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姫ヶ淵、三歩うしろの妻

十月の終わりの木曜、慎吾は妻の真由と甲州へ向かった。
結婚して十二年になる。
旅の段取りは、いつも真由が決める。
宿も、寄る場所も、帰りの渋滞の読みまで全部だ。
慎吾は運転をして、あとはついて歩けばいい。
真由はいつも、慎吾の半歩前を歩く。
返事はたいてい「うん」で、手には携帯がある。

前の晩、真由は台所のテーブルで爪を塗っていた。
ベージュの小さな瓶と、つんとくる匂い。
「旅行の前は塗るの」
そう言って、乾くまで指を広げたまま動かなかった。
除光液のシートも爪切りも、ポーチに入れていく人だ。

午前中に、勝沼のワイナリーに寄った。
試飲のグラスを、真由は三つ空けた。
運転は慎吾なので、飲むのは真由だけだ。
小さなグラスを持ち上げた真由を、携帯で一枚撮る。
ベージュの爪まで、くっきり写った。
昼はほうとうを食べて、国道二十号を大月方面へ走った。
景徳院入口の交差点を曲がると、道は日川に沿った上りになる。
木のあいだから、ときどき川の光がのぞいた。

宿に着いたのは、三時を少し過ぎたころだ。
景徳院の下から、川沿いの道を五分ほど上った、古い木造の宿だった。
玄関の脇に柿の木が一本立っていて、土間の奥から煮物の匂いがする。
出てきた女将は六十くらいで、えんじ色の前掛けをしていた。
「お部屋、離れになりますけど」

女将は母屋の横を抜けて、二人を庭へ連れていった。
飛び石の先に、腰の高さの竹垣がある。
そこに古い木戸がついていて、開けると乾いた木がきしんだ。
内側の柱には、懐中電灯が釘で下げてある。
「夜は足元が見えませんから、これを使ってくださいね」
女将は懐中電灯を指でつついた。

「五時ごろ、ちょっと買い物で下まで出ます」
「お夕飯は六時半に、母屋のほうでお出しします」
「それと、夕方は川へ降りないでくださいね」
「この時期は、暗くなるのが早いんですよ」
慎吾は頭を下げた。

離れは八畳ひと間で、障子の外に縁側がある。
縁側のガラス戸の向こうが庭だ。
川の音が、床の下から上がってくるように聞こえた。
真由は障子を開けて、ガラスに額を寄せた。
「川、近いね」
「暗くなる前に、姫ヶ淵、見に行こうよ」

この旅行も、言い出したのは真由のほうだ。
武田勝頼の奥さんは、十九のときに神社へ願文を納めている。
武田が追いつめられていく最中のことだ。
真由はその話を本で読んで、どうしても景徳院に来たくなったらしい。
奥さんの侍女たちが、日川の淵に身を投げたという言い伝えもある。
慎吾は歴史にくわしくない。
楽しそうに話す真由の横で、うなずいているだけだ。

三時四十分に宿を出て、景徳院の下の駐車場に車を停めた。
駐車場の端に、大きな石の板が立っている。
人の姿が彫ってあるのは、車の中からでも分かった。
「あれはあとで、先にお寺」
真由はもう歩き出している。
寺へは、急な階段を上っていく。

真由は半歩どころか、五段も先にいる。
慎吾は途中で一度、膝に手をついて息を整えた。
上に、古い山門が立っている。
火事のときにも焼け残った門だと、真由が教えてくれた。
境内のもみじは、色づきはじめたところだ。
甲将殿という建物の裏に、墓が並んでいた。
まん中が勝頼で、両脇に奥さんと息子の信勝の石塔がある。
真由は手を合わせて、長いこと動かなかった。

生害石は、勝頼たちが自害した場所と伝わる石だ。
その前でも、真由は手を合わせた。
石には触れない。
線香の匂いが、風に混じって流れてくる。
首のない地蔵もあった。
没頭地蔵っていうんだよ、と真由が小声で言う。
慎吾は、首があるはずのところから目をそらした。
四時を回ると、日が尾根の向こうに入った。
境内の空気が、急に冷たくなる。

四時二十五分、階段を下りて駐車場に戻った。
石の板の前に、二人で並ぶ。
近くに、姫ヶ淵の由来を書いた説明板が立っていた。
慎吾は声に出して読んだ。
奥さんの侍女が十六人、若い命を日川の淵に投じたと伝承される、とある。
今の日川は上流で発電用の水を取っていて、水が少ない、とも書いてあった。

「本当の淵は、もっと上流だって書いてる人もいたよ」
「どっちなんだよ」
「分かんない、だから言い伝えなんでしょ」
真由は説明板から目を上げて、石の板のほうを向いた。

石の面に、女の姿が浮き彫りになっている。
真由が指で宙をなぞりながら、数えた。
「十七人」
「奥さんと、十六人ってことか」
「そう、奥さんは十九だよ」
日の差さなくなった谷で、石の顔はどれも影のほうが濃い。
彫りの深いところだけが、黒く沈んで見えた。
下のほうから、川の音が上がってくる。

慎吾は携帯を出して、石の板を一枚撮った。
画面の左の端に、紺のコートの真由が入る。
両手をポケットに入れて、石を見上げている。
撮った時刻は、あとで見ると四時三十一分だった。

次に気がついたとき、慎吾は携帯を胸の前で握っていた。
画面は暗い。
駐車場が、さっきよりひと段階暗くなっている。
風が首すじに冷たかった。
横にいたはずの真由がいない。

見回すと、真由は駐車場の端に立っていた。
川の音がするほうを向いて、こちらに背中を見せている。
紺のコートに、長い髪がかかっている。
その肩が、少しも動かない。
「真由」
振り向かない。
「真由、寒いから戻ろう」
少しして、真由がゆっくり振り返った。
それから慎吾に向かって、小さく頭を下げた。

店の人が客にするような、浅い会釈。
十二年いっしょに暮らして、真由に頭を下げられたことはない。
冗談かと思って、慎吾は笑いかけた。
真由は笑わない。
口だけを横に引いて、歯を見せない顔をしていた。

車に戻ると、真由は助手席で背中をまっすぐにした。
いつもならすぐにシートを倒して、携帯を見る。
今日は両手を膝の上にそろえたまま、動かさない。
エンジンをかけても、前を見ている。
「疲れた?」
「ええ、少し」
ええ、という返事も、慎吾は聞いた覚えがなかった。

昼のワインが抜けていないのかもしれない。
ここは重たい場所だ。
そういうものに当てられる人もいる。
帰りの道で、ライトに照らされた木の幹が次々に流れていった。
真由は、窓の外を一度も見ようとしない。

宿に着いたのは、五時になる少し前だった。
母屋の前に停まっていた女将の軽は、もうない。
軒先の灯りが点いて、手前の飛び石だけが白く浮いている。
慎吾が先に歩き、木戸のほうへ向かう。
砂利を踏む音が、うしろで遅れてついてくる。
振り返ると、真由は三歩うしろにいた。
半身ぶん、左に寄った位置だ。
目は、慎吾のかかとのあたりに落ちている。

慎吾が足を止めると、真由も止まった。
歩き出すと、また三歩の間をあけてついてくる。
いつもなら、真由が先に木戸を開けているところだ。
「前、歩けば」
返事はなかった。
木戸を開けて押さえていても、真由は入ってこない。
慎吾が先に通るのを、じっと待っていた。

離れの戸を開けて、慎吾は靴を脱いだ。
上がって振り返ると、真由が三和土にしゃがんでいる。
慎吾の靴を、つま先を外に向けて揃えていた。
自分の靴は、そのうしろに少し下げて置く。
結婚して十二年、靴を揃えるのは慎吾の役目だった。
真由は脱ぎっぱなしで、いつも先に上がっていく人だ。

部屋の灯りを点けて、慎吾は電気ポットのスイッチを入れた。
盆の上に、急須と湯のみが二つ伏せてある。
真由は入口に近い畳に、正座していた。
脱いだコートをたたんで、膝の横に置いている。
「こっち来なよ、寒いだろ」
真由は膝を少しだけ寄せて、また止まった。
座卓の、入口の側から動こうとしない。

湯のみを渡すと、真由は両手で受け取った。
その指を見て、慎吾の手が止まる。
爪に色がない。
ベージュが、どの指にも残っていない。
短く切りそろえた、白っぽい爪だった。
ゆうべ塗っていた爪より、ひとまわり短く見える。

「爪、どうしたの」
真由は、自分の手に目を落とした。
しばらく、そのまま見ている。
「取れてしまったので、落としました」
「いつ」
「さっき」
「さっきって、いつだよ」
真由は湯のみを手のひらで回すだけで、答えなかった。

慎吾は携帯を出して、写真を開いた。
ワイナリーの一枚を広げる。
グラスを持つ指に、ベージュがちゃんと写っている。
十一時すぎの写真だ。
そこから指で送っていく。
ほうとうの鍋、宿の柿の木、山門、墓の前の真由の背中。
駐車場の石の板。
四時三十一分。

その次の写真から、覚えがなかった。
石の板が、少しずつ角度を変えて写っている。
寄ったり、引いたり、斜めから撮ったりしていた。
最後の何枚かは、駐車場の端に立つ真由の背中だ。
時刻は四時四十七分まで続いている。
覚えのない写真は、数えると十六枚あった。

慎吾は、最後の一枚を指で広げた。
真由の背中は暗く、手のあたりは黒くつぶれている。
爪の色までは分からない。

おかしいのは、自分のほうだ。
慎吾はそう考えることにした。
朝の四時半に起きて、ここまで一人で運転してきた。
ほうとうのあとは、何も食べていない。
十六分も立ったまま写真を撮って、それを忘れる頭だ。
真由が爪を落としたのも、その間だったのかもしれない。
除光液も爪切りも、ポーチに入っている。
会釈も、うしろを歩くのも、疲れているせいだ。

「なあ、最初に二人で出かけたとこ、覚えてる?」
真由は少しだけ首をかしげた。
「府中の競馬場の、芝生のところです」
合っていた。
弁当を広げて、馬券は一枚も買わずに帰った日だ。
慎吾の肩から、すっと力が抜けた。
覚えている。
真由だ。

「ごめん、俺、さっきぼーっとしてたみたいだ」
「いいえ」
慎吾は真由のコートを取って、衣紋掛けに掛けてやった。
紺のウールに、外の冷えた空気の匂いがしみている。

五時半を過ぎると、外はすっかり暗くなった。
真由はいつのまにか、障子の前に移っていた。
そちらを向いて、正座している。
障子の外は縁側で、その先が庭だ。
飛び石の先に、竹垣と木戸がある。
真由は、木戸のほうを向いて座っている格好だ。

慎吾は座卓のこちら側から、その背中を見ていた。
背中は、少しも揺れない。
息をしているのかどうかも、ここからでは分からない。
川の音が、ずっと床の下を流れている。
外で一度だけ、木戸のきしむ音がした。
真由の肩が、ほんの少し持ち上がる。
慎吾は立って、入口の小窓から庭をのぞいた。
飛び石の上には、誰もいない。
風だろう、と思うことにする。

テレビを点けようとして、やめた。
音を足すと、真由が何か言ったとき、聞き逃しそうな気がした。
真由は、何も言わない。

六時を十分ほど過ぎたころ、母屋の前で車の止まる音がした。
女将が、買い物から戻ったらしい。

時計は、六時二十分を回っている。
「飯、行こうか」
真由は振り向かずに、頭だけを少し下げた。
「お先に、いらしてください」
「一緒に行こうよ」
「あとから、参ります」
車の鍵は、座卓の上に置いたままにした。

離れの戸を閉めて、庭に出る。
木戸の柱から、懐中電灯を外した。
通る前に、一度だけ振り返る。
障子に灯りが透けて、真由の影が映っていた。
背中をまっすぐにして、こちらを向いている。
影は、ぴくりともしない。

母屋の玄関を入ると、帳場に女将が戻っていた。
足元の買い物袋から、白菜の葉がのぞいている。
「あら、すみません、今お出ししますね」
女将は袋を持ち上げかけて、慎吾のうしろに目をやる。
「奥さま、これからお迎えですか?」
「え?」
「さっき、六時を回ったころかしら」

「買い物の帰りに、景徳院の下を通ったんですよ」
「そしたら駐車場の石のところに、奥さまがお一人で立ってらして」
「紺のコートで、髪の長い」
「お着きのときにお会いしてますから、お顔は分かります」
女将は前掛けのひもを結び直しながら、首をかしげた。

「もう真っ暗ですよって、車の窓を開けて言ったんです」
「そしたら、主人を待ってますって」
慎吾は口を開けた。
声が出てこない。
「ご主人が、すぐお迎えに行かれるんだとばかり」

「家内なら、離れに」
言いかけて、慎吾は帳場の脇のガラス戸を見た。
暗い庭の向こうに、竹垣と木戸がある。
その先で、離れの障子だけが明るい。
人影がひとつ、さっきと同じ形で座っている。
こちらを向いて、まっすぐに。

女将は帳場の奥から、慎吾の顔だけを見ていた。
「お二人で戻られたところ、私、見てないもんですから」
車の鍵は、離れの座卓の上だ。
「うちの車、出しましょうか」
慎吾は返事をしなかった。
懐中電灯のスイッチに、親指がかかったまま動かない。

障子の人影が、ゆっくりと頭を下げた。
木戸の向こうの、慎吾のいるほうへ。

舞台になった場所

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