富雄丸山古墳――蛇行剣と鼉龍文盾形銅鏡

住宅地のそばに残っていた巨大円墳

奈良市西部、富雄川を見下ろす丘陵の端に富雄丸山古墳がある。築造は古墳時代前期後半、四世紀後半ごろ。墳丘の直径は一〇九メートルに達し、円墳としては国内最大である。

「丸山」という名から、きれいな円形の丘を思い浮かべるかもしれない。実際には、東北側に祭祀や埋葬の場とみられる造出しが付き、周囲には葺石や埴輪列がめぐっていた。墳丘の中心には主たる埋葬施設があり、その外側に別の死者を納める場所が設けられている。単純な円ではなく、葬送の儀礼を行う空間まで計画された巨大な墓だった。

古墳そのものは以前から知られていた。ところが、明治時代に墳頂部が掘られ、中央の埋葬施設は大きく乱されている。出土したと伝わる品もあるものの、どこに何が置かれていたのかを当時の状態のまま確かめることは難しい。

転機となったのは、奈良市教育委員会が二〇一七年度から始めた発掘調査である。墳丘の規模と形を調べる作業が進み、東北側の造出しから、盗掘を免れた粘土槨が見つかった。二〇二二年度の第六次調査でその輪郭が現れ、翌年以降、木棺と副葬品の調査が続いた。

この埋葬施設から出たのが、類例のない盾形銅鏡と、異様なほど長い蛇行剣である。ただし、派手な二点だけに目を奪われると、古墳が明らかにしつつある本当の価値を見落とす。未盗掘の棺、副葬品の位置、木材、赤色顔料、櫛、そして鏡。それらが一組の葬送として残ったことに意味がある。

三本の木を組み合わせた割竹形木棺

粘土槨の中にはコウヤマキ製の割竹形木棺が納められていた。太い丸太を縦に割って内部をくり抜き、身と蓋を合わせる形式である。棺の内側は長さ五・三メートルを超え、幅はおよそ六四センチから七〇センチ。古墳時代前期の木棺として非常に長い。

棺内は二枚の仕切り板によって三つに区切られていた。中央が遺体を置いた主室で、その両端に小さな副室が付く。北西側を頭の方向とみる推定は、主室で見つかった櫛や朱の位置などに基づく。骨は土壌や地下水の影響で明瞭に残っておらず、被葬者の性別、年齢、死因は判明していない。

棺の外側には、縄掛け突起と呼ばれる出っ張りが少なくとも八か所あったとみられる。身と蓋を縄で固定するための装置にも見えるが、調査の結果、粘土槨を築く工程との関係から、棺を納めた後に上下の突起を結び合わせるのは難しいことがわかった。運搬時の固定、製作時の支え、別の儀礼的用途などが考えられるものの、役割は決まっていない。

これは小さな点に見えて、古墳研究の面白さが表れる部分である。「縄掛け突起」という呼び名は、用途が確定した証明ではない。形から付けられた便宜的な名称であり、発掘状況を詳しく調べると、最初に想定した使い方では説明できないことがある。

棺は長い年月を水分の多い地中で過ごしたため、掘り出したまま乾燥させれば、縮みやひび割れを起こす。奈良市は元興寺文化財研究所、奈良文化財研究所、奈良県立橿原考古学研究所と連携し、木材を取り上げて保存処理を進めている。二〇二四年六月に移送された木棺材は、二〇二五年十二月までの経過観察で大きな収縮、鉄製品由来の腐食、カビが認められず、その後の本格的な処理へ移った。

盾の輪郭に亀と龍を表した銅鏡

粘土槨の上部、木棺の外側に置かれていた盾形銅鏡は、長さ約六四センチ、幅約三一センチ。円鏡を引き伸ばしたような形ではなく、中央がややくびれた盾の輪郭を持つ。背面には亀甲文と龍文を組み合わせた文様が表され、奈良市は「鼉龍文盾形銅鏡」と呼んでいる。

鼉龍文鏡は古墳時代前期の倭で作られたとされる鏡の一群だが、盾形の例はこれまで確認されていなかった。鏡面をのぞいて顔を映す日用品というより、鏡の持つ光や霊威と、盾が示す防御性を重ねた器物とみるのが自然である。

もっとも、実際に手へ持って儀礼を行ったのか、棺を守るためだけに製作されたのか、被葬者が生前に所持していたのかはわからない。製作した工房も、注文した人物も記録には残らない。「鏡であり盾でもある」という形の読み取りから、製作意図を一つに絞り込むことはできない。

発見位置は重要である。盾形銅鏡と蛇行剣は、棺内で死者に添えられていたのではなく、棺を覆う粘土の中、木棺の外側に据えられていた。埋葬施設そのものを守る結界のような配置だった可能性はあるが、「魔除け」と書けば意味を決めすぎる。少なくとも、棺を閉じた後の工程で、見えなくなる場所へ意図して納められた品である。

全長二・八五メートルに復元された蛇行剣

もう一つの発見が蛇行剣である。鉄製の剣身は約二・三七メートル。木質や繊維などの痕跡を科学的に分析し、把と鞘の装具まで含めると、元の全長は約二・八五メートルと復元された。

発見直後には約二・六七メートルという数字が広く報じられた。これは調査段階で確認された範囲に基づく数値であり、その後の分析によって把や鞘の構造が詳しくなった。数字が変わったのは発表の誤りを隠したためではなく、土と錆に覆われた遺物から、失われた有機質部分を読み解く研究が進んだからである。

剣身は左右へ何度も波打つ。蛇行剣自体は各地の古墳から出土しているが、富雄丸山古墳の品は他を大きく上回る。これほど長い鉄材を鍛え、形を整え、折らずに仕上げるには、高い技術と相当な資源が必要だった。

把の部分は、直刀の装具と刀のような装具を組み合わせた独特の構造を持つ。鞘の先には「石突」と呼ばれる突出部があり、こちらも従来知られていない形だった。木材や繊維が鉄錆へ置き換わった痕跡を顕微鏡などで追うことで、金属だけを見ていた時代にはわからなかった姿が復元されている。

大きさから考えて、実戦で振るう武器ではない。儀礼用、権威を示す威信財、墓を守る象徴などの性格が想定される。ただし、巨大だから祭祀用だったと即断もできない。葬送のためだけに作られたのか、生前の儀礼で用いられたのか、完成品としてどのように運ばれたのかは未解明である。

「蛇の形だから水神信仰」「東を向くから龍神への献上」といった説明も見かけるが、発掘事実だけではそこまで言えない。古墳時代の人々が蛇行する剣身へどんな名を付け、どんな物語を重ねていたのかを伝える同時代文書はない。現代の神話知識を、そのまま四世紀の遺物へ貼り付けるのは危険である。

木棺の内側で見つかった九枚の櫛

主室からは、縦向きに置かれた九枚の櫛が見つかった。古墳の櫛は髪を整える道具であるだけでなく、葬送儀礼で死者や空間を整える品だったと考えられている。富雄丸山古墳でも、遺体の周囲に偶然散らばったのではなく、一定の意図をもって立てられたらしい。

赤色顔料の朱も確認されている。朱は古墳の棺内や遺体の周囲に用いられ、生命、浄化、権威などとの関係が論じられてきた。だが、九枚という数と朱を組み合わせて、特定の祭式や被葬者の職掌まで復元することはできない。

人骨がほぼ残らないため、副葬品だけから「女性祭司」「男性武人」と性別や役割を決めることも避けたい。鏡を女性、剣を男性と結びつける見方は、現代の性別イメージに引きずられる。古墳時代の埋葬では、鏡と武器が同じ人物に伴う例があり、品目だけで生物学的性別は判定できない。

三面の鏡はなぜ重ねて置かれたのか

二〇二五年、棺の東南側に設けられた副室から、三面の銅鏡が重ねた状態で見つかった。いずれも鏡面を上に向け、一枚ずつ重なる配置が保たれていた。盗掘されていないため、古墳時代の人が置いた順序をほぼそのまま調べられる。

上段は直径約二一センチの三角縁神獣鏡で、銘文と神獣像の構成から陳氏作六神三獣鏡と呼ばれる。同じ鋳型で作られた鏡が桜井茶臼山古墳や佐味田宝塚古墳でも確認されており、ヤマト政権の有力者間で鏡が配布、共有、継承された仕組みを考える手掛かりになる。

中段は直径約一九センチの虺龍文鏡で、紀元前一世紀末から紀元一世紀初めごろに中国で作られたとみられる。同種の約四〇面の中で最大級である。下段は直径一九・六センチの画像鏡で、製作時期は二世紀後半から三世紀前半と考えられている。

古墳の築造は四世紀後半なので、二面は埋葬時点ですでに一〇〇年以上、虺龍文鏡は三〇〇年以上を経た古鏡だったことになる。作られてすぐ副葬された新品の一式ではない。海を越えて運ばれ、受け継がれ、政治的な贈答や交換を経て、最後にこの棺へ納められた可能性がある。

古い鏡だから家宝だった、と断定はできない。発見以前にどこで保管され、誰から誰へ渡ったかは不明である。それでも、異なる時代と系統の鏡を三面そろえ、重ねて副室へ置いた事実は、被葬者か葬送を担った集団が、長く伝わった品へ特別な価値を認めていたことを示す。

盾形銅鏡まで含めると、この埋葬施設には四面の鏡が関わる。中国で作られた古鏡、倭で作られた三角縁神獣鏡、類例のない盾形鏡が一つの墓に集まった。単なる富の量ではなく、異なる由来を持つ品を集められる政治的なつながりが見えてくる。

被葬者は大王ではなく、名のわからない有力者

巨大な円墳、長大な棺、前例のない鏡と剣。この組み合わせから、被葬者の正体を知りたくなるのは当然である。しかし、名前を記した銘文も墓誌もない。

奈良市は、ヤマト政権から重視された有力者だったと評価している。四世紀後半の王墓とされる大型前方後円墳が奈良盆地に築かれる時代に、一〇〇メートルを超す円墳を造営できた人物である。労働力と資材を集め、中国鏡や巨大鉄剣を入手できる立場だったことは疑いにくい。

一方で、円墳だから王族ではない、造出しの埋葬だから従者にすぎない、という単純な序列も成り立たない。古墳の形と身分の関係には地域差と時期差があり、同じ墳丘内に葬られた人々の関係も多様だった。

造出しの被葬者が、中央埋葬施設の主と血縁関係にあったのか、政治や祭祀を支えた人物なのか、別の時期に追葬されたのかは調査中である。中央部は過去の盗掘で情報が失われているため、二人の副葬品を同じ条件で比べることもできない。

有名な歴史上の人物へ結びつける説は、現段階では根拠を欠く。神功皇后、武内宿禰、物部氏の祖などの名を挙げても、四世紀の墓と人物を一対一で照合できる史料はない。被葬者を無理に命名するより、墓の構造と品々が示す社会関係を読み取る方が、発見の価値に近づける。

発見をめぐる誤解

第一の誤解は、古墳全体が手つかずで発見されたというものだ。未盗掘なのは造出しの埋葬施設であり、墳頂中央の主たる埋葬施設は明治期に乱されている。だからこそ、造出しで副葬品の配置が残った価値が際立つ。

第二は、蛇行剣を超古代文明の製品とする話である。前例のない長さではあっても、鉄の鍛造技術、木製装具、古墳の埋葬工程という当時の考古資料の延長上にある。未知の合金や、現代でも再現不能な加工が確認されたわけではない。

第三は、盾形銅鏡を文字どおり戦場の盾とみなす説明だ。形は盾に似るが、鏡として鋳造され、文様を持ち、棺を覆う粘土へ納められた。矢や刀を受けた痕跡を根拠に防具と認定された品ではない。

第四は、遺物の大きさから被葬者を巨人とする話である。棺が長いのは、巨大な人骨が見つかったからではない。葬送空間の格式、品を配置する余白、木材の象徴性など複数の理由が考えられる。棺長と身長を同一視することはできない。

調査は発掘後も続く

発掘は土から物を出した時点で終わらない。鉄剣は錆の層を調べながら、内部の金属状態と有機質の痕跡を記録する。木棺は水分を失わせないよう管理し、長い時間をかけて保存処理する。銅鏡は付着物、鋳造技法、成分、同型鏡との関係を調べる。

保存と研究には時間がかかるが、急いで表面をきれいにすれば失われる情報がある。木目、布の織り、紐の向き、顔料の層は、肉眼で見栄えのする展示品へ仕上げる過程で消えかねない。発見直後の速報と、数年後の研究報告で説明が変わるのは、慎重な調査が進んでいる証拠でもある。

富雄丸山古墳が示したのは、四世紀のヤマトに想像以上の大型品を作る技術があったという事実だけではない。何世代も伝わった鏡を集め、新しい鏡と巨大な剣を作り、五メートルを超える棺へ死者を納める社会があった。そこには、権力、記憶、贈答、葬送が重なっている。

被葬者の名がわからなくても、墓に置かれた物の順序と製作年代を追えば、その人物を取り巻いた関係の一部は見えてくる。謎を人名当てで閉じず、残された配置を崩さず読むこと。それが、この古墳に対する最も確かな接近法である。

参考資料

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