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桃尾の滝の駐車場、深夜一時の迎車

俺は天理で個人タクシーをやっている。
今年で二十二年になる。
昼は駅前に付けて、夜は組合の無線を聞きながら流す。
深夜の客は少ない。
その分、一本の無線が重い。

天理の夜は早い。
本通りのアーケードは九時には暗くなる。
駅前に残るのは、タクシーと、終電で帰ってくる人くらいだ。
俺は東口の列の先頭で、エンジンを掛けたまま目を閉じる。
それが夜の過ごし方になっている。

車は紺色のセダンだ。
後ろの左ドアは、運転席のレバーで開け閉めする。
客が乗ると、俺は決まって「こんばんは」と言う。
一回だけ。
二十二年、変えていない癖だ。

癖はもう一つある。
無線で配車を受けたら、場所と人数を復唱する。
「滝本町、お一人様。十二号、了解」という具合だ。
配車の女の人が「はい」と返す。
それで出発。
この二つの台詞を、俺は一晩に何十回も口にしてきた。

桃尾の滝は、天理市滝本町にある。
天理駅から国道二十五号を東へ走る。
名阪国道の下をくぐって、しばらく行くと滝の案内板だ。
そこを左へ折れる。
道は細い。
車一台分しかない所もある。
落ち葉と苔で、雨の後はよく滑る。
登り切った所に駐車場があって、十台も停められれば上等だ。

昼は何度も客を運んだ。
紅葉の時期は観光の人が多い。
滝行をする人も来る。
七月には滝開きがあって、石上神宮の神職さんが安全を祈る。
滝壺の脇の岩には、不動さんが彫ってあるらしい。
駐車場の隅には、休憩所と汲み取りの便所がある。
俺は駐車場で待つだけで、滝まで歩いたことは数えるほどしかない。
水の音が大きくて、客の声が聞き取りにくい。
俺にとっては、水の音がうるさい場所だった。
夜に行ったのは、あの一回だけだ。

去年の十月の頭だった。
深夜一時を回った頃。
無線が鳴った。
「滝本町、桃尾の滝の駐車場。お一人様。携帯からです」
配車の女の人の声は、いつもどおり平らだった。
文句の順もいつもどおりだ。
場所、人数、電話の種類。
俺は番号をメーターの横のメモに書いて、無線機を取った。
「滝本町、桃尾の滝の駐車場、お一人様。十二号、了解」
「はい」

「お名前は」
「聞いてません。番号だけで、すぐ切れはりました」
夜の山からの呼び出しは、年に二、三本しかない。
こんな時間に滝で何をしているのか。
考えたのは一瞬だ。
車が動かなくなったんだろう。
バッテリーか、鍵の閉じ込みか。
そういう客は年に何人かいる。
俺は駅前の列を離れて、国道二十五号に乗った。

対向車は一台もない。
名阪国道の下をくぐる。
左に案内板。
ハンドルを切ると、ヘッドライトが杉の幹を舐めた。
道が狭まる。
路面は黒く濡れていた。
昼に降った雨が、まだ乾いていない。
窓を少し開けると、濡れた葉の匂いが入ってきた。
冷たい。
十月の山は、もう冬の匂いがする。

その奥に、苔の匂いが混じっていた。
滝の近くまで来ると、いつもこの匂いになる。
ヘッドライトの中を、白い霧の粒が横に流れていく。
水しぶきが風に乗って、ここまで届いているらしい。
ワイパーを一度だけ動かした。
ガラスの外側は、すぐにまた曇る。

細い道の途中で、俺は少し後悔した。
ここで対向車が来たら、どちらかが延々と下がる羽目になる。
戻るにしても、駐車場まで上がらないと切り返せない。
行くしかない。
客も待っているはずだった。

駐車場には、白い軽自動車が一台だけ停まっていた。
奥の、滝へ続く道のそばだ。
頭をこちらに向けて、バックで入れてある。
ライトは消えている。
人影はない。
俺は軽の斜め後ろ、道の入口が左前に来る位置に車を付けた。
後ろの左ドアが、道の側を向く格好だ。
いつもの癖で、客が乗りやすい向きにしてしまう。

ハザードを点けて、ヘッドライトはそのまま。
光の中に、軽のフロントガラスが浮いた。
露でびっしり白い。
ずいぶん前から停まっているらしい。

目をずらすと、道の入口に何かがあった。
靴だ。
運動靴が一足、きちんと揃えて置いてある。
踵をこちらに向けて。
つま先は滝の方。
その横の手すりに、上着が掛かっていた。
畳んで、落ちないように二つ折りで。
チェックのシャツだ。
赤と黒の、よくある柄。

滝行か。
最初にそう思った。
真冬に白い行衣で駐車場を歩く人を、昼に見たことがある。
十月の深夜にやる人がいても、おかしくはない。
脱いだ物を揃えて置くのも、そういう人なら分かる。
車が動かなくて、終わってから帰るのにタクシーを呼んだ。
筋は通る。
俺はそう決めて、シートに背中を預けた。

エンジンは掛けたままにした。
室内灯も点けたままだ。
窓を閉めても、水の音が入ってくる。
低くて、太い音だ。
落差は二十三メートルあると、昼に客から聞いた。
その音の下に、ときどき別の音が混じる。
枝が擦れる音。
遠くで、国道を走る車の音。
そのくらいのものだ。

月は出ていなかった。
ライトの届かない所は、黒い壁で塞がれているのと同じだ。
窓のガラスに手の甲を当てると、氷を触った時に近い冷たさが返ってきた。
俺はヒーターを一段上げて、両手をハンドルの上に戻した。

駐車場の隅の便所は、見ないようにしていた。
便所の噂は、昼の客から何度か聞いている。
見ない理由は、噂のせいじゃない。
一度見てしまうと、見続ける羽目になるからだ。
俺は前だけを見ていた。

五分待って、客は来ない。
配車のメモの番号に掛けた。
呼び出し音が鳴る。
八回で留守番電話に切り替わった。
俺は何も吹き込まずに切った。
もう五分待つのが決まりだ。
それで来なければ、空振りで帰る。

無線が鳴った。
「滝本町、桃尾の滝の駐車場。お一人様。携帯からです」
同じ声で、同じ文句だった。
場所、人数、電話の種類。
俺は無線機を取った。
「十二号、もう現着してます」
返事はない。
砂を擦るような雑音が、しばらく続いて切れた。

俺は外に出る。
軽の周りを一回りして、窓から中を覗いた。
人はいない。
外の空気は、車の中より五度は低い。
手すりのシャツが、ライトの端で赤く見えた。
運転席に戻る。
無線は黙っていた。
同じ伝票を二度流しただけだ。
夜の配車は、女の人が一人で回している。
間違いは誰にでもある。
俺はそれで納得した。
したことにした。

残り三分。
手すりの上着を見ていた。
袖が揺れた気がした。
目を凝らす。
揺れていない。
木の枝の影が重なっただけだ。
そう思って、視線を戻した。

カチ、と鳴った。
無線の、送信が始まる音だ。
声は来ない。
雑音も来ない。
一秒ほどで、また切れた。
俺は無線機を見た。
表示に変わりはなかった。
窓の外に、人はいない。
ライトの光は前にしか向いていない。
後ろの窓は、ハザードの橙が時々掠めるだけの黒い板だ。

心臓が速くなっていた。
首の後ろが冷えている。
鳴ったのは一回だけ。
誰かが送信の釦に触っただけだ。
配車の机には、湯呑みも伝票も載っている。
そう片付けて、時計を見た。
あと一分。

「こんばんは」

声がした。
後ろの左の窓の外。
客が立つ位置だ。
男の声で、低くて、落ち着いていた。
俺の口が勝手に動いた。
「こんばんは」
言ってしまってから、体が固まった。
後ろの窓には、誰も映っていない。
室内灯の光が、黒い窓に俺の顔を映しているだけだ。
客が来たのなら、足音があるはずだった。
砂利の駐車場で、足音を消して車に寄るのは難しい。
俺は耳を澄ませた。
水の音と、エンジンの音と、自分の息の音。
それ以外は拾えなかった。

左手が、ドアのレバーに掛かっていた。
客が声を掛けたら開ける。
二十二年の体の癖だ。
俺は手を離した。
開けなかった。
開けたら何かが乗る、とは思わなかった。
開けたら、無線に「ご乗車」と言う羽目になる。
誰が乗ったのかも言えないのに。
それが嫌だった。
理由はそれだけだ。

「こんばんは」

もう一度。
今度は、声の位置が低い。
しゃがんでいる高さだ。
窓の下から、見上げて言っている高さ。
俺は窓を見ない。
ミラーも見ない。
前だけを見ていた。
ヘッドライトの中で、軽のフロントガラスが白く光っている。
その左手の道の入口で、運動靴の踵が、こちらを向いている。

滝行の人だ。
終わって、戻ってきた。
裸足だから、足音がしない。
しゃがんだのは、靴を履くためだ。
俺は頭の中でそう組み立てた。
組み立てながら、靴が道の入口から動いていないのを、ライトの中で見ていた。

ハンドルを握る手が、汗で滑る。
背中はシートに貼り付いたままだ。
水の音が、さっきより近い。
近いと感じるだけで、音の大きさは変わっていない。
俺はそれも分かっていた。
分かっていて、体は動かなかった。

「お一人様。十二号、了解」

俺の復唱だった。
俺の間の取り方で、俺の声の高さで。
後ろの左の窓の外から。

ギアを入れる。
ハザードを切って、ハンドルを切った。
軽の脇をすり抜ける時、タイヤが砂利を鳴らす。
その音が、ありがたかった。
バックミラーは見ていない。
細い道を、来た時の倍の速さで下りた。
対向車が来たら終わりだと思いながら、来なかった。
国道二十五号に出た時、やっと息を吐いた。
吐いた息が震えていた。

無線を取った。
「滝本町、空振りです」
「あら。お客さん、いてはらへんかった?」
「車は一台ありました。人は、おらんかったです」
「さっき、同じ伝票を二回流しましたよね」
「流してませんよ。一回だけです」
少し間が空いた。
「二名さんやったんですけどね」
「一人って言うてましたよね」
「あれ。そうやったかな。すんません、こっちの聞き違いかも」
配車は、それで次の無線に移った。

朝まで流して、五時過ぎに車庫へ戻った。
途中、国道から滝本の案内板を目で追う。
道の奥は見えない。
杉が黒く立っているだけ。
俺は左へ折れなかった。
折れる理由もない。
車庫に着いてから、メーターの横のメモを剥がした。
見返さないように、丸めてゴミ箱へ入れた。
掛け直す気は、その時点でもうなかった。

家で、順に並べて考えた。
軽の持ち主がいた。
滝行をして、戻ってきて、靴を履こうとしゃがんだ。
俺の復唱は窓越しに聞こえていて、それを真似た。
無線の二回目は、配車の押し間違い。
配車の記録の二名は、書き間違い。
間違いが一晩に三つ重なれば、全部つながる。
靴が動いていなかったことだけ、つながらない。
その一点は、そのままにしておいた。

一週間後、昼に観光の客を乗せて、同じ駐車場へ上がった。
白い軽はなかった。
靴もない。
手すりには何も掛かっていない。
客は滝開きの話をしてくれた。
神職さんが滝に白いお酒を注ぐらしい。
俺は相槌を打って、客を滝へ送り出した。
車で待つ。
水の音は、昼も同じ太さだった。
無線は一度も鳴らなかった。

変わったのは、俺の方だ。

あの夜から、「こんばんは」が二回出る。
客が乗る。
俺が言う。
「こんばんは」
息を吸う前に、もう一回出ている。
「こんばんは」
二回目は、言おうと決めていない。
喉の少し下から出る。
客は一回しか返さない。
返さない客もいる。

癖を直そうとした。
客が乗る前に、口を結んでおく。
それでも、一回目のあとに二回目が来る。
若い女の客に「二回言わはるんですね」と笑われた。
「癖で」と答えた。
それ以上は言わなかった。
復唱の方は、今も一回で済んでいる。
二回目が出るのは、挨拶だけだ。

もう一つ、変わったことがある。
駐車場や路肩で客を待つ時、後ろの左ドアを壁や柵の側に向けて停めるようになった。
二十二年、客が乗りやすい向きにしか停めてこなかった男が、だ。
理由を聞かれても、うまく答えられる気がしない。
それだけのことだった。

同僚の運転手に話したことはない。
話すほどのことでもない。
俺はそう扱っている。
それで済んでいる。

ゆうべ、一時過ぎに客を降ろした帰りに、国道二十五号を東へ走った。
名阪国道の下をくぐった。
左に案内板。
俺は折れなかった。
折れずに、路肩に停めた。
エンジンは掛けたまま。
後ろの席には誰もいない。

「こんばんは」

口が動いた。
二回目を待つ。
出た。
喉の下から、低い方の声で。
そのあと、俺は無線が鳴るのを待っていた。
十分待った。
まだ、鳴っていない。

舞台になった場所

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