推古天皇十二年、飛鳥の宮に十人の男が同時に膝をつき、それぞれ違う訴えを口にした。ある者は隣村との水争いを、ある者は税の不公平を、ある者は嫁ぎ先での諍いを訴えた。ざわめきの中で、上座に座す若き摂政は目を閉じたまま静かに頷き、十人が語り終えるやいなや、一人ひとりの名を呼び、それぞれの訴えに的確な裁定を下したという。居並ぶ官人たちは息を呑み、やがて都じゅうにこの噂は広まった。
「豊聡耳皇子」――厩戸皇子は、こうして生きながらにして伝説になった人物である。母の穴穂部間人皇女が宮中を巡察していた折、馬小屋の前を通りかかった瞬間に産気づき、そのまま出産したという誕生譚は、あまりにも出来すぎているとして古くから注目されてきた。西方の彼の地で家畜小屋の飼い葉桶に生まれ落ちたとされる救世主の物語と酷似しているからだ。
六世紀末、大陸から渡ってきた仏教や景教(ネストリウス派キリスト教)の説話が、飛鳥の宮廷人たちの耳にどこかで届いていたのではないか、そしてそれが厩戸皇子の誕生譚に投影されたのではないか、という推理は今も根強く語られている。 物語としての厩戸皇子の生涯は、まことに輝かしい。
推古天皇の摂政となった彼は、家柄ではなく才覚によって人材を登用する冠位十二階を定め、和を尊び議論を尽くすことを説く十七条憲法を著し、大陸の隋に小野妹子を派遣して「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」という、当時の東アジアの外交常識からすればあまりに大胆な国書を送りつけた。仏教を篤く信奉し、四天王寺や法隆寺(斑鳩寺)を建立し、みずから経典の注釈書「三経義疏」を著したとも伝えられる。
片岡山で行き倒れの飢人に出会い、衣を脱いで与え、歌を交わしたところ、後日その飢人の亡骸を検めると、与えた衣がきちんと畳んで棺の上に置かれていたという「片岡山飢人伝説」もよく知られており、この飢人の正体は達磨大師の化身だったという言い伝えが平安時代には広く信じられていた。斑鳩の里に立てば、いまも法隆寺の甍の向こうに、こうした説話の残響を感じ取ることができる。 ところが、この輝かしい聖人像には、根本的な弱点がある。
それは、厩戸皇子の事績を伝えるほぼ唯一の一次史料が、彼の死から約百年後の七二〇年に編纂された『日本書紀』であり、しかもその編纂の総責任者が、当時の朝廷で絶大な権力を握っていた藤原不比等だったという点である。
同時代の中国側の史書『隋書』倭国伝には、遣隋使を送った倭王として「阿毎多利思比孤」なる人物が登場するが、これは明らかに男性の大王を指しており、女帝であったはずの推古天皇とも、摂政であったはずの厩戸皇子とも、名指しで一致しない。中国側の史料には、厩戸皇子はおろか、推古天皇の名すら一度も現れないのである。
これほどの偉業を成し遂げた人物であれば、当然大陸側の記録にも痕跡が残るはずだという疑問は、江戸時代の考証学者の間ですでに囁かれていたが、これを学術的な仮説として大きく展開したのが、二〇世紀末に登場した歴史学者・大山誠一である。 大山は一九九九年に発表した著作『〈聖徳太子〉の誕生』で、いわゆる聖徳太子虚構説を世に問うた。
その骨子は、厩戸王という王族が実在したこと自体は否定しないが、私たちが知る「聖徳太子」――冠位十二階と遣隋使を除くほぼすべての事績、十七条憲法の制定、仏教興隆の中心人物としての位置づけ、超人的な逸話の数々――は、『日本書紀』編纂時に藤原不比等らによって政治的に「創作」されたとする説である。大山によれば、当時の朝廷は、蘇我氏を滅ぼした乙巳の変(六四五年)の正統性を歴史的に基礎づける必要があった。
そのために、かつて蘇我馬子と共同で政治を主導していた厩戸皇子の実像を消し去り、代わりに蘇我氏から切り離された「仏教に篤く、儒教的な理想を体現した孤高の聖人」という物語を捏造し、これによって蘇我氏の功績を厩戸一人のものへとすり替え、同時に蘇我入鹿打倒の正当性を演出したのだという。
法隆寺に伝わる法起寺の露盤銘や天寿国繡帳の銘文といった、太子の存在を裏づけるとされる史料についても、大山はそれらが太子の時代よりはるかに後代に成立した後世の偽作である可能性が高いと主張した。 この虚構説は学界に激震を走らせ、教科書の記述が「聖徳太子」から「厩戸王」へと一時的に書き換えられる動きにまで発展し、世間でも「聖徳太子は教科書から消される」という見出しで大きく報じられた。
しかし、この説に対する反論もまた強力である。歴史学者の仁藤敦史は、法隆寺系以外の史料からも太子信仰の初期の痕跡が確認できると指摘し、遠山美都男は、厩戸皇子が斑鳩宮を拠点として壬生部という私的な経済基盤を有する有力な王族であったことは動かしがたい事実だと反論した。
石井公成に至っては「大山説は想像の積み重ねに過ぎず、実証的な論証になっていない」と厳しく批判し、直木孝次郎も法起寺の露盤銘にある「聖徳皇」の文言が鎌倉時代の偽作だとする説には無理があるとした。
結局のところ、学界の大勢は「等身大の厩戸皇子という有力王族は確かに実在したが、後世――特に『日本書紀』編纂時と、さらにその後の太子信仰の高まりの中で――彼の事績と人格が幾重にも脚色・誇張され、時には他者の功績まで取り込みながら『聖徳太子』という超人的な聖人像へと肥大化していった」という、実在説と虚構説の中間に落ち着きつつある。 この「肥大化」を象徴するのが、複数人物合成説と呼ばれる異説である。
ネット上の歴史考察界隈でしばしば語られるこの説は、「聖徳太子」という一人の超人的存在の正体は、実は厩戸皇子本人に加えて、政治手腕に長けた蘇我馬子、外交や文書行政に精通した渡来系の官人たち、そして仏教教学に通じた高句麗僧・慧慈や百済僧といった複数のブレーンの功績が、後世の物語作者によって一人の人物に集約された「合成キャラクター」だったのではないか、という推理である。
十人の訴えを同時に聞き分けたという伝説も、実際には厩戸皇子を中心とする「政治顧問団」が分業して民の訴えを処理していた史実が、後世に「一人の超人が同時に聞いた」という神秘化された物語に転化したのではないか、と説明されることが多い。
この読み方は史料的な裏づけこそ乏しいものの、なぜ聖徳太子にまつわる逸話がこれほど多岐にわたり、時に矛盾すら含むのかを説明する魅力的な仮説として、歴史系のまとめサイトやSNS上で繰り返し取り上げられてきた。 聖徳太子をめぐる不気味な影として語られるのが、上宮王家の悲劇である。
厩戸皇子の血を引く一族――山背大兄王を筆頭とする上宮王家は、皇子の死からおよそ二十年後の六四三年、蘇我入鹿の軍勢に攻められ、斑鳩宮で一族もろとも滅ぼされた。日本書紀によれば、山背大兄王は最後まで抵抗するか逃げ延びるかを選べたにもかかわらず、「私一人の命惜しさに万民を苦しめたくない」と述べて一族とともに自害したと伝えられる。この上宮王家の断絶こそが、後世の太子信仰を特異なものにした最大の要因だとする見方は根強い。
守護者を失った法隆寺は、以後、厩戸皇子の名誉と偉大さを語り継ぐことでみずからの権威と存立基盤を守ろうとし、その過程で太子の事績はどんどん理想化され、神格化されていったというのである。
実際、法隆寺には「怨霊封じのために建てられた寺ではないか」という説すら古くから囁かれており、法隆寺の伽藍配置が中心軸をわずかにずらした非対称なものであることや、若草伽藍と呼ばれる焼失した創建当初の寺院跡が発掘されたことなどが、こうした怨霊鎮魂説を補強する材料として、歴史ミステリー愛好家の間でしばしば語られている。 聖徳太子の名は、江戸時代以降、民間信仰の中でさらに独自の発展を遂げた。
大工や左官などの職人たちは太子を「職人の祖」として崇め、正月には各地で「太子講」と呼ばれる講が催され、聖徳太子の掛け軸を前に酒を酌み交わす風習が今も一部の地域に残っている。大阪の四天王寺では、聖徳太子が身罷った命日とされる旧暦二月二十二日前後に「聖霊会」という盛大な法要が営まれ、雅楽の調べとともに太子の徳を偲ぶ行事が千年以上にわたって続けられてきた。
奈良県斑鳩町の叡福寺には、太子と母、妃が眠るとされる三骨一廟の御廟があり、地元では「太子の魂は今も斑鳩の空を守っている」という伝承が語り継がれている。近年ではインターネット上の歴史考察掲示板やSNSでも、「一万円札の顔として長年親しまれてきた聖徳太子が、実は存在しない虚像だったとしたら」という切り口で定期的に話題が再燃し、教科書表記の変遷を追う投稿や、大山説と反論をまとめたスレッドが繰り返し立てられてきた。
実在の人物としての厩戸皇子と、後世が作り上げた聖人「聖徳太子」――この二つの像の間にある大きな隔たりこそが、千四百年経った今もなお私たちを惹きつけてやまない、日本古代史最大級のミステリーなのである。
改めて整理すると、この謎の核心は「史料の空白」にある。厩戸皇子という有力王族が飛鳥時代に実在したことはほぼ間違いないが、彼の実像を直接語る同時代史料は皆無に等しく、私たちが知る聖徳太子像のほぼすべてが、政治的思惑を色濃く帯びた『日本書紀』というフィルターを通した姿でしかない。しかも、その一族である上宮王家が非業の死を遂げているという事実が、後世の物語化・神格化の動機を強烈に補強している。
虚構説と実在説のどちらが正しいかを断定することは、現存する史料だけでは恐らく永遠に不可能だろう。しかし、だからこそこの謎は面白い。冠位十二階や遣隋使という動かしがたい実績を残した誰かが確かにいた一方で、その人物にまつわる無数の伝説――十人の話を同時に聞いた耳、飢人に姿を変えた達磨との邂逅、馬小屋での誕生――は、後世の人々が「理想の政治家」「理想の聖人」を求め続けた欲望そのものの結晶だったのかもしれない。
聖徳太子は実在したのか、しなかったのか。答えの出ないこの問いこそが、千四百年間、日本人がこの人物を語り続けてきた最大の理由なのである。
「聖徳太子はいなかった」説が問うもの
聖徳太子は、推古天皇の時代に活動した厩戸皇子を基に形成された歴史的人物像である。厩戸皇子という王族がまったく存在しなかったという説と、後世に知られる万能の聖人像が『日本書紀』や信仰によって作られたという議論は別である。「実在しなかった」という見出しだけでは、何を否定しているか分からない。
『日本書紀』は厩戸皇子の死から約一世紀後の720年に完成した。推古朝の政治、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使などを記すが、編纂時の政治的意図や後世の編集を検討する必要がある。一方、成立が後だから全記述が創作になるわけではなく、同時代に近い金石文、寺院、外国史料と照合する。
法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘や天寿国繡帳は、太子関係の早い資料として重視される。ただし銘文の制作時期、後補、語句の読みには論争がある。資料が本物か偽物かの二択にせず、どの部分を何年代の証拠として使えるかを示したい。
「一度に十人の訴えを聞き分けた」「未来を予言した」といった超人的逸話は、政治家の実績より聖人としての力を示す。こうした説話を史実の会議記録とは扱えないが、太子信仰がどのように広がったかを示す資料にはなる。平安・鎌倉期の太子伝と飛鳥時代の記録を同じ年代へ置かないことが重要である。
十七条憲法も、厩戸皇子が現代的な民主憲法を制定したという説明では不十分である。官人の倫理を示す文書として内容、用語、成立時期が議論されている。後世の加筆説を紹介する場合は、研究者がどの語句と時代背景を根拠にするかを示したい。
教科書で「聖徳太子」から「厩戸王」へ名称が変わったというニュースは、人物が消された証拠ではない。歴史学上の呼称、当時の名、後世の尊称をどう教えるかという問題である。学習指導要領や教科書会社の表記変更を、政府が実在否定を決定したと誇張しないことが必要になる。
太子が関わったと伝わる寺院は全国にあり、すべてを本人が直接建立したと証明することは難しい。寺伝の成立、伽藍の発掘年代、再建史を個別に見るべきである。後世の伝承であっても、地域が太子を信仰して寺を守ってきた歴史的価値まで否定する必要はない。
実在論争は、一人の人物が「いたか、いなかったか」を賭ける謎解きではない。厩戸皇子の同時代的な活動と、その後に重ねられた政治家、仏教者、予言者、国家の象徴という像を層に分ける作業である。資料の年代と性格を示せば、聖人像が作られたことと歴史的人物の存在を両立して考えられる。
紙幣に描かれた肖像も、本人を写生した確実な肖像画とは限らない。伝「唐本御影」の人物同定と制作年代には議論があり、肖像の有名さを実在証明へ直結させるべきではない。逆に後世の画像であることから、厩戸皇子まで架空とすることもできない。
参照:奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」https://sitereports.nabunken.go.jp/
