ツタンカーメンの呪い――黄金の柩を暴いた者たちに忍び寄った死

概要

1922年11月、エジプトの王家の谷。三千年以上もの間、盗掘者の手からも砂漠の熱風からも守られ続けてきた少年王の墓が、ついにひとりのイギリス人考古学者の手によって開かれた。ハワード・カーターというその男は、長年の失意の発掘生活の果てに、黄金に埋め尽くされた副葬品の山と、静かに眠るツタンカーメン王のミイラを発見する。世界中の新聞がこの「世紀の発見」を熱狂的に報じたのも束の間、発見からわずか数か月後、資金提供者であったカーナヴォン卿が謎の高熱に倒れ、あっけなく息を引き取った。

この報せは瞬く間に「ファラオの呪い」という恐怖の物語へと姿を変え、以後、発掘に関わった人々が次々と不審な死を遂げていく――という都市伝説が世界中を駆け巡ることになる。墓の入口には侵入者を呪う警告の文字が刻まれていたという噂、著名な作家が真顔で「邪悪な力」の存在を語ったという逸話、そして原因不明のまま倒れていく関係者たち。科学が急速に発展しつつあった20世紀初頭という時代に、なぜこれほどまでに「呪い」という前近代的な物語が人々の心をつかんだのか。その全貌を、発掘の瞬間から現代のネット社会における語られ方まで、余すところなく辿っていきたい。

発掘の完全な物語――執念が黄金の扉を開けるまで

物語の始まりは、20世紀の初頭にまで遡る。イギリスの貴族ジョージ・ハーバート、第五代カーナヴォン伯は、もともと自動車事故による後遺症の療養のためエジプトに滞在するようになった資産家であった。エジプトの乾いた空気と考古学の魅力に取り憑かれた伯爵は、やがて自らも発掘事業のパトロンとなることを決意する。そこで白羽の矢が立ったのが、地味で無名の考古学者ハワード・カーターだった。カーターは若い頃からエジプト考古局で発掘技術を磨き上げた実務家であり、王家の谷にはまだ発見されていない王墓が眠っているはずだという確信を、誰よりも強く抱いていた男である。特に彼が執着していたのは、当時ほとんど記録の残っていなかった少年王ツタンカーメンの存在だった。

カーナヴォン卿の資金提供のもと、二人の発掘は1907年頃から本格的に始まるが、来る年も来る年も成果らしい成果は上がらず、長い年月だけが空しく過ぎていった。第一次世界大戦を挟み、発掘資金は湯水のように消え、カーナヴォン卿の忍耐も限界に近づいていた。1922年、伯爵はカーターに「今シーズンで結果が出なければ支援を打ち切る」という最後通牒に近い言葉を告げたと伝えられている。まさに崖っぷちに立たされたカーターは、それでも諦めなかった。そして1922年11月4日、発掘隊の水汲み少年が偶然に岩を掘り返していたところ、地中に埋もれた階段の一段目を発見する。カーターの胸は高鳴った。

階段を掘り進めると、そこには封印されたままの扉が現れ、扉には王家の墓所であることを示す封印の跡が残されていた。カーターはすぐにイギリスにいたカーナヴォン卿へ電報を打ち、伯爵は娘のエヴリン・ハーバートを伴って急遽エジプトへと駆けつけた。そして11月26日、ついに運命の瞬間が訪れる。カーターは石壁に小さな穴を開け、蝋燭の灯りを差し込んで内部を覗き込んだ。背後で固唾を飲んで見守るカーナヴォン卿が「何か見えるか」と尋ねると、カーターはしばらく沈黙したのち、震える声でこう答えたという。「はい、素晴らしいものが見えます」。この一言は、後に考古学史上もっとも有名な台詞のひとつとして語り継がれることになる。

穴の奥には、黄金の玉座や獣の像、無数の副葬品が炎の反射できらめきながら山のように積み上げられていたのだ。その後、埋葬室そのものへと足を踏み入れるまでにはさらに数か月を要し、1923年2月、関係者や賓客が居並ぶ中、儀式めいた厳粛な雰囲気とともに石棺を覆う壁が慎重に取り壊されていった。世界中の記者たちがこの様子を固唾を飲んで見守り、発見のニュースは瞬く間に世界中を駆け巡る大センセーションとなったのである。

「呪い」の初出と発端――伯爵の死と扇情報道

黄金の発見に沸き立つ世界とは裏腹に、暗い影は思いのほか早く忍び寄っていた。1923年3月、カーナヴォン卿はエジプトで蚊に刺された頬の傷を、髭剃りの際にうっかり切ってしまう。この小さな傷はやがて化膿し、そこから丹毒と呼ばれる細菌感染を起こして高熱を発し、肺炎まで併発した伯爵は、4月5日、カイロのホテルで息を引き取った。もともと自動車事故以来、身体が弱かった伯爵にとって、この程度の感染症でも命取りになり得たというのが医学的には自然な経過である。ところが、世界的発見の立役者があまりにも早く、あまりにも唐突に世を去ったという事実は、当時の新聞社にとって恰好の題材となった。

とりわけセンセーショナリズムを重視する一部の新聞は、「ファラオの呪いが伯爵を襲った」という見出しを次々と打ち出し、真偽の定かでない逸話までもが尾ひれをつけて報じられていく。伯爵が死亡した瞬間、カイロの街全体が原因不明の停電に見舞われたという噂や、遠くイギリスの邸宅で飼っていた伯爵の愛犬が同じ時刻に遠吠えをあげて死んだという逸話までもが、まことしやかに語られるようになった。さらに人々の恐怖を決定的にしたのが、墓の入口付近に「ファラオの眠りを妨げる者に死の翼が触れるであろう」という趣旨の警告文が刻まれていた、という噂である。

実際にはこうした碑文が墓の入口で確認された記録は存在せず、現地調査を行った研究者たちも、発掘記録や写真の中にそのような一節を見つけることはできていない。多くの研究者は、この「警告の呪文」自体が新聞記者や小説家による後付けの創作、あるいは他の墓の副葬品に記された一般的な宗教的文言の誤伝であった可能性が高いと結論づけている。それでも、この物語に信憑性を与えてしまったのが、当時絶大な人気を誇っていた作家アーサー・コナン・ドイルの発言だった。

シャーロック・ホームズの生みの親であり、晩年は心霊主義に深く傾倒していたドイルは、記者からの取材に対し、カーナヴォン卿の死について「目に見えない邪悪な精霊、いわゆるエレメンタルのような存在が、王墓を守るために発動した可能性がある」という趣旨の発言をしたと伝えられている。世界的名声を持つ作家の口から語られたこの言葉は、新聞各紙に大々的に引用され、「呪い」という物語に一気に科学を超えた権威を与えることになった。こうして、ひとりの資産家の不運な感染症死は、瞬く間に世界中で語られる「ファラオの呪い」という伝説へと膨れ上がっていったのである。

死者リストの検証――何人が本当に死んだのか

伝説が独り歩きする中で、いつしか「発掘に関わった22人が1930年までに死亡し、生き残ったのはわずか1人だけだった」と、実に恐ろしげな数字までもが語られるようになった。実際に「呪いの犠牲者」として名前が挙がる人物は多岐にわたる。

カーナヴォン卿本人はもちろんのこと、ミイラの手を使ったペーパーウェイトを土産として受け取った直後に自宅の火災や洪水に見舞われたとされるアメリカ人実業家ブルース・イングラム、墓を訪問した後に肺炎で急死したとされる鉄道王ジョージ・ジェイ・グールド、カーナヴォン卿の異母弟で発掘現場にも出入りしていたオーブリー・ハーバートが原因不明の敗血症で死亡したこと、発掘隊の一員だったアーサー・メイスが体調を崩して衰弱死したこと、さらにはエジプト学者リチャード・ベセルがロンドンのクラブで突然死し、彼の父親までもがその後まもなく投身自殺を遂げたという逸話まで、まるで疫病のように死が連鎖していったかのごとく語られてきた。

しかし、こうした「死のリスト」を冷静に検証した研究者たちの調査結果は、伝説とはまったく異なる姿を浮かび上がらせている。実際に埋葬室の開封という決定的な瞬間に立ち会った関係者のうち、その後1年以内に死亡したのはカーナヴォン卿ただひとりであった。発見者本人であるハワード・カーターは、その後も長くエジプト考古学に携わり続け、1939年に64歳でリンパ腫のため亡くなるまで、格別「呪われた」様子もなく天寿を全うしている。発掘に同行した写真家ハリー・バートンや、埋葬室の開封時に居合わせた技師アーサー・キャレンダーも、それぞれ十分に年齢を重ねてから世を去った。

カーナヴォン卿の娘であり、父とともに墓に足を踏み入れた最初の人物のひとりであるエヴリン・ハーバートに至っては、1980年、78歳まで存命であった。1930年代に行われたある統計調査では、発掘や埋葬室開封の現場に居合わせた関係者たちの死亡時の平均年齢はおよそ70歳前後であったと算出されており、これは当時のイギリス人男性の平均寿命を大きく上回る数字である。つまり、「呪い」という物語が成立するために不可欠だったはずの「異常な死亡率」そのものが、統計的にはまったく裏付けられていないというのが、現在最も広く受け入れられている見解なのだ。

異説・オカルト的解釈――呪いの正体をめぐる科学とオカルトのせめぎ合い

呪いという超自然的な説明が学術的に否定される一方で、「では、なぜカーナヴォン卿をはじめとする一部の関係者は本当に体調を崩したのか」という問いに答えようとする、科学とオカルトの中間に位置するような仮説もいくつも提唱されてきた。もっとも有名なのが、墓の内部に潜んでいた微生物による感染症説である。

三千年以上にわたって密閉されていた墓の中では、副葬品に付着した有機物を栄養源として、アスペルギルス属をはじめとするカビや細菌が繁殖している可能性が指摘されており、医学専門誌『ランセット』に発表されたある仮説では、カーナヴォン卿がこうした真菌の胞子を吸い込んで肺に感染し、それが体内で長期間潜伏したのちに活性化して発症したのではないかという説が提示されている。乾燥した副葬品の中で長い眠りについていた胞子が、密閉空間の扉が開かれた瞬間に空気中に舞い上がり、抵抗力の落ちていた伯爵の肺を蝕んだのだとすれば、これはこれで十分に恐ろしい話であるし、実際に古代の墳墓を発掘した考古学者たちの間で、原因不明の呼吸器疾患が報告された例も存在する。

もう一つの興味深い説が、放射性物質説である。一部の研究者は、墓の中に安置されていた玄武岩製の容器や周囲の石灰岩から、通常より高いレベルの放射線やラドンガスが検出されたと主張しており、古代エジプトの神官たちが墓を暴く者への罰として、意図的に放射性の高い鉱物を選んで埋葬室に配置していたのではないか、という大胆な仮説さえ提唱されている。この説を唱える論者たちは、複数の古代墳墓の壁面に刻まれた「治療できない病によって死に至るであろう」という趣旨の警句を根拠として引用しているが、こうした碑文がツタンカーメン王墓そのものに存在したという直接的な証拠はなく、あくまで類似の警句が他の墳墓に見られるという傍証にとどまっている点には注意が必要だろう。

そして、これらの合理的説明とはまったく別の次元で語られ続けているのが、古代エジプトの神官や呪術師が施したとされる本物のネクロマンシー、すなわち死者を守るための呪術説である。古代エジプトにおいて死とミイラ化の儀式は極めて重要な宗教的行為であり、王の眠りを妨げる者には神々の怒りが下るという信仰が、単なる比喩ではなく現実の力として信じられていた可能性は否定できない、とオカルト愛好家たちは主張する。科学が説明できない部分にこそ古代の魔術が働いているのだ、という語り口は、100年以上経った今もなお根強い支持を集め続けている。

派生・別バージョン――ポップカルチャーと日本での受容

ツタンカーメンの呪いという物語は、発見から間もない時期から大衆娯楽の格好の題材として消費され続けてきた。もっとも象徴的なのが1932年に公開されたハリウッド映画『ミイラ再生』である。ボリス・カーロフが演じる甦った古代エジプトの神官イムホテップが、盗掘者たちに次々と復讐を遂げていくというこの作品は、ツタンカーメン発掘とその後の「呪い」報道が世間を席巻していた空気を色濃く反映しており、以後長きにわたって「ミイラ映画」というジャンルそのものを確立する原点となった。

この系譜は1999年の『ハムナプトラ』シリーズや、その後のリブート作品にまで受け継がれており、「墓を暴いた者には天罰が下る」というモチーフは、今なおハリウッド映画の定番プロットのひとつであり続けている。また、こうした「発掘者を呪う王墓」という物語の型は、ツタンカーメン以外の古代遺跡にまつわる怪異譚とも頻繁に比較される。たとえば中国の秦の始皇帝陵をめぐっては、水銀の川が流れる地下宮殿に足を踏み入れた者が命を落とすという伝承が語られ、南米のインカやマヤの遺跡でも、黄金を持ち出した探検家が次々と非業の死を遂げたという都市伝説が各地に残っている。

これらに共通するのは、いずれも「王侯の権威と死者への畏怖」という古代文明特有の観念が、近代人の想像力によって「呪い」という分かりやすい物語へと翻訳し直されている点であり、ツタンカーメンの呪いはこうした「王墓怪談」というジャンルのいわば元祖的存在として位置づけられている。日本においても、この物語は昭和期のオカルトブーム以来、繰り返し取り上げられてきた定番ネタのひとつである。1970年代から80年代にかけての「ムー」をはじめとするオカルト雑誌や少年向けの「恐怖の都市伝説」系書籍では、ツタンカーメンの呪いは幽霊屋敷やUFO、ネッシーと並ぶ定番コンテンツとして繰り返し特集され、犠牲者の数が誇張されて紹介されることも珍しくなかった。

テレビの世界でも、ナショナルジオグラフィックによるドキュメンタリー番組の日本語吹き替え版が繰り返し放送されているほか、深夜のオカルト特番やバラエティのミステリーコーナーでも定番の題材として扱われ続けており、近年では動画配信サービスでもツタンカーメンの呪いをテーマにしたドキュメンタリー作品が視聴可能になっている。漫画やアニメの世界でも、少年探偵ものやアクション作品の中でこの伝説がモチーフとして取り入れられる例は数多く、世代を超えて「古代エジプトの呪い」という記号そのものが、日本の大衆文化の中にしっかりと根付いていると考えられる。

ネット上の反応・考察――令和のオカルト論壇での語られ方

インターネットとSNSが発達した現代においても、ツタンカーメンの呪いは定期的に話題として再燃し続けているテーマである。YouTubeの都市伝説系チャンネルや考察系動画では、「古代エジプトの呪いは本当に存在したのか」「墓を開けた人々の命を奪ったものとは何か」といったタイトルの動画が繰り返し投稿されており、いずれも再生数を稼ぐ鉄板ネタとして扱われている様子がうかがえる。こうした動画のコメント欄では、「カビ説が一番現実的で怖い、目に見えない敵というのがリアル」という理系寄りの意見と、「統計的には呪いなんて存在しないとわかっていても、なぜかロマンを感じてしまう」という感情面を重視する意見とが、いつも入り混じって並んでいるのが特徴的だ。

まとめサイトや掲示板文化の中でも、この話題はたびたび取り上げられており、「結局カーナヴォン卿以外はほとんど長生きしてるし、都市伝説のいい見本だよな」という冷静な指摘が寄せられる一方で、「でも当時世界中の新聞が一斉に呪いだと騒いだのには、何か理由があったんじゃないか」「コナン・ドイルほどの知性派がわざわざ発言したのは無視できない」というように、単純な否定では割り切れない魅力を感じ取る書き込みも根強く見られる。

近年では放射性物質説や真菌説が科学系のまとめメディアやSNSで紹介されるたびに、「古代エジプト人が罠を仕掛けていたなんてロマンがありすぎる」「これもう呪いじゃなくてブービートラップじゃん」といった形で、オカルトと科学の境界線そのものを楽しむような反応が多く見られるようになっている。総じてネット上の論調は、「呪いという言葉自体はメディアが作り上げた誇張であることは理解しつつも、その誇張が生まれた背景にある偶然の重なりや古代文明への畏怖そのものを、エンターテインメントとして味わい尽くす」という、ある種の成熟した楽しみ方へとシフトしているように見受けられる。

100年前の新聞が生み出した扇情的な物語は、姿を変えながらも、令和の時代のスクリーンの中でなお生き続けているのである。

こうして辿ってきたように、ツタンカーメンの呪いという物語は、ひとりの資産家の不運な感染症死を発端としながら、扇情的な新聞報道と著名人の発言、そして人々の古代文明への根源的な畏怖が幾重にも折り重なって生まれた、20世紀最大級の都市伝説のひとつである。

統計的に見れば呪いの実在を裏付ける証拠はほとんど存在しないが、それでもなお、カビや放射線といった「もうひとつの真実」が発見されるたびに、この物語は新たな装いをまとって蘇り続けてきた。真実と虚構の境界が曖昧なまま語り継がれるからこそ、黄金の柩に眠るあの少年王は、発見から一世紀を経た今もなお、私たちの想像力を強く捉えて離さないのだろう。

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