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オレンジの灯が消えた夜――旧吹上トンネル、東京でいちばん古い隧道に貼りついた白い女と、隣の峠から飛んできた噂の正体

トンネルの口から二十歩ほど手前に電柱が一本立っていて、その地面に近いあたりへ、白い塗料で四文字が書きつけてあった。幽霊出る。書いた人間が誰なのかは、誰も知らない。雨に何年も叩かれたせいで、最後の一文字はもう半分しか読めなくなっていた。

東京都青梅市。成木街道を市街から北へ詰めていくと、家並みが切れたあたりで正面の山がいきなり道を塞ぎにかかる。その山腹に、穴が縦へ三つ並んで口を開けている。下が平成、真ん中が昭和、いちばん上が明治で、掘られた年代がそのまま標高の差になった。

いま車が通れるのは平成の穴だけで、真ん中の昭和の穴には車止めが据えられ、人と自転車と単車しか入れない。この一本が旧吹上トンネルと呼ばれる。首都圏の心霊スポットを名前の通りやすい順に並べていくと、たいてい三番目までにこの穴が顔を出してくる。

峠の北はもう埼玉県だ。成木の谷を詰めきると道は県境の尾根へ突き当たり、その先は名栗から秩父へ抜けていく筋に変わる。東京の端。青梅の市街から車で二十分も走れば、コンビニの明かりはどこにも見えなくなった。

夜になると、この谷は本当に暗い。街灯は交差点のまわりにしか無く、新吹上トンネルの坑口だけが白い光をまっすぐ吐き出している。その明かりの手前で旧道側へ折れると、路面の質がいきなり変わってタイヤの音が低く沈む。車一台ぶんの幅しかない。

新吹上のほうは味気ない。六百四メートルの直線を白い照明が等間隔に照らし、天井のジェットファンが低い唸りを絶え間なく落としてくる。両側に一メートル半の歩道が付いているのに、そこを歩いて抜ける人間を見かけることはほとんど無い。

オレンジだった頃の話から始めたい

旧吹上トンネルは全長二百四十五メートル、幅五メートル半、高さ四メートル八十。数字だけ並べれば、どうということもない昭和の標準的な穴でしかない。壁はむき出しのコンクリート。扁額もなければ、飾りらしい飾りもひとつも付いていない。

それでもこの穴が全国区の名前になったのは、長いあいだオレンジ色の灯がともっていたからだと思う。低圧ナトリウムランプ。波長が五百八十九ナノメートルへ極端に偏った単色光で、照らされた物からいっさいの色を奪い取る。赤い上着も青い鞄も、あの灯の下では同じ灰色へ潰れた。

煙をよく透かし、消費電力あたりの明るさが群を抜いていたから、排気規制の緩かった時代のトンネルはたいていこの灯を選んでいる。煙が減るにつれて、道路照明は白いLEDへ置き換わっていった。旧吹上でも数年前に交換が済み、内部はいまや昼光色で妙に明るい。

古い写真と今の写真を並べると、差は残酷なほどはっきりする。オレンジの時代、二百四十五メートル先の出口は親指の先ほどの白い点でしかなかった。手前の壁だけが飴色に濡れて見える。その白い点と手前の壁のあいだにある空間は、写真の上で完全に沈んでいた。

照明が入れ替わった直後、この場所を長く撮っていた廃墟写真の書き手が、あっさりこう記している。雰囲気が消えた、と。被写体としては小綺麗になったのに、肝心の怖さのほうがどこかへ行ってしまったらしい。灯を替えただけで幽霊が減る。正直、出来すぎた話に見える。

昭和の穴は、中央が高くて両端が低い逆V字の縦断勾配で切られている。降り込んだ雨と湧いた水を、自然に両方の坑口へ流すための形だ。歩いていくと、緩い上りが途中で緩い下りへ入れ替わる。そのとき正面の出口の光が一度だけ沈み、数歩あとでまた浮き上がってくる。

天井と壁には細かいひびが走り、そこから滲んだ水が休みなく垂れている。落ちた滴が路面で跳ねる音は、両側の壁を二度三度と往復してから耳へ届く。足音も同じだ。自分の踏んだ音が半拍遅れて後ろから追いかけてくるようだ、と書き残した訪問者は一人や二人ではなかった。

坑口の顔つきは素っ気ない。コンクリートを角張った額縁のように立ち上げただけの意匠で、明治の隧道に見られる煉瓦の装飾めいた要素はどこにも無い。扁額の跡らしい窪みが中央の上寄りに残っていて、そこへ何が嵌まっていたのかを知る人はもういない。

路面はいつも湿っている。山から染み出した水が両側の側溝へ流れ込み、歩くたびに靴底が細かい砂を噛んで乾いた音を立てる。壁の下半分は苔。坑口から二十メートルも入ると外の音がすっと遠のいて、自分の呼吸の音が急に大きく聞こえはじめる。

壁の下半分は隙間なく落書きで埋まっている。呪文めいた文字や祭壇めいた細工の類はほとんど見当たらず、大半は中高生が思いつきで書いた下品ないたずら書きだ。ある散策ブログの書き手は、これをIQゼロの落書きオンパレードと切り捨てていた。怖いというより、正直げんなりする。

落書きの上へ白い塗料を刷毛で塗り潰した跡が、壁のあちこちに四角く残る。消しても翌月には次のが書き足されるらしく、塗り重ねの層はもう何枚目なのか見当が付かない。徒労だ。その白い四角の上にも、すでに新しい名前と日付が入っていた。

携帯の電波が切れるという噂も昔から付いて回っている。入ってみると、事業者によっては中ほどでアンテナが一本まで落ちる。壁の厚みと土被りを考えれば当たり前の話で、ここだけで起きる現象でもない。それでも、画面から表示が消えた瞬間に足が速くなる人は多い。

峠には道が四本刻まれている

この峠を越えるための道は、江戸から平成までのあいだに四本つくられた。古いほうから順に並べていくと、そのまま日本の道路史の縮図みたいな眺めになる。峠の名は吹上峠、標高は二百八十一メートル。青梅の市街から山へ踏み込んだ人間が最初にぶつかる壁が、ここだった。

いちばん古い一本は、トンネルですらない。文政十一年、西暦でいえば一八二八年に、地元の名主が音頭を取って尾根そのものを切り下げた掘り割りだ。深さはおよそ九メートル。山の背をV字へ削り落として、荷を背負った人馬を通したらしい。

二本目が明治三十七年、一九〇四年に貫通した隧道になる。全長百十二メートル、幅三メートル三十、高さ二メートル八十。煉瓦のアーチで巻き立てられた、東京で最初の道路トンネルだ。寸法を見れば分かるとおり、車ではなく馬と人のために掘られている。

一九〇四年は日露戦争の年だ。その年に東京府の西の端で最初の道路トンネルが貫通していたという時間の並びは、頭の中でどうにも結び付けにくい。鉄道が青梅まで延びて人と荷の動きが増え、峠の細い山道では捌ききれなくなった結果の工事だった。

三本目が昭和二十八年竣工の旧吹上トンネル。竣工を昭和三十三年と書く資料もあって、そこは文献ごとに数字が揺れる。ともあれ戦後の復興期に、荷を積んだ車が擦れ違える幅まで断面が一気に広げられた。明治の穴の四倍近い容積になる。

断面の形も変わった。明治の隧道が馬の背丈に合わせた縦長の穴だったのに比べ、昭和の一本は荷台の高い車を通すために天井を大きく上げた。差は歴然。坑口に立って二本を見くらべると、半世紀のあいだに日本の道が何を運ぶようになったのかが一目で分かる。

四本目が平成五年、一九九三年に開通した新吹上トンネル。全長六百四メートル、車道が七メートルで両側に一メートル半の歩道が付く。青梅側から入ると延々と上り勾配が続いて排気が滞りやすいため、天井に据えられたジェットファンが昼も夜も回りっぱなしになる。

この道は冬に牙を剥く。標高こそ三百メートル足らずだが、北向きの斜面へ張り付いた区間が長いので、坑口の前後は真冬になると一日じゅう日が当たらない。凍結で通行止めになる日もあって、そのたびに秩父側へ抜けたい車は遠回りの国道へ流されていく。

四本のうち、車が走るのは新吹上だけ。昭和の旧吹上は事実上の遊歩道でありながら、廃道ではなく現役の都道の旧道という宙ぶらりんの身分のまま置かれている。明治の隧道のほうは、二〇〇九年三月に人の出入りをすっかり止められた。

封鎖のやり方はかなり徹底していた。坑口へ鉄板を当て、その手前にフェンスを立て、さらに外側へもう一枚の鉄板を重ねる。そのうえで有刺鉄線が巻かれている。老朽化による落石の危険と、無断で入り込む人間の多さと、理由は両方だった。土地は私有地で、所有者が自費で塞いだ。

明治の坑口へ近づくには、崩れかけた廃道を足で詰めるしかない。途中にはワイヤーが張られ、台風で倒れた木が道を横向きに潰している。南側から先は完全に私有地のゲートの内側だ。まともに外観を眺められるのは、北側の斜面から見上げる角度だけになる。

北側の斜面はかなり急だ。沢の音を聞きながら落ち葉に埋もれた廃道を数分たどると、雑木のあいだから黒い鉄板の面がいきなり現れる。あたりは無音。近づくと鉄板の隙間から冷たい風が漏れていて、その奥に百十二メートルの空洞があることだけは体で分かった。

明治の隧道の坑口には、かつて扁額が掲げられていた。覆いが被さる前に撮られた写真を見ると、煉瓦の迫り持ちと要石の並びが驚くほど丁寧に積まれているのが分かる。土木の遺構として見れば、都内にほとんど類例の無い古さだ。

二〇〇三年に単車でここへ来た人の記録が残っていて、これがなかなか読ませる。廃道は蜘蛛の巣で塞がり、江戸期の切り割りを探して尾根の上まで登ったのに結局見つけられず、二人とも泥だらけで引き返したという。怪談より、その徒労の描写のほうが生々しい。

江戸の道はまだ歩ける。明治の隧道の真上にあたる尾根には、文政の切り下げでできた掘り割りの痕跡が浅い窪みとしていまも残る。落ち葉に埋もれてはいるが、両側の土の壁が人の手で削られた角度で立っているのを見れば、道だったことはすぐ分かる。

江戸城を白くした粉が、この峠を通った

成木街道という名前は、地図の上では通称でしかない。東青梅駅のそばにある成木街道入口交差点から北へ延び、埼玉県境の小沢トンネルまでおよそ十四キロ。途中の黒沢二丁目交差点から先が、法定路線名でいう都道五十三号青梅秩父線に切り替わる。

この道が生まれた理由は、ひとことで言えば石灰だ。青梅の北にある成木と小曽木の谷では、良質の石灰岩が地表近くまで露出していた。焼けば真っ白な消石灰が取れる。地元ではその粉を白土と呼び、運び出す道のほうは白粉道という別名で呼ばれてきた。

焼き始めの時期は、天正十八年、つまり一六〇〇年よりずっと手前までさかのぼる。八王子城の石垣に成木の石灰が使われたという話も伝わっている。産業として本格化したのは慶長十一年から。徳川家康が江戸城の大改築へ本腰を入れた年だ。

窯の跡はいまも山に散らばる。成木の熊野神社は石灰の歴史を伝える史跡として都から指定を受けていて、境内には焼き手の名を刻んだ石造物が並んでいる。白土の神様。石灰で食ってきた谷なのだと、峠の手前のあちこちが形で教えてくる。

白い漆喰で塗り込めた壁と櫓を仕上げるには、純白で質のそろった消石灰がどうしても要る。幕府は上成木村と北小曽木村の窯元へ、良い石灰を焼けと名指しで命じた。道を整え、荷を継ぎ立てる宿を街道筋へ置かせたのが大久保長安だと伝わっている。

この輸送路が、のちに青梅街道と呼ばれる道の原型になった。石灰を焼くのは、田畑の仕事が止まる晩秋から早春の農閑期。九百度を超える炉で石灰岩を焼いて生石灰をつくり、そこへ水をかけて消石灰へ変える。薪になる木も、注ぐ水も、この谷には有り余っていた。

峠越えの筋は、時代ごとに何度も振り替えられている。古い時期は笹仁田峠を越えて岩蔵へ抜ける道が本筋で、赤坂峠から新町村へ出る道も併用されていた。吹上峠を通る筋が加わったのは、さっき書いた文政十一年の切り下げよりあとになる。

運び方は人の背と馬だ。俵へ詰めた消石灰を馬の背に振り分け、峠をいくつも越えて江戸まで四日から五日かけて運んだという記録が残る。継ぎ立ての宿。街道の要所には荷を受け渡すための拠点が置かれ、村ごとに人馬を出す義務が割り当てられていた。

北条が落ちたあと、行き場を失った旧臣がこの土地へ入って窯を興したという記録も残る。石灰の商いで財を成し、近隣の寺へ相当な額を寄進した家もあった。峠のすぐ足元には、そういう金の動いた跡がいくつも埋もれている。

明治に入ると、石灰の商いは鉄道と新しい化学工業へじわじわ吸い上げられていった。道のほうは、秩父へ抜ける近道として生き延びる。名栗を経て山伏峠を越え、正丸の側へ下りる筋だ。国道の正丸トンネルが開通してからは、この峠を選ぶ車が目に見えて減っている。

石灰だけの谷でもない。青梅縞と呼ばれた織物と、多摩川の水運に乗せた材木が、石灰と並んでこの一帯の現金収入を支えていた。峠を越えていたのは白い粉に限らず、反物も炭も材木も、みな同じ細い道を人の背で担がれて下っていく。

だから吹上峠は、交通の要所でありながら、どの時代でも脇役に回されてきた峠だった。急ぐ人間は必ず別の道を選ぶ。残されたのは、その谷で実際に暮らしている人たちの毎日の行き来だけ。朝に越えて、日が落ちてからまた越える。まあ、そういう性格の道だ。

需要はやがて細っていく。ほかの産地が焼き始め、江戸の大火からの復興需要が一巡すると、幕府が何度立て直しを命じても成木の窯は数を減らしていった。それでも道は残る。石灰のために切り開かれた筋が、そのまま秩父への近道として明治も大正も使われ続けた。

石灰の採掘そのものは、この一帯でまだ終わっていない。峠の東側の山肌には砕石場の段々が深く削り込まれ、平日の昼間はダンプが列をつくって成木街道を下っていく。白い粉を運ぶ道という性格だけは、四百年たっても変わらずに生きている。

黒沢口の茶屋で起きたこと

白い和服の女が出る。旧吹上トンネルの噂でいちばん広く流通しているのが、この一行になる。そして出どころとして必ず引き合いに出されるのが、黒沢側の坑口のそばにあった一軒の茶屋の話だ。地元では、酒も出す店として記憶されてきた。

時期は終戦直後。昭和二十年代の後半から三十年頃までのあいだで、語り手によって年代がだいぶ揺れる。店を切り盛りしていたのは年老いた祖母と、その息子の嫁だった。ある夜、二人しかいないその店へ強盗が押し入っている。

当時の記事は見つけにくい。終戦直後の新聞は紙の配給が絞られていて、山あいの村で起きた事件が大きく扱われる余地はほとんど無かった。事件の細部が地元の口伝えでしか降りてこないのには、紙の足りなかった時代のそういう事情も一枚噛んでいる。

殺されたのは二人。祖母と、嫁だ。犯人はワイシャツに血をつけたまま人前を歩いていて、そこから足がついた。近所に住んでいた人たちの記憶では、逮捕までにそれほど日数はかかっていないという。事件そのものは、当時きちんと片がついている。

いちばん肝心なのは、殺害の現場が店の建物の内側だという点になる。トンネルの内部は、この事件と関係がない。二〇二一年に現地を歩いて取材した週刊誌の記事でも、土地の所有者がはっきりそう述べていた。二人は店の建物の中で襲われている。

残された子供がいた。当時二歳の娘だ。事件のあとは親族に引き取られ、まったく別の土地で人生を送っている。この一家は全滅していない。一家惨殺という形で流れている版は、その一点だけでもう事実から外れてしまう。

噂のほうへ回ると、話はずっと派手な形に育っている。娘が犯人に追われてトンネルの中へ逃げ込み、暗がりの奥で斧を振り下ろされた、という版だ。白い着物の女はその娘の姿なのだと説明が付く。斧という凶器は、どの記録にも出てこない。

版はまだいくつもある。祖母と嫁ではなく母と娘だったとする版、殺されたのが三人だったとする版、現場が茶屋ではなく隣の一軒家だったとする版。数え出すときりがない。語られるたびに細部が一つずつ入れ替わる様子は、伝言ゲームの実験を見ているのと変わらない。

強盗殺人という骨組みだけを残して、肉の部分が怪談向けに全部差し替えられている。舞台が店からトンネルへ移され、被害者が老女と嫁から少女ひとりへ入れ替わり、凶器まで追加された。この種の改変は、有名な心霊スポットではほとんど必ず起きる。

店の跡は、そのあとしばらく廃屋のまま立っていた。写真を撮りに来た人たちが、坑口とセットで何度も記録している。建物はいまでは取り払われ、藪に呑まれた平らな地面だけが残った。冬になって葉が落ちると、基礎のコンクリートがわずかに覗く。

白い和服という細部が気になる。終戦直後の山村で、店を切り盛りしていた女が白い和服を着ていたとは考えにくく、普段着は木綿の地味な色だった。白はおそらく怪談の側から持ち込まれた色で、幽霊の定型が土地の記憶へあとから被せられた跡だと読める。

茶屋がどこに建っていたのか、いまでも指させる人が地元にいる。黒沢側の坑口から坂を下って、川へ落ちる手前にある平場だ。写真の残る廃屋の位置と、古い地形図へ載っている建物の記号がだいたい重なる。証言と地図が噛み合う、数少ない部分になる。

峠の下の茶屋というのは、当時この谷でそれなりの役割を負っていた。荷を担いで越えてきた人間が一服し、酒を飲み、日が暮れればそのまま泊まることもある。女二人だけで夜まで店を開けていたという事情そのものが、事件の背景を説明してしまう。

泣きながら峠を越えた子供の話

地元の側から出てきた話が、もうひとつある。週刊誌の取材に応じた土地の所有者が、事件の話のついでに語ったものだ。大正の初め、まだ十にもならない少女が奉公へ出された。所有者から見て義理の母にあたる人の、子供時代の記憶になる。

奉公先へ通うためには、毎日この峠を越えるよりほかに道がない。当時の道はもちろん明治の隧道だ。幅三メートル三十、高さ二メートル八十、灯りなどひとつも無い。その暗がりを、少女は毎朝毎晩、泣きながら往復したという。

手に持てた灯りは提灯。夜明け前に家を出る子供が握れたのはせいぜい小さな提灯で、あの百十二メートルを抜けきるまで足元しか見えなかった。風の抜ける穴。冬の朝はとくに冷えて、吐いた息が提灯の明かりの中で白く固まったという話も聞く。

このあたりの家では、似たような話がまるで珍しくなかった。石灰の窯が衰えたあと、谷の暮らしは目に見えて細っていく。働き手の減った家の子供は、早いうちに外へ出された。峠の穴は、そのたびに小さな泣き声を吸い込んでいたことになる。

学校も峠の向こうだった。分校が置かれる前、成木の奥から通う子供は毎日この道を歩き、大雪の朝には大人が先に立って雪を踏み固めたという。泣きながらあの暗い穴を通り抜けた子供が、義母ひとりだけだったとはこの土地の誰も思っていない。

所有者は取材した記者に向かって、こんな言い方をしている。子供たちの悲しみが、いつのまにかおばけへ変わったのかもしれない、と。因果を証明する手立てなど、もちろん一つも無い。それでも、白い着物の女という説明よりはよほど腑に落ちる。

古いトンネルの怪談は、たいてい二つの層でできている。下の層には、その土地で実際に起きた辛い出来事が沈んでいる。上の層には、外から来た人間が次々に乗せていった物語が積もる。上の層だけを掘り返しても、手応えのあるものは何も出てこない。

大正から昭和の初めにかけて、この谷から外へ出された子供の数はかなりのものになる。口減らしという言い方は乱暴だが、実態としてはそれに近い。峠を越えて働きに出るという言葉は、当時この土地できわめて具体的な手触りを伴っていた。

レンタカーの窓に手形がついていた

二〇一八年の秋、心霊スポットを回っているブログの書き手が、仲間数人を連れて旧吹上トンネルへ入った。もともとは別の場所が目当てだったのに、そちらへ入れず流れてきた格好だ。借りてきたレンタカーを、坑口の手前の空き地へ頭から突っ込んで停めている。

異変の一つめはトンネルの中で起きた。列のいちばん前にいるわけでもない人間が、顔へ蜘蛛の巣が貼りついたと言い出す。続けて撮影用のカメラが一台、どこにもピントを合わせられなくなった。並んで構えていた同じ機種のもう一台は、最後まで普通に動いている。

意味の取れない女の声が聞こえた、とも書き手は記している。言葉として復元できない、音の塊のようなものだったらしい。そのあと同行者のうち二人が、青い服を着た男がいたと同時に言い出した。二人が向いていたのは、まるで別々の方向だ。

機材は全部で三台あった。ピントを拾えなくなったのは真ん中の一台だけで、前後に構えていた同じ型の機械は最後まで何の不調も出していない。原因は不明。書き手は後日、同じ機材を別の場所へ持ち込んで試し撮りをしたが、症状はそれきり再現しなかった。

いちばん妙な話は、外へ出てからだった。停めておいたレンタカーへ戻ると、リアガラスに手形がいくつも並んでいる。大きさがばらばらで、大人の掌も子供くらいの小さな掌も混じっていた。運転席側のドアガラスにも、フロントガラスにも同じものが付いている。

書き手はそこで、妙に落ち着いた観察をしている。並んだ手形が全部右手で、左手が一枚も混じっていない、と。翌朝あらためて見ると、左の後ろに付いていた分だけがきれいに消え、ほかの手形は前の晩のまま残っていた。皮脂の汚れなら、風で一部だけ落ちる理屈が立たない。

この書き手は、それを霊の仕業だと言い切ってはいない。誰かのいたずらという線も一度きちんと検討したうえで、消え方の不均一さだけがどうしても説明できない、と結んでいる。断定しないぶん、読んでいるほうは後味が悪い。

写真の検証は昔から行われてきた。八十年代の少年誌が心霊写真の特集を組んだ頃から、二重露光や手ブレによる人影の生成は何度も説明されてきた。それでも新しい一枚が出てくるたびに議論は毎回最初からやり直され、結論のほうはいつまでも積み上がらない。

写真に写るオーブの正体は、たいていの場合ただの埃になる。レンズのすぐ近くを漂う微粒子へフラッシュの光が当たり、焦点の外側で丸く膨らんで写る。湿ってカビの浮いたトンネルは、空中の粒子がとにかく多い。条件としては、これ以上ないほど揃っている。

足音が半拍遅れてついてくる

低い男のうめき声を聞いた、という報告はかなり古くからある。一九九〇年代に出ていた心霊スポットの本にも、そのうなりの話が短く載っていた。二〇〇〇年代に入って掲示板へ移ってからも、ほとんど同じ表現の書き込みが何度も繰り返し現れている。

件数でいちばん多いのは、やはり足音の話になる。前のほうから近づいてくる。自分の歩調とは微妙にずれている。こちらが止まると音も止まり、歩き出すと向こうも歩き出す。ここまでは全国どこのトンネルでも聞く型だ。

旧吹上の証言には、そこから先に一つ特徴がある。足音が、いつまでたっても追いついてこない。ずっと後ろのほうで鳴り止まないのに、距離のほうはまるで詰まらないのだという。振り返っても誰もおらず、二百四十五メートルを歩き切って坑口を出た瞬間に音が止む。

時間帯はまちまちだ。深夜に集中しているかと思えば、平日の午後三時に同じ体験をしたという報告も普通に混じっている。時間は無関係。照明が入っている以上、暗さだけで説明するのは難しいという指摘も昔から出ていた。

赤ん坊の泣き声を聞いた、という話も相当な数がある。歩いている最中に、前触れもなく前方から上がってくる。トンネルの反響で方向の手がかりが壊れるせいか、頭の上から降ってきたように感じた人もいた。獣の声との区別を付けられた人は、いまのところ誰もいない。

写真に大量のオーブが写り込んだという投稿は、それこそ数え切れないほど積み上がっている。二〇一〇年代の後半から記録の主役が動画へ移ると、今度は音声の異常を訴える例が一気に増えた。湿ったコンクリートと硬い天井は、録音の条件としては最悪に近い。

関東三大という括りもある。どの三つを指すのかは語り手ごとに入れ替わるのに、旧吹上トンネルだけはほぼ必ずその三つの中へ残り続けた。括りに入るかどうかで訪問者の数まで変わってくるので、この手の序列は地元にとって笑い事で済まない。

ある動画チャンネルは、男のうめき声と赤ん坊の泣き声を同じ夜に録音したと主張して数十万回再生を稼いだ。音の素材そのものは十秒に満たない。それでもコメント欄は延々と伸び、動画を見た人間が次の週末に現地へ向かう。循環はそこで閉じる。

再生数の桁が違う。心霊系の動画では扱う場所の知名度がそのまま数字へ跳ね返るので、始めたばかりの人間は有名な物件から先に回りはじめる。だから集中する。関東の心霊チャンネルを十本も見れば、そのうち二本か三本は必ずこの穴の前に立っていた。

引き返せなくなる、という型の噂もある。中ほどで振り返ると、入ってきたはずの坑口がもう見えない、という話だ。逆V字の縦断勾配を思い出せば答えは早い。勾配の頂点を越えた位置からは、背後の光が本当に隠れてしまう。

車のエンジンが止まる、という版も一時期よく出回った。ところが旧吹上へ車止めが据えられたのは、新トンネルの開通からほとんど間を置かない時期になる。車で入り込めた期間はそもそも短い。止まったエンジンは、話の中にしか無い。

鉄板の向こうで水が落ちている

明治の隧道に入れた時代の記録は、いま読み返すとかなり貴重なものになっている。二〇〇九年の封鎖より前、廃道を根気よくたどればどうにか中まで立ち入れた。煉瓦のアーチは所々が剥がれ落ち、北向きの斜面にあるせいで足元は一年じゅうぬかるんでいた。

ある散策ブログの書き手は、その暗がりのなかで水音を聞いている。天井から落ちてくる滴の音だ。素掘りに近い百十二メートルの筒の中では、その単純な音が妙な返り方をする。人の声のように聞こえた、と本人がはっきり書き残していた。

同じ人は、そこで撮った写真に説明の付かないものが写り込んだとも書いている。公開したあと、読者から人型が見えるという指摘が続けて届いたらしい。当人は最後まで懐疑的で、脳の錯覚として受け流していた。それでもその記事は、いまだに読まれる。

二〇〇九年三月の封鎖で、この種の体験そのものが不可能になった。以後の動画に映るのは、鉄板の前に立って中を覗こうとする人間の姿ばかりになる。肝心の中身が見えなくなったぶん、想像の入り込む余地はかえって広がった。

見えないほうが怖い。中身を確認できなくなった瞬間から、この穴についての語りはかえって勢いを増していった。典型的な反転。塞がれた坑口の写真は、まだ開いていた頃のどの写真よりも多く複製されて出回っている。

封鎖の名目は老朽化と安全確保だが、現場へ行ってみると別の事情も透けて見える。鉄板の表面には、へこみと工具で抉った傷が数え切れないほど付いている。力ずくで破ろうとした痕だ。所有者が張り替えるたび、また別の誰かが同じことをやる。

画面越しに巡る人もいる。地図サービスの写真機能で坑口の前まで進み、そこから先の暗がりを画面の中で覗いていく動画が、いくつも作られている。現地へ行かずに済むぶん迷惑は生まないが、そこで語られる怪異の中身は現地組のものと寸分変わらない。

鉄板の前には、たまに花や缶コーヒーが置かれている。誰が供えているのかは分からない。置いた本人には弔いのつもりでも、所有者の側からすれば片付ける手間が一つ増えるだけになる。数日たてば、空き缶は雨水を溜めて転がる。

封鎖から十五年以上がたち、内部がどうなっているのかを知る人はもういない。湧水の多い地質なので、路面はとうに泥の沼へ変わっているとみていい。煉瓦は水を吸って脆くなる。仮に開けたところで、まともに歩ける状態には戻らない。

取材の記者が帰り道で見た白いポール

二〇二一年、週刊誌の記者とカメラマンがこの峠へ入って現地取材をしている。怪談として消費するのではなく、地元への聞き込みを丁寧に重ねた記事で、この場所を扱ったもののなかでは数えるほどしかない種類の仕事だった。

その取材の帰り道に、小さな出来事が起きている。行きには無かったはずの白いポールが、道端に一本立っていた。記者もカメラマンも同じことを思ったという。車へ戻って撮ってきた写真を確認すると、行きに撮った一枚にもそのポールがちゃんと写っていた。

要するに、往路では単純に見落としていただけになる。それでも体感のほうは、あとから突然そこへ現れたようにしか感じられない。心霊スポットで起きている出来事のかなりの部分は、この種の認知の抜けで説明が付いてしまう。記者自身がそう書いている。

もっとも、その記事はそこできれいに終わってくれない。取材を済ませて帰宅したその夜、記者は隣の部屋から壁を叩く音を聞いた。隣室はだいぶ前に住人が引っ越して、空き部屋になっていたという。記事はその一文でぷつりと切られていた。

記事の構成がとにかく巧い。地元の迷惑と噂の否定を丁寧に積み上げておいて、最後の四行だけで読者を足元から突き落とす作りになっている。怪談の作法。取材記事として真面目なぶん、その落差がよけいに効いてしまうところが少し皮肉だ。

この記事が世に出たとき、ネット上の反応はきれいに二つへ割れた。地元の迷惑をきちんと書いた点を評価する声と、最後の壁を叩く音の部分だけを切り取って騒ぐ声だ。書き手が何を伝えようとしても、受け取る側は怖いところだけを抜き出していく。

訂正を試みた人は何人もいる。現地を歩いて聞き込みをした書き手も、資料に当たって年表を組み直した書き手も、それぞれ同じ結論へたどり着いた。それでも検索結果の上のほうへ出てくるのは、いまだに取り違えたままの古い記事のほうが圧倒的に多い。

自殺説と事故死説、それに「あの事件」説

流通している噂を系統ごとに仕分けていくと、この場所の輪郭がかなりはっきりしてくる。骨格になっているのは、さっきの茶屋の強盗殺人を核にした事件系だ。いちばん古く、地元の記憶とも接続している。白い和服の女は、すべてここから枝分かれしている。

二つめが自殺系になる。峠の木で首を吊った人がいる、明治の隧道の奥で死んだ人がいる、という形で語られてきた。日付も名前も、被害者の背格好すら出てこない。一九九〇年代の心霊本に特に多く、出典は例外なく伏せられている。

三つめが事故死系だ。旧道の時代、五メートル半という幅では大型車どうしの擦れ違いにかなり難儀した。対向車を避けて壁へ車体を当てる、二輪が勾配の変わり目で単独転倒する。実際に起きていた事故が、そのまま怪談の下敷きに転用された形になる。

実際の事故記録もある。旧道時代のこの区間では、擦れ違いのときに側壁へ車体を擦る程度の物損が繰り返し起きていた。死亡事故は別。峠の前後にある急カーブのほうが件数としては多く、トンネルの内部で人が亡くなった記録は見当たらない。

四つめに、工事の犠牲者説が根強く残っている。明治の掘削で人が死に、その霊がいまも穴に留まっている、という筋だ。湧水の多い地質だから難工事だったのは確かだろうと思わせる説得力がある。ただし殉職者の記録は、市史からも新聞からも出てこない。

もっと荒唐無稽な版もいくつか転がっている。井戸を壊したことへの祟り、山中をうろつく鉈を持った男。この手の話は警察の記録にも当時の新聞にも一切当たらない。怪談の語り手が高座で使った表現が、そのまま独立した噂として歩き出した例だ。

そして事件系の最大の枝が、「あの事件」説になる。昭和の終わりに東京と埼玉で起きた連続幼女誘拐殺人。あの犯人がここへ潜んでいた、ここで少女を手にかけた、ここへ遺体を捨てた。この三種類の版が、いまも同じ強さで出回る。

噂の系統にも寿命がある。自殺系は九十年代でほぼ止まり、いま検索してもろくに引っかからない。代わりに伸びたのが事件系と、映画のロケ地という文脈だった。生き残るのは、映像と結び付けられる話のほうになる。

隣の峠から飛んできた話

先に結論を書いておくと、この「あの事件」説は現場のまるごとの取り違えだ。舞台になった場所は、吹上峠から山をいくつか隔てた別の峠にある。旧小峰トンネル。八王子市とあきる野市の境をつないでいた、大正期の隧道だ。

竣工は大正五年とする資料が多く、一九一二年と書くものも混じっている。全長七十九メートル四十、幅四メートル三十、高さ三メートル五十。一九九九年に新しいトンネルが開いてからは、歩行者と自転車のための道になった。煉瓦のアーチへコンクリートを当てて補強してある。

あちらにも看板が立っている。新しいトンネルができたあとの旧道は生活道路として残され、歩行者と自転車のための通路として整備し直された。坑口の前には車止めが置かれ、夜間の立ち入りを控えるよう求める掲示が、吹上とよく似た文面で出ている。

一九八八年から八九年にかけて起きた事件で、遺骨の一部が置かれたのが、この峠の周辺だった。逮捕された男は裁判を経て死刑が確定し、二〇〇八年に刑が執行されている。少なくとも司法の手続きの上では、この事件はすでに終わっている。

距離を地図で測ってみる。吹上峠からあの峠まで、直線なら十数キロ、車で山を回り込んでも小一時間で着いてしまう程度の近さになる。隣の谷。東京の西の端を歩いたことのない人間にとって、この二つは地図の上でほとんど同じ一点に見える。

小峰の側には、手首のない少女が出るという有名な噂が付いた。事件の細部と怪談とが混ざり合ってできた話だ。ここまでは、場所と物語がひとまず正しく対応している。問題が起きるのは、そこから先の伝播の段階になる。

その同じ話が、いつのまにか旧吹上トンネルのほうへも貼りついた。青梅のこの穴で少女が殺された、犯人がここへ潜伏していた、と平然と書くサイトが大量に現れている。怪談を研究している書き手は、週刊誌の取材にこう答えていた。事実ではない、本当の現場は別だ、と。

旧小峰トンネルのほうは、いまも歩いて通り抜けられる。八十メートル足らずの短い筒で、入口に立った時点で出口の光がはっきり見えている。怖さの質でいえば、吹上とはまるで別物だ。それでも訪れる人の数は、いまだに減らない。

手首のない少女という噂の細部は、事件報道の断片が変形してできたものだと分かる。報じられた内容と噂とを突き合わせていくと、どこが誇張されたのかが一つずつ見えてくる。遺族のいる事件で、こういう作られ方をするのはかなりきつい。

なぜ十数キロの距離が消えたのか

飛び火が起きる条件は、数えてみるといくつも重なっていた。一つめは単純に近いことだ。吹上峠とあの峠は、直線距離でおよそ十数キロしか離れていない。青梅市とあきる野市は隣り合う市で、あいだを隔てているのは尾根ひとつぶんの山地しかない。

二つめは、構造がそっくりなことになる。どちらも峠を貫く旧トンネル。どちらも明治から大正にかかる古い隧道を背後に抱え、新トンネルの開通で旧道へ格下げされた。歩行者専用へ切り替わった時期まで近い。並べて説明されると、聞いた側の頭の中では境目が溶ける。

三つめが、媒体の側の事情だ。一九九〇年代に量産された心霊スポットの本は、東京西部の物件をまとめて一つの章へ押し込む作りが多かった。地図は粗く、住所も番地までは書かれない。ページをめくった読者の頭の中で、隣り合う二本の記事が混ざる。

本の作りにも理由がある。一冊へできるだけ多くの物件を詰め込む体裁だったので、一つあたりの記述は写真一枚と本文十行ほどしか取れない。検証は省略。編集部が現地を確かめる時間も予算も無いまま、前の本に載っていた内容がそのまま刷り直されていった。

テレビも同じことをしている。夏の特番で複数のスポットを一晩のうちに回る構成を取ると、移動の過程はほとんど編集で飛ばされてしまう。峠のトンネルが立て続けに二本映れば、視聴者の記憶の中では同じ場所へ統合される。これが何年ぶんも積み重なった。

四つめが、検索とコピーの問題になる。二〇一〇年前後から、まとめサイトが心霊スポットの記事を猛烈な勢いで量産しはじめた。出典はまず書かれない。誤った一行がそのまま複製され、別のサイトがそれを引き、やがて元がどこだったのか誰にも追えなくなる。

五つめに、名前そのものの紛らわしさがある。吹上という地名は全国に散らばっていて、埼玉の鴻巣にも、大分にも吹上トンネルが実在している。同名の別物件に付いていた怪談が混線し、青梅の穴のほうへ流れ込んだ例も確認できる。

地図アプリもよく効いている。検索窓へトンネルの名前を入れると、近隣の心霊スポットが同じ画面へまとめてピンで表示されてしまう。縮尺を引けば十数キロの差など点と点の隙間へ潰れ、二つの峠は画面の上で完全に隣り合わせに見える。

六つめとして、怪談師の高座という経路がある。口演で語られる話は、たいてい場所をぼかしたまま進む。東京の西のほうの、古いトンネルで。この言い方は語り手にとって便利だが、聞いた側は自分の知っている物件へ勝手に当てはめてしまう。

強い話ほど、強い物件へ吸い寄せられていく。いちばん有名な場所が、結果としていちばん多くの噂を抱え込む。心霊スポットの世界では、これがほとんど物理法則に近い力学になっている。旧吹上トンネルは首都圏で最上位の知名度を持ってしまった。だから隣の峠の悲劇まで背負わされた。

逆の現象も起きている。無名の物件で本当に妙なことが起きても、話は広がらないまま数年で誰にも覚えられなくなって消えていく。淘汰される噂。生き残るのは怖い話よりも、有名な地名と結び付いた話のほうだと考えると筋が通る。

この誤伝で割を食っているのは、噂の側ではなく現地の人たちだ。関係のない事件の名前を背負わされ、それを真に受けた人間が深夜に押しかけてくる。実際に被害者の遺族が住んでいる土地で、まるで関係のない事件の話が延々と語られている。

誤伝が厄介なのは、否定した記事より肯定した記事のほうが読まれる点だ。違いますと書いた一本より、あの事件の現場ですと書いた五十本のほうが検索の上へ来る。訂正は、構造としていつも負ける側へ置かれている。

心霊スポット本からスマホの画面へ

語り口の変遷を時系列で並べていくと、この場所の四十年がそのまま見えてくる。一九九〇年代の心霊スポット本に載っている旧吹上の記事は、おおむね短い。白い和服の女と、茶屋の事件。この二つだけで一ページが埋まっていた。

書き手が現地へ行っていない場合も、当時は珍しくなかった。伝聞を集め、粗い地図を添え、最後に短い注意書きを入れて終わる。写真は昼間に撮った坑口の一枚だけ。オレンジの灯がどんな色をしていたのか、まるで伝わってこない記事もあった。

テレビが乗ってきたのは、その少しあとになる。著名な怪談師の現場検証シリーズが取り上げたことで、この穴は一気に全国区の名前になった。映像が付くと、それまで曖昧だった細部が固定される。坑口の形と内部の色が、視聴者の記憶へ焼き付いた。

二〇〇〇年前後から、舞台がネットへ移っていく。掲示板のオカルト板には訪問報告のスレッドが立ち、洒落にならない怖い話を集める系統のスレにも名前が出るようになった。ここで語りの形式が決定的に変わる。行ってきた人間が、一人称で書く。

地元に住む六十代の男性は、のちの取材へこう答えている。二十年くらい前から若者がぞろぞろ来るようになった、と。逆算すると、ちょうど二〇〇〇年前後にあたる。個人サイトの心霊スポット一覧が検索で拾われはじめた時期と、見事に重なる。

来る手段も変わってきた。九十年代は単車の集団が主役で、二千年代に入ると免許を取りたての若者が車で乗りつけるようになる。いまは電車で青梅まで来てバスと徒歩で峠を目指す、撮影が目的の少人数の組がいちばん目につくようになった。

書き込みの型も決まっていた。何年の夏に友人と何人で行った、という書き出しで始まり、坑口の描写が続き、最後に短い怪異が一つだけ置かれる。様式は一定。型が固まると、書き手は自分の体験をその型に合う形へ無意識に整えてしまう。

二〇一〇年代はまとめサイトの時代になった。同じ文章が無数に複製され、噂の系統がどんどん均質化していく。どのサイトを開いても、判で押したように同じ三行が並ぶ。流通している情報量は増えたのに、中身のほうはむしろ痩せていった。

二〇二〇年には、映画『犬鳴村』のロケ地としてこのトンネルが使われている。公開に合わせて、タクシーで心霊スポットを回る巡礼ツアーまで組まれた。撮影で使われた白い着物の人形が、そのあとしばらく目撃談の中へ紛れ込んでいた形跡もある。

同じ頃から、主戦場はYouTubeへ移った。明治の隧道を塞ぐ鉄板の前で噂を検証する、という体裁の動画が延々と量産される。深夜に長時間の生配信をする人間も現れた。再生数が直接収入になると分かった時点で、参入者は一気に増えている。

語りの形も、ここで根本から変わった。昔は人から聞いた話というだけで充分に通用した。いまは映像という証拠を出さなければ最後まで見てもらえない。

だから演出が濃くなる。叫び、走り、機材で音を拾う。場所そのものは四十年前と何ひとつ変わっていないのに。

漫画やアニメの中にも、この穴をモデルにしたらしい場所が出てくる。心霊を扱う作品が東京西部の古いトンネルを描けば、読者はまずここを思い浮かべる。名前が出ていなくても、そう受け取られる時点で影響は変わらない。

映画で使われたのは、福岡にある本物の旧犬鳴トンネルではなかった。あちらは坑口がコンクリートで完全に塞がれていて、撮影に使える状態にない。代役として選ばれたのが、青梅のこの穴だった。別の場所の怪談が、ここへもう一つ流れ込んできた。

ロケ地としての需要も続く。都心から一時間半で着き、車が入れず、照明が最初から付いているという条件は、撮影する側にとってかなり都合が良い。怪談の舞台として使われるたび、この穴の見た目そのものが新しい怖さの意匠を一枚ずつ着せられていく。

地蔵が壊された

土地の所有者が取材で並べてみせた被害は、読んでいて素直に重い。地蔵が壊された。ゲートと鉄板が何度も破られた。空き缶と弁当の容器が散らばり、焚き火をした跡が残る。注意をすれば、逆に食ってかかられる。

所有者はこんな言い方をしている。亡くなった家族をおばけと言われて、遺族は悲しんでいます、と。噂の中で怪異として消費されているのは、この土地で実際に命を奪われた人たちだ。その遺族は、いまもこの谷で暮らしている。

七十代の女性の証言も同じ記事に載っていた。地元の人でおばけを見た人は一人もいません、と。六十代の男性のほうは、古いトンネルは子供の頃の遊び場だったと語っている。そんな話は当時ひとつも無かった、とも付け足していた。

夜が怖いまま亡くなった高齢者もいるという。若者の集団が深夜に集まり、大声を上げ、車を道端へ並べて停める。山あいの集落では、その音がどこまでも遠くへ届いてしまう。当人たちに悪意が無いぶん、かえって始末が悪い。

怪談を研究している書き手は、取材に対してこう言い切っていた。心霊スポットと呼ばれている場所の九十九パーセントは、もともと何も起きていない場所だと。そのうえで、この手の場所が抱え込む負の循環の構造を説明している。

番組が盛り上げるために現地で騒ぐ。近隣の住民が警察へ通報する。それを見た若者が面白がってまた来る。動画で稼げると知った人間が押し寄せてくる。場所そのものの怖さではなく、人が集まること自体が次の迷惑を生む。

季節による波もあるらしい。夏休みと年末年始、それに心霊番組が放送された直後の週末に、訪問者の数がはっきり跳ね上がるという。周期は一定。住民はその波を経験で覚えてしまっていて、放送のある夜は最初から窓を閉めるのだという。

その一方で、青梅市は明治の隧道を土木遺産として扱おうと動いてきた。市長が東京都と文化庁へ、文化財としての登録を求める要望書を出している。東京で最初に掘られた道路トンネルという経歴は、それだけで充分に重い。

保存を望む側と、怪談で稼ぐ側と、ただ静かに暮らしたい側。同じ一つの坑口の前に、まるで噛み合わない三つの立場が並んでいる。鉄板の向こうで眠っている百二十年ぶんの煉瓦は、そのどれに対しても関心を示さない。

深夜の通報は、これまで何度も入っている。山あいの集落では、車のドアを閉める音ひとつでも遠くまで届いてしまう。駐在が来て解散させても、翌週にはまた別のグループが同じ場所へ集まる。住民の側に打つ手がほとんど無い。

現地に立っている注意書きの文面は、意外なほど穏やかだ。脅すような言葉も、罰則の告知も書かれていない。それでも看板そのものが、これまでに何度か引き抜かれている。書かれた中身ではなく、立っていること自体が気に入らないらしい。

穴のかたちが、勝手に怪談を作る

トンネルが心霊スポットになりやすい理由は、かなりの部分まで物理で説明が付いてしまう。最初に挙がるのが音だ。硬い壁で囲まれた細長い筒は、反響が消えるまでの時間が異様に長い。足音も咳も、両側の壁で何度も跳ね返ってから耳へ戻ってくる。

反射音は、低い周波数ほど長く残る性質がある。人間のうなり声に近い帯域が、いちばんしつこく尾を引く。だからトンネルの中の物音は、うめき声へ化けやすい。滴の連打がすすり泣きに聞こえるという証言が絶えないのも、理屈としては同じだ。

方向の手がかりも壊れる。音がどこから来たのか、左右の耳に届く時間差では判定できなくなってしまう。前から聞こえたはずの音が、次の瞬間には頭上から降ってくる。人間の聴覚は、この状況にまったく慣れていない。

残響の長さがとにかく効く。硬い壁でできた筒の中では音のエネルギーがなかなか失われず、鳴り止むまでの時間が屋外の何倍にも伸びてしまう。声が重なる穴。一人でしゃべっているのに、話し終えたあとも自分の声が壁のどこかで生きている感じが残った。

気温の効果も見逃せない。トンネルの内部は年間を通じてほぼ一定の温度に保たれる。真夏には冷えた空気が坑口から流れ出してきて、半袖の腕にはっきり鳥肌が立つ。冬はその逆で、生ぬるい風が吹き出す。寒気を感じたという証言の多くは、この温度差だけで足りる。

明暗の切り替えも効いている。明るい外から暗い穴へ入ると、瞳孔の順応が追いつかず、数秒のあいだ何も見えなくなる。ブラックホール現象と呼ばれている。出るときは逆で、外の光が眩しすぎて前方の物が消える。

坑口には霧が出る。内外の温度差が大きい日は、湿った空気が坑口のあたりで冷えて白いもやになり、光の筋がその場ではっきり見えてしまう。夏の夕方にこれが出ると、奥のほうで何かが立ち上がったように見えるので、写真にもよく写り込んだ。

旧吹上の場合、そこへ例の逆V字の縦断勾配が乗ってくる。正面に見えていた出口の白い点が、歩いていくうちに一度沈み、数歩のあとでまた浮き上がる。光が欠けたその一瞬に、何かが横切ったと感じる人が出てくる。地形が最初からそういう作りになっていた。

視線の誘導という現象もある。運転中に壁や対向車を凝視すると、ハンドルは無意識のうちにそちらへ切られていく。誘導効果と呼ばれるもので、車体が引っ張られたという体験談には、この仕組みで起きたものが確実に混じっている。

速度感覚の喪失も無視できない。流れていく景色が消えてしまうので、自分がどれだけの速さで走っているのか分からなくなる。時間の感じ方まで一緒に狂う。やたら長く感じた、あっという間だった、という正反対の証言が両方出てくるのはそのせいだ。

そして壁のシミだ。週刊誌の取材班も、人のように見えるシミが内部に多数あったと書いていた。パレイドリア。曖昧な模様の中に顔や人の形を読み取ってしまう、脳の標準的な機能になる。漏水で汚れたコンクリートは、その最良の画材になってしまう。

漏水の跡がよく効いている。天井から垂れた水は壁を縦に伝い、乾くときに白い筋と黒い染みを不規則な形で残していく。人の形に見える。その染みを何度も見た人ほど、次に来たときには同じ位置へ同じ顔を見つけてしまう。

期待の効果が、これらを全部まとめて増幅する。出ると知ったうえで入れば、脳は該当しそうな情報を優先的に拾い上げる。記者が往路で見落とした白いポールが帰り道で突然現れたように感じられたのも、同じ働きの裏返しだった。

条件を並べ直してみると、旧吹上トンネルは怪談を育てる実験装置としてほぼ完璧に近い。湿った壁、長い反響、途中で光が沈む勾配、坑口で入れ替わる空気。そこへ本物の事件の記憶が一枚だけ混ざり込んでいる。

人数の効果も無視できない。誰か一人が声を上げれば、残り全員の感覚が一気にそちらへ引っ張られる。暗がりで恐怖を共有した集団は、あとから記憶のほうまですり合わせてしまう。同時に同じものを見たという証言は、その過程でできあがる。

物理と心理で並べ直しても、全部がきれいに片付くわけでもない。手形の消え方も、ピントを拾わなくなった一台だけのカメラも、説明としてはどこかに穴が残る。分かることと分からないことの境目は、思っているよりずっと手前にある。

鉄板のへこみ

いまの旧吹上トンネルは、昼光色のLEDで隅まで白く照らされている。落書きはあいかわらず下品なままだ。天井の割れ目から染み出した水が垂れ、路面に黒い筋を何本も引いている。普通に歩けば、十分もかからずに反対側の坑口へ出てしまう。

穴を抜けた先には車止めと、色の褪せた注意書きが立っている。夜間の立ち入りは控えるように、という趣旨の文面だ。誰が書いたのか分からないあの四文字の落書きは、電柱の下のほうにまだ薄く見えている。

明治の坑口を塞ぐ鉄板には、へこみがいくつも付いていた。蹴りつけられた跡だ。所有者が張り替えるたび、次の誰かがまた足を上げる。有刺鉄線の一部には、ペンチで切り落とされた形跡がはっきり残っていた。

その鉄板の向こう側で、百十二メートルの煉瓦のアーチが暗闇に沈んでいる。もう誰も入れない。灯も無い。天井から落ちる水の音だけが、今日も壁のあいだを跳ね返り続けている。

この話を題材にした怪談

2026.10.10

六月の終わりは、工場の中まで湿っている。床のコンクリートが汗をかいて、長靴の底がきゅっと鳴った。グリスと雨の匂いが、朝からこもったままだ。樋…

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