沖田総司、死してなお斬り続けた男――結核の天才剣士に憑いた「死者の殺気」の怪

概要――夭折の天才剣士、その光と影

新選組一番隊組長・沖田総司ほど、「美しく、そして呪われた」という言葉が似合う剣士はいない。天保十三年(一八四二年)とも十五年(一八四四年)ともいわれる曖昧な生年に生まれ、幼くして白河藩お抱えの剣術道場・試衛館に入門した沖田は、天賦の才によってあっという間に頭角を現す。近藤勇を「大将」と慕い、土方歳三を「兄貴分」と仰ぎながら、道場の食客組の中でも群を抜く剣の冴えを見せた少年剣士――それが沖田総司の出発点である。天然理心流三代目宗家・近藤周助のもとで免許皆伝を受けたのは満十八、九歳という異例の若さだったと伝えられ、この時点ですでに「試衛館で沖田に敵う者なし」という評価が定着していたという。

新選組結成後、沖田は一番隊組長・副長助勤という要職に就く。局長近藤、副長土方に次ぐ実力者集団の中でも、沖田の剣は「三段突き」と呼ばれる神速の突き技で知られ、相手が反応する間もなく喉元に切っ先が届いていたと語り継がれる。永倉新八ら生き残りの隊士たちの回顧録でも、沖田の剣の速さは別格として扱われ、「あれほど恐ろしい剣は見たことがない」という証言すら残る。稽古のときは終始笑顔を絶やさず、隊士たちを子供のように可愛がる優しい兄貴分でもあったというギャップも、後世の人気を決定づけた要因だろう。 そして沖田の名を不動のものにしたのが、元治元年(一八六四年)六月五日、京都三条小橋の旅籠・池田屋で起きた事件である。

尊皇攘夷派浪士たちが潜伏しているとの情報を得た近藤勇率いる新選組は、少数精鋭で池田屋に斬り込んだ。この修羅場の最中、沖田総司が突如として喀血し、戦線を離脱したという逸話が広く語られている。灼熱の斬り合いの中、口から鮮血を吐きながらもなお刀を振るい続け、ついに力尽きて崩れ落ちた――この場面は小説・ドラマで幾度となく描かれ、沖田という人物の「美しくも儚い最期」を象徴する名場面として定着した。しかし、この喀血伝説こそが、沖田総司という人物をめぐる最大の謎の入り口なのである。

確認できる史料・通説――結核という静かな殺人者

沖田の死因については、現在ほぼ異論なく「肺結核」であったとされている。当時「労咳」と呼ばれたこの病は、進行すると激しい咳とともに喀血を繰り返し、体力を奪い尽くして死に至る、幕末当時としては不治の病であった。沖田がいつ発病したかは正確には分かっていないが、慶応二年(一八六六年)頃に新選組内で行われた軍医による検診記録に「肺結核の者一名」との記載があり、これが沖田を指すのではないかという指摘がある。さらに慶応三年の秋から冬にかけて、沖田はすでに戦闘に耐えられないほど重篤な状態にあったと考えられている。 沖田の最期については、二つの説が並び立っている。

ひとつは、幕府医師・松本良順が間借りしていた今戸(現在の台東区、今戸神社周辺)で息を引き取ったという説。永倉新八の証言などを根拠に、長らくこちらが有力視されてきた。もうひとつは、松本良順の紹介で移った千駄ヶ谷(現在の新宿区)の植木屋・平五郎宅の離れで亡くなったという説で、近年発見された史料により、現在ではこちらのほうが有力とされている。松本良順は江戸幕府の奥医師であり西洋医学に通じた名医として知られ、沖田の主治医として最後まで治療に当たったとされる。慶応四年五月三十日(新暦一八六八年七月十九日)、近藤勇が板橋で斬首されてからおよそ二ヶ月後、沖田総司はひっそりと息を引き取った。

享年については生年が確定しないため、数え二十五歳説のほか二十四歳説、二十七歳説まで存在し、天才剣士の生涯を包む霧は、生まれた日から死んだ日まで晴れることがない。

異説・都市伝説――「すでに死んでいた男」が斬り続けた夜

池田屋事件での喀血伝説は、実は作家・子母沢寛が昭和初期に著した『新選組始末記』において劇的に描写されたものであり、事件当時の一次史料である「近藤勇書簡」や隊士・島田魁の日記には、沖田が喀血して倒れたという記述は一切存在しない。それどころか沖田は、池田屋事件の翌月に起きた禁門の変にも普通に参戦している記録が残っている。つまり史実としては、池田屋で本当に喀血したのかどうかすら怪しいのだ。にもかかわらず、この「血を吐きながら斬り続けた男」という物語は、まるで既に確定した史実であるかのように語り継がれ、独り歩きしていった。 ここに、怪談として語るべき「もう一つの沖田総司」が立ち上がってくる。

曰く――池田屋で喀血し昏倒した沖田は、あの瞬間すでに死者の側に足を踏み入れていたのではないか。肉体はすでに病魔に食い尽くされ、生命としては終わっていたにもかかわらず、剣士としての執念だけが刀を振るわせ続けていたのではないか、という語り方である。実際、新選組内では「沖田の剣は死んでいる者の剣だ」と評する声があったとも伝えられ、鬼気迫るその太刀筋は、生への執着を失った者だけが到達できる境地だったのではないかと囁かれてきた。 さらに有名なのが「黒猫の幻覚」の逸話である。晩年、療養先の庭先に現れる黒猫を、沖田がたびたび斬ろうとしては、腕が上がらず失敗し続けたという話だ。

これも子母沢寛による創作の色が濃いとされるが、なぜ「黒猫」でなければならなかったのかという点に、怪異譚としての深い余韻が残る。黒猫は古来、死の予兆や妖しの化身として語られる存在であり、剣の申し子であった沖田が、自らの衰えを知りながらそれでも斬りかかろうとした相手が黒猫だったという構図は、「死神を斬ろうとして斬れなかった男」という寓話そのものだ。臨終の間際、うわ言のように「近藤先生、土方さん」と呼びかけ続けたという言い伝えもあり、意識が朦朧とする中で、亡き戦友たちの幻を見ていたのではないかという解釈も根強い。

ネット上で流通する噂・派生――「正体不明の美男子」が生む磁力

沖田総司をめぐる現代のインターネット言説で特に強いのが、「美男子伝説」と「写真不存在」という二つのキーワードが組み合わさって生む、独特の神秘性である。沖田の写真は一枚も現存しておらず、姉・キンの文机の中に写真があったという伝承があるものの、後年の新選組研究者による調査でも発見されず、引っ越しの際に誤って処分されてしまったのではないかとする説が有力である。つまり、我々は沖田総司の本当の顔を誰一人として知らないのだ。この「顔のない天才剣士」という空白は、創作物にとって格好の余白となり、司馬遼太郎の小説やその後の漫画・アニメ・ドラマにおいて、次第に「新選組随一の美青年」というイメージが上塗りされていった。

一方で、生前の沖田を知る関係者の証言の中には「あまり美男とはいえない顔立ちだった」とするものもあり、フィクションが作り上げた「美剣士・沖田総司」と、史実の沖田総司との間には大きな乖離があるとする指摘がネット上でもたびたび話題になる。 さらにネット掲示板やSNSでは、「沖田は本当は女性だったのではないか」「実は同一人物ではなく複数の剣士の逸話が合成されたキャラクターなのではないか」といった、根拠の薄い考察的都市伝説も定期的に浮上する。こうした説はほぼ史料的裏付けを持たないが、「実像が不明であるがゆえに、いくらでも物語を上書きできる」という沖田総司というキャラクターの特殊性を象徴していると考えられる。

フィクション作品における沖田は、優しい微笑みの奥に人を斬る狂気を隠した二面性のキャラクターとして描かれることが多く、この「聖と邪」「生と死」が同居した人物造形こそが、令和の今も新選組ファンを惹きつけてやまない最大の理由になっている。

体験談――ゆかりの地に今も残る「気配」

其の一:今戸神社の境内にて 都内在住の三十代女性が友人と今戸神社を訪れたときの話。沖田総司終焉の地の碑を写真に収めようとスマートフォンを構えたところ、シャッター音の直後に画面全体がノイズがかったように歪み、白い縦線が数本走る写真が撮れてしまったという。その場では気に留めず参拝を続けたが、帰宅後に確認すると、境内の別の場所で撮った写真だけが不自然に暗く沈み、まるで誰かの影が画面の端に入り込んでいるように見えたと語っている。友人いわく、碑の前に立った瞬間、真夏だったにもかかわらず足元だけひやりとした冷気を感じ、思わず後ずさりしてしまったそうだ。

其の二:壬生・八木邸周辺の路地裏 京都・壬生の新選組屯所跡を夜間に一人で歩いていた歴史ファンの男性の体験談。八木邸の塀沿いを歩いていると、背後から明らかに足音がついてくるのを感じ、振り返っても誰もいない。それでも歩みを進めるたびに、カラン、カランという下駄の音のようなものが背後で鳴り続けたという。恐怖のあまり早足になったところ、ふと鼻先を若い男が使うような鬢付け油に似た匂いがかすめ、次の瞬間には音がぴたりと止んだ。地元の案内人によれば、壬生の屯所周辺では「稽古の掛け声」や「刀の素振りの音」を聞いたという類の噂が古くからあり、沖田や隊士たちの気配が今も色濃く残っているのだとまことしやかに語られている。

其の三:日野・高幡不動尊近辺での金縛り 土方歳三の菩提寺としても知られる日野市を、新選組ゆかりの地巡りで訪れた男子学生が体験した話。宿泊先のホテルで就寝中、突然体が全く動かなくなる金縛りに襲われ、天井付近に白い着物姿の若い男が正座しているのがぼんやりと見えたという。声も出せず、ただじっと見つめ返すことしかできなかったが、やがてその人影はふっと微笑むような気配を残して消え、同時に金縛りも解けたそうだ。翌朝、日野の資料館で沖田総司の資料を見た瞬間、昨夜の人影の輪郭と重なるものを感じ、鳥肌が立ったと本人は振り返っている。日野は沖田が剣術修行のために足繁く通った土地でもあり、こうした体験談が地元では時折語られている。

反証・未確認点――史実と創作の境界線を引き直す

ここまで見てきた通り、沖田総司をめぐる物語には「確実な史料的裏付けがある部分」と「後世の創作が付け加えた部分」がはっきりと分かれている。史実として比較的確からしいのは、(一)試衛館出身で天然理心流の免許皆伝を受けた剣士であったこと、(二)新選組一番隊組長・副長助勤として活躍したこと、(三)肺結核により慶応四年五月三十日頃に死去したこと、(四)幕府医師・松本良順の治療を受けていたこと、の四点である。一方、池田屋事件での劇的な喀血場面や、庭先の黒猫を斬ろうとして斬れなかったという逸話は、いずれも昭和初期の作家・子母沢寛による創作、あるいは脚色である可能性が高いとされる。

当時の一次史料にはこれらの記述が見当たらず、沖田は池田屋事件の翌月にも通常通り出陣しているという事実が、喀血伝説に疑問符を投げかけている。 また、「美男子であった」という定説も、司馬遼太郎の小説をはじめとする戦後の創作物が積み重ねてきたイメージであり、生前の沖田を知る関係者の証言の中にはむしろ「決して美男とはいえなかった」とするものも存在する。写真が一枚も現存しないという事実こそが史実であり、そこから先の「美貌」も「妖しい微笑み」も、すべては後世の想像力が埋めた空白なのだということを、読者は心のどこかで踏まえておいたほうがいい。

それでもなお、史実と創作のあわいに漂う「正体不明の天才剣士」という存在そのものが、一つの巨大な怪異として、いまも多くの人の心を掴んで離さないのである。

沖田総司の死因は肺結核でほぼ確定しているが、終焉の地は今戸・千駄ヶ谷の二説あり、享年も24~27歳と揺れている。池田屋での喀血伝説や黒猫の逸話は子母沢寛の創作の可能性が高く、写真不在という史実の空白こそが「美男子・沖田総司」という後世のイメージを増幅させ続けている。

沖田総司の最期を確かめる史料

沖田総司が結核を患い、戊辰戦争のさなかに江戸で亡くなったことは、関係者の記録や墓所からたどれる。一方、「庭の黒猫を斬ろうとして斬れなかった」「死後も道場に殺気が残った」といった場面は、後年の小説や映像作品によって広まった要素が大きい。臨終の正確な言葉や、最後に刀を振るった日時まで確定する同時代記録は乏しい。

写真として出回る若い剣士の肖像にも、沖田本人と確認されていないものがある。容姿、天才的な剣技、若すぎる死が結びつき、史料の空白へ創作が入りやすくなった。怪異譚を楽しむ場合でも、結核で療養した人物の生涯と、死後に作られた「斬り続ける剣士」の像を同一視しない方がよい。

沖田の没年齢には、生年を1842年とする説と1844年とする説があり、墓碑や家の記録の読み方でも表記が揺れる。確かな資料が少ない人物ほど、断定口調の逸話が後から輪郭を埋めてしまう。新選組関係者の回想も、事件から年月を経て書かれたものは、成立時期と語り手の立場を見て扱う必要がある。

参照:国立国会図書館「近代日本人の肖像・新選組関係資料」https://www.ndl.go.jp/portrait/

奇怪千万からのお願い

この記事が少しでも面白かった、役に立ったと思ってもらえたなら、ひとつお願いがあります。Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入ってもらえると、私の調査の足しになります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。あなたの支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。

(*´σー`) いただいた紹介料は、現地調査のガソリン代や撮影機材、古い郷土史料の購入に使います。夜のスーパーカブを走らせ続ける燃料だと思って、協力してもらえたら嬉しいです。

※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得る場合があります。

タイトルとURLをコピーしました