がいくつかある。
中に「アトゥア・マタリリ」という、神々の交合によって万物が生まれる創世の詠唱があった。「かゆみが悪しきものと交わり、そこから……」といった調子の、延々と続く連鎖である。だが、テキストを検証すると問題だらけで、タヒチ語の語彙が混じる。ヨーロッパ由来の借用語まで出てくる。「フランスの旗」だの「金をくれ」だの。
板が彫られた時代に存在しない言葉である。ウレが板を読んでいたのではなく、覚えている歌を、板を見ながら唱えていた――というのが穏当な解釈になる。しかもその歌自体、接触後の言葉で汚染されていた。それでも、この夜の記録には一つ、確かな収穫があった。トムソンが採録した太陰月の名前の一覧である。
後年ジャック・ギーがこれを検算したところ、一八八六年の実際の月の満ち欠けと一致した。つまり、ラパ・ヌイの人々は太陰太陽暦を運用していて、コトゥティという月が閏月にあたる。ママリ板の暦の解釈は、この一覧に支えられている。酔わされた老人の口から出た情報が、百四十年後の研究の礎の一つになっている。この事実を、どう受け止めればいいのか、正直まだ整理できない。
エヴェシの妄想――インダス文字とロンゴロンゴ
一九三二年。ギヨーム・ド・エヴェシという人物が、ロンゴロンゴの記号とインダス文字の記号が似ていると発表した。四十組ほどの対応を挙げ、冷静に考えれば、この主張はどうかしている。両者は一万九千キロ離れており、時間差は四千年ある。あいだをつなぐ中間段階の証拠は一切ない。
それでもこの説は学界で真剣に受け止められ、あろうことか、これを検証するためにフランスとベルギーの合同調査隊がラパ・ヌイに派遣された。ラヴァシェリとメトローが行った有名な調査は、もともとこの反証のための遠征だった。結果は反証であり、しかも決定的な形で。エヴェシが論文に載せたロンゴロンゴの記号のうち、いくつかは実在しなかった。彼が勝手に描いた形だったのだ。
この一件は、未解読文字の研究がどれほど簡単に転ぶかを示す教科書的な事例になった。似ている図像を並べれば、人間の目はいくらでも対応を見つける。魚の絵は世界中の文字で魚の絵に似る。人の絵は人の絵に似る。それは系統関係の証拠ではない。
ちなみに、この説はいまも生き残っており、ネットでは定期的に蘇る。だが、インダス文字側の研究者に聞けば、答えは一貫している。両者を結ぶ根拠はない。
バルテルの目録――解読はできなかったが、地図を作った男
トマス・バルテルは、ロンゴロンゴ研究の土台を築いた人物である。一九五八年、彼は現存テキストのほぼ全部――全体の九十九パーセント以上を写し取り、番号を振って刊行した。各テキストにアルファベットの記号を与え、各グリフに三桁の番号を割り当て、約六百の番号が生まれた。いま研究者が「七六番の記号が」などと言えるのは、全部この仕事のおかげだ。彼はまた、ママリ板の暦を発見した。
ロンゴロンゴ研究で唯一の確実な内容同定であり、これだけでも歴史に残る。さらに一九七一年、バルテルは重要な主張をした。六百の記号のうち、本当に独立した基本記号は百二十個程度で、残りの四百八十個は異体字か合字にすぎない、と。ただし彼は、その根拠を公表しなかった。この「未公表の百二十」は、以後の研究者を長く悩ませることになる。
もう一つ問題があり、バルテルは拓本で採録した。拓本は、深く彫られた線をよく拾う一方、黒曜石で引いただけの浅い線を取りこぼす。フィッシャーが線描で描き直したとき、両者の記録に食い違いが出た。ロンゴロンゴの「原典」そのものが、写した人によって違う。この不安定さは、統計解析をやる人間にとって悪夢でしかない。
王の系譜か――ブチノフとクノロゾフの読み
一九五七年、ソ連の研究者ニコライ・ブチノフとユーリー・クノロゾフが、興味深い指摘をした。クノロゾフは後にマヤ文字の解読で名を上げる人物だ。彼らが注目したのは、小サンティアゴ板の裏面にある十五字ほどの反復構造だった。二人はこれを系譜だと考えた。特定の記号が称号を示し、別の記号が父称を示すマーカーだとすると、「王たる甲、乙の子。
王たる乙、丙の子。王たる丙、丁の子……」という連鎖として読める。これは今日でも「ありうる」と評価されている数少ない仮説だ。確証はない。だが、構造としては自然だし、ポリネシア社会で系譜がどれほど重要かを考えれば、板に系譜が刻まれていても何も不思議はない。
二人はもう一つ、重い観察もしている。ポリネシア諸語には冠詞や前置詞といった文法的小辞が頻出するのに、ロンゴロンゴにはそれに対応するような超高頻度の記号が見当たらない、と。これが「ロンゴロンゴは言語を書き写していないのではないか」という原文字説の根拠の一つになった。ただしこの観察は、後にポズドニャコフによって足元を崩されることになる。
彼らが使った記号の数えかたが不適切で、合字を独立記号として数えていたため、頻度分布が歪んでいたのだ。
フィッシャーの「三つ組」――いちばん有名で、いちばん叩かれた説
一九九〇年代、スティーヴン・フィッシャーが「ロンゴロンゴを解読した」と宣言した。世界中のメディアが飛びつき、彼の主張はこうだ。サンティアゴの杖に五百六十四回現れる七六番の記号は、男性器を表す。そして杖のテキストは、「甲、七六番、乙、丙」という三つ組の連続でできている。これは「甲が乙と交わり、丙が生まれた」という創世の詠唱である、というわけだ。
トムソンが採録したアトゥア・マタリリの詠唱と同じ構造だ、と。さらに彼は、ロンゴロンゴ全体の八十五パーセントがこの種の定型句だと述べた。批判は容赦なかった。まず、そもそも三つ組になっていない。アンドリュー・ロビンソンがこれを検証した。
フィッシャーの解釈を最大限好意的に受け取っても、百十三の連続のうち三つ組の構造に完全に従っているのは六十三だけだった。
半分ちょっとである。次に、頻度の問題。フィッシャーが例に挙げた四つの記号は、コーパス全体の二割を占める超頻出記号だ。そんな記号を「交わる」「生まれる」と読んでしまうと、テキスト全体が、あらゆるものがあらゆるものと交わり続ける混沌になる。ある批判者はまさにそう表現した。
すべてが、ありとあらゆる不自然な組み合わせで交尾している状態だ、と。文法の問題もあり、フィッシャーの読みは、ある語を複数マーカーとして扱う。だがその語はラパ・ヌイ語には複数マーカーとして存在しない。タヒチ語の文法である。ポリネシア諸語でこの語が名詞の後ろに来るときは「本物の」という意味の形容詞になる。
神話の問題もある。鳥が魚と交わって太陽が生まれる、というポリネシア神話は存在しない。フィッシャーが依拠したのは、サーモンが作った英訳のほうで、原文のラパ・ヌイ語の転写ではなかった。そして決定打。リチャード・スプロートが機械的な文字列照合をかけて、サンティアゴの杖と他のテキストの関係を調べた。
もしフィッシャーの言うとおり、他の板は七六番を省略しているだけで同じ内容なら、七六番を取り除いた杖のテキストと他の板は一致するはずだ。結果は、一致しない。杖は孤立したままで、フィッシャーの功績は、資料集の作成という点では大きい。彼の線描と、二十七点の遺物を網羅したカタログは、いまも使われている。ただ「解読した」という部分は、専門家の間では受け入れられていない。
フョードロワの逐語訳――本人が「狂人の作品」と呼んだもの
一九九五年、イリーナ・フョードロワが、ロンゴロンゴの翻訳を発表した。各記号に一つの語義だけを与え、機械的に置き換えていく方式だ。出てきた文章はこうなった。彼はヤムイモを切った、ポロポを、ヒョウタンを、彼はヤムイモを引き抜いた、彼は切った……。延々とこれが続く。
農作業の目録が無限に流れていく。しかも、この読みでママリ板の暦の区画を処理すると、月にも時間にも一切関係のない文章が出てくる。唯一内容が判明している箇所と真っ向から矛盾する。フョードロワ本人が、自分の訳文について「狂人の作品にふさわしい」と述べたと伝えられる。この自己評価は、ある意味でいちばん誠実だったかもしれない。
技術的な問題も指摘されている。彼女の異体字の割り当ては、ポズドニャコフの分析と食い違う。その結果、平行する同一のテキストが、箇所によって動詞になったり名詞になったりする。
ポズドニャコフ兄弟の統計――記号は、たぶん五十二個しかない
コンスタンティン・ポズドニャコフと、その兄弟であるイゴール・ポズドニャコフの仕事は、地味だが破壊力がある。彼らがやったのは、翻訳ではなく、数えることだった。まず、保存状態の良い十三のテキストを選び、記号を徹底的に洗い直した。バルテルの番号体系は、実際には同じ記号の書き癖の違いを別番号にしていたり、合字を独立記号として数えていたりする。それを一つずつ潰していった。
たとえば、二種類の手の形は自由に置き換わる。鳥の頭のいくつかの変種も同様だ。これらを統合すると、記号の総数は劇的に減る。二〇〇七年の段階で、彼らはこう結論した。サンティアゴの杖を除けば、五十二個の記号でコーパスの九十九・七パーセントが説明できる。
さらに衝撃的なのは、頻度の偏りだ。上位二十六個の記号だけで、テキスト全体の八十六パーセントを占める。この数字が何を意味するか。五十二という規模は、ポリネシア語の音節の数と、そこそこ近い。ラパ・ヌイ語は子音が少なく、開音節ばかりの言語だから、音節の種類は多くない。
だからロンゴロンゴは音節文字、あるいは音節文字と表語文字の混合だったのではないか――という見立てが出てくる。もう一つ、彼らは奇妙な事実を掘り当てた。異なる板のあいだに、十字から百字くらいの共通句が百組ほど存在する。しかも、出てくる順番も文脈も違う。つまり各テキストは、頭から一続きの文章ではなく、決まった言い回しのブロックを組み合わせて作られている。
これは、口承の詠唱の性質にきわめてよく合う。定型句を組み替えて長大な語りを作るのは、口承文芸の普遍的な技法だ。ロンゴロンゴは、そういう詠唱を書き留めたものだった可能性が高い。
それでも読めない――近年の音節説と、その先
近年でいちばん堅実な仕事をしているのは、アルベルト・ダヴレトシンあたりだろう。彼は数詞と音声補記の可能性を論じ、ロンゴロンゴが表語音節文字であり、記録されている言語は東ポリネシア諸語の一つだ、という方向で議論を進めている。パウル・ホーリーやラファウ・ヴィエチョレクも、新しい記号の同定や平行箇所の発見といった、地味だが確実な成果を積み上げている。だが、いずれも「読めた」ところまでは届いていない。
なぜ届かないのか。理由はかなりはっきりしている。第一に、量が足りない。一万五千字というのは、未解読文字の解読に必要な量として、絶望的に少ない。マイケル・ヴェントリスが線文字を解いたとき、彼の手元には複数の遺跡から出た数百枚の粘土板があった。
しかも内容は行政記録で、穀物、家畜、土地、人員といった具体的な項目が並んでおり、固有名詞も地名も豊富だった。ロンゴロンゴにはそれがない。第二に、対訳がない。ロゼッタ・ストーンのような、既知の言語による並行テキストが存在しない。第三に、生きた読みの伝統がない。
一八六〇年代に切れた。第四に、近縁の解読済み文字がない。ロンゴロンゴは完全に孤立している。解読が成功した事例は、この三つ――対訳、生きた伝統、近縁の解読済み文字――のうち少なくとも一つを持っていた。ロンゴロンゴは一つも持っていない。
第五に、書かれている内容の問題がある。もし中身が儀礼の定型句や系譜の羅列なら、語彙の多様性が低い。同じような並びが延々と続くテキストは、複数の読みが同じくらいもっともらしくなってしまう。検証ができない。第六に、記録された言語そのものが分からない。
現代のラパ・ヌイ語はタヒチ語の影響を強く受けていて、板が彫られた時代の言葉とはかなり違う。古ラパ・ヌイ語の資料は乏しい。そして第七に、記号がいくつあるのかすら合意がない。バルテルの六百強か、彼自身が言った百二十か、ポズドニャコフの五十二か。この基礎的な数字が決まらないまま、上に建物を建てようとしている。
文字なのか、文字もどきなのか
ここは論争の核心だ。「文字」というのは、言語を書き写すシステムを指す。話された言葉を、音か語の単位で記録し、書かれたものから元の言葉を復元できる。エジプトの神聖文字も、漢字も、仮名も、アルファベットも文字だ。「原文字」というのは、意味は伝えるが言語を書き写していない記号体系を指す。
地図の記号や、非常口のピクトグラムに近い。あるいは、すでに内容を知っている人間が思い出すための引き金――記憶術の装置だ。ロンゴロンゴがどちらなのか、決着していない。原文字説の側にはこういう根拠がある。キャサリン・ラウトレッジは調査の結果、こう結論した。
ロンゴロンゴは書き手ごとに意味づけが再構成される記憶補助であり、その特定のテキストの訓練を受けていない者には読めないものだった、と。
つまり、同じ記号列でも、別の書き手が見たら別の内容になる。そういう体系だったと。ジョーサンが板を持ち寄って島の人々に読ませたとき、誰の読みも一致しなかった、というあの記録も、この説と整合する。ブチノフとクノロゾフの、文法的小辞が見当たらないという指摘も原文字説を後押しした。一方、文字説の側の根拠は、こうだ。
まず、記号の使いかたに厳格な規則があり、頭の向き。合字の作りかた。行の折り返し。適当な記憶術の絵ならここまで揃わない。次に、ポズドニャコフが示した記号数の少なさ。
五十二個という規模は、絵の目録としては少なすぎ、音節の目録としては妥当だ。そして、複数の板に共通する長い定型句の存在。これは、同じ言葉が同じ順序で書かれているということであり、記憶術の絵にしては再現性が高すぎる。なお、原文字だとする側も、文字だとする側も、後者の場合に「表語文字なのか音節文字なのか」でさらに割れる。統計的には、純粋な表語文字でも純粋な音節文字でもない、という結果が出ている。
混合体系だった可能性が高い。個人的な感想を書いておくと、ぼくはこの論争そのものが、少し西洋的な枠に引きずられている気がしている。文字か記憶術かという二択は、書かれたものが単独で自立していることを前提にしている。しかしロンゴロンゴは、板をくるくる回しながら人前で唱えるための道具だった。
声と身体と板がセットになって初めて機能する装置だったのだとしたら、「単独で読めるか」という問いの立てかたが、そもそも的を外している可能性がある。
一四九三年から一五〇九年――炭素が吐き出した異物
二〇二四年二月、ローマの修道会が所蔵する四枚の板について、放射性炭素年代測定の結果が発表された。ボローニャ大学の研究者らを中心とするチームによるもので、権威ある科学誌に掲載された。対象になったのはタフア、アルク・クレンガ、ママリ、エシャンクレの四枚。すべて一八六〇年代末から七〇年にかけて宣教師が集めたものだ。樹種の同定結果はこうで、タフアはヨーロッパトネリコ。
アルク・クレンガとママリは太平洋ハマボウで、これは島でも育つ。エシャンクレはアフリカ産の針葉樹。年代のほうは、三枚が予想の範囲内で、タフアは一八六二年から八七年ごろ。アルク・クレンガは一八三二年から五七年ごろ。ママリは一六九四年から一七二七年ごろ。
そして四枚目。エシャンクレが、一四九三年から一五〇九年という値を出した。ヨーロッパ人がラパ・ヌイに到達したのは一七二二年である。この板の木は、それより二百年以上前に伐られており、これが何を意味するか。もしその木が伐られてすぐ彫られたのなら、ロンゴロンゴはヨーロッパの文字を見る前から存在していたことになる。
つまり、ロンゴロンゴは人類史上ごく稀な「独立して発明された文字」の一つだということになる。メソポタミア、エジプト、中国、メソアメリカと並ぶ、五番目か六番目の事例だ。研究チームの中心にいたシルヴィア・フェッラーラは、こう論じている。もし文字を借用したのなら、元の体系にできるだけ近い形を保つはずだ。ところがロンゴロンゴの記号は、ヨーロッパの文字に一つも似ていない。
ワルシャワ大学の化学者ラファウ・ヴィエチョレクは、これを「素晴らしい進展だ」と評価した。そのうえで、彼は誠実に付け加えている。自分はロンゴロンゴが人類史上ごく少数の独立した文字の発明の一つだと信じているが、信じることと、確かなデータがあることは別だ、と。この「別だ」の部分が重要である。
その数字を、うのみにしてはいけない理由
大喜びする前に、ブレーキを踏む必要がある。研究チーム自身が、いくつもの留保をつけている。いちばん大きいのは、測っているのが木であって、彫刻ではないという点だ。放射性炭素年代測定が答えるのは「この木がいつ光合成をやめたか」であって「この木にいつ記号が彫られたか」ではない。木の年代は、彫刻年代の上限――それより後に彫られた、という下限線を引くだけである。
そしてラパ・ヌイは、木の再利用が常態化していた島だ。すでに見てきたとおり、外国船の櫂を削り、流木を拾い、古い板を彫り直している。エシャンクレの材はアフリカ産の針葉樹だ。この木がどうやって太平洋のど真ん中に来たのか。漂着したのかもしれないし、ヨーロッパ船が運んできたのかもしれない。
どちらにせよ、伐採されてから島に着くまでに、何十年、何百年かかったか分からない。さらに、板そのものが糸巻きに転用されていた品である。転用が起きるということは、モノとしての来歴が単純ではないということだ。フェッラーラ自身は、二百年以上も木を保管していたとは考えにくい、と述べている。それはそうだろう。
だが「考えにくい」は「ありえない」ではない。漂着した流木が浜で長く風化することは普通にある。ベルリンの板は、彫られる前にすでに長期間風化していた。四枚のうち三枚が十九世紀という結果だったことも見逃せない。もしロンゴロンゴが十五世紀からあったなら、なぜ現存する板の大半は十九世紀の木なのか。
答えは簡単で、古い板は摩耗し、腐り、燃やされ、削り直されたからだ――と説明はできる。できるが、それは仮説であって、証拠ではない。以前から知られていた測定結果もある。小サンクトペテルブルク板は、一六八〇年以降という値が出ていた。これも接触以前を否定しないが、確定もしない。
要するに、二〇二四年の結果は「ロンゴロンゴが接触以前に存在した可能性を、実物のデータで初めて具体的に支えた」ものであって、「証明した」ものではない。ここを混同した見出しがネットに大量にあふれたが、元の論文はずっと慎重だ。
ネットの中のロンゴロンゴ――宇宙人、沈んだ大陸、そして地道な反証
未解読文字には、必ず妙な説がつく。ロンゴロンゴも例外ではなく、主要なものを見て、一つずつ潰しておきたい。まず宇宙人説。ラパ・ヌイは地球上で最も孤立した有人島の一つで、そこに巨石像があり、読めない文字がある。この三点セットは、古代宇宙飛行士説を唱える人々にとって理想的な素材だった。
文字は宇宙人が与えたものだ、あるいは宇宙人との交信記録だ、という主張が繰り返されてきた。これに対する反証は、ある意味でとても単純だ。ロンゴロンゴの記号は、ラパ・ヌイの生態と文化を、あまりにも忠実に映している。魚がおり、鳥がおり、海鳥の頭を持つ人の姿があり、植物がある。この島の鳥人信仰の造形と、記号の造形は明らかに同じ視覚言語の中にある。
宇宙から来た知識体系にしては、内容が地元すぎる。そして、月の暦があり、ママリ板が数えているのは、この島の夜空の月だ。二十八夜の月を数え、閏の夜を入れるかどうかを判断する手続きが書かれている。これは、この島で、この空を、何世代も見上げ続けた人々でなければ作れない知識だ。宇宙人説の本当の問題は、事実に反することよりも、それが誰から何を奪うかにある。
この文字を作ったのは、太平洋を渡ってこの島に到達し、月を数え、系譜を刻み、板をくるくる回しながら唱えていた人々だ。その功績を空から来た誰かに付け替えるのは、失礼を通り越して、単に間違っている。次にムー大陸説。太平洋にかつて巨大な大陸があり、それが沈み、ラパ・ヌイはその山頂だけが残ったものだ、という話である。ロンゴロンゴはその失われた大陸の文字の生き残りだ、と。
これは十九世紀末から二十世紀初頭に流行した疑似歴史で、地質学的には完全に否定されている。太平洋の海底はプレートの構造が明確に分かっていて、大陸地殻が沈んだ痕跡はない。海洋底の岩石の年代も、大陸が存在した余地を残さない。そもそもムー大陸という概念は、マヤ文字の誤読から生まれた妄想が発端だった。同じ人物が、実在しない大陸を発明したのだ。
ロンゴロンゴの謎とムーを結びつけるのは、未解読の謎を、別の未解読の妄想で説明しようとする循環にすぎない。そしてインダス文字関連説。これはさっき書いたエヴェシの説の子孫である。ネット上では、いまも「両者の記号が四十組以上一致する」という図表が回っている。反証は既に述べ、距離が一万九千キロ、時間差が四千年、中間証拠ゼロ。
そしてエヴェシが挙げた記号の一部は捏造だった。図像的な類似は、文字の系統関係の証拠にならない。人間の絵は人間の絵に似るし、魚の絵は魚の絵に似る。それだけの話だ。もう一つ、地味だが根深いのが「解読された」系のデマである。
フィッシャーが解読したという当時の報道が独り歩きし、いまも「ロンゴロンゴはすでに解読されている」と書いているページが残っている。実際には、専門家の間で受け入れられている解読は存在しない。分かっているのはママリの暦の構造だけで、それすら「何と読むか」は不明だ。近年は、これに加えて人工知能で解読されたという類の主張も出てきている。
組合せ最適化や機械学習を未解読文字に当てる研究は真面目に存在するが、それは手法の提案であって、ロンゴロンゴの解読ではない。学習させるデータが一万五千字しかない時点で、現在の手法では原理的に厳しい。最後に、いちばん厄介な種類のものを挙げておく。贋物のロンゴロンゴだ。土産物として作られた模造品が、由緒ある品として市場に出て、それを本物として発表してしまう研究者が現れる。
これは陰謀論より地味だが、実害はずっと大きい。二〇一八年の樹皮布の一件がまさにそれだった。そして、それを最も的確に見破ったのが現地の歴史家だったという事実は、記憶しておく価値がある。
島の記憶――アナケナの朝、王が板を掲げた
ここからは、ラパ・ヌイの人々自身が残した記憶を辿りたい。断片的で、互いに食い違うところもある。だが、これがロンゴロンゴという文字に触れた最後の目撃者たちの言葉だ。まず、ンガアラという王の話をしなければならない。ンガアラは一八三五年ごろから一八五九年ごろまで島の大首長だった。
そして、ロンゴロンゴの最後の大家で、彼は王になる前、アナケナ湾で書字の学校を開いていた。少年たちは三か月から五か月そこで学び、記号を覚えたという。まず乾いた樹皮に書く練習をし、上達してからようやく木に彫らせてもらえた。道具は黒曜石と骨。王位に就いたとき、ンガアラは政治的な問題を抱えていた。
実権はオロンゴの鳥人祭祀の司祭たちが握っていて、王の権威はそれに及ばなかった。そこで彼が打った手が、これである。アナケナで、毎年、ロンゴロンゴの祭りを開いた。丸一日かけて、板を朗読し続ける集会だ。書き手たちが集まり、それぞれの板を持ち寄って唱える。
王がそれを聞き、監督する。数百人が集まった。接触以前のラパ・ヌイにおいて、これが最も重要な祝祭日になったと伝えられる。やっていることは、要するに「板の権威を自分に集中させる」ことだった。板にはマナが宿る。
そのマナを、王が一手に束ねる。文字の力を、政治の力に変換したのだ。想像してみてほしい。アナケナの白い砂浜。朝から人が集まってくる。
書き手たちが板を抱えており、王が座り、朗読が始まる。板がくるくる回る。声が重なる。それが日が暮れるまで続く。ンガアラは一八五九年ごろに死に、息子が跡を継ぎ、祭りを短いあいだ続けた。
そして一八六二年、船が来て、その息子は連れ去られ、祭りは二度と開かれなくなる。
島の記憶――ハンセン病の集落で、老人はまだ書いていた
一九一四年から一五年にかけて、イギリスの調査者キャサリン・ラウトレッジが島に滞在した。彼女はマナ号という船で来て、島に長く留まり、膨大な聞き取りを行った。ロンゴロンゴに関して、彼女の記録は最も価値が高い。彼女は島の北部にあったハンセン病の隔離集落を訪れている。そこに、トメニカという老人がいた。
トメニカは、まだ書ける。
ラウトレッジは、彼が記号を書くのを見た。左から右へ、すばやく、よどみなく。手が覚えている動きだった。だが、彼女はこうも記している。記号そのものは、少なくとも今の彼にとっては、特定の語と結びついてはいなかった。
これは、ぞっとするような証言だ。手は動く。形は正確に出てくる。しかし意味が抜け落ちている。書字の運動記憶だけが、意味から切り離されて生き残っていた。
トメニカについて、別の古老カピエラはこう証言している。あの人は昔、いつも書いてばかりいた、と。トメニカは、ラウトレッジの調査からほどなくして亡くなった。ロンゴロンゴを書く手を持っていた、記録に残る最後の人物である。彼が病の集落にいたことも書いておかねばならない。
当時、島にはハンセン病が持ち込まれており、患者は隔離された。文字を書ける最後の人物が、島の中でも最も周縁に置かれた場所にいた。そして調査者は、そこまで会いに行っている。
島の記憶――コロの夜、死者の手柄を数える板
カピエラという古老が、ラウトレッジに語った話がある。板が実際に何に使われたかを示す、数少ない具体的な証言だ。コロという儀礼があり、死者を送る集まりである。年長者が亡くなると、コロが催される。そのとき、専門家が呼ばれ、ロンゴロンゴの書き手だ。
彼の仕事は、死んだ男の事績を記念することで、何をしたか。彼は板を作り、その男が何人を討ち取ったか。何羽の鶏を盗んだか。そういうことが記録された。鶏を盗んだ数が業績として数えられている、という点に、ぼくは強く惹かれる。
英雄叙事詩の格調とはまるで違う。もっと生活に近い、村の記憶の温度がある。誰それの爺さんは、あの時あそこで、これだけのことをやった。それを板に彫って、みんなの前で唱える。さらにカピエラは、階層構造があったことも語っている。
大きな板には、こうした小さな板の一覧が収められていた。そこには各人の名前と、そのコロが行われた年だけが記されていたという。年の数えかたは一から十まで進み、行が変わるとまた一に戻る。行そのものが、時間の単位として機能していた。これが本当なら、ロンゴロンゴの一部は、村の年代記だったことになる。
誰がいつ死に、どんな人物だったか。それを積み重ねた記録。ラパ・ヌイ語には「コハウ・タウ」という語があって、年代記を意味すると伝えられる。カピエラの証言は、この語に肉付けを与える。
島の記憶――板でいっぱいだった家と、女たちの胸飾り
もう二つ、短いが忘れがたい証言がある。一つは、プヒ・ア・ロナという書き手についてのものだ。後年の聞き取りによれば、彼の家は板でいっぱいで、壁際にも、床にも、板が積まれていた。彼は書き手であり、板を所有する人間で、その板は、宣教師の影響が強まった後、打ち捨てられた。そして、そのうちの何枚かが売られ、船に積まれ、大西洋を越え、いまワシントンの博物館の収蔵庫にある。
一軒の家を埋め尽くしていた板のうち、生き延びたのは一枚か二枚だ。もう一つは、一九一四年七月に、ラウトレッジが二人の古老に胸飾りを見せたときのやりとりである。古老たちは、それが女性の装身具だと言った。着けかたも具体的で、片側に五つずつ、両側で十個を吊るす。そして彼らは、記号の彫られた胸飾りなど見たことがない、と言った。
これは、ロンゴロンゴがどれほど特別なものだったかを示す証言だと思う。日常の装身具に文字が入ることは、ふつうはなかった。文字は、そこらじゅうにあるものではなかった。少なくとも、彼らの記憶にある島では。エローが一八六四年に「どの家にもある」と書いたことと、これは矛盾するように見える。
だが矛盾ではないかもしれない。板はどの家にもあった。しかし胸飾りに文字を彫るのは別の話である。あるいは、王の時代が終わり、板が実用品に転用されはじめた後の世代には、文字入りの品はもう珍しくなっていた。
島には一枚もない、という事実
ここまで、板の所在地を書いてきた。ローマ、ロンドン、サンティアゴ、サンクトペテルブルク、ワシントン、ベルリン、ウィーン、ホノルル、ニューヨーク、パリ、タヒチ。ラパ・ヌイは、一度も出てこない。現存する二十数点のロンゴロンゴは、一点も島にない。文字を作った人々の子孫は、自分たちの祖先が彫った板を見るために、地球の反対側まで行かなければならない。
この状況について、ラパ・ヌイ出身の歴史家クリスティアン・モレノ・パカラティは、はっきりした言葉を残している。今日に至るまで、ラパ・ヌイの当事者がロンゴロンゴ研究を主導したことは一度もない、と。現地の人間は常に「情報提供者」の位置に置かれてきた。研究対象となる遺物が全部よその博物館にあるのだから、この分野は構造的に西洋の学問になる。
生きた文化としてではなく、博物館の収蔵品としてロンゴロンゴが扱われてきた理由がここにある。近年、状況は少しずつ動いている。ラパ・ヌイの長老評議会は、祖先の遺骨や文化財の返還を求める活動を各国の機関に対して続けている。実際に返還が実現した事例も出はじめた。板そのものの返還はまだ実現していないが、議論の俎上には乗っている。
ぼくはこの記事を、遠く離れた場所から書いており、ラパ・ヌイに行ったことはない。だから軽々しいことは言えない。ただ、これだけは書いておきたい。二十数枚の板が世界中に散らばっているという事実そのものが、この文字がどのように奪われ、どのように保存され、どのように研究されてきたかの縮図なのだ。保存されたのは事実だ。
もし宣教師が集めなければ、二十数枚も残らなかっただろう。
同時に、それが本来あるべき場所にないのも事実だ。この二つは両立する。
読めない、というのはどういうことか
まとめに入る前に、一つだけ考えておきたいことがある。ロンゴロンゴが読めないというとき、我々は何が読めていないのか。物理的には、全部見えており、記号の形は分かる。並び順も分かる。読む方向も分かる。
どの記号がどれくらいの頻度で出てくるかも分かる。どの板とどの板が同じ句を共有しているかも分かる。ママリ板の一区画については、何をやっているかまで分かる。分からないのは、音だ。この記号列が、どんな声として発せられていたのか。
そして、ここが本質的に絶望的な部分でもあり、声は、一八六〇年代に途切れた。トメニカの手は形を覚えていたが、声はもう出てこなかった。未解読文字の解読というのは、要するに死んだ声を復元する作業だ。エジプトの神聖文字が解けたのは、コプト語という子孫の言語が生き残っていたからである。線文字が解けたのは、ギリシア語という既知の言語だったからだ。
マヤ文字が解けたのは、マヤ諸語の話者がいまも生きているからにほかならない。ラパ・ヌイ語は生きており、それは事実だ。だが、板が彫られた時代の言葉――古ラパ・ヌイ語は、資料が乏しい。現代のラパ・ヌイ語はタヒチ語との混交が進んでいて、板の言葉を直接映してはいない。ここが痛い。
もし新しい板が出てきたら、状況は変わる。洞窟から未知のテキストが出れば、コーパスは一気に増える。実際、島には洞窟が無数にあり、板が隠されたという伝承もあり、ゼロではない。あるいは、まだ見つかっていない対訳資料が、どこかの文書館で埃をかぶっている可能性もゼロではない。宣教師や船乗りが書き残した記録は、まだ全部が掘り起こされているわけではない。
だが、正直に言えば、望みは薄い。それでも研究は続いている。ポズドニャコフ兄弟が記号を数え直したように、ホーリーが平行箇所を一つずつ拾い上げるように、地味な作業が積み上げられている。この地味さこそが、この分野の誠実さだと思う。派手な「解読宣言」は片端から崩れてきた。
残ったのは、数えることと、比べることだった。ここからは、本編で拾いきれなかったところを、もう少し踏み込んで書いておきたい。総括でもあり、追加の考察でもある。
「四年」という時間の異常さについて
もう一度、時系列を並べ直したい。一八六二年から六三年、ペルーの船団による人さらい。一八六四年一月、エロー上陸、島じゅうの家に板を目撃。一八六八年、ジョーサンのもとに板が届く。同年、エロー死去。
一八七〇年、宣教師たちが板を回収する。一八七一年、宣教師団の撤退。エローが数百枚の板を見てから、ジョーサンが「読める者はもういない」と告げられるまで、四年しかない。四年であり、この短さを、もう少し噛み砕いてみる。読み手が消えるだけなら、それはあり得る。
専門家層が集中的に失われたのだから。しかし、モノとしての板まで、四年で消えるものだろうか。答えは、消える、である。そしてその理由が、この事件のいちばん切ないところだ。板は、読まれるから保管されていた。
読まれなくなった瞬間、それはただの「文字が彫られていて、その分だけ薄くなった木の板」になる。しかも島は木材不足だ。加工済みの平らな木材は、それ自体が貴重な資源である。火起こしの摩擦材にちょうどいい。カヌーの舷側板にちょうどいい。
釣り糸の糸巻きにちょうどいい。つまり、板の消滅は、無知や粗末な扱いによるものではない。読み手を失った社会が、極度の資源不足の中で行った、完全に合理的な資源利用だった。ここに、この事件の残酷な構造があり、文字の担い手を奪ったのは外から来た暴力だ。だが板そのものを消費したのは、生き延びるために必死だった島の人々自身である。
彼らを責めることは、誰にもできない。彼らは薪と船板を必要としていた。そして、その合理的な選択の痕跡が、いま残っている板に刻まれている。火起こしの溝。紐通しの穴。
糸を巻くための切り欠き。世界中の博物館の恒温恒湿の収蔵庫に、その痕跡ごと保存されている。
記号を「数える」ことが、なぜ解読より重要だったのか
ポズドニャコフ兄弟の仕事について、もう少し書いておきたい。地味すぎて話題になりにくいが、これはロンゴロンゴ研究で最大級の成果だと思っている。未解読文字の解読には、順番がある。いきなり意味を当てにいくのは、実は最後の段階だ。その前にやらなければならないことがある。
第一に、テキストを正確に写す。第二に、記号の一覧を確定する。何が同じ記号で、何が違う記号か。第三に、頻度と分布を調べる。第四に、そこから体系の型を推定する。
表音か表意か。音節か単音か。第五に、ようやく音価の推定に入る。ロンゴロンゴの研究史は、この順番を何度も飛ばしてきた。ジョーサンとメトロは、第一段階すら怪しいまま、いきなり第五段階に飛んだ。
エヴェシは第二段階を捏造した。フィッシャーは第三段階の頻度分布を無視して第五段階に飛んだ。フョードロワは第二段階の異体字判定を誤ったまま逐語訳に突入した。全部、崩れ、当然である。ポズドニャコフ兄弟がやったのは、第二段階と第三段階を、初めてまともにやり直すことだった。
バルテルの六百の番号を、一つずつ検証する。この手の形とあの手の形は、同じ記号の書き癖の違いではないか。この鳥の頭とあの鳥の頭は、同一の記号ではないか。合字として数えられているこれは、二つの記号の連結ではないか。そうやって削っていったら、五十二個になった。
そして頻度を取ったら、上位二十六個で八十六パーセントを占めるという、極端な偏りが出た。この数字は、じつは推理小説の証拠品のようなものだ。五十二という数は、絵文字の目録としては少なすぎる。世界の事物を絵で表すなら、数百は要る。逆にアルファベットのような単音文字としては多すぎる。
ちょうど音節文字の規模なのだ。しかもラパ・ヌイ語は、子音の種類が少なく、音節はほぼ「子音と母音」の組か「母音単独」の形をとる。この構造の言語なら、音節の総数はそう多くならない。五十二という数字と、そこそこ噛み合う。だから現在、多くの研究者は「ロンゴロンゴは表語音節文字だった」という方向に傾いている。
つまり、単語まるごとを表す記号と、音節を表す記号が混在する体系。エジプトの神聖文字や、マヤ文字と同じ型だ。これは「原文字にすぎない」という古い見立てを、かなり大きく揺さぶる。ただし、揺さぶるだけで、証明はしていない。ここが辛いところだ。
統計は「この体系はこういう型に見える」と言えるが、「この記号はこう読む」までは絶対に言えない。統計と音価のあいだには、対訳という橋が必要で、その橋がない。
定型句のブロックが意味するもの
ポズドニャコフ兄弟が見つけたもう一つの事実――異なる板のあいだに、十字から百字の共通句が百組ほどあり、その出現順序も文脈も違う――について、掘り下げておきたい。これは、テキストがどう作られたかについて、かなり具体的なことを教えてくれる。もし各板が、独立した一つの文章だったなら、他の板と長い句を共有する理由がない。逆に、もし板が同じ文章の写本だったなら、順序も一致するはずだ。どちらでもない。
共通の句を、別々の順番で使っており、これは、口承文芸の作りかたそのものである。世界中の口承詩は、決まった言い回しの在庫を持っていて、それを組み替えながら長大な語りを構築する。演者は文章を丸暗記しているのではなく、部品と組み立て規則を持っている。だとすると、ロンゴロンゴの板は「一冊の本」ではない。
詠唱のための素材集であり、演目の台本であり、あるいは特定の場で唱えるべき句の組み合わせ表だったのかもしれない。そう考えると、ジョーサンが板を持ち寄って読ませたとき、誰の読みも一致しなかったという話も、少し違って見えてくる。あの場に集められたのは、もはや読み手ではなかった。だが仮に本物の読み手がいたとしても、同じ板を、演者ごとに違う形で展開した可能性はある。
板は、演奏の完全な記譜ではなく、和音の進行を書き留めたメモのようなものだったのかもしれない。そして、この見立てはラウトレッジの原文字説とも、完全には矛盾しない。彼女は「書き手ごとに意味づけが再構成される」と言った。定型句の在庫を、演者ごとに違う形で展開するなら、外形的にはそう見える。つまり、文字か原文字かという二択が、ここでも溶ける。
ロンゴロンゴは、言語を書き写す能力を持ちながら、実際の運用は演唱の補助だったのかもしれない。書ける、しかし単独では読まない。そういう文字のありかたが、あってもいい。
ママリ板の月を、もう一度眺める
ロンゴロンゴで唯一「何をしているか」が分かっている区画について、もう少し丁寧に見ておきたい。そこには三日月の記号が並ぶ。そして魚の記号が付随する。魚の向きが、月の満ち欠けの方向に対応する。満ちるときは上向き、欠けるときは下向き。
これだけでも十分に面白い。だが、本当に凄いのはその先だ。満月の六夜前と、六夜後に、通常より小さい三日月が置かれている。ギーの解釈では、これは月が遠地点にある――地球から最も遠い位置にあって、見かけの直径が小さくなることに対応する。そして、その状態が閏の夜を何晩入れるかの判断材料になる。
ここで立ち止まってほしい。望遠鏡はない。記録用の紙もない。数式もない。それでも、月の見かけの大きさが周期的に変わることを把握し、それを暦の補正規則に組み込んでいる。
しかも、その規則を木に彫って伝達可能な形にしている。これは高度な天文知識である。そしてそれが、この島の空を何世代も見上げ続けた蓄積の結果であることは疑いようがない。宇宙人説の出る幕はない。あれは、ここに住んでいた人間が、自分の目で見て、数えて、作った知識だ。
トムソンが酔わせた老人から採録した太陰月の一覧が、一八八六年の実際の月相と一致したという検算も、この解釈を支えている。文字の側と、口承の側と、天文学の側。三つが一点で交わる。ロンゴロンゴ研究で、こんなに気持ちよく噛み合った瞬間は他にない。そして同時に、これが唯一の噛み合った瞬間であることが、この分野の厳しさを物語ってもいる。
千行以上あるテキストのうち、意味が見えているのは二行半だ。
二〇二四年の年代測定を、どう位置づけるか
改めて整理しておきたい。エシャンクレが一四九三年から一五〇九年という値を出した。これは大ニュースになった。だが、この結果が本当に変えたのは何だったのか。変えたのは「可能性の重み」である。
それまで、ロンゴロンゴが接触以前から存在したという主張には、物証がなかった。あったのは間接的な議論だけだ。島の森が失われた時期から逆算する議論。記号の造形が島の文化と一致するという議論。どれも説得力はあるが、決め手にはならない。
そこに、実際の板から取った測定値が出た。これは質的に違う。仮説の側に、初めて物理的な錘が乗った。しかし同時に、この錘は「木の年代」という錘であって、「彫刻の年代」という錘ではない。この区別を曖昧にした報道が多すぎた。
「新発見でロンゴロンゴが接触以前と判明」という見出しは、正確ではない。正確に書くなら「ある板の材木が接触以前に伐られていたことが判明。彫刻年代は依然として不明だが、接触以前起源説の蓋然性は上がった」となる。地味だ。だが地味なほうが正しい。
そして、この慎重さは学界の側にちゃんとある。論文の著者たちは、木の再利用の伝統、非在来種の材、古材問題を全部自分で列挙している。ヴィエチョレクの「信じることと、確かなデータがあることは別だ」という一言は、この分野の作法を一言で表している。派手な解読宣言が壊滅してきたこの分野で、研究者たちが身につけた慎重さは、傷の数だけ深い。
この文字が問いかけてくること
最後に、少し引いた話を書かせてほしい。ロンゴロンゴは、人類が文字を発明した回数を数え直させる可能性がある。文字の独立発明は、確実なものだけならメソポタミア、メソアメリカの二例、それに中国とエジプトを加えて三、四例と言われる。この数え上げは、人類史の骨格に関わる。文字は稀にしか発明されないのか、それとも条件さえ揃えば何度でも生まれるのか。
もしロンゴロンゴが独立発明なら、答えは後者に近づく。人口数千人、面積百六十平方キロほどの孤島で、外部の文字を一度も見ずに、書字体系が生まれた。これが本当なら、文字の発明は我々が思っているより敷居が低いことになる。そしてそれは、逆に、失われた文字がもっとあったかもしれないことを示唆する。木や樹皮や砂に書かれ、痕跡を残さずに消えた記号体系が、世界中にあったのかもしれない。
ロンゴロンゴがたまたま残ったのは、木に彫られたからであり、そして最後の瞬間にヨーロッパ人が来合わせたからだ。タイミングが数十年ずれていたら、我々はこの文字の存在すら知らなかった。そう考えると、二十数枚という数字の意味が変わってくる。あれは「たったこれだけしか残らなかった」数ではなく、「よくもこれだけ残った」数でもある。
それでも、読みたいと思ってしまう
正直な感想を書いて終わりにしたい。ロンゴロンゴは、たぶん解読されない。ぼくはそう思っており、データが足りなさすぎる。対訳がない。生きた伝統が切れており、近縁の文字がない。
この四重苦を、統計と根性で突破するのは、現実的に厳しい。それでも、あの板の写真を見ていると、どうしても読みたくなる。一センチの鳥が並んでおり、魚がおり、手を上げた人がいる。それが規則正しく、行を折り返しながら続いていく。誰かが、何かを伝えようとして、黒曜石で下描きをして、サメの歯で溝を深くした。
その誰かは、伝わると思っていたはずだ。自分が彫ったものを、誰かが読むと思っていたにちがいない。板をくるくる回して、声に出して唱える誰かがいると思っていたはずだ。その前提が、彼の想像もしなかった形で壊れた。ぼくらがいま板を眺めているのは、彼が期待した「読者」とはまるで違う。
ぼくらは読めない。何が書いてあるか分からない。それでも、百五十年以上たって、地球の反対側の人間が、その板を必死で見つめている。伝わっていない。だが、届いてはいる。
その中途半端な状態が、ロンゴロンゴという文字の、いまの姿だ。そしてたぶん、これからもしばらくは、この姿のままだろう。いつか誰かが洞窟から新しい板を見つけたら、その時はまた、この記事を書き直したい。
