祖母の家には、鳴らない鈴があった。
納戸の鴨居に、麻紐で吊るしてある。
蜜柑ほどの大きさで、色は黒い。
下から覗くと、中に舌がない。
振っても、音の出ない鈴だ。
小学四年の春休み、父と二人で韮崎の祖母の家へ泊まりに行った。
中央本線を新府駅で降りて、桃畑の間を十分ほど歩く。
無人の駅で、ホームに降りたのは私たちだけだった。
父の実家は中田町の畑の中にある。
裏の畑の向こうに城山の森が黒く盛り上がって、その上が新府城跡だ。
森の向こう側は七里岩の崖で、ずっと下を釜無川が流れている。
県道を少し歩けば、城跡へ上がる鳥居と、長い石段が見える。
家の縁側からだと、城山の木が黒い壁になって、城そのものは見えない。
その壁の向こうに何があるのか、子どもの私は一度も考えなかった。
着いた日の昼、祖母が飴をくれた。
黄色い紙に包んだ、べっこう色の飴だ。
「舐めてれば風邪ひかんよ」
祖母はいつもそう言って、私のポケットに二つ三つ押し込んでくる。
甘くて、少し焦げた味がする。
叔父は父の弟で、祖母と二人で暮らしている。
背が高くて、口数が少ない。
その叔父が、夕方、私を納戸の前へ呼んだ。
「あれに触るな」
鴨居の鈴を顎で指す。
「鳴らない鈴だ。もし鳴ったら、俺に言え」
鳴らないのに、鳴ったら言え。
意味が分からなくて、私は黙って頷いた。
祖母は台所で笑っていた。
「じいさんのじいさんが、この家を建てた時に掛けたもんだよ」
魔除けだと言う。
古いから、舌が落ちて失くなったんだろう。
祖母はそう言って、鍋の蓋を開けた。
湯気の向こうで、叔父が黙って味噌を溶いていた。
その手が、一度だけ止まったのを覚えている。
一日目の夜は何もなかった。
八畳で祖母の隣に寝て、朝まで一度も目を開けなかった。
枕が高くて首が痛い。
覚えているのはそれだけだ。
二日目の昼、父と県道まで出た。
桃の蕾はまだ固い。
畑の間の道を歩くと、城跡の鳥居が近づいてくる。
石段は上のほうが木の影に消えて、どこまで続くのか見えない。
鳥居の下に立つと、上から風が吹き下りてきた。
土の匂いに、焦げた匂いが混じる。
父は煙草に火を点けて、石段を見上げた。
「勝頼はな、自分で火を付けて逃げたんだ」
移ってから百日も経たないうちに、と父は言った。
上には藤武神社があって、その勝頼を祀っている。
春の祭りの日には、この石段を町の人が上がる。
「十三段目で振り返るなって、ガキの頃は言われたな」
笑っている。
「誰が立ってるの」
「さあな。言ったやつも知らんだろ」
父は上がらなかった。
私も上がらなかった。
煙草の煙が、石段のほうへ流れて消えた。
県道を軽トラックが一台、速度を落とさずに通り過ぎた。
畑に戻る道で、父が一度だけ後ろを見た。
何も言わなかった。
二日目の夜。
父と叔父は居間で酒を飲んでいる。
私は祖母と並んで、奥の八畳に布団を敷いた。
襖の向こうから、父の笑い声が聞こえてくる。
叔父の声は、一度も聞こえなかった。
祖母の寝息は大きい。
その寝息の隙間で、目が覚めた。
ちり。
小さい音が一つ。
納戸のほうからだ。
枕から頭を上げて、耳を澄ます。
廊下の向こうは真っ暗で、冷蔵庫の唸りしか聞こえない。
鈴は鳴らない。
舌がないんだから当たり前だ。
風で麻紐が擦れたんだろう。
私はそう決めて、布団を頭まで被った。
朝になって、叔父に言おうか迷った。
言えば笑われる気がする。
言わないまま、三日目の昼になった。
祖母がまた飴をくれた。
「城山のほうへは、昼でも一人で行くな」
飴を押し込みながら、祖母はそう言った。
行ってない、と答えると、祖母は私の顔を見ずに頷いた。
三日目の夜。
同じ音で目が覚めた。
ちり。
今度は一つでは終わらない。
間を置いて、もう一つ。
ちり。
私は布団から出て、廊下を這うように進んだ。
納戸の戸が少し開いている。
隙間から中を覗いた。
叔父が立っていた。
電気は点けていない。
廊下の常夜灯の明かりで、背中だけが見える。
右手を上げて、鴨居の鈴を握り込んでいた。
鈴の音は止まっている。
叔父の肩が、ゆっくり上下していた。
「寝ろ」
振り向かずに言われた。
「ネズミだ。天井を走った」
天井からは何の音もしない。
私は返事ができなくて、布団に戻った。
足の裏が冷たい。
しばらく眠れなかった。
布団の中で、叔父の右手を思い出す。
鈴を握った指の間から、麻紐が垂れていた。
鈴は揺れていない。
揺れていないのに、叔父は押さえていた。
そこまで考えて、頭から追い出した。
隣で祖母の寝息が、いつもより小さかった。
四日目。
叔父は朝から畑に出て、昼飯の時も私を見なかった。
昼過ぎ、納戸の前を通ると、戸が閉まっていた。
来た日には開いていた戸だ。
中を見たくて、見たくなかった。
廊下を早足で抜けて、縁側に出た。
城山の木が、昼でも黒い。
父は夕方、仕事の電話で甲府へ出た。
帰りは明日の朝になるという。
「叔父さんの言うこと聞けよ」
父はそう言って、叔父の軽トラックで新府駅まで送られて行った。
家には祖母と叔父と私だけ。
夕飯の後、祖母が私の枕の下に飴を三つ入れた。
「今夜は、口に入れて寝な」
理由は言わない。
いつもの笑い顔のままで、目だけが笑っていなかった。
祖母は九時には寝た。
叔父は居間で、音を消したテレビを見ていた。
画面の光が、廊下まで届いている。
私は飴を口に入れないまま、天井の木目を数えていた。
寝ながら舐めたら、喉に詰まる気がしたからだ。
百まで数えて、また一から数えた。
柱時計が二つ打った。
音は、納戸からではなかった。
外からだ。
ちり、と一つ。
縁側のガラス戸の向こう、桃畑のほうから聞こえる。
次は、少し近い。
ちり。
その次は、家の前の道。
布団の中で、私は息を殺した。
鳴らない鈴は納戸にある。
なら、外で鳴っているのは何だ。
考えが追いつかないうちに、廊下の板が軋んだ。
叔父の足音だ。
納戸の戸が開く。
麻紐を解く、乾いた音。
それから、私の枕元に叔父がしゃがんだ。
「起きてるな」
声が低い。
「来い。靴を履け」
「どこに」
「返しに行く」
叔父の手には、手拭いで包んだ丸いものがあった。
鈴だ。
「お前を家に置いて行くほうが悪い」
叔父はそれだけ言った。
祖母は起こさない。
起こしても、何もできん。
叔父は小声でそう言って、縁側のガラス戸を開けた。
私は枕の下の飴を一つ、ポケットに入れた。
靴紐を結ぶ指が、うまく動かない。
二度やり直して、やっと結べた。
その間、叔父は戸口に立ったまま、外の暗さを見ていた。
三月の終わりの夜は、まだ冬の底が残っている。
吐いた息が白い。
空は晴れているのに、月は出ていない。
星だけが多い。
懐中電灯は叔父が持つ。
私は叔父の上着の裾を掴んで歩いた。
離したら、畑の暗さに溶けて、家の方角も分からなくなる。
そう思うと、指に力が入った。
家の前の道を、県道のほうへ。
桃の木が、黒い骨みたいに並んでいる。
畑の土が、昼より強く匂う。
右手に城山の森が、空より黒い塊で続いている。
その上のどこに城があるのか、夜は見当もつかない。
叔父の歩幅は大きい。
小走りでついて行くと、飴の包みがポケットで擦れた。
夜中に外へ出たことなど、それまで一度もない。
怒られるのではなく、連れて行かれている。
そのことが、足を重くした。
ちり。
音は前にある。
県道を渡った先、鳥居のほうだ。
叔父は立ち止まって、私のポケットを探った。
祖母の飴が出てくる。
紙を剥いて、私の口に押し込んだ。
「噛むな。舐めてろ。口を開けるな」
甘さが舌に広がる。
県道の手前が、城跡の見学者用の駐車場になっている。
叔父はその端に立って、道の向こうを見た。
街灯が一本だけあって、その下だけ路面が白い。
看板の字が、街灯の明かりで薄く読める。
鳥居は道の向こうだ。
車は来ない。
渡って、叔父は鳥居の手前で止まった。
そこから先へは、一歩も出ない。
私の肩を掴んで、自分の脇に立たせた。
石段は上へ伸びて、懐中電灯の光は五段目あたりで闇に飲まれた。
その闇の中に、白い光が一つあった。
石段のずっと上。
懐中電灯ではない。
色が白すぎる。
揺れもしないし、大きくもならない。
ただ、そこにある。
叔父は懐中電灯を消した。
「見るな。見るなら、鳥居より上を見るな」
私は鳥居の脚を見た。
石の根元に苔が生えている。
その苔を、ずっと見ていた。
ちり。
音が、石段を下りてきた。
一段。
また一段。
鈴の音と一緒に、靴ではない足音がする。
布が石を擦る、乾いた音だ。
一昨日の昼、鳥居の下で嗅いだ焦げた匂いが、急に濃くなった。
風は吹いていない。
匂いだけが、石段を下りてくる。
数えてはいけない、と思うほど数えてしまう。
五つ。
六つ。
叔父の手が、私の後頭部を押さえた。
「下を見てろ」
七つ。
八つ。
口の中で飴が小さくなる。
噛みたい。
噛めば音が出る。
奥歯に力を入れた。
九つ。
十。
音の間隔が、少しずつ狭くなる。
十一。
十二。
十三は、来なかった。
代わりに、音が後ろで鳴った。
ちり。
私の背中のすぐ後ろ。
手を伸ばせば届く近さだ。
県道のアスファルトの上。
叔父の指が、後頭部に食い込んだ。
「振り向くな」
息が止まる。
鼻の奥が熱い。
首の後ろの産毛が、全部立った。
背中に、冷たいものが当たっている。
風でも、手でもない。
焦げた匂いが、襟の中に入ってきた。
膝が小さく笑って、立っていられない。
叔父の上着を、両手で掴んだ。
後頭部の手が離れた。
手拭いを解く、乾いた音がする。
掴んだ上着越しに、叔父の腕が後ろへ回るのが伝わった。
自分は振り向かない。
腕だけを、後ろへ伸ばしている。
「うちのじゃない」
叔父が言った。
「持って行け」
後ろで、何かが鈴に触れたらしい。
音はしない。
叔父の腕が、何かの重さで一度だけ下がった。
上着の生地が、私の指の中で引かれる。
それだけだ。
それから、長い間、何も起きなかった。
飴はもう、豆粒ほどになっている。
舌の上で転がすと、焦げた味だけが残った。
叔父の腕が、小さく震えているのが分かる。
寒さのせいだと思いたかった。
石段の上の白い光は、まだそこにある。
見てはいけないのに、目の端に入ってくる。
苔を見た。
苔だけを見た。
遠くで、中央本線の貨物が通る音がした。
新府駅のほうから、線路の継ぎ目を叩く音が来て、遠ざかっていく。
釜無川のほうで、犬が一度吠えた。
その声が消える頃、叔父が腕を引いた。
横目に、黒い鈴が見えた。
手のひらに、そのままあった。
持って行かれなかった。
叔父は鈴を手拭いに包み直した。
包む手つきが、着いた日に味噌を溶いていた時と同じだった。
「帰る」
「あれは」
噛むなと言われたのを思い出して、声を飲んだ。
「喋るな」
私は叔父の裾を掴んで、県道を渡った。
後ろは見ない。
足音も、鈴の音も、もう後ろからは来ない。
桃畑の道に入ったところで、叔父が足を止めた。
手拭いの包みを、私の手に握らせる。
「お前が持て」
「なんで」
「子どもが持つと、ついて来ない」
誰が、とは言わなかった。
「家まで握ってろ。開くな。振り向くな」
包みは冷たかった。
石を握っているみたいに重い。
鳴らない鈴だ。
舌がない。
祖母はそう言った。
歩きながら、叔父がぼそりと言った。
「あれは、ばあさんが嫁に来る時に持ってきたんだ」
「ばあさんの里に、誰かが置いて行ったもんだ」
祖母の話と違う。
家を建てた時からある、と祖母は言っていた。
聞き返したかったけど、口を開くなと言われた手前、声にならなかった。
「兄貴は知らん。知らんでいい」
叔父はそれきり口を閉じた。
桃の枝が、肩に触れる。
払う手は、包みで塞がっていた。
家の屋根が見えてきた。
縁側の常夜灯が、小さく灯っている。
あと二十歩。
あと十歩。
私は包みを胸に押し付けて、歩いた。
その時だ。
握った手の中で、鈴が、こつ、と鳴った。
舌のない鈴の内側で、何かが一度、殻に当たった。
私は手を開かなかった。
叔父も振り向かなかった。
縁側の敷居を跨いで、叔父がガラス戸を閉めた。
鍵を掛ける音がした。
私はまだ、包みを握っている。
叔父が私の手の上に、自分の手を重ねた。
そのまま、朝まで開かせなかった。
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