駒込の居候先を、六十三歳の油売りが出ていった
享保18年の6月10日。六十三歳の男が、駒込の家を出た。男の名は食行身禄といい、江戸の町では伊藤伊兵衛と名乗って、油を売り歩く行商で暮らしを立てていた。
その家は、下級武士の屋敷の居候先。妻と三人の娘があとに残され、いちばん下の娘は九歳だったと、富士信仰を研究する学者の論文は書く。男には、もう戻る気がなかった。
板橋では同郷の友人の家に寄り、別れを告げたと伝わる。行き先は、富士山の七合五勺。烏帽子岩という岩場。男はそこで断食して死ぬと決めており、その予告を書き物にして、前もって世間に残していた。
生まれは伊勢の山奥、一志郡の川上村。農家の三男だった。十三歳で江戸へ出て遠縁の商家に奉公し、十七歳で富士行者の月行に弟子入りしている。三重県の歴史解説は、この男を、商売に励んで資産を築いた伊勢商人として描く。
北口本宮冨士浅間神社の解説も、似た筋を書く。莫大な資産を築いたが、六十歳のとき全財産を使用人に分け与え、行商人に戻ったという。ところが研究論文は、四十歳前後で奉公を辞めた、貧しい軽商人の町人として描いている。
二つの食行は食い違ったままだ。正直、筆者にも決め手は見つけられなかった。
あだ名のほうは分かりやすい。同じ時代に北口の浅間神社を私財で建て直した行者は、「大名光清」と呼ばれた。食行は貧しい身なりから、「乞食身禄」と呼ばれた。
墓所は、文京区の海蔵寺。区の指定文化財でもある。
角行は、十四センチ角の柱の上に爪立ちしたと伝わる
食行の師の、そのまた師の師のあたりに、角行という行者がいた。富士講の人々が開祖と仰ぐ人物だ。生没年は1541年から1646年と伝わり、百六歳まで生きたと、国土交通省の富士砂防事務所の解説は書く。
修行の場は、富士山西麓の人穴。溶岩でできた洞穴で、長さはおよそ83メートルあり、鎌倉時代の『吾妻鏡』にも出てくると、富士宮市の解説は書く。将軍の命で洞内を探った武士は、中は狭く、暗闇にコウモリが飛び、奥に大河があると報告した。
その探検談は、のちに「人穴草子」という霊験譚にまとめられた。江戸時代には、富士講の隆盛とともに広く読まれたという。人穴は、物語になる洞穴。
角行はここにこもったという。富士講の古文書は、角材の木口の上に千日のあいだ立ち続けたと記す。北口本宮冨士浅間神社の解説は、およそ14センチ角の柱や岩の上に爪立ちしたと書く。
角行が信徒に与えたのは、お身抜という軸装の巻物だ。富士山の姿を、簡単な線と自作の文字で表した図で、角行系の信仰を特徴づける物だった。食行の遺品にも、三遍書きのお身抜が含まれる。
角行は人穴で亡くなったとされ、人穴は富士講の浄土と見なされた。江戸の信者が修行に通う霊地になり、先達の供養碑が次々に建った。碑はいまも並ぶ。
江戸に流行病が広がった元和6年の話も、同じ解説に出てきて、三日で千人が死んだ奇病に、角行はフセギという御符を授けて祈ったという。それで多くの命が助かり、富士信仰が江戸に広まった。あくまで神社側の伝えだ。
冷静に見ると、確かな材料は少ない。ある研究者は、自筆とされる文書があることと、人穴や白糸の滝で修行したこと以外、角行についてはほとんど分からないと書く。修験者出身という通説も、信じていないと言い切っている。
弟子たちの暮らしは独特だ。人穴には住みつかず、孫弟子の代には江戸へ出て、町人として働く。どこの宗派にも属さなかったから講は組めず、仕事のかたわらで信仰を続けるしかなかった。
人穴の洞内には、1664年と1673年の年号を刻んだ石仏がある。角行から数えて三代目と四代目の弟子が納めた物だと、国の史跡の解説は書く。食行が生まれたころの話だ。
「身禄の御世」の高札を立てた夜、まだ何も起きていなかった
食行が弟子入りした月行は、角行から数えて四代目か五代目にあたり、富士参詣を八十三度重ねた行者だった。入門は元禄元年、1688年。食行は17歳だった。月行はその年の6月15日に、富士山で神の告げを受けたと主張していた。
告げの中身はこうだ。これまでの神仏に代わって、南無仙元大菩薩という神が世界を治める。その新しい世が「身禄の御世」だといい、食行が看板にした言葉は、もとは師が受けた告げだった。
月行は、世が変わったことを朝廷に知ってほしかった。元禄12年から三年続けて正月に京の関白邸へ出向いたが、三度とも門前払いになったという。お尋ねの使いは、ついに来なかった。
食行も、お尋ねが朝廷から来ると思って待っていたらしい。享保16年、訪ねてきたのは見ず知らずの老商人だった。月や太陽がなぜありがたいのかと尋ねられ、食行は、師が果たせなかったことを自分が果たしたのだと受け取って喜んだ。
下山したその夜、食行は北口の浅間神社の仁王門の前に、荒薦を敷いて座った。そこに「身禄の御世」を宣言する高札を立てた。論文はそう書く。三重県の解説は、高札を立てたのは江戸巣鴨の自宅前だとしていて、場所が食い違う。
宗教専門紙に載った寄稿は、食行を「ミロクを名乗る救世主」とする昔からの像を、新しい史料によって「作られた幻想」と呼ぶ。名前の由来も、弥勒菩薩から取ったという説明と、仏教の弥勒を取ったわけではないという説明が並ぶ。
添書という書き物には、米の値段のことが書いてあった
食行が死を決めた年は、飢饉の年でもあった。享保17年、西日本は冷夏と虫害で大凶作になり、国立公文書館の解説によれば、幕府が把握しただけで餓死者は1万2千人余り。飢えに苦しんだ人は、200万人近くにのぼった。
幕府は東国の米を救援に回した。その結果、江戸で米が足りなくなって値が跳ね上がる。翌18年の正月、日本橋の米問屋、高間伝兵衛の店が襲われ、1700人ほどの町人が集まって米俵を川に投げ入れたと伝わる。江戸で最初の打ちこわし。
食行が天皇と将軍に宛てて書いた『添書』は、同じ正月ごろの執筆とみられる。書き出しは、天子のあやまりを責める言葉だ。怒りの種は、米を高値に吊り上げる商人と役人、安く売れば罪に問われる世の中、関八州から江戸へ米を入れさせない政策だった。
文末は、たいてい「お傳ゑなり」で閉じられる。自分の言葉ではなく、神の言葉として天皇と将軍に突きつける体裁だ。
食行は米を「ぼさつ」と呼んだ。角行系では、米は神が人に与えた食べ物で、いちばん大事な物だった。文中に出てくる「たかまあくま」は、幕命で米価を調整した高間伝兵衛を指すと、論文は注記している。
享保17年の5月、食行は日光から北関東を回っている。日光では役人が何かにつけて銭を求めると憤った。添書は、その旅の見聞を一つの科として書き留めている。
死んだあと、何になるつもりだったのか。添書には、「とそつ天」へ行き、「三国のしんのあらため役人」になると書いてある。富士山頂から世を見張る、神の役人。米を吊り上げた者は魂だけにして、世界の辺境に留め置くという。
食行の望みは、驚くほど具体的だった。米が余るほどできて、ひたすら安いこと。関所も審問もなくして、人も金も自由に通れること。論文は、これを町人の暮らしに根差した、ごく庶民的な願望と読む。
同じ論文は、食行の糾弾を、時勢を見ない町人の感覚から出たものとして読む。幕府は享保16年に、奥州と関八州から江戸への米の回送を止めさせたが、それは、米が余って値が下がり、米で俸給をもらう武士が困るのを防ぐためだ。食行はその措置を、値上げの陰謀と受け取ったのかもしれない。
添書には、尾張藩主の徳川宗春が書いた書物を引く箇所もあり、倹約を押しつける政治を責める筋だ。ただ、その本は配られた範囲が狭く、すぐ回収された。江戸の町人がどこで読んだのか、論文は首をかしげる。
論文はここで、一本の線を引く。食行本人に、世を救うために死にに行く自覚は読み取れない。「入定」という言葉も本人は一度も書いておらず、空海の入定は、弥勒の下生を待つ眠りだ。食行の死とは合わないと、論文は述べる。
世を救うために死んだ、という筋書きは、食行の死のあとに喧伝されたものだと論文は見る。そう広めたのは、後の富士講の人々だった。本人の書き物とは、ずれがある。
添書には、身分の低い人々や豪商への口汚い罵倒も混じる。論文の筆者は、その思想を支持しないと断った上で、それでも読まれるべき理由を述べている。昭和の翻刻は、その部分を伏字にしたり言葉を改めたりして隠してきた。
籠り始める日は、六月十七日と決めてあった
添書は、2月には伊勢の実家へ手紙に添えて送られていた。4月28日の日付を持つ、吉田の田辺十郎右衛門宛ての書簡も、「お先状」と呼ばれて伝わる。死の支度は、数か月かけて進んでいた。
食行自筆の書き物は、享保18年の六月十七日の日付を持つ。論文は、これを富士山にこもり始めた日だとみる。6月10日に江戸を出た男は、その日に向けて山に入った。
付き添ったのは、吉田の田辺十郎右衛門と、その息子だ。十郎右衛門は、食行が毎日口にする教えを書き取った。三十一日分をまとめたものが『三十一日の巻』で、のちに富士講の経典になった。
口にしたのは、富士の雪を溶かした水だけだったという。北口本宮冨士浅間神社の解説の言い方だ。
由来記をもとにした郷土史の解説には、気になる場面がある。最初に岩穴へこもろうとしたとき、駿河の大宮から使いが来て、入定は不作のもとになる、早く下山せよ、と告げたというのだ。食行らは、烏帽子岩へ場所を移した。
命日は、百科事典の記述では七月十三日だ。郷土史の解説は、その日に厨子へ石が積まれ、十七日まではまだ生きていたと書く。三重県の解説は、「約一か月後に絶命」とだけ書く。数日の幅が、出どころによって動く。
翌年の6月、石積みは崩れ、遺体が布団をかぶったまま見つかったと、同じ解説は書く。念のため言うと、この看取りの話は、あとで触れる扱いに注意のいる出どころから出ている。
四つの箱は将軍の目に触れて、田辺の家へ戻った
食行は、死ぬ前に書き物をもう一つ用意しており、富士山の題号を書いた軸が二組、計四つあった。それぞれ箱に入れた。宛先は、将軍と天皇。
運び方も指示してあった。友人の永田に預け、九歳の三女に持たせて大目付へ渡し、大目付から将軍と天皇へ二箱ずつ差し出してもらう。九歳の娘に、幕府の要職への取り次ぎを任せる話だ。
食行の死後、箱は田辺十郎右衛門に預けられた。幕府へ出された形跡は、半世紀以上たってもない。箱は、長く田辺の家にあった。動いたのは寛政元年、1789年のことだ。
吹上御庭方を務めた下級の御家人が、行名を照行といった。彼は食行の遺志を知り、自分で将軍に見せようと考える。家督を譲って隠居し、8月2日から烏帽子岩で断食に入った。
江戸には妻が残っている。照行は、富士山を登り降りする参詣人に頼み、願書を江戸へ届けさせている。妻の返事も同じ道をたどって山へ上がったといい、8月21日に照行は断食を打ち切って下山した。
8月23日の午前10時ごろ、江戸城の桔梗門で、彼の妻が老中の松平定信に願書を差し出した。駕籠訴だ。9月2日に照行が町奉行所へ出頭して取り調べが始まり、9月14日に奉行所は願いを聞き届けると決めた。
照行の供述によれば、箱には、二つが「天日へ」、二つが「天子へ」と書いてあったという。箱は吉田の田辺家から甲府の代官所を経て、江戸へ運ばれた。
代官の説明では、中身は将軍が見たあと、「御覧相済」として田辺に返された。論文は、食行の頼みは将軍に対して半分かなったと読む。天皇には、ついに届いていない。
箱はいま四つとも所在が分からず、近代までのあいだに田辺家から失われたらしいと、論文は書く。1847年には不二道の信徒二人が、照行の願書を引いて大目付へ駕籠訴をした。訴状には、その後何の沙汰もないまま、照行も亡くなったと書かれている。
九歳だった三女は、のちに一行と名乗った。小谷三志が開いた不二道は、その系統を受け継ぐと伝わる。
看取った御師は、遺品を看板にした
十郎右衛門は、食行が死んだときは吉田の御師ではなかった。御師とは、富士講の客に宿を貸し、祈祷とお札を売る人。彼はあとから御師の株を買い、田辺近江と名乗った。
手元に残ったのが、食行の遺品。田辺家はそれを元手に、食行を「元祖」と呼んで信仰を広めていく。江戸の町人に受けたのか顧客は増え、ほかの御師の客を奪う形にもなったと論文は書く。
遺品の目録は、1814年の『甲斐国志』にも載る。食行直筆の軸四巻や、綿入れの服と野袴だ。1961年、山梨県はそのうち三遍書きの御身抜、行衣、野袴を有形民俗文化財に指定した。
遺品の扱いで揉めたこともある。文化8年、1811年ごろ、田辺家の跡継ぎ争いが起き、江戸の十一の講は、四つの箱を錠前つきの長持に封印するよう求めた。開けるときは、田辺一統の三家の立ち会いが条件だった。
研究者によれば、角行系の富士講は、食行が死んだ事実を喧伝することで成り立っていたという。食行が生きていた間、江戸にそんな講はなかったというのだ。看板の人物は、死んでから作られた。
ここで一つ、引っかかる。食行の最期の様子は、十郎右衛門の息子が書いた由来記がもとになっている。明和8年、1771年ごろの本で、編者は、史実というよりフィクションとして読むべきだと注意している。
筆者の見立てでは、ここが肝心だ。看取った側の家は遺品を商いの種にして伸びたが、その家の息子が書いた死の場面を、そのまま信じていい理由は見つからない。語り手に利害がある話は、割り引いて聞くしかない。
高田富士の中腹に、烏帽子形の岩が据えてある
「江戸八百八講、講中八万人」という言い方がある。静岡県の文化財解説も、この言い方で富士講の全盛を伝える。館山の博物館の解説では、大流行は食行の死から何十年もあとのことだ。食行は、その景色を見ていない。
江戸の町は、八百八町と呼ばれた。富士塚の項で「江戸八百八町講中八万人」と書く百科事典もある。筆者の見立てでは、八百八は数え上げた結果というより、町の数にあやかった景気のいい言い方だ。
では、その間の講はどうなっていたのか。館山の博物館の解説は、江戸の弟子たちが元文のころから富士講を組織し始めたと書く。研究論文は、この時期に成立した講の史料は知られていないと書く。食い違ったままだ。
目に見える形になったのは、高田富士からだ。江戸の高田、今の新宿区西早稲田にあり、築いたのは植木屋の高田藤四郎で、行名は日行青山という。食行の三十三回忌にあたる1765年に、師の記念碑を江戸に築きたいと願を立てたという。
古い研究書は藤四郎を食行の弟子と書く。ただ、両者の関わりを示す史料は見つかっていないと、のちの論文は指摘する。まあ、師弟の線は、藤四郎自身の名乗りだったのかもしれない。
完成の年も揺れる。新宿の観光協会と早稲田大学の広報は、安永8年、1779年とする。神社の公式サイトと、国指定文化財等データベースの解説は、安永9年、1780年と書く。
塚には、ジグザグの登山道があり、山腹をまわる御中道があり、小御嶽社と、御胎内の洞穴まである。中腹には烏帽子形の巨岩が据えられた。身禄の最期の地、烏帽子岩に見立てたものだと、静岡県富士山世界遺産センターの解説は紹介する。
そのセンターの解説は、高田富士が富士塚の始まりだという説明にも注意を促す。山の上に浅間の神を祀る習わしは鎌倉時代からあったといい、駒込の富士塚や富士市鈴川の富士塚には、近世初頭の記録がある。
鈴川には、享保18年の年号を持つ『田子の古道』が伝わる。富士参りの者が、浜から石を一つずつ担ぎ上げたので、富士塚と呼ぶ。そう書いてある。食行が烏帽子岩へ向かった年に、駿河の浜では、石を積む習わしがもう語られていた。
富士山は、長く女人が登れなかった山だ。富士塚には、女も子どもも登れた。寛政12年、1800年の庚申の年に女人登山が解かれると、道中の宿は女の客で埋まったと、随筆『梅翁随筆』は書く。
都区内には、50か所を超える富士塚が築かれた。下谷坂本の富士塚は文政11年、1828年の築で、高さは約5メートル。塚全体を富士の溶岩でおおい、一合目の岩屋に役行者の像、五合目あたりに角行の像を祀る石祠を置く。
行衣で焚き上げをする町人を、幕府は止めたがった
幕府は、何度も富士講を止めようとした。明確に取り締まりを目的にした町触が出たのは、寛政6年、1794年の4月だ。研究は、止める理由の一つに修験者の訴えを挙げる。
行衣を着て焚き上げをし、初穂を乞う町人は、山伏の仕事と身分の区別を乱す。そう訴え出たわけだ。祈祷を頼む客や檀家が、富士講へ流れていた。
文化2年には、奇妙な触も出た。品川宿の求めで、富士や大山へ向かう者が舟で神奈川まで直行するのを止め、品川で降りて街道を歩けと命じたのだ。宿場の旅籠や商人の収入を守るためだ。
天保13年には、開帳の迎えや葬送への富士講の参加が止められている。嘉永2年、1849年の9月の触では、俗人の身で行衣を着て護符を出し、加持祈祷をする者を、厳しく取り締まるよう命じた。禁令は、くり返し出された。
東京都公文書館の史料集の要約によれば、幕府は、文化年間にも禁じたのにまた増えた、と述べている。皮肉なのは、食行本人が加持祈祷を否定していたことだ。後の講は梵天を立て、焚き上げをしたと、館山の博物館の解説は書く。
研究者は、禁令に穴があると指摘する。江戸の中の活動を止める触はあっても、富士参詣そのものには触れていない。御師や街道筋の商人の稼ぎを考えると、参詣には手を出せなかった、というのだ。
明治になると、富士講は神道の教団として認められる道を探した。扶桑教、丸山教、実行教は、富士講を母体にした教団だと、館山の博物館の解説は書く。
高田富士は、大学の敷地になるために崩された
高田富士はいま早稲田の甘泉園公園の隣にあり、もとの場所は早稲田大学の敷地になった。大学は1963年に水稲荷神社の土地を別の土地と交換して取得し、神社と富士塚は移った。氏子の反対運動も起きたと、大学の広報は書く。
扶桑教の会報は、この移転の際に、ツタンカーメンの呪いばりの因縁話がささやかれたと書く。中身は書いていない。話の出どころを、筆者は確かめられなかった。呪いがあったのかどうか、書ける材料はない。
同じころ、人穴では碑の建立が止まった。浅間神社の境内には、富士講の信者が建てた碑塔が230基あまりある。国の史跡の解説によれば、1964年以降、新しい碑は建っていない。
この話を題材にした怪談
四時二十分に、最後の二十袋を下ろし終えた。戸部は荷台のあおりを上げて、伝票の数字を指でなぞった。配合飼料の二十キロ袋が、二十。家の人は搾乳の…
