徳川家康は替え玉だった――関ヶ原前後で「本物」と入れ替わった世良田二郎三郎という男

江戸幕府を作った家康は、別人だったのか

徳川家康は幼いころ人質として今川氏のもとへ送られ、桶狭間の戦い後に三河で自立した。織田信長、豊臣秀吉と同盟や服属を重ね、関ヶ原の戦いに勝ち、征夷大将軍となった。75年の生涯にわたる歩みは、多くの書状と同時代記録に残る。

ところが、この長い人生の途中で本人は死に、まったく別の男が家康を演じたという説がある。

代表的なのが、明治時代の村岡素一郎による「世良田二郎三郎元信」説である。村岡は、松平元康、後の家康が若い時期に殺され、出自の異なる世良田二郎三郎が身代わりになったと論じた。

後には、関ヶ原の戦いで家康が暗殺されて影武者と入れ替わったという小説、大坂夏の陣で戦死して南宗寺へ葬られたという伝承も加わった。

同じ「替え玉説」と呼ばれても、入れ替わった年代も人物も異なる。桶狭間の直後、関ヶ原、大坂夏の陣。三つを一つの証拠のように混ぜず、それぞれの成立と根拠を見る必要がある。

説の出発点は『史疑徳川家康事蹟』

世良田二郎三郎説を体系的に示したのは、村岡素一郎が1902年に刊行した『史疑徳川家康事蹟』である。国立国会図書館デジタルコレクションで本文を確認できる。

村岡は、公式的な家康像に疑問を投げかけ、諸記録の不自然に見える部分をつないだ。家康の幼少期の人質移動、松平家の系譜、長男信康の切腹、家臣石川数正の出奔などを、替え玉だったために起きた出来事と解釈した。

『史疑』が出たのは、徳川幕府が終わって三十年余りの時代である。幕府が作った歴史を疑い、天下人の正体を問い直す題材は、明治の読者に強い刺激を与えた。

この本が存在することは、家康が替え玉だった証明ではない。明治時代に村岡がその説を組み立てたことの証拠である。引用された史料が何を意味するか、村岡の読み方以外に説明できないかを改めて調べなければならない。

後世の小説やネット記事では、村岡の推測が「古文書に記された事実」として紹介されることがある。原著へ戻ると、史料の引用、著者の解釈、そこから広げた推理を分けて読める。

「子どものころ売られた」という家康の回想

替え玉説で繰り返し挙げられるのが、『駿府記』や『駿府政事録』と呼ばれる記録にある家康の幼少期の回想である。

家康は松平竹千代と呼ばれた幼少期、今川方へ人質として送られる途中で尾張方に奪われたと伝わる。家臣の裏切りによって織田方へ渡された、金銭で売られたという表現を含む記録もある。

村岡は、これを松平家の当主本人の話ではなく、後に身代わりとなる出自不明の少年が本当に売買された告白だと読んだ。

だが、戦国期の人質移動で、引き渡した人物へ報酬が渡ったことと、本人の血筋が別だったことは同じではない。竹千代が敵方の手に渡った政治的事件を、後世の語りで「売られた」と表現した可能性もある。

写本によって金額の読みが違うとされる点も重要だ。村岡の議論は特定の数字へ大きく依存するが、写本の系統、誤写、単位を確かめなければならない。都合のよい本文だけを本来の記録とすることはできない。

幼少期の回想が史実と完全に一致するかという問題と、成人後の人物が別人かという問題の間には大きな距離がある。人質譚に曖昧さがあっても、それだけで入れ替わりは証明されない。

世良田二郎三郎とは誰か

村岡説では、家康に入れ替わった人物が世良田二郎三郎元信とされる。新田氏の流れをくむ父と、低い身分の母の間に生まれ、寺や願人の世界を渡り歩いた人物として描かれる。

この経歴は、天下人となる男の「もう一つの幼少期」としてよくできている。松平家の正統な嫡子ではないから、実子の信康を排除できた。身分の低い出自を隠したいから、系図を整えた。替え玉説は、家康の後半生にある出来事へ一つの秘密で説明を与える。

しかし、世良田二郎三郎が松平元康と同年代に実在し、松平家中へ入り、当主として入れ替わった経過を示す同時代文書は確認されていない。出自、移動、家臣との接触、入れ替わりの時期が、後世の説の中で初めてつながる。

世良田姓は新田氏との関係を連想させ、徳川氏の系譜にも結びつく。そのため、家康の祖先伝承や改姓の問題から、別人の名を取り出した可能性を考える必要がある。

人物が実在したかもしれないという可能性と、その人物が家康になったことは別である。名前の一致や系譜の似方だけでは、何十年にもわたる入れ替わりを支えられない。

家臣と家族を欺き続けられたか

若い元康の時点で入れ替わったとすると、身代わりは松平家の重臣、妻、子、今川家の関係者、近隣武将を欺かなければならない。

顔を似せるだけでは足りない。過去の出来事、親族の呼び方、筆跡、花押、声、傷、武芸、寺社との関係を覚える必要がある。幼少期から仕えた家臣ほど違いに気づきやすい。

替え玉説は、重臣たちも家を守るために共謀したと説明する。だが、共謀者が増えるほど秘密が漏れる機会も増える。松平家はその後、織田、武田、豊臣との複雑な交渉を重ね、家臣の離反も経験した。敵対した人物が正体を暴露すれば大きな武器になったはずである。

石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔した事件は、秘密を知っていたからだという説に使われる。しかし、数正は家康の正体を公にせず、秀吉側もその情報を政治宣伝に使っていない。出奔には徳川家中の派閥関係や対豊臣交渉など、替え玉を仮定しない説明がある。

「全員が秘密を守った」とすれば反証は難しくなるが、それは証拠がないことへの説明にすぎない。大規模な共謀を主張するほど、共謀を示す書状や証言が必要になる。

信康切腹は血がつながっていない証拠か

天正7年、1579年、家康の長男松平信康は二俣城で自害した。妻の築山殿もその前に殺害された。従来は、武田氏との内通を疑った織田信長が処分を命じ、家康が従ったと説明されることが多かった。近年は、徳川家内部の対立や家康自身の判断を重く見る議論もある。

替え玉説は、信康が本物の家康の子だったため、入れ替わった男が正体の露見を恐れて排除したとする。

この説明は悲劇へ明快な動機を与えるが、信康が替え玉の秘密を知っていたことを示す史料はない。信康は家康が入れ替わったとされる時期には幼児か、説によってはまだ生まれていない。どのように正体を知ったかも説明が必要になる。

家康が信康を粗末に葬ったという話も根拠にされてきた。しかし浜松市の資料によれば、二俣の清瀧寺には信康の廟があり、家康が供養のため寺を建立したと伝わる。現在も命日の法要が行われている。

実子を死なせた政治判断が過酷だったことと、血縁がなかったことは同義ではない。戦国大名の家督、同盟、家中対立という背景を検討せず、父子関係の悲劇を替え玉だけで説明するのは早い。

関ヶ原で入れ替わった「影武者家康」

村岡説とは別に、関ヶ原の戦いで家康が暗殺され、影武者がその後の家康を演じたという物語が広く知られている。

この設定を有名にしたのが、隆慶一郎の小説『影武者徳川家康』である。作品では、天下分け目の戦場で本物が死に、影武者が政治の中心へ押し出される。歴史上の出来事を踏まえた時代小説であり、史実を証明する研究書ではない。

関ヶ原入れ替わり説と世良田二郎三郎説は、入れ替わりの年代が約四十年違う。前者では関ヶ原以前の家康は本人で、後者では青年期から別人になる。両方を同時に正しいとはしにくい。

ネット上では、小説の人物設定が村岡の説や南宗寺伝承と混ざり、「複数の古文書が同じ替え玉を記録した」と紹介されることがある。実際には、明治の異説、昭和・平成の創作、寺の伝承を分ける必要がある。

創作が優れているほど、読者は歴史の空白に本当に起きたような感触を持つ。史実との区別は作品の魅力を下げるものではない。どこからが作家の設定かを知れば、歴史資料をどう物語へ変えたかも楽しめる。

南宗寺にある「家康の墓」

大阪府堺市の南宗寺には、徳川家康の墓と伝わる石塔がある。大坂夏の陣で家康が後藤又兵衛らに襲われ、輿で逃げる途中に負傷して寺へ運ばれ、そこで亡くなったという伝承である。

通説では、家康は夏の陣後も生き、翌1616年に駿府で死去した。南宗寺伝承が事実なら、その後約一年の家康は影武者だったことになる。

寺に墓があることは、伝承が地域で守られてきた証拠である。しかし石塔の被葬者が家康だと確定するには、建立年代、銘文、遺骨、寺の同時代記録が必要になる。

家康の子である秀忠、孫の家光が南宗寺を訪れたことも、秘密の墓参りだったという説に使われる。南宗寺は堺の重要寺院であり、参詣には政治的、宗教的な別の理由もありうる。訪問だけで地下に家康が葬られたとは決まらない。

堺市自身も観光・歴史資料の中で「伝説の家康の墓」と表現している。「伝説」と付けることで、場所の文化的価値を紹介しながら、被葬者を確定事実にしていない。

大坂の陣戦死説が抱える年代の問題

大坂夏の陣の家康戦死説には、襲撃者、日付、場所に複数の型がある。後藤又兵衛が家康の輿を槍で突いたとする話も有名だ。

しかし、後藤又兵衛は道明寺方面の戦いで討死したとされ、家康がその後に襲われた筋では時間関係が合わなくなる。伝承によって日付をずらせば矛盾を避けられるが、今度は別の記録との整合が必要になる。

日光東照宮などに伝わる家康の乗物の傷を、槍で突かれた痕とする説明もある。傷の存在だけでは、いつ、誰が、どの戦いで付けたかは分からない。保存修理の記録や材質調査がなければ、伝承に合わせた読み方になりやすい。

家康が1616年まで行ったとされる命令、面会、書状をすべて影武者の仕事にすると、説明すべき範囲は大きくなる。側近、僧侶、外国人、諸大名など、多数の人物が別人と会ったことになる。

一つの寺伝を成立させるため、翌年までの記録全体を巨大な共謀に変えるなら、それに見合う証拠が要る。

筆跡や花押は入れ替わりを示すか

替え玉説を検討するなら、伝承だけでなく、家康が残した書状や花押も重要になる。長い期間にわたる筆跡が、ある時点で別人のものへ急に変われば手掛かりになりうる。

ただし、大名の文書は本人がすべて自筆したわけではない。右筆が本文を書き、本人が花押や印で認証する文書も多い。年齢、病気、筆記具、書式によって筆跡は変わる。違いがあるだけで替え玉とは決められない。

逆に、花押が似ているから本人だと即断もできない。影武者説が本当なら模倣したと説明できてしまうからだ。比較には年代の確かな多数の原本、筆順、圧力、墨、紙の分析が必要になる。

肖像画の顔つきも証拠にはしにくい。制作年代、理想化、模写、修理によって姿が変わる。青年期と老年期の肖像が似ていないことを、そのまま別人の証明にはできない。

史料が何を記録するために作られたかを考えず、見た目の違いだけを集めると、どの人物にも替え玉説を作れてしまう。

替え玉説が消えない理由

学術的には、家康が世良田二郎三郎と入れ替わったことを示す同時代の証拠はなく、通説を覆す説とは認められていない。

それでも物語は強い。出自の低い男が名門の当主になり、最後には天下を取る。血統ではなく、演技と政治力で将軍になったという筋は、家康の成功を別の角度から描く。

信康の死、石川数正の出奔、南宗寺の石塔など、歴史の中に残る疑問へ一つの秘密を置くと、ばらばらの出来事がつながったように見える。大きな秘密で何もかも説明できる快感がある。

しかし、説明できることと証明できることは違う。替え玉を仮定しなくても説明できる出来事を、すべて秘密の痕跡へ変えると、反対の証拠まで隠蔽の証拠になってしまう。

『史疑徳川家康事蹟』は、明治の在野研究が公式史へ挑んだ文献として読める。南宗寺の墓は、堺に残る家康伝説の場として価値がある。『影武者徳川家康』は、歴史の空白を使った創作として人を引きつける。

三つをそれぞれの場所へ戻せば、家康替え玉説は「隠された史実」と断定しなくても面白い。史料、地域伝承、小説が百年以上かけて一人の天下人へ別の顔を重ねてきた過程そのものが、すでに豊かな歴史だからである。

参考資料

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