崇徳上皇と日本三大怨霊――明治天皇が七百年ぶりに鎮めた怨念

崇徳上皇の生涯──呪われた出生から「大魔縁」への転落

崇徳の悲劇は、生まれたその瞬間から始まっていたと言われている。父とされる鳥羽天皇の中宮・璋子(しょうし、待賢門院)は、実は鳥羽の祖父にあたる白河法皇の寵愛を受けていた女性であった。後世に成立した説話集『古事談』は、崇徳は白河法皇と璋子の密通によって生まれた子であり、鳥羽にとっては実質的に「祖父の子」であったと伝える。鳥羽はこのことを知ってか知らずか、崇徳を「叔父子(おじご)」――自分の子でありながら叔父でもあるという、呪わしい呼び名で呼んだと語り継がれている。真偽のほどは定かではないが、少なくとも鳥羽が崇徳に対して終生冷淡であったことは史実として確認できる。 崇徳はわずか三歳七ヶ月で即位させられた。

むろん実権など持ちようもなく、白河法皇、次いで鳥羽法皇による院政の傀儡として少年期を過ごす。やがて成長し我が子・重仁親王への皇位継承を望むようになるが、鳥羽は寵姫・藤原得子(美福門院)が産んだ躰仁親王(近衛天皇)への譲位を崇徳に強要した。しかも譲位の宣命には崇徳を「皇太弟」と記す一文が忍ばされていた。これは崇徳が「天皇の父」として院政を敷く道を、あらかじめ完全に断つための仕掛けである。譲位した上皇が実権を握れないなら、それはもはや名誉ある引退ではなく、体のいい追放に他ならない。若き崇徳がこの一文にどれほどの屈辱と絶望を味わったか、想像に難くない。 近衛天皇が若くして崩御すると、崇徳は自らの子・重仁親王の即位に望みを繋いだ。

しかし鳥羽と美福門院は、崇徳の弟にあたる雅仁親王を即位させる。これが後白河天皇である。実の弟にまで皇位を奪われ、崇徳の胸には拭いがたい遺恨が積み重なっていった。そして一一五六年七月、鳥羽法皇が崩御すると、堰を切ったように対立が爆発する。皇位と摂関家の実権をめぐる後白河方と崇徳方の武力衝突――保元の乱である。崇徳は藤原頼長、そして剛勇で知られた源為朝らを頼みに白河北殿に籠もったが、後白河方についた平清盛・源義朝らの夜襲によってあっけなく敗走。崇徳は仁和寺に逃げ込んで出家し降伏するも、赦されることはなく、七月二十三日、讃岐国への配流が決定された。 都を追われる崇徳の胸中を思うと、その哀しみは察するに余りある。

輿に揺られ瀬戸内の海を渡り、二度と都の土を踏むことのない旅路。讃岐に着いた崇徳は、まず林田の雲井御所に身を置き、次いで鼓岡の木ノ丸殿という粗末な仮御所に移り住んだ。伝承によれば、上皇は望郷の念やみがたく、讃岐を流れる川に「鴨川」の名を与え、都を偲びながら日々を過ごしたという。俗世の一切の望みを絶たれた崇徳が没頭したのが写経であった。三年の歳月をかけ、五部の大乗経を、みずからの血を混ぜた墨で書き写したとも伝わる。これは単なる暇つぶしではない。戦で命を落とした敵味方双方の菩提を弔い、なおかつ自らの潔白と反省を示すことで、都に戻る許しを得ようとする、崇徳最後の望みが込められた行為であった。

ところが、都に送られたこの写経は、後白河院によって受け取りを拒絶される。「呪詛が込められているかもしれない」というのがその理由であった。それどころか、経典はそのまま突き返された、あるいは寺での奉納すら許されなかったとも伝えられる。この仕打ちこそが、崇徳の中に残っていた最後の理性の糸を断ち切った。『保元物語』が伝えるところによれば、絶望と怒りに我を忘れた崇徳は、自らの舌を噛み切り、迸る血で経の奥に呪詛の言葉を書きなぐったという。「日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」――皇族を民へ、民を皇族へと引きずり落とし、この国そのものを地獄に変えてやる、という凄まじい呪詛である。

以後、崇徳は髪と爪を切ることを一切やめ、生きながら鬼のごとき異形と化していったと語られる。一一六四年八月二十六日、崇徳は讃岐の地で崩御した。享年四十六。遺骸は白峰山中で荼毘に付され、白峯陵に葬られたが、都は彼の死をまともに弔うことすらしなかった。人間としての尊厳を根こそぎ奪われたまま息絶えた崇徳の怨念は、こうして「大魔縁」となって都へ向かうことになる。

死後の災厄──ひとつずつ崇徳の祟りとされた出来事

崇徳の死からほどなくして、都では不穏な出来事が連鎖的に起こり始める。当時の人々はこれらすべてを、讃岐で息絶えた元帝の呪詛と結びつけて恐れた。 まず崩御の翌年にあたる一一六五年、崇徳を退けた張本人である近衛天皇の異母兄・二条天皇が二十三歳の若さで急逝する。さらに崇徳と対立した後白河院の周辺でも、近親者の不審な死が相次いだ。これらは崇徳が呪詛の願文に込めた「皇を取て民となし」の一節が、早くも実現し始めた兆候として語られた。 続いて一一七七年、京都で「安元の大火」と呼ばれる大火災が発生する。折からの強風にあおられた炎は大内裏にまで達し、天皇の即位式などが行われる大極殿をはじめ、平安京の実に三分の一が焼け落ちたとされる大惨事であった。

『方丈記』にもその凄まじさが記された史上有数の都市火災であり、当時の人々はこの災厄もまた崇徳の祟りだと噂した。ちょうどこの年には崇徳に「崇徳院」の諡号が贈られており、これは荒ぶる御霊を鎮めるための朝廷側の対応であったとも解釈されている。 そして何より人々を震撼させたのが、崇徳を死に追いやった当事者たちの子孫にあたる平家一門の急速な没落と滅亡である。保元の乱で崇徳方を打ち破り、以後権勢をほしいままにした平清盛は、栄華の絶頂で病に倒れ、高熱にうなされながら悶死したと伝わる。その最期の壮絶さは『平家物語』にも描かれ、当時から「祟りではないか」と噂された。

清盛の死後、平家は源氏との戦いに次々と敗れ、一一八五年、壇ノ浦の戦いで幼い安徳天皇もろとも海に沈み、一族は完全に滅亡する。皇位を脅かした者、崇徳を陥れた者たちの血筋がことごとく途絶えていくこの経緯は、崇徳が魂を賭して吐いた呪詛――皇統を揺るがし、この国に破滅をもたらすという予言――が、まさにそのとおりに実現していったように見えた。さらに源氏方も義朝の非業の死をはじめとして没落の道を辿り、時代は武家政権へと移っていく。院政という古い秩序そのものが音を立てて崩れていくさまを、当時の人々は崇徳の呪いが国家の骨格そのものを蝕んだ結果だと恐れたのである。こうした一連の凶事の連鎖こそが、崇徳を「日本最強の怨霊」たらしめた実質的な根拠であった。

「日本三大怨霊」という括りの由来──将門・道真との共通点

崇徳上皇はしばしば、平安時代中期の平将門、そして同じく平安前期の菅原道真と並べて「日本三大怨霊」と称される。この括り自体は近代以降に定着した呼称だが、三者に共通するのは「政治的な力を持ちながら、不当な形でその地位を奪われ、失意のうちに死んだ後、都に災厄をもたらしたとされる」という筋書きである。 菅原道真は学者出身ながら異例の出世を遂げ右大臣にまで昇った俊才であったが、政敵・藤原時平の讒言により無実の罪を着せられ、大宰府へ左遷される。都に戻ることを夢見ながら失意のうちに没した道真の死後、政敵の時平は三十九歳の若さで急死し、御所の清涼殿には落雷が直撃して複数の貴族が命を落とし、さらに天皇や皇太子までもが相次いで病没した。

これらの凶事は道真の怨霊のしわざと恐れられ、朝廷は道真の名誉を回復した上で、北野天満宮を建立して「天神」として祀った。学問の神として現在も親しまれる天神様の裏には、こうした苛烈な祟りの記憶が刻まれている。 平将門は関東の豪族で、一族間の争いを経て関東一円を制圧し、みずから「新皇」を名乗って独自の国家樹立を宣言した人物である。だがその新政権はわずか二ヶ月で朝廷軍に鎮圧され、将門は討ち死にした。晒された首級は幾月経っても目を見開いたまま腐らず、夜な夜な歯ぎしりをしたという奇怪な噂が広がり、ついには首が己の胴体を求めて東国へ向け空を飛んでいったという伝説にまで発展する。

首が落ちたとされる地に築かれたのが東京・大手町の将門首塚であり、関東大震災後や第二次大戦後の区画整理の際、塚を移設・撤去しようとするたびに工事関係者に事故や病が相次いだとする噂が現代まで根強く語り継がれている。現在は神田明神に合祀され、勝負事の神として信仰を集めている。 この二人と崇徳に共通するのは、単に「非業の死を遂げた」というだけでなく、生前に「正当な地位や名誉を理不尽に奪われた」という強烈な被害者性である。道真は無実の罪、将門は朝敵という汚名、崇徳は皇位と皇太弟の地位、さらには写経すら拒絶されるという二重三重の屈辱を受けた。

そして三者とも、死後に都で発生した具体的な災厄――落雷、火災、疫病、政変、一族の滅亡――と結びつけられ、朝廷が正式に神号や諡号を贈り、社殿を建てて丁重に祀ることで、ようやく祟りが鎮まったとされる点も共通している。ただし崇徳の場合、その鎮魂が完了したとされるのは道真や将門よりもはるかに遅く、実に幕末から明治維新にかけてのことであった。この「鎮魂の遅さ」こそが、崇徳を三大怨霊の中でも別格の「最恐」たらしめている最大の理由である。

明治天皇による鎮魂──白峯神宮創建の史実

崇徳の怨霊が完全に鎮められたとされる出来事は、意外にも幕末から明治維新という激動の時代に起きている。一一六四年の崩御からおよそ七百年、幕末の京都は尊皇攘夷派と佐幕派が血で血を洗う動乱のただ中にあった。異国船の来航、国内の政情不安、相次ぐ天変地異――こうした未曾有の混乱を目の当たりにした孝明天皇は、この国難は讃岐の地に置き去りにされたままの崇徳上皇の怨念が、いまだ鎮まっていないことに起因するのではないかと憂慮したと伝えられる。そこで孝明天皇は、異郷に祀られたままの崇徳の神霊を京都へ迎え入れるよう幕府に命じ、一八六六年、京都に崇徳を祀る社殿の造営が始まった。ところが孝明天皇自身はこの事業の完成を見ることなく、まもなく崩御してしまう。

この遺志を受け継いだのが、若くして即位した明治天皇であった。慶応四年(一八六八年)旧暦一月九日に践祚した明治天皇は、即位直後の最重要案件としてこの鎮魂事業に取り組む。同年旧暦八月十八日、崇徳を祀る「白峯宮」の創建を正式に宣命し、旧暦九月六日、讃岐国から実に七百年の時を超えて崇徳上皇の御霊を京都へと迎え入れた。その翌日には明治天皇自らが親拝し、さらにその翌日、旧暦九月八日に元号は「明治」へと改元される。新時代の幕開けを告げる改元のわずか前に、亡き上皇の霊を都に戻すという儀礼が国家をあげて執り行われたという事実の並びは、単なる偶然として片付けるにはあまりに意味深長である。

新政府樹立という国家の根幹に関わる大事業の直前に、あえて七百年前の怨霊を鎮めることを優先した明治天皇の判断は、当時の朝廷が崇徳の祟りをどれほど本気で恐れていたかを如実に物語っている。 こうして創建されたのが京都・今出川通に鎮座する白峯神宮である。後年の一八七三年には、同じく非業の死を遂げた淳仁天皇の霊も淡路島から迎えられて合祀され、社格は官幣中社にまで昇格した。現在の白峯神宮は蹴鞠の宗家・飛鳥井家の邸宅跡に建てられた経緯から「サッカーの神様」としても親しまれているが、その創建の根底には、日本最恐の怨霊をなだめ、国家の安寧を願うという極めて切実な鎮魂の意図が横たわっていることを忘れてはならない。

昭和三十九年(一九六四年)には崇徳没後八百年にあたる式年祭が執り行われ、奇しくもその年は東京オリンピックが開催され戦後日本が国際社会へ本格復帰した年でもあった。この一致もまた、ネット上の考察系サイトでたびたび「崇徳の怒りがようやく完全に鎮まった証」として語られる話題のひとつになっている。

派生・伝承──『雨月物語』に描かれた崇徳の魔王化

崇徳の怨霊譚を後世に決定的に印象づけたのが、江戸時代の文人・上田秋成が一七六八年に著した怪異小説集『雨月物語』の巻頭を飾る一編「白峰」である。物語の中で、諸国を行脚する歌人にして僧侶の西行法師は、崇徳の眠る白峰山の御陵を訪れ、亡き上皇を弔おうとする。すると夜半、荒れ果てた墓所に崇徳の霊がありありと姿を現す。西行が穏やかに成仏を勧めると、崇徳の霊は激しい怒りを露わにする。この島に打ち捨てられ、都に戻ることを願いながら拒まれ続けた無念、そして何より、血を絞って書き上げた写経すら受け取ってもらえなかった屈辱を切々と語り、自らはすでに「魔道」に堕ちた存在なのだと告げるのである。

物語の中で崇徳は、平家の滅亡をはじめとする国の乱れはことごとく自分が引き起こしたものだと言い放ち、配下の妖しい鳥に命令を下すなど、もはや人間ではなく完全な魔王としての姿を見せつける。あまりの凄まじさに西行はついに言葉を失い、「もう何も申しますまい」と黙り込むほかなくなる。この場面の緊張感と迫力は近世怪異文学の最高峰のひとつに数えられ、崇徳を「日本最強の怨霊」として決定づけたイメージの多くは、史実そのものというよりもこの『雨月物語』を通じて広く民衆に浸透していったと言ってよい。以後、崇徳の物語は歌舞伎や講談、近代以降の小説・漫画・オカルト系メディアに至るまで、繰り返し翻案され語り継がれる定番の題材となっている。

考察・讃岐に残る伝承とネットでの扱われ方

現地・香川県坂出市には、崇徳ゆかりの史跡が今も点在している。上皇が晩年を過ごした木ノ丸殿の跡地、遺体が荼毘に付され陵墓が築かれた白峰山の白峯陵、そしてその近くに建つ白峯寺は、いずれも訪れる者に崇徳の無念を生々しく伝える場所として知られる。地元には、崇徳を弔うために西行が白峰を訪ねて詠んだ歌が「荒ぶる上皇の霊を鎮めた」とする伝承が残り、その道筋は現在「西行法師の道」として整備されている。また上皇の身の回りにまつわる塚や、上皇が喉を潤したという泉なども各所に伝わっており、地域全体が七百年以上前の悲劇を今に伝える一種の「聖地」として大切に守られている。

金刀比羅宮(ことひらぐう)周辺にも、崇徳が参籠したとする伝承や、讃岐という土地そのものが「祟る帝を封じ込めた地」として畏れと同時に特別視されてきた歴史が色濃く残る。 現代のオカルト系まとめサイトや歴史考察系ブログ、動画コンテンツにおいても、崇徳上皇は不動の人気コンテンツであり続けている。「日本三大怨霊の中でも別格に恐ろしい」「明治天皇がガチで鎮魂に動いた唯一の怨霊」「呪いの成就率が異常に高い」といった切り口で繰り返し取り上げられ、平将門の首塚にまつわる現代の怪談と並んで、実際に国家権力が本気で対応した稀有な事例として一目置かれている。

特に、写経を送り返されて舌を噛み切るという場面の凄惨さ、そして呪詛の言葉「皇を取て民となし、民を皇となさん」が、後の武家政権誕生という歴史の転換とも符合するように見えることから、「予言が的中した怨霊」としてネット上でも強い説得力を持って語られ続けている。史実と伝説、文学的脚色が幾重にも折り重なって形成された崇徳上皇像は、平安時代から令和の現在に至るまで、日本人の怨霊観そのものを象徴し続ける存在だと考えられる。

今回の追加取材では、明治天皇の即位から改元までの詳細な日程(践祚→白峯宮創建宣命→崇徳御霊の京都遷座→親拝→改元の順序)が確認でき、鎮魂儀礼が新時代開幕の直前に国家的最優先事項として実施された事実が裏付けられた。また『雨月物語』「白峰」における西行との対話の具体的な内容と、坂出市に残る「西行法師の道」など現地伝承の詳細も新たに把握できた。

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